DAT FLEESCH

グスタアフ・ヰイド Gustav Wied

森林太郎訳




 ブレドガアデで午食ごしよくをして来た帰道である。牧師をしてゐる兄とおれとである。兄はユウトランドで富饒ふぜうなヱイレあたりに就職したいので、其運動に市中へ出て来た。ところが大臣が機嫌好く話を聞いてくれたので、兄はひどく喜んでゐる。牧師でなくては喜ばれぬ程喜んでゐる。兄は絶えず手をこすつて、同じ事を繰り返して言ふ。牧師でなくては繰り返されぬ程繰り返して言ふ。「ねえ、ヨハンネス。これからあの竪町たてまちの内へ往つて、ラゴプスてうを食べよう。ラゴプス鳥を。ワクチニウムの実を添へてラゴプス鳥を食べよう。」
 こんな事を言つて歩いてゐると、尼が二人向うから来た。一人の年上の方は、外国へ輸出するために肥えさせたやうに肉が附いて、太くなつてゐる。今一人は年が若くて、色が白くて、せいがすらりと高くて、天国から来た天使のやうな顔をしてゐる。
 我々と摩れ違ふ時、二人の尼は目を隠さうとした。すらりとしてゐる方にはそれが出来た。太つた方は下を視るには視たが、垂れた上瞼うはまぶたの下から、半分おこつたやうな、半分気味を悪く思ふやうな目をして、横ざまに己の顔を見た。
「あ。いつかの二人だつた。」己はかう云つて兄の臂を掴んだ。
「誰だつたと云ふのかい。」
「まあ、聞いて下さい。あなたの、その尊い口にもの涌くやうな話なのです。あの鍛冶屋町を知つてゐるでせう。」
「うん。まだお上のお役をしてゐた時、あそこで日の入を見てゐたことが度々あるよ。ひどく寂しい所だ。」
「それに乳母が大勢集まる所です。」
「己の往く頃はさうでもなかつたよ。己の往く頃は。」
「まあ、聞いて下さい。わたしが鍛冶屋町を発見したのは、去年の春でした。実際あなたの云ふ通、寂しい所で、鳥の声が聞える。くゞひがゐる。尼さん達が通るのです。長い黒い列を作つて通るのです。石炭のたまを緒にいたやうな工合ですね。年上のと若いのと並んで行くのもある。年上のが二人で、若いのを一人連れて行くのもある。若いの二人を、年上のが一人で連れて行くのもある。兎に角若いの二人切で行くと云ふことはありません。若いうちはいろ/\な誘惑がありますからね。」
「さうだとも。肉は弱いもので。」
「肉がですか。何も肉が、外のあらゆる物に比べて、特別に悪いと云ふ訳でもありますまい。」
「己はそんな問題に就いてお前と議論したくはないよ。」
「さうでせうとも。御尤ごもつともです。そこで兎に角鍛冶屋町を尼さん達が大勢通るのです。朝も昼も晩も通るのです。それが皆フランスを話します。どれもどれもまづさ加減の競争をしてゐるやうなフランスですね。丁度其頃わたしはヘツケル先生と手紙の取遣とりやりをしてゐました。ヘツケル先生は御存じでせう。」
「あのダアヰニストのヘツケルぢやないのかい。」
「無論さうです。ダアヰニストですとも。わたしはこんな事を問ひにつてゐました。若し人間と猩々しやう/″\と交合させたら、其間に子が出来て、それが生存せいぞんするだらうかと。まあ、兄いさん、黙つて聞いてゐて下さい。それが生存するだらうかと云ふ事と、それからそれが生存したら、人間と猩々とが同一の祖先を有すると云ふ一番明瞭な証拠ではあるまいかと云ふ事と、この二つを問ひに遣つたのです。わたしはひどく此問題に熱中してゐたものですから、往来を誰が通らうと、大抵そんな事は構はずにゐました。わたしは鍛冶屋町の道傍に腰を掛けて、そんな問題に就いて沈思してゐました。或日の事、丁度エナのヘツケル先生の所から手紙が来て、こんな事が云つてありました。さう云ふ試験を実行するには、随分困難な事情もあらうと思ふが、それは問題外として、よしや其試験が出来て生存するに堪へる子が生れたとしても、先生自己の意見では、それで問題の核心に肉薄し得たものとは認められないと云ふのですね。其点はわたし先生と大いに所見を殊にしてゐたのです。わたしは。」
