はつ恋

ツルゲーネフ

神西清訳




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P・V・アンネンコフにささげる


[#改丁]

 客はもうとうに散ってしまった。時計が零時半れいじはんを打った。部屋の中に残ったのは、主人と、セルゲイ・ニコラーエヴィチと、ヴラジーミル・ペトローヴィチだけである。
 主人は呼鈴よびりんを鳴らして、夜食の残りを下げるように命じた。
「じゃ、そう決りましたね」と主人は、一層ふかぶかと肘掛椅子ひじかけいすに身を沈めて、葉巻はまきに火をつけながら言った。――「めいめい、自分の初恋はつこいの話をするのですよ。では、まずあなたから、セルゲイ・ニコラーエヴィチ」
 セルゲイ・ニコラーエヴィチというのは、まるまるとふとった男で、ぽってりした金髪きんぱつ・色白の顔をしていたが、まず主人の顔をちらとながめると、天井てんじょうの方へ上げた。
ぼくには初恋というものがありませんでしたよ」と、かれはやがての果てに言った。――「いきなり第二の恋から始めたんです」
「それはまた、どうしてね?」
「しごく簡単ですよ。僕は十八の年に初めて、あるとても可愛かわいらしいおじょうさんのあとを追い回しました。ところが、その追いまわし方というのが、こんなこと僕にはさっぱり新しくもめずらしくもない、といった風だったのですよ。ちょうど、あとになっていろんな女を口説くどいた時と、まるっきり同じだったわけです。実を言うと、僕が最初にして最後の恋をしたのは、六つの頃で、相手は自分の乳母ばあやでしたが、――なにぶんこれは大昔おおむかしのことです。二人の間にあったことのこまかしい点は、僕の記憶きおくから消えうせていますし、またよしんば覚えているにしたところで、そんなことを、だれ面白おもしろがるでしょう?」
「すると、どうしたもんですかな?」と、主人が言い出した。――「わたしの初恋にしたところで、大して面白いことはないのですからね。わたしは、現在の妻、アンナ・イヴァーノヴナと知合いになるまで、誰ひとり恋した覚えはないんですし――しかも我々のことは、万事すらすらと運んだのです。それぞれ父親から縁談えんだんをもち出されると、我々は見る見るおたがいどうし好きになって、一足とびに結婚けっこんしてしまったというわけ。わたしの話は、ほんの二言ふたことで済んでしまいますよ。いやみなさん、白状しますとね、わたしが初恋の問題をもち出したのは――むしろあなたがたに期待していたのですよ、お二人とも、老人とは言えないけれど、さりとてお若いとも言えない独身者ですからな。どうです、あなたは何か面白い話をして下さるでしょうな、ヴラジーミル・ペトローヴィチ?」
「わたしの初恋は、全くのところ、あまり世間なみの部類には入らないものなんですが」と、やや言いよどみながらヴラジーミル・ペトローヴィチは答えた。これは四十がらみの、黒髪くろかみに白を交えた男である。
「やあ!」と、主人もセルゲイ・ニコラーエヴィチも異口同音いくどうおんに。――「なおさら結構……話して下さい」
「お安い御用ごようです……が、困りましたな。話すのはやめにしましょう。わたしは話が不得手ふえてなほうですから、無味乾燥むみかんそうなあっけない話になるか、それともだらしない調子はずれな話になるか、そのどっちかです。もしよろしかったら、思いうかぶだけのことをすっかり手帳に書いて、読んでお聞かせしようじゃありませんか」
 友人たちは初め承知しなかったが、結局ヴラジーミル・ペトローヴィチは自説をとおした。二週間ののち、彼らが再び寄り合った時、ウラジーミル・ペトローヴィチは、その約束やくそくを果した。
 彼の手帳には、次のようなことが書いてあった。――


 そのころわたしは十六さいだった。一八三三年の夏のことである。
 わたしはモスクワの、両親のもとに住んでいた。彼らの借り入れた別荘べっそうが、カルーガ関門のほとり、ネスクーチヌィ公園の前にあったのである。――わたしは大学の入学準備をしていたが、勉強といってもろくにせず、ゆっくり構えていた。
 誰一人だれひとりわたしの自由を束縛そくばくするものはなかった。わたしはしたい放題に振舞ふるまっていたが、とりわけ最後の家庭教師と別れてからはなおさらだった。その教師はフランス人で、自分がまるで「爆弾ばくだんみたいに」(コム・ユヌ・ボンブ)ロシアへ落下したという考えに、いても立ってもいられず、物凄ものすごい表情を顔に浮べながら、幾日いくにちも幾日もぶっとおしに、ベッドの中でごろごろしていたものである。父のわたしに対する態度は、いわば冷淡れいたんやさしさにすぎなかったし、母は母で、わたしのほかに子供がないにもかかわらず、ほとんどわたしを構ってくれなかった。ほかの心配事で母は手いっぱいだったのである。わたしの父はまだ若くて、すこぶる美男子だったが、財産を目当てに母と結婚した。母の方が十年も年うえだった。わたしの母親は、気の毒な生活をしていた。しょっちゅう興奮したり、焼餅やきもちをやいたり、ぷりぷりしたりしていたのだが――ただし父の面前でやったわけではない。母はひどく父をこわがっていたし、父は父で、きびしい、冷たい、よそよそしい態度をくずさなかった。……わたしは、あれほどおつに気どりました、うぬぼれの強い、ひとりよがりの男を、いまだかつて見たことがない。
 その別荘で過した最初の二、三週間のことを、わたしは決して忘れないだろう。すばらしい天気が続いていた。我々が市内から引っ越したのは五月九日で、ちょうど聖ニコライの日であった。わたしの散歩さんぽは――ときには別荘の庭、ときにはネスクーチヌィ公園、またあるときは関門の外まで足をばすといった風で、いつも何か本を一冊いっさつ――たとえばカイダノーフの万国史通ばんこくしつうなど――を持って出るのだったが、それをめくってみることはめったになく、とてもたくさんそらで覚えていた詩を、高らかに朗読する方が多かった。血潮は体内でたぎりたち、胸はうずき――いや思い出しても、むずむずするほどあまたるく、滑稽こっけいなほどだ。わたしは絶えず何ものかを心待ちにし、絶えず何ものかにびくびくし、見るもの聞くものに心をおどらし、全身これ待機の姿勢にあった。空想が生き生きと目ざめて、いつもいつも同じまぼろしのまわりを素早すばやけめぐる有様ありさまは、朝焼けの空につばめの群れが、鐘楼しょうろうをめぐって飛ぶ姿に似ていた。わたしは物思いにしずんだり、ふさぎんだり、ときにはなみださえ流した。しかし、こうしてひびき高い詩句や、あるいは夕暮ゆうぐれの美しいながめによって、あるいは涙が、あるいは哀愁あいしゅうがそそられるにしても、その涙や哀愁のすきから、さながら春の小草おぐさのように、若々しいきあがる生のよろこばしい感情が、にじみ出すのであった。
 わたしには一頭の乗馬があった。わたしはそれに自分でくらをおいて、ただ一人どこか遠乗りに出かけたものだった。馬をギャロップで走らせて、さも自分をトーナメントに出場した中世の騎士きしのように想像したり――ああ、わたしの耳にきつける風のなんとほがらかだったことよ! ――あるいは顔を大空へ振向けて、その輝かしい光明こうみょう紺碧こんぺきの色を、あけひろげたたましいの底まで深く吸い込んだりした。
 いま思い返してみると、女の姿とか、女の愛の面影おもかげとかいうものは、ほとんど一度も、はっきりとした形をとって心に浮んだことはなかった。しかも、わたしの考えることのすべて、わたしの感じることのすべてには、何かしら新しいもの、言うに言われぬ甘美かんびなもの、いわば女性的なもの……に対する、半ば無意識な、はじらいがちの予感が、ひそんでいたのだった。
 この予感、この期待は、わたしの骨のずいまでしみわたって、わたしはそれを呼吸し、またそれは血の一滴々々いってきいってきに宿って、わたしの血管を走りめぐるのだったが……実は間もなく実現される運命にあったのである。
 我々の別荘は、円柱の並んだ木造の地主屋敷じぬしやしきと、さらに二棟ふたむねの平べったい傍屋はなれから成っていた。左手の傍屋は、安ものの壁紙かべがみを作るっぽけな工場になっている。……わたしは三遍さんべんそこをのぞきに行ったが、油じみたうわりを着て、ほおのこけた顔をした、もじゃもじゃがみせた男の子が十人ほど、四角な印刷台木いんさつだいぎめつける木の梃子てこへ、しょっちゅうとびついて、そんな風に自分たちの虚弱ひよわい体の重みでもって、壁紙のまだらな色模様をし出しているのだった。右がわの傍屋はいていて、貸家になっていた。ある日――五月九日から三週間ほどたった日のこと――この傍屋の窓におりていた鎧戸よろいどがあいて、女の顔がちらほらしたのは――どこかの家族が越して来たものと見えた。忘れもしない、その日の夕食のとき、母は侍僕頭じぼくがしらに向って、となりへ引っ越して来たのは誰かとたずねたが、公爵夫人こうしゃくふじんザセーキナという苗字みょうじを耳にすると、まんざら敬意のないでもない調子で、まず「まあ! 公爵夫人……」と言ったが、やがてこう付け足した、――「きっとどこかの貧乏貴族びんぼうきぞくだろうよ」
「三台の辻馬車つじばしゃで越していらっしゃいました」と、うやうやしくさらを差出しながら、侍僕頭がしたり顔に、――「自家用の車はお持ちでありませんし、家具もごくお粗末そまつで」
「そう」と、母は答えた。――「でもまあ、ましですよ」
 父が冷やかな一瞥いちべつを母にくれたので、母はだまってしまった。
 全くザセーキナ公爵夫人は、裕福ゆうふくな婦人でありようはずがなかった。彼女かのじょの借りた傍屋は、いかにも古びて手狭てぜまで、おまけに天井てんじょうの低い家なので、いくらか小金こがねを持った連中なら、とても住む気にはならないからである。――とはいえ、わたしはその時、そんなことは気にもとめずに聞き流した。公爵などという肩書かたがきは、ほとんどなんの作用もわたしにおよぼさなかった。わたしは少し前に、シルレルの『群盗ぐんとう』を読んだところだったのである。


 わたしは毎日、夕方になると、鉄砲てっぽうを持ってうちの庭をぶらついて、からすの番人をするのが習慣だった。――この油断のない、貪欲どんよく悪賢わるがしこい鳥に対して、わたしはずっと前から憎悪ぞうおをいだいていたのである。さて今しがた話に出た日も、わたしはやはり庭へ出て行って――並木道なみきみちという並木道をむなしく歩き回ったあげく(鴉はわたしをちゃんと知っていて、ただ遠くの方できれぎれに鳴くばかりだった)、ふと低い垣根かきねに近づいた。それは、右手の傍屋はなれの向うへ延びて、その家に属している細い帯のような庭と、うちの領分との境を成しているのだった。わたしは、うなだれて歩いていた。すると不意に、がやがやと人声がした。わたしはひょいと垣根ごしにながめて――化石したようになってしまった。……奇妙な光景がわたしの眼に映ったのである。
 わたしからほんの五、六歩はなれた所――青々したエゾいちごしげみに囲まれた空地あきちに、すらりと背の高い少女が、しまの入ったバラ色の服を着て、白いプラトークを頭にかぶって立っていた。そのまわりには四人の青年がぎっしり寄り合って、そして少女は順ぐりに青年たちのおでこを、小さな灰色の花のたばたたいているのだった。その花の名をわたしは知らないけれど子供たちには馴染なじみの深い花である。それは小さな袋の形をした花で、それで何かかたいものを叩くと、ぽんぽんはじけ返るのであった。青年たちはさもうれしそうに、てんでにおでこを差出す。一方少女の身振りには(わたしは横合いから見ていたのだが)、実になんとも言えず魅惑的みわくてきな、高飛車たかびしゃな、愛撫あいぶするような、あざ笑うような、しかも可愛かわいらしい様子があったので、わたしはおどろきと嬉しさのあまり、あやうく声を立てんばかりになって、自分もあの天女てんにょのような指で、おでこをはじいてもらえさえしたら、その場で世界じゅうのものを投げ出してもかまわないと、そんな気がした。鉄砲は草の上へすべり落ち、わたしは何もかも忘れて、そのすらりとした体つきや、ほっそりしたくびの根や、奇麗きれいな両手や、白いプラトークの下からのぞいているやや乱れた淡色あわいろ金髪きんぱつや、その半ばねむった利口そうなもとや、その睫毛まつげや、その下にあるつややかなほおなどを、むさぼるように見つめていた。……
「君、おい君ったら」と、不意にわたしのそばで、だれかの声がした。――「よそのおじょうさんを、そんな風に見つめてもいいものかい?」
 わたしは、ぎょっとふるえあがって、茫然ぼうぜんとしてしまった。……すぐそばの、垣根の向うに、黒いかみを短くりこんだ見知らぬ男が立っていて、皮肉な眼つきでわたしをじろじろ見ていた。ちょうどその瞬間しゅんかん、少女もわたしを振向ふりむいた。……わたしが、くりくりとよく動く活気づいたその顔に、大きな灰色の眼を見てとったのもつか――その顔全体が、いきなりぶるぶる顫えて、笑い出して、白い歯なみがきらめいて、眉毛まゆげがさも面白おもしろそうにりあがった。……わたしはさっと赤面すると、地べたの鉄砲を引っつかんで、よくとおる、しかし意地の悪くない高笑いに追われながら、一目散いちもくさんに自分の部屋へんで、ベッドにころがり込むと、両手で顔をかくした。心臓は今にも割れそうにおどっていた。わたしはひどくずかしく、またひどく愉快ゆかいだった。わたしはまだ身に覚えのないほどの興奮を感じた。
 ひと休みすると、わたしは髪をでつけ、服をはらって、お茶を飲みに下りて行った。うら若いむすめの面影は、眼の前にちらついて、動悸どうきはもう落着いていたけれど、胸が何か快くめつけられる思いだった。
「どうかしたのか?」と、不意に父がいた。――「鴉を仕留しとめたのかい?」
 わたしはすっかり父に話してしまおうかと思ったけれど、じっとこらえて、にやりとひとわらいをしただけだった。寝支度ねじたくをしながらわたしは、どういうつもりだか知らないが、三遍さんべんほど片足でくるくる回って、髪にポマードをりたくって横になるなり、まるで死人のように、ぐっすり朝まで眠った。夜明け方にちょっと目をさまして、頭をもたげ、感きわまってあたりをぐるぐる見回したが――それなりまた寝入ねいってしまった。


『なんとかして、あの人たちと知合いになりたいものだが?』というのが、あくる朝わたしが目をさますが早いか、まず頭に浮んだ考えだった。わたしはお茶の前に庭へ出てみたが、例の垣根かきねへはあまり近寄らず、だれの姿も見かけなかった。お茶が済むと、わたしは三遍さんべん別荘べっそうの前の通りを行ったり来たりして――遠目に窓をのぞいてみた。……カーテンのかげに、あの人の顔が見えたような気がしたので、わたしはあわてて、さっさと前を行き過ぎた。『だが、どうしても知合いにならなくちゃ』と、わたしは、ネスクーチヌィ公園の前にひろがっている砂原を、めちゃめちゃに歩き回りながら考えた。『しかし、どうしたらいいかな? そこが問題だ』わたしは、昨日ひょいと出会った時のことを、ごく細かな点まで一々思い浮べてみた。どうしたわけだか、とりわけはっきり思い浮ぶのは、彼女かのじょがわたしに浴びせたあの笑い声だった。……とはいえ、わたしがしきりに気をもんで、いろんな計画を立てているうちに、運命はちゃんとお膳立ぜんだてをしてくれたのである。
 わたしのいない間に、母は新しい隣人りんじんから、灰色の紙にしたためた手紙を受取っていた。しかもそれをふうじた黒茶色の封蝋ふうろうときたら、郵便局の通知状か安葡萄酒やすぶどうしゅせんにしか使わないような代物しろものだった。その手紙は、いかにも無学らしい文章に加えるにきたならしい筆跡ひっせきをもって書いてあって、要するに公爵夫人こうしゃくふじんがわたしの母に庇護ひごしてもらいたいむねを願い出たものだった。つまり、公爵夫人の言葉によると、わたしの母は二、三の重要な人物と相識そうしき間柄あいだがらであるが、今や夫人はすこぶる重大な訴訟そしょうを起していて、彼女自身の運命もまたその子女の運命も、かかってそれら人物の手中にあるというのである。『そつながらわたこと』と、書いてあった、――『女として同じ女たるあなた様に手紙まいらせそうろう。この会にめぐまれ候こと、まことにばしき限りにて』しかじかといった調子で、終りに彼女は母にむかって、訪問をお許し願いたいと申出ていた。わたしが外から帰ってみると、母は御機嫌斜ごきげんななめのていだった。父が不在なので、誰と相談しようにも相手がなかったのだ。いやしくも『女』であり、おまけに公爵夫人ともあろう人に、返事をしないわけにはゆかず、ではどう返事をするかという段になると――母は途方とほうれざるを得なかった。返事をフランス語で書くのは、場はずれのような気がするし、さりとてロシア語のつづりにかけては母は不得手ふえてだったし――自分でもそれを知っていたので、みすみすはじをさらしたくなかったのである。
 母はわたしが帰って来たのを喜んで、顔を見るなり、これから公爵夫人のところへ行って、口頭こうとうをもって、わたしの母は力のおよぶ限りいつ何時なんどきでも奥様おくさまのお役に立ちたいと存じているむねを述べ、十二時過ぎに御光来ごこうらいをお待ちすると伝えるように言いつけた。自分のひそかな念願が、思いもかけず早速さっそくかなうことになったので、わたしはうれしくもあれば空恐そらおそろしくもあった。とはいえわたしは、自分をとらえている当惑とうわくを表にあらわさず――まず自分の部屋へ引取って、新しいネクタイと小さなフロックコートを着けることにした。家にいる時は、まだわたしは短い上着を着て、えりのカラーをしていたのだが、実はそれがいやでならなかったのである。


