町の踊り場

徳田秋声




 夏のことなので、何か涼しい着物を用意すればよかつたのだが、私は紋附が嫌ひなので、葬礼などには大抵洋服で出かけることにしてゐた。紋附は何か槍だの弓だの、それから封建時代の祖先を思はせる。それに、和服は何かべらべらしてゐて、からだにしつくり来ないし、気持までがルウズになるうへに、ひどく手数のかゝる服装でもある。
 それなら洋服が整つてゐるかといふと、さうも行かなかつた。古い型のモオニングの上衣うはぎは兎に角、ズボンがひどく窮屈であつた。そこで私はカシミヤの上衣に、春頃新調の冬ズボンをはいて、モオニングの上衣だけを、着換への和服と一緒に古いスウトケースに詰めた。私は田舎の姉が危篤だといふ電報を受取つて、息のあるうちに言葉を交したいと思つたのである。さういふことでもなければ、帰る機縁のほとんどなくなつた私の故郷であつた。
 駅へついてみて、私は長野か小諸こもろか、どこかあの辺を通過してゐる夜中よなかに、姉は彼女の七十年の生涯しやうがいに終りを告げたことを知つた。多分私はその頃――それは上野駅で彼女と子供に見送られた時から目についてゐたのだが、或る雑種あひのこじみた脊の高い紳士と、今一人は肉のぼちや/\した、脊の低い、これも後向うしろむきで顔を見なかつたから日本人か何うかも分明でない、しかし少くとも白人ではなかつた紳士と、絶えず滑らかな英語で、間断なく饒舌しやべりつゞけてゐたのだが、軽井沢でおりてから、四辺あたりにはかに静かになつた客車のなかで、姉のまだ若い時分――私がその肌におぶさつてゐた頃から、町で評判であつた美しい花嫁時代、それからだん/\生活に直面して来て、長いあひだ彼此かれこれ三十年ものあひだ、……遠い国の礦山に用度掛りとして働いてゐた夫の留守をして、さゝやかな葉茶屋の店を支へながら、幾人もの子供達を育てて来て、その夫との最近の十年ばかりの同棲どうせい生活が、去年夫との死別によつて、終りを告げる迄の、人間苦の生活を、風にけし飛んだ雲のやうに思ひ浮べてゐた。最近一つのきづなとなつてしまつた彼女の将来を何うしようかといふことが、その間も気にかゝつてゐたには違ひなかつた。
 その日は閑散であつた。私は薄い筒袖つゝそで単衣ひとへもので、姉の死体の横はつてゐる仏間で、私のちよつと上の兄と、久しぶりで顔を合せたり、姉が懇意にしてゐた尼さんの若いお弟子さんや、光瑞師や、まだ大学にゐる現在の若い法主ほつすのことをよく知つてゐる、話の面白いお坊さんのお経を聴いたりしてゐるうちに、夕風がそよいで来た。弔問客てうもんきやくは引つきりなしにやつて来た。花や水菓子が、狭い部屋の縁側にいつぱいになつた。
 私は足が痛くなつて来たが、空腹も感じてきた。しかしこゝでは信心が堅いので、晩飯にはなまぐさいものを、口にするわけにいかなかつた。
「何とかしませう。」をひは言つたけれど、当惑の色は隠せなかつた。
「今年はまだあゆをたべない。鮎を食べさせるところはないだらうか。」私は二階で外出着に着かへながらきいた。
「それならいくらもあります。何処でも食べさせます。」
 手頃な料理屋を、甥は指定してくれた。私は草履をつつかけると、ステッキを一本借りて、信心気の深い人達の集つてゐる、線香くさい家を飛び出した。どつちを向いても、余り幸福ではない、下の姉や、仏の娘を初めとして、寄つてくる多勢の血縁の人達の生活に触れるのも、私に取つては相当憂欝いううつなことであつた。
 私は故郷における生活の大部分を、K―市のこの領域――といつても相当広いが――に過したので、若いその頃の姿をこの背景のなかに見出しつゝ、だん/\賑やかな処へ出て行つた。既に晩年に押詰められた私達のこの年齢では、故郷は相当懐しいものであつていゝ筈だが、私の現在の生活環境が余りに複雑なためか、或ひは私の過去の生活が影の薄いものであつたためか、他の田舎の町を素通すどほりするのと、気持は大差はなかつた。
