分らないもの

中原中也





「福岡から、お客様がみえました」――さういふ下女の取次ぎの言葉を聞いた時から、彼は脅えてゐなくちやならなかつた。
 福岡の客つて、それは彼の内の親類端だつたんだが、非常なブルヂョアであるのだ。そしてその客である奥さんは、彼をよく知つてゐながら彼の父とも母とも一面識さへなかつたのだ。勿論彼の家に来るのも初めてだつた。で、それだけでも何だか、彼は客として来る者に対する責任を感じてゐた。だがそれで彼は脅えちやあゐない。その奥さんなるものの姪と彼とが恋仲であることを奥さんに知られてゐる彼だからなのである。
 一寸挨拶を済ますと、彼は直ぐ引つ込んだ。
「此の頃は、よく勉強してゐますか」
 頭の低い人間だけれど、やつぱりブルヂョアなのだ、見下ろすやうに奥さんは彼に言つた。その一言がヤケに引つ込んでからも彼の耳に残つてゐて、癪に障つてならなかつた。
 彼は此の春学校の落第をしたのだ。
 奥さんが別嬪なのに引き換へて、自分の母親が衰へ顔であることと、如何にかかうにか生活の出来るといふ程度の自分の家を見られることは、とても堪らないことであつた。
 八月のことで、外はカンカン日が照つてゐた、そして彼の家は風の入りが好くなかつた。奥さんと、も一人の奥さんの親族の奥さんとは、扇を使ひながら、「扇風器もないのか……」つて顔をしてゐた。
 彼はその日、東京に行かなきやならなかつた。落第や其の他の事情で土地の学校を出て他所に転校を余儀なくされた彼は、わざわざ、もう暑中休暇も終るといへば、また立つて行くのだ。東京の友人に持つて行く土産を買ひに、彼が出掛けようとしてゐたところに、母が来て言つた。
「腰が重さうだが、今晩泊ると言ひなさらなきや好いが……。あれたちは内に用事があるわけぢやなし、此方が考へる程……」
「いつたい何の用で来たの」
 彼は分り切つてるのに、母をねぎらひたい気持から訊ねてみた。
「今度お父さんがあそこの養子さんにお嫁さんの心配をするんでそのことに就いて一寸……。あれたちは立派な所に、此の頃だつたら革布団位に寝なさるんだらうから……。あんたがこの前行つた時でも毛布団だつたとかつて言つてたあね」
 母は随分気懸りらしかつた。
 表座敷からは無頓着な父の声がしてゐた。彼は父が客達の嘲笑にも気付かずに話してゐることが可愛想にさへ思へた。
「でも福岡市でも竹原といへば知らない人もないつて言つて好い位な家なんですから、余りお粗末にやれば……」
 それは奥さんに従いて来た奥さんの声だつた。
 母はあきらめたやうに、フト表座敷の方へ歩んだ。母の頭から、――それでなくても少い髪だのに、梳が落ちかけてママる、向ふに行く後姿をみ送る時、彼は梳のことを注告しようかとも思つたが、それさへ情なくつて出来なかつた。
 嫌々ながら彼は土産をとゝのへに出た。
 いよいよ出掛けに靴を穿いてゐる時、祖母がやつて来て、「小母さん達は立派な仕度をして来てをるだらうね」といつた言葉を胸にくりかへしながら、彼は田圃路を歩いた。もう寧ろ肉親なんてものを呪ひたかつた。
 稲がもうだいぶ高くなつて、路にそつてる箇所はズツとホコリで殆んど黒くなつてるのが、熱い上に熱くした。稲荷を祭つた小さい山の、赤い数々の鳥居が何がなし気になつた。汗でシャツは脊中にクツツク……。
「グランドに無雑作につまれた材木
 ――小猫と土橋が話をしてゐた
 黄色い圧力!」
つて彼の「夏の昼」といふ詩を、思ひ出した。「こんな好い詩を書く俺を落第生だとたゞ思つてやがる。あそこの養子つて奴あ恩賜を貰つたんだつたつけ、馬鹿ッ!」――そんなことも考へた。
「久し振りだつたなあ……、他所に行つてるとズルケられて好いだろ」
 ポツカリ此の春までの同級生に出遇つた。
「ふゝ……」
 彼は何にも言ひたかあなかつた。