 傍屋はなれの、せまくるしいうすぎたないひかしつへ、わたしがおさえても止らぬ武者ぶるいに総身をふるわせながら入って行くと、そこでわたしをむかえたのは、白髪しらがあたまの老僕ろうぼくだった。銅色あかがねいろのすすけた顔に、ぶたのような無愛想な小さいをしておまけに額からこめかみへかけてたたまれているしわの深いことといったら、わたしが生れてこのかた見たこともないほどだった。彼は食い荒されたにしんの背骨をひとさらせていたが、おくへ通ずるドアを後ろ足で閉めながら、突拍子とっぴょうしもない声でいきなり、
「なんの御用で?」と言った。
「ザセーキナ公爵夫人こうしゃくふじんはおいででしょうか?」と、わたしはきいた。
「ヴォニファーチイ!」と、ドアの向うから、がらがらした女の声が呼んだ。
 老僕が無言でわたしに背を向けた途端とたんに、お仕着しきせのひどくすり切れた背中が丸見えになって、そこに赤さびの出た定紋入じょうもんいりのボタンが、ぽつんと一つ残っているのが目についたが、彼はそのまま皿をゆかへ置くと、奥へんでしまった。
「警察へ行って来たかい?」と、同じ女の声がまたした。老僕が何やらぼそぼそ言うと、――「ええ?……だれか来たって?」と、き返して、「となりのぼっちゃんかい? じゃ、お通しおし」
「どうぞ客間へお通りなすって」と、老僕はまたわたしの前に現われて、皿を床から持ち上げながら言った。わたしは身仕舞みじまいを正して、『客間』なるものへ入って行った。
 いざ入ってみるとそこは、あまり小奇麗こぎれいとも言えぬ手狭な一間で、貧乏びんぼうくさい家具のならかたも、まるで急場しのぎにやってのけたといった様子だった。窓ぎわの、片肘かたひじの折れた肘掛椅子ひじかけいすすわっているのは、としころ五十ほどの、かみをむき出しにした器量のわるい婦人で、着古した緑色の服を着て、まだら色の毛糸の襟巻えりまきを首に巻いていた。彼女かのじょの小さな黒い眼は、いきなり吸い着くように私の顔にそそがれた。
 わたしはそばへ歩み寄って、一礼した。
「失礼ですが、ザセーキナ公爵夫人でいらっしゃいますか?」
「ええ、わたしがザセーキナ公爵夫人です。あなたはVさんの御子息でいらっしゃるの?」
「そのとおりです。わたしは母の使いで参りました」
「さあ、お掛けなさいな。ヴォニファーチイ! わたしのかぎはどこ、お前見なかったかい?」
 わたしはザセーキナ夫人に、その手紙に対する母の返事を伝えた。彼女はそれを聞きながら、太い赤い指で窓がまちを軽くたたいていたが、わたしが口上を終ると、もう一遍いっぺんわたしをじっと見つめた。
「大層結構です、ぜひうかがいましょう」と、やがて彼女は言った。――「でも、あなたはまだほんとにお若いのね! おいくつですの、失礼ですけれど?」
「十六です」とわたしは、思わず口ごもりながら答えた。
 公爵夫人はポケットをさぐって、何やらいっぱい書き込んだ油じみた着付を取出すと、つい鼻先まで持っていって、その検分にかかった。
「結構な年頃だこと」と、彼女は、椅子の上で身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしながら、不意に言い出した。――「どうぞあなた、お気楽になさいましな。宅では万事無造作ですから」
『どうも無造作すぎるな』とわたしは、思わずき上がる嫌悪けんおの情をもって彼女のぶざまな様子をじろじろながめながら、心の中で考えた。
 と、その瞬間、客間のもう一つのドアがいきなりぱっと開いて、敷居しきいの上に姿を現わしたのは、昨日庭で見かけたあのむすめだった。彼女は片手を上げたが、その顔にはちらりと薄笑うすわらいが浮んだ。
「これがうちの娘です」と、公爵夫人は、肘で娘をさして言った。――「ジーノチカ、おとなりのVさんの御子息だよ。お名前はなんておっしゃるの、失礼ですが?」
「ヴラジーミルです」と、わたしは立ち上がって、興奮のあまり舌をもつらせながら答えた。
「で御父称は?」
「ペトローヴィチです」
「まあ! わたしの知合いに警察署長をしている方がありましたが、その人もやっぱりヴラジーミル・ペトローヴィチでしたっけ。ヴォニファーチイ! 鍵はさがさなくってもいいよ。ちゃんとわたしのポケットにあったから」
 少女は心もち眼を細めて、首をややかしげたまま、相変らずにやにやしながら、わたしを見つめていた。
「あたしもう、ムッシュー・ヴォルデマールにはお目にかかったわ」と、彼女は口をきった。(その銀のすずるような声のひびきは、何かこう甘美かんびな冷たい感じをなして、わたしの背筋を走った)――「ねえ、あなたをそう呼んでもいいでしょう?」
「ええ、そりゃもう」と、わたしは、ますます舌をもつらせた。
「そりゃ、どこでなの?」と、公爵夫人が訊いた。
 公爵令嬢こうしゃくれいじょうは、母の問いには答えずに、
「あなた今、おいそがしくって?」と、彼女は、わたしから眼を放さずに言った。
「いいえ、ちっとも」
「じゃ、毛糸をほどくお手伝いをして下さらないこと? こっちへいらっしゃいな、あたしの部屋へ」
 彼女はわたしに、こっくりうなずいて見せると、さっさと客間を出て行った。わたしはあとに従った。
 我々の入った部屋は、家具も幾分はましで、その並べ方も、前の部屋より趣味しゅみがあった。もっともその瞬間しゅんかん、わたしはほとんど何ひとつ目に留める余裕よゆうがなかった。わたしは、まるでゆめの中にでもいるように身を運びながら、何やら馬鹿々々ばかばかしいほど緊張きんちょうした幸福感を、骨のずいまで感じるのだった。
 公爵令嬢はこしを下ろして、あかい毛糸のたばはこから出すと、向いの椅子をわたしにさしてみせて、一生けんめい結び目を解きほぐしてから、それをわたしの両手に掛けた。そこまでする間じゅう、彼女はいっさい無言のまま、何かさも面白おもしろくてたまらないといった風の緩慢かんまんな身振りで、相変らずの明るいずるそうな薄笑いを、やや少しひらいたくちびるに浮べていた。彼女は毛糸を、折り曲げたカルタふだに巻きはじめたが、そのうち不意に、ぱっと素早すばやく私の顔を、なんとも言えない晴れやかな眼差まなざしで射たので、わたしは思わず顔をせてしまった。彼女の眼は、たいていは軽く細目になっているのだったが、それが時たまいっぱいに見開かれると――顔つきがすっかり変ってしまって、まるでその面輪おもわに光がみなぎりあふれるように見えた。
「ねえ、昨日あたしのしたこと、どうお思いになって、ムッシュー・ヴォルデマール?」と、しばらくしてから彼女が訊いた。――「きっとあなたは、けしからん女だとお思いになったでしょうね?」
「いいえ、ぼく……お嬢さん……僕は何にもその……とんでもない……」わたしの答えは、しどろもどろだった。
「ね、いいこと」と、彼女は切って返した。――「あなたはまだ、あたしという女を御存じないけれど、あたし、とってもみょうな女なのよ。あたしはね、いつも本当のことだけ言ってもらいたいの。さっき伺うと、あなたは十六だそうですけれど、あたしは二十一なんですものね。あたしの方が年上でしょう、だからあなたは、あたしにいつも本当のことばかり言わなけりゃいけないのよ……そして、あたしの言うことをきかなくてはね」と、彼女は言い足して、――「さ、あたしの顔をまっすぐ見てちょうだい。なぜ見ないの?」
 わたしはますます、あがってしまったが、とにかく眼を上げて、彼女の顔を見た。彼女はにっと笑ったが、それはさっきのとはちがって、好意のある微笑びしょうだった。
「あたしの顔を見てちょうだい」と、彼女は、やさしく声を落しながら言った。――「そうされても、あたしいやじゃないの。……あたし、あなたの顔が気に入ったわ。あなたとは、仲好なかよしになれそうな気がするのよ。でもあたしは、あなたのお気にしまして?」と、なく彼女は言い足した。
「お嬢さん……」と、わたしは言いかけた。……
「まず第一、あたしをジナイーダさんと呼んでちょうだい。それから第二に――子供のくせに――(と言って、彼女は言い直した)――青年のくせに――感じたとおりをまっすぐに言わないなんて、いけないことだわ。それは大人のすることよ。どう、あたしあなたのお気に召して?」
 彼女がわたしを相手に、こんなに打解けて話してくれることは、わたしにとって実にうれしいことだったけれど、とは言えわたしも、少し腹が立った。わたしは、そうそう子供と見てもらいますまいという意気ごみで、できるだけ磊落らいらくな、しかも鹿爪しかつめらしい顔つきになって、こう言ってやった。――「もちろん、とても気に入りましたよ、ジナイーダさん、僕は、それを隠そうとは思いません」
 彼女は、ゆっくり句切りながら頭を振って、――「あなたは家庭教師がついているの?」と、だし抜けにたずねた。
「いいえ、僕にはもうとっくに家庭教師なんかいません」
 それはうそだった。例のフランス人と生き別れをしてから、まだ一月ひとつきにもならないのである。
「へえ! それでわかったわ――あなた、もうすっかり大人ねえ」
 彼女は軽くわたしの指をはじいて、――「手をまっすぐにしてらっしゃい!」――そう言って彼女は、せっせと糸球いとだまを巻きだした。
 しばらく彼女が眼を上げないのに乗じて、わたしは彼女をつくづく眺め始めたが、それも初めはぬすだったものが、やがてだんだん大胆だいたんになっていった。彼女の顔は、昨日より一層魅力みりょくが増して見えた。目鼻だちが何から何まで、実にほっそりとみがかれて、じつに聡明そうめいで実に可愛かわいらしかった。彼女は、白い巻揚まきあげカーテンを下ろした窓に、背を向けて坐っていた。日ざしは、そのカーテンを通してし入って、やわらかな光を、彼女のふさふさした金色の髪や、その清らかな首筋や、流れ下るかたの曲線や、優しい安らかな胸のあたりに、ふりそそいでいた。――わたしはじっと彼女を眺めているうちに、彼女がなんとも言えず大切で、親愛なものに思えてきたのだ! わたしは、もうずっと前から彼女を知っていて、彼女と知合いになるまでは、何ひとつ知りもせず、生きた甲斐かいもなかったような気がした。……彼女はもうだいぶ着古した地味な色合いの服を着て、エプロンを掛けていた。わたしは、その服やエプロンのひだを一つ一つ、いそいそとでたいような気持がした。彼女のくつの先が、その服の下からのぞいている。わたしはできることなら、うやうやしくその靴にぬかずきたいとさえ思った。『とうとうおれは、こうして彼女の前に坐っているんだ』と、わたしは思った――『俺は彼女と知合いになったのだ……なんという幸福だろう、ああ!』わたしはすんでのことで、喜び勇んで椅子からとび下りそうになったが、おいしいおやつにありついたあかぼうみたいに、足をちょいとばたつかせるだけで我慢がまんした。
 わたしは、水の中の魚のようにいい気持で、一生この部屋から出て行きたくない、この場から動きたくないと思った。
 彼女の目蓋まぶたがそっと上がって、またもやその明るい眼がわたしの前に優しくかがやき出したかと思うと、またしても彼女はにっとあざけるように笑った。
「なんであたしを見つめてらっしゃるの」と、彼女はゆっくり言って、指を立ててわたしをおどかした。
 わたしは赤くなった。……『この人はなんでもわかるんだ、なんでも見えるんだ』という考えがわたしの頭をかすめた。『全く、どうしてこの人に、何もかもわからないはずがあろう、何もかも見えないはずがあろう!』
 不意に隣の部屋で、何か物にぶつかる音がして――サーベルが鳴り出した。
「ジーナや」と、客間で公爵夫人が呼んだ。――「ベロヴゾーロフさんが、お前にねこの子を持ってきて下すったよ」
「猫の子!」と、ジナイーダはさけぶと、ぱっと椅子から立ち上がって、毛糸のまりをわたしのひざへほうり出したまま、部屋からけ出して行った。
 わたしも立ち上がって、毛糸の束と毬とを窓がまちに載せると、そこを出て客間へ入ったが、途端に呆気あっけにとられて棒立ちになった。部屋の真ん中にはしまの入った小猫が、可愛い足をひろげて仰向あおむきになっていた。ジナイーダはその前に膝をついて、そっと猫の顔を持ちあげていた。公爵夫人の横には、窓と窓の間のかべをほとんど全部ふさいで、薄色の髪の毛をうずまかせた立派な青年の立っているのが、逆光線の中に、だんだんはっきり見えてきた。軽騎兵けいきへいの士官で、血色のいいあかい顔をして、眼が飛び出している。
「なんて滑稽こっけいなんでしょう!」と、ジナイーダは何度も言って、「眼だって灰色でなくて、緑色だし、それに耳だってなんて大きいんでしょう! ありがとう、ベロヴゾーロフさん! あなたとても親切ねえ!」
 その軽騎兵は、昨日見かけた青年たちの一人であることにわたしは気づいたが、にっこり笑って一礼する拍子ひょうしに、拍車はくしゃを打合せて、サーベルの釣輪つりわをがちゃりと鳴らした。
「昨日あなたは、縞の子猫で大きな耳をしているのがしいとおおせでありましたから……このとおり、手に入れたのであります。男子の一言――でありますから」と言って、また一礼した。
 子猫はかぼそい鳴き声を立てると、ゆかぎ始めた。
「おなかがすいてるのね!」と、ジナイーダは叫んで、――「ヴォニファーチイ、ソーニャ! 牛乳を持って来て」
 小間使は、古ぼけた黄色い服に、色のさめたネッカチーフを首に巻いて、牛乳の小皿を手に入ってくると、その皿を子猫の前に置いた。子猫はぴくりと身震いして、眼を細め、ぴちゃぴちゃなめだした。
「まあ、バラ色のっちゃな舌」と、ジナイーダは、頭が床に届かんばかりに身をかがめ、横合いから猫の鼻の下をのぞきこみながら、そう指摘してきした。
 子猫はおなかがくちくなると、すまし返って前足をかわるがわる動かしながら、のどを鳴らし始めた。ジナイーダは立ち上がって、小間使の方を振向くと、平気な声で、「あっちへ持っておいで」と言った。
「子猫の褒美ほうびに――お手を」と、軽騎兵は、にやりと笑うと、新調の軍服にきっちり締め上げられたたくましい全身を、ぐいと反り返らせた。
「両方よ」と、ジナイーダは答えて、彼に両手を差伸さしのべた。軽騎兵がキスしている間、彼女は肩越しにわたしを見ていた。
 わたしはひとところにじっと立ったまま――いったい笑ったものか、何か言ったものか、それともこのままだまっていたものか、それがわからなかった。すると突然とつぜん、控え室のあけっぱなしのドアしに、うちの下男のフョードルの姿が眼に映った。わたしに何かを合図している。わたしは何気なにげなく出て行った。
「なんだい!」と、わたしは訊いた。
「お母様がお呼びするようにおっしゃいましたんで」と、彼はひそひそ声で、――「あなた様が返事を持ってお帰りにならないので、大層お腹立ちでございますよ」
「でも僕、そんなに長居ながいしたかい?」
「一時間の余になります」
「一時間の余!」と、思わずわたしは鸚鵡返おうむがえしに言って、客間へ引返すと、お辞儀じぎしたり足ずりしたりし始めた。
「どこへいらっしゃるの?」と公爵令嬢が、軽騎兵の後ろから顔をのぞかせて聞いた。
「僕、うちへ帰らなくちゃならないのです。じゃ、こう申しましょうか」と、老夫人に向って言いえた。――「一時過ぎにお見えになりますって」
「そうね、そう申上げて下さい、坊ちゃん」
 公爵夫人があわただしく煙草入たばこいれを出して、うるさい音を立てて嗅ぎ始めたので、わたしはぎょっとしたほどだった。――「そう申上げて下さい」と、彼女は、うるんだ眼でまばたきして、ふんふんうなりながら繰返くりかえした。
 わたしはもう一遍お辞儀をすると、くるりと回れ右をして部屋を出たが、照れくさい感じが背中をっていた。後ろから見られていることがわかっている時、ごく若い人が感じるあれである。
「よくって、ムッシュー・ヴォルデマール、また遊びにいらっしゃいね」と、ジナイーダは叫ぶと、また大声で笑い出した。
 なぜあの人は笑ってばかりいるんだろう? と、わたしは、帰るみちみち考えた。おともにはフョードルが、一言ひとこともわたしに話しかけずに、不服らしい様子で後ろからついてくる。母はわたしをしかりつけて、あの公爵夫人なんかの所で何をいつまでしていたんだろうと、あきれ返っていた。わたしは何とも答えずに、自分の部屋へ引っ込んだ。すると突然ひどく悲しくなった。……わたしは泣くまいと懸命けんめいになった。……あの軽騎兵がねたましかったのである。


 公爵夫人こうしゃくふじん約束通やくそくどおり母を訪ねて来たが、母の気に入らなかった。わたしは二人の会見の場に居あわさなかったけれど夕食の時母が父に物語った言葉によると、あのザセーキナという公爵夫人は、どうもひどく俗っぽい女ファム・トレ・ヴュルゲールらしく思われる。あの夫人は、どうぞ自分のためにセルギイ公爵に運動してくれとしつこくせがんで、ほとほと母をうんざりさせた。あの夫人はしょっちゅう何かしら訴訟そしょうや事件を起こしていて――それも卑しい金銭問題ド・ヴィレーン・ザフエール・ダルジャンなのだから――てっきりとんでもない食わせ者にちがいない、といった散々の評判だった。それでいながら母は、あの夫人をむすめさんと一緒いっしょに明日の夕食に招いた、と言い足した(この『娘さんと一緒』という言葉を耳にすると、わたしは鼻をさらの中へまんばかりにした)――とにかくあの夫人はとなりどうしではあり、名のある人でもあるから、というのが理由だった。
 これに対して父は母に、今やっとあのおくさんがどういう人かを思い出したと告げた。それによると父は若いころ、今はいザセーキン公爵を知っていた。立派な教育はあったけれど、うすっぺらな下らん男で、パリに長らく行っていたため、『パリっ児パリジャン』と呼ばれていた。かれは大層金持だったが、カルタで全財産をすってしまい――どういうわけだか、まあ金が目当てだったらしくも思えるが――とは言え選びさえすれば、もっといい相手はあったのに(と父は言い足して、冷たい微笑びしょうらした)――どこかの下役人の娘と結婚けっこんして、その結婚ののち、投機に手を出して、今度は完全に破産してしまった。
「どうぞあの夫人が、お金を貸してくれなどと言い出さなけりゃいいが」と、母はすかさず言った。
「それも大いにありることだね」と、父は平然として言った。――「あの奥さん、フランス語を話すかね?」
「それが成っていないの」
「ふん。まあ、そんなことはどうでもいい。君は今、あの人の娘さんも招待したとか言ったね。だれかが言っていたっけが、とても可愛かわいらしい、教育のある娘だそうじゃないか」
「へえ! じゃその娘さん、お母さんに似なかったわけですのね」
「父親にもね」と、父は応じて、――「あの男は教育こそあったが、しかし頭がなかったよ」
 母はほっと溜息ためいきをついて、考え込んでしまった。父もだまってしまった。わたしはこの会話の間じゅう、ひどく照れくさかった。――
 夕食がむと、わたしは庭へ出て行ったが、鉄砲てっぽうは持たなかった。わたしは、『ザセーキン家の庭』へは近寄るまいと心にちかったつもりだったが、うち勝ちがたい力に引かされて、ふらふらその方へ足が向いて――しかもそれが、無駄むだではなかった。わたしが垣根かきねのそばまで行くか行かないうちに、ジナイーダの姿が眼に入ったのだ。今度は彼女かのじょ一人だった。両手で小さな本をささえて、ゆっくり小径こみちを歩いていた。向うはわたしに気づかなかった。
 わたしはあやうくやり過ごしそうになったが、はっと気がついて、咳払せきばらいをした。
 彼女は振向ふりむいたが、立ち止りもしないで、まるい麦わら帽子ぼうしについているはばの広い水色のリボンを、片手ではらいのけると、ちらとわたしにをそそぎ、軽くほほえんだなり、またもや眼を本へ落してしまった。
 わたしはひさしのついた帽子をいで、しばらくその場で迷っていたが、やがて重い物思いにしずみながら、そこをはなれた。――『あのひとにとって、わたしはなんだろうク・スュイ・ジュ・プール・エル?」とわたしは、(どうした風のきまわしか)フランス語で考えた。
 聞きおぼえのある足音が、後ろでひびいた。振返ってみると――こっちへ、例の速い軽快な足どりでやってくるのは、父だった。
「あれが公爵令嬢れいじょうかね?」と、父がたずねた。
「おじょうさんです」
「はて、お前あの人を知ってるのかい?」
「けさ公爵夫人の所で会ったんです」
 父は立ち止ったが、急にかかとでくるりと回ると、とって返して行った。そして、垣根越しにジナイーダとかたならべる辺まで行くと、父は丁寧ていねいに彼女に会釈えしゃくをした。彼女も会釈を返したが、幾分いくぶんびっくりしたような色を顔に浮べて、本を下へおろした。父の後ろ姿を見送っている彼女の様子が、わたしには見えた。わたしの父の服装ふくそうはいつも、とてもりゅうとして、独特の味があって、しかもさっぱりしたものだった。けれどこの時ほど父の姿がわたしに、すらりと格好かっこうよく見えたこともなかったし、その灰色の帽子が、こころもち薄くなりかけた捲毛まきげの上に、すっきり合って見えたこともなかった。
 わたしはジナイーダの方へ行こうとしたが、彼女はわたしには眼もくれず、また本を上へあげると、向うへ行ってしまった。


 その晩いっぱいとあくる朝の間じゅう、わたしはなんだか鬱々うつうつしずんだ気持で過した。忘れもしない、わたしは勉強しようと思って、カイダノーフを読み始めたが――結局この有名な教科書のぱらりと組んだ行やページが、の前にちらちらするばかりで、なんにもならなかった。十遍じっぺんも立て続けにわたしは、『ユリウス・ケーザルは武勇世にすぐれ』という文句を読み下したが――何ひとつ頭に入らないので、本を投げ出してしまった。夕飯の前になると、わたしはまたポマードをりたくって、またもやフロックコートとネクタイを着けた。
「そりゃ、どういうつもりなの?」と、母がたずねた。――「お前はまだ大学生じゃないんですよ。それに、試験だって受かるかどうかわかりもしないのにさ。あの短い上着だって、まだついこのあいだわせたばかりじゃないか? 勿体もったいないですよ!」
「お客様が来るので」とわたしは、ほとんど必死になってささやいた。
馬鹿ばかをお言い! あれがお客様なものですか!」
 降参するよりほかはなかった。わたしはフロックを短い上着に着替きかえたが、ネクタイは取らなかった。
 公爵夫人こうしゃくふじんむすめを連れて、夕食の三十分前にやって来た。老婦人は、すでにわたしにはお馴染なじみの例の緑色の服の上に黄色いショールを引っかけ、火のような色のリボンかざりのついた旧式の室内帽しつないぼうをかぶっていた。彼女かのじょはたちまち手形の話をやり出して、溜息ためいきをついたり、自分の貧乏びんぼううったえたり、『おねだり』を始めたりするのだったが、礼儀れいぎも作法もさっぱりお構いなしで、相変らず騒々そうぞうしく煙草たばこを嗅いだり、椅子いすの上で気まま勝手に身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしていた。自分が公爵夫人だなどということは、てんで念頭に浮んでもないらしい。
 それに引替えジナイーダは、すこぶるツンと、ほとんど傲慢ごうまんなほどに構えて、あっぱれ公爵令嬢れいじょうであった。その顔には、冷やかな、ぴくりともしない尊大な表情が表われていたので――わたしにはまるで別人のように見え、あの眼差まなざしもあの微笑びしょうも、てんで見当らなかったけれど、それでいてこの新しい姿になっても、わたしにはやはり素晴すばらしいお嬢さんと思われた。着ているのは、ふわりとしたうすしゃの服で、淡青うすあお唐草模様からくさもようがついていた。かみはイギリス風に、長いふさをなして両のほおれかかっていた。この髪かたちが、彼女の顔の冷やかな表情に、しっくり合っていた。
 父は食事の間、彼女の横に席をめて、もちまえの優美で落着きはらった慇懃いんぎんさで、隣席りんせきの令嬢のお相手をつとめていた。父は時おり彼女の顔をちらりとながめやる――彼女の方でも、時たま父を見返す。その彼女の顔つきが、じつに不思議な、ほとんど敵意をふくんだものだった。二人はフランス語で話し合っていたが、わたしは今でも思い出す、ジナイーダの発音の奇麗きれいさに、びっくりしたものである。公爵夫人は食事の間も、例によってちっとも遠慮えんりょせずに、さかんに食べては、料理をめそやした。母は、いかにもこの相手が荷厄介にやっかいらしく、なんだか滅入めいったような気乗りのしない調子で、しぶしぶ受け答えをしていた。父は時たま、かすかにまゆの根をひそめた。ジナイーダもやはり、母の気に入らなかった。
「なんだか高慢こうまんちきな娘だこと」と、母はあくる日そう言った。――「よく考えてみるがいいわ――何を高慢ぶることがあるんだろう――あんなグリゼットみたいな顔をしてさアヴェク・サ・ミーヌ・ド・グリゼット!」
「君は確か、パリの下町娘グリゼットを見たことがないはずだが」と、父はチクリとした。
「ええ、ありがたいことにね!」
「もちろん、ありがたいことにはちがいないが……だが、それでどうしてあれらのことを、とやかく言えるのかね?」
 わたしの方へは、ジナイーダはてんで注意を向けずじまいだった。食事が済むと間もなく、公爵夫人は別れの挨拶あいさつをし始めた。
「どうぞ今後とも、よろしくお力添ちからぞえのほどを、奥様おくさまにも旦那様だんなさまにもお願いしますよ」と、彼女は、歌うように声を引っぱりながら母と父に言った。――「仕方ありませんわ! いい時もありましたけれど、返らぬ昔でしてねえ。これでももとは――奥方様と立てられたものですけど」と彼女は、いやな笑い声を立てて言い添えて、――「背に腹は、とやら申しましてねえ」
 父はうやうやしく夫人に一礼すると、ひかしつのドアまでうでを貸して送って行った。わたしは、つんつるてんの短い上着を着たまま、じっとそこにって、死刑しけいを言いわたされた囚人しゅうじんよろしくのていでゆかを見つめていた。ジナイーダの冷たい態度を見て、すっかり悄気しょげてしまったのである。ところが、ああなんというおどろきだったろう。彼女はわたしの前を通り過ぎる時、例のやさしい表情を眼にうかべて、わたしにこうささやいたのだ、――「今夜八時に、うちへいらっしゃいね、よくって、きっとよ……」わたしはあまりの思いがけなさに、両手をひろげたが――それなり彼女は、白いスカーフをふわりと頭にかけると、さっさと向うへ行ってしまった。