 本通りから左の或る横町の薄暗い静かな街へ入ると、ぢきにその屋号の出た電燈が見つかつたので、私は打水うちみづをした石畳いしだたみを踏んで、燈籠とうろうと反対の側にある玄関先きへかゝつた。直ぐ瀟洒せうしやな露路庭を控へた部屋に案内された。良家の若い奥様といつた風の、おとなしやかな女が、お香の匂つた煙草盆やしぼりなどを運んで来た。
「風呂はあるね。」
「ございます。おはひりになるのでしたら、今ちよつと見させますから。」
 何か無風帯へでも入つて来たやうなのんびりした故郷の気分が私のしやうに合はないのか、私は故郷へ来ると、いつでも神経がいらつくやうな感じだが、今もいくらかその気味だつた。十八九時分に、学窓にもぢつとしてゐられず、何か追立おひたてられるやうな気持で、いきなり故郷を飛出した頃の自分と同じであつた。
「鮎を食べに来たんだが、あるだらうね。」
「あります。」
 私は庭石を伝つて、潜戸くゞりどをくゞつて、薄暗い地階のやうなところを通つて、風呂場へ行つた。すべてこの町の、かうした家では、何か薄暗い土倉つちぐらのやうな土間があつて、それが相当だゝつ広い領分を占めてゐるので、夏は涼しい。
 上つてくると、女中がやつて来た。
「鮎は何にしませうか。」
「言ふのを忘れたが魚田ぎよでんが食べたいんだ。」
 女中は引返していつたが、直ぐ再びやつて来て、鮎は大きいのが切れてゐて、魚田にならないと言ふのであつた。
「あゝ、さう。」私は困つた。魚田以外のものは食べたくなかつた。
「しかしそんなに大きくなくたつて……どのくらゐなの。」
「さあ……ちよつと聞いてまゐります。」
 すると女中は少しつてから、部屋の入口に来て、
「鮎はございませんさうですが……。」
「小さいのも。」
「は。」
「だから先刻さつききいたんだ。それぢや仕様がないな。」
 料理が二品私の前におかれた。
 でつぷりした、人品の悪くないお神が部屋へ入つて来て、
「鮎があると申し上げたの。」
「さうなんだ。」女中に代つて、私が答へた。
「私は鮎を食べさしてもらふつもりで、上つたんだし、それ以外のものも、かういふものは食べられないんで。こつちで註文できないとすると……。」
 少しきまりが悪い思ひを忍んで、私はお神と女中に送られて、そこを出た。あれだけの構へで、今時分鮎がないのも可笑をかしかつたが、女中の返辞がだん/\違つて来たのも不思議であつた。
 私は通りへ出て、そこから一町ほど先きにある、今死んだ姉の末の娘の片づいてゐる骨董屋こつとうやへ飛込んだ。骨董屋といつても、店先きには格子がはまつてゐた。清らかに片づいたその店には、何一つおいてなかつた。私は八十を幾年いくつか越した筈の、お婆さんにことわつて茶の間の前にある電話にかゝつた。そしてをひを呼出した。
「それあ多分生きた鮎がなかつたんでせう。あすこでは、死んだ鮎はつかひませんから。」
 私は甥に教はつて、近くにある別の料理屋でからうじて食慾だけは充たすことができたが、無論生きた鮎ではなかつた。

 翌日の午前、納棺式が始まる頃には、私は睡眠不足と、怠屈と、お経と、想像以上の暑さとにうだつてしまつてゐた。今一人の妹とか、幾人かのめひをひ、又従姉妹いとこたち――その他の人達とも話をまじへたりして、各人のその後の運命や生活内容にも、久しぶりで触れることができた。こんなことでもないと、一々訪ねることもできないやうな人達であつた。その中には、産れたばかりの赤ん坊に乳房を含ませてゐる姪の娘もあつたが、私より年上の姪もあつた。かく彼等は――私と私の子供達をも含めて、みんな私の父から発生した種族であつた。多少幸不幸の差はあるにしても、一様にどこかへ紛れこんで生きて来、生きつゝある訳であつた。私自身お上品ぶつた芸術家のほこりなんかは、とつくにどこかへ吹飛んで、一人の人間として、何か大衆のなかに働いてゐる人の安らかさを思ふやうになつてゐた。都会的の刺戟しげきでもなかつたら、生きることに疲れきつた私は、とつくにへたばつてゐたに違ひなかつた。
