平民の娘

三島霜川





 周三しうざうは、畫架ぐわかむかツて、どうやらボンヤリ考込かんがへこむでゐた。モデルに使つかツてゐるかれ所謂いわゆる平民へいみんむすめ』は、時間じかんまへかへツてツたといふに、周三はだ畫架の前をうごかずに考へてゐる。なにを考へてゐたかといふと、はなは漠然バウとしたことで、彼自身じしんにも具體的ぐたいてき説明せつめいすることは出來できない。難然けれども[#「難然」はママ]考へてゐることは眞面目まじめだ、すこ大袈裟おほげさツたら、彼の運命うんめい消長せうちやうくわんすることである。
『平民の娘』おふさは、たんにモデルとして彼のうつツてゐるのではい。お房は彼の眼よりもこゝろく映ツた。
 お房が周三のモデルになつて、彼の畫室ぐわしつのモデルだいに立つやうになツてから、もう五週間しうかんばかりになる。しか[#「面も」はママ]製作せいさく遲々ちゝとして一かう捗取はかどらぬ。辛面やツとかげひなたが出來たくらゐのところである。もつとも周三は近頃ちかごろおそろしい藝術的げいじゆつてき頬悶ほんもん[#「頬悶に」はママ]おちいツて、何うかすると、折角せつかく築上つきあげて來た藝術上の信仰しんかう根底こんていからぐらつくのであツた、此のぐらつきは、藝術家にりて、もつとも恐るべき現象げんしやうで、すべてのよろこび満足まんぞく自負じふ自信じゝんも、こと/″\く自分をツてしまツて、かはり恐怖きようふが來る。其所そこ臆病おくびようとなる。そして馬鹿ばかえらいおもツてゐた自分が、馬鹿にけちつまらないものになツて了ツて、何にもが無くなツて了ふ………爲る氣が無いのでは無い、自分のちからではあしないやうに思はれるのだ。でも此様こんはずでは無かツたがと、躍起やつきとなツて、とこまでツてる、我慢がまんで行ツて見る。仍且やツぱり駄目だめだ。てん調子てうしが出て來ない。揚句あげく草臥くたびれて了ツて、悲観ひくわん嘆息ためいきだ。此のときぐらゐ藝術家の意久地いくぢの無いことはあるまい、いくらギリ/\むだとツて、また幾ら努力したと謂ツて、何のことはない、やぶけたゴムまりべた叩付たゝきつけるやうなもので何の張合はりあひもない。たゞ心細こゝろほそくなツて、莎薀むちやくちやしてゐるばかりだ。周三には此の恐怖時代が來た。
 自體じたい周三が、此のき始めた時の意氣込いきごみと謂ツたら、それはすばらしいいきほひで、何でもすツか在來ざいらいの藝術を放擲うつちやツて、あたらしい藝術に入るのだと誇稱こしようして、計畫けいくわく抱負ほうふ期待きたいたいしたものであツた。で其の準備じゆんびからしてすこぶ大仰おほげうで、モデルの詮索せんさくにも何のくらい苦心くしんしたか知れぬ。そうしてモデルツて來るモデルもモデルもかたはしから刎付はねつけて、手蔓てづるやツとこさ自分で目付めつけ出したモデルといふのがすなはちお房であツた。お房は顔立かほだちなら體格からだつきなら、ほとんど理想的りそうてきのモデルだ。一たい日本にほんをんなの足とたら、周三所謂いはゆる大根だいこんで、不恰好ぶかつかうみぢかいけれども、お房の足はすツと長い、したがツてせいたかかツたが、と謂ツて不態ぶざま大柄おほがらではなかツた。足のかたちでもこし肉付にくつきでも、またはどうならちゝなら胸なら肩なら、べて何處どこでもむツちりとして、骨格こつかくでも筋肉きんにくでも姿勢しせいでもとゝのツて發育はついくしてゐた。加之それにはだしろ滑々すべ/″\してゐる。そして一體にふくよかやはらかに來てゐる、しかも形にしまツたところがあツたから、たれが見ても艶麗えんれいうつくしいからだであツた。着物きものてゐる姿すがたかツたが、はだかになると一だんひかりした。それからかほだ。顔は體程周三の心をうごかさなかツたが、それでも普通ふつうのモデルを見るやうなことは無かツた。第一血色けつしよくいのと理合きめこまやかなのとが、目に付いた。つぎ綺麗きれい首筋くびすじ、形の好いはなふツくりしたほゝ丸味まるみのあるあご、それから生際はえぎはの好いのと頭髪かみのけつやのあるのと何うかすると口元くちもと笑靨ゑくぼが出來るのに目が付いた。そして一目見るとすぐに、すこあけツはなしのてんのあるかはりには、こせつかぬおツとりとした、古風こふう顔立かほだてであることを見て取ツた。しかし一ばんに氣にツたのは、まゆと眼で、眉はたゝ温順すなほのんびりしてゐるといふだけのことであツたが、眼には一しゆひとチヤームする強い力があツた………とは謂へ他の胸を射すやうなはげしいひかりひらめくのでも何でもない。何方どちちかと謂へば、落着おちつついた[#「落着おちつついた」はママ]始終しじう やはらか[#「始終しじう やはらかな」はママ]なみたゝよツてゐる内氣うちきらしい眼だ。何か見めてでもゐると、黒瞳くろめ凝如じつすわツてとろけて了ひそうになツてゐる………うかと思ふと、ふし目に物など見詰めてゐて、ふとあたまを擡げた時などに、ひど狼狽うろたえたやうな、鋭敏えいびん作用はたらきをすることがある………たとへば何か待焦まちこがれてゐて、つい齒痒はがゆくなツて、ヂリ/″\してならぬと謂ツた風にさわぎ出す。其様な場合ばあひには、まぶたはれぼツたいせいか、層波目ふたかわめ屹度きつとふかきざみ込まれて、長い晴毛まつげ[#「晴毛の」はママ]したうるみつ。そしてうちえてゐるねつが眼に現はれて來るのでは無いかと思はせる。一體きれの長い、パツチリした眼で、表情へうじやうにもむでゐた。雖然智識ちしきのある者と智識のない者とは眼で區別することが出來る。お房のはたしかに智識の無いかはの眼で、あきらかに感情かんじやう放縱ほうじうなことを現はしてゐた。眼もうだが、顏にも姿にも下町したまちにほいがあツて、語調ことばつきにしろ取廻とりまはしにしろ身ごなしにしろ表情にしろ、氣は利いてゐるが下卑げびでゐる。姿にしても其通そのとほりだ、奈何いかにもキチンとしまツて、福袢じゆはん[#「福袢の」はママ]えりでもおびでも、または着物きものすそでもひツたり體にくツついてゐるけれども、ちつとだツて氣品きひんがない。別のことばでいふと、奥床おくゆかしい點が無いのだ。加之それに顏にもたるむだ點がある、何うしても平民の娘だ。これが周三に取ツて何となく物足ものたりぬやうに思はれて、何だかあかにほひの無い花を見るやうな心地がするのであツた。併し其様なことはモデルに使つかふに何んの故障こしやう差支さしつかへも無い。
 周三は、此のモデルをて、製作熱を倍加ばいかした。屹度きつと藝術界を驚かすやうな一大傑作だいけつさくを描いて見せると謂ツて、まるで熱にでもかゝツたやうになツて製作に取懸とりかゝツた。そして寢床ねどこに入ツても、誰かと話してゐるうちにも、また散歩さんぽしてゐる時、色を此うして出さうとか、人物の表情は此うとか、えず其の製作にいてのみ考えてゐた。時には出來あがツた繪を幻のやうに眼前めつきうかべて見て、ひとりにツこりすることもあツた。何しろうでぱいのところを見せて、すくなくとも日本の洋畫界やうぐわかいに一生面せいめんひらかうといふ野心やしんであツたから、其の用意、其の苦心くしん、實にさん憺たるものであツた。而も其のうかゝツたところは、かれみづか神來しんらいひゝきと信じてゐたので、描かぬ前の彼の元氣と内心の誇と愉快ゆくわいと謂ツたら無かツた。彼の頭に描かれた作品は確に立派りつぱなものであツたのだ。
 ところが去來いざ取懸とりかかツて見ると、ちつとも豫期よきした調子てうしが出て來ない。頭の中に描かれた作品と、眼前がんぜんに描出される作品とはなまり鋼鉄かうてつほどの相違さうゐがある。周三は自分ながら自分の腕のなまくらなのに呆返あきれかへツた。で取りかゝりからもう熱がめる、きようが無くなる、しんから嫌氣いやけして了ツた。然うなると、幾ら努力したと謂ツて、※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)あがいたと謂ツて、何のやくにも立ちはしない。で、たゞ狼狽する、えうするに意氣鎖沈せうちん[#「鎖沈だ」はママ]。自分ながら自分の藝術のまづしいのが他になる、あわれたいしてまた自分に對してなやみ[#ルビの「なやみ」はママ]不平ふへいが起る。氣がンずる、悶々もだ/\する、何を聞いても見ても味氣あじきない。謂はゞ精神的せいしんてき監禁かんきんツたやうなもので、日光ひのめあふぐことさへ出來なくなツて了ふ。此うなツては、幾らえらい藝術家も、やなぎ飛付とびつかうとするかはづにもおとる………幾ら飛付かうとして躍起やツきになツたからと謂ツて取付くことが出來ない。それでも思切おもひきツて其の作を放擲ツて了うことが出來ぬから、何時いつまでも根氣こんき無駄骨むだほねツてゐる、そして結局なさけなくなるばかりだ。情なくなツても執着しふちやくが強いから、何うにかしてでツち上げやうと思ふ。それで周三は、毎日まいにち畫架ぐわかに向ツて歎息ばかりしてゐながら、定期ていきの時間だけちやんと畫室に入ツて、バレツトにテレビン繪具ゑのぐ捏返ねりかへしてゐた。おかげで繪は一日々々に繪になツて來る、繪にるに從ツて其れが平凡となる、時には殆んど調子さへ出てらぬ劣惡れつあくな作のやうに思はれることもあツた。畫題ぐわだいは『自然しぜんこゝろ』と謂ツて、ちらしがみ素裸すつぱだかわかをんなが、新緑しんりよく雑木林ざふきばやしかこはれたいづみかたはらに立ツて、自分のかげ水面すゐめんに映ツてゐるのをみまもツてゐるところだ。其の着想ちやくそうすでふるいロマンチツクのにほいを帶びてゐる、何も新しいといふほどの物でもない。加之いろなら圖柄づがらなら、ただあつたかく見せる側の繪といふことがわかるだけで、何處に新機軸しんきじゆくを出したといふ點が無い。周三の覗ツたまとはすツかりはづれた。外が外れたばかりでない、自分の技能ぎのうが自分の思ツてゐた半分はんふんも出來てらぬことを證據しようこ立てられた。此の場合にける藝術家は、敗殘困憊はいざんこんぱひ將軍しやうぐんである。失望しつはう煩悶はんもんとがごツちやになツてへず胸頭むなさき押掛おしかける………其の苦惱くなう、其のうらみ、誰にうつたへやうと思ツても訴へる對手あひてがない。喧嘩けんくわは、ひとりだ。悪腕わるあがき[#「悪腕を」はママ]」]すれば、狂人きちがひだと謂はれる。爲方しかたがないから、ギリ/\齒噛をしながらも、つよい心でおツこらへてゐる。其れがまたつらい。其の辛いのを耐へて、無理に製作をつゞける。がて眼が血走ちはしツて來、心が惑亂わくらんする。其の惑亂した心が繪に映るから何うしたツて思ふつぼはまツて來ない。加之單に此の藝術上の煩悶ばかりではない。周三には、にも種々いろ/\の煩悶があつて、彼を惱ましている。これがまた彼の心を他へそゝのかして、幾分いくぶん其の製作をさまたげてゐる。無論むろん藝術家が製作に熱中してゐる場合に、些としたひつかゝり氣懸きがゝりがあつても他から想像さう/″\されぬ位の打撃だげきとなる。して周三のは、些としたひつかゝりかるい意味のそれでは無い。彼に取ツては熟慮じゆくりよ深考しんかうせなければならぬ大問題だいもんだいがある。