 きっかり八時に、わたしはフロックコートを一着におよび、頭のかみを小高くり上げて、公爵夫人こうしゃくふじん住家すみかなる傍屋はなれへ入って行った。例の老僕ろうぼくが、無愛想なでわたしをじろりと見ると、しぶしぶ腰掛こしかけからしりをもたげた。
 客間には陽気な人声が聞えていた。わたしはそのドアをあけると、あっとばかり後ろへすさった。部屋のまん中には、椅子いすの上に公爵令嬢れいじょうち上がって、男の帽子ぼうしを眼の前にささげている。椅子のまわりには、五人の男がひしめき合っている。彼らは我がちに帽子の中へ手を突っ込もうとするのだが、令嬢はそれを上へ上へと持ち上げて、力いっぱいすぶっていた。わたしの姿を認めると、彼女かのじょは大きな声で、「待ってよ、待ってよ! 新しいお客様だわ、あの人にもふだをあげなくちゃ」と言うなり、ひらりと椅子から飛び下りて、わたしのフロックのそでの折返しをつかまえると、――「さあ、いらっしゃいってば」と言った。――「何をぼんやり立ってるの? 皆さんメシュー御紹介ごしょうかいいたしますわ。この方はムッシュー・ヴォルデマール、おとなりぼっちゃんです。それからこちらは」と彼女は、わたしに向って順ぐりに客を指さしながら、付け加えた。「マレーフスキイ伯爵はくしゃく、お医者のルーシンさん、詩人のマイダーノフさん、退職大尉たいいのニルマーツキイさん、それから軽騎兵けいきへいのベロヴゾーロフさん、この方にはもうお会いになったわね、どうぞ皆さん、仲よくなすってね」
 わたしはすっかりあがってしまって、だれにもお辞儀じぎをせずにいたほどだった。医者のルーシンというのが、あのとき庭でわたしに小っぴどくはじをかかした例の浅黒い男であることはわかったが、あとはみんな初対面だった。
「伯爵!」と、ジナイーダはあとを続けた。――「ムッシュー・ヴォルデマールにも札を書いて上げてちょうだい」
「それは不公平ですな」と、心もちポーランドなまりのある言葉つきで、伯爵は反対した。これはすこぶ美貌びぼうの、った身なりをした栗色くりいろかみの男で、表情に富んだ鳶色とびいろの目と、細い小ぢんまりした白い鼻をもち、っぽけな口の上に、ちょびひげやしている。――「この人、罰金ばっきんごっこの仲間に入らなかったんですからねえ」
「不公平だ」と、ベロヴゾーロフと、もう一人別の男が相槌あいづちを打った。あとの方の男は、退職大尉と呼ばれた人物で、年は四十がらみ、みっともないほどのアバタづらで、アラビア人みたいに髪の毛が縮れて、猫背ねこぜで、がにまたで、肩章けんしょうのない軍服を着て、胸のボタンをはずしている。
「札を書いて上げなさいってば」と、令嬢は繰返くりかえした。――「そりゃなんの暴動なの? ムッシュー・ヴォルデマールは初めて一緒いっしょになったんだから、今日はこの人特別扱とくべつあつかいよ。ぶつぶつ言わないで、書いてちょうだい、あたしそうしたいんだから」
 伯爵は肩をすくめたが、素直すなおに一礼すると、宝石入りの指輪でかざりたてた白い手にペンをとりあげ、小さな紙切れをき取って、それに書き始めた。
「ではせめてヴォルデマール氏に、ことの次第を説明して上げてもいいでしょう」と、あざけるような声でルーシンが言い出した。――「さもないと、すっかりまごついておられるようですからな。実はね、君、我々は罰金ごっこをしているんだが、令嬢が罰金をはらうことになったので、幸運のくじを引当てた人は、令嬢のお手にキスする権利をるわけなんです。わかったですか、ぼくの言ったことが?」
 わたしはちらりとかれの顔を見たばかりで、相変らず茫然自失ぼうぜんじしつのていで突っ立っていたが、その間に令嬢はまた椅子の上に飛び乗ると、またもや帽子を揺すぶり始めた。みんなが手をばしたので――わたしもそれに従った。
「マイダーノフさん」と令嬢は、背の高い青年に向って言った。これはせこけた顔に、小さな眼をしょぼつかせて、黒い髪の毛をおそろしく長く伸ばした男である。――「あなたは詩人なんですから、気前のいいとこを発揮して、あなたの札をムッシュー・ヴォルデマールにゆずって上げるべきだわ。するとこの方のチャンスは二つになって、一つじゃなくなるんですもの」
 がマイダーノフは、首を横にって、長髪ちょうはつをさっと揺り上げた。わたしは一番あとから手を帽子の中へ入れて、つかんで、さて札をひろげてみたが……ああ! 途端とたんにふらふらっとしてしまった。見よ、その札には、『キス』と書いてあるではないか!
「キス!」と、わたしは思わず大声を上げた。
「ブラヴォー! この人に当ったわ」と、令嬢がすかさず引取って――「まあうれしい!」――そして椅子を下りると、なんともいえず晴れやかなあまい顔つきで、じっとわたしの眼をのぞきこんだので、わたしの心臓はワッとばかりおどり立った。
「あなたは嬉しくって?」と、彼女はわたしにいた。
「僕?……」うまく舌が回らなかった。
「その札は僕に売ってくれたまえ」と、突然とつぜんわたしの耳のすぐ上で、ベロヴゾーロフのがらがらした声がした。――「百ルーブル出すぜ」
 わたしが軽騎兵への返事に、非常な憤慨ふんがい一瞥いちべつをくれたので、ジナイーダは手をたたくし、ルーシンは「でかした!」と絶叫ぜっきょうするさわぎだった。
「それはそうと」と、ルーシンは続けた。――「わたしは式部官として、すべてが規定通り行われるよう宰領さいりょうせねばなりません。ムッシュー・ヴォルデマール、片膝かたひざをおつきなさい。そういう決りになっているのです」
 ジナイーダはわたしの前に立つと、わたしを一層よく見ようとするかのように首を少し横にかしげ、いとも荘重そうちょうに片手を差伸さしのべた。わたしは眼の中が暗くなった。片膝をつこうとしたが、べったり両膝ついてしまって、おそろしく不器用にくちびるをジナイーダの指にれたので、むこうのつめで自分の鼻さきに、かるい引っかききずをこしらえてしまったほどだった。
「よろしい!」とルーシンはさけんで、わたしを助け起した。
 罰金ごっこは続いていった。ジナイーダはわたしを自分のそばの席に着かせた。手を変え品を変え、実にいろんな罰金を彼女は思いついたものである! そのうちに彼女は、『立像』をやって見せることになったが――すると彼女は自分の台座に、醜男ぶおとこのニルマーツキイを選び出して、うつせにるように命じたばかりか、顔を胸へたくしませさえしたものである。笑い声は小やみもなしに続いた。
 四角四面の地主じぬし屋敷にい立って、一人ぼっちの生真面目きまじめな教育を受けてきた少年のわたしは、こうしたらんちき騒ぎや、ほとんど狂暴きょうぼうともいうべき無遠慮ぶえんりょな浮かれ気分や、見ず知らずの連中とのへそ切って初めての交際やのおかげで、たちまち頭がカーッとなった。わたしは酒でも飲んだように手もなくっぱらってしまった。わたしがほかのだれよりも大きな声で、笑ったりしゃべったりし始めたので、隣の部屋にいた老夫人までが、わざわざわたしを見に出てきたほどだった。夫人は、相談ごとのために呼び寄せたイヴェールスキイ門あたりの小役人と、何やら話し込んでいたのである。しかしわたしは、すっかりもう幸福感に酔いしれていたので、誰が冷笑しようが誰が白い眼でにらもうが、下世話げせわに言うとおり、どこく風で、一文の価値も認めなかった。
 ジナイーダは相変らず、わたしをひいきにして、寸時もそばからはなさなかった。ある罰金に当った時、わたしは彼女とならんで、ひとつ絹のプラトークにくるまる羽目になったことがある。つまりわたしは、自分の秘密を彼女に打明けなければならないのであった。忘れもしない。わたしたち二人の頭が、突然もやもやした、半透明はんとうめいにおやかなもやに包まれたかと思うと、その靄の中で、近々とやわらかに彼女の眼が光って、ひらたい唇が熱っぽく息づき、歯がだんだん見えてきて、ほつれ毛が焼けつくようにわたしのほおをくすぐった。わたしはだまっていた。彼女は神秘しんぴめいたずるそうな微笑びしょううかべていたが、やがて、「ね、どうしたの?」とささやいた。わたしは赤くなって、ふふと笑っただけで、顔をそむけ、じっと息を殺していた。
 罰金ごっこにきると、――こんどはなわまわしが始まった。ああ! わたしがついポカンとして、おにになった彼女から、したたかピシャリと指をぶたれたとき、なんという法悦ほうえつをわたしは感じたことだろう! そのあとで、わざとわたしがポカンとした振りをしていると、彼女はわたしをじらそうとして、差伸べた両手に触れようともしないのだった!
 我々がその晩のうちにやったことは、まだまだそれだけではなかった! ピアノもけば、歌もうたい、おどりもおどれば、ジプシーの群れの真似まねもした。ニルマーツキイはくまいぐるみを着せられて、塩の入った水を飲まされた。マレーフスキイ伯爵は、トランプの手品を次から次へと披露ひろうしたが、あげくの果てにカードをよく切ってから、札を四人に配る時、切札を全部わが手に収めてしまったので、ルーシンは『僭越せんえつながら祝辞を述べる』ことになった。マイダーノフは自作の『人殺し』という長詩の一節を朗読したが、(それはロマンティシズムの全盛期ぜんせいきに取材してあった)、彼はこの作品を、黒い表紙に血色の題字で、出版するつもりだと言っていた。イヴェールスキイ門からやって来た小役人の膝から、こっそり帽子を取ってきて、その身代金みのしろきんとしてカザーク踊りをおどらせたり、老僕ヴォニファーチイに女の室内帽をかぶせたり、――そうかと思うと、公爵令嬢が男の帽子をかぶったり……とても一々数えきれない。ただベロヴゾーロフだけは、眉間みけんに八の字を寄せて腹立たしげな様子で、だんだんすみっこへ引っ込みがちになった。……時たま彼の眼は、さっと血ばしって、満面にしゅをそそぎ、今にもみんなに躍りかかって、わたしたちをみじんに八方へ投げ飛ばしそうな剣幕けんまくを見せたが、令嬢がちらりと彼を見て、指を立てておどかすと、彼はまたこそこそ隅っこへ引き下がるのだった。
 しまいに、さすがのわたしたちも精もこんも尽き果ててしまった。公爵夫人は、御自身の言い草を借りると、そんなことには一向平気な性分しょうぶんで――どんなに騒がれようがビクともしないたちだったが――それでもやはり疲労ひろうを覚えて、ちょっと一休み横になると言い出した。夜の十一時過ぎに夜食が出て、古いひからびたチーズのれっぱしと、ハムを刻みんだみょうに冷たい肉饅頭にくまんじゅうとだけだったが、それがわたしには、どんなパイよりもおいしく思われた。葡萄酒ぶどうしゅ一壜ひとびんきりで、それもあやしげな、くびのところがふくれ返ったどす黒い代物しろもので、中身はプーンと桃色ももいろのペンキのにおいがした。もっとも、誰一人それは飲まなかった。
 疲労と幸福感とでへとへとになって、わたしは傍屋はなれから表へ出た。別れにのぞんで、ジナイーダはぎゅっとわたしの手をにぎりしめ、またもやなぞめいた微笑を浮べた。
 夜気がしっとりと重く、わたしの火照ほてった顔へにおいを吹きつけるのだった。どうやら雷雨らいうが来そうな模様で、黒い雨雲がきだして空をい、しきりにそのもやもやした輪郭りんかくを変えていた。そよ風が暗い木立こだちの中でざわざわと身震みぶるいして、どこか地平のはるかな彼方かなたでは、まるでひとごとのように、かみなりが腹立たしげなにぶい声でぶつぶつ言っていた。
 裏口からこっそり、わたしは自分の部屋へもぐり込んだ。守役もりやくじいやが、ゆかべたでねむっていたので、わたしはそれをまたぎさなければならなかった。爺やは目をさまして、わたしを見るなり、母がまたぞろわたしに腹を立てて、またもむかえに人を出そうとしたが、父が止めたのだ、と報告した。(わたしは寝床ねどこに入る前には、必ず母にお休みを言い、祝福してもらうことにしていた)が、こうなってはもう仕方がない!
 わたしは爺やに、自分で着替きかえをして寝るからいい、と言って――蝋燭ろうそくを吹き消した。だがわたしは、着替えもしなければ、横になりもしなかった。
 わたしはちょっと椅子に掛けたが、それなり魔法まほうにでもかかったように、長いことすわったままでいた。その間に感じたことは、実に目新しい、実に甘美かんびなものだった。……わたしはほんの少しあたりへ眼を配りながら、じっと身じろぎもせずに坐って、ゆっくりと息をついていた。そしてただ時々、声を立てずに思い出し笑いをしたり、そうかと思うと、『おれこいしているのだ、これがそれなのだ、これが恋なのだ』という想念にき当って、胸の底がひやりとするのだった。ジナイーダの顔が眼の前のやみの中を静かにただよっていた――漂ってはいたが、漂い去りはしなかった。その唇は相変らず謎めいた微笑を浮べ、眼は少し横合いから物問いたげに、考え深そうに、やさしげにわたしを見まもっていた……あの別れた瞬間しゅんかんとそっくりそのままの眼差まなざしだった。やがてとうとうわたしは立ち上がって、爪先つまさきだちでベッドに歩み寄り、着替えもせずに、そっと頭をまくらにのせた。はげしい動作によって、身うちにち満ちているものをおどろかしはせぬかと、それが心配でならなかったように……。
 わたしは横になったが、眼もつぶらずにいた。まもなくわたしは、何かしらかすかな照返しが、わたしのいる部屋の中へ、絶えずしては消え射しては消えするのに気がついた。……わたしは身をもたげて、窓をながめた。神秘めいてぼんやり白んでいるガラスの上に、窓のさんがくっきりとえがき出されている。雷雨だな――とわたしは思った。確かに雷雨にはちがいなかったが、とても遠方を通っているので、雷鳴も聞えないほどだった。ただ、光の鈍い、長々とを引いた、えだに分れたような稲妻いなずまが、空にひらめいているだけで、それもひらめくというよりはむしろ死にかけている鳥のつばさのように、ぴくぴくふるえているのだった。わたしは起き上がって、窓のそばへ行き、朝までそこに立ちつくした。……稲妻はほんのつかもやまなかった。俗にいう雀の夜――つまり夏至頃げしごろの短か夜である。わたしは、ひっそり静まった砂原や、ネスクーチヌィ公園の黒々とした森陰もりかげや、鈍く稲妻がひらめくたびにやはり震えるように見える遠い家々の黄いろっぽい正面やを、じっと見つめていた。……見つめたまま――眼を離すことができなかった。そのひっそりした稲妻、その遠慮えんりょがちのひらめきが、同じくわたしの身うちにもひらめいている無言のひそやかな衝動しょうどうに、ちょうど相応ずるもののように思われた。夜が明け始めた。朝焼けがそこここに真紅しんくのまだらを散らした。日の出が近づくにつれて、稲妻はだんだんあわく、短くなっていった。そのわななきはいよいよ間遠まどおになって、ついに、はっきり明けはなれた一日の、ものみなゆめをさます疑いもない光にひたされて消えてしまった。
 わたしの胸の中でも、やはり稲妻は消えてしまった。わたしは非常なつかれと静けさを感じたが……ジナイーダの面影おもかげは相変らず飛びめぐって、わたしのたましいの上に凱歌かいがを奏していた。ただしその面影も、いつかひとりでに安らいできたように見えた。さながら白鳥が、ぬまの草むらから飛び立ったように、その面影もまた、それを取巻いているさまざまなみにくい物陰から、離れ去ったもののようだった。そしてわたしはうとうと寝入りながら、これを名残なごりにもう一遍いっぺん、信頼をこめた崇拝すうはいの念をもって、その面影にひしとばかりとりすがった。……
 おお、めざまされた魂の、つつましい情感よ、その優しいひびきよ、そのめでたさと静もりよ。恋の初めての感動の、とろけるばかりのよろこびよ。――いましらはそも、今いずこ、今いずこ?


 あくる朝、わたしがお茶に下りてゆくと、母はわたしをしかったけれど――思ったほどのことはなく、ゆうべどんな風にして過したかを、わたしに話をさせた。わたしは言葉少なに応答しながら、細かな点はどしどしはぶいて、全体として大いに無邪気むじゃきな感じをあたえるようにつとめた。
「とにかくあの人たちは、まともな連中コム・イル・フォーじゃありません」と、母はくぎをさした。――「だからお前も、あんなところへ出入りする代りに、ちゃんと勉強して、試験の準備をするんですよ」
 わたしの勉強に対する母の配慮はいりょが、わずかこの数語にきていることは、わたしも心得ているから、別に口答えをする必要はないと思った。ところがお茶がむと、父はわたしとうでを組んで、一緒いっしょに庭へ出て行きながら、わたしがザセーキン家で見たことを、逐一ちくいちわたしに物語らせた。
 父はわたしに、奇妙きみょう影響力えいきょうりょくを持っていたし、そう言えば、たがいの関係にしたところで、やはり奇妙なものだった。父はわたしの教育のことには、ほとんど風馬牛ふうばぎゅうだったが、さりとてわたしを馬鹿ばかにするような真似まねは、ついぞしたことがない。父はわたしの自由を尊重していたばかりか、さらに進んで、ちょっと妙な言い方だが、わたしに対して慇懃いんぎんでさえあった。……ただし、近くへは寄せつけてくれないのである。わたしは父を愛し、父に見とれて、これこそ男性というものの典型だと思っていた。だから、実際の話が、わたしはもっと強く強く、父になついたはずなのだが、ただ父の手が私をしのけているような感じが、しょっちゅうあって、それが邪魔じゃまになったのだ! その代り、父さえその気になれば、ほとんど一瞬いっしゅんにして、ただの一言ひとこと、ただの一動きでもって、父に対する無限の信頼感を、わたしの胸に呼びさますことができた。わたしは心をあけひろげて、まるで相手が聡明そうめいな友達か、親切な先生でもあるように、父とおしゃべりを始めるのだが……やがてまた不意に、父はわたしをほうり出してしまう。――またしてもその手がわたしを押しのける。いかにも愛想のいい、ものやわらかな手つきだが、とにかく押しのけるのである。
 父も時には、きした気分になることがあって、そうなると私を相手に、まるで子供のように、ふざけたり、はねたりするのをいとわなかった(父は、はげしい肉体の運動なら、なんでも好きだった)。一度――あとにも先にもただの一度きりだが! ――父がとてもやさしくわたしを可愛かわいがってくれて、そのためあやうくわたしが泣き出しそうになったことがある。……しかし、その浮き浮きした気分も、優しさも、すぐまたあとかたもなく消えて、――現に二人の間に起った事柄ことがらから、何かしら今後の期待を引出すなどということは、とてもできない相談だった。まあ何もかも、ゆめで見たようなものだったのだ。よくわたしは、父のかしこそうな、美しい、みきった顔を、じっと見ているうちに……胸がどきどきしてきて、身も心も父の方へ吸い寄せられるような気がした。……すると父は、そういう私の気持に感づきでもしたようにひょいと通りすがりに私のほおをかるくたたいて、――それなり向うへ行ってしまうか、何か仕事をやり出すか、さもなければ、いきなり頭から足の先まで、こおりついたように冷たくなってしまう。その冷たくなりようときたら、ほかの人には見られない父独特のもので、それを見せられると私はたちまち縮み上がって、やはり寒々とした気持になるのだった。
 ごくまれに、父は発作的ほっさてきにわたしに好意を示しはしたが、それは決して、口にこそ出さないが一目でそれと察せられる私の哀願あいがんによって、ひき起されたものではない。それは、いつも決って、不意に起るのだった。あとになって、父の性格をいろいろ考えてみたあげく、わたしの達した結論は、父としては私や家庭生活なんぞを、かえりみるひまがなかったということである。父は、ある別のものを愛していて、その別のもので、すっかり堪能たんのうしていたのである。
『取れるだけ自分の手でつかめ。人の手にあやつられるな。自分が自分みずからのものであること――人生の妙趣みょうしゅはつまりそこだよ』と、ある時父はわたしに語った。また別の時、わたしは若き民主主義者として、父の面前で、とうとうと自由を論じ始めたことがある(父はその日は、わたしの当時の言い方でいうと「優し」かった。そんな時には、どんな話を持ち出そうと勝手だった)。
「自由か」と、父は引取って、「だがね、人間に自由を与えてくれるものは何か。お前それを知っているかね?」
「なんです?」
「意志だよ、自分自身の意志だよ。これは、権力までも与えてくれる。自由よりもっととうとい権力をね。ほっする――ということができたら、自由にもなれるし、上に立つこともできるのだ」
 父は、何よりもまず、そして何にも増して、生活することを欲した。そして実際、生活したのだ。……ひょっとすると父は、自分が人生の「妙趣」をあまり永く享楽きょうらくできないことを予感していたのかもしれない。四十二で死んだのである。
 わたしは、ザセーキン家を訪問した時の一部始終を、くわしく父に話して聞かせた。父はベンチに腰掛こしかけて、むちの先で砂に何やら書きながら、半ばは注意ぶかく、半ばは放心のていで、わたしの話をいていた。父は時々笑い声を立てて、一種こう晴れやかな、面白おもしろそうなつきで私の顔をちらりと見たり、ちょっとした質問やまぜっ返しで、わたしをきつけたりした。初めのうちは私は、ジナイーダの名前をさえ口にする勇気が出なかったが、やがて我慢がまんがならなくなって、しきりに彼女かのじょのことをめちぎりだした。父は相変らず笑い続けていたが、そのうちにふと考え込んだかと思うとびをして、立ち上がった。
 わたしは、父が家から出しなに、馬にくらを置くように命じたのを思い出した。父の馬術はなかなか大したもので、レーリ氏などよりずっと早くから、どんな荒馬あらうまをもらすのに妙を得ていた。
ぼくも一緒に行っていい、パパ?」と、わたしは父にいた。
「いいや」と父は答えた。その顔には、例のない愛想のいい表情がうかんだ。――「乗りたけりゃ、一人でお行き。そして、わたしは行かないからって、別当べっとうにそう言っとくれ」
 父はわたしに背を向け、足ばやに立ち去った。わたしが見送っていると、父の姿は門の外へ消えた。垣根かきねに沿って、帽子ぼうしの動いて行くのが見える。父はザセーキン家へ入って行った。
 父は、一時間以上はそこにいなかったが、それからすぐさま町へ出かけ、夕方やっと帰って来た。
 夕食のあとで、今度は私がザセーキン家へ行った。客間に入ってみると、老公爵夫人ろうこうしゃくふじんきりしかいなかった。わたしの姿を見た夫人は、室内帽子をかぶった頭を、ばりの先でくと、いきなりわたしに向って、請願書せいがんしょを一通清書してもらえまいかと問いかけた。
「おやすい御用ごようですとも」と、わたしは答えて、椅子いすはしに腰を下ろした。
「ただね、字をなるべく大きくお願いしますよ」と公爵夫人は、べったり書きよごした紙を一枚わたしながら言った。――「で、今日じゅうにやって下さらなくて、ぼっちゃん?」
「やりますとも、今日じゅうに」
 となりの部屋のドアがほんのちょっぴり開いて、その隙間すきまに、ジナイーダの顔が現われた。――あおざめた、もの思わしげな顔つきをして、かみは無造作に後ろへはね返してある。大きな冷やかな両眼で、わたしをじっと見ると、またそっとドアを閉めた。
「ジーナ、これ、ジーナや!」と、老夫人が呼んだ。ジナイーダは返事をしなかった。わたしは老夫人の請願書を持って帰って、一晩じゅうそれにかかりきりだった。