 兄は己を抑制するやうに、手を己の臂の上に置いた。「ねえ、お前。お前の今言つてゐる事には、大いに詩人的空想が手伝つてゐるのだらうね。己はさうありたいと思ふのだが。」
「いゝえ。大違です。なんなら内で先生の手紙を見せて上げませう。」
「でも、人間と猩々とが。」
「いいえ。さう大した懸隔はないのです。それよりかもつと。」
「それは褻涜せつとくと云ふものだ。」
「さうでせうか。わたしなんぞは敢て自ら其任に当つても好い積です。」
「もう馬鹿な事をよせよ。」
「でも、あなたはお分かりにならないか知れませんが、一体科学が。」
「もうよせ。己は其問題をさう敷衍ふえんして見たくはないのだ。」
「そんならよします。兎に角わたしはさう云ふ事を考へて、あの芝生の広場から最初に曲つた角の小家のあたりで、日なたぼつこりをしてゐました。もう尼さん達が幾組もわたしの前を通り過ぎました。併しわたしは只何やらはつきりしない、黒い物が、砂の上を音もせずにすべつて行つたとしか感ぜなかつたのです。すると突然或声が耳に入つて、わたしは沈思のうちから醒覚しました。其ことばは、『それからシリアのアンチオツフス王の所を出て、地中海の岸に沿うて、今一度』と云つたのです。何も其詞には変つた事はなかつたのですが、其声がわたしの胸にこたへたのです。まあ、なんと云ふ声でせう。いかにも打ち明けたやうな、子供らしい、無邪気な、まあ、五月頃の山毛欅ぶなの木の緑の中で、鳥が歌ふやうな声なのですね。わたしが目を挙げて見ると、尼さんが二人前を通つてゐるのです。一人は若くて、一人は年を取つてゐます。年を取つた方はわたしの知つた顔です。色が蒼くて、太つて、眉毛が一本もなくつて、小さい、鋭い、茶いろな目をしてゐるのです。若い方は、それまでつひぞ見たことのなかつた顔です。なんとも云へない、可哀かはいらしい顔なのですね。ところがわたしがさう気が附いた時には、もう二人はわたしの掛けたベンチのかたはらを通り過ぎて、わたしに背を向けて歩いてゐます。実は、兄いさん、わたし今少しで口笛を吹く所でした。さうしたらわたしの方を振り返つて見る筈でしたからね。併しわたしは吹きませんでした。一体わたしはなんでも思つた事を、すぐに実行すると云ふ事はないのです。いつでも決断を段々に積み貯へて行くと云ふ風なのです。其代には時期が来ると、それが一頓いつとんに爆発します。」
「その若い女はどんな様子だつたのだい。」兄も問題に興味を感じて来たらしい。
「さあ。其時すぐにはわたしも、どんな様子だと、すぐには思ひ浮べることが出来ませんでした。わたしには只目の前に其女の唇がちらついてゐました。そこでわたしは兎に角立ち上がつて、跡に附いて行きました。もうヘツケル先生の事も猩々の事も忘れてゐたのですね。矢つ張人間は人間同士の方が一番近い間柄なのです。道の行止まりまで往くと、尼さん達はこつちへ引き返して来ます。わたしは体がぶるぶる震え出したので、そこのベンチに掛けて、二人を遣り過しました。わたしは年を取つた尼さんの方はちつとも見ないで、只若い方をぢつと見詰めてゐました。暗示を与へると云ふ風に見たのです。するとその若い尼さんが上瞼を挙げてわたしを見ました。わたしを見たのですね。兄いさん。クツケルツケルツク。クツケルツケルツク。」
「それはなんだい。」兄は心配らしく問うた。
「それですか。歓喜の声です。偉大な感情を表現するには、原始的声音を以てする外ありません。余計な事を言ふやうですが、これもダアヰニスムの明証の一つです。兄いさん。想像して見て下さい。尼さんのかぶる白い帽子の間から、なんとも云へない、可哀らしい顔が出てゐるのです。長い、黒い睫毛が、柔い、琥珀色をした頬の上に垂れてゐます。それは一旦挙げた上瞼を、すぐに又垂れたからです。それに其唇と云つたら。」
「お前なんとか詞を掛けたのかい。」
「いいえ。わたしは只其唇を見詰めてゐました。」
「どんなだつたのだい。」
「ええ。野茨のばらの実です。二粒の野茨の実です。真つ赤に、ふつくりと熟して、キスをせずにはゐられないやうなのです。その旨さうな事と云つたら。」