 もう汽車に行くべき時刻だつた。
「今日は出際にお客さんがありはしたし……明日立つたら……」
 母が「甘い」とよく彼が言ふので、また言はれはしまいかと思つて、遠慮深さうにさう言つた時、彼はさすがに「甘い」とはいはれなかつた、却つて自分の方が「甘い」だつたのだ。
 客も彼と同し汽車で立つのだつた。
 駅には母がやつて来た。
 客は二等に乗つた、――一等なしの列車だから、――彼は三等に乗つた。母は客の方に行つて別れを言つてゐた。奥さんが母に挨拶してゐる時に、後ろでも一人の客は吹き出してゐた。彼はバスケットを車室に置くと、その方へ行つてたのでその吹き出してるところも見せられた。母の髪が可笑しいのらしかつた。
 彼の乗つた車室には二三人しかゐなかつた。田舎支線の午後九時頃のだからそんなもんなんだ。電燈も取りつけられてるだけの数はともつてゐなくて、一つ置きに暗くついてた。
 彼は窓から心地よい夏の夜風を受けながら、口笛を吹いてた。「親父は今頃雑誌でも読んでるのだらう」などゝ思つた。生れて家を出て行くのがこれで二度目だつた。一度目はまだ好い所へゆくつて気もあつたから元気だつたが、今度はもう目的地が一通りや二通り分つてゐるためでもあつて、やたらに家のことが後から後から頭に出て来た。
「如何ですね」
 二等から奥さんて奴がやつて来た。
「東京は面白いですか」
 彼は窓の外をみてコシラへて笑つてゐた。
「まあ学校のことも勉強なさいよ」
「えゝ……ハヽ……」
「文学のことばかりせずに……」
 汽車が支線の終点駅に着いた。
 彼は客より先にプラットホームに行つて腰掛に掛けてゐた。あとからボーイにカバンを持たせて、彼のゐる所を探すやうにやつて来る。
 客達は彼の所へは来なかつた。二人の客は遥か向ふで話をしてゐた。彼は自分と例の姪とのことが話されてゐると思ひ込んでゐた。

 寐ようと思つたつて眠れなかつた。それに朝鮮人の労働者が乗り合はしてゐて一向寐ようともしないでベチヤベチヤ喋舌るので尚更だつた。
 母が気の毒であつた、福岡の客つて奴が癪に障つた、彼は自分の自信する詩が鼻にかゝつた。
 鉄橋の音は如何も、悲哀だつた。
「俺の詩万歳だ」
 彼はバスケットから葉書を出してさう書いて母に送つた。
「福岡の小母さんは別嬪だけれど、足の指が、右だか左だか一本ないさうな……」
 何時ぞや、父がそんなことを言つてたのをフト思ひ出した。彼は急に大きな安心を得たやうに胸が踊つた。
 汽車が海辺を走つてゐた。

 東京駅に下車して、最初に気にとまつたのは贅沢な女学生だつた。

 それから間もない或日、学校から帰つてみると、下宿の机の上に例の姪からの手紙が来てゐた。失恋させられたわけだ、彼は。
 まだ如何も落付かない、ホームシックみたいなものも時々起つて来るのだつた。彼は友達にやる土産も自分で食つて仕舞つてゐた。
 枕を出して午睡ヒルネしようと思つてる時、「俺には女は当分当抵得られないものだ……」つて言葉の一字一字が、所々ハゲた壁の上にピヨコピヨコみえるやうな気がした。壁の隅には昼の蛾がポチポチゐた。


