幸福への道

素木しづ




『上れますか。』
 高い、こまかい階段きざはしの前に、戀人の聲が、彼女の弱い歡樂の淡絹※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エルをふりおとした。
 彼女は、立止まつた、その瞬間、いま賑かな街を俥で飛んで來た、わづか十五分間の、眩惑されるやうな日のなかの、うれしさの心まどひが、彼女の心の底に常にひそんでゐる孤獨と悲哀の恐ろしさに、つゝまれてしまつた。『私の幸福を、私の弱さがさまたげやしないか。』彼女は、非常に弱かつた。そしてその足は、彼女がせまい胸を壓するやうに、脇の下にはさんでゐる所の、黒い杖でさゝへなければ、まだ若い彼女は、この光りにみちた地上を歩くことが出來なかつた。
 そして、それがすべて若くして病める弱い人々のやうに、あらゆるうれしさや、よろこびの、さゝいのなかにも、淋しい恐ろしい孤獨と悲哀とを感ずるチヤンスを、見出すことを忘れさせなかつた。『私の弱さが、私の歡樂をうばひはしないか。』と。
『えゝ、』彼女は、高い階段きざはしの先を見上げた。その高い階段きざはしは、また先の方に暗くなつて、登つただけ、再びりなければならなかつた。
 彼女は、睫毛まつげをふせた。その階段きざはしが、彼女を威壓するやうに見えたから、彼女の弱い足元がふるへて、不安とかなしみが混亂してこみ上げて來るのを感じた。けれども、それが彼女一人の時においてゞなく、戀人の呼吸と、そのきぬざはりのかすかな響とを、傍に聞くことが出來たから、不安は、羞恥とあはい恐れとになつて、彼女は、上氣じやうきしたやうに、頬を赤くそめてうつむいた。
 彼女は、そしてその伏せた瞳のなかに、女が白い細やかな、紅の裾に卷かれた兩足を持つて、蛇のやうにすばやく駈け登つて行くのを見た。
 彼は、靜かに、そして斜に階段を上り初めた。彼女は、そのあとに從つて、ひそかにかなしい杖の音を立てたが、危さと苦しさと、弱い恐れとかなしみが、彼女のすべて[#「すべて」は底本では「すべで」]圍繞ゐねうした、けれども、彼女は、はずむ息を靜めた。苦しさが醜さを、ともなひはしないかと、恐れたのであつた。そして、只その瞳に戀人の足元を見ることが出來たから、涙のやうな微笑をうかべて、無言のまゝ階段の上に、足をすゝめた。
 漸く彼女が、階段きざはしを降りて地上に立つた時、ふりそゝぐやうにかぶさる、秋の強い日光の黒い木棚のそばに、戀人の青い衣の輝きを見た。彼は、降りて來た階段の高さを、振り仰ぐ瞳のなかに、彼女を見た。彼女の蒼白い頬には、瞳のあたりまでくれなゐの色が上つてゐた。紫に輝く髮の上に、重たい光りのおもさを感じてゐるやうであつた。うつむいたまゝ足元の影を見つめてゐる。そして、彼女の黒塗の杖は、銀いろに輝いてゐた。
『彼女は、かなしんでゐる。』さう思つた時、彼は、彼女に對して自分の感情をつたへる、言葉を一ことも見出さなかつた。彼は、彼女を後に振りかへるやうにして、靜かに車内しやないに入つた。彼女は影のやうに從つた。
 廣々とした車内には、ざゝれた連なる玻璃の窓を透して、金屬のやうな午後の光りが、みちてた。彼は、その光りのなかを、割るやうに、彼女は、その光りのなかにとかされるやうに、二人は、赤いクッシヨンに並んで、腰をおろした。
 彼女は、靜かに黒塗の杖から、汗ばんだ白い手をはなした。そして膝の上にかさねた袂のなかの、冷たい絹に、その手の熱をひやしながら、靜かなやはらぎを感じた。
 電車は、彼等のほかに幾人かの人をのせて動き出した。郊外へ/\と走る電車は、その窓に輝く木の葉の、きらびやかな影をうつして、人々は、ある漠然とした遠い心に捕はれてた。そして誰れも、その人々の顏について、眺める事をしなかつた。
 彼女は、まぶしさうにうつむいてゐた。