 わたしの「情熱」は、その日から始まった。忘れもしない、――その時わたしは、初めて就職した人が感じるはずの、あの一種の気持と同じものを味わった。つまりわたしは、もはやただの子供でも少年でもなくて、こいする人になったのだ。今わたしは、その日からわたしの情熱が始まったと言ったが、も一つその上に、わたしのなやみもその日から始まったと、言いえてもいいだろう。
 ジナイーダがいないと、わたしは気が滅入めいった。何ひとつ頭にうかんでこず、何ごとも手につかなかった。わたしは何日もぶっつづけに、明けても暮れても、しきりに彼女かのじょのことを思っていた。わたしは気が滅入った……とはいえ、彼女がいる時でも、別に気が楽になったわけではない。わたしは嫉妬しっとしたり、自分のっぽけさ加減に愛想をつかしたり、馬鹿ばかみたいにすねてみたり、馬鹿みたいにへいつくばったり、――そのくせ、どうにもならない引力で彼女の方へ引きつけられて、彼女の居間の敷居をまたぐ都度つど、わたしは思わず知らず、幸福のおののきに総身そうみふるえるのだった。ジナイーダはすぐさま、わたしが彼女に恋していることを見抜みぬいたし、わたしの方でも、別にそれをかくそうとも思わなかった。彼女は、わたしの情熱を面白おもしろがって、わたしをからかったり、あまやかしたり、いじめたりした。いったい、他人のために、その最大の喜びや、その底知れぬ悲しみの、唯一無二ゆいいつむにの源泉になったり、またはそれらの、絶対至上にして無責任な原因になったりするのは、快いものであるが、全く私は、ジナイーダの手にかかったが最後、まるでぐにゃぐにゃなろうみたいなものだったのだ。
 とはいえ、何もわたしだけが、彼女に恋していたわけではなかった。彼女の家にやってくる男という男は、みんな彼女にのぼせあがっていたし、彼女の方では、それをみんなくさりにつないで、自分の足もとにっていたわけなのだ。そうした男たちの胸に、あるいは希望を、あるいは不安を呼びおこしたり、こっちの気の向きよう一つで、彼らをきりきりいさせたりするのが(それを彼女は、人間のぶつけ合い、と呼んでいた)、彼女には面白くてならなかったのである。しかも男たちの方では、それに抗議こうぎを申し立てるどころか、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。溌剌はつらつとして美しい彼女という人間のなかには、ずるさと暢気のんきさ、技巧ぎこう素朴そぼく、おとなしさとやんちゃさ、といったようなものが、一種特別な魅力みりょくある混り合いをしていた。彼女の言うことなすこと、彼女の身ぶり物ごしのはしはしにも、微妙びみょうな、ふわふわした魅力がただよって、その隅々すみずみにまで、他人には真似まねのできぬ、ぴちぴちした力があふれていた。彼女の顔つきも、しょっちゅう変って、やはりぴちぴちしていた。それはほとんど同時に、冷笑を表わしもすれば、物思いを表わしもし、情熱の表情にもなるのであった。まるで晴れた風のある日の雲のかげのように、軽いすばしこい色とりどりの情感が、絶えず彼女のくちびるのほとりに、ちらついているのだった。
 彼女にとって、自分の崇拝者すうはいしゃだれもかれも、みんな入用な人物だった。ベロヴゾーロフは、彼女から時によっては、『わたしの猛獣もうじゅうさん』と呼ばれたり、時によっては簡単に、『わたしの』と呼ばれたりしていたが、彼女のためとあらば火の中へも飛びみかねない男である。自分の頭の働きにも自信はなし、ほかにこれといった取柄とりえもないとあきらめているかれは、しょっちゅう彼女に結婚けっこんを申込んで、ほかの男の言うことは、要するに空念仏からねんぶつに過ぎないと、ほのめかすのであった。
 マイダーノフは、彼女のたましいのなかにある詩的な素質のお相手をつとめていた。ほとんどすべての文士の多分にれず、彼もかなり冷たい人間だったが、それでいて自分がジナイーダを崇拝しているものと、遮二無二しゃにむに相手に思い込ませようとしていたのみか、どうやら自分でも、そう思い込もうとしているらしかった。無尽蔵むじんぞうともいうべき詩句に、彼女への讃美さんびの情をたくしては、それを、どこかしら不自然でもあれば真剣しんけんでもある感激かんげきをもって、彼女に朗読して聞かせる。彼女の方では、この男に共鳴する面もあり、いささかおひゃらかし気味でもあった。あまりこの男を信用していない彼女は、彼の真情の吐露とろもいい加減聞ききると、プーキシンを朗読させるのだった。それは、彼女の言い草に従えば、空気を清めるためだった。
 次にルーシンは、皮肉屋で、露骨ろこつ毒舌どくぜつをふるう医者だが、彼女というものを一番よく見ており、また誰より深く彼女を愛してもいながら、そのくせ陰でも面前でも、彼女の悪口ばかり言っていた。彼女は、この男を尊敬してはいたものの、さりとて決して容赦ようしゃはせず、時々、一種特別な、さも小気味よげな満足の面持おももちで、彼だってやはり自分の手中にあるのだということを、彼に感づかせるように仕向けるのだった。
「わたし、コケットなのよ。人情なんかないわ。まあ、役者向きの水性みずしょうなんだわ」と、彼女はある日、わたしのいる前で、彼に言ったことがある。――「あ、いいことがある! さ、手を出しなさい。ピンをしてあげるから。するとあなたは、このぼっちゃんの手前ずかしいでしょうし、それに痛くもあるでしょう。でもね、あなたは笑って見せてちょうだい。いいこと、君子くんしさん」
 ルーシンは赤くなって、顔をそむけ、唇をかみしめたが、結局その手を差出した。彼女がピンを突っ刺すと、まさしく彼は笑い出した。……彼女も声を立てて笑いながら、そのピンをかなり深く刺しこんで、むなしくあちこちらそうとする彼の眼を、じっとのぞき込むのだった。……
 ジナイーダとマレーフスキイ伯爵はくしゃくの関係が、一番わたしにはわかりにくかった。なかなか美男子で、如才じょさいなく頭のはたらく男なのだが、しかし、ほんの十六さいの少年にすぎないわたしでさえ、この男には何かしら油断のならぬ、うさんくさいところがあるような気がした。しかもジナイーダが、それに気づいていないのが、わたしは不思議でならなかった。ひょっとすると彼女は、そのうさん臭さに気づいていながら、別にそれがいやでなかったのかもしれない。なにしろ教育も変則なら、つきあいや習慣も風変りだし、しょっちゅう母親はそばにいるし、家の内情は貧乏びんぼうで乱脈だし、かてて加えて、若いむすめの身で気まま勝手はしたい放題、それに、ぐるりの連中より一段も二段も上だという意識もあるし――というわけで、そうした一切合財いっさいがっさいがあわさって、彼女のうちに、一種こう人を小馬鹿にしたような無頓着むとんじゃくさや投げやりな態度を、養ったのである。何事がもちあがろうが――よしんばヴォニファーチイが入って来て「砂糖がきれました」と言上ごんじょうおよぼうが、何かいまわしい世間の陰口が耳に入ろうが、客の中で喧嘩けんかが始まろうが――彼女はただ、豊かな捲髪まきげ一振ひとふりして、「くだらない」と言うだけで、けろりとしていた。
 お陰でわたしは、全身の血がカッと燃え立つような思いをすることが、よくあった。たとえばマレーフスキイが、まるできつねみたいに狡そうに肩をすりながら、彼女のそばへ寄って行って、彼女の掛けている椅子いすの背に、伊達だて格好かっこうをしてもたれかかり、さも得意げな、追従ついしょうたらたらの薄笑うすわらいをうかべながら、彼女の耳に何かささやきだす。すると彼女は、両手を胸に組んで、まじまじと彼を見つめながら、やがて自分も微笑を浮べ、首を振ったりするのである。
「あなたは、どこがくて、マレーフスキイさんなんかを家へ入れるのです?」と、ある時わたしは彼女にいてみた。
「だって、あの人のひげ、すてきじゃなくて!」と、彼女は答えた。――「でもそんなこと、あなたの知ったことじゃないわ」
 また別の時、彼女はわたしに、こう言ったことがあった。
「わたしがあの人を愛してると、あなた思っているのじゃない? ちがうわ。わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。わたしのしいのは、向うでこっちを征服せいふくしてくれるような人。……でもね、そんな人にぶつかりっこはないわ、ありがたいことにね! わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ、イイーだ」
「すると、決して恋をしないというわけですね」
「じゃ、あなたをどうするの? わたし、あなたを愛していなくって?」そう言うと彼女は、手袋てぶくろの先で、わたしの鼻をたたいた。
 全くジナイーダは、さんざんわたしをなぐさものにした。三週間の間、わたしは毎日彼女に会っていたが、その間に彼女がわたしに向ってやらなかったことは、何一つ、全く何一つなかった、と言っていいほどだ! 彼女の方でわたしの家へ来ることは、あまりなかったが、それはわたしにとって痛事ではなかった。うちへ来ると、彼女はたちまち、令嬢れいじょう――つまり公爵こうしゃく令嬢に、早変りしてしまうし、こっちでも彼女を敬遠していた。わたしは、母に見破られるのがこわかったのだ。母はジナイーダにすこぶる悪意をいだいて、まるでかたきのようにわたしたちを見張っていた。父の方は、大して怖くなかった。父は、わたしには気がつかない様子だったし、彼女ともあまり話をしなかったが、いざ話す時には、何か特別に気のいた、もっともらしい話しぶりをしていた。
 わたしは、勉強も読書もやめてしまった。郊外こうがい散歩や乗馬までも、やめてしまった。まるで足に糸をつけられたカブト虫みたいに、わたしはなつかしい傍屋はなれのまわりを、絶えずぐるぐる回っていた。いいと言われれば、いつまでだってそこにいたはずだが……そうはいかなかった。母の小言こごともうるさいし、時には当のジナイーダから、追っ立てを食う始末だった。するとわたしは、自分の部屋へ引っこもるか、それとも庭のいちばん端まで行って、石造りの高い温室のくずれ残りへよじ登って、道路に面したかべから両足をぶらさげ、何時間もすわったなりで、一心にながめに眺めるのだったが、そのくせ何ひとつ目に入らなかった。わたしのそばには、ほこりをかぶったイラクサの上を、ものうげに白い蝶々ちょうちょうが飛びかわしていた。元気なすずめ一羽いちわ、少し先の、半ば割れた赤煉瓦あかれんがの上に止って、絶えず全身をくるくる回し、をひろげて、かんにさわる鳴き声を立てていた。相変らず疑ぐりぶかいからすれが、すっかり葉の落ちた白樺しらかばの高い高いてっぺんに止って、思い出したようにカアカア鳴いていた。太陽と風が、そのまばらなえだの間に、静かにたわむれていた。ドン修道院のかねが、時おり、おだやかに陰気いんきひびいてきた。――わたしはじっと坐って、見つめたり聞き入ったりしているうちに、何かしら名状しがたい感じで、胸がいっぱいになるのだった。その中には、悲しみも、喜びも、未来の予感も、希望も、生のおそれも、何から何までがふくまれていた。けれど当時のわたしは、そんなものは何一つわかりもせず、また、自分の中に沸々ふつふつとたぎっているすべてのもののうち、どの一つだって、それと名ざすだけの力はなかったろう。いや、いっそ、その一切をあげて、ただ一つの名――ジナイーダという名でもって、呼んだかもしれない。
 ところがジナイーダは、ねこねずみをおもちゃにするように、相変らずわたしをもてあそんでいた。急にじゃれついてきて、わたしを興奮させたり、うっとりさせたかと思うと、こんどは手の裏を返すように、わたしをっぱなして、彼女に近寄ることも、その顔を眺めることも、できないような羽目に落してしまう。
 忘れもしないが、彼女が二、三日ぶっ続けに、とても冷たい態度をわたしに見せたことがある。わたしはすっかり怖気おじけづいて、こそこそ彼女たちの傍屋はなれいこんでは、なるべく老夫人のそばに、くっついているようにしたものである。しかも折りも折り、夫人はひどくおこりっぽくなっていて、がなり散らしてばかりいたのだ。というのは、何か手形の件がうまくゆかないので、もう二度も、区の署長さんと掛け合ったところだったのである。
 ある日、わたしが庭へ出て、例の垣根かきねのそばを通りかかると、ジナイーダの姿が目にとまった。彼女は両手をわきについて、草の上に坐ったまま、身じろぎもせずにいる。わたしが、そっと遠ざかろうとすると、彼女はいきなり首を上げてさも命令するような合図をした。わたしは、その場に立ちすくんだ。どういうつもりなのか、一度ではみこめなかったのだ。彼女は、もう一遍いっぺん合図をした。わたしは、すぐさま垣根を飛びこえて、いそいそと彼女のそばへけ寄った。ところが彼女は、目でわたしを制して、彼女から二歩ほどのところにある小径こみちを、指さして見せた。どうしたらいいのかわからず、当惑とうわくして、わたしは小径のふちにひざまずいた。見ると彼女の顔はさおで、なんとも言えず痛ましい悲哀ひあいと、深いつかれの色が、目鼻だちのくまぐまに刻まれているので、わたしは心臓がめつけられるような気がして、思わずこう口走った。「どうかしたのですか?」
 ジナイーダは片手をばして、何か草の葉をむしると、歯でんで、ぽいと向うへ投げた。
「あなた、わたしがとても好き?」と、やがての果てに、彼女はいた。――「そう?」
 わたしは、なんとも答えなかった。いまさら、なんの返事をすることがあろう。
「そう」と、彼女はなおもわたしを見つめながら、繰返くりかえした。――「そりゃ、そうだわね。まるで同じだもの」そう言い足して、じっと考えこみ、両手で顔をかくした。やがて、「わたし、何もかも厭になった」とささやくように言った。――「いっそ、世界のはてへ行ってしまいたい。こんなこと、こらえきれないわ、とてもやってゆけないわ。……それに、行末ゆくすえはどうなるんだろう! ……ああ、つらい。……ほんとに、つらい!」
「なぜですか?」と、わたしは、おずおずたずねた。
 ジナイーダは返事をせずに、ただかたをすくめただけだった。わたしはひざをついたまま、すっかり悄気しょげかえって、彼女を見まもっていた。彼女の一言一句は、するどくわたしの胸に突き刺さった。わたしはその瞬間しゅんかん、もし彼女の悲しみが消えるものなら、喜んで命を投げ出しもしたろう。わたしは、彼女を見つめているうちに、なぜそうつらいのか合点がてんがゆかぬながらも、それでいて、彼女がにわかにえがたい悲哀の発作ほっさおそわれて、庭へ出てきて、ばったり地面にたおれた有様ありさまを、まざまざと心にえがいていた。――あたりは青々と、光に満ちていた。風は木々の葉なみをそよがせ、時おり木苺きいちごの長いえだを、ジナイーダの頭上ですっていた。どこかではとが、ふくみ声で鳴き、蜜蜂みつばちはうなりながら、まばらな草の上を低く飛びかっていた。上には空が、やさしく青みわたっているが、でもわたしは、なんとも言えずわびしかった。……
「何か、詩を読んでちょうだい」と、ジナイーダは小声で言って、片肘かたひじをついた。――「わたし、あなたが詩を読むところが好きなの。あなたのは、まるで歌うみたいだけれど、それで結構よ、若々しくっていいわ。あの、『グルジヤの丘の上』を読んで。――でも、まずお座りなさいな」
 わたしは腰を下ろして、『グルジヤの丘の上』(訳注 プーシキンがカフカーズをさまよいながら、遠い恋人を思って作った抒情詩。その大意は、「グルジヤの丘の上、夜露かかり、アラグヴァの流れ、わが前にざわめく。われはわびしく楽しく、わが悲しみは明るし。わが悲しみは、ただひとり君の姿にみたされて……このわびごころ、何ものの乱し騒がすものもなし。かくて胸は、またも燃え、恋いわたる……愛さでやまぬ胸なれば。」)を朗読した。
「≪愛さでやまぬ胸なれば≫」とジナイーダは繰返した。――「そこが、詩のいいところなのね。つまり、この世にないことを、言ってくれる。しかも、実際あるものより立派なばかりでなく、ずっと真実に近いことをまで、言ってくれるのだもの。……愛さでやまぬ胸なれば――ほんとに、しまいと思っても、せずにはいられないんだわ!」彼女はまただまんだが、突然とつぜんぶるんと身をふるわして立ち上がって、「さ、行きましょう。お母さんのところに、マイダーノフが坐り込んでいるのよ。わたしにって、自分で作った叙事詩じょじしを持って来てくれたのに、ほっぽらかして来てしまったの。あの人も今頃いまごろは、きっと悄気てるわ。……でも、仕方がないのよ! やがてあなただって、わかる時が来るわ……ただね、わたしのこと、おこらないでちょうだいね!」
 ジナイーダは、せかせかとわたしの手をにぎると、先に立って駆け出した。二人は傍屋はなれに帰った。マイダーノフは、やっと印刷になったばかりの自作の詩『人殺し』を朗読しだしたが、わたしはろくに聞いていなかった。彼は四脚しきゃく短長格ヤンブを思いっきり声を引き引きがなり立てて、いんが入れかわり立ちかわり、まるで小鈴こすずのようなうつろで騒々そうぞうしい音を立てたけれど、わたしはじっとジナイーダの顔を見たまま、彼女がついさっき言った言葉の意味を、しきりに考えていた。

さらずば、見知らぬ恋がたきが
にわかに君を うばいゆきしや?

 と、いきなりマイダーノフが鼻声でわめいた時、わたしの眼とジナイーダの眼がぶつかった。彼女は伏眼ふしめになって、顔を赤らめた。彼女が赤くなったのを見ると、わたしはびっくりして、五体が冷えわたった。わたしは、もう前々から彼女のことでいていたのだが、じっさい彼女が誰かに恋しているという考えは、やっとこの瞬間、わたしの頭にひらめいたのである。
『さあ大変だ! 彼女は恋をしている!』


 わたしの本当の責苦せめくは、その瞬間しゅんかんから始まった。わたしは頭が痛くなるほど考えつめたり、思案を重ねたり、考え直したりしながら、勿論もちろんできるだけこっそりと、執念ぶかくジナイーダを見張っていた。彼女かのじょる変化が生じたことはもはや明白だった。彼女は一人で散歩に出かけて、長いこと歩き回っていた。時によると、客たちに顔を見せずに、何時間も自分の部屋に引っこもっていた。それまでは、ついぞなかったことである。わたしは突然とつぜん、ひどく目が見えだした。少なくも、見えだしたような気がした。
『あいつじゃないかしら? それとも、いっそあいつかな?』
 とわたしは、彼女の崇拝者すうはいしゃの一人からまた一人へ、せわしなく思いをせながら、胸の中で自問するのだった。なかんずくマレーフスキイ伯爵はくしゃくは、(もっとも、こんなことを認めるのは、ジナイーダのため心外の至りだったが)ほかのだれよりも危険人物のように、ひそかにわたしは思っていた。
 わたしの炯眼けいがんは、残念ながら自分の鼻の先までしか届かず、また折角のわたしの密計も、誰ひとりだましおおせることはできなかったらしい。少なくともドクトル・ルーシンは、じきにわたしの腹を見抜みぬいた。とはいえかれだって、近頃ちかごろは様子が変って、めっきりせもしたし、相変らず笑い上戸じょうごではあったものの、その笑い声はみょうにぶく、毒をふくんで、短くなったし、平生の軽い皮肉や、とってつけたような冷笑癖れいしょうへきは、我にもない神経質ないらだちに変っていた。
「ねえ君、なんだってそうしょっちゅう、ここへやって来るんです」と彼は、ある日ザセーキン家の客間で二人きりになった時、わたしに言った。(令嬢れいじょうはまだ散歩から帰ってなかったし、夫人のがみがみ声が中二階でしていた。小間使と喧嘩けんかしていたのだ)――「若いうちにせっせと勉強しとかにゃならんのに、どうしたことです?」
ぼくが家で勉強してるかどうか、あなたにはわからないでしょう」とわたしは、いささか高飛車たかびしゃに言い返したが、たじたじの気味もないことはなかった。
「何が勉強なものですか? そんなこと、君の頭にありはしませんよ。だがまあ、これ以上何も言いますまい……君の年頃では、まあ無理もないからな。ただし君の見当は、大いにくるっているですよ。この家がどういう家か、それが君には見えんのですか?」
「なんのことだか、わかりませんね」と、わたしは空とぼけた。
「わからないって? そりゃますますいかん。僕は義務として、一言いちごん君に注意します。我々甲羅こうらをへた独身ものは、ここへ来ても、さしつかえない。なんのことがあるものですか? 我々は鍛錬たんれんができてるからびくともしないです。ところが君は、まだ皮膚ひふが弱い。ここの空気は、君には毒ですよ――ほんとですとも、うっかりすると伝染でんせんしますぞ?」
「どうしてです?」
「どうもこうもあったものですか。いったい君は、いま健康ですか? 果してノーマルな状態にありますか? 君がいま感じていることは、君のためになりますか、いいことですか?」
「でも、僕が何を感じてるというんです?」と、わたしは言ったが、心の中では、なるほど医者の言う通りだと思った。
「いやいや、君は若い、まだ若い」と医者は、さもこの二つの言葉の中に、わたしに対する何かひどく侮蔑的ぶべつてきな感じがめてありでもするような、そんな言いぶりで言葉を続けた。――「ごまかそうたって駄目だめですよ。だってまだまだ、君の心にあることは、ちゃんと顔に出ているもの、ありがたいことにね。だがしかし、こんな話をしたって始まらない。第一この僕にしたって、こんな所へ来るはずはないんですよ、もしも……(医者は歯をくいしばった)……もしも、僕がこんな唐変木とうへんぼくでなかったらね。ただ一つ、僕が不思議でならんのは、君のような頭のいい人が、自分のすぐそばで起っていることに、どうして気がつかないんだろうな?」
「でも、何が起っているんです」と、わたしは素早く相手を受けて、すっかり緊張きんちょうした。
 医者は、みょうあざけるような同情の色をうかべて、わたしをじろりと見た。
「なるほど、僕も大したものだ」と彼は、ひとり言のように言った。――「すこぶるもって、この人の耳に入れとく必要のあることだて。……まあ要するに」と、そこで声を高めて、「もう一遍いっぺん言いますが、ここの雰囲気ふんいきは君にはよくない。君はここで、いい気持になっているが、油断大敵ですぞ! そりゃ温室のなかだって、やはりいいにおいはするが、そこで暮すわけにはゆかんですからね。ねえ! 悪いことは言わないから、またあのカイダーノフ先生にもどりたまえ」
 公爵夫人が入って来て、歯が痛いと医者にこぼしだした。やがてジナイーダが現われた。「そうそう」と、夫人は言い足した。――「ねえドクトル、この子をしかってやって下さいな。一日いちんちじゅう、氷水ばかり飲んでいるんですよ。それが、体にいいことでしょうかねえ、胸が弱いくせに」
「なぜ、そんなことをなさるんです?」と、ルーシンがいた。
「やったら、どうなるとおっしゃるの?」
「なんですって? 風邪かぜを引いて、死ぬかもしれませんよ」
「ほんと? まさか? でも、かまやしない――それが当然だわ!」
「おやおや!」と、医者はうなった。夫人は出て行った。
「おやおや」と、ジナイーダは口真似くちまねをして、「生きることが、そんなに面白おもしろいかしら? ぐるりを見回して御覧ごらんなさい。……どう、よくって? それともあなたは、わたしがそれさえわからない、感のにぶい女だと思ってらっしゃるの? わたしは、氷水を飲むといい気持なの。だのにあなたはこんな人生が、つかのまの満足のために危険をおかしてはならないほど大事なものだと、真顔まがおでわたしに説教なさるおつもりね。――わたし、もう幸福なんかどうでもいいの」
「つまり、その」と、ルーシンが皮肉った。――「気まぐれと自分勝手。……この二語にあなたは尽きるんですな。あなたという人は、全部この二語のうちにありますよ」
 ジナイーダは、神経質に笑い出した。
「証文の出しおくれよ、ドクトル先生。案外、目がかないのねえ。だいぶ手おくれだわ。眼鏡でも、おかけになったら? わたし今、気まぐれどころじゃないの。あなた方をからかったり、自分を笑いものにしたり……そんなこと、何が面白いものですか! 自分勝手だとおっしゃるけれど……ね、ヴォルデマールさん」と、そこで突然ジナイーダは方角を変えて、小さな足をトンと鳴らした。――「そんな憂鬱ゆううつな顔をしないでよ。わたし、人に同情されることなんか大嫌だいきらい」
 彼女は足早に出て行った。
「君には毒だ。全く毒だよ、ここの空気は、ねえ君」と、またルーシンはわたしに言った。