 土蔵の屋根の上の棚にはしてある葡萄ぶだうの葉蔭から来るそよ風に吹かれながら、二階座敷に寝ころんでゐた私は、眠れもしないので、また下へおりて行つた。
 人が多勢仏間に立つてゐた。
「湯棺だ。」
 私も人々の後ろへ寄つてみた。あによめや姉や、死んだ妹の二人の娘や、姪たちは、手にハンケチをもつて、涙をふいてゐた。
「なむあみだ、なむあみだ……。」
 歔欷すゝりなくやうな合唱が、人々の口から口につぶやかれた。
 湯棺がをはると、今度は剃髪ていはつが始まつた。法被はつぴを着た葬儀屋の男が、剃刀かみそりを手にして、頭の髪をそりはじめた。髪は危篤におちいる前に兄の命令で短く刈られてあつた。
「お祖父ぢゝそつくりやぞな。」
「さうや。」
 三十年も四十年も前に、写真一つ残さずに死んだ、私の父の顔を覚えてゐると見えて、姪達がさゝやき合つた。私は又十年前に死んだ、同型の長兄の死顔を思ひだしてゐた。私は私の母とは又違つた母の何ものかを受継いでゐるらしい、長兄とこの姉との骨格を考へたのである。その母は私の母よりか多分美しい容貌ようばうの持主であつたに違ひない。父による遺伝に、この姉と長兄次兄と、私と私の同母姉妹とに、少しは共通なものがあるかも知れなかつた。
 葬儀社の男衆は前の方をりをはると、今度は首を引つくら返して、左のびんをあたりはじめた。それから右と後ろ――かなり困難なその仕事は、なか/\手間取つた。鳥の綿毛をでも※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしるやうに、丹念に剃られた。綿の詰つた口、薬物の反応らしい下縁の薄紫色に斑点つけられた目、ちやうどそれは土の人形か、胡粉ごふんを塗つた木彫の仏像としか思はれない首が、持ちかへる度に、がくり――とぐらついた。私は抱かれたり、おぶさつたりした私の幼時の姉、又は皆んなでカルタ遊びをした私の少年時代の姉、それからずつと大きくなつて、既に戯曲や小説に読み耽るやうになつた頃、誘ひ合せて浄瑠璃じやうるりなど聞きに行つた頃、何かした拍子に、ふと鼻についた姉の肌の匂ひなどをほのかに思ひだしてゐた。雪国の女らしい白い肌をした姉は少し甘い腋香わきがをもつてゐた。
 私はまたそのハイカラであつた、姉の夫の時々の印象をも聯想してゐた。去年の冬亡くなつた彼は、合ひの子のやうな顔をしてゐた。医学生であつたと云ふ彼は、その頃商人であつた。私は彼から英語の綴りを教はつた。結婚してから間もなく、泊りに行つた私に、彼は生理学の書物をもつて来て見せたこともあつた。彼は小学生である私に不似合ひな、その中の一節を指示した。それは何んの理由もなく、日に/\体の痩せ衰へて行く少年のことを書いたものであつた。勿論飜訳書だから西洋の出来事であつた。その家の女中が、夜ごと少年の寝室のドアのなかへ忍び込むといふ事実が発見されたといふのであつた。蒼白あをじろい少年であつた私は、彼からその一節を読みきかされて、にはかに小さい心臓の痛みを感じた。私はその頃、周囲に女の子の遊び友達しかもつてゐなかつた。私はその書物のなかのその話を耳にいれたとき、私もまた何かさういふ罪を犯したことがあるやうな気がしてならなかつた。病身がちな私は、屡々しば/\真蒼まつさをになつて、母に抱きついた。兎角私は死の恐怖におびえがちであつた。
「もうそのくらゐでからう。」
 兄がふつと言つたので、私は気がついてみると、姉のこちこちした頭髪かみは綺麗に丸坊主にされてしまつた。ぼんのくぼのところが、少しくろい陰をもつてゐるだけであつた。
 死骸を棺にをさめる時、部屋の雰囲気ふんゐきが又一層切実になつて来た。歔欷すゝりなきの声が起つた。