「でもまさかキスをしはしなかつただらう。」かう云つた兄は目を大きく※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、額には汗を出してゐた。
「いいえ。其時はどうもしはしませんでした。併しどうしてもあれにキスをせずには置くまいと、わたしは心に誓ひました。ああした口はキスをするための口で、祈祷をするための口ではないのですから。」
「そんな時は、おのれたなくては。」兄は唐突なやうにかう云つて、手に持つてゐた杖を敷石の上に衝き立てた。
「無論です。実際わたしも其日の午後には長椅子の上に横になつてゐて、克己の修行をしました。所がどうもああした欲望の起つた時は、実際それを満足させるより外には策はありません。しかもなる丈早く満足させるですね。どうせそれまでは気の落ち着くことはないのですから。」
「所がお前欲望にもいろいろあるからな。若し自殺したいと云ふ欲望でも起つたとすると。」
「それですか。それもわたしは度々経験したのですが。」
「したのだがどうだ。」
「したのですが、失敗しました。わたしは鴉片あへんを二度飲みました。しかも二度目には初の量の三倍を飲みましたが、それでも足りなかつたと見えます。」
「そんな事を。」
「まあ、聞いて下さい。二度目の時は可笑をかしうございましたよ。たしか十四時間眠つて、跡で十二時間吐き続けました。往来で女の物を売る声がしても、小僧が口笛を吹いても、家の中で誰かゞ戸をひどく締めても、わたしはすぐにそれに感じて吐いたのです。そのうちわたしの上の部屋に住んでゐる学生が、あのピツコロと云ふ小さい横笛を吹き始めました。するとわたしは止所とめどなしに吐きました。なんでも三十分ばかり倒れてゐて、笛の調子につれて吐いたのです。ぴいひよろひよろと吐いたのです。大ぶ話が横道に這入りましたが。」
「いや。もう己は其上の事を聞きたくないのだ。」
「でも聞いて下さらなくては、わたしが好かつたか悪かつたか分らないぢやありませんか。そこでわたしはキスをしようと思つたのです。心を落ち着かせるにはキスをせずには置かれないと思つたのです。そこで例の長椅子の上で工夫したのですね。或日の事、その二人の尼さん達がお城の所の曲角を遣つて来る時、わたしは道の砂の上に時計を落して置きました。すると年を取つたのが見付けて拾ひました。わたしはそこへ駆け付けて、長々とフランス語で礼を言ひました。其間そばにゐる若いのは、ちつともわたしの方を見ません。一度も見ません。多分アンチオツフス王の事をでも考へて立つてゐたのでせう。そこでわたしもどうもその若いのに詞を掛けるわけには行かなかつたのです。わたしは只柔い頬つぺたを見たり、睫を見たり、特別に念入に口を見たりしてゐました。そのうちわたしは気の違つたやうな心持になりました。そこで暇乞いとまごひをしようと思ふと、どうした拍子か、わたしのステツキが股の間に插まつたので、わたしは二人の尼さんの前でマズルカを踊るやうな足取をしました。年を取つたのは口を幅広くして微笑する。若いのの口のすみにも、ちよいと可笑しがるやうな皺が出来たのです。わたしは好い徴候だと思ひました。兎に角地中海の波に全く沈没してゐるわけでもないことが分かつたからですね。そのうち二人が礼をして往つてしまひました。」
 兄は笑つた。
「まあ、そんなに急いで笑はないで下さい。まだ話はおしまひではありませんからね。わたしは其日に帰る時、心に誓つたのです。三十日間パンと水とで生きてゐても好いから、どうしてもあの唇にキスをしなくてはならないと誓つたのです。」
「併し。」
「まあ、黙つて聞いて下さい。話は是からです。なんでも三四日立つてからの午頃でした。わたしはいつものベンチに掛けて、お城の方角を見詰めてゐました。わたしは其日に二人がきつと来ると云ふことを知つてゐました。来たらきつとキスをすると云ふ事も知つてゐました。雨が少し降つて来たので、わたしは外套の襟を立てて、帽子を目深に被つてゐました。なんでもアメリカの森の中でジヤグアルが物をねらつてゐるのはこんな按排だらうと、わたしは思ひました。その時刻には散歩に出る人なんぞは殆無いのです。わたしは震えながら腰を掛けてゐました。帰られる身の上なら帰りたい位でした。」