十一


 その晩、ザセーキン家には常連が集まった。わたしもその中にいた。
 話がマイダーノフの例の詩のことになると、ジナイーダはしんからそれをめちぎった。
「でも、よくって?」と、彼女かのじょはマイダーノフに言った。――「もし、わたしが詩人だったら、もっとほかのテーマでゆくわ。こんなこと、馬鹿ばかげた話かもしれないけれど、でもわたし時々、みょうな考えが頭にうかぶのよ。ことに夜明け方、空がバラ色や灰色になってくるころねむれずにいるような時にね。わたしなら、そうねえ……。こんなこと言って、あなたがた笑わないこと?」
「いいや、とんでもない!」と、わたしたちは異口同音いくどうおんさけんだ。
「わたしならね」と彼女は、両手を胸に組んで、をわきの方へそそぎながら、言葉を続けた。――「若いむすめ大勢おおぜい、夜中に、大きなふねに乗って――静かな河に浮んでいるところ、それを書くわ。月がえている。そして娘たちは、みんな白い着物を着て、白い花のかんむりをかぶって、歌っているの。そうね、何か聖歌のようなものを」
「わかります、わかります。それから?」と、思わせぶりな空想的な調子で、マイダーノフが言った。
「すると不意に――岸の上に、ざわめきや、高笑いや、松明たいまつや、手太鼓てだいこがあらわれるの。……それは、バッカスの巫女みこれをなして、歌ったり叫んだりして走ってくるのよ。まあ、この光景を写すのは、あなたにお任せするわ、詩人さん。……ただわたしの注文は、松明は真っ赤で、しかももうもうとけむりをふいていること。それから、巫女たちの眼が、花の冠のかげでキラキラ光って、花の冠は黒っぽくしたいわ。とらの皮や、さかずきも、忘れないでちょうだい。――それにきんだわ、金をどっさりね」
「その金は、いったいどこに使うのです?」と、マイダーノフは、平べったいかみを後ろへはらいながら、鼻の穴をひろげていた。
「どこにですって? かたにも、うでにも、足にも、どこもかしこもよ。古代の女は、くるぶしに金の輪をはめていたというじゃありませんか。そこで巫女たちは舟の娘たちを呼ぶの。娘たちの歌ごえが、ぱったりやまる。――もう聖歌どころじゃありませんものね。でも娘たちは、そのままじっと身じろぎもしないの。河の流れにされて、舟はだんだん岸へ寄って来ます。すると突然とつぜん一人の娘が、そっと立ち上がるのよ。……ここのところは、よく描写びょうしゃしなければいけないわ。月の光を浴びて、その娘が静かに立ち上がるところや、ほかの友達がびっくりする有様をね。……で、その娘が舟ばたをまたぐと、巫女たちはワッとそれを取りかこんで、真っ暗な夜闇よやみの中へ、さらって行ってしまうの。……ここは、煙がうずを巻いて、何もかもごっちゃになってしまうところを書くのよ。聞えるのは、巫女たちのキャッキャッいう声ばかり。そして、その娘の花の冠が、ぽつんと岸に残っているの」
 ジナイーダは口をつぐんだ。(『ああ! 彼女はこいに落ちたのだ』と、わたしはまた考えた)
「それだけですか?」と、マイダーノフが訊いた。
「それだけよ」と、彼女は答えた。
「それだと、大がかりな、叙事詩じょじしのテーマにはなりかねますな」と、さも勿体もったいらしくかれ指摘してきした。――「しかし、叙情詩じょじょうしの材料として、あなたのイデーを頂くとしましょう」
「ロマンティクなものですか?」と、マレーフスキイが訊いた。
「もちろん、ロマンティクなものです。バイロン風のね」
「が、ぼくに言わせると、ユーゴーはバイロンよりもいいですね」と、若い伯爵はくしゃく何気なにげなく口ばしった。――「面白おもしろい点でも上です」
「ユーゴーは第一流の作家です」と、マイダーノフは答えた。――「で、僕の友人のトンコシェーエフも、自作のイスパニア物語『エル・トロバドール』のなかで……」
「ああ、それ、あの疑問符ぎもんふが逆立ちしている本なのね?」とジナイーダがさえぎった。
「そうです。イスパニアでは、ああ書くことになっているんですよ。そこで僕の言いかけたのは、トンコシェーエフが……」
「おやおや! またあなた方の、古典主義だ浪漫ろうまん主義だという議論が、始まるのね」と、またもやジナイーダは彼を遮った。――
「それより、何かして遊ばない?……」
罰金ばっきんごっこですか?」と、ルーシンが受けた。
「いやだわ、罰金ごっこは退屈たいくつよ。比べごっこがいいわ」(この遊びは、ジナイーダが自分で考え出したものだった。何か一つ物を決めておいて、みんなでそれに似た何か別のものを考える。いちばんうまい比較ひかくを考えついたものが、褒美ほうびをもらうのである)
 彼女は窓へ歩み寄った。日はしずんだばかりだった。空には、はるか高く、細長い赤い雲が幾筋いくすじも浮んでいた。
「あの雲は何に似ていて?」と、ジナイーダは訊いて、わたしたちの答えを待たずに、自分で、
「わたし、あの雲は、クレオパトラがアントニーを迎えに行ったとき、その金塗きんぬりの船に張ってあった緋色ひいろに似ていると思うわ。ねえ、マイダーノフさん、あなたこの間、その話をして下すったわね?」
 わたしたちはみんな、『ハムレット』の中のポローニアスよろしく、いかにもあの雲はその帆に似ている、これ以上うまい比較はだれにも見つかるまい、と決めてしまった。
「でもその時、アントニーは幾つだったのかしら?」と、ジナイーダが訊いた。
「そりゃ、きっと青年だったにちがいないですよ」と、マレーフスキイが口を入れた。
「そう、若かったですな」と、自信たっぷりでマイダーノフが裏書きした。
「失礼ですが」と、ルーシンが大きな声を出した。――「もう四十をしていましたよ」
「四十を越して」とジナイーダは、すばやく一瞥いちべつを彼にくれて、鸚鵡返おうむがえしに言った。
 わたしは、まもなく家に帰った。
『彼女は恋に落ちた』と、我ともなく、わたしのくちびるはささやいた。……『だが、いったい誰に?』

十二


 日がたつにつれて、ジナイーダは、いよいよますます奇妙きみょうな、えたいの知れないむすめになっていった。ある日、わたしが彼女かのじょの部屋へ入って行くと、彼女は籐椅子とういすにかけて、頭をぎゅっと、テーブルのとがったふちしつけていた。はっと彼女は身を起したが……見れば顔じゅうべったり、なみだにぬれていた。
「まあ、あなただったの?」と、彼女は薄情はくじょう薄笑うすわらいをうかべて言った。――「こっちへいらっしゃい」
 わたしがそばへ行くと、彼女は片手をわたしの頭にのせて、いきなりかみをつかむと、ぎりぎりじ回し始めた。
「痛い……」と、やがてわたしはをあげた。
「おや! 痛いって! じゃ、わたしは痛くないの? 痛くないって言うの?」と、彼女は鸚鵡返おうむがえしに言った。
「あら!」彼女は、わたしの頭から、ほんの一ふさ、髪の毛をむしり取ったのに気がつくと、いきなり大声をあげた。――「大変なことをしてしまったわ! 許してね、ヴォルデマールさん!」
 彼女は、むしり取った髪の毛を丁寧ていねいにそろえると、自分の指に巻きつけて、っちゃな輪にんだ。
「わたし、あなたの髪の毛をロケットに入れて、いつも身につけているわね」そう言った彼女のには、相変らず涙が光っていた。――「それで少しは、あなたの気もなぐさむかもしれないわ。……じゃ、今日はこれでね」
 わたしが家に帰ってみると、不愉快なことが待ち構えていた。母が父を相手に言い合いをしていたのである。母が何やらしきりに父をなじると、父の方は例の調子で、冷やかで慇懃いんぎん沈黙ちんもくをまもっていたが、まもなく外へ出て行った。わたしには、母が何をまくし立てていたのか、聞えなかったし、それに、そんな心のゆとりもありはしなかった。ただ一つ覚えているのは、言い合いがんだあとで母がわたしを居間へ呼びつけて、わたしがしげしげと公爵夫人こうしゃくふじんのところに出入りすることについて、大いに不満の意を表し、あれはどんな卑しいこともしかねない女ユヌ・ファム・カパーブル・ド・トゥーだと、ののしったことである。わたしは母のそばへ寄って、身をかがめてその手にキスすると(これは会話を打切ろうと思う時の、わたしの常套じょうとう手段だった)、そのまま自分の部屋へもどった。
 ジナイーダの涙で、わたしはすっかり動転してしまった。わたしは、いったいどう考えたらいいものか途方とほうに暮れて、こっちが泣き出さんばかりだった。年こそ十六になっていたけれど、わたしはまだほんのあかぼうだったのである。もうマレーフスキイのことなどは、念頭になかった。ただしベロヴゾーロフは、日増しにだんだん殺気だっていって、この油断のならない伯爵を、まるでおおかみが羊をねらうような目つきでにらんでいたが、わたしときたらもう、何事も、だれの事も、てんで考えなかった。わたしは、ただぼんやりと空想にふけって、人目のないさびしい場所ばかり求めていた。とりわけ気に入ったのは、あのくずれ落ちた温室だった。わたしはよく、そこの高いへいへよじ登って、こしを下ろし、いつまでもじっとすわっていた。その自分の姿が、いかにも不幸で孤独こどくわびしげな一個の若者といった格好かっこうなので、しまいには、我と我が身がいじらしくなってくるのだった。そして、そうした悲哀ひあいに満ちた感覚が、なんとも言えずうれしかったのだ。わたしはそれに夢中むちゅうになっていたのだ! ……
 さて、ある日、わたしは塀の上に坐って、はるかかなたにながめ入りながら、かねひびきに耳をすましていたが……その時不意に、何ものか、わたしの身をかすめて過ぎたものがあった。そよ風かと思えば、そよ風でもない。さりとて、身震みぶるいでもなく、いわばそれは何かの息吹いぶきか、それとも誰かが近づいてくる気配とでも言うか、そんな感じであった。……わたしは視線を落した。すぐ下の道を、かろやかな灰色がかった服を着て、バラ色のパラソルをかたにして、急ぎ足でジナイーダが歩いていた。彼女はわたしに気がつくと、立ち止って、麦藁帽子むぎわらぼうしの縁を押し上げ、ビロウドのような眼でわたしを見上げた。
「そんな高いところで、何をしてるの?」彼女はなんだか異様な微笑びしょうを浮べていた。「そうそう」と、すぐまた言葉を続けて、「あなたはいつも、わたしを愛しているとおっしゃるわね。――そんならここまで、この道まで、飛び下りてごらんなさい。もし、本当にわたしを愛しているのなら」
 ジナイーダが、終りまで言い切らぬうちに、わたしは後ろから誰かに小突こづかれでもしたように、早くも下へ身をおどらしていた。塀の高さは三、四メートルほどあった。わたしは両足が地面に届いた拍子ひょうしに、はずみがあんまり強すぎたので、体を支えきれなかった。わたしはどさりとたおれて、一瞬間、気が遠くなった。やがて我に返ったわたしは、眼をあけないのに、すぐそばにジナイーダのいることがわかった。
可愛かわいいわたしのぼうや」と彼女は、わたしの上にかがみ込みながら言っていた。その声には千々に乱れた情愛の響きがあった。――「どうしてあんたは、こんなことができたの、どうしてわたしの言うことなんか、きく気になったの。……わたしだって、こんなに愛してるのに。……さ、お起き」
 彼女の胸は、わたしの胸のすぐそばで息づき、その両手は、わたしの頭をでていた。すると、突然とつぜん――その時なんということが、わたしの身に起ったのだろう! 彼女のやわらかなすがすがしいくちびるが、わたしの顔じゅうを、キスでおおい始めたのだ。……やがては、わたしの唇にもれたのだ。……だが、そこでジナイーダは、わたしの顔の表情からして、相変らず眼を上げずにはいるものの、もうわたしが意識を取戻とりもどしたことを察したものと見えて、素早すばやく身を起すと、こう言い放った。――
「さ、起きるのよ、向う見ずなお茶目さん。こんなほこりの中に、いつまでているつもり?」
 わたしは起き上がった。
「パラソルを取ってちょうだい」と、ジナイーダは言って、――「まあわたし、あんな所へほうり出してしまったわ。だめ、そんなにわたしの顔を見ちゃ。……なんてお馬鹿ばかさんなの、あなたは? どこか怪我けがしなかったこと? イラクサにされて、ちくちくしやしなくって? そう言っているのよ、わたしの顔を見ちゃいけないって。……まあ、この人ったら、なんにもわからないんだわ、返事ひとつしやしない」と彼女は、ひとり言のように言いえた。――「早くうちへお帰りなさい。ヴォルデマールさん。そして、奇麗きれいにしなさい。わたしのあとから、のこのこついて来たりしたら、承知しないわよ。そんなことをしたら、もう二度と再び……」
 彼女は、終りまで言いきらずに、さっさと向うへ行ってしまい、わたしは道に坐りこんだ。……足がいうことをきかないのだ。イラクサに刺された手がひりついて、背中はずきずきするし、頭はくらくらしていた。でも、その時わたしが味わったような至福の感じは、わたしの生涯しょうがいにもはや二度と再び繰返くりかえされなかった。それは甘美かんびな苦痛をなして、わたしの五体に宿っていたが、やがて法悦ほうえつはついにせきを切って、わたしはおどり上がったり、わめき立てたりした。全く、わたしはまだほんの赤ん坊だったのだ。

十三


 その日は一日いちんちじゅう、わたしはたまらないほどきとほこらかな気持だった。のみならず、ジナイーダのキスの感触かんしょくも、顔一面にありありと残っていたので、わたしは興奮に身震みぶるいしながら彼女の言葉を一つ一つ思い浮べたり、自分の思いがけない幸福を、胸の底ででいつくしんだりしていた。それで、現にそうした新しい感覚の源をなした当の彼女かのじょに会うのが、むしろおそろしくなって、できることなら会いたくない、と思ったほどであった。もうこの上、何ひとつ運命から求めてはいけない、今こそ『思いっきり、心ゆくまで最後の息をついて、そのまま死んでしまえばいいのだ』と、そんな気持がした。
 そのむくいは、てきめんで、あくる日わたしは傍屋はなれへ出かける道々、ひどい当惑とうわくを感じた。それは、自分こそ秘密を守れますぞと、他人に見せつけたがっている人間に通有の、ひか磊落らいらくの仮面などでは、とてもかくしおおせるものではなかった。ジナイーダはいささかの心の乱れも見せず、すこぶる無造作にわたしを迎えたが、ただ指を一本立てておどかす真似まねをして、どこか青あざはできなかったかといた。わたしの折角の控え目な磊落さも、ものものしい態度も、その瞬間しゅんかんに消しとんでしまったばかりか、それと一緒いっしょに、うじうじした当惑の感じもなくなった。勿論もちろんわたしは、何も特別なことを期待していたわけではないが、とにかくジナイーダの落着きはらった態度にぶつかって、まるで頭から冷水を浴びせかけられたようなていたらくだった。自分は、この人の目から見ればほんのあかぼうなのだ――と、わたしはしみじみ思い知って、ひどくつらい気持がしてきたのだ! ジナイーダは部屋のなかを行ったり来たりしていたが、わたしの顔を見るたびごとに、素早すばや微笑びしょうを浮べてみせた。とはいえ、彼女の思いがどこか遠くにあることは、わたしにはありありと見て取られた。……
『いっそ、自分の方から、昨日の話を持ち出してみようか』と、わたしは考えた。――『あんなに急いで、いったいどこへ行ったのか、それを訊いて、すっかりどろかせてしまおうか。……』とは思ったものの、わたしはただ片手をっただけで、すみの方にこしを下ろした。
 ベロヴゾーロフが入って来た。彼が来たので、わたしはうれしかった。
「実は、あなたの御用ごように立つようなおとなしい馬が、まだ見つかりませんでね」とかれは、つっけんどんな声で言った。――「フライタークのやつが、きっと一頭だけ受けあったと言うのですが、どうも信用できません。危ないものですよ」
「なぜ危ないなんて、お思いになるの」と、ジナイーダは訊いた。――「うかがいたいもんだわ」
「なぜですって? だってあなたは、馬の心得がないじゃないですか。ひょっとして、どんなことがもちあがるか、わかりませんからねえ! だがそれにしても、急に馬に乗ろうなんて、えらい気まぐれを起されたものですねえ」
「ふふ、それはわたしの勝手よ、親愛なる猛獣もうじゅうさん。そんなわけでしたら、わたし、ピョートル・ヴァシーリエヴィチにお願いするわ。……」(わたしの父は、ピョートル・ヴァシーリエヴィチという名だった。わたしは、彼女が父の名をさも気軽に、楽々と口にするのにびっくりした。まるで父ならば、いつでも彼女の御用命に応ずるように、ひびいたからである)
「おやおや」と、ベロヴゾーロフがやり返した。――「あなたは、あの人と一緒に遠乗りなさるおつもりでしたか」
「あの人とだろうと、ほかの人とだろうと、あなたの知ったことじゃなくてよ。ただ、あなたとではないことは、はっきりしているわ」
ぼくとではない」と、ベロヴゾーロフは鸚鵡返おうむがえしに――「どうぞ御随意ごずいいに。まあいいです。とにかく馬は、手に入れて差上げますよ」
「でも、よくって、牛みたいなのろくさしたのだったら、願い下げよ。よく申上げときますけど、わたしはギャロップで飛ばしたいのよ」
「ギャロップも結構でしょう。……でもそれは、マレーフスキイとですか? え、だれとなんですか?」
「おや、あの人とじゃいけなくって、軍人さん? まあ安心してちょうだい」と、彼女は言いえた。――「あんまり目にかどを立てないでね。あなたとも一緒に行くつもりよ。あなただって知ってるでしょう、――マレーフスキイなんて、今じゃわたしにゃ、ぴ、ぴーだわ!」そう言って、彼女はかぶりを振った。
「そんなことをおっしゃるのは、僕の気休めのためですね」と、ベロヴゾーロフはふてくさった。
 ジナイーダはを細めた。
「そんなことが気休めになるの? おやまあ、あきれた軍人さんだこと!」と、彼女はやがての果てに、ほかの言葉が見当らないような調子で、そう言った。――「で、ヴォルデマールさん、あなた、わたしたちと一緒にいらっしゃる?」
「僕は苦手なんです……大勢おおぜいの人前へ出るのは……」とわたしは、眼を上げずにつぶやいた。
「あなたは、差向いテータ・テートの方がいいのね?……いいわ。自由な者には自由を、救われた者には……天国を与えよだわ」と彼女は、ほっと溜息ためいきをついて言った。――「よくって、ベロヴゾーロフさん、一肌ひとはだいでちょうだいね。わたし馬は、明日るんですから」
「でもね、お金はどこから入るの?」と、公爵夫人こうしゃくふじんが、口を入れた。
 ジナイーダはまゆをしかめた。
「お母様に出して頂こうとは言やしないわ。ベロヴゾーロフさんが一時えて下さるわよ」
「立て替えて下さる、立て替えて……」と、公爵夫人はぼそぼそ言ったが、突然とつぜん、声を限りにわめき立てた。――「ドゥニャーシカや!」
「ママ、呼鈴よびりんがあげてあるじゃないの」と、令嬢れいじょうが注意した。
「ドゥニャーシカや!」と、老夫人はまたどなった。
 ベロヴゾーロフは別れを告げた。わたしも一緒に帰った。ジナイーダは、わたしを引留めなかった。

十四


 あくる朝、わたしは早く起きて、庭の木でつえを一本作ると、城門の外へ出て行った。ちょっと散歩をして、うさ晴らしをしてやれ、と思ったのである。からりと晴れた日で、日ざしは明るかったが、暑いほどではなかった。快いさわやかな風が、地上をさまよって、あらゆるものをそよがせながら、しかもざわつかせるほどではなく、適度にさやさやとたわむれていた。わたしは長いこと、山や森を歩き回った。わたしは自分を、幸福だと思っていたわけではない。現に家を出た時も、思うさま憂愁ゆうしゅうにひたりに行くつもりだったのである。――ところがやがて、青春や、ほがらかな天気や、さわやかな空気や、さっさと歩く快さや、しげった草の上にひとり身を横たえる心地ごこちや――そうしたものの方が勝ちを占めてしまった。あの忘れられぬ言葉のふしぶしや、あのキスの雨の思い出が、またもやわたしの胸にこみあげて来た。とにかくジナイーダは、わたしの思い切った勇敢ゆうかん振舞ふるまいを正当に認めずにはいられないのだ――と、そう思うと愉快ゆかいだった。……
『あの人の目には、ほかのやつらの方が、立派に見えるのだ』と、わたしは考えた。――『なあに、かまうもんか! その代り、やつらはただ、やりますと言うだけだが、ぼくは、見事やってのけたんだからな! それにあの人のためなら、まだまだどえらいことをやって見せられるんだからな』
 いろんな空想が、働き始めた。わたしは、自分が彼女かのじょを敵の手中から救い出す有様ありさまや、血まみれになった自分が彼女を牢屋ろうやからうばい出す光景や、そしてとうとう彼女の足もとで死ぬ場面を、次々に心にえがき出した。わたしは、うちの客間にかかっている絵を思い出した。それは、マレク・アデルがマティルダを奪い去るところだったが、――ちょうどその途端とたんに、まだらな大きなキツツキが現われて、ほっそりした白樺しらかばの幹をせかせかと登り始めたので、すっかりそのほうに気を取られてしまった。キツツキが幹のかげから、心配そうな顔を右に左にのぞかせる格好かっこうは、コントラバスの首の陰から楽師が首をのぞかせる様子にそっくりだった。
 それからわたしは、『白き雪にはあらねども』を歌い出したが、それがやがて、そのころはやっていた『そよ風ふけば、われ君を待つ』という歌謡かようにかわり、しばらくするとわたしは大声で、ホミャコーフの悲劇のなかの、星に呼びかけるエルマークの言葉を朗読し出した。そうかと思うとまた、多情多感な一編の詩を作ろうと野心を起して、全編の結句になるべき一行をさえ思いついた。それは、『おお、ジナイーダ! ジナイーダ!』という句だったが、結局ものにならなかった。
 そうこうするうちに、そろそろ昼飯の時刻になった。わたしは谷間へ下りて行った。細い砂の小道が、谷間をうねって、町へみちびいていた。わたしは、その小道を歩き出した。……ふと、何匹なんびきか馬のひづめの音が、後ろからにぶひびいてきた。わたしは振返ると、思わず立ち止って、ひさしのついた帽子ぼうしをぬいだ。父とジナイーダの姿を、みとめたからである。二人はならんで馬を歩ませていた。父は何やらしきりに彼女に話しかけながら、胴体どうたいをすっかり彼女の方へかたむけ、片手を馬の首についていた。父は微笑びしょううかべていた。ジナイーダは、きっとせ、くちびるみしめて、だまって父の言葉に耳を傾けていた。わたしがまず目にしたのは、この二人だけだったが、やがてすぐその後を追って、谷の曲り角から、ベロヴゾーロフの姿がぬっと現われた。外套がいとうのついた軽騎兵けいきへいの軍服を着て、あわをふいた黒馬に乗っている。駿馬しゅんめは首を振り振り、鼻息を立てて、おどりはねている。乗り手は、手綱たづなを引いたり、拍車はくしゃを当てたり、大騒おおさわぎだ。わたしは、わきへよけた。父は手綱を引いて、ジナイーダから身をはなし、彼女は静かに父を見上げた。――そのまま二人は、け去ってしまった。……ベロヴゾーロフは、サーベルをがちゃつかせて、まっしぐらにそのあとを追った。
『あいつ、えびみたいに赤くなってる』と、わたしは心に思った。――『それにひきかえ、なぜ彼女はあんなに青いんだろう? 朝いっぱい馬を乗りまわしたくせに――青い顔をしているとは?』
 わたしは歩みを二倍ほども早めて、やっと昼飯のまにあった。父はもう服を改め、顔を洗ったあとのさっぱりした気色きしょくで、母の肘掛椅子ひじかけいすのそばにこしを下ろして、持ち前のなだらかな響きのいい声で、『討論新聞ジュルナル・デ・デパ』の雑録欄ざつろくらんを読んでやっていた。母の方は、あまり身を入れずに聞いていて、わたしの姿を見ると、一日いちんちどこへ雲隠くもがくれしていたのかとたずねた。かてて加えて、どこの馬の骨だか知れないような相手と、わけのわからない場所をうろつくのは、だいきらいだよと言い足した。でも僕は、一人で散歩していたのですよ――と、わたしは答えようとしたが、ふと父の顔をうかがうと、なぜか黙ってしまった。