 ひつかゝりひとつは、現に彼の眼前めのまへに裸体になつてモデル臺に立つているお房だ。お房は、幾らかの賃銭ちんせんで肉體のすべてをせてゐるやうないやしいをんなだ。周三とても其れをすら職業は神聖しんせいと謂ふほどの理想家ではなかつた。賤しい女であるといふことは知りいてゐる………だから蔭では平民の娘と謂つてゐる。雖然けれども顏の寄麗きれいなのと[#「寄麗なのと」はママ]、體格の完全くわんぜんしてゐるのと、おつとりした姿と、うつくしいはだとに心をチヤームせられて、賤しいといふ考をわすれて了ふ。そしてモデルとして周三の氣に適つたお房は、肉體の最も完全なものとして周三の心の空乏くうぼうみたすやうになつた。所詮つまり周三がお房をよろこぶ意味が違つて、一ぶつ體が一にんの婦となり、單純たんじゆんは、併し價値かちある製作の資れうが、意味の深い心のかてとなつて了つた。そして冷靜れいせいな藝術的鑑賞かんしやうは、熱烈ねつれつ生理せいり憧憬どうけいとなつて、人形にんぎやうにはたましいが入つた。何も不思議はないことだらう。周三だつて人間にんげんである。けつして超凡の人では無い………としたら、北側きたがわのスリガラスの天井てんじやうから射込さしこむ柔かな光線………何方かと謂へばノンドリした薄柔うすぐらひかりで、若い女の裸體を見てゐて、それで何等の衝動しようどうが無いといふことはあるまい。成程美術家には若い女を裸體にして熟視じゆくしするといふ特權とくけんがあるから、何も其の裸體がめづらしいといふので無い。雖然お房は、周三が是迄これまで使つたモデルのうちですぐれて美しい………全て肉體美のとゝのつてゐる女である。それでものあつて誘かすやうに、其の柔な肉付に、つやのある頭髪かみに、むつちりしたちゝに、形の好い手足に心をき付けられた。そして其の肌の色==と謂つても、ホンノリ血の色がいて處女しよぢよ生氣せいき微動びどうしてゐるかと思はれる、また其の微動している生氣を柔にひツくるめて生々うい/\しくきよらかな肌の色==花で謂つたら、丁度ちやうど淡紅色の櫻草さくらさうの花に髣髴さもにてゐる、其の朋の[#「朋の」はママ]色が眼に付いてならぬ。加之女の匂……しつこい油の匂とごツちやになツたやうな一種動物性の匂が、何かのはづみに輕く鼻を刺戟しげきする。其にもまた心が動く。何しろ畫室は、約束やくそく通りに出來てあるから、四はう密閉みつぺいしたやうになつてゐる。暖爐ストーブころならば、其の熱で嚇々くわつ/\とする、春になれば春の暖氣だんきすやうにむつとする。加之空氣も沈靜ちんせいなら光もしんめりしてゐて、自分の鼓動こどう、自分の呼吸こきふさへかすかみゝに響く………だから、眼前にゑて置く生暖なまあたたかい女の氣もヤンワリ周三の胸に通ふ。そして氣になる位心悸しんき亢進かうしんして、腕のあたりにあせがジメ/\することもあツた。然うなると周三はさすがにうちかへりみて心にづる、何だか藝術の神聖をがすやうにも思はれ、またお房に藝術的良心りやうしん腐蝕ふしよくさせられるやうにも感ずる。同時に「自我じが」といふものが少しづゝ侵略しんりやくされてくやうに思はれた。これは最初のあひだで、少時しばらくつとまたべつに他の煩悶が起つた。はじめ何の爲に悶々するのか解らなかツたが、軈がて其のわけがハツキリ頭に映ツて來る。周三は、お房の其の美しい肌が處女の清淨せいじやうたもツてゐるか何うかといふこと、よしまた其の肌が清淨を保ツてゐるにしても、其の心は何者かにけがされてゐはせぬかといふことが氣にかゝつて來たのであつた。そして此の氣懸が際限さいげんも無く彼を惱す。で何うかすると呆返あきれかへつたやうに、
『何だつて其様なことを氣にする………清淨であつたツて無いたツて、何でもありやしない。モデルにするに些とも差支はありやしない!』と打消して見る。雖然駄目だ。仍且やはり氣に懸ツてならぬ。そして惱む。幾ら美術家でも、女の心まで裸體にして見る權能けんのうがないから爲方が無い。
 併し其の氣懸は、少時すると打消されて了ツた。打消されたのではない、忘れたのだ。段々だん/″\れて來るに從ツて、お房は周三に種々な話を仕掛しかけるやうになツた。而ると其のこゑがまた、周三の心に淡いもやをかけた。少しあまツたるいやうな點はあツたけれども、調子に響があツて、好くほる、そしてやさしい聲であツた「まるで小鳥がさへづツてゐるやうだ。」と思ツて、周三は、お房の饒舌しやべツてゐるのを聞いてゐると、何時いつ惚々ほれ/″\として了ふ。處へもツて來て、一日々々に嬌態しなを見せられるやうになツて行くのだから耐らぬ。周三がお房を詮議せんぎする眼は一日々々にゆるくなツた。そして放心うつかり其の事を忘れて了ツた。
 而るとまた次の氣懸が起ツて來た。其はりにお房に手をにぎる資格のあるものとして、果してお房が手を握らせて呉れるかどうかといふ氣懸だ。無論むろん臆病おくびやうな氣懸である。雖然彼はながい間此の氣懸に惱まされてゐた。で、何のことは無い、ガラスごしに花を見るやうな心地で、毎日お房を眼前にえて置きながら悶々してゐた。彼は此の齒痒いやうな惱のために何程惱まされたか知れぬ。併し案じるよりもむが易い。其の後お房は些とした機會きくわい雑作ざふさなく手を握らせて呉れた。雖然、其の製作はあひ変らず捗取はかどらぬ。そして少し逆上のぼせ氣味となツた彼は、今度は「手を握りたお房を何うする?」といふことにいて考へた。もとより一時の出來心や、不圖ふとした氣紛きまぐれでは無かツたのであるから、さて是れが容易よういに解決される問題で無い。第一つまとしてむかへ取るには餘りに身分の懸隔けんかくがある。家庭かていは斷じて此の結婚けつこん峻拒しゆんきよする。かりに家庭の事情を打破ツて、結婚したとしてからが、お房が美術家の妻として、また子爵ししやく家の夫人ふじんとして品位ひんゐを保ツて行かれるかどうかといふことが疑問ぎもんである。いや、恐らく其は不可能のことゝ謂はなければならぬ。と謂つて周三は、人權を蹂躪じうりんして、お房を日蔭者ひかげものにして圍ツて置くだけのゆう氣も無かツた。これがまたあたらしい煩悶となツて、彼を惱ませる。
「一體おれはお房を何うするつもりなんだ。」
解らない。何うしても解決が付かぬ。
 ところで周三が家庭に於ける立場である。自體じたい彼は子爵ししやく勝見家かつみけに生まれたのでは無い。成程ちゝ子爵ししやくは、彼のちちには違ないが、はは夫人ふじんは違ツたなかだ。彼は父子爵のめかけ[#「妄の」はママ]はらに出來た子で、所謂庶子しよしである。別なことばでいふとこぼたねだ。だから母夫人の腹に、腹の違ツたあにか弟が出来てゐたならば勝見家に取ツて彼は無用むよう長物ちやうぶつであツたのだ。また父子爵にしても彼を引上げて、子爵家の繼嗣よつぎとする必要が無かツたのであツた。雖然子爵夫人に子の無いといふ一ツの事件じけんが、偶々たま/\周三を子爵家の相續人そうぞくにんとすることにした。此の相續人になツた資格のうらには、種馬たねうまといふ義務ぎむになはせられてゐた。それで彼が甘三四と[#「甘三四と」はママ]]なると、もう其の候補者こうほじやまでこしらへて、結婚をまられた。無論周三は、此の要求を峻拒した。そこで父と衝突しようとつだ。父はもう期限きげんが來たからと謂ツてやかましく義務の實行を督促とくそくする、周三は其様な義務を擔はせられた覺は無いとかぶり振通ふりとほす。一方で家の爲といふのをたてにすれば、一方では個人主義しゆぎ振廻ふりまはす。軈がては親は子に對つて、不孝ふかうなるやくざ者のゝしる、子は親に對つて、無慈悲じひかたりだと[#「驅だと」はママ]どく吐く。而も争論そうろんは何時も要領をずにをはつて、何時までも底止とめどなく同じことを繰返くりかへされてゐるのであツた。そしてグヅグヅの間に一ねん二年と經過けいくわして今日こんにちとなツた。今日となツては、父子爵は最早もはや猶豫ゆうよして居られぬと謂ツて、猛烈もうれついきほひで最後の決心けつしんうながしてゐる。で是等の事情がごツちやになツて、彼の頭にひツかゝりからまツてはげしい腦神經衰弱なうしんけいすゐじやく惹起ひきおこした。それでただ氣が悶々して、何等の踏切ふみきりが付かぬ。そして斷えず何か不安におそはれて、自分でも苦しみ、他からはしぼむだ花のやうに見られてゐるのであツた。


 ちやうど此の日の前夜ぜんやも、周三は、父から結婚問題に就いて嚴重げんぢう談判だんぱんツたのであツた。
「さ、何うする?もう體に火が付いてゐるんだぞ。」
 幾ら考へても、何時もまとまりの付いたためしは無いが、それでも頭のそこの方に何か名案めいあんひそむでゐるやうに思はれるので、何うにかして其の考へを引ツ張り出さうとする………雖然出ない。出さうでゐて、出ない。氣がジリ/\する。すると何かわきから小突こづくやうに、
「ほら、解ツてゐるじやないか。此うさ、それ、此う―――」と神經中樞ちゆうすうを刺戟して、少しづつ考をおし出して呉れるやうに思はれる。
「しめたぞ!」と大悦おほよろこびで、ぐツと氣を落着おちつけ、眼をつぶり、片手かたて後頭部こうとうぶを押へて息をらして考へて見る………頭の中が何か泡立ツてゐるやうにフス/\ツてゐるのがかすか※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに響く。
「は、はア、頭腦が惡いな。」と今更いまさらのやうに氣が付くと、折角出掛かツた考がけむのやうにすうと消えて了ふ。あはてゝ眼をけて「や!」と魂氣たまけた顏をして、恰で手に持ツてゐた大事なたま井戸ゐどの底へすべらし落したやうにポカンとなる。また數分間前すうふんかんまへの状態にかへツて、一生懸命しやうけんめいに名案をしぼり出さうとして見る。名案とは、父子爵の頑固ぐわんこな頭から結婚問題を徹回てつくわい[#「徹回」はママ]させて、而も自分は無事に當邸たうやしきに居付いてゐることだ。
 眞個まつたくむづかしい問題である。周三が腦味噌のうみそ壓搾あつさくするのも無理は無い。幾ら壓搾したと謂ツて、決して彼の期待するやうな名案めいあんは出て來はしない。自體彼の頭腦の中にはくさツたガスのやうな氣が充滿いつぱいになツてゐて、頭がはなは不透明ふとうめいになツてゐる、彼はく其れを知ツてゐるから、何うかして其の全ての考を引ツくるむでゐるどくガスさへ消えて了ツたならば、自ら立派な名案が出て來るやうに思ふ。
 そらは、ドンヨリくもツて、南風みなみかぜはひみやこまはり、そしてポカ/\する、いや其所そこらのざわつく日であツた、此様な日には、頭に故障こしやうのない者すら氣が重い。況して少しでも腦症なうしやうのあるものは、めうに氣がむで、みゝが鳴る、眼が※(「目+毛」、第3水準1-88-78)かすむ、頭腦が惡く岑々ぎん/″\して、ひとの頭腦か自分の頭か解らぬやうに知覺ちかくにぶる。周三も其の通りだ。何か考へてはゐるけれども、それもや/\として、何うしてもハツキリと映ツて來ない。そして考へる事も考へる事も、すぐに傍へれて了ツて、斷々きれぎれになり、紛糾こぐらかり、揚句あげくに何を考へるはずだツたのか其すらも解らなくなツて了ふ。
 凝如じつとしていても爲方しかたが無いので、バレツトも平筆ふでも、臺の上にほうツたらかしたまゝ、ふいとツてへやの内をあるき廻ツて見る。それでも氣は變らない。眼に入るものといへば何時も眼に馴れたものばかりだ………北側きたがはのスリガラスの天井、其所そこから射込さしこむ弱い光線、うす小豆色あづきいろかべの色と同じやうな色の※(「糸+亶」、第4水準2-84-57)じうたん、今は休息きうそくしてゐる煖爐だんろ、バツクのきれ、モデル臺、石膏せきかう胸像きようぞう、それから佛蘭西ふらんす象徴派しやうちやうはの名畫が一まいと、伊太利いたりーのローマンス派の古畫こぐわ摸寫もしやしたのが三枚、それがいづれも金縁きんぶちがくになつて南側の壁間かべ光彩くわいさいを放つてゐる。何れも大作たいさくだ。雖然何を見たからと謂つて、些ともきようらぬばかりか、其の名畫が眼に映つると、むし忌々いま/\しいといふ氣が亢じて來る。室が寂然ひつそりしてゐるので、時計とけいの時をきざおとが自分の脈膊みやくはくうま拍子ひやうしを取つてハツキリ胸に通ふ。
 ぐるりと廻して、さて自分の繪の前に立つた。眼を半眼はんがんにして、虚心きよしん平氣へいきの積で熟視する。
「いや、まづい!何といふ劣惡れつあくなもんだえ。何んだツて此様な作を描き上げやうとして※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)あがいてゐるんだ………骨折損ほねをりぞんじやないか。俺は馬鹿だ、たしかに頭がしびれてゐる。何處に一ツとこがありやしない。此様な作に執着しうちやくがあるやうじや、俺もあはれな人間だ………」と思ふ。そして、「あゝ。」と萎頽がツかりしたやうな歎息ためいきする。見てゐるうちに、倩々つく/″\嫌になつて、一と思にいて了はうかとも思つて見る………氣がいらついて、こぶしまでにぎつた。
 ると頭がかるくグラ/\として、氣にぼうツとする。其所らがきふもや/\うすもやでもかゝつたやうになツて畫架諸共もろとも「自然の力」は、すーツと其の中へき込まれるかと思はれた………かはつて眼に映ツたのが裸體になツたお房だ。そこでまた棒立ぼうだちになつたまま少時しばらくお房のことを考へる。
「お房か、ありや天眞爛※(「火+曼」、第4水準2-80-1)てんしんらんまんだ。心は確に處女だ!………體だツて………」とまた頭にきらめく。と、激しく頭を振つて、「何だつて此様なことを考へる。」
