五月も半ば
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カテゴリー:未分類 | 投稿者:ten | 投稿日:2012年5月18日 |

 田んぼの水面に鳥影が走る。はっとして空を見上げると鳥は見えなかったが、一箇所白い雲が丸く抜け落ちていた。五月も半ばのいつもの風景の中、私はバスを一人待つ。
 平日の昼のバスは、乗客も少ない。ゆったりと揺られ、見慣れた景色が後ろへと流れる。ぼんやりとした時間が十五分も経つと繁華街へ着く。
 気温が二十度を越すと言っていたテレビの天気予報士の顔が浮かんだ。ブラウスではなく襟なしのものを着てくればよかったと少し後悔した。汗を拭いて、デパートへ入っても涼しくはない。
 手際よく買い物を済ましてアーケード街へ出た。車での生活が主となり、郊外の大型店は繁盛し、古いタイプの繁華街は、人もまばら。両側あわせて三十件ほどの店舗には、「貸し店舗」の張り紙や、「閉店セール」の赤い紙が目に付く。いくつも細い通りがあるのだが、そこもまた同じだろう。

 私は、幼稚園から中学校まで、ここら辺で過ごした。幼稚園のころ、このアーケード街を走り回った。果物屋の香り、お好み焼き屋の匂い、造花屋のにぎやかな店先、映画館から聞こえてくる俳優のせりふ回し、それを聞いていると向かいの洋品店のおばちゃんが、「お母さんによろしく言っておいてね」と声をかける。その洋服屋のおばちゃんと母は、よく立ち話をしていたが、私は映画館の入り口の上にずらりと並んだ俳優の写真に釘付けになっていた。
よく母は、私の手を引いて、サンドイッチ屋でハムサンドを買って映画館に入った。映画へ行く相手も母から友達になり、持ち物はサンドイッチからコーラーへと進む。それにつれすこしずつアーケード街は変わっていく。私の成長とともにいろんなうわさがこのアーケードを闊歩した。あそこの店はもうつぶれるらしい。あそこの奥さんがどこそこのだんなと逃げたらしい。「らしい」のつく大人の会話は蜜の味。

 ふと思うことがあり、私は、アーケード街を抜け、角を曲がった。大通りに面している酒屋の前を通った。
「いらっしゃい」と店主の声がする。
私はどきりとして立ち止まった。店主は手ごたえありとみたか、
「地酒のいいのが入ったんですよ」とふさふさとした白い髪に手をやり、浅黒い顔の目元に皺を寄せて言った。
 私は「はい」とだけ答えた。手ごたえがないと悟った店主は、「またお願いします」と明るい声で私の背中に言った。
 彼には、私がどう映っただろう。デパートの紙袋を下げた変な女性だろう。声をかけられる予定ではなかった。ただ外からちらりと中をのぞけばよかったのだ。私は一人笑い、横をみた。彼は、突き出た腹をゆすりながら中へ入って行く。
 彼はY先輩。中学校で一つ上だった。長身で細身、彫りの深い顔立ち、そして何より人を惹きつける大きな黒い瞳をしていた。サッカー部だった彼の練習を女生徒たちが遠くから見つめる。私は、そのありふれた光景の中の一人。なぜか縁があって一度だけ言葉を交わしたことがある。何を話したか覚えていないが、彼は、私に、「よく笑うね」と練習で黒光りした顔に白い歯を見せた。それだけの話である。
 廃れたといえども、市一番の繁華街。まだまだ知った人は住んでいる。私をわからない?でも私は知っているのよ。あなたの髪が白くなったこと、顔に皺ができたこと。もちろんあなたは私の鏡なんですけどね。
 大通りの餅屋、店に立っているのも中学の同級生。彼女は目鼻立ちのはっきりしたきれいな人だった。明るい性格で誰にでも好かれた。その面影を残して彼女は、私に「いらっしゃいませ。何にしましょう」と尋ねる。
 家は三人しかいない、一人一本として、三本といいかけて、私は、「お団子を五本ください」と答えてしまった。余計な二本は誰の口にはいることになるのやら。あわてて「暑くなりましたね」と付け加えると
 私の内心など知る由もない彼女は、「はい、五月も半ばですから」と愛想笑いを添えて答える。
 
 五月も半ば、市一番の繁華街で帰りのバスを一人で待つ。白い雲はすっかりなくなっていた。


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