 電車に乗る時だつた。彼はS子の後から昇降口の方へ歩み寄つた、――ピヨツとS子は運転台の方へ走つて行つた。彼は自分がS子に接近したことをS子が感じてとび逃げたものだと直ぐ次の瞬間に感じた。だが何故逃げたか、それは分らなかつた。停留場に来る途彼等は平気で話してゐたんだから……。
 電車が走り出して、彼は考へてみた。S子は運転台の近くに、彼は車掌台の近くに、離れて腰掛けてゐた。
 二人は時々、雷光をみるやうに、怖いとも怖くないとも分らない視線を送つてはまた、ツバを吐く時のやうにペツと視線から飛びのいた。
「君も知つてるだらうが、S子はデカタンのやうでピューリタニックなところを持つた女だし、それにあんな処で遊廓町で歌ふやうな歌を歌つちやあ困るぢやないか。僕は今擲ぐらうか今擲ぐらうかと思つて拳固まで固めてゐたんだけれど、罰するのは神様の務めで人間のすることぢやないと思つたからギユーギユーいつて我慢したんだつたが……」
 停留場に来るまでにS子の従兄に当る男が彼にこんなことを言つた。
「で僕があの歌を歌つたからつて、さう大した如何いふ影響があつたんですか……」
 彼は訊き返した。
「第一君の人格が……それが分らない程君も馬鹿ぢやあるまい……」
 S子の従兄は可なり昂奮してるらしかつた。「自分が勝手に前置を作つて、そして他人に自分を強請するのか」と思つた彼も、聊か腹立たしかつた。
「だつて此の人は行き方がちがふんぢやないの」
 S子が従兄に言つた。
「何だと、……S子今何か言つたな……おまへは此の男に、妙な所で肩を持つ……」
「そんなに怒らせるやうなことを言やあしないわ……」
「ふん、よし……そんなら好いがな……」
 従兄はS子の方に不満を向けた。一本気な従兄の怒りを恐れる気持をゴマカすやうに、S子は雪駄の音をペツタペツタさせて、オドケてみた。
 電車を待つてゐる間に、彼は煙草を買ひに走つた。
「その時に従兄はS子に何か言つたな……俺に関連させて……」
 彼は電車にゆられながらさうも思つたが、決してそれは信じられなかつた、さうらしいといふことは全く不明だといふよりも不安なことであつた、のである。
 電車を降りて、別れる時に、
「恋なら恋のやうに神剣にな、君はダラダラしてゐる……」
 従兄が彼の肩に両手をかけて人道主義者のそのワザとらしい親切さで言つた。
「ところがその……僕には神剣なんかつて分り兼ねますのでね……」
 彼の皮肉は従兄には皮肉だとも取れなかつたらしかつた。(だからピューリタンだ!)
「御大事になさい……」
 まるで遠くへ行く人への別辞だ、――S子はさういふなり下向いた。
 彼は左様ならともいはずに下宿の方に歩んだ、十間も歩くと襲はれるやうに走り出した。

 カフェーに這入つてゐた。ストーブに靴をのつけて、ガシガシと泥をかき落した。
「酒だツ! 酒だツ!……」
 空腹だつたからか、直きに酔つてしまつた。ストーブの上の薬鑵の湯気をみ入つてゐる時、
「電車の救助網にでもかゝつて、今怪我をして病院にゆくとすれば、S子が見舞に来るんだ……」つてな夢みたいなものを鼻の上で小踊りさせた。(金の酒……)
 もう人通りの少い町を、電車がゴーゴーとやつて来た。
「タクン……!」
 彼の頭にはさういふ強い印象が刻まれただけだつた、彼は電車の救助網の厄介に早速なつたのだ。運転手に抱へられて、店屋の軒にやられた時、彼は「S子が来てやあしないか……?」といふ疑念とともに、意識した。そして手の指が一本折れてるのをみた。