 その肩に強い日光をうけて、知られざる哀愁が、彼女の胸にみちた 彼女は、足元に木の葉の影を落して、はひよる光りを見つめながら、電車の響きが、彼女の頭に心よいリズムをつけてゐるのを感じた。
『靜かな、空の廣い野に行くんですわね。』と彼女は、戀人に對して確める前に、彼女は、はじめて、野のたのしさに、はれやかな憧憬の心をおこさしめた彼の手紙を思ひ出した。
『秋だつて云ふのに、僕は、綺麗にのびた草の上に、無上の光りに輝いてる花の廣い野を見てゐます。』彼女は、瞳をなかば閉ぢた。そして、その中に彼とおなじ、花の廣い野を見ることが出來た。また、『二日の日曜日には廣い/\、野に行きませんか。二人が開くサンドイッチの上に、やはらかい煙りのやうな雲の影がすう/\と通るんですね。あの本を二人で大きな聲を上げて、讀みませう。二つの呼吸が一つのまるい温さになり、二つの呼吸が一つの長い大きな呼吸いきになつて、涙の出るやうなうれしさを感じたい、遠くから見たら、二人が秋草あきぐさと一緒に搖れてるんですね。水のやうにけざやかな秋の空は、美しい光りを孔雀のはねのやうにひろげて、その中に憧憬の歡樂を夢みる二人は、本當に幸福なんですね――本當に二人を母のやうに從順に、氣をくばつてくれるやうな、場所がほしい。』
 彼女は、これ等の文句を頭の中に、くりかへしながら、目の前に孔雀のはねのきらびやかな蔭を見た。そして、彼女がいまかうして戀人と、そのみどりの野を、花の野を求めに行かうとするまでには、その手紙は幾度繰りかへされて、彼女の瞳に輝きを與へたことだらう。戀は、彼女の心に死を願ふ病める幽欝の夕の、窓に求めた白い花であつたのだけれども、野の幸福を求める心は、光りのやうに白い花を赤く輝かしたのだ。
 しかし、その光りは淡い歡樂の憧憬だつた。夕の光りのやうに、夜のかなしみはやはり、彼女の心の背後にあつた。そして、彼女の弱い肉體に征服された心は云ふ。『すべてが寂寥に、終りはしないか。すべては悲哀に、終りはしないか。』彼女は、淡い混亂の幽欝に捕はれて、なやましい心に何事かを言はうと、戀人を見た。
 彼は、靜かに股にはさんだステッキの上に、兩手をかさねて、動かないものゝやうに、窓の方を見てゐた。その瞳は、いかなる色にかゞやき、いかなる影をやどしてゐるかは、解らない。
 彼女は、ふといま言ふべき言葉が、かなしみ以外に出ないことを恐れた。彼女に、戀人は悲しみを最も厭ふ人のやうに見えた。この幸福を求めに行く時に、かなしみの言葉は、彼の心を傷つけるかとも思はれた。彼女は晴れやかな、輝く心にならうとつとめた。そして、彼女は默した。
 けれども、彼女には、いまだ手も觸れたことのない、戀人の心は神祕であつた。沈默は知られざる淵であつた。しかしまた彼の言葉も、彼女に取つていかに、みなもとの知れない水であつたらうか。
 彼女は、やがてまた彼に對して、何か言はうとした。けれども、すべての言葉は、言ひ出さうとする時、たよりなく厭はしく思はれた。それに、戀人の心は、知られざる淵であつたから、投げ入れた小石の行方に對する不安が、彼女のかなしみの心に、いかなる嘆きを齎らすか、はかり知れなかつた。
 彼女はまた、遂に沈默した。
『もうぢきですね。』
 不意に、彼が沈默を破つた。そして、常の如くに輝いてる彼の瞳は、彼女を見た。
『えゝ、もうぢきですわ。』彼女は、つとめてかるく答へた。そして再び、目の前に孔雀のはねのきらびやかな蔭を想像した。
 二人は、最終の所で電車を降りた。そしてこまかな店の間を通りぬけて、線路を横ぎつた時に、うす藍色の空のはてにつゞく、白い路を見た。二人は立止まつた。はるかな戀に對する、かぎりない希望の淋しさが、彼女の心を引きしめた。
『野があるでせうか。』
 彼女は、その手に杖をにぎりしめて、戀人を見た。彼は、はるかな空のなかに瞳をかゞやかせながら言つた。
『きつと、いゝ野があるに違ひない。』
