詩壇への抱負

中原中也




 今までの詩(新体詩)は熱つぽいと思ふ。それはつまり様々の技法論が盛んで、分析的な気持が強かつたからであると思ふ。私は今度はじめてさういふ気持を味はつた。つまり子供の時のやうな気持に帰つた。つまり水が低きにつく如く、花がひそやかであるが如き気持がなければ、詩は駄目だと思つた。さういふ気持になるには、己をむなしうせねばならない。
 あまりに自我の強い芸術は、無意識、つまり法悦的境地を欠くから、感覚の性質たちが如何によくとも、人をジツクリと楽ませることが出来ない。
 以上のことは、自身気付いたばかりのことであるから、云ふのがくすぐつたいが、自分の今迄を顧みても、最初詩の概念が分つたと思つたが、しかし書く時には、気分が失はれる。そこで、色々と分析的な努力をもしてみたが、やはり駄目で、すつかり自信を失つた気持であるやうな場合もあつた。それが、今度偶然にも、自分の無力をすつかり感じ、その時から、次第に、詩といふものゝ真義も分つて来るやうに思へ出した。
 これを道徳面に投射して考へてみると、すべて自分の労を多としないといふ謙譲な気持であると思ふ。然し人間は弱いものであるから、自分の労を多としまいと思つてゐても傲慢になり易いものであるから、そこで何か一つどうしても宗教に入るといふことが必要であると思つた。宗教に入つて、すくなくも朝と夕方に、帰依きえする気持があれば、謙譲は持続しやすく、さうであれば、詩的恍惚もミツチリと感じられ、漸次に味の深いものが、生れるやうになる筈だと思つた。
 私は今、右のことが分つたので歓喜にむせぶ気持でゐるが、又一方、長年求めあぐんで、暗中模索してゐたものが、一時に分つたので、ふるへてもゐるといつた状態である。
 さて、気持は、そこで一先づ安らかとなつたが、作品が熟してゆくといふことは、時日を要することであるし又、漸次のことであるから今分つたからといつて、すぐに今迄よりも好いものを書いてみせろと期待されても、六ヶ敷い。
 そこで、私としては、良心を澄ませる、即ち謙虚な気持を修熟させることが第一だと思ひ、従つて、当分発表するものは、旧作であるから、それがつまらないからといつて、如上の考へをも愚であるとされたくない。
 然し、今日私が、過去の錯乱を去つたのは、実に私が、謂はば、自力的に求めたればこそで、かえつて今日はじめて、花の美しさをも感じられるやうになつた次第である。されば、僭越乍ら、詩人諸氏が、何卒真率になられんことを希望してやまない。
 而して、真率とは、――詩を書かう書かうと思ふことではなく、自分の現在に忠実であるといふことである。さもなくんば、詩はただわざだけのことになつて、それでは、人々の心にとゞくものとならない。
 実に理想ばかりを並べたが、笑納され度希望する次第である。





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
底本の親本:「都新聞 第一七六四五号」
   1936(昭和11)年12月22日発行
初出:「都新聞 第一七六四五号」
   1936(昭和11)年12月22日発行
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2015年3月26日作成
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