ふざけたやつだと自分をしかり付ける。
 叱ツても駄目だ。此うなるとお房の方でも剛情がうじやうで、恰で眼底めのそこ粘付ねばりついたやうになつて、何うかすると、莞爾につこりわらつて見せる。いや、ひつこいことだ。
 それでも其の影に映つてゐる間だけ、周三の頭から、びて、陰濕じめ/″\したガスが拔けて、そして其の底にはひの氣にめられながら紅い花のゆらいでゐるのを見るやうな心地になつてゐた。胸には何か氣も心もあまつたるくなるやうなにほひが通つて來る。而るとなまりのやうに重く欝結うつけつした頭が幾分輕く滑になつて、體中がぞく/\するやうにくすぐツたくなる………何かつかむでもしやくしやにして見たい。し付けられ、しづみきツた反動はんどうで、恰で鳥の柔毛にこげが風に飛ぶやうに氣が浮々うき/\する。さけびしたくなる。※(「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30)もしも此様な場合に、たれかジヨンマーチでもうたつて呉れる者があつたら、彼は獨で舞踏ダンスをおツ始めたかも知れぬ。ンの少時しばらくではあつたけれども、周三の頭は全ての壓迫からまぬがれて、暗澹あんたんたる空に薄ツすりと日光につくわうが射したやうになつてゐた。眼にも心にも、たゞ紅い花が見えるだけだ。何しろ彼の心はやわらいでゐた。
「肉は決しての要求ばかりじやない。」周三は不圖ふと此様なことを考へた。其をきツかけに、彼はまた何時もの思索家しさくかとなつた。頭は直に曇つて来る。
 丁ど颶風ぐふうでも來るやうな具合に、種々な考が種々のかたちになつて、ごた/\と一時にどツ押寄おしよせて來る………周三は面喰めんくらつてくわツとなつてしまふ。こりやたまらぬと、くるり體をブン廻して、また室の中を歩き廻つて見る。そして氣を押鎭おしゝづめやうとするのであるが、何か後からおツ立てゝ來るやうに思はれて、何うにも落着かぬ。
「こりや何うしたもんだ………何うも頭がへんてこりんだぞ。何をびくついてゐるんだ。まア、落着け!………そしてとくと考へて見るんだ。」
 そこで體を突ツ張つて、腕を足拍子あしひやうしを取つて、出來るだけえらさうに寛々ゆる/\と歩いて見る。駄目だ。些ともえらくなれない。何かむやみと氣にかゝツて、不安は槍襖やりぶすまを作ツておそツて來る。現に自分が呼吸してゐる空氣の中にも毒惡どくあく分子ぶんしこもつてゐて、次第しだい内臓ないぞうへ侵入するのでは無いかと思ふ。すると室の光線の弱いのも氣に懸つて來る。
 寧そ室を逃出にげださうかと思ツて、「一體俺は、何だつて、此様な薄暗うすぐらい、息のつまるやうな室に閉ぢ籠つて、此様な眞似をしてゐるんだ。恰で囚人しうじんだ!………せツこけた藝術に體をしばられて、日の光も見ずにもぐ/\してゐるんだ。つまらんな、無意義むいぎだ………もう何もも放擲つて了はうかしら!穴籠あなごもりしてゐると謂や、かにだつてもう少し氣のいた穴籠をしてゐるぜ。天氣てんきでも好くつて見ろ、蟹め、あわきながら、世界せかいひろくして走り廻つてゐるからな。俺は何うだ、繪具とテレビンとに氣を腐らして、年中ねんぢゆう齷齪あくせくしてゐる………それも立派な作品でも出來ればだが、ま、覺束おぼつかない。そりや孑孑ぼうふらどぶの中でうよ/\してゐるのよ、だが、俺は人間だ。人間?………ふゝゝゝ。」と無意味にわらひ出して、「人間だから女に取捕とつつかまつて、馬鹿にされても見たいんだ。何しろもう些とのんきな人間にならう。」
 彼は、畫室を出ることを定めて了つて、入口のドーアに手まで掛けたが、さて其の手を引つ込めて躊躇ためらつた。
てよ。出るはいが、出たらあたきの中へ飛び込むやうなもんだぞ。これでも此處だけは、俺の城だ、世界だ。そして俺の大權のもとにある………だから女を裸にいて置く權能もあるんだ。早い話が阿父おやぢのやうな壓制君主あつせいくんしゆまでも、此處だけは治外法權ぢぐわいはふけんとして、何等の侵略しんりやくくはへ得ない奴さ。痛快つうくわいだ。いや、出まい。蟹も穴籠をしてゐた方が安全だからな。」
 周三は、畫室を出ると、また父に取捕まつて、首根くびねつこを押へ付けて置いてめ付けられるのがこはいのだ。で、しん氣臭いのをおつこち[#ルビの「こち」はママ]へて、穴籠と定めて了ふ。
何方どつちにしても、俺の體は縛られてゐるんだ………縛られてゐるばかりじやない。窮窟きうくつ押籠おしこめられてゐるんだ。何うしたら此のなわが解けるんだ、誰か、俺を此穴このあなから引つ張り出して呉れるものが無いかな。」と思ふと、泣き出したいやうになさけなくなる。
 何方を向いても壓迫だ。城に籠つてゐたら、他からの侵略は無いが、てもなく兵粮攻ひやうらうぜめと謂つたもので、自分で自分をくるしめなければならぬ。自體周三等の籠つてゐる城は、兵粮に欠乏けつぼふがちだ。兵粮は嫌でも他から仰がなければならぬのであるから、大概たいがいの者は頭と腕だけが膨大ぼうだいになつて、胃の腑が萎縮ゐしゆくする。從つて顏の色がくすむ。周三はさひはいに、頑冥ぐわんめいな空氣を吸つて、温順おんじゆん壓制君主あつせいくんしゆ干渉かんしよう服從ふくじうしてゐたら、兵粮の心配は微塵みじんもない。雖然彼の城は其の根底がぐらついてゐる。で、もう穴籠に耐へなければ、他からの壓迫にも耐へぬ。
「恰で包圍攻撃ほういこうげきを喰つてゐるんだ!」と嗟嘆さたんして、此うしてゐては、つひ自滅じめつまぬかれぬと思ふ。
もつとも俺は此のうち寄生蟲きせいちうだからな。」と自分をけなしつけても見て、「此の家から謂つたら、俺は確に謀叛人むほんにんだが、俺から謂つたら、此の家の空氣は俺に適しない、何うも適しない!自體此の家の空氣には不思議な力があつて俺を壓追する[#「壓追する」はママ]………何か解らんけれども恐ろしい力で俺を壓迫する。いや、重たい、くびの骨が折れて了ひさうだ。ところでればかりじやない、其處ら中に眼に見えぬはりがあつて、始終俺をつついていらつかせたり、いきどほらせたり、悶々させたり、ふさがせたりする。成程外には俺を張出さうとする力もあるのよ。だがうちから押出さうとする力も強い、これじや耐らん、惱亂なうらんする。無理に耐へたら遂に悶死もだえじにだ!………でなけア發狂はつきやうだ。
 而ると何といふことは無く其所らが怖ろしくなつて、かすか惡寒をかん身裡みうちそよいで來る。
「や!」ときよろ/\して、「氣が變になるんじやないか。しつかりしろ、何でもつぶせ!此様なことでへたばつて耐るか。こら。」
 自分で自分を喚付わめきつけて、妄と地鞴踏ぢたゝらふむ。頭がくわつとして眼がくらむやうになつた。
 其處で少時體を引緊め、石のやうに固くなつてゐて、軈て胸の鼓動の鎭まるのを待つて、「此様なこつちや爲様しやうが無い。かくおれの此の壓迫を脱けるとしやう。俺だつて一個の人間であつて見れば、何時まで自己じこ没却ぼつきやくして、此様に苦しむでゐる、ことあ有りやしない。一つはねを伸して、此のあやふや境遇きやうぐうを脱けて見やうじやないか。これでも藝能があるんだ、幾ら社會しやくわいせゝこましくなつてゐると謂つても、俺の生活する領分りやうぶんくらゐ殘してあるだらう、然うよ、そして世間せけんを廣くして、自曲じいう[#「自曲の」はママ]空氣を吸ふことにしやう。隷属れいぞくは、決して光榮くわうえいある生存せいぞんじやないからな。身分や家柄………其様なものは、俺といふ個人に取つて、何等の必要がある。第一體にはへられん!」
 良々意氣を揚げきたつて、彼はじつと考へ込む。是れ、久しい間、彼が頭の中に籠つた大問題である。
 そもそも周三が生母せいぼの手をはなれて、父子爵の手許てもとへ迎へられたのは、彼が十四の春であつた。それから日蔭ひかげに生まれた平民の子が急に日向ひなたに出て金箔きんはくを付けられたのがうれしくて、幾らか虚榮きよえい心に眼を眩まされた形で、虚々うか/\と日をくらしてゐた。何時の間にか中學校ちうがくかう卒業そつげふして了つた。此の間、彼の頭に殘るやうな出來事と謂へば、ただ[#「誰」はママ]生母せいぼくなられた位のことであつた。それすら青春せいしゆんの血のゆる彼に取つては、些と輕い悲哀を感じた位のことで、決して左程さほどの打撃では無かつた。ところが甘前後はたちぜんご[#「甘前後と」はママ]いふ頃には、誰でも頭に多少たせう變動へんどうがある。周三の頭にも變動があつた。
 周三は或時あるとき偶然ぐうぜんに、「人は何のために生まれたのだらう、そして何のためにき、何うして死んで了ふのだらう。」といふことに就いて考へた。無論何の動機があつたといふのでは無い。ひよつくら其様なことを考へたのだ。彼は平坦の路を歩いてゐて、不意に小石にけつまづいたやうに吃驚びつくりした。少しきよろつき氣味で、「成程こりや考へて見なければならん問題だ。俺等おれたちはたゞ生まれて來たのじやあるまいからな。然うさ、何か意味がなくつちやならんわけだ。」と考へて見る。雖然解らない。解らないながらも、何うかすると解るやうにも思はれることもある、で根氣よく其の考を繰返して見る。其の間に解らぬは別問題として、考へることに趣味を持つやうになつた。何といふことは無く考へるのが面白い。此の考は、始めふはりと輕く頭に來た。恰で空明透徹くうめいとうてつな大氣の中へあは水蒸氣すいじようきが流れ出したやうな有様ありさまであツた。それが日を經る、月を越すに從つて段々と重くこまやかになつて、頭の中を攪亂かきみだし引つ括めやうとする。軈がて周三は、此の考に取ツ付いてゐるのが苦しくなつて來た。で何うかして忘れて了はうとする、追ツぱらはうとする。雖然駄目だ、幾ら※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いたからと謂つて、其の考はひるのやうに頭の底に粘付すいついて了つた。そしてえず其の考に小突こづかかれるので[#「小突こづかかれるので」はママ]あるから、神經は次第にひよわとなツて、ほゝの肉は※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)ける、顏の色は蒼白あをじろくなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發ふくわつぱつな青年となツて[#「で何うかして忘れて了はうとする、追ツぱらはうとする。雖然駄目だ、幾ら※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いたからと謂つて、其の考はひるのやうに頭の底に粘付すいついて了つた。そしてえず其の考に小突こづかかれるので[#「小突こづかかれるので」はママ]あるから、神經は次第にひよわとなツて、ほゝの肉は※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)ける、顏の色は蒼白あをじろくなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發ふくわつぱつな青年となツて」は底本では「は次第にひよわとなツて、ほゝの肉は※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)ける、顏の色は蒼白あをじろくなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發ふくわつぱつで何うかして忘れて了はうとする、追ツぱらはうとする。雖然駄目だ、幾ら※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いたからと謂つて、其の考はひるのやうに頭の底に粘付すいついて了つた。そしてえず其の考に小突こづかかれるので[#「小突こづかかれるので」はママ]あるから、神經な青年となツて」]、體よりも心にく年をらせて了ツた。其所で彼は家庭に於ける思索家となツて、何時も何か思索にふけツてゐる、そして何時とは無く實際をうとんずるといふふうが出來て來て、すべての規則きそく無視むしする、何を爲すのも億劫おつくうになる、嫌になる。そして斷えず「何を爲る?」ということに就いて頭を惱ましながら、實際何一つ爲出來しでかすことも無く、他から見ると唯ブラ/\と日を暮してゐた。從ツてめしふ、寢る、起きる、べて生活が自堕落じだらくとなツて、朝寢通すやうなこともある、くして彼は立派ななまけ者となツて、其の居室きよしつまでもやりツぱなし亂雜らんざつにして置くやうになツた。相と謂つても周三は、女の匂をぎ廻して頭髪かみ香水かうすゐの匂をさせてゐるやうな浮ついた眞似をするのでもなければ、麦酒ビールウイスキーの味を覺えて、紅い顏をして街頭まちうろついて歩くやうな不躰裁ふていさいな眞似をするでも無い。たゞ勢の無い、蒼い顏をブラ下げて、何もずに室に燻ぶり込むでゐるだけであツた。えうするに彼は、宇宙うちうの本體をさぐらうとしたり人生じんせいの意義をきはめやうとして、種々な思想を生噛なまがみにしてゐるうちに、何時かデカタン派の影響えいきやうけて、そして其の空氣が弱い併しながらねばツこい力で、次第に其の頭に浸潤しんじゆんして行くのであつた。