 恋がなけりやあ、指も折れないし、シャツもズボンも世の中になかつたらう……。


 次の日の朝だつた。彼はS子の様子伺ひに出掛けて行つた。
「僕昨日は一寸変な気になつてゐましたから随分なことを言つたでせうが、まあ……」
 道でS子の従兄に遇つたので、彼はさういつた。
「いやいや、そんな大したことぢやあないから……」
 カタクナなくせに甘い奴だ。
「それは好いが君、君その指の繃帯は如何した」
「一寸ナイフで切りましたから……」
「S子は今内にゐませんから夕方いらつしやい……」
 さう言つて二人は別れたが、彼にはその従兄の言葉が何時までも問題になつた。
「なあに女つてものは昨日さうでも今日は別だよ」
 友の所へ行つて昨夜の話をすると友はさう言つてアザ笑つてゐた。
「だつてね、太つたくせに顔の陰が尖るつてタチの女は一度ツンとすると其の後はもう理由ワケもなしにツンとし通すものだから……」
「こいつ大した苦労性だな、気の小さい……」

 夕方行くとS子は最も他人行儀を示した。
「まあ活動にでも御案内しませうよ」
 さういつてS子は彼を連れて活動に行つた。
 恋愛を取扱つたフイルムが映写されてゐた。
「オイ、やかましいぞツ」
 フイルムをみながらキヤツキヤツ笑つたり喋舌つたりする二三人連の女が二人の傍にゐた、彼は半分S子の機嫌をとるやうにその女達に怒鳴つた。
「そんなこと自由ぢやないの……」
「えゝ、さういへばさうだけど、自由なんて引つぱり出すと却つて不自由だ、怒鳴りたい時は怒鳴るが好いつてのが自由でせう……」
「ぢや若し、隣の人達が女だから好いけれど、荒くれ男共だつたら如何するの」
 低声で言つた。
「そんなになんでも延長したり質の問題にして考へたりしてたら御飯も食ふ時間がなくなりますよ」
「さうかしら……」
「女としては物分りの好い方だし、昨日の昼迄ならさうだわねと位に言つて呉れたんだらうにな……」と彼はさう思つた。
「あたし急に変なことを言ふんだけれど、恋なんて周囲が大抵恋にさせてしまふんだわ……。あたしは宗教もないつていへばないんだけれど、……自分の……まあ宗教みたいなもので、いままではやつて来たのですの……」
 突咄ママにさういはれて、彼は返す言葉も出せなかつた。
「アラ、来週はメーベルノーマンドの写真なのね、あたし今度は一人で来るわ」
 予告のビラが横手の壁にあつたのをみて、S子はさういつた。
「来週の何曜日に来るのです」
「アハヽヽヽヽヽヽ」

「あゝあたし彼方アチラから廻る電車に乗りたかつたのに……」
 彼が行かうとした停留場の間際まで来てS子はジラ半分にさう言つた。
「でもねえ……従兄アニさんのところにゐるけれど、――こりやあなただけに言ふんだから、誰にもスベらせちやあ嫌ですよ。――従兄アニさんは浅い人だからあたし或人の所に行きたいの……」
「それは何をする人です」
「そりや言はれないわ……」
 二人は別れた。彼は夜の町を仰向勝ちにスタスタと歩きながら、「……あなただけに言ふんだから、誰にもスベらせちやあ嫌ですよ……」つてことばがヒツキリなしに頭を往来した。

 此の頃彼は、町を歩いてる時など電車が通り過ぎるたびに、自分の指の血がついてるのをみようつてな気を出すのだ。
 もう「御大事になさい……」といふ挨拶をされた晩から、三週間ばかりも経つてゐるが、そして指のキズは従兄のためにはもはやトツクに癒つて好い頃だが、いまだにS子の所に行く時、彼は繃帯をして行く……。

「分らないものだ……」
 近頃彼は口癖のやうに、長いこと坐つてゐて立ち上る時など、何時もさう口ずさむのだ。……





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:shiro
2018年1月27日作成
2018年4月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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