十五


 それから五、六日というもの、わたしはほとんどジナイーダに会わなかった。彼女かのじょは、体のぐあいが悪いと言っていたが、それでも傍屋はなれの常連が入れ代り立ち代り、かれらのいわゆる『当直』にやってくるのは、一向さしつかえなかった。ただ一人例外はマイダーノフで、彼は感激かんげきする機会がなくなると、たちまち気落ちがして、悄気返しょげかえってしまった。ベロヴゾーロフは、軍服のボタンをきちんとかけて、真っ赤な顔をして、不機嫌ふきげんすみの方にすわっていた。マレーフスキイ伯爵はくしゃく華奢きゃしゃな顔には、なんだか不気味な微笑びしょうが、絶えずただよっていた。彼は今や、まさしくジナイーダの寵愛ちょうあいを失ったので、老夫人に取入ろうと格別の勉励べんれいぶりを示し、貸馬車で夫人のおともをして、総督そうとくの所へ出かけさえした。もっとも、この遠征えんせいは失敗に終ったのみならず、マレーフスキイはいやな目にまであわされた。総督は逆手さかてをとって、彼がいつぞや土木局の連中を相手にもちあげたさる醜聞しゅうぶんを、わざわざ言い出したので、彼は弁明これ努めて、何分なにぶんにもあのころはまだ未経験だったので――と、かぶとをがざるを得なかった。
 ルーシンは、日に二度ぐらいやって来たけれど、長居はしなかった。わたしは、この間の言い合い以来、この男がいささかけむたくなったと同時に、しん底から彼にきつけられるような気持もしていた。彼はある日、わたしと一緒いっしょにネスクーチヌィ公園へ散歩に出かけたが、その時はひどく親切で愛想がよく、いろんな草や花の名前や特性を教えてくれたりしていたが、やがて突然とつぜん、それこそやぶから棒に――額をぴしゃりとたたいて、こうさけんだ。
「ああ、おれ馬鹿ばかだよ。あの人のことを、ただのコケットだと思ってたのだからなあ? どうやらこの世の中には、自分を犠牲ぎせいにすることが楽しいような連中も、あるものと見えるなあ」
「それは、なんのことですか」と、わたしはき返した。
「いや、君には何も話したくないですよ」と、き出すようにルーシンは答えた。
 ジナイーダは、わたしをけていた。わたしの顔が見えると――これはわたし自身、いやでも気づかざるを得なかったのだが――彼女は厭な気持がするらしかった。彼女は無意識に、わたしから顔をそむけた……無意識にである。それがわたしには実につらく、身を切られるような思いだった! しかし、どうにも仕方がないので、わたしはなるべく彼女の目にれないようにして、ただ遠くから彼女を見張っていることにしたが、これまた、いつもうまくゆくとは限らなかった。彼女には相も変らず、何やら不可解なことが起りつつあった。すっかり面変おもがわりがして、何から何まで、まるで別人のようになってしまった。
 なかでも、彼女に生じた変化が格別わたしの胸を打ったのは、ある暖かい、静かな日暮れのことであった。わたしは、えだをひろげた一叢ひとむらのニワトコのかげの、低いベンチに腰掛こしかけていた。わたしは、この場所が好きだった。ジナイーダの部屋の窓が、そこから見えたからである。わたしがすわっていると、頭の上の、すっかり暗くなったしげみの中で、小鳥が一羽いちわしきりにかさこそいわせていた。灰色の小猫こねこが、背中をまっすぐばして、そっと庭へしのんだ。すでに明るくはないけれど、まだいて見える空気のなかを、先陣せんじんのカブト虫たちが、重々しいうなりを立てて飛んでいた。わたしは坐ったまま窓をながめ、いつか開きはしまいかと待ち受けていた。果して、窓は開いて、ジナイーダが姿を見せた。白い服を着ていたが、彼女自身も、顔からかた、そして両手まで、真っ白なほど青ざめていた。彼女は長いこと、身じろぎもせずに、ひそめたまゆの下から、じっとまっすぐ前を、いつまでも見つめていた。そんな目つきをする彼女を、わたしはついぞ見たこともなかった。やがて彼女は、両手をかたくかたくにぎりしめ、それをまずくちびるへ、それから額へ持っていったが――そこで、突然ぱっと指をひろげると、両の耳からかみの毛をはらいのけ、さっと一振ひとふり髪を振上げたかと思うと、何か決心がついたといったふうに、頭を上から下へ大きくうなずかせ、ぱたんと窓を閉めた。
 三日ほどしてから、わたしは庭で彼女に出会った。わたしがわきへ避けようとすると、彼女の方で引止めた。
「手を貸してちょうだい」と、彼女は、以前の情愛のこもった調子で言った。――「わたしたち、長いことおしゃべりをしなかったことね」
 わたしは彼女の顔をうかがった。その眼は静かに光って、顔は、まるでもやをとおして見るように、ほほんでいた。
「まだずっと、お加減が悪いのですか」と、わたしはたずねた。
「いいえ、もうすっかりいいの」と彼女は答えて、小さなあかいバラを一輪み取った。――「すこしつかれているけれど、これもじきに直るわ」
「で、また元通りのあなたになって下さるんですね?」と、わたしは訊いた。
 ジナイーダは、バラを顔へ近づけた。すると、あざやかな花びらの照返しが、彼女のほおめたように思われた。
「ほんとに、わたし変ったかしら?」と、彼女は訊き返した。
「ええ、変りました」と、わたしは小声で答えた。
「わたし、あなたに冷たくしたわ――それは自分でもわかっているの」と、ジナイーダは言い始めた。――「けれど、あなたがそれを気にすることなんか、なかったのよ。……わたし、外に仕方がなかったんだもの。……でも、こんな話をしても始まらないわ!」
「あなたは、ぼくがあなたを愛するのが厭なんです――それなんです!」と、わたしは思わずカッとなって、陰気いんきな調子で叫んだ。
「いいえ、愛してちょうだい。けれど、前のようにではなしにね」
「というと?」
「お友達になりましょうね――それがいいのよ!」ジナイーダは、わたしにバラの花をがせて、――「ね、よくって、わたしあなたよりずっと年上なんだから――叔母おばさんにだってなれるはずよ、ほんとに。また、叔母さんでないまでも、姉さんになら立派になれるわ。そこであなたは……」
「僕は、どうせあかぼうですよ」と、わたしはさえぎった。
「ええ、そう、赤ちゃんね。けれど、可愛かわいらしい、おとなしい、利口な子だから、わたし大好きなのよ。ああ、そうそう、こうしたらいいわ。わたし、今日からあなたを、わたしのお小姓こしょうに取立ててあげるわ。そこで、お小姓というものは、御主人ごしゅじんのそばをはなれてはいけないということを、忘れてはいけませんよ。さ、これが、あなたの新しい位のしるし」と、彼女は言い足して、わたしの短い上着のボタンに、バラの花をしてくれた。――「わたしの御寵愛のしるしよ」
「僕は前には、もっと別の寵愛を受けていましたよ」と、わたしは口をとがらした。
「まあ!」と、ジナイーダは言って、横合いからわたしの顔をちらりと見た。――「この人の覚えのいいこと! いいわ、今だってかまやしないわ。……」
 そう言って、わたしの方へ身をかがめると、わたしの顔に、清らかな静かなキスを、一つしてくれた。
 わたしはそういう彼女の顔を、ほんのちらりと見上げただけだが、彼女はくるりとそっぽを向いて、「あとからついて来るのよ、お小姓さん」と言い捨てると、さっさと傍屋はなれの方へ歩き出した。
 わたしは、続いて歩き出したが、心の中で絶えず疑いまどっていた。『いったい』と、わたしは考えるのだった、――『このしとやかな、思慮しりょぶかいむすめが、これまでわたしの知っていたあのジナイーダなのかしら?』思いなしか、彼女の歩きつきまでが、前よりも静かになったような気がした。その姿もおしなべて、一層立派になって、すらりとしてきたような気がした。……
 そして、我ながらいじらしいことだが、わたしの胸の恋情れんじょうは、なんという新しい力をもって、燃え立ったことだろう!

十六


 夕食のあとで、また常連が傍屋はなれに集まって、令嬢れいじょうもその席へ出てきた。わたしにとって終生わすれがたいあの最初の晩のように、そこには全員が、一人も欠けずにそろっていた。ニルマーツキイまでが、のこのこやって来ていた。マイダーノフは、その晩イの一番にやって来たが、つまり新作の詩を持参におよんだわけだった。またもや罰金ばっきんごっこが始まったけれど、もう以前のような突飛とっぴ振舞ふるまいも、悪ふざけも、馬鹿騒ばかさわぎもなくて、――ジプシーめいた要素は消えうせていた。
 ジナイーダが、わたしたちの一座を、新しい気分のものに切りえたのだ。わたしは小姓こしょうの役目がら、彼女かのじょのそばに席をめた。そうこうするうちに、やがて彼女は罰金に当った人が自分のみたゆめの話をすることを提案したけれど、これはうまくゆかなかった。さっぱり面白おもしろくもない夢だったり(たとえばベロヴゾーロフは、愛馬にフナを食わせたが、その馬の首が木になっていた――という夢を見た)、あるいは不自然な、わざとでっちあげた夢だったりした。マイダーノフは、一編の小説をもって、我々をもてなした。そこには、アーチ形の古めかしい墓穴ぼけつが出てきたり、竪琴たてごといた天使が現われたり、物を言う花だの、はるかにただよってくるがくだの、たいした道具だてだった。ジナイーダは、終りまで話させなかった。
一旦いったんもう、作り話になったからには」と、彼女は言った。――「こんどはみんな、何か話をすることにしましょう。自分で考えた話でなくちゃ駄目だめよ」
 さて、まず第一に話をする番にあたったのは、またもベロヴゾーロフだった。
 若い軽騎兵けいきへいは閉口して、
ぼくは、話なんか考え出せませんよ!」と、わめいた。
「また、そんなつまらないことを!」と、ジナイーダは引取って、――「じゃ、たとえば、あなたがおよめさんをもらったと考えてみるのよ。そこであなたが、お嫁さんと一緒いっしょにどんな風にくらすか、それを話してみるといいわ。あなたなら、お嫁さんを閉じめてしまうでしょうね?」
「閉じ込めるです」
「で、ご自分も一緒にいるんでしょうね?」
「自分も、必ず一緒にいます」
「結構だわ。でももし、お嫁さんがそれにきて、あなたを裏切るようなことをしたら?」
「殺してしまうです」
「でも、お嫁さんがげだしたら?」
「追っかけてつかまえて、やはり殺してしまうです」
「そう。でもね、かりにこのわたしが、あなたのお嫁さんだったとしたら、どうなすって?」
 ベロヴゾーロフは、ちょっと絶句してから、
「そしたら、僕は自殺します……」
 ジナイーダは笑い出した。
「どうもあなたの歌は、ぽつんと切れてしまうわねえ」
 二番目の罰金は、ジナイーダに当った。彼女は、天井てんじょうへ上げて考え込んだ。
「じゃ、いいこと」と、彼女はやがて話し出した。――「私の考え出した話なのよ。……まず、立派な御殿ごてんを想像してちょうだい。夏の夜で、すばらしい舞踏会ぶとうかいがあるの。その舞踏会は、若い女王のおもよおしなのよ。どこもかしこも、きんや、大理石や、水晶すいしょうや、絹や、灯火ともしびや、ダイヤモンドや、花や、おこうや、あらんかぎりの贅沢ぜいたくなもので、いっぱいなの」
「あなたは、贅沢がお好きですか?」と、ルーシンがさえぎった。
「贅沢って、奇麗きれいですものね」と、彼女は答えた。――「わたしなんでも奇麗なのが好き」
「立派なものよりもですか」と、彼がいた。
「なんだか、ひねくった言いようね。よくわからないわ。まあ、邪魔じゃましないでちょうだい。とにかく、すばらしい舞踏会なの。お客も大勢おおぜいいて、それがみんな若くて、立派で、勇敢ゆうかんで、みんな夢中むちゅうで女王様にこいしているの」
「客の中に、女性はいないのですか?」と、マレーフスキイが訊いた。
「いないの。でも、ちょっと待って――やっぱり、いるわ」
「みんな不器量なんですね?」
「すばらしい美人ぞろい。でもね、男はみんな、女王に恋してるの。女王は背が高くて、すらりといい姿で、真っ黒なかみのうえに、小さなきん王冠おうかんせているの」
 わたしは、ジナイーダをちらと見た。と、その瞬間しゅんかん、彼女は我々みんなよりも、ずっと高貴な存在に思われ、その白い額からも、じっと動かないまゆからも、なんとも言えない明るい知恵ちえ威力いりょくが、におってくるような気がして、わたしは思わず、『あなたこそ、その女王だ!』と、心にさけんだほどだった。
「みんな、女王様のまわりに、ひしめき合ってね」と、ジナイーダは話を続けた。――「あらん限りのお追従ついしょうたてまつるの」
「ほう。女王様は、お追従が好きなんですね?」と、ルーシンが聞きとがめた。
「やりきれないわね、この人は! まぜっ返してばかりいて。……お追従のきらいな人が、どこの世界にあって?」
「もう一つだけ、最後にうかがいたいですが」と、マレーフスキイが口を出した。――「その女王には、夫があるのですか」
「わたし、そんなこと考えもしなかったわ。いいえ、夫なんてるもんですか」
「そうですとも」と、マレーフスキイは相槌あいづちを打った。――「夫なんて、要るものですか」
「静かにシランス!」とフランス語のからっ下手ぺたなマイダーノフが、フランス語で叫んだ。
ありがとうメルシ」と、ジナイーダはかれむくいて、――「さて女王は、そんなお追従に耳をかしたり、音楽をいたりしているけれど、その実お客のだれ一人にだって、目もくれないの。六つの大窓が、上から下まで、天井からゆかまで、すっかりあけ放たれて、その外には、大きな星くずをちりばめた暗い夜空や、大きな木々のしげった暗い庭があります。女王は、その庭に見入っているの。そこには、木立こだちのそばに噴水ふんすいがあって、やみの中でも白々しらじらと、長く長く、まるでまぼろしのように見えています。女王の耳には、人声や音楽の合間々々に、静かな水音が聞えるのです。女王は、闇に見入りながら、こんなことを考えるの――みなさん、あなた方はみんな、とうとい生れで、かしこくて、お金持です。あなた方は、わたしを取巻いて、わたしの一言一句を重んじて、わたしの足もとで死ぬ覚悟かくごでいらっしゃる。つまりわたしは、あなた方の生死を、わたしの手ににぎっているわけです。……ところが、あの噴水のそばには、あのさわさわと鳴る水のそばには、わたしの愛する人、わたしの生死をその手に握っている人が、たたずんで、わたしを待っているのよ。その人は、おごった衣裳いしょうも着ていないし、宝石もつけてはいず、誰もその名を知る人はありません。けれど、その人はわたしを待ち受けているし、また、わたしがきっと行くものと信じきっています。――ええ、わたしは行きますとも。一旦わたしが、その人のところへ行って、一緒になろうと思ったら最後、わたしを引留めるほどの力は、この世のどこにもありはしない。そこでわたしは、あの人と一緒に、あの庭の暗がりへ、木立のそよぐもとへ、噴水のさわさわ鳴るかげへ、姿を消してしまうの……とね」
 ジナイーダは口をつぐんだ。
「それは作り話ですか」と、マレーフスキイがかまをかけた。
 ジナイーダは、見向きもしなかった。
「だが諸君、いったいどんなものでしょうな」と、けにルーシンが言い出した。――「かりにもし、我々もそのお客さんの中にいて、しかもその噴水のほとりの仕合せ者のことを知っているとしたら、我々は果して、どうするだろうか」
「待って、ちょっと待って」と、ジナイーダが遮った。――「あなた方が一人々々どうなさるか、わたし自分で言ってみるわ。あなたはね、ベロヴゾーロフさん、その人に決闘けっとうを申込むわね。マイダーノフさん、あなたは、その人に当てつけた諷刺詩ふうししを書くわ。……でも、そうじゃないわ――あなたは諷刺詩が書けないから、バルビエ風の短長格の長詩でも作って、その力作を『テレグラフ』誌に発表なさるわ。それから、ニルマーツキイさん、あなたはその人から、お金を借り出すわ……じゃない、あべこべにお金を貸して、利息を取るわね。ところで、あなたは、ドクトル……」彼女は言いよどんだ。「そうねえ、あなたのことはわからないわ、どうなさるか」
「僕は侍医じいの役目として」と、ルーシンは答えた。――「その女王をいさめますな。お客どころでない非常時に、舞踏会なんか催さないようにね。……」
「なるほど、おっしゃるとおりかもしれないわね。ところで伯爵はくしゃく、あなたは?……」
「わたしは?」と、例の不気味な微笑びしょうを浮べて、マレーフスキイが鸚鵡返おうむがえしに言った。
「あなたなら、毒の入ったお菓子を、その人にすすめるわね」
 マレーフスキイの顔は、かすかに引きつって、一瞬間ユダヤ人のような表情を帯びたが、すぐ高笑いにまぎらしてしまった。
「さてそこで、ヴォルデマールさん、あなたはどうするかと言うと……」と、ジナイーダは続けたが、――「でも、もうたくさんだわ。何かほかのことをして遊びましょう」
「ヴォルデマール君は、お小姓の資格で、女王様が庭へけ出す時、その裳裾もすそ捧持ほうじするでしょうな」と、毒々しい口調でマレーフスキイが一矢いっしをむくいた。
 わたしはカッとなった。しかしジナイーダは、素早すばやくわたしのかたに手を置くと、半ば身を起しながら、ややふるえを帯びた声で、こう言い放った。
「わたし、無礼な口をきく権利なんか、差上げた覚えはございません、伯爵。ですから、このまま御退席ごたいせきを願います」そう言って、ドアをさして見せた。
「とんだことです。おじょうさん」と、マレーフスキイはつぶやいて、真っ青になってしまった。
「令嬢の言われるとおりだ」と、ベロヴゾーロフはわめいて、やはり立ち上がった。
「わたしは、ちかって言いますが、こんなこととは思いもかけなかったのです」と、マレーフスキイが続けた。――「わたしの言葉には、別にこれといったことも、ないようですし……第一、お気を悪くさせようなどという考えは、毛頭なかったのです。……許して下さい」
 ジナイーダは、冷たい一瞥いちべつを彼に投げると、冷やかな薄笑うすわらいをらした。
「じゃ、いいわ、いらしても」と彼女は、無造作に手を一振ひとふりして言った。――「わたしもヴォルデマールさんも、つまらないむかぱらを立てたものだわ。あなたは、皮肉を言うのが楽しみなのね……たんとおっしゃるがいいわ」
「許して下さい」と、もう一遍いっぺんマレーフスキイは繰返くりかえした。
 一方わたしは、今しがたのジナイーダの手の振りようを思いうかべながら、本当の女王様でも、あれ以上の威厳いげんをもって、無礼者にドアをさして見せることはできまいと、改めてまた心に思った。
 この小さな一幕のあったあとは、罰金ごっこも長続きしなかった。みんないささか気詰きづまりになってきたが、それは当のその一幕のためというより、もっと別の、あまりはっきりしないが何かしら重苦しい、ある感情のためであった。誰もそのことを口に出しこそしなかったけれど、みんなそれぞれ、自分の胸にも仲間の胸にも、そんな感情がわだかまっていることを意識していたのだ。やがて、マイダーノフが自作の詩を朗読すると、マレーフスキイは大げさな熱狂ねっきょうぶりでもってめそやした。
「こんどは先生、善良に見られたがってるんですな」と、ルーシンがわたしに耳打ちした。
 わたしたちは、まもなく散会した。ジナイーダは急に物思いにしずんでしまうし、公爵夫人は頭痛がすると言いによこすし、ニルマーツキイはリューマチが痛むと言い出す――といった始末だったからである。
 わたしは、長いことつかれなかった。ジナイーダのした話で、はげしく心を打たれたのだ。
『ほんとにあの話には、何か暗示があるのだろうか?』と、わたしは自分にたずねた。――『そしていったい誰を、そして何事を、彼女はほのめかそうとしたのだろうか? それにしても、暗示すべき事がちゃんとあるとすれば……思い切って言い出すことが、できるものかしら? いやいや、そんなはずはない』
 わたしは、火照ほてったほおを代る代るまくらへ当て変えながら、そうささやいた。……とはいえわたしは、さっきあの話をした時のジナイーダの顔の表情を思い出し……それから、ネスクーチヌィ公園でルーシンが思わず発したあの叫び声や、彼女のわたしに対する態度が急に変ったことまでも思い出して――すっかり訳がわからなくなるのだった。「その男は誰か?」これだけの言葉が、闇のなかにくっきりと印されて、わたしのの前に立っていた。まるでそれは、低い不吉な雲が頭上にれこめたみたいな気持で、わたしはその重圧をひしひしと感じながら、それが爆発ばくはつする時を、今か今かと待ち構えていた。近頃ちかごろになってわたしは、いろんなことに慣れもしたし、ことにザセーキン家では、やっとこさいろんなことを見せつけられた。彼らのふしだらさや、あぶら蝋燭ろうそくの燃えさし、欠けたナイフやフォーク、陰気いんきくさいヴォニファーチイ、尾羽おはうちらした小間使たち、当の公爵夫人の立居振舞い――そんな奇怪きかい千万な暮しぶりなんかには、もうビクともしなくなっていた。……だが、今ジナイーダの身に漠然ばくぜんと感じられるること、――それには何としても馴染なじむことができなかった。……「男たらし」と、わたしの母はいつぞや彼女のことをののしった。その「男たらし」である彼女が、わたしの偶像ぐうぞうであり、わたしの神とあがめる存在なのだ! その悪罵あくばが、わたしの胸を焼きがした。わたしはそれからのがれようと、枕に顔をめた。わたしは無性むしょうに腹が立ったが、同時にまた、噴水のほとりのあの仕合せ者になれさえしたら、どんなことでも承知してみせるどんな犠牲ぎせいでもはらってみせる、と思った。……
 体じゅうの血が燃えたぎった。『庭……噴水……』と、わたしは思った。……『よし、ひとつ庭へ出てみよう』わたしは手早く服を着けて、家から抜け出した。
 闇の夜で、木々はかすかにそよいでいた。空からは、静かな冷気が下りてきて、野菜ばたけからは、茴香ういきょうかおりが漂ってきた。わたしは、何本かの並木道なみきみちをすっかり歩いてしまった。自分の軽い足音が、わたしを当惑とうわくさせもすれば、はげましてもくれた。わたしは時々立ち止って、何ものかを待ち受けながら、自分の心臓が早鐘はやがねのように高鳴るのに耳をすました。やがての果てに、わたしは垣根かきねのそばへ行って細い棒ぐいにりかかった。と不意に――あるいは、そら耳だったろうか――わたしからつい五、六歩のところを、さっと女の姿がひらめいて過ぎた。……わたしは、闇のなかへひたと眼をこらし、息をひそめた。これは何だろう? 聞えたのは、誰かの足音だったろうか、――それとも自分の心臓の高鳴りだったろうか?「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは言ったが、舌がもつれて、ほとんど聞き取れない声だった。また何か物音がした。あれは何だろう? し殺した笑い声か?……それとも、そよぐ木の葉か?……それとも、耳のすぐそばでらされた溜息ためいきか? わたしは、こわくなった。……「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは声を低めて、また言った。
 空気は、ほんの一瞬間、さっと流れた。空には、一筋、火のような筋がきらめいた。星が流れたのだ。
『ジナイーダ?』と、わたしは訊こうとしたが、音はわたしのくちびるむなしく消えた。そして突然とつぜん、あたりのものみな、深い沈黙ちんもくに沈んでしまった。真夜中にはよくあることである。……木陰のコオロギまでが鳴りをひそめて――ただどこかの窓が、かたりといっただけだった。わたしは、帰ろうとしてはたたずみ、帰ろうとしては佇みしていたが、やがて自分の部屋へ、自分の冷えはてた寝床ねどこへ帰った。わたしは、異常な興奮を感じていた。さながら逢引あいびきに出かけて行って、結局ひとりぼっちで、他人の幸福のそばを指をくわえて通ったような。

