宮沢賢治全集

中原中也




 宮沢賢治全集第一回配本が出た。死んだ宮沢は、自分が死ねば全集が出ると、果して予測してゐたであらうか。
 私にはこれら彼の作品が、大正十三年頃、つまり「春と修羅」が出た頃に認められなかつたといふことは、むしろ不思議である。私がこの本を初めて知つたのは大正十四年の暮であつたかその翌年の初めであつたか、とまれ寒い頃であつた。ママ来この書は私の愛読書となつた。何冊か買つて、友人の所へ持つて行つたのであつた。
 彼が認められること余りに遅かつたのは、広告不充分のためであらうか。彼が東京に住んでゐなかつたためであらうか。詩人として以外に、職業、つまり教職にあつたためであらうか。所謂文壇交游がなかつたためであらうか。それともそれ等の事情の取合せに因つてであらうか。多分その何れかであり又、何れかの取合せの故でもあらう。要するに不思議な運命のそれ自体単純にして、それを織成す無限に複雑な因子の離合の間に、今や我々に既に分つたことは、宮沢賢治は死後間もなく認めらるるに至つたといふことである。
 認められること余まりに遅かつたためには、もつと作品の実質に関係ある、謂はば有機的理由ありとする人々があるであらうが、恐らくそれは間違つてゐる。是等の作品が、一般に愛されるべくそれ程難解なものとは思へぬ。のみならず、此処には、我が民謡の精神は実になみ/\としてゐて、これは、詩書を手にする程の人には最も直ちに、感じられる底のものである。此処に見られる感性は、古来「寒月」だの「寒鴉」だの「峯上の松」だのと云つて来た、純粋に我々のものである。主調色は青であり、あけぼのの空色であり、彼自身の讃ふべき語を以てすれば、「鋼青」である。真昼の光はあつても少しくであり、それもやがて暮れるとしてのことのやうであり、此処では、紅の花も、やがて萎れて黝ずんだ色になるとしてのことである。それに猶、諸君も嫌ひではない冗舌は、此処に十分に按配されてをり、直き直きに抽象語を以てしなければ、かの「意味がない」と云つて嘯く、平盤な心情の人達のためには、十分哲学的学術的な言葉も此処には見出されるのである。
 一般が、あの「お揃ひ」を喜ぶ程度には甘く、浮誇なるものであることは既に明らかだが、つまり、自分だけ愉しめるものを愉しむ程の性格の明確性は、存外に稀だといふことであるが、又偶々性格が明確だと見えるや、それは只独善的である場合は多いのだが、従つて誰かが書の価値を公表しない限り、書は弘まらず、殊に「春と修羅」如き地方で印刷されたものの場合尚更さうなのだが、誰一人として今迄その今謂ふ公表をしなかつたといふことは、実以て不思議であり、「運命の悪戯」でしかないのである。私自身が無名でさへなかつたならば、何とかしたでもあつたらうけれど、私が話をした知名の人達はどう迂つ闊りとしてゐたものか。私の力説が足りなかつたのか。詩といへば、余りに贋物を掴まされすぎた経験からといふのでもあるか。
 我が現状の裡に身を置いて考へる限り、これは正しく運命のいたづらである。だが一度び俯瞰すれば、未だ我が国に於て、芸術は、手段として以外に眺められたことはない。従つて芸術の話の登場する凡ゆる場合、其処には二つの神があつて、その一つは芸術の神であり、他の一つは料理屋女将の神ともいふべき神である。――といふことではあるまいか。私は今、此の全集の刊行に際して、つまりもう今は宮沢も知られたのであるから、その余りに遅かつたことなぞ構ふことなく、もつと宮沢の作品そのもののことを云ふべきであつたとは思つてゐるが、十年来の愛読書が、今急に世の光を浴びては、偶々入浴して脳貧血を起すがやうなもので、かくは愚痴つぽいとも見える文章を草することが、差当り気の休まる事なのである。
(一九三四、一一、一九)





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
底本の親本:「宮沢賢治研究 第一号」
   1935(昭和10)年4月20日発行
初出:「宮沢賢治研究 第一号」
   1935(昭和10)年4月20日発行
※()内の編者によるルビは省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2014年9月11日作成
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