 自體國家こくかとは動く人間につて組織そしきされるのであるから、國家はいさゝかも此のしゆ不生産的ふせいさんてきの人間を要しない。國家の要しないやうな人間は、何所の家庭にだツて餘り歡迎くわんげいされるはずが無い。そこで彼は、勝見の家に對しても、また父子爵に對してもむほん人となツた。父子爵といふ人は、維新ゐしんどさくさまぎれに、何か仕事しごとをして、實際の力以上に所謂いはゆる國家に功勞こうらうある一にんとなつた人である。明治政府めいぢせいふになツてからも、ひさしくお役人やくにん大頭おほあたまに加へられてゐて、頭は古いが馬鹿でなかツたので、一度は歐羅巴えうろツぱ駐剳ちうさつ公使こうしになツたこともある。それで華族令くわぞくれい發布はつぷされると直に華族にれつせられて、勲章くんしやうも大きなのを幾個いくつか持ツてゐるやうになる、馬車にも乘ツて歩けるやうになる、何處へ押出しても立派に「御前ごぜん」で通れるほどの身分となツて、腰は曲ツても頭は何時も空を向いてゐる人であツた。今では閑職かんしよくに就いてゐるが、それでも大官たいくわんは大官だ。精力せいりよくはある、覇氣はきはある、酒はける、女には眼が無い、ひらツたく謂ツたら頑固な利かぬ氣のじいさんで、別の言で謂つたら身分の高い野蠻人やばんじんである。其のくせ馬鹿に體面たいめん血統けつとうを重んじて。そこで妾の腹に出來ても、自分のたねは種であるといふところから、周三を連れて來て嗣子しゝとしたのであつた。從ツて目的がある。父は、周三を自分の想通かんがへどほりに動く木偶でくになツてもらひたかツた。して、官吏くわんりまたは軍人ぐんじんにして、身分の體面を維持いじし、家の基礎きそを動かさぬだけの人間に仕上げやうと期してゐたのであツた。
 然るに周三は何時も此様なことを考へてゐた。「然うさ、阿父おやじの想は解かツてゐる、俺を家の番人ばんにんにしやうといふんだ………魂のある道具どうぐにして置かうといふんだ。一體家の阿父なんぞは、慈愛じあいだとか、人權を重んずるとかいふ考があツて耐るものじやない、とすりや、俺が此の家の嗣子となツたといふのも、俺自身に子爵家のちやく子となツてのさばる資格があるのじやなくツて、事件が作ツた資格さ。俺に取ツちや眞箇まつたく偶然ぐうぜんに得られた資格で、阿父からいふと必要に迫まられてあたへた資格なんだ。此様な資格が俺に取ツて何程の價値がある………假りに子爵が平民よりはえらいといふ特權があるとして見てからが、俺が子爵家の相續人となつたのに何の有難味ありがたみがあるんだ。人として何所にえらい點がある?俺は自己を發揮しなけりやならん、自己の存在を明にしなければならん………此様な家なんか、俺に取ツちや何でもありやしない。阿父は俺を生むで呉れた、併し其れが何もふところはありやしない………俺は阿父に對して何等の義務も約束も持ツて生まれて來なかつた。要するに何等の意味も目的も無く生まれて來たのだ。」
 周三は奈何いかなる場合にも「自己」を忘れなかツた。そして何處までも自己の權利を主張しゆちやうして、家または家族かぞくに就いて少しも考へなかツた。無論家の興廢こうはいなどゝいふことはてん眼中がんちゆうに置いてゐなかた[#「置いてゐなかた」はママ]。勢、父子爵と衝突せざるを得ない。父の彼に對する期待ははなはだ不安となつた。雖然父子爵とても人の親であるから、子に對する慈愛が無いでは無い。で思切つて此の一家内かないむほん人を家から放逐ほうちくするだけの蠻勇ばんゆうも無かツた。雖然家は周三よりも大事である。結局周三を壓伏あつぷくして自分の考に服從ふくじゆうさせやうとした。併し周三は、實に厄介やくかいきはまるせがれであツた。奈何なる威壓ゐあつを加へてもぐわんとして動かなかツた。威壓を加へれば加へるほど反抗はんかうの度をたかめて來た。そして軈ては、藝術家が最も自己を發揮するに適するからといふ理由りいうで、生涯しやうがい繪畫くわいぐわ研究けんきうゆだねるからと切込まれた。勝見子爵はがツかりした。恐らく子爵の生涯のうちに是程氣落のしないことはあるまい。
 そこで父子おやこ久しいあひだ反目はんもく形勢けいせいとなツた。母夫人はまた、父子の間を調停てうていして、ひやツこい家庭をあたゝめやうとするだけ家庭主義の人では無かツた。何方かと謂へば、父子の反目に就いて些とも頓着とんちやくしなかツたといふ方が適當てきたうだ。好く謂ツたら嚴正げんせい中立態度ちうりつないど[#ルビの「ちうりつないど」はママ]で、あへて子爵の味方をするのでも無ければ、また周三に同情を寄せるでも無かツた。さればと謂つて、審判官アンパイアーとなツて、一家の爲に何れとも話をまとめるといふことも無く、のんき高處たかみの見物と出掛でかけた。勿論もちろん母夫人は、華族でもなければ、藝術家でも無い。加之それに自分の分としては財産ざいさんも幾分別になツて、生活の安全も保證ほしようされてあるから、夫人に取ツては、何方がツてもけてもカラ平氣だ。そこでらざるおせツかいをせぬ事としてまし返ツてゐた。
 父はおこツてゐる、母夫人は冷淡れいたんだ。周三は何處にも取ツて付端つきはが無いので、眞個まつたく家庭を離れて了ツて、獨其のしつに立籠ツて頑張ツた。同時に彼は、子爵といふかんむりのある勝見家の門内もんないまツて、華族といふ名に依ツて存在し、其の自由を束縛そくばくされてゐることを甚だ窮窟にも思ひ、また意久地いくぢなく無意味に思ふやうになツた。そして何時とは無く病的びやうてきに華族嫌となツて了ツた。此の反動として、彼は獨斷どくだんで、父の所思おもはくに頓着なくドシ/\繪畫の研究に取懸とりかゝつた。
 此の根氣くらべは、遂に父子爵の敗北はいぼくとなツた。一つは多少たせう慈愛に引かれた結果けつくつ[#ルビの「けつくつ」はママ]もあツたが、さらに其のおくを探ツたら、周三をツて了ツては血統けつとう斷絶だんぜつの打撃となるから、出來ぬ我慢をしてかく周三の意志いし尊重そんちようすることにした。子爵はあきらめたのだ。また周三に對する考もかはツた。
「伜は阿呆あほうだが、好いまごを生ませる爲に家に置く。」
 これが子爵の心の奥にひそめた響であツた。要するに周三は、子爵の爲に、また勝見家の爲に種馬たねうまの資格となツたのだ。好いうまを生ませる爲に、種馬の持主もちぬしは誰にしても種馬を大事にする。此の意味で周三は、一家内から相應さうおう手厚てあつ保護ほごを受けることになツた。繪を研究する爲には、てい内に、立派な獨立どくりつの畫室もてゝ貰ツた。そして他から見ると、言分いひぶんの無い幸な若様わかさまになツてゐた。雖然種馬は遂に種馬である。父は飼主かひぬしの權威として、彼を壓迫しても其の義務を果させやうとした。然るに周三は、何處までも厄介極まる伜となツて此の壓迫に反抗した。
「何うかして、此の壓制あつせいの空氣を脱れたい。」
 周三はえず此の事に就いて考えてゐた。雖然周三とてもさすがに世の中のなみあらいことを知つてゐた。で熱する頭を押へて、愼重しんちよう詮議せんぎする積で、今日けふまで躊躇ぐづ/″\してゐたのであつた。
 併しながら今や絶體絶命ぜつたいぜつめいの場合となつて、何方とも身の振方を付けなければならぬ破目はめに押付けられてゐる。で、
斷行だんかうさ。もう何も考へてゐることあ有りやしない。此の上愚圖ぐづついてゐたら、俺は臆病者おくびやうものよ、加之お房のことを考へたつて………」と思はず莞爾につこりして、「然うよ、こりや一番お房に相談して見るんだな。」
其處でいらだつ心を押付けて、沈思默想しんしもくそうていとなる。と謂ツても彼は、何時まで此の問題にのみ取つ付いて、屈詫くつたく[#「屈詫の」はママ]おほい頭腦を苦しめてゐる程の正直者しやうぢきものでは無かツた。
 空想くうさうは、彼のやまひである。で此の場合にも彼は何時か、自分が飛出さうと思ふ社會に就いて考へた。社會の組織、社會の制度、社會の状態、社會の缺陥けつかん==何故人間社會には、法律はふりつ條文でうぶんじゆん査の長劍ちやうけんが必要なのであらうか。何故世の中には情死しんぢう殺人ひとごろし強盗がうとう姦通かんつう自殺じさつ放火はうくわ詐欺さぎ喧嘩けんくわ脅迫けふはく謀殺ぼうさつの騒が斷えぬのであらうか、何故また狂人きちがひ行倒ゆきだふれ乞食こじき貧乏人びんぼうにんが出來るのであらうか。それからまた、我々われ/\の住むでゐる、社會には、何故人間をこさへる學校と人間を押籠おしこめて置く監獄とが存在してゐるのであろう。また何が故に別そうつてゐる人と養育院やういくゐんに入る人と。くるまに乘る人とく人と教會ミツシヨンに行く人と賭場とばに行く人とが出來るのであらうか――際限も無く此様なことを考へ出して、何んとか解決を得やうと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)あがいて見た。雖然解らなかった[#「解らなかった」はママ]
 其のうち不圖ふとまた考がれた。今度は砂漠さばくに就いて考へた。
「時々キヤラバンが通るばかりで、さぞさびしいことだろう。だが其處にだツて人生があるんだ。」と思ふ。
「ところで俺は其の沙漠の中に抛出ほうりだされたやうなものなんだ。時々オーシスに出會でつくわするやうなことも無いぢやないか、淋しい旅だ!何方を向いたツて、さゝへて呉れるやうな者が見當みあたらない。たゞ沙漠のすな[#「檄」の「木」に代えて「火」、U+71E9、35-3]けてゐるやうに、頭がほてツてゐるばかりだ。そして何時颶風はやてが起ツて、此の體も魂もうづめられてしまうか知れないんだ。」
 考へると、自分がきはめて危險きけんな立場にゐるやうに思はれる。
「そりや其の筈よ、俺は何等の目的も無くめかけの腹にやどツた子なんだからな。」
 此様な具合に、頭の底に籠つてゐた考が、段々とハツキリ胸に閃いて來る。
「よし、俺は何うしても、自分のことは自分で始末を付けるとしやう。自分の頭にたかツたはひは、自分で逐ふさ。つまづいたツて、倒れたツて、人は何でも自分の力で、自分の行く道をひらいて行ツた方が、一番安心だ。それがまた生存せいぞんの意義にも適してゐるといふもんだ。馬じやあるまいし、種を取る爲に保護を受けてゐて耐るものか。」
 此の間、何うかすると、ゴト/\、ゴト/\と、輕い、併しながら不愉快ふゆくわいな響が耳に入ツて、惡く神經を小突く。氣が付いて見ると、其は風が中窓ちゆうまどや風拔の戸に衝突ぶつかツてるのであツた。
「此の風では、街頭まちすなほこり大變たいへんなものだらうな。いや、東京とうきやうの空氣は混濁こんだくしてゐる。空氣がにごツてゐるばかりならいが、其の空氣を吸ツてきてゐる人間はみなにごツてゐる………何しろ二百まんからの人間が、せま天地てんちに、パンに有付ありつかうと思ツて※々きよと/\[#「目+干」、U+76F0、35-16]してゐるんだ。みんな血走ちはしツてゐるか、困憊つかれきツた連中れんぢうばかりで、忍諸まご/″\してゐたらあご上がらうといふもんだから、各自てん/″\油斷ゆだんも何もありやしない。お互に生存の安全を得やうといふんで、惡狡わるごすく、すばしこく立廻たちまわツて、そりや惨忍ざんにんなもんだ。少し間のびた顏をしてゐる者があツたら、突倒つきたふす、※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)ふみのめす、噛付かみつく、かツぱらふ、うなる、わめく、慘たんたる惡戰あくせんだ。だからあせあかとが到處いたるところ充滿いつぱいになツてゐて、東京には塵埃ごみが多い。然ういふ俺も、其毒惡どくあくな空氣の中へ飛込んで奮闘ふんとうしやうといふんだが、武裝ぶそう充分じうぶんかな?」