十七


 そのあくる日、わたしはジナイーダを、ほんのちらりと見ただけだった。彼女かのじょ公爵夫人こうしゃくふじん一緒いっしょ辻馬車つじばしゃに乗って、どこかへ出かけるところであった。そのかわりわたしは、ルーシンに会った。もっともかれは、ろくろくわたしに挨拶あいさつもしなかったが。それからまた、マレーフスキイにも出会った。若い伯爵はくしゃくは、にやにや作り笑いをしながら、さも親しげに話しかけた。傍屋はなれの常連の中で、どうしたわけかこの伯爵だけは、わたしの家にうまく取り入って、母のお気に入りだったのである。もっとも父は、この伯爵を毛嫌けぎらいして、無礼なほどの丁重さであしらっていた。
「おや、お小姓君パージュ」と、マレーフスキイは口を切った。――「お目にかかれて、じつにうれしいです。あなたの美しい女王様は、何をしておられますか」
 彼のすがすがしい秀麗しゅうれいな顔が、その瞬間しゅんかんわたしには、虫酸むしずが走るほどいやだったし、おまけに彼が、人を馬鹿ばかにしたようなふざけたつきで、じっとわたしを見ているので、こっちは返事もしてやらなかった。
「君はまだ、おこっているのですか」と、彼は続けた。――「つまらんことですよ。第一、君にお小姓こしょうという名をつけたのは、ぼくじゃないんだし、それにまたお小姓というものは、まずもって女王様の付き物ですからねえ。だがしかし、失礼ながら一言いちごん御注意ごちゅういしますが、どうも君は職務怠慢たいまんですな」
「どうしてです?」
「お小姓というものは、女王様のそばをはなれてはいけないのですよ。お小姓は、女王様の一挙一動をみんな知っているべきだし、いっそ女王様の見張りをさえ勤めるべきものなんですよ」そこで声を低めて、彼は言いえた、――「昼も、夜もね」
「それは、どういう意味です?」
「どういう意味? 僕は、はっきり言っているはずですがね。昼も――夜も、ですよ。昼間はまあ、なんとかなるでしょう。日の目はあるし、人目もありますからね。ところが夜というやつは、とかくわざわいの起りがちなものでね。まあ悪いことは言わないから、夜ぐうぐうてないで、一生けんめい大きな眼をあけて、見張りをするんですね。ほら、覚えているでしょう――庭、夜なか、噴水ふんすいのほとり――そういう場所で待ちせるんですな。いまに君は、僕にありがとうを言うでしょうよ」
 マレーフスキイは高笑いをして、くるりとわたしに背を向けた。彼はおそらく、自分の言ったことを、特に重大とも思っていなかったろう。何しろ彼は、人をかつぐ名人として通っていたし、仮装舞踏会かそうぶとうかいなどで、まんまといっぱいくわせる妙技みょうぎうたわれていたからである。これには、彼という人間全体にしみとおっている無意識なうそつきぐせが、あずかって大いに力があったのだ。……彼はただ、わたしをちょいとからかおうと思っただけのことだろうが、その一言一句は猛烈もうれつな毒となって、わたしの血脈けつみゃくという血脈を走り回った。血がどっとばかり、頭へしよせた。
『ああ! そうだったのか!』と、わたしはひとりごちた。――『よし! するとつまり、僕がなんとなく庭へかされていたのも、やはり意味のないことじゃなかったのだ! いやいや、そんなことがあるもんか!』と、わたしは大声でわめいて、にぎりこぶしで胸をどんとたたいたが、そのくせ、何があってはならないのかという点になると、自分でも見当がつかなかったのである。
『マレーフスキイ御自身、庭へ出馬なさるわけかな』と、わたしは考えた。(彼がひょいと、口をすべらしたのかもしれない。そのくらいの鉄面皮てつめんぴさなら、ありあまっている彼のことだから)――『それとも、だれかほかのやつが現われるかな。(うちの庭の垣根かきねは、とても低かったから、乗りえるにはなんの造作ぞうさもなかった)――だがとにかく、僕に取っつかまったやつは、百年目だぞ! 誰にもせよ、僕にぶつからないように用心するがいい! 僕は、僕だって復讐ふくしゅうする力があることを、世間のやつらにも、裏切り者のあの女にも(とわたしは、ずばりと彼女を裏切り者と呼んだ)――思いしらせてやるぞ!』
 わたしは、自分の部屋へ戻ると、デスクの引出しから、この間買ったばかりの、イギリス製のナイフを取出して、その切れ味をためしてみた。それからまゆの根を寄せて、一点に集中した冷やかな決意をもって、それをポケットに収めた。そんなことは、別におどろくほどのことはないし、またこれが最初でもない――といった調子であった。わたしの心臓は、毒々しくたけり立って、石のようにコチコチになった。わたしは夜がふけるまで、眉をしかめたまま、くちびるをキッとみしめて、絶えず部屋の中を行きつもどりつしながら、熱しきったナイフをポケットのなかで握りしめ、何かしらすさまじい出来事にたいする心構えを、あらかじめ整えていた。この新しい、ついぞ味わったこともない感覚は、わたしをわせたばかりか、陽気にさえしたので、肝心かんじんのジナイーダのことは、ほとんど考えに上らないほどだった。わたしの念頭には、絶えずこんな文句がちらついていた。
 ――アレーコ、若いジプシー。――「どこへ行く、この色男め? そのまま寝ていろ……」それから、「まあ、あなた血だらけじゃないの! ……なんてことをしたの?」……「なんにも、しやしない!」(訳注 プーシキンの叙事詩『流浪の民』より
 なんという残忍ざんにん微笑びしょううかべながら、わたしはこの『なんにも』という句を、繰返くりかえしたことだろう!
 父は家にいなかった。しかし、この間からほとんどしょっちゅう、内攻ないこうしたいらだちの状態でいる母は、わたしのただ事でない様子に目をつけて、夜食の時、わたしにこう言った。
「何をお前、そうふくれ返っているんだね? まるでネズミが、ひきわり麦をねらってるみたいにさ」
 わたしは返事の代りに、ほんのお付合いににやりと笑ってみせて、『この気持を、親が知ったらなあ!』と考えた。十一時が打った。わたしは自分の部屋へ引きとったが、服はがずにいた。わたしは、真夜中を待っていた。やがて、十二時が打った。『さあ、潮時だ!』と、わたしは歯を食いしばりながらささやいて、上着のボタンを上まで掛け、御丁寧ごていねいに両のそでをたくし上げて、庭へ出かけて行った。
 わたしはあらかじめ、見張りの場所を決めていた。わたしたちの領分とザセーキン家の領分との地境じざかいを成している垣根が、共同のへいにぶつかっている庭のはずれに、もみの木が一本、ぽつんと立っていた。その低くしげった枝の下に立っていれば、夜のやみがゆるす限りは、あたりで起ることの一切いっさいが、よく見えるのだった。そこには、一筋の小道がうねっていて、それがいつも、へんに神秘めいてわたしには見えた。というのはその小道が、ちょうどその場所で人が乗り越えたらしい足跡あしあとの残っている垣根の下を、へびのようにけて、アカシアばかりでできている円い四阿あずまやへ、通じていたからである。わたしは樅の木へたどり着くと、その幹にりかかって、見張りを始めた。
 前の晩と同じく、静かな夜だった。しかし、空には雨雲が減って、灌木かんぼくの茂みの形のみならず、背の高い草花のかげまでが、一層はっきり浮んでいた。待ち構える身にとって、最初の幾瞬間いくしゅんかんつらかった。ほとんどおそろしいくらいだった。覚悟かくごはすっかりできていたけれど、さてどういう行動に出たものか、それだけが心がかりだった。『どこへ行くのだ? 止れ! 白状しないと、殺しちまうぞ!』と、どなりつけてやろうか。それとも、ひと思いにりつけてやろうか。……ちょっと音がしても、えだや葉がカサリと鳴っても、さやいでも、それが一々わたしには何か意味ありげに、ただ事でないように聞えた。……だんだん覚悟ができてきた。……わたしは上体を前へ乗り出した。……ところが、半時間たち、一時間たつうちに、わたしの血潮はしだいに静まり、冷めていった。こんなことをしたって無駄骨むだぼねだ、我ながらいささか滑稽こっけいなくらいだ、これはてっきりマレーフスキイのやつがいっぱい食わしたのだ――という意識が、じりじりと胸の中へしのんで来た。わたしは待ち伏せの場所を離れて、庭をぐるり一回りしてみた。まるでわざとのように、ほんの葉ずれほどの音さえ、どこにもしなかった。何もかも、しんと静まり返って、うちの犬までが、木戸のそばに丸くなってねむっていた。わたしは、温室のくずれ残りによじ登った。遠い野原がの前にひらけ、この間ジナイーダに出会った時のことが思い出されて、わたしは物思いにしずみ始めた。……
 わたしは、ぎくりとした。……どこかでギイと戸のあく音がして、それから小枝の折れる音が、かすかにしたような気がしたのだ。わたしは、ふたびで崩れ残りから跳びおりると、――その場に立ちすくんでしまった。すばやい、かろやかな、それでいて用心ぶかい足音が、はっきりと庭の中にひびいていた。だんだんわたしの方へ近づいてくる。『さあ、来た。……いよいよやって来たぞ!』という考えが、わたしの心臓をかすめた。わたしは、引っつったようにナイフをポケットから抜き出すと、ぐいとそれを開いた。――何か赤い火花のようなものが、眼のなかでくるくる回りだし、恐ろしさとにくさとで、頭の毛がもずもずうごめいた。……足音は、まっすぐわたしの方へ進んで来る。わたしは、そろそろこしを落して、足音に向って身構えた。……男の姿が現われた。……南無三なむさん! それはわたしの父だった。
 わたしは咄嗟とっさに見分けがついた。父は全身すっぽり黒マントにくるまり、帽子ぼうし目深まぶかにおろしていたが、それでは包みかくせなかった。彼は爪先立つまさきだちで、そばを通り過ぎた。わたしには気がつかなかった。わたしは、何に身をかくしていたわけでもないけれど、地面にいつくばらんばかりに小さく縮こまっていたのである。嫉妬しっとにかられて、人殺しの覚悟までしていたオセロは、突如とつじょとして小学生に化してしまった。……思いもかけぬ父の出現に、わたしはびっくり仰天ぎょうてんのあまり、彼がどこからやって来て、どこへ姿を消したのか、初めは気がつかなかったほどであった。わたしがやっと身をばして、『なんだってお父さんは、よる夜中に庭なんぞ歩くんだろう』と考えたのは、再びあたりが、しんと静まり返った時であった。恐ろしさのあまり、わたしはナイフを草むらに落してしまったが、それをさがすどころではなかった。ずかしくてならなかったのだ。
 わたしは一遍いっぺんに酔いがさめた。とはいえ、家へもど途中とちゅうで、わたしはやはり、ニワトコのかげの例のベンチのそばへ行って、ジナイーダの寝室しんしつの小窓を見上げた。すこし反り返っている何枚かの窓ガラスは、夜空から落ちるかすかな光を受けて、ぼうっと青みを帯びていた。と不意に、その色が変り始めた。……内側から、――そう、わたしは見たのだ、この眼ではっきり見たのだ――白っぽい巻きカーテンが、そっと用心ぶかく下ろされて、窓がまちのところまで下りきってしまうと、そのままじっと動かなくなった。
「これはいったい何事だろう?」と、いつのまにか自分の部屋にい戻っていたわたしは、ほとんど無意識に、そう声に出して言った。――「ゆめなのか、偶然ぐうぜんなのか、それとも……」
 そこで突然とつぜんあたまに浮んだ憶測おくそくは、あまりにも生々しく、あまりにも異様なものだったので、わたしはどだい受付ける勇気もなかった。

十八


 あくる朝わたしは、頭痛をおさえながら起き出した。ゆうべの興奮は消えていた。その代り、重くるしい疑惑ぎわくと、まだ身に覚えたこともない――まるでわたしの中で何ものかが息を引き取ろうとしているような、一種異様なわびしさが、わだかまっていた。
「なんだって君は、脳みそを半分き取られたうさぎみたいな顔をしているのですね?」と、出会いがしらにルーシンが言った。
 朝飯のとき、わたしは父の様子や母の顔色を、こっそりうかがった。父は、いつものとおり落着きはらっていたが、母は例によって、内心いらいらしていた。わたしは、父が時々出すくせで、打解けてわたしに話しかけはしまいかと心待ちにしていた。……けれど父は、つね日頃ひごろの例の冷たいお愛想をすら、言ってはくれなかった。
『すっかりジナイーダに話してしまおうか?』と、わたしは考えた。……『こうなったからには、どっちみち同じじゃないか――どうせ二人の間は、きれいにお仕舞しまいなんだもの』
 わたしは彼女かのじょのところへ出かけて行ったが、肝心かんじんの話を切り出すどころか、雑談さえ思うようにできない始末だった。公爵夫人こうしゃくふじんの生みの息子むすこが、ペテルブルグから帰省して来たのである。幼年学校の生徒で、十二ぐらいの子だった。ジナイーダはこの弟を、早速さっそくわたしの手にあずけた。
「さあ、よくって」と、彼女は言った。――「わたしの可愛かわいいヴォロージャ(彼女がわたしを愛称で呼んだのは、これが初めてだった)、あなたのいい仲間ができたわ。この子もやっぱり、ヴォロージャっていうのよ。どうぞ、可愛がってやってちょうだい。まだ野育ちだけれど、気だてはいいのよ。ネスクーチヌィ公園でも見せてやって、一緒いっしょに散歩して、目をかけてやって下さいね。ね、いいでしょう、そうして下さるわね? あなたも、ほんとにいい人なんですもの!」
 と言って、彼女が両手をやさしくわたしのかたにかけたので、わたしはすっかりまごついてしまった。この少年が来たおかげで、わたしまでが子供に成り下がったわけである。わたしはだまって、幼年学校の生徒をながめた。向うもやはり無言のままわたしを見つめた。ジナイーダは、ホホホと笑い出して、わたしたち二人を、どすんとぶつけ合わした。
「さ、き合うのよ、いい子だから!」
 我々は抱き合った。
「どうです、庭を案内しましょうか?」と、わたしは幼年学校の生徒にいた。
「は、どうぞ」とかれは、いかにも幼年学校の生徒らしい、しゃがれ声で答えた。
 ジナイーダはまた笑い出した。……そのひまにわたしは、彼女の顔にこれほど艶麗えんれいあからみのさしたことは、ついぞなかったことに気がついた。
 わたしは、幼年学校の生徒と一緒に出かけた。うちの庭には、古いブランコがあった。わたしは彼を細い板ぎれにすわらせて、すぶってやり始めた。彼は、はばの広い金モールのついた、新調らしい厚地のラシャの制服を着て、身じろぎもせず坐ったまま、しっかりつなにつかまっていた。
えりのボタンでもはずしたらどうです?」と、わたしは言ってやった。
「いいであります、慣れていますから」と彼は言って、咳払せきばらいをした。
 彼は姉さんに似ていた。とりわけがそっくりだった。わたしは、この少年の面倒めんどうを見てやるのが楽しくもあったけれど、同時にまた、相も変らぬうずくようなわびしさが、そっとわたしの胸をむのであった。『ああ、これでもう、ぼくはすっかりあかぼうだ』と、わたしは思った。――『ところが昨日は……』
 わたしは、ゆうべナイフを落した場所を思い出したので、そこへ行って拾い上げた。幼年学校生は、それをねだり取って、ウドの太いくきを折ると、それでふえけずりあげ、ぴゅうぴゅうき出した。オセロもやはり、ちょっと吹いてみた。
 だがその代り、その夕方になると、この同じオセロが、ジナイーダの胸に抱かれて、どんなに泣いたことだろう! それは彼女が、庭のすみでオセロを見つけ出して、なぜそんなに悲しそうにしているのかと、たずねた時のことである。するとわたしのなみだが、おそろしい勢いでほとばしり出たので、彼女はびっくりしてしまった。
「どうしたの? いったいどうしたの、ヴォロージャ?」と、ジナイーダは繰返くりかえしたが、わたしが返事もしないし泣きやみもしないのを見て、わたしのびしょれのほおにキスしようとした。が、わたしは顔をそむけて、むせび泣きのひまから、こうささやいた。――
「僕は、すっかり知っています。なぜあなたは、僕をおもちゃにしたんです?……なんのために、僕の愛が入り用だったんです?」
「申し訳ないわ、ヴォロージャ……」と、ジナイーダは言った。――「ああ、ほんとに申し訳ないわ……」と続けて、両手をぎゅっとにぎり合せた。――「わたしの中には、悪い、後ろ暗い、罪ぶかいものが、なんていっぱいあるんでしょう。……でも今はわたし、あなたをおもちゃになんかしていないわ、あなたを愛しているの、――それが、なぜ、どういうふうにかっていうことは、あなたにはゆめにも想像がつかないわ。……それはそうと、何をいったいあなたは知ってらっしゃるの?」
 何をわたしが彼女に言えたろう? 彼女はわたしの前に立って、じっとわたしを見つめていた。そしてわたしは、彼女に見つめられるが早いか、たちまち頭から足の先まで、すっかり彼女のとりこになってしまうのだ。……それから十五分すると、わたしはもう幼年学校生やジナイーダと、おにごっこをしていた。わたしは泣かずに、笑っていたけれど、泣きはらした目蓋まぶたは、笑うたんびに涙をこぼすのだった。わたしの首っ玉には、ネクタイの代りに、ジナイーダのリボンが結んであった。そしてわたしは、首尾しゅびよく彼女の胴をつかまえるたびに、歓喜のさけびをあげるのだった。彼女はわたしを、思うままにあやつっていたのだ。

十九


 例の失敗におわった夜中の遠征えんせいから、一週間の間にわたしの経験したことを、くわしく話してみろと言われたら、わたしはすこぶる閉口するに違いない。それは、まるで熱病にでもかかったような異様な時期で、えたいの知れぬ混沌こんとんを成しており、この上もなく矛盾むじゅんした感情や、想念や、疑惑ぎわくや、希望や、喜びや、なやみが、つむじ風のようにうずまいていた。わたしは、自分の心の中をのぞいて見るのがこわかった。(ただし、十六さいの少年にも、自分の心の中が覗きこめるものとすればだが)何事にせよ、はっきりき止めるのが怖かった。わたしはただ、手っとり早く一日を晩までくらそうと、あせっていた。その代り、夜はぐっすりねむった。……子供っぽい無分別も、この際だいぶ役に立った。わたしは、自分が人から愛されているかどうか、知ろうともしなかったし、人から愛されていないと、はっきり自認じにんするのもいやだった。わたしは父をけていたが、ジナイーダを避けることは、わたしにはできなかった。……彼女かのじょの前へ出ると、まるで火に焼かれるような思いがするのだったが……わたしを燃やしかしてゆくその火が、いったいどういう火かということを、別に突き止めたいとも思わなかったのは、ただそうして熔けて燃えてゆくのが、わたしにはなんとも言えずいい気持だったからである。わたしは刻々の印象に、身を任せっぱなしにした。そして自分に対してずるく立ち回って、思い出から顔をそむけたり、前途ぜんとに予感されることに目をつぶったりした。……こうした責苦せめくは、ほうっておいてもおそらく長くは続かなかったろうが……そこへ降ってわいた出来事が、まるで落雷らくらいのように一挙にすべてに落着らくちゃくをつけ、わたしの道を切りえてくれたのである。
 ある日のこと、かなり長い散歩から、昼飯に帰ってみると、おどろいたことには、わたしは一人きりで食事をしなければならぬことがわかった。父は外出しているし、母は気分が悪いから何も食べたくないと言って、寝室しんしつにとじこもっていたのだ。従僕じゅうぼくたちの顔色から、わたしは何かしら変ったことが起きたなと察した。……従僕たちに問いただしてみる勇気は出なかったが、幸いわたしには、食堂係の若者でフィリップという仲好なかよしがいた。これは熱烈ねつれつな詩の愛好者で、またギターの名人だ。――わたしは、この男にいてみることにした。さてかれの話によると、父と母の間には、すざまじい一場が演ぜられたのだった。(それは一言ひとこと残さず女中部屋へ筒抜つつぬけに聞えた。フランス語をだいぶ使っていたが、小間使のマーシャというのが、パリから来た裁縫師さいほうしのところに五年もいたので、全部わかったのである)母は父の不実を責め、となり令嬢れいじょうとの交際をなじった。父は最初、なにかと弁解していたが、やがてカッとなって、しっぺ返しに、『どうやら奥様おくさまのお年のことで』むごい言葉を投げつけたので、母は泣き出してしまった。母はまた、公爵夫人こうしゃくふじんにやったとかいう手形のことを持ち出して、さんざん老夫人をこきおろし、ついでに令嬢の悪口までならべたてたので、父はそこで何やらおどかし文句をたたきつけたそうだ。
「こんな騒動そうどうになりましたのも」と、フィリップは言葉を続けた――「もとはと言えば、無名の手紙からでございます。だれが書いたものやら、それはわかりませんが、それさえなければ、こんな事柄ことがら表沙汰おもてざたになるわけは、少しもありませんですよ」
「じゃ、やっぱり、何か事柄があったんだね」とわたしは、やっとのことで言ったが、そのにわたしの手足は冷たくなり、胸のずっと奥の方で何かわななき出したものがあった。
 フィリップは意味ありげに目配せして、「ありましたです。こういう事は、かくしおおせるものじゃございません。旦那様だんなさまも今度という今度は、ずいぶん用心ぶかくやんなさいましたけれど、――やはりまあ早い話が、馬車をやとうとか何とか……とにかく人手なしではまないわけでしてね」
 わたしは、フィリップを下がらせると、ベッドの上にころがった。わたしは、むせきに泣きもしなかったし、絶望のとりこにもならなかった。また、そんな事がいったいいつ、どんな風に起ったのかと自問してみるでもなかった。どうして自分があらかじめ、もっとずっと前に察しがつかなかったものかと、それを不審ふしんに思うでもなかった。父をうらめしいとさえ思わなかった。……わたしの知った事実は、とうていわたしの力のおよばないことであった。この思いがけない発見は、わたしをしつぶしてしまったのである。……一切いっさいは終りを告げた。わたしの心の花々は、一時いちどきに残らずもぎ取られて、わたしのまわりに散り敷いていた。――投げ散らされ、みにじられて。