「なむあみだ、なむあみだ……。」
 そしてそれが済むと、人々はそこを離れて、次ぎの部屋へ入つたり、二階へ上つたり、お茶を呑んだり、煙草をふかしたりして、ほかの話をしはじめた。
 ひつぎが外へ運び出されて、これも金ぴかの柩車きうしやに移されたのは、少し片蔭ができた時刻であつた。私は兄と他の人達と、後ろの方の車に乗つた。
 やがて町ばなへ出た。そして暫くすると、そこに丘や林や流れや小径こみちや、そんな風景が展開した。
 私が驚いたことは、自動車の一隊が火葬場の入口へ入つたとき、何か得体の知れない音楽が、にはかに起つたことであつた。雅楽にしては陽気で、洋楽にしては怠屈なやうなものであつた。兎に角しやう※(「感」の「心」に代えて「角」、第4水準2-88-47)ひちりきの音であることは確かであつた。私はその音楽の来る方へ行つてみた。それは柩車のなかでかけられた宮内省のサインのあるレコオドであつた。
 三時間ほどすると、重油でやかれた姉はぼろ/\の骨となつて、かまから押出された。

 その夕方、私は大阪から来てゐるあによめと一緒に、兄の家の広い客間で、晩餐ばんさんのもてなしを受けた。
 私は幾度も入りつけてゐる風呂場で汗を流すと、湯上り姿で、二間の床を背にして食卓の前にくつろいだ。兄の家の養嗣子やうししもそこでさかづきをあげた。
 この部屋も度々来て坐つたし、年々こけのついてくる庭の一木一石、飛石の蔭の草にも、なつかしい記憶があつたが、最近養嗣子がこの土地の聯隊へ転任して来て、その夫人と三人の子供達と一緒に同棲どうせいすることになつて、兄夫婦は総てのものを彼等に譲り渡してしまつたので、何か以前ほどの親しみを感じては悪いやうな気がした。
 兄は長いあひだまかされてゐた礦山をおりて、こゝで静かに老後を過してゐた。勉学にふけりすぎて、肋膜ろくまくをわづらつた上の孫は、もう十九であつた。中佐である養嗣子やうしし顎鬚あごひげには、少し白い毛が交つてゐた。久しくはなかつた嫁さんは、身装みなりもかまはずに、肥つた体を忙しく動かして、好きマダム振りを発揮してゐた。
 数年前に重患にかゝつた兄は、健康は健康だつたが、足が余り確かでなかつた。嫂も※(「兀+王」、第3水準1-14-62)ひよわい方であつたが、最近内臓に何か厄介なやまひが巣喰つて来た。切開が唯一の治療方法であつたが、年を取つてゐるので、薬物療法をとることにしてゐた。
 兎に角前年私か来たときから見ると、家庭がひどくにぎやかで、複雑になつてゐた。もう老人達だけの家庭ではなくなつてゐた。家とか財産とかがある場合に、人はやつぱりそれの譲受主を決めておかなければならないのであつた。そしてそれを譲りうける人は、早く家庭に閉籠とぢこもるべき気分を、醸生されてゐた。軍人とはいへ、養嗣子の分担は何か事務的な仕事らしく思へた。
 兄の方は別に精進しやうじん料理なので、この晩餐の団欒まどゐには加はらなかつた。嬉しさうに、時々顔を出した。今度私が来た目的の半ばは、一層寂しくなつたこの兄を見舞ふことにもあつた。私は兄に万一のことがあつたら、早速駈けつけるとの嫂の希望に予約をしたが、それが誰の身のうへになるかは、誰にも判らなかつた。いづれにしても、私達四人――大阪の嫂をも入れて――がその間近まで歩み寄つてゐることは確実であつた。でも兄は私より一まはり上であつた。
 食事がすむと、私達は茶の間へ引退ひきさがつて、お茶を呑みながら、閑散な話を交へた。私は姉の法事につて招かれてゐたので、さうするとあひだ二日をこゝに過さなければならなかつた。
「温泉へでも行かうか。」
 私はそんなことを考へてみたが、昨日家を立ちがけに、余儀ない人から金を借りられたので、私の懐ろはそれだけ不足してゐた。でなくとも、温泉情緒などは、私の環境からは既にこの上なく怠屈で無意味であつた。