 去事いざとなると、何だか氣おくれがする。何處かで、「心細い。」とさゝやくやうなこゑもする。而ると、黄塵くわうぢん濛々そう/\々として[#「濛々々として」はママ]、日光さへばむで見える大都たいとの空に、是が二百まんの人間を活動させる原動げんどう力かと思はれる煤煙はいえんが毒々しくツ黒に噴出し、すさまじい勢でぼやけた大氣の中を縦横じうおう渦巻うづまいてゐるのがハツキリ眼に映ツて來る。同時に風の音と共に、都會の複雑な音と響とがごツちやになツて、微に耳に響く。周三は、何と云ふ譯もなく此の音と響とを聞き分けて見やうと思ツて、じつと耳を澄ましてゐると、其の遠い音と響とを消圧けをして、近く、邸内の馬車廻ばしやまはし砂利じやりきしむ馬車のわだちの音がする。周三は耳をそばだてゝ、「ほ、御前ごぜん、何處へかおなりとお出でなツたな。」
 とニヤリとする。「先づしめたもんだ、わにの口の方でお逃げなすツたといふ奴よ。これで、俺様の天下さ。どれ、穴を出て、久しぶりでのどつかえぬ飯を喰ふとしやうか。」
 馬鹿に氣が伸々のび/\として來る。そこで、ぐいと落着拂ツて、平筆を洗ツて、片付けるものを片付けにかかる。片付けながら、彼は、ふと此んなことを考へた。「の壓制君主さへゐなかツたら、子爵家の主人あるじになツてゐられるのだ。」
 氣が付くと、頭の底に籠ツてゐる考は、何時か固い決心となつてゐたのであツた。それから二時間ばかり經ツて、周三はひげり、頭髪をき、薄色のサツクコートで、彼としてはみがき上げた男振をとこぶりとなツて、そゝくさいかめしい勝見家の門を出て行ツた。無論お房の家へ出掛けたので。

      *     *     *     *     *

 二週間ばかりすると、周三の生活状態は、からり一變して了ツた。彼は勝見の家の壓制な空氣を脱て、お房の家に同居した。所詮ながい間の空想を實現させたので、無論父にも義母はゝにも無斷だ。彼は此の突飛とつぴきはまる行動に、勝見の一まごつかせて年來ねんらい耐へに耐へた小欝憤せうゝぷんの幾分をらしたのである。一ぺん宣言書せんげんしよ==其は頭から尻尾しつぽまで、爆發ばくはつした感情の表彰へうしやうで、激越げきえつきはめ、所謂阿父のよこつらたゝき付けた意味のものであツた。先ず自己を尊重するといふ理由に依ツて、子爵といふ金箔をツて社會に立たうと思はぬといふのを冒頭のつけにして、彼の如き事情の下に生まれた子は、親の命令に服從する義務が無いと喝破かつぱし、假に義務があるとしても思想をことにしてゐるのであるから、壓制のとりことなツてゐることは出來ない。成程舊い道徳どうとくなわでは、親は子供の體を縛ツて家の番人にして置くことが出來るかも知れぬが、藝術の權威を遵奉じゆんぽうする自分の思想は其の繩をぶちる。例へば貴方の方には、自分をお叩頭じぎさせたり押籠おしこめたり裸にしたり踏※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)したり、また場合に依ツたらころしもすることの出來る力があるかも知れぬが、たゞ一ツ、自分の頭に籠ツてゐる「或物サムシング」だけは何うしても剔出へきしゆつすることは出來ない。としたら、貴方あなたが、ちからを似て[#「似て」はママ]自分を壓しやうといふことは、殆ど無用むよう※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)わるあがきと云はんければならぬ。尤も眼をいて見せたら子供はこはがる、こぶしを振廻したらねこに逃げる、雖然魂のある大人おとなに向ツては何等の利目きめが無い。自分は王侯わうこう寵愛ちようあいに依ツて馬車に乗ツてゐるちんよりも、むしろ自由に野をのさばツて歩くむくいぬになりたい。自分は自分の力によツて自分の存立を保證する。自體自分には親が無い。また何等の目的を持ツて生まれなかツた。いたづらに出來た子は、何處までも徒らに出來た子になツてゐたからと謂ツて、誰からも不足ふそくを聞く譯は無い筈だ。貴方の都合に依ツて、假にあたへられた目的、目的に附隨ふずゐする資格、其はあらためて唯今ただいま返上へんじやうする。
 種馬として名馬めいば仲間なかまに加はるのは甚だ光榮を感ずべきことかも知れぬ。併し自分は親の光を取受うけとツて[#「取受ツて」はママ]、自分を光らせやうとも思はなければ、また華族なる特別の階級クラスに立ツて自己を沒却ぼつきやくするのも嫌だ。自分はたゞの人として自己を發揮すればりる。と云ふにふでを止めて置いた。そして散歩さんぽにでも出るやうに、ぶらりと勝見家の門を出て了ツた。畫室などはそツくり其のまゝにして置いて、何一つ持出さなかツた。殆ど身一つで子爵家の空氣を脱れたといふ有様で、「自然の心」をすら放ツたらかして出て了ツた。此の意味からいふと、彼は子爵家から逃げたばかりで無い、其の生命とする藝術をすら見捨てたと謂はなければならぬ。何しろ周三は、其のさいせきゝてゐて、失敗の製作までも回護かはふだけ心に餘裕よゆうがなかツた。雖然奈何なる道を行くにしても盲者めくらつえを持ツことを忘れない。また何様なゑひどれでも財布さいふの始末だけはするものだ。周三も其の通りであツた。幾ら空想に醉はされてゐたと謂ツて、彼は喰はなければ活きて居られぬといふことを知ツてゐた。また自分の藝能では、此の喰ツて行くといふことが甚だ不安であることも知ツてゐた。そこで幾ら自由の空氣を吸う爲に氣があはて燥ツてゐたとは謂へ、また奈何にお房の匂を慕ツて心が混沌こんとんとしてゐたからと謂へ、彼は此の生活の不安に對する用意だけは忘れなかツた。彼は勝見の家を出ると定めてから、二三日間といふものは殆ど是が爲に奔走ほんそうして暮した。そして父の信用に依ツて多少の金も借入かりいれる、また自分の持ツてゐた一切の貴重きちやう品を賣拂うりはらツて、節約せつやくしてゐたら、お房母子おやこ諸共もろとも一年間位は何うか支へて行かれるだけの用意をした。彼としては非常な大骨折おほゞねをりで、わづか二三日の間に、げツソリ頬の肉が※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)けたと思はれるばかり體もつかれ心もつかれた。
 此の疲勞つかれが出たのか、周三は、お房の許へ引越ひツこして來たばんは實に好く眠ツた。


 不圖眼が覺めた。其處らがしんとして薄暗うすぐらい。體が快くものうく、そして頭が馬鹿に輕くなツてゐて、近頃ちかごろになく爽快さうくわいだ………恰で頭の中に籠ツてゐた腐ツたガスがスツカリ拔けて了ツたやうな心地である。氣が付いて見ると、何だか寢心ねごゝろが違ふ、何時も寢馴ねなれた寢臺ねだいに寐てゐるのでは無い。
「酒にでも醉ツぱらツて、此様な所に寐かされたのかな。」と思ツて見る。彼は幻心うつつごゝろで、尚だ邸に眠ツてゐるものと思ツてゐたのであツた。
 足がけツたるいので、づいと伸ばして、寐がへりを打つ、體の下がミシリと鳴ツて、新しい木綿もめんかほりが微に鼻をツた。眼が辛而やつと覺めかかツて來た。
 ると階下したの方で、
「お房や、些と先生せんせいをお起し申し上げたらいじやないか。だツて、もうお午だよ。」と甘ツたるいやうな、それでゐて疳高かんだかい聲がする。お房の母親の聲だ。
「でも、くおツてゐらツしやるんだもの、惡いわ。」と今度はまるい柔な聲がする。基れはお房で。周三は何といふことは無くじつと耳を澄ました。眼はパツチリ覺めて了つた。でも尚だとこの中にもぐもぐしてゐると、
「だツてさ、お前、其様なにおツちや、くろめとろけてお了ひなさるよ。じようだんじやないわね。」
「溶けたツて、此方こつちの眼じアあるまいし、餘計よけいおせつかいだわ。」と輕く投出すやうに謂ツた。かと思ふと海酸漿うみほゝづきを鳴らす音がする。後はまた寂然ひつそりする。
「成程俺はもう自由の空氣を吸ツてゐるんだ。今日からは、俺は俺の天下だ、誰にも頭を押へられはせんぞ。自立、自立………一つ大に行らう。」
 考へると、氣が伸々とする。何だか新しいうしほの滿ちて來るやうな、さかんな、爽快たうかいな感想が胸にく。頭の上を見ると、雨戸あまどふし穴や乾破ひわれた隙間すきまから日光が射込むで、其の白い光が明かに障子しやうじに映ツてゐる。彼は確にお房の家の二階に寐てゐたことが解ツた。
「好い氣味だ、阿父め、遉に吃驚してゐるだらう。いや、果断さね。俺としちや確に大出來だ。ふゝゝゝ。」と笑出して、「阿父め、確に俺に是れだけ行る度胸どきようが無いものと見くびツてゐたんだからな。の手紙を見て、何様顏をしてゐるか………おツと、其様なことは何うでも可いとして、これから小時暗中あんちう飛躍ひやくと出掛けるんだ。誰にもだまツて、此處に引込むでゐて、何か出來た時分に、ポカリ現はれて呉れる………屹度きつと大向おほむかふやンやと來る。そこで大手を振ツて阿父のとこへ出掛けて、俺の腕を見ろいさ。」
蒲団ふとんをばねて、勢好いきほいよく飛起きた。寢衣ねまき着更きかへて、雨戸をけると、眞晝まひるの日光がパツと射込むで、眼映まぶしくツて眼が啓けぬ。で子供が眼を覺ました時のやうに、眼をひツこすツてゐると、誰かギシ/\音をさせて、せま楷梯はしごのぼつて來る。
「お房かな。」と思ツて、所故わざと振向ふりむきもせずにゐる。果してお房だ。
 お房は上口あがりくちのところへ顏を出すと直ぐに、「ま、先生、能くお寐ツてね。」と他を輕く見たやうな、うはついた調子でいふ。
 周三は輕い不快を感じて、些とにがい顏をしたが、「草臥くたびれてゐたからさ。」
「ま、弱蟲よわむしね。先生、そんなにおはたらきなすツて。」と馴々しい。
「いや、格別働いたといふのじやないが、その、頭を使ツたからさ。」
「頭を使ふと、體まで疲れるもんですかね。」とお房は馬鹿にしたやうな薄笑うすわらひで。
てんでお話にならぬので、周三は默ツて了ツた。
 お房は、其には頓着なく楷梯を上りきると、先づがたびしする雨戸を三枚啓けて、次に手ばしこく蒲團をたたんで押入へ押籠む……夜の温籠ぬくもりは、二十日鼠はつかねづみのやうに動くお房のまほり[#ルビの「まほり」はママ]と、中窓から入ツて來る大氣とにさまされて、其處らが廓然からりとなる。お房は、更に其處らを片付け始めた。周三は此の間、お房の邪魔じやまにならぬようにと氣をつかツて、彼方此方あつちこつちと位置を移しながら、ポンとして突ツ立ツていた。が、不愉快だ。此處の空氣にも何だか自分を壓迫する要素えうそが籠ツてゐるやうに思ツた。
 併しお房は氣が利いてゐる女だ。何時の間にか新しいタオルと石鹸しやぼん齒磨はみがき楊子やうじとを取そろへて突き出しながら、
「むゝ。」とふくれ氣味のツちやまといふみえで、不承不精ふしやうぶしやう突出つきだされたしなを受取ツて、楊子やうじをふくみながら中窓のしきゐに腰を掛ける。此の指圖さしづめいたことをされたのが、また氣にかかツて、甚だ自分の尊嚴を傷つけられたやうに思ふ。でも直に思ひ復へして、
教養けうやうの無い女だから爲方がないさ、我慢しろ。其も是も承知でれたんじやないか。」と怜悧りかうあきらめた。そして、「何だツて俺の感情は、鋭敏えいびんなんだ、恰ではりねずみのやうさな。些とでも觸ツたらプリツとする………だから誰とも融和ゆうわすることが出來ないのよ。何故もそツとおツとりしない。」
風はやわらかに吹いてゐた。五月さつきの空は少し濁ツて、眞ツ白な雲は、時々宛然さながら大きな鳥のやうにゆるやかに飛んで行く。日光は薄らいだり輝いたり、都ての陰影いんえいは絶えず變化する。待乳山まつちやまの若葉は何うかすると眼映しいやうにきらめいて、其の鮮麗せんれい淺緑あさみどりの影が薄ツすりと此の室まで流れ込む。不圖カン/\鰐口わにぐちの鳴る音が耳に入る。古風な響だ。
「何だね、ありや?………」と周三はお房の方へ振向いた。
「あれ………」とお房は些と首を傾げ、箒を持つ手を止めて、
「鰐口の音ですわ。誰か聖天樣しやうてんさまへお参詣まいりしてゐるんですよ。」