 二人は歩いた。二人の胸のなかには、彼女が彼と共に二階の欄干によつて、木や草や、森や、屋根の上に人の上に、すべての都會の上に高く遠い空の不可思議を、あふいだ時と等しいはるかな憧憬の、緑の野があつた。そして戀の淋しい心は、やがてくづれがゝつた土手にそうて、細い小路に折れまがつて行つた。その道のほとりに、土の下に草は淺黄色に枯れてゐた。秋草のやさしさは、灰色にふみにじられてゐる。二人は、無言のまゝ歩いた。細い道と、折れた草とは、彼女の弱い足をなやましたけれども、緑のひろ野を求める心が、二人の道をいそがした。
 けれども、秋は夏の幸福を從へて、もはや末であつたから、蟲が折々細い聲をしぼつて、彼等の足音に嘆きをつたへた。
 二人は、やがて灰色の枯草が地にふしてかなしむ、廣い野に出た。そして、野の中程の土の高みに、とり殘されたやうになびく、五六本のすゝきの蔭に、二人は立止まつた。
 彼女の足は、すつかりつかれてゐた。いこふ野に一本の木もなく、土はかたく荒れて、草はまばらに肌を見せてゐた。秋風は、この野の末から末に渡つて、彼女の生際はえぎはににじんだ汗は、つめたく肌にしみてゐた。彼女は、遂に杖をはなれて、冷たい土に腰をおろして、すゝきの蔭に睫毛をふせた。
『淋しい野ね。』
 彼女は、遂に幸福は悲哀でなかつたらうかと、涙ぐんだ。しかし希望は、涙のうちに輝いた。
『緑の野があるでせうか。』
『えゝ、きつと彼方の森の方に、あるに違ひない。』
 彼の瞳は、やはり輝いてゐた。永遠の空に對する、星の輝きである。彼女は、その瞳を見る時に、たそがれの空にひとり輝く、明星をあふぐやうな悲しみを覺える。二人は立上つて、はるかな空を仰いだ。空は、暮れるかと思はれる淡藍色に、高く廣く遠かつた。そして、太陽は、かくれたる所から、水のやうな光線ので以つて、空をすぢづけてゐた。彼女は、ゆきくれた旅人のやうな、たよりなさを感じた。足もとの水たまりに、雨上りの空の遠さを見るかなしさに、うち沈んだ。
『森の方に、日が輝いてる。』
 彼は、靜かに言つた。彼女は、瞳をめぐらして遠くを見た時に、しげり合つた彼方の森の上に、太陽の光線は明るく輝いて、そこにつらなる野は、靜かな光りにみちてなめらかに見え、百姓家の屋根が幸福らしく見えた。彼女の瞳は輝いた。そして、あの野にすべての苦しみやかなしみが、夢のやうにながれて、この不思議の天地は、一つになるやうに考へられた。
 二人は、歩き出した。遠い幸福を求むる爲めに輝いた心は、二人を森に向つて歩かせた。しかし二人が森に近づいた時、そこには限られた他人の家があつて、知られざる人々が木の陰に彼等を眺め、野にはやはり枯草がみにくゝふるへてゐた。
 二人は、足を停めた。そして、かなしみの瞳が、はかなく遠くに放たれた。限られたと思うた野は、また森の蔭からはるかにつゞいて、また二人の希望は、草のり上つたやうに見える、彼方の野につながれた。
 彼女は言つた。
『あすこへ行きませう。きつといゝに違ひないわ。』
 しかし、二人が歩みをよせた時に、そこには、あざみのとげや、ひろげた葉のかげに、恐怖がひそんでゐるやうな草が、まばらに擴がつてゐた。
 二人は、しばらくあてどもなく立つてゐた。そして、遂に彼方から近づいて來るやうな人に向つて、二人が求めてゐる廣い緑の野をたづねることにした。近づいて來た人は、年老いた男であつた。彼は、おだやかな笑顏を持つて、この近所にはこれより野がないこと、この野は、どこまでも/\かぎりなくつゞいて、淋しい人の行かない恐ろしい所に出るといふ事や、もう少し行くと、大きな松の木が三本あるといふ事などを、好意を示して彼等に話した。
『松の木の所まで、行きませう。』
 二人の希望は、また空にそびえてゐる、緑の木に向つてつながれた。希望は、いかに淋しいものであらう。消えやうとしてつゞく、燭の光りのやうなものだ。二人は、また野を歩き出した。野は、彼等をどこ迄も引きずるやうに、つきては蔭にあらはれ、かくれては蔭に見えて、かぎりなくつゞいた。