 目の前の餉台ちやぶだいにあるお茶道具のことから、話が骨董こつとうにふれた。ちやうどさういふ趣味をもつてゐる養嗣子が、先刻さつきからきれで拭いてゐたつばを見せた。私が見ても、彫刻の面白い、さうざらに見つからない品であつた。鉄の地肌もなめらかで緻密ちみつであつた。
「これあ実際掘り出しものですぜ。」養嗣子はせつせと裂で拭いては、翫味ぐわんみしてゐた。
「いくらで買つて来たのかい。」兄は微笑してゐた。
「お父さんはいくらだとお思ひになります。」
「さあな。」
 養嗣子は又隣県にゐたとき、兵士の家から安く譲りうけた大小そろつた刀を倉から取出して来て、袋のひもいた。作りはつたものであつた。私はその大きい方を手に取つて、さやを払つてみた。好い刀を見ることは、私も嫌ひではなかつた。しかしその刀が、の程度のものかは、わからなかつた。
 この部屋の壁にかゝつてゐるのは、彼が赴任してゐた台湾土産みやげの彫刻物であつた。そこに台湾の名木で造られた茶箪笥ちやだんすがあつた。気がついてみると、餉台ちやぶだいも同じ材の一枚板であつた。
 私は又養嗣子夫婦の住居すまひになつてゐる二階へあがつて行つた。総てこの家は、前に来たよりも、手広くなつてゐて、兄達老夫婦の階下の二間ふたまも、すつかり明るく取拡げられてゐた。
 二階の一室には台湾で造つた見事な大きな箪笥が、二つ並んでゐた。そこにも内地では見られない装飾品が幾個いくつかあつた。
「手狭なものですから、不用なものはみんな倉へ投げこんでおきます。」
 私は私の軍人といふものに対する幼稚な概念からは、およそ縁の遠い彼の生活気分を、不思議に思つた。いつか波のうへにゐるやうな、私の都会生活のあわたゞしさとは、似ても似つかないやうなものであつた。
 彼が軍職をめるといふことも、大分前から耳にしてゐたが、今は少し忙しさうであつた。
 やがて下へ下りて来た。
「戦争はありますか。」
 私はきいて見た。
「ありませんとも。」彼はむしろ私の問ひをいぶかるやうに答ヘた。
 私は踊り場のことを考へてゐた。昨夜料理屋の女中にきいて、この町にも一箇所踊れるところがあることを知つてゐた。
 私は何かしら行動が取りたくなつて来た。
 踊り場のある町までは、少し距離があつたけれど、乗りものを借りるほどのことはなかつた。
 私は「ちよつと歩いて来ます。」といつて、例の冬ズボンにカシミヤの上衣を着て外へ出ると、通りつけの道を急いだ。どこも彼処かしこも夢のやうに静かで、そして仄暗ほのぐらかつた。
 その町はこの市の本通り筋の裏にあつた。そこで小説家のK―が育つた。私はどこにも踊り場らしいものの影を見ることが出来ずに、相当に長いその通りを、往つたり来たりした。私はその踊り場が、この市の唯一のダダイストである塑像家そざうかM―氏の経営(さう大袈裟おほげさなものではないだらうが)に係るものだことを、昨日坊さんから聞いてゐたので、その点でもいくらか興味があつた。
 到頭たうとう私はソシアル・ダンスとあかい文字で出てゐる、横に長い電燈を見つけることが出来た。往来に面した磨硝子すりガラスに踊つてゐる人影がほのかに差して、ヂャヅの音が、町の静謐せいひつ掻乱かきみだしてゐた。
 意気な格子戸のある入口がその先きにあつた。格子戸は二色の色硝子でしまになつてゐた。入ると、土間の直ぐ右側にカアテンが垂れてゐて、その傍に受付があり、左側の壁に規則書の掲示があつた。
 ホールはM―氏のアトリエで、全部タタキで、十坪ばかりの広さをもつてゐた。
 私は早速チケットを買つた。東京の教習所から見ると、誰とでも踊れるだけ自由がきいた。私はダンサアらしい三人ばかりの娘達と、四十がらみの洋装と、それより少し若い和装の淑女と長椅子にかけてゐる反対の側の椅子にかけて、二組出てゐる踊りを見てゐたが、ステップはみな正しいもので、踊り方も本格であつた。
 黄金色をした大きな外国の軍人の塑像が、アトリエの隅の方にそびえ立つてゐるのが目につくきりで、テイプやシェードの装飾はしてなかつた。