「お参詣すると何様な功徳があるんだね。」とちやかすやうに謂ふ。
「何様功徳があるか知らないけど、みんながお参詣なさるんですの。」
みんなツて何様人さ。」
「ま、藝人が多いのね。そりや素人しろうとだツて、隨分お参詣なさいますけども。」
「素人衆ツて、何だえ。」
「貴方のやうな方なんですもの。」と澄ましていふ。
「じや、ふうちやんもお参詣するのか。」
「え。つい此間こなひだまでお百度を踏むでゐたんですもの………少しお願があツたもんですから。」と首を縮めて莞爾する。
「おねがひ?………」と周三は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはツて、「お願とア、何様なお願なんだえ。」
「そりや秘密ないしよなんですとさ。」と輕く謂ツて、「聞きたきア、聖天様に伺ツてゐらツしやい。」
「何だえ、隱さなくツても可いじやないか。」と少し突ツかかり氣味になツた。
「隱すツて譯じやないんですけれど………」と些と思はせぶりを行ツて、「ま、しませう。私にだつて、御信心ごしんじんがあるんですとさ。ね、解ツたでせう。」と邪氣つみの無い笑顔ゑがほを見せる。
「解らんね、些とも………」と周三は苦りきつて、「謂ツたツて可いだらう。謂はれない?………」
「だツてきまりが惡いんですもの………」とうそでない證據しようこといふやうに顏をあからめ、「をとこかたツてものは、他の事を其様に根堀ねほ葉堀はほりなさるもんじやないわ。」
生意氣なまいき謂ツてゐら………」と投出なげだすやうに謂ツて、「して、何かえ。其の、お百度の御利益ごりやくがあツたのかえ。」
「は、有ツたから、貴方が私ツとこへ來て下すツたんでせう。」と低い聲で、眞面目に謂ツて、クスリ/\笑い出した。
「何だ。」と周三は傍を向いて苦笑した。彼は確におひやられたのであツた。雖然何と思ツたのか格別腹も立てなかツた。
かいと謂ツても、ンの六でふで、一けん押入おしいれは付いてゐるが、とこもなければえんも無い。何のことはないはこのやうなへやで、たゞ南の方だけが中窓になツてゐる。天井は思切ツてすゝけてゐて、而も低い。かべは、古い粘土色へなつちいろの紙を張りつめてあツたが、處々ところ/\やぶれて壁土かべはみ出て、鼠の穴も出來ている。加之はしらも眞つ黒なら、畳も古い、「確に舊幕時代の遺物だ。」と思ツて周三は、づらり室を見廻して、「幕府ばくふ時代の遺物のうちに、幕府時代の遺民が舊い夢を見ながら、辛うじて外界の壓迫に耐へて活きてゐるんだ。ま、はい殘の人さな。俺の阿母おふくろも然うだツたが、家の母娘おやこだツて然うよ。昔は何うの此うのと蟲の好い熱を吹いてゐるうちに、文明の皮を被てゐる田舎者に征服せいふくされて、體も心も腐らして了ふんだ。早い話が、此の家にしても然うじやないか、三軒の棟割むねわり長屋を二軒まで田舎者に占領せんりやうされてゐる。そして都會は日に日に膨脹ぼうちやうする………膨脹とはガスが風船を膨らませる意味なんだから、ふくらむだけふくらむだら何時か破裂だ。何しろ米の出來るくににゐる田舎者ゐなかものが、こめの出來ない東京へ來て美味うまめしあり付かうとするんだからたまらん………だから東京には塵芥ごみが多い。要するに東京は人間の掃溜はきだめよ。俺も掃溜の中にもぐ/\してゐる一人だ。田舎者の眞似じやないが、米の無い土地で米をかせがうとするんだ。自體人間の生存税は滅切めつきり高價かうかになツて來た、こと吾々われ/\藝術家は激戰げきせんさい中で平和演説へいわえんぜつツてゐるやうなもんだから、存立そんりつあやふい!………これからは誰が俺のみたして呉れるんだ。豈夫まさかパレツトを看板かんばんにしてフリ賣もして歩けないじやないか!」
 考へると心細こゝろぼそくなる。何處に取ツて付端つきはが無いやうにも思はれる。
「俺も愈々渦の中をまひ/\してゐる塵芥になツてアツたんだ[#「アツたんだ」はママ]。」眼をそらして、づツと街頭まちの方を見る。何も見えない、窓と屋根やねばかりだ。中には活々いき/\青草あをくさえている古いくづれかけた屋根を見える。屋根は恰で波濤なみのやうに高くなツたり低くなツたりして際限さいげんも無く續いてゐた。日光の具合で、處々光ツて、そしてくろくなツてゐる。此の屋根の波濤なみは、大きな東京のふただ。
「蓋!大きいが、もろい蓋だ!何うかすると、ぶツこはされたり、けたりする。併し直につくろはれて、町の形を損せぬ。ただかはらが新しくなツたり古くなツたりするだけだ。」
古來こらい幾多いくたの人間は、其の下で生まれ、そして死んだ。時が移る、人が變る、或者は破壊はくわいした。併し或者は繕ツた。そして永劫えいがふの或期間だけ蓋の形を保續して來た、要するにあつまツた人の力が歳月さいげつたゝかツて來たのだ。雖然戰ツた痕跡こんせきは、都て埃の爲に消されて了ツた。
「埃の力は偉大ゐだいだ!」と周三は、ツと歎息ためいきして、少時埃に就いて考へた。
 おほいなる都會をうづつくさうとする埃!………其の埃は今日も東京の空にみなぎツて、目路めじはてぼやけて、ヂリ/″\り付ける天日てんぴがされたやうになツてゐた。其の鈍色にぶいろを破ツて、處々に煤煙はいえん上騰のぼツてゐる。眞直まつすぐ衝騰つきのぼる勢が、何か壓力に支へられて、横にもなびかず、ムツクラ/\、恰で沸騰ふつとうでもするやうに、濃黒まつくろになツてゐた。此のけむりほこりとで、新しい東京は年毎としごとすゝけて行く。そして人もにごる。つい眼前めのまへにも湯屋ゆや煤突えんとつがノロ/\と黄色い煙を噴出してゐた。其處らは人をすやうな温氣うんきを籠めたガスに、ツすりぼかされてゐた。其のガスの中から、斷えずカタ/\、コト/\と、車の音やら機械の音やら何やら何うしてゐても聞きさだめることの出來ぬにぶい響がれて來る………都會の音==活動の響だ。時々豆腐屋とうふやすゞの音、汽笛きてきの音、人の聲などがハツキリと聞える。また待乳山まつちやまで鰐口が鳴ツた。
 周三は、吃驚したやうに頭をもたげると、お房は何時の間にか掃除そうじましてわきに來て突立ツてゐた。
「何を考へてゐらツしやるの。」
「何も考へてゐやしない。」と無愛想ぶあいそうに謂ツて、墨々まじ/\とお房の顏を見ると、
「あら、其様に見詰めちや嫌ですよ。何か、くツついてゐて」と平手ひらてでツルリと顏をでる。
「何が、くツついてゐるもんか。白粉おしろいを拔りこくツた顏に、紅い唇と黒い眼と眉毛まゆけとがくツついてゐるだけよ。」
「じや、おばけ見たやうね。かあいさうに、これでも鼻がありまさアね。」
「誰も無いとあ謂やしない。確に眞ん中にある。而も好い鼻さ。」とふざける。
「え、何うせ然うなんですよ。にくらしい!………」と眼に險を見せ、些と顎をしやくツて、づいと顏を突出す。其の拍子ひやうしに、何か眼に入ツたのか、お房は急に肝々きよと/\して、ひど面喰めんくツたていとなる[#「髓となる」はママ]
「何うしたんだ。」と周三も怪訝けげんな顏をする。
「あれ、御覧ごらんなさいよ。誰か此方を見てゐますよ。」と囁くやうにいふ。
振向いて見ると、成程誰か、待乳山の観望臺ものみだいに立ツてじつと此方を見下してゐた。
周三は眼色を變へて、立起たちあがツたかと思ふと、突如いきなりピツシヤリ障子を閉めきツた。
「まあ。」とお房は、其の猛烈もうれつな勢にあきれて、瓢輕へうきんな顏をする。
「可かんな。那處あすこから此の室を見下されちや、恰で高土間たかどま芝居見物しばゐけんぶつといふ格だ。」と嫌な顏をする。
「可いじやありませんか。見られたツて、何でも無いんですもの。」
「いや、可かんよ。これじや來る奴にも見られるんだからな。俺は當分たうぶん隱れてゐなけアならん體なんだ。」
「解るもんですか。」
「いや。」と剛情がうじやうに頭を振ツて、「解らなくツても、見世物ではあるまいし、他から見られるといふのが面白くない。可かんよ、何とか工夫をしなけア………」と考込む。
「じや、障子を閉めきツて置いたら可いでせう。」
「ま、然うでもするんだが………然うすると、體に好くない。それでなくとも………」と室の隅から隅へ眼を配ツて、「空気の流通りうつうが惡いんだからな。」
「其様な勝手なことを有仰おつしやツたツて可けないわ。そりや何うせおやしきにゐらツしやるやうなことは無いんですからね。」と何でもづけ/\いふのがお房の癖である。
「むゝ。」と默ツて了ツて、「何しろ氣のまる室だ。これじや畫室の裡に押込められてゐた方が氣がいてゐるかも知れん。」と思ふ。
 間も無く兩人ふたり階下したに下りた。階下はまた非常に薄暗い。二階から下りて來ると、恰で穴の中へでも入ツたやうな心地がする。それでも六でふと三畳と二室ふたまあツて、格子かうしを啓けると直ぐに六畳になツてゐた。此處でお房の母は、近所の小娘や若い者を集めてお師匠ししやうさんを爲てゐる。と謂ツて、自分でも出来るといふ程出來はしないと謂ツてゐる位だから、大した腕は無い、長唄の地に、歌澤うたさはも少しけて、先づモグリをしてゐるには差支さしつかへのない分のことだ。
 隅の方には古いながらも前桐まへぎり箪笥たんすも一本置いてあツて、其の上に鏡臺きようだいだの針箱だのがせてある。何れもしやうの知れたものだが、手入が可いので見榮みはえがする。正面には家に較べて立派な神棚かみだながあツて、傍の方に小さな佛壇ぶつだんもあツた。神棚には福助ふくすけが乗ツかゝツてゐて、箪笥の上には大きな招猫まねきねこと、色がめてしぼんだやうになつて見える造花つくりはな花籠はなかごとが乗りかツてゐた。壁には三味線さみせん三棹みさほかゝツてゐる、其の下にはきり本箱ほんばこも二つと並べてある。何しろ此の家の財産の目星めぼしい物といふ物が殘らずさらけ出してあるのだが、其れが始末好く取片付とりかたつけられてゐるから、其處そこらがキチンと締ツて清潔せいけつだ。そして此の陰氣いんきじめ/\した室にも、何處となく、小意氣こいき瀟洒さつぱりした江戸的氣風が現はれてゐた。三畳の方は茶の間になツてゐて、此處には長火鉢ながひばちゑてあれば、小さなねずみいらず安物やすもの茶棚ちやだなも並べてある。はしらには種々なお札がベタ/\粘付はりつけてあツた。次が臺所だいどころで、水瓶みづがめでも手桶てをけでも金盥かなだらいでも何でも好く使込むであツて、板の間にしろかまどにしろかまにしろお飯櫃はちにしろ、都てふきつやが出てテラ/\光ツてゐた。雖然外はきたない。市井のそこに住む人等ひとたちあふらと汗とが浸潤しんじゆんしてか、地は、陰濕じめ/″\してどす黒い………其のどす黒い地べたに、ぽツつり/\、白くしやれた貝殼かひがらが恰で研出とぎだされたやうになツてゐる。下水げすゐからは下水の水があふれてゐる、芥箱には芥が充滿いつぱいになつている。其處らには赤くびたブリキのくわんひしやげたのやら貧乏びんぼうとく利の底の拔けたのやら、またはボール箱の破れた切ツ端やら、ガラスの破片かけらやら、是れと目に付くほどの物はないが、要するにすたれて放擲られた都會の生活のかす殘骸ざんがい………雨と風とに腐蝕ふしよくしたくづと切ツぱしとが、なほしもさびしい小汚こぎたないかげとなツて散亂ちらばツてゐる。臺所から十歩ばかりで井戸がある。井戸はきう時代の遺物ゐぶつと謂ツても可い車井戸で、流しの板も半腐はんぐさりになツて、水垢みづあかこけとで此方から見ると薄ツすり青光あをひかりを放ツてゐた。車も歳月の力と人の力とにらされて、繩が辛而やつとはまツてゐる位だ。井戸の傍に大株おほかぶ無花果いちゞくがコンモリとしてゐる。馬鹿に好く葉がしげツてゐるので、其の鮮麗せんれい緑色みどりいろが、むし暗然あんぜんとして毒々どく/\しい。これが、此の廢殘はいざんさかひのさばつてもつとも人の目を刺戟しげきする物象ぶつしやうだ………何うしたのか、此の樹のこずえあかいと一筋ひとすじからむで、スーツと大地だいちに落ちかゝツて、フラ/\やはらかい風にゆらいでゐた。
 何故なぜか此の有るか無きかの影が、ハツキリと眼に付いた。
「誰が、彼處あすこ彼様あんないとをかけたのだらう。」と周三は考へた。途端とたんに日はパツとかゞやいて、無花果の葉は緑のしづくこぼるかと思はれるばかり、鮮麗にきらめく。