「帰れば好かつたのだ。」
「でも帰れば又初から遣り直すことになつたのです。」
「併し。」
「まあ、聞いて下さい。突然わたしはぎくりとしました。曲角に黒い姿が二つ見えたのです。一人が蝙蝠傘を斜に連の人の前に差し掛けてゐます。傘を持つてゐたのは、年を取つた尼さんでした。二人は真つ直にわたしの方へ向いて来ます。わたしは木の背後うしろにでもかくれてゐて、そこから飛び付かうか、木の枝にでも昇つてゐて、そこから飛び降りようかと思ひながら、其儘ぢつとしてすわつてゐました。すると例の人の顔が段々近くなつて来ます。柔い、むく毛の生えた頬や、包ましげな目が見えます。それから口が見えます。しまひには只唇ばかりが見えます。其唇は丁度アルバトロス鳥を引き寄せる燈明台のやうなものです。そのうちとうとうわたしのまん前に来ました。わたしはゆつくり立ち上がりました。そして。」
「こら」と云つて、兄は己の臂を掴んだ。併し己はそれに構はずに、昔の記念のために熱しつつ語り続けた。
「そしてわたしは大股に年を取つた尼さんの前を通り過ぎて、若い尼さんの頭を両手の間に挾みました。わたしは今もその黒い面紗めんさを押さへたわたしの指と、びつくりした、大きい、青い目とを見るやうです。わたしは自分の口を尼さんの口の所へ、俯向くやうにして持つて往つて、キスをしました。キスをしました。気の狂つたやうにキスをしました。尼さんはとうとうわたしに抱かれてしまひました。わたしはそれをベンチへ抱へて往つて、傍に掛けさせて、いつまでもキスをしました。兄いさん。とうとう尼さんが返報に向うからもわたしにキスをしたのです。尼さんの熱い薔薇の唇がわたしのを捜すのですね。あんなキスはわたし跡にも先にも受けたことがありません。わたしは邪魔がないと、其儘夜まで掛けてゐたのです。所が生憎。」
「誰か来たのかい。」
「いいえ。さうぢやないのですが、何遍となく同じ詞を、わたしの耳の傍で繰り返すものがあつたのです。わたしは頭を挙げて其方を見ました。見れば年を取つた方の尼さんが、丁度ソドムでのロトの妻のやうに、振り上げた手に蝙蝠傘を持つて、凝り固まつたやうに立つてゐて、しやがれた声で繰り返すのです。Mon dieu, mon dieu, que faites―vous donc, monsieur? que faites, faites, fai―aites―vous donc? わたしは又自分の抱いてゐる女を見ました。蒼い顔とつぶつた目とを見ました。併し妙な事にはキスをしない前程美しくはありませんでした。それから、えゝ、それでおしまひでした。わたしは逃げ出しました。」
 兄も己も大ぶ竪町を通り越してゐた。そこで黙つて引き返して並んで歩いた。兄が今口を開いたら、其口からは己をのろふ詞が出るだらうと、己は思つてゐた。
 兄は突然顔を挙げて、夢を見るやうな目附で海の上を見ながら、己に問うた。
「本当に向うからキスをしたのかい。」
 己は此詞に力を得て微笑ほゝゑんだ。そして兄と一しよに竪町の家に往て、ラゴプス鳥を注文した。





底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
   1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「我等 一ノ一」
   1914(大正3)年1月1日
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年6月8日公開
2016年2月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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