 しかし、奇蹟のやうに空にそびえてると思つた、三本の松の木は、遂に魔のやうに二人の前に現はれなかつた。彼女は、ふとふみまよふ野の恐怖におそはれた。そして、傍の杉林のかげに息をやすめた時、林のなかに白い枯草のしとねを見出して、疲れた身體は、その上に横坐りになつた。そして彼女は、かなしい涙ぐむやうな瞳を、地に見すゑた。彼は、不安さうに傍に坐つた。枯草は、あたゝかくや軟かかつたけれども、仰いだ杉の木は、頭の上におほひかぶさつて、暗い。
『行きませう。』彼は言つた、林の奧の方にあわたゞしい赤子の泣き聲や、人の足音がして[#「足音がして」は底本では「足音がて」]、追はれるやうな不安に、やはらぎは求め得られなかつた。彼女は、絶望的な瞳を持つて、戀人を見た。そして、再び立ち上つた。
『野があるでせうか。』
 彼女の心は、かなしみにみちてゐた。
 二人は、また、林をぬけて歩き出した。けれども、振りあふぐ瞳のなかに、彼方に見ゆる丘や森は、すべて幸福に見えた。かなしい希望は、はるかな道々みち/\につながつて、彼等二人は、あてどもなく歩いて行つた。
 二人は、遂に畑のなかをも通つた。赤い唐辛子の輝きにも、はかないあこがれがあつた。すべてのひそかな小路の奧や、裏に、見出されない祕密の幸福や、緑の野があるやうに見えてならなかつた。そして、彼女は、遠くに白く輝くすゝきのしげみを見出した時、うれしさうに言つた。
『あの、すゝきの上に坐りたい。』
 彼女は、彼のあとに從つて、しめつた道や細い小路を疲れたまゝ、夢のやうに歩いた。そして、やうやくすゝきの輝きを間近かに見た時、深い溝は彼女を渡さなかつた。二人はかすかな息をついた。どうすることも出來ない、淋しさである。
『行きませう。』彼は、わだかまりなく言つた、彼女は、茫然と立止まつてた。のがれることの出來ない肉體の弱さと、かぎりないあこがれの心との、なやましい沈默であつた。
 二人は、ひきもどした、けれども、深い溝は、彼等に憧憬の絶望を與へはしなかつた。夢みる緑の野は、いまだ二人の頭に淋しい輝きを殘してゐる。日は、野に近くおちた。わづかな木の葉や、木のかげに、不安な夕日のいろがたゞよつてゐる。二人は、歸るべき道を考へなければならなかつた。二人は、遠い空を見かへりながら、不安な、あやしい道をたどつた。うす暗い夢のやうに、黒い木の下の小路をぬけ出た時に、彼等は不意に、鐵道線路のつめたい色を見た。
 彼女は、もはや堪へがたく疲れてゐた。けれども、杖はつめたく彼女一人を、さゝへてゐた。『戀人の腕によらずに、一人で強くお前の道を歩め。』といふやうに、杖はつれなくつめたかつた。彼女は、その杖から逃れるやうにして、線路の傍の、落葉の上に坐つた、かわいた落葉は、彼女の手のしたに靜かなさゝやきをつたへた。風が冷たく、彼女の身體をふるはした。彼女は、目の前にかぎりなくつゞく線路の青白さにみいられて見つめた。その青白く光る刄物のやうな表には、遠く汽車のすぎるこまかな震動を、つたへてるやうに見えた。そして、人のないあたりの灰色の空氣が、ひくゝその表にたゞよつてゐた。死が彼女の心を捕へた。死は、彼女の心と共に生れて來た白い花であつたから、戀の憂欝はたゞちに死をともなつた。そして、それが不安なしに合つた時、彼女に最上の幸福が齎らされると思つてゐた。彼女は、ふと自殺者が、汽車のすぎるのをまつやうな心になつた。青白い線路がふるへてゐる。そして微笑してゐる。
『自殺者のやうだわね。』
 彼女は、ふと言つて戀人の顏を見た。しかし、立上つてた戀人の瞳は、如何に輝いてたことだらう。彼女は、忽ち後悔の苦悶に捕はれた。死が彼にとつて、どんなに厭はしいものであらうと考へたのである。死が彼に戰慄と憎惡を與へはしまいかと、思つたのである。彼は、いまだ死を口にしたことがない。そして、彼の戀は、はげしい生の欲求によつて、生れたものであるらしかつた。