 何しろ幾百年來ねんらい腐敗ふはいしたあらゆる有機體いうきたいの素を吸込すひこむで、土地はしツけてゐる。ところへものし、そして發酵はつこうさせるやうな日光が照付てりつけるのであるから、地はむれて、むツと息のまるやうな温氣うんき惡臭あくしうとを放散ほうさんする。
「生活のえるにほひだ!」
 其の時、周三の頭に、まぼろしごとく映ツたのは、都會生活の慘憺さんたんたる状態じやうたいだ。「何も驚くことはありやしない。此の臭をれて平氣へいきになツて了はなけア、自分で自分の存在そんざい保證ほよう[#ルビの「ほよう」はママ]することが出來ないんだ。」
 雪隱せちいんわきには、紫陽花あじさゐの花がひよろけさびしくいてゐた。花の色はもうせかゝツてゐた。
其れから少し離れて、隣家となり※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎツて捨てたいわしの頭が六ツ七ツ、尚だ生々なま/\しくギラ/\光つてゐた。其にぎん蠅がたかツて、何うかするとフイと飛んでは、またたかツてゐた。
あれ造物者ざうぶつしやが作ツた一個の生物せいぶつだ………だから立派に存在している………とすりや俺だツて、何卑下ひげすることあ有りやしない。然うよ、此うしてゐるのがう立派に存在の資格があるんだ。何の目的も無く生まれたからツて………何さ、むでもらツたからと謂ツて、其れがかならずしも俺の尊嚴そんげんどろを塗るといふわけではあるまい。」と周三は、ふと頭の底から苦しい考を引ツ張り出した。
「早い話が、何家どこの大事な公達きんだちだツて、要するに、親の淫行の收穫よ。ふゝゝゝ」とあやふく快げに笑出さうとして、「ま、安心だ………是だけア確に安心が出來やうといふもんだ。そりや生むのは親だらうが、生まれるのは自然だからな。自體親から必要を感じて生んで貰ツた人間が幾らあるんだ?………と氣が付かずに、やきもき氣をんでゐたのア馬鹿だ。成程此の事じや、其様に阿父を憎むことは出來ないて!………俺だつて親になるかも知れんのだからな。だが人間と云ふやつは、親になると、何うして其處そんな勝手な根性こんじやうになるんだ。何等の目的も無く生むで置きながら、せがれやくざだと大概たいがい仲違なかたがひだ!其處が人間のえらい點かも知れんが、俺は寧ろ犬ツころの淡泊たんぱくな方を取るな。彼奴きやつ子供を育てたからつて決しておんを賣りはしない。」
 周三は、臺所に立ツて顏を洗ツてゐる間、種々な物をて、そして種々な事を考へた。彼の頭は自由の空氣に呼吸こきふするやうになツても、依然としてせわしく働いて、そしてはりのやうにするどい。
 周三は、此の朝、久しぶりで下町したまちの水で顏を洗つて、久しぶりで下町の臭を嗅いだ。そして眼に映ツた物は、都て不快な衝動しようどうあたへたにかゝはらず[#「抱はらず」はママ]しかも心には何んといふことは無く爽快そうくわいな氣が通ツて、例へば重い石か何んぞにせられてゐた草のが、不圖ふといしを除かれて、伸々のび/\と春の光にぬくめられるやうな心地になツてゐた。で、腕の血色けつしよくを見ても、にごりれて、若い血が溌溂はつらつとしてをどツてゐるかと思はれる。
 頭の中に籠ツてゐた夜の温籠ぬくもりを、すツかり清水せいすいまして了ツた、さて長火鉢ながひばちの前にすはると、恰で生まれ變ツたやうな心地だ。
お房の母は愛想あいそく、「窮屈な、嫌な箇所とこでせう。」
 と謂ひながら茶をむで呉れる。
何有なあに、僕は些と此様こんなな箇所がしやうかなつてゐるんでね。」
 と負惜まけおしみをいふと、
「ま、とんだ御愛嬌ごあいけうですこと………」と若々わか/\しく笑ふ。
 それしやの果てか、何しろほツそりした意氣なおふくろだ。薄い頭髪、然うとは見えぬやうにきよう櫛卷くしまきにして、兩方りやうほう※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみ即効紙そくかうしを張ツてゐた。白粉燒おしろいやけ何方どつちかといふと色は淺黒あさぐろい方だが、鼻でも口でも尋常じんじやうきりツと締ツてゐる。肉は薄い方だ、と謂ツてとがツた顏といふでは無い。輪郭りんくわくを取つたら三かくに近い方で、わりひたひひろく、加之拔上ぬけあがツて、小鼻まわりに些と目に付く位に雀斑そばかすがある。それでもあらそはれぬ證擔しようこ[#「證擔は」はママ]、眼と眉がお房にそつくりで、若い時分はお房よりもあだツぽい女であツたらうと思はれる。幾度水にくゞツたかと思はれる銘仙めいせんあはせに、新しい毛襦子けじゆすえりかけてしやツきりした姿致やうす長火鉢ながひばちの傍に座ツてゐるところは、是れが娘をモデルに出す人柄ひとがらとは思はれぬ。年は四十五六、繊細きしやな手にすら小皺こしわが見えてゐた、[#「見えてゐた、」はママ]
 お房は、チヤブ臺を持出もちだしたり、まめ/\しく立働たちはたらいて、おぜん支度したくをしてゐる。周三は物珍ものめづらしげにれを見たり是れを見たりして、きよろついてゐると、軈てお膳に向ふ段取だんどりとなる。見れば、自分の爲に新しい茶碗ちやわんかくはしまでが用意されてあツた。周三は一しゆあつたか情趣じやうしゆを感じて、何といふ意味も無くうれしかつた。併しおかづ手輕てがるだ、葡萄豆ぶだうまめ紫蘇卷しそまき燒海苔やきのり鹿菜ひじき蜊貝あさりのおつゆ………品は多いが、一ツとしてたすにりるやうな物はない。加之味も薄い。雖然周三は、其れにすら何等の不滿を感ぜず、したと胃の腑の欲望よくぼうを充すよりも、寧ろ胸にゆたかな興趣きやうしゆくのを以つて滿足した。要するに彼は、し此時だけにもしろ、味が薄いが、かんにして要を得た市民的生活が氣に適ツたのであつた。
何有なあに、これでいさ、澤山たくさんだ。何うにか辛抱しんぼうの出来んこともあるまい。人間は、肉は喰はなくつても活きてゐられる動物よ。」
 此くてめしむと、三人して、一ツきり雑談に時を移した。
 雜談ざつだんの間に周三は、何かひツかゝりを作へては、お房の素性すじやう經歴けいれきとを探つた。そしてほぼ想像そう/\して見ることが出來るまでにぐり出した。
 要するにお房は平凡な娘だ。周三が思つてゐたよりも無邪氣むじやきで、また思ツたよりも淺い女らしい。たゞ些と輕い熱情のあるのが取得と謂えば取得だが、それとても所謂いわゆるはなぱりが強いといふ意味に過ぎぬ。さればと謂ツて、ナンセンスといふ方では無い。相おう[#「相おうに」はママ]苦勞もあれば、また女性のまぬがれぬ苦勞性のとこもある。無垢むくか何うか、其れは假りに問として置くとして、左程さほど濁つた女で無いのは確だ。一體見得坊で、少し片意地な點もあつて、加之に負嫌まけぎらい。經歴といへば、母と一緒に生活の苦勞をたゞけのことで。
 雖然其の運命は悲慘な幕におほわれる。父は、お房が十二の年に世間からはくたばツたと謂はれて首をくゝツて死んだ。其の動機は事業の失敗しつぱいで、奈何いか辛辣しんらつ手腕しゆわんも、一度逆運ぎやくうんに向ツては、それこそなたの力を苧売おがら[#「苧売で」はママ]防ぐ有様ありさまであつた。で※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)あがけばつまづき、躓いては※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)き、揚句あげくに首も廻らぬ破目はめに押付けられて、一夜あるよ頭拔づぬけて大きな血袋ちぶくろ麻繩あさなわにブラ下げて、もろくもひやツこい體となツて了ツた。そして其の屍體したいが地の底におさまるか納まらぬに、お房の家は破産の宣告せんこくを受けて一離散りさんとなツた。
父といふ人は、強慾がうよくで、そして我執がしふの念の強い、飽迄あくまでも物質よくさかんな人物であツたらしい。始のほどは高利かうりの金を貸し付けて暴利ぼうりむさぼり、作事こしらへごとかまへて他をおとしいれ、出ては訴訟沙汰そしようさたツては俗事談判ぞくじだんはんゆる間も無き中に立ツて、ぐわんとして、たゞ其の懐中くわいちうこやすことのみ汲々きふ/\としてゐた。因より正當せいたうの腕をふるつてまうけるのでは無い、惡い智惠ちえしぼツてフンだくるのだ………だから他のうらみひもする。併し金はまつた。お房の母は、また、其れが苦になツて、をりさへあれば其の非行ひかうを数へ立てて、所天をツテ罵倒こきおろした。雖然馬の耳に念佛ねんぶつだ。一體父は、余り物事に頓着とんちやくせぬ、おつとりした、大まかな質でありながら、金といふ一段になると、體中の神經がピリ/\響を立てて働くかと思はれるばかり、遣口やりくち猛烈まうれつとなる。從ツて慘忍ざんにんを極め辛辣を極めて、殆んど何物なにものがん中に置かず、眞箇まツたくシヤイロツク的人物となツて了ふ。されば夫婦の間は、何時か不和ふわになツて、父はぎやく待する、母は反抗する、一粉統ごだ/\としと共につのるばかりであツた。併しお房は、父が無類むるゐ強慾がうよくにも似ぬ華美奴はでごのみであツたおかげに、平常ふだんにも友禪いうせんづくめで育ツてゐた。
 然るに父の慾望は一年々々に膨大ぼうだいとなツて、其の後不圖ふと事業熱じげふねつに取ツ付かれた。そしてあやしい鑛山くわうざんやら物にならぬ會社やら、さては株や米にまで手を出したが、何れも失敗で、折角のあつぜにをパツ/\とき出すやうな結果となつた。さいの無いのに加へて、運が後足で砂と來てゐる………何うして其の計畫のあたらうはずが無い。名譽めいよよりも地位よりも妻よりも娘よりも、また自分の命よりも大事な財産は、何か事業を起す度毎たびごとに幾らかづつ減つた。減る度に大きな歎息ためいきだ。それでも事業熱は冷めなかつた。しや事業熱はめても、失敗を取返へさう、損害をつくのはうといふ妄念まうねんさかんで、頭はほてる、血眼ちまなこになる。それでも逆上氣味のぼせぎみになツて、危い橋でも何んでもやたらと渡ツて見る………矢張やはり失敗だ。※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)けば※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)くほどきずを深くして、結局自滅だ。
「いやはや、も、阿父の亡くなツた時のまごつき方と謂ツたらありませんでしたね。今考てもぞツとしますわ。」と謂ツて、おふくろは、話の一段を付けた。そして些と娘の方を見て、「ですから私等も、とつ頃は可成かなりに暮してゐたものなんですが、此う落魄おちぶれちやくそですね。」
 周三は垂頭うつむき加減で、默ツて、神妙しんめうに聞いてゐたが、突如だしぬけに、「だが、其の贅澤ぜいたくを行ツてゐた時分と、今と、何方が氣樂だと思ひます。」とぶしつけたづねる。
「然うですね………」とおふくろは、些とまごついた躰で、かるく首を振る。そして不思議さうに周三の顏をみつめた。
 周三はせいのないやうな薄笑うすわらひをして、右の肩をむツくらそびやかし、「自分といふものゝ沒却ぼツきやく………ま、其の何だ。一口ひとくちにいふと、すツかり我を無くしてゐても、大きな家に入ツて、美味うまい物を喰ツて、しやなら/\と暮らしてゐた方がいと思ふんですか。」
 おふくろは、何の事だかとんと解らないといふ風で、
「え、そりや………」とあやふやなことを謂ツて、お房の顏を見る。
 お房は、所故わざとケロリとした顏をして、酸漿ほゝづきらしてゐた。
周三は、いらつき氣味で、「じや、何うです。ちんころになツて馬車に乗るのと、人間になツて車力しやりきくのと何方が可いと思います。」
「ふゝゝゝ。」とおふくろは、くすぐツたいやうに笑出して、「何だか、なぞかけられてゐるやうですね。」と事もなげにいふ。
「解らない?………然うですかね。」と周三は、解らぬことは無い筈だといふやうにおふくろの顏を見る。
 お房は傍から口を出して、「だけど、阿母おつかさん、そりや阿父おとつさんが生きておいでだツたら、此様に世帶せたいの苦勞をしないでゐられるかも知れないけれども、其のかわりまた何様な苦勞かあるか知れたもんじやないのね。」
「そりや然うだとも!………世の苦勞があるから、偶時たまにア亡くなツた人のことも思はないじやないけども正直しやうじき家作かさくでも少しあツたら、此うしてゐた方が幾ら氣らくだか知れやしない。」
「だけど、貧乏びんぼういやだわ。」とお房は、臆病おくびやうらしく投出なげだすやうにいふ。
