詩壇への願ひ

中原中也




 詩壇は今や、一と通りの準備をすませた。絵の具も画架も揃ひ、まづまづ龍は描いたが、まだ点睛がないといふのが昨今の状勢である。従つて各人各様の特質にも拘らず、可なり大同小異の観があることは脱れられない。扨今後その中の若干なり未知の人なりが点睛を示し始める時、詩壇ははじめて面白くなるのであらうと私は思つてゐる。
 そんな次第であるから、今私は「私の推賞する詩人」といふ課題を貰つたのだが、今誰をといつて格別推賞したくはない。そこで私は此の後詩が点睛を得るためには、どんなことが必要であらうかといふことを、考へてみることにしたいと思ふ。今の詩に何が欠けてゐるといつて、感情よりも欠けてゐるものがあらうとは思へない。
 扨その原因を、暗中模索の揚句、社会問題に持つて行つて、其処で解決を得られると思ふ人も相当あるけれども、私にはさうは思はれぬ。勿論其処にもその原因の説明に役立つ材料はあるかも知れぬが、根本原因はそんな所にはない。芸術不振の原因を社会の事情に在りとする見方は、常に十分なものではない。
 例へば日々報道される様々な事件が、昔人間の数の少なかつた時よりも、人の感動を鈍らせ易いものだといふことが云へるとしても、而も芸術とはさういふ事情の問題ではなくして、さういふ事情の中にあつても猶感動する人がゐたら、その人が感動した感動に基因して表現するに到る所のものである。要は、芸術家その者の感動の深浅が問題であつて、「事情」はあくまでも与件にしか過ぎぬ。諸君がもし一個の林檎に如何にも惚れ惚れとしたら、それを描きたくなるであらう。その時その林檎と、果実商組合とは何の関係もない。要は、その林檎に如何にもほれぼれとしたら諸君は芸術家だといふことだ。
 林檎なぞに感動してはをれぬといふ人があるかも知れぬが、お望みとならパンにでもルンペンにでも感動するがいい。感動したらその感動がやがて芸術であり、何もその感動の誘因となつたパンが芸術でもなければルンペンが芸術でもない。
 たゞ茲で附加へたいことは、感動が、点睛の実現にまで到達する、つまりのどいりのする感動であるためには、私はどうしても宗教が必要だと思ふ。つまり超絶的対象といふものが必要だと思ふ。つまり他力本願が必要だと思ふのだ。これは一見逃避のやうに見えるかも知れないが、人間自分が自分を生んだのでないからには、自力をだけ恃むのではどうしても根無草だと思ふのだ。自分だけでどんなに立派にやれても、根だけはないのだ。自分だけを恃むといふことは、如何にも立派な心懸けだが、全的な実現レアリザシオンには到れぬものだと思ふ。勿論、努力を棄てろといふのではない。努力を尽しても、猶天命は俟たねばならないものだといふことを、努力の際中でも予想出来るのでなければ、努力といふことも畢竟何のための努力か分らなくなり、そんな所から美は出て来ないと思ふのだ。
 自力だけを恃み、方法を尽したところで舌鼓を打つて「あゝうまい」と思ふ境地は、絶対の力を俟つてこそ得られるのであつて自力をばかり恃んで、舌鼓を無理に打つてみても舌が荒れるくらゐのものである。
 尤も、近代人が、自力をばかり恃む傾向があり、それにはそれの必然性があることを、私とて知らないのではない。
 而も、問題は、自力の尽きる所からが他力の境地であつて、その境地でしか点睛は描けぬといふことなのだ。分りきつた芸術良心論だと思ふ人もあらうが、それならそれでもいいのだ。良心があるだけで、既に結構なことではないか。その良心さへ十分ではない所からして、十分に納得出来る詩が得難いのではあるまいか。
 扨それでは、その良心は如何にしたら十分になるであらうかと考へる時、私には他力の信仰といふことが思はれるのだ。
 かくて私は詩壇に、他力信心といふものを一度考へてみて貰ひたい。
(一九三六・一二・一一)





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
底本の親本:「文芸通信」
   1937(昭和12)年2月号
初出:「文芸通信」
   1937(昭和12)年2月号
※()内の編者によるルビは省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2015年2月20日作成
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