魯山人は天才か?
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カテゴリー:未分類 | 投稿者:Horash Qudita | 投稿日:2012年4月30日 |

 魯山人の書いたものを入力していると、どうもこの人、多彩な才能を持って生まれてきた人らしく、ほぼ独学で、いろいろなことを極めているようである。ただ、文章はそれほどのものでもなく(残念ながら)、またきちんと下調べをしないので、うっかりミスをすることもあるようだ。

「いなせな縞の初鰹」で、
「初がつおが出だしたと聞いては、江戸っ子など、もう矢も楯(たて)もたまらずやりくり算段……、いや借金してまで、その生きのいいところをさっとおろして、なにはさておき、まず一杯という段取りに出ないではいられなかったらしく、未だに葉桜(はざくら)ごろの人の頭にピンと来るものがある。ところで初がつおというもの、いったいそんなにまで騒ぎたてられるゆえんはなにか。」
と疑問を呈し、
「冬から春にかけて、しびまぐろに飽きはてた江戸人、酒の肴(さかな)に不向きなまぐろで辛抱(しんぼう)してきたであろう江戸人……、肉のいたみやすいめじまぐろに飽きはてた江戸人が、目に生新(せいしん)な青葉(あおば)を見て爽快(そうかい)となり、なにがなと望むところへ、さっと外題(げだい)を取り換え、いなせな縞(しま)の衣をつけた軽快な味の持ち主、初がつお君が打って出たからたまらない。なにはおいても……と、なったのではなかろうか。」
と、よく調べもせずに書いている。とにかく、「美味いのか?」ということが何よりも気にかかるらしい。長谷川時雨「初かつを」を読んでみよう。何故、初鰹が珍重されたか、がわかるはずである。

 また、墨色判断(井上円了「迷信解」 参照)で、柳宗悦の「民藝論」を、
「柳さんの書かれた手紙の字、すなわち、その書というものは、遺憾ながら私の見たところによると、いわゆる氏の理想とされる民芸の感覚からは遠く離れたものである——と断ぜざるを得ない。」(「柳宗悦氏の筆蹟を通じその人を見る」(校正待ち))
と批判している。まあ、魯山人の陶芸の考えと、民藝論は、あまりそりが合わないと思うけれど、「取敢えず氏の手紙の字を借りて」文句を言われてはたまったものじゃないだろう。

 では、料理の描写はどうだろう。鮎の食べ方を述べたものを、他の作者の文章と比べてみよう。
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北大路魯山人「鮎の食い方」
「いろいろな事情で、ふつうの家庭では、鮎を美味く食うように料理はできない。鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、生きた鮎や新鮮なものを手に入れるということが、家庭ではできにくい。地方では、ところによりこれのできる家庭もあろうが、東京では絶対にできないといってよい。東京の状況がそうさせるのである。仮に生きた鮎が手に入るとしても、素人(しろうと)がこれを上手に串(くし)に刺して焼くということはできるものではない。」
「美味く食うには、勢い産地に行き、一流どころで食う以外に手はない。一番理想的なのは、釣ったものを、その場で焼いて食うことだろう。
 鮎は塩焼にして食うのが一般的になっているが、上等の鮎を洗いづくりにして食うことも非常なご馳走(ちそう)だ。」
「 鮎はそのほか、岐阜の雑炊(ぞうすい)とか、加賀の葛(くず)の葉巻(はまき)とか、竹の筒(つつ)に入れて焼いて食うものもあるが、どれも本格の塩焼きのできない場合の方法であって、いわば原始的な食い方であり、いずれも優れた食い方ではあるが、必ずしも一番よい方法ではない。それをわざわざ東京で真似(まね)てよろこんでいるものもあるが、そういう人は、鮎をトリックで食う、いわゆる芝居食いに満足する輩(やから)ではなかろうか。
 やはり、鮎は、ふつうの塩焼きにして、うっかり食うと火傷(やけど)するような熱い奴(やつ)を、ガブッとやるのが香ばしくて最上である。」
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佐藤垢石「香気の尊さ」
「釣り人が、獲物を家庭へ持ち帰って賑やかな団欒(だんらん)に接した時くらいうれしいことはないであろう。殊に、清澄な早瀬で釣った鮎には一層の愛着を感じる。メスのように小さい若鮎でも粗末にはできないのである。そこで釣った鮎の取り扱いとか始末とかについて書いてみたいと思う。」
「塩焼きの焼き方は、誰でも知っているから略するが、鮎田楽(でんがく)にするには本焼きにして枯らしたものにほんとうの味がある。串に刺して火鉢の灰に立て、上から新聞紙をかぶせて火気の逃げないようにしておくと、一時間半か二時間の後には肉の中の水分が蒸発して本焼きとなる。それを風通しのいい所へ一両日籠に入れて吊るしておくと焼き枯らしとなるから、これを食べる時に取り出し再びあぶり直した上へ味付け味噌を塗り、更に一度火にあぶりコンガリと味噌がこげたならば、食膳にのせるのである。こうした田楽ならば香気が高くてまことに美味(おい)しい。
 煮びたしにするには、焼き枯らしたものを鍋の水に入れ、ひたひたになるまで煮つめ味をつけるのだが、これを釜の中の炊いたばかりの飯に入れ鮎飯にすると喜ばれる。鮎飯にするのは、鮎の数が少なく家族一同の口へ平均にくばれない時がいい。
 それからキャベツの葉か、ぬらした障子紙三、四枚に包み、灰の中へ埋めて上から火を焚くか炭火をおこすと鮎は蒸焼きになる。これも素敵に美味(おい)しいのである。」
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 私には、佐藤垢石の方が、鮎を食べたくなる(まあ、日頃鮎を食べる機会が全くないので、よけい過敏になっているのかも知れないが)気がする。ちなみに、佐藤垢石とは、釣り好きの随筆家で、「釣り(鮎釣りについての「水垢を凝視す」など)」「ゲテモノ食い(「たぬき汁」「岡ふぐ談」など)」などに関して面白い文章をたくさん残している人である。満州に迄も釣り旅行にいった話(「魔味談」)などがまだ「校正待ち」。

 とはいえ、感性の赴くままに、いろいろと挑戦して成功しているのだから天才だったのだろうと思う。


2 Comments »

  1. 長谷川時雨「初かつを」へのリンクが、「旧聞日本橋」になってますよ。

    Comment by 米田 — 2012年5月4日 @ 12:22 AM
  2. 直しました。ありがとうございました。

    Comment by Horash Qudita — 2012年5月4日 @ 4:58 AM

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