「そりや嫌さ。ひんすればどんするツていふからね。」
眞箇まつたくね。」
「でも私ア、いけはたにゐる時よか、いツそ此うしてゐた方が、まだ/\のんきな位なもんだよ。」
「そりや阿母さんはもう、御酒おみきでも少しきこしめしてゐらツしやりや、太平樂たいへいらくさ。」
「馬鹿なことをお謂ひでないよ。お前は何かてえと、おみきお酒ツてお謂ひだけれども、私が幾らむもんじやない。二がふけア大概たいげまゐツて了ふんだかや、月に積ツたツて幾らがものでもありやしないよ。お前………其れも毎晩まいばん飮むといふんじやなしさ。」
「フン、女のくせに二合もけりや豪儀がうぎだゼ。」とお房はひやゝかに謂ツて、些と傍を向き、「だツて、一月ひとつき儉約けんやくして御覧ごらんなさいな、チヤンと反物たんものが一たんへますとさ。」
「でもお前、幾ら着物を作えたツて、苦勞は忘れられないよ。阿母さんのやうになツちや、是れツてえ樂しみがあるんじやなし、お酒でも飮まなけア遣切やりきれないやね。」
「阿母さんさけを飮むのですか。」と周三は、呆きれたような顏で横鎗よこやりだ。
「え、んの少しばかしね。何者なあに、飮まなけア飮まないでも濟むんですけども、氣がうつした時なんか一ツ猪口ちよこいただくてえと、馬鹿にい氣持になツて了ふもんですから、つい戴く氣になツて了ふのですの。貴方あなたは?」
けません。」とめうかた苦しくいふ。
あがらないの………」とがツかりしたやうに謂ツて、「何方かツてえと、あがらない方が可いんですよ。そりやもう其れが可いんですけれども」………と氣怯きおくれがするのか、少しとちり氣味で、私なんか、飮みならツて了ツたもんですから、些とめるてえ譯にはまいらないんですよ。酒の味が、もうすツかり骨身ほねみ沁渡しみわたツて了ツたんですね。其がてえと、貴方、尚だ所天やどがゐた時分じぶんに、ほら、氣が莎蘊むしやくしやすることばかりなんでせう、所天はもうお金に目が眩むでゐるんですから、私が何と謂ツたツて我を押張おしはツて、沒義道もぎだうな事を爲す、世間からは私までが夜叉やしやのやうに謂はれる、私がまた其れが死ぬよりもらかツたんですけれども、これがゐてゝ見りや、貴方、豈夫まさかに別れることも出來ないじやありませんか。私はもう何の因果で此様な人と夫婦いつしよになツたんだらうと思いながら、種々義理の絡まツてゐることもあツたんですし、嫌でもつとめるだけのことは勤めなければならない。さア、面白くないからふくれもしますさ。ぬ[#「ぬ」はママ]、家は始終しよつちう紛糾ごた/\するツてツた譯なんでせう。爲方しかたがないから、御酒ごしゆむしを耐へてゐたのが、何時かんとののむべいになつて了ツたんですけれども、そりや誰だつて好んでのむべいになる者アありやしませんよ。」
「嫌だよ、阿母さんは!………何んとかうま理屈りくつを何ける[#「何ける」はママ]んだもの。」とお房は、飜弄まぜつかへすやうにいふ。
きらひな子だよ、お前は何時でもちやかしてお了ひだけれども、眞箇なんだよ。」とおふくろ躍起やくきとなツて、「そりやお前には私の苦勞が解らないんだから………」
「ですから、澤山たんとあがんなさいましよ。」とまたちやかす。
おふくろは眼でもつて、些と忌々いま/\しさうにして見せたが、それでもおこりもしないで、「お前は眞ンとに思遣おもひやりが無いんだよ。」と愚痴ぐちるやうにいふ。
 お房は思切ツていけぞんざい語調てうしで、「へツ、其様な人に思遣があツて耐るかえ。此のうへ飮まれたんじや、無けなし身上しんじやうつぶしだア!」と言尻を引く。
 周三は眼をまるくした。そしてじツとお房の顏を見詰めた。
豈天まさか[#「豈天まさか」はママ]、お前………」とおふくろは何處までも氣の好い挨拶あいさつだ。
周三は笑止きのどくに思ツた。で、幾らかおふくろに同情した積で、「然うですかナ、酒を飮むと、實際氣が晴れるものでせうか。」と合槌あひづちを打つ。
「そりや晴れますよ。ま、飮むでゐるうちア、眞箇何も彼も忘れて了ひますね。」
「然うですかナ。じや僕も飮むかな。」
「些とおあがりになツた方が可うございますよ。」
「ま、耐らない、のむべゑ兩人ふたりになられたんじや、私が遣切やりきれないよ。」とお房は無遠慮ぶえんりよかツけなす。
「可いじやないか、ふうちやんものむべゑの仲間入するのさ。三人して朝からへゞツてゐることにすりや、いぜ。」と周三はふざける。
「何が好いもんですか。ひと狂人きちがひだツて謂はれてよ。」
かまはんさ。のんきで可いじやないか。」
「好いね、のんきが可いね。」とおふくろは、上づツた聲で、無法むはふうれしがり、「一日でも可いから何うかして其様なことにしたいもんだ………何と謂われても管はない、私はのんきになりたいね。」
「生活につかれた悲音ひおんだ!」と周三はつぶやく。
「嫌なこツた!のんきになりや世間の笑草わらひぐさだわ。」
 とお房は、おふくろ打付ぶツつけるやうにいふ。それからまたおふくろ身上みのうへ話が始まツて、其の前身は藝者げいしやであツたことが解ツた。身上話が濟むと貧乏話と來る。おふくろ色消いろけしにつつむで置くべきボロまで管はずぶちまけと、お房はさすがに顏をあからめて注意を加へた。それで周三は、お房の家が見掛よりも、また自分の想像してゐたよりも苦しがりであることを知ツた。同時にまたおふくろという人は、些とぐうだらなとこはあるが、氣のさくいどくのない人といふことも解ツた。
「私が意久地いくじが無いからなんですよ。阿父が亡くなつたからツて、此様にこまらなくツても可い譯なんですがね。」とおふくろは、話の間に幾度か氣の引けるやうに謂ツた。
周三はまた、「何點どこか俺の生母せいぼに似たとこがある。」と思ツた。で何となく懐慕なつかしいやうにも思はれ、また其のさびしい末路まつろあはれになツて、
「俺の生母はゝのやうに早死わかじにしても憫然かあいさうだが、また比の[#「比の」はママ]おふくろのやうになツても氣の毒だ。」とムラムラと同情の念が湧いた。そこで「ま、可いさ、其様に懊々くよ/\しても爲方が無い。僕は何うかなりや決して放擲ツちや置かん。」と熱心に氣やすめばかりでないところを謂ツて、「何うせ、人生じんせいツてものは淋しいものさ。不幸なことを謂や僕なんか随分ずいぶん………」と謂ひかゝツて、ふと口をつくむでお房は氣の無い顏で外の方をながめてゐる。
 周三は、針でつゝかれたやうに不快を感じて、フイと氣が變る。顏がにがりきツた。途端とたんにチヤキ/\木鋏きばさみの音がする。
「おや、花屋はなやさんが來たやうだね。」とおふくろも外をのぞくやうにする。
 お房はと立起ツて、あたふ [#「あたふ 」はママ]格子の方へ行くかと思ふと、と、振返ツて、「お花ばかりで可いの。」
「然うね、何かさし花でも少しお取りな。」
 お房は、點首うなづいたまま、土間を下りるか下りぬに、ガラリ格子戸をけ、顏だけ突出つきだして大きな聲で花屋を呼ぶ。
「ま、何てえ大きな聲をするんだろう。」とおふくろは、些と眉をひそめ、「からは大きくツても、尚だカラ赤子ねんねなんですから。」と周三の顏を見て薄笑をする。
 周三は傍を向いて無言だ。彼の眼に映ツた豊艶ほうえんな花は少しづつ滲染しみが出て來るやうに思はれるのであツた。おふくろ迂散うさんらしい顏で、しげ/″\周三の顏をみつめてゐた。間も無くお房は銭の音をちやらつかせる。周三は何といふことは無く振向いて見た。而るとお房は、紅を吸上げさせた色のめたやうに淡紅い菖蒲あやめの花と白の杜若かきつばたとを五六本手に持つて、花屋と何か謂ツてゲラ/\笑出す。周三は耐らず嫌な氣持がしたので、ぷいと立起ツて二階へ歸らうとする………と格子の外にゑてある花屋の籠に、花といふ花が温い眞晝の日光を浴びて、凋むだやうになツて見えるのがさらと眼に映ツた。
 それを見たまま、周三はさツ/\と二階へ上ツて了ツた。
周三が梯子はしごを上りきる時分に、お房は花を箪笥たんすの上に置いて三でふへ入ツた。
「何うしたの?」と低聲ここえにいふ。
 おふくろは、默ツて輕く首を振ツて見せた。お房は、くの字なりべツたり坐ツて、
「お天氣な人ね。」とへいちやんだ。
「でも、何かお氣にさはツたのかも知れないよ。」
「フン、何も此方が惡いことを爲たんじやあるまいし、勝手に慍ツてゐるが可いわ。」
 と投出すやうに謂ツて湯呑ゆのみを取上げ、冷めた澁茶しぶちやをグイと飮む。途端とたん稽古けいこに來る小娘こむすめが二三人連立つれだツて格子を啓けて入ツて來た。
      *      *      *      *      *
 周三は、一ヶつきばかり虚々うか/\と暮して了ツた。格別面白いといふ程の事は無かツたが、また何時まで頭に殘ツてゐる程の不快も感じなかツた。芝居しばゐには二度行ツた。寄席よせにも三ばんばかり行ツた。併し何方にも何等の興味きようみを感ぜず、單に一所いつしよに行ツたお房とおふくろを悦ばせたといふに過ぎなかツた。それから繻珍しゆちん夏帶なつおびとおめし單衣ひとえ綾絹あやぎぬ蝙蝠傘かふもりがさとを強請ねだられてはせられたが、これは彼の消極的經濟せうきよくてきけいざいに取ツて、預算よさん以外の大支出だいししゆつで、確に一だい打撃だげきであツた。雖然お房のみたす爲にあへて此の苦痛くつうしのんだ。しかるにお房は、彼の財布さいふにはそこが無いものと思ツて、追續おツつぎ/\/\預算以外の支出を要求して、米屋八百屋の借をはらはせたり、家賃やちんの滯をめさせたり、まとまツて幾らといふ烏金からすがねくちまで拂はせた。それで周三の財布は一日々々に萎縮いしゆくした。
たまらんな、う取付けられちや!」と周三は、その貧弱ひんじやくきわまる經濟けいざい前途ぜんとむかツて、少からぬ杞憂きいういだいた。彼は必しも金ををしむといふのではないが、自分の腕にツて自己の存立そんりつを保證されるまで、其金に依ツて自己をささへて行かなければならぬかと思むと、勢きりつめ主義にもなるのであツた。きりつめ主義を實行しやうとすると、お房のほゝが膨れる。そこで謂ふがままに支出した。實際大苦痛である。雖然其苦痛をつぐなふだけの滿足もあツたのだから、何うにか此うにかおツこらへては經てゝ來た。滿足とはガラスをすかして見てゐた花を手に取ツて頬ずりしたことであツた。此の滿足に依ツて、燃えてゐた血は幾か鎭靜ちんせいになツたが、氣は相變あひかはらず悶々する。何を悶々するのか自分にも能くは解らなかツたが、始終悶々する。成程なるほどやしきにゐた時分、頭の中に籠ツてゐたガラスはすツかり脱けて了ツた。併しお房の家には、彼の鋭敏な感情をつツつく針があツて、斷えず彼を惱ますのであツた。そして自ら生命としてゐた藝術も忘れて了ツて、何時とはなくあじの薄い喰物にも馴れて行くのであツた==平民の娘は次第に彼の頭を腐蝕ふしよくさせた。





底本:「三島霜川選集(中巻)」三島霜川選集刊行会
   1979(昭和54)年11月20日発行
初出:「文芸倶楽部」
   1907(明治40)年8月1日
※「パレツト」と「バレツト」、「顔」と「顏」、「雑」と「雜」、「悪」と「惡」と「変」と「變」、「出来」と「出來」、「争」と「爭」、「来る」と「來る」、「圧」と「壓」、「べて」と「べて」、「欠」と「缺」、「惨」と「慘」、「縦」と「縱」、「巻」と「卷」、「乗」と「乘」、「断」と「斷」、「蒲団」と「蒲團」、「畳」と「疊」、「聖天様」と「聖天樣」、「空気」と「空氣」、「数」と「數」、「随分」と「隨分」、「裸体」と「裸體」、「歿」と「沒」の混在は、底本通りです。
※「/″\」の誤用と思われる箇所もありますが、底本通りとしました。
※誤植を疑った箇所は、「原文そのものにも何箇所か誤ったルビが打たれており、加えて適宜な宛字もあるので、校正に当たった人々のシンクは大変であった。とはいえ、できる限り原文に忠実に、原作を損ねないよう配慮したことはいうまでもない。」と底本に記述されていることを鑑みママ注記としました。
入力:小林 徹
校正:富田晶子
2016年7月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「檄」の「木」に代えて「火」、U+71E9    35-3
「目+干」、U+76F0    35-16


●図書カード