二十


 あくる日になると母は、町へ引揚ひきあげると言い出した。その朝、父は母の寝室しんしつへ入って、長いこと二人きりでいた。父が何を言ったか、だれも聞いた者はないけれど、とにかく母はもう泣かなくなった。母は気持が落着いて、食事を命じたりしたが、とはいえやはり姿を見せず、決心を変えもしなかった。忘れもしない――わたしはその日は一日いちんちじゅう散歩ばかりしていた。もっとも庭へは足を入れず、傍屋はなれを一度だって振向ふりむきもしなかった。ところがその晩になって、わたしはおどろくべき出来事をこので見ることになった。父がマレーフスキイ伯爵はくしゃくうでをとって、広間を横ぎって玄関げんかんの方へ連れ出し、従僕じゅうぼくのいる前で、冷やかにこう言い渡したのである。――
「二、三日まえ、ある家であなたは、ドアをさして見せられたことがありましたな、伯爵。ところで今わたしは、あなたと別に話し合いをしようとは思いませんが、恐縮きょうしゅくながらこれだけは申上げておきます――もしあなたが、この上また宅へお見え下さるようなことがあったら、わたしはあなたを窓からほうり出しますよ。わたしには、あなたの筆跡ひっせきが気にくわんのです」
 伯爵は頭を下げて、歯をくいしばると、小さくなって姿を消した。
 モスクワへ引揚げる準備が始まった。アルバート街にわたしたちの家があったのである。おそらく父自身にしても、今ではもう別荘べっそうに残っていたくはなかったろう。ただし、父は、この際になってまた一悶着ひともんちゃくもちあげないように、首尾しゅびよく母を説きつけたらしかった。万事はおだやかに、ゆっくりと運んだ。母は公爵夫人にわざわざ人をやって、健康がすぐれぬため出発まえにお目にかかれず、まことに残念に思いますと挨拶あいさつさせた。わたしは狂人きょうじんのように、ふらふら表を歩き回って、一刻も早くこんなさわぎがおしまいになってくれればいいと、そればかり待ち望んでいた。ただ一つだけ、わたしの念頭にこびりついてはなれぬ想念があった。それは彼女かのじょが、あの若いむすめが――しかも、とにもかくにも公爵令嬢れいじょうともあろう人が、現にわたしの父がひとでないことは承知でいながら、また、よしんばあのベロヴゾーロフにしろ誰にしろ、結婚けっこんの相手にこと欠かない身でありながら、どうしてあんな思い切ったまねをしたのだろう――ということであった。いったい何をあてにしていたのだろう? みすみす自分の前途ぜんとを台なしにするのが、どうしておそろしくなかったのだろう? そうだ、とわたしは思った、――これがこいなのだ、これが情熱というものなのだ、これが身も心もささつくすということなのだ。……そこでふと思い出されたのは、いつかルーシンの言ったことである――『自分を犠牲ぎせいにすることを、快く感じる人もあるものだ』
 ひょいとわたしは、傍屋はなれの窓の一つに、青白いものがぽつんとうかんでいるのを目にした。……
『あれはジナイーダの顔じゃないかしら』と、わたしはふっと思ったが……果してそれは彼女の顔だった。わたしは、もう我慢がまんがならなかった。わたしは彼女に最後のいとまも言わずに、このまま別れてしまうにしのびなかった。わたしは折りをうかがって、傍屋へ出かけて行った。
 客間にはいると、公爵夫人が例によって歯ぎれの悪い、だらしのない挨拶でわたしを迎えた。
「どうしたことなの、ぼっちゃん、お宅がこんなに早く引揚げなさるなんて?」と夫人は、両方の鼻の穴へ煙草たばこみながら言った。わたしはその顔を見て、ほっと胸が軽くなった。あのフィリップの言った手形という言葉が、ひどく気になっていたのである。ところが彼女は、そんなことはほども考えてはいない……少なくともわたしには、その時そんなふうに見えたのだ。ジナイーダが、となりの部屋から姿を現わした。黒い服を着て、かみきだして、青い顔をしている。彼女は無言のまま、わたしの手をとると、自分の部屋へ連れて行った。
「あなたの声がしたので」と、彼女は口をきった。――「すぐ出て行ったのよ。あなたはこんなに簡単に、わたしたちを捨てて行けるのね、意地悪な子!」
ぼくは、お別れに来たんです、おじょうさん」と、わたしは答えた。――「たぶん、もうお目にかかる時はないでしょう。お聞きおよびのことでしょうが、わたしたちは引揚げるのです」
 ジナイーダは、じっとわたしを見つめた。
「ええ、聞いたわ。来て下すってありがとう。もうお目にかかれないんじゃないかと思っていたのよ。わたしのこと、悪く思わないでね。時々あなたを、いじめたけれど、でもわたし、あなたの思ってらっしゃるほどの女でもないのよ」
 彼女はくるりと向うをむいて、窓にもたれた。
「ほんとに、わたし、そんな女じゃないの。わたし知っててよ、あなたがわたしのことを、悪く思ってらっしゃることぐらい」
「僕が?」
「そう、あなたが……あなたがよ」
「僕が?」と、わたしは悲しげに繰返くりかえした。そしてわたしの胸は、うちつことのできない名状すべからざる陶酔とうすいにいざなわれて、あやしくふるえ始めた。「この僕が? いいえ信じて下さい、ジナイーダ・アレクサンドロヴナ、あなたがたとえ、どんなことをなさろうと、たとえどんなに僕がいじめられたろうと、僕は一生涯いっしょうがいあなたを愛します、崇拝すうはいします」
 彼女はすばやくわたしの方へ向き直って、両手を大きくひろげると、わたしの頭をきしめて、熱いキスをわたしにあたえた。その長い長い別れのキスが、誰を心あてにしたものか、神ならぬ身の知るよしもなかったけれど、わたしはむさぼるように、そのあまさを味わった。わたしはそれが、もはや二度と返らぬことを知っていたのだ。「さよなら、さよなら」と、わたしは繰返した。……
 彼女は、わたしをりもぎって出て行った。わたしも外へ出た。外へ出ながら、自分の胸中を去来した感情を、わたしは筆に伝えるだけの力がない。わたしは、またいつかそれが繰返されることを望みはしなかった。とはいえ、もしついぞ一度もそのキスの味わいを知らなかったら、わたしは自分をよくよくの不仕合せ者と思ったことだろう。
 わたしたち一家は、町へ引揚げた。わたしは、なかなか過去とえんを切ることができなかったし、そう手っとり早く勉強にかかることもできなかった。心の痛手いたでえるまでには相当の時間がったのである。とはいえ、父その人に対しては、わたしは少しも悪い感情をいだいていなかった。むしろ逆に、父はわたしの目に、一層大きな人物として映ずるふしもあったのである。……この矛盾むじゅんは、心理学者どもが、なんとでも勝手に解釈するがいいのだ。
 ある日、わたしは並木道なみきみちを歩いていると、ひょっくりルーシンにぶつかったので、とびあがるほどうれしかった。わたしはかれのまっすぐな、かざのない性質が好きだったし、かてて加えて、この久しぶりの面会が、わたしの胸に呼びさましてくれた追憶ついおくのおかげで、いやが上にも彼はなつかしい人物だったわけである。わたしは、その前へ飛んで行った。
「よう、これは!」と、彼は言って、まゆの根を寄せた。――「なるほど、君だったんですね! まあちょいと、顔を見せて下さいよ。相変らずの黄いろい顔だが、さすがにの中に、一頃ひところの無分別さだけはなくなりましたね。やっと愛玩用あいがんようの小犬じゃなくて、一人前の男に見えますよ。いや結構、そこでどうです、勉強していますか?」
 わたしは、溜息ためいきをついた。うそをつくのはいやだったし、さりとて本音をはくのはずかしかった。
「なあに、いいですよ」と、ルーシンは言葉を続けた。――「びくびくすることはないです。肝心かんじんなのは、しゃんとした生活をして何事によらず夢中むちゅうにならないことですよ。夢中になったところで、なんの役に立ちます? 波が打ちあげてくれるところは、ろくでもない場所に決ってますよ。人間というものは、たとえ岩の上に立っているにしても、やはり立つのは自分の両足ですからなあ。僕はこのとおり、どうもせきが出ていかんです。……ところでベロヴゾーロフは――あなた、何かうわさを聞きましたか?」
「なんですか? 聞きませんが」
「ゆくえ不明なんです。カフカーズへ行ったという話だが、君みたいな若い人には、全くいい教訓ですな。要するに、潮時を見て引揚げること、あみを破ってけ出すことが、できないからですよ。君はどうやら、無事にげ出したらしいが、また網に引っかからないように用心しなさいよ。じゃ、さようなら」
『引っかかるもんか』と、わたしは思った。……『もう二度と再び、あの人には会わないんだ』
 ところがわたしは、もう一度ジナイーダを見かける運命にあったのだ。

二十一


 父は毎日、馬に乗って外へ出かけた。かれ赤栗毛あかくりげの、すばらしいイギリス馬を持っていた。すらりと細長い首をして、よくびたあしをして、つかれを知らぬ荒馬あらうまだった。その名を、「いなずまエレクトリーク」といって、父のほかには誰一人だれひとり、乗りこなす人はなかった。
 ある日のこと、父は久方ぶりの上機嫌じょうきげんで、わたしの部屋へ入ってきた。彼はこれから馬で出かけるところで、ちゃんと拍車はくしゃをつけていた。わたしは、一緒いっしょに連れて行って下さいとせがんだ。
「まあそれより、馬とびでもして遊んだらいいだろう」と、父は答えた。――「おまえのうまじゃ、とてもついてられまいからな」
「ついて行けますよ。僕も拍車をつけるから」
「ふむ、まあいいだろう」
 わたしたちは出発した。わたしの馬は、むく毛の若い黒馬で、脚も丈夫じょうぶだし、かんも相当つよかった。もっとも、エレクトリークが早足トロットいっぱいに走り出すと、わたしの馬は全速力を出さなければならなかったが、とにかくわたしは食い下がって行った。わたしは、父ほどの乗り手を見たことがない。その馬上の姿は実に美しく、無造作に楽々と乗りこなしているところは、くらの下の馬までが感じ入って、乗り手をほこりとしているように見えた。わたしたちは、並木通なみきどおりを片っぱしから乗りつくして、処女おとめはらもしばらく乗り回し、垣根かきねいくつかして(初めは跳び越すのがこわかったけれど、父が臆病者おくびょうもの軽蔑けいべつするので、やがてわたしも怖がらなくなった)、モスクワ川を二度もわたった。それでわたしは、もうそろそろ帰るのだろうと思った。ましてや当の父が、わたしの馬の疲れたことに目をとめたからには、なおさらのことだった。ところが父は、いきなりわたしのそばから馬首を転じると、クリミア浅瀬あさせからわきへそれて、河岸かしづたいにまっしぐらに飛ばし始めた。わたしは懸命けんめいにあとを追った。古丸太が山のように積み上げてある所までくると、父はひらりとエレクトリークからとび下りて、わたしにも下りるように命じた。そして、自分の馬の手綱たづなをわたしにあずけると、しばらくその丸太積みのそばで待っているように言いつけて、自分は細い横町へ折れるなり、姿を消してしまった。
 わたしは、二頭の馬を引っぱって、エレクトリークをしかりつけながら、河岸を行ったり来たりし始めた。エレクトリークは歩きながら、ひっきりなしに頭をりもぎったり、どうぶるいをしたり、鼻を鳴らしたり、いなないたりした。わたしが立ち止まると、左右のひづめでかわるがわる土をったり、けたたましい声を立てて、わたしの痩せ馬の首ったまにみついたりした。要するにまあ、あまやかされ放題の純血種ピュール・サンらしく振舞ふるまったわけである。父はなかなかもどって来なかった。川からは、いやに湿しめっぽい風がいてきた。ぬか雨が音もなく降り出して、さっきからわたしがさんざんそばをぶらついて、今ではもうきしてしまった馬鹿ばかげた灰色の丸太の山に、べた一面ちっぽけな黒ずんだ点々をつけた。わたしは心細くなってきたが、父はやっぱり戻って来ない。フィンランド人のおまわりさんが一人、上から下までやはり灰色の服を着け、つぼみたいな格好かっこうの、おそろしく大きな古くさい筒形帽子つつがたぼうしをかぶり、ほこ形の警棒を小脇こわきにして、(それにしても、なんだって巡査じゅんさがモスクワ川の岸になんぞいるのだろう!)わたしに近づいてきた。そして、ばあさんじみたしわだらけの顔をわたしに向けると、こう言った。――
「あんた馬なんか連れてこんな所で、何してるんですね、ええ、ぼっちゃん? およこしなさい、持っていてあげるから」
 わたしは返事をしなかった。彼は煙草たばこをねだった。この男からのがれたさに(それにまた、待ち遠しさにえかねもして)、わたしは父の立ち去った方角へ五、六歩あるいた。それから、その横町をはずれまで行って、角を曲ると、はたと立ち止った。そこの往来を、ものの四十歩ほど行った先の所に、木造の小さな家のあけはなされた窓に向って、背中をこちらへ向けながら、父が立っていたのである。父は胸を窓がまちにもたせていた。家の中には、カーテンに半ばかくれながら、黒っぽい服を着た女がすわって、父と話をしている。この女が、ジナイーダだった。
 わたしは立ちすくんでしまった。全くのところ、そんなことは思いもかけなかったのである。わたしのしかけた最初の動作は、げ出すことだった。『父は振返ふりかえるかもしれない』と、わたしは考えた。――『そしたら、もう万事休すだ』……けれど、不思議な感情が――好奇心こうきしんよりも強く、嫉妬しっとなどよりまだ強く、恐怖きょうふよりも強い感情が、わたしを引止めた。わたしは、じっと目をこらし始めた。一生けんめいみみを立てた。父は、しきりに何やら言い張っているらしかった。ジナイーダは、いっかな承知しない。その彼女かのじょの顔を、今なおわたしは目の前に見る思いがする。――悲しげな、真剣しんけんな、美しい顔で、そこには心からの献身けんしんと、なげきと、愛と、一種異様な絶望との、なんとも言いようのないかげがやどっていた。そうとでも言うほかには、わたしは言葉を考えつかない。彼女は、「ええ」とか「いいえ」とかいったたぐいの、短い言葉で受け答えしていて、を上げずに、ただほほんでいた。――従順な、しかもかたくなな微笑びしょうである。この微笑を見ただけでもわたしは、ああ、もとのジナイーダだなと思った。
 父はひょいとかたをすくめて、帽子をかぶり直した。それはいつも決って父がいらいらし出したしるしであった。……それから「あなたは思い切らなくちゃだめです、そんな無理なヴー・ドヴェー・ヴー・セパレー・ド・セット……」という父の声がした。ジナイーダは、きっと身を起して、片手をさしべた。……その途端とたんに、わたしの見ている前で、ありべからざることが起った。父がいきなり、今まで長上着フロックすそほこりをはらっていたむちを、さっと振上げたかと思うと――ひじまでむきだしになっていたあの白いうでを、ぴしりと打ちすえる音がしたのである。わたしは思わずさけごえを立てようとして、あやうく自分をおさえた。ジナイーダは、ぴくりと体をふるわしたが、無言のままちらと父を見ると、その腕をゆっくりくちびるへ当てがって、一筋真っ赤になった鞭のあとに接吻せっぷんした。父は、鞭をわきへほうりだして、あわてて玄関げんかんの段々をけあがると、家の中へとびんだ。……ジナイーダは後ろを振返ると、さっと両手をひろげ、顔をのけぞらせて、やはり窓から消えてしまった。
 おどろきのあまり気が遠くなって、おそろしい疑惑ぎわくに胸をめつけられながら、わたしはもと来た方へ駆け出して、横町を走り抜ける拍子ひょうしに、すんでのことでエレクトリークの手綱をはなすところだったが、とにかく河岸へとって返した。あたまがこんぐらかって、全然まとまりがつかなかった。わたしは、冷静で自制力の強い父が、時々発作的ほっさてき狂暴きょうぼうさを見せることは知っていたが、それにしても今しがた見た光景は、なんとしても合点がてんがゆかなかった。――とはいえ、わたしは同時にまた、このさき自分がどれほど生きるにせよ、ジナイーダのあの身の動き、あの眼差まなざし、あの微笑を忘れることは、終生とてもできまい、――今まで見たこともないあの姿、思いがけなく今日わたしの眼に映ったあの姿は、永遠にわたしの記憶きおくに焼きつけられたのだ――とも感じた。わたしは、ぼんやり川に見入りながら、なみだのながれているのに気づかずにいた。『あのひとが、ぶたれるのだ』と、わたしは思った。『……ぶたれるのだ……ぴしり……ぴしり……』
「おい、どうしたね、――馬をおよこし!」と、後ろで父の声がした。
 わたしは、うわの空で手綱をわたした。父はひらりと、エレクトリークにまたがったが、こごえきった馬はいきなり後脚でって、一丈あまりも前へはねた。……だが父は、じきに馬をしずまらせた。ぐいと拍車を両の脇腹わきばらへ入れて、にぎりこぶしで首に一撃いちげきを加えたのである。……
「ちえっ、鞭がない」と、父はつぶやいた。
 わたしは、ついさっきの風を切るうなりと、その鞭がぴしりと鳴った音を思い出して、おもわず震え上がった。
「どこへやったんですか?」と、しばらくしてからわたしはいた。
 父は答えずに、ずんずん前へ飛ばした。わたしは追いついた。どうしても父の顔が見たかったのだ。
「わたしのいない間、退屈たいくつだったろうな、お前?」と父は、へんにもぐもぐした声で言った。
「ええ、少しね。でも、一体どこへ鞭を落したんです?」と、わたしはまた訊いた。
「落したのじゃない」と、父は言い放った。――「捨てたのさ」
 彼は急に考え込んで、うなだれた。……わたしはその時初めて、そして多分これを最後に、父のきびしい顔だちがどれほどのやさしさと同情の思いを、表わすことができるかを見たのである。
 父はまた馬を飛ばし出した。もうわたしは追いつけなかった。わたしは十五分ほどおくれて、家に帰りついた。
『これがこいなのだ』とわたしは、その夜がふけてから、デスクの前に坐って、またもやひとりごちた。そのデスクの上には、すでにノートや参考書がそろそろならび出していた。――『これが情熱というものなのだ!……ちょっと考えると、たとえだれの手であろうと……よしんばどんな可愛かわいらしい手であろうと、それでぴしりとやられたら、とても我慢がまんはなるまい、憤慨ふんがいせずにはいられまい! ところが、一旦いったん恋する身になると、どうやら平気でいられるものらしい。……それをおれは……それを俺は……今の今まで思いちがえて……』[#「……』」は底本では「……」」]
 この一月ひとつきの間に、わたしは大層年をとってしまった。そして自分の恋も、それにともなういろんな興奮やなやみも、いま新たに出現した未知の何ものかの前へ出すと、我ながらひどくっぽけな、子供じみた、みすぼらしいものに見えた。とはいえ、その未知の何ものかの正体は、わたしにはほとんど推察することができなかった。それはただ、自分が一生けんめい薄闇うすやみの中で見きわめようとむなしい努力をしている、見知らぬ、美しい、しかも物凄ものすごい顔のように、わたしをおびえさせるだけであった。
 ちょうどその夜、わたしは奇妙きみょうおそろしいゆめをみた。わたしは、天井てんじょうの低い暗い部屋へ入って行くところだった。……と父が、鞭を手に仁王立におうだちになって、足をみ鳴らしていた。すみの方には、ジナイーダが身を縮めていたが、その腕にではなしに、その額に、あかい一筋がついている。……そこへ、二人の後ろから、体じゅう血だらけのベロヴゾーロフが、むくむく起き上がって、青ざめた唇を開くと、忿怒ふんぬにわななきながら、父をおどかすのだった。
 ふた月すると、わたしは大学に入った。それから半年後に、父は(脳溢血のういっけつのため)ペテルブルグでくなった。母やわたしを連れて、そこへ引移ったばかりのところだった。死ぬ二、三日前に、父はモスクワから一通の手紙を受取ったが、それを見て父は非常に興奮した。……彼は母のところへ行って、何やらたのんだ。そして聞くところによると、泣き出しさえしたそうである。あの、わたしの父がである! 発作の起る日の朝のこと、父はわたしにてて、フランス語の手紙を書き始めていた。『わが息子よ』と、父は書いていた。――『女の愛を恐れよ。かのさちを、かの毒を恐れよ』……
 母は、父が亡くなったのち、かなりまとまった金額をモスクワへ送った。

二十二


 四年ほど過ぎた。わたしは大学を出たばかりで、何を始めたものか、どんなとびらをたたいたらいいのか、まだよくわからず、さし当ってぶらぶら遊んでいた。ある晩のこと、わたしは劇場で、マイダーノフに出会った。かれはめでたく妻帯して、役所に勤めていたが、わたしの目には少しの変化も見当らなかった。相変らず、りもせぬのに感激かんげきしたり、例によって、いきなり悄気しょげかえったりした。
「君は知ってるでしょうね」と、話のついでに彼は言った。――「ドーリスカヤ夫人が、ここに来ていることは」
「ドーリスカヤ夫人というと?」
「おや、君は忘れたんですか? もとのザセーキナ公爵令嬢こうしゃくれいじょうですよ。みんなでてんでにこいしていた……いや、君だってそうでしたね。覚えてるでしょう、あのネスクーチヌィ公園のそばの別荘べっそうで、ね?」
「あのひとが、ドーリスキイとやらのおくさんになったんですか?」
「そう」
「で、あの人がここに来てるんですか、この劇場に?」
「いや、ペテルブルグに来てるんですよ。二、三日前にやって来たんです。外国へつつもりらしい」
「夫というのは、どんな人なんです?」と、わたしはたずねた。
「なかなかいい男ですよ、財産もあるし。ぼくとはモスクワの役所の同僚どうりょうでしてね。あなたにもお察しがつくはずだが――例の一件以来……もちろんあれは、よく御存ごそんじでしょうね……(マイダーノフは、意味ありげににやりとして)あの人は配偶はいぐうを求めるのが、なかなか容易じゃなかったんです。いろいろ、あとを引く問題もありましたからね。……だが、あの人の才智さいちをもってすれば、どんなことでも可能ですよ。まあひとつ行って御覧なさい。君の顔を見たら、とても喜ぶでしょうよ。あの人は、前よりもっと奇麗きれいになりましたよ」
 マイダーノフは、ジナイーダの宿所を教えてくれた。彼女かのじょはデムート館というホテルにとまっていたのである。むかしの思い出が、わたしの胸の中でうごめき始めた。……わたしは、あくる日すぐにも、かつての『想いびとパッシア』を訪ねようと心にちかった。ところが、何かと用事ができて、一週間たち、二週間たってしまった。ようやくわたしが、デムート館へ出かけて、ドーリスカヤ夫人に面会を申し入れると、――彼女は四日前に死んだ、と聞かされた。産のための、ほとんどあっという間もない死に方だった。
 わたしは、何かしら心臓へぐっと、き上げるものを感じた。わたしは彼女に会えたはずなのに、つい会わずにしまった、しかももう永久に会えないのだ……という想念――このにがにがしい想念が、ひしとわたしの心に食い入って、うちしりぞけることのできない呵責かしゃくむちを、力いっぱいふるうのだった。『死んだ!』とわたしは、入口番の顔をぼんやり見つめながら、鸚鵡返おうむがえしに言った。そして、そっと往来へ出ると、どこへとて当てもなしに歩き出した。過去の一切いっさいが、いちどきにうかび出て、わたしのの前に立ち上がった。そうか、これがその解決だったのか! あの若々しい、燃えるような、きららかな生命いのちが、わくわくと胸をおどらしながら、いっさんに突き進んで行った先は、つまりこれだったのか! わたしはそれを思いながら、あのなつかしい顔だちや、あのつぶらな眼や、あのふさふさと巻いたかみが、あのせまくるしいはこの中に納められて、じめじめした地下のやみのなかにねむっているところを心にえがいた。――それは、まだこうして生きているわたしから、そう遠くない場所なのだ。そしてひょっとすると、わたしの父のいる場所からは、ほんの五、六歩しかないかもしれないのだ。……わたしは、そんなことを考えながら、想像のつばさを張りきらせているうちに、ふと、

情け知らずな人の口から、わたしは聞いた、死の知らせを。
そしてわたしも、情け知らずな顔をして、耳をました。

という詩の文句が、わたしの胸にひびいた。
 ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとりめにしているかのようだ。憂愁ゆうしゅうでさえ、お前にとってはなぐさめだ。悲哀ひあいでさえ、お前には似つかわしい。お前は思い上がって傲慢ごうまんで、「われは、ひとり生きる――まあ見ているがいい!」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、あとかたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたのろうのように、雪のように。……ひょっとすると、お前の魅力みりょくの秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなくて、一切を成しうると考えることができるところに、あるのかもしれない。ありあまる力を、ほかにどうにも使いようがないので、ただ風のまにまにき散らしてしまうところに、あるのかもしれない。我々の一人々々が、大まじめで自分を放蕩者ほうとうものと思いんで、「ああ、もし無駄むだに時を浪費ろうひさえしなかったら、えらいことができたのになあ!」と、立派な口をきく資格があるものと、大まじめで信じているところに、あるのかもしれない。
 さて、わたしもそうだったのだ。……ほんのつかたち現われたわたしの初恋はつこいのまぼろしを、溜息ためいき一吐ひとつき、うら悲しい感触かんしょく一息吹ひといぶきをもって、見送るか見送らないかのあのころは、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
 しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べのかげがすでにし始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨らいうの思い出ほどに、すがすがしくもなつかしいものが、ほかに何か残っているだろうか?
 だがわたしは、いささか自分につらく当り過ぎているようだ。その頃――つまりあの無分別な青春の頃にも、わたしはあながち、わたしに呼びかける悲しげな声や、墓穴ぼけつの中からつたわってくる荘厳そうごんな物音に、耳をふさいでいたわけではない。忘れもしないが、ジナイーダの死を知った日から四、五日して、わたしは自分でどうしてもそうせずにはいられなくなって、わたしたちと一つ屋根の下に住んでいたある貧しい老婆ろうばの、臨終りんじゅうに立ち会ったことがあった。ぼろに身を包み、こちこちの板の上に横たわり、ふくろ枕代まくらがわりにした老婆は、苦しみもがきながら息を引取った。彼女の一生は、その日その日のとぼしい暮しに、あくせく追われ通しで過ぎたのだ。喜びというものをついぞ知らず、幸福のあまい味わいも知らない彼女としては、まさに死をこそ、――そのもたらす自由を、そのもたらすいこいをこそ、喜びむかえるべきではなかったか? ところが、彼女のいさらばえた肉体がまだっているうちは、その上に置かれた氷のように冷え果てた片手のもとで胸がまだ苦しげに波うっているうちは、まだその身から最後の力がけきらないうちは、老婆はひっきりなしに十字を切り続けて、「主よ、わが罪を許させたまえ」とささやき続けるのであった。――そして、これを名残なごりの意識のひらめきが、すっと消えると共に、彼女の眼の中でも、末期まつごおそれやおびえの色が、やっと消えたのである。忘れもしない、そのとき、その貧しい老婆のいまわのとこに付きいながら、わたしは思わずジナイーダの身になって、そら恐ろしくなってきた。そしてわたしは、ジナイーダのためにも、父のためにも、そしてまた、自分のためにも、しみじみいのりたくなったのである。





底本:「はつ恋」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年12月25日発行
   1987(昭和62)年1月30日73刷改版
   1997(平成9)年5月25日92刷
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:松永佳代
校正:阿部哲也
2011年9月28日作成
2013年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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