 しかし、彼女の戀は、死によつて芽ぐんだのである。いかにしても死をはなれることの出來ない苦悶であつた。彼の瞳の前に、死は彼女の心に、なやましい混亂をおこす。彼女は、初めから生と死に別れた戀が、なにゝよつて一つになることが出來るだらうかと、思つたのである。彼は、彼女を見た。
『行きませんか。』
 彼女は、つとめて死の誘惑にみちた心を、押しかくさうとして立上つた。落葉の上に、彼女の身體がふら/\となつた。彼は、後にまはつた。そして、彼女の裾にからみついた落葉をつまんで、投げてくれた。二人は、また靜かに歩き出した。
 やがて、彼等は再び、廣い限りない空につゞく白い道を見た。二人は、その道に疲れた白い埃を立てゝ、元來た道にむなしく歸らなければならなかつた。幸福は、すべて嘆きであつたらうか。憧憬は、悲哀にをはるものだつたらうか。彼女の心は、淋しさにうづもれてゐた。
『疲れたでせう。』彼は言つた。彼女は苦しみながら言つた。
『あたし、あたしたちの戀もかうして、終るんだらうと思ひますわ。』
 必ずそれにちがひない。遂に何物もないのではなかつたか。けれども、彼女は深い溝が渡れなかつた。もしや、すゝきのしげみに、幸福がひそんで居はしなかつたらうか。弱いなげきが、彼女の心にみちた。
『彼女は、なげいてゐる。』さう思つた時、せまつた彼の感情は、容易に言葉を見出さなかつた。しかし、やうやく彼は、歩きながら言つた。
『とう/\僕だちは、野がみつからずに歸らなければならないんですね。疲れたでせう。けれども、これが終りじやないんだ。とにかく、僕だちは道をあるいた人です。幸福に通ずる道を、歩いた人ですからね。たとへ野を見出すことが出來ないとしても、よろこばなければならないと思ふんだ。幸福への道だと思へば、今日は、これで十分でしたね。』
 しかし、彼女は考へた。果して幸福といふものが、他に存在してゐるだらうか。これが幸福に通ずる道でなくて、このなげきが幸福そのものでないかしら。そして、この不滿が戀そのものであるのだかもしれない。さうすると、私たちの戀も幸福もなんといふかなしい、不滿な、なげきであるのだらう。けれども、彼女はいま心のやはらぎの上に、快い靜けさが起るのを感じてゐた。
 二人は、まだ秋の野であつたといふ事に、思ひつかないのだらうか。戀は、秋の野に緑の野を求めるみたされないはかない憧憬であつたかもしれない。そして、求めかねた、不安な不滿な心につながるものであつたかもしれない。戀の安住は、戀の幸福は、死と生を超越しなければ得られないものであつたらうか。また、何物にか到達する道が、戀であるのだかもしれない。
 二人は、つめたい風に、すべてが冷たくなつて、再び車内にならんで腰をおろした。おぼろのやうに動く人々が、彼等の前に立ちふさがつた。そして動き出した電車の周圍に、夕ぐれの紫の靄が、たち込めた。淡い電燈が人々の頭の上についた。
 二人は、初めて、かさなり合つた彼女の袂の下で、手を握り合つた。靜かに涙のあふれるやうな心持で、彼の冷たい手と、彼女の温かい手と、冷熱が入りみだれて、二つの手の存在が判然はんぜんとしなくなつた時、二人は空につゞくかぎりない白い路と、灰色の野の上に太陽の光線の箭にすぢづけられた雲の色とを、繪でも見るやうに眺めた。二人の瞳の中には淡い涙の淡絹※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エルがとぢこめてゐた。





底本:「青白き夢」新潮社
   1918(大正7)年3月15日発行
初出:「文章世界」
   1917(大正6)年8月号
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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