 私は靴底のざら/\するタタキを気にしながら、二回ばかりトロットを踊つてみたが、その娘さんはほゞ二流どころのダンサアくらゐには附合つてくれた。
 草履ばきで、踊りなれのした足取りで踊つてゐる、髪の長い中年の男が、マスタアのM―氏だと思はれたので、私は近づいて名刺を出した。
「しばらく御滞在ですか。」
「いや、明後日の夜行で帰るつもりです。こゝには誰も話相手がゐないので……。」
 私は今踊つた人がM―氏の令嬢で、もう一人の美しい人がめひで、今一人の娘さんが友達だことを知つた。
「私は兎に角正しい踊りを教へるつもりで、つてゐますが、この町にも社交ダンスはひろまるだらうと思ひます。」
「床が板でないので、少し憂欝いううつですね。」
「さうしようかと思つたんですけれど……。」
「どんな人が踊りに来ますか。」
「いろ/\です。あすこにゐるのはお医者さまと、弁護士です。」
 汗がひいたところで、私はまたざら/\するフラワへ踊り出したが、足の触感が不愉快なので、踊つたやうな気持にはなれなかつた。
 私は椅子にかけて、煙草をふかした。
 すると先刻さつきから踊りを見物してゐた、洋装の婦人が、いきなり席を離れて、つか/\私の方へ寄つて来た。
「あなたはT―先生でいらつしやいましたね。」
 さう言葉をかけられたので、私は彼女が誰だかを思ひ出さうとして、その顔を見あげた。
「さうです、貴方あなた誰方どなたでしたつけ。」
「私山岡ですの。つい先生のお近くの……。」
 私はまだ思ひ出せなかつたが、巴黎院パリーゐんといふ、一頃通りで非常にさかつた理髪店のマダムの面影が、うやらやつとのことで思ひ出せた。マスタアは洋行帰りのモダンな紳士であつた。しかしそれだかうだか、分明はつきりしたことはわからなかつた。
「こちらへうして来てゐるんですか。」私は当らず触らずに聞いた。
「こちらの三越の婦人部にをりますの。おついでがあつたら、お寄り下さいまし。」
「は、ことによつたら……。お踊りにならないんですか。」
「えゝ、ちよつと拝見に。」
 婦人は元の席へ戻つたかと思ふと、間もなく連れの婦人と一緒に、アトリエを出て行つた。
 私は政治に興味を寄せたりして、終ひに店を人に譲つて、郊外へ引越して行つた巴黎院パリーゐんのマスタアのことを考へてゐた。マダムが、職業婦人として、こんなところへ来るやうでは、あの夫婦も余り幸福ではなささうであつた。それに私の嗅覚によると、あのマダムは私の隣国の産れに違ひないのであつた。
 汚い黒の洋服を着た、若い男が一人、入替りに入つて来て、私の傍に腰をかけた。
「こゝは何ういふふうにすればいゝですか。」
「いや、やつぱりクウポン制度です。」
「あのお嬢さんたちに申込んでも構はんですか。」
「いゝんですとも。」
 彼は受付へ行つて、チケットを買ふと、うや/\しく女達の前へいつた。そして踊りだした。それは何かエロの露骨な、インチキで荒つぽい踊りであつた。
「実に好いところを発見した。こんな好いところが、この町にあるなんて、とても嬉しくなつてしまつた。」
 そして彼は陰欝に爆笑した。
 私は二枚ばかりのチケットをポケットに残して、アトリエを出た。筋肉運動が、憂欝な私の頭脳あたまさはやかにした。
 帰ると直ぐ、私は客間につられた広い青蚊帳あをがやのなかで、あまい眠りにちた。
(昭和八年三月)





底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
   1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「経済往来」
   1933(昭和8)年3月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について