詩と詩人

中原中也





 詩といふものが、人生を打算して生きてゐる根性からは、決して生れるものではない! 一見、その根性は人をして屡々知慧ある態度を採らせるやうに見える。けれど知慧とはそんなものではない! 若しそれが知慧だとしたら、知慧とは千ママ一律のもので、千偏一律な知慧なぞといふものが、考へられるか?
 私もストイシズムの可なり立派な論拠を知らないものでもない。しかし遂に、ストイシズムは詩を生まない! 第一人間を偽善にする。注意せよ、世には甚だ見分け難い偽善がある!

 芸術に始源がありとして、それは何だか知つてゐるか?――「叫びたい」ことだ! 而も所謂喜怒哀楽――即ち損得に因つて起る喜びと悲み――を叫びたかつたのではなく、かの生の歓喜だ! 即ち生が自然に溶解する時の寧ろ悲痛な声だ! それは抽象的でも具体的でもない、又あらゆる習慣、あらゆる思索の便宜に作られた言葉、あらゆる名辞以前にあるものだ。定型がない。一つの向勢があるばかりのものだ。そして向勢は諸物の形象を時間的に聚集する。それはまた必然の律動を呈す。――それが詩だ。
 所謂自意識は人を不自然にする。詩人は謂はばソルレンとしてのみ知慧あるもので、衆人からは誤解され易い者だ。
 詩人は純粋持続を壊ちはしない。純粋持続の、人に於ける心理的状態は、強ひて言へば、未来を思ふとしては神を、現在を思ふとしては自己を、過去を思ふとしては運命を信じてゐるのだ。
 パンセのないものは詩人ではない。併しパンセは起るものとして自己を益し、パンセしようとしてすれば良く行つて歴史家の知にしかならないものだ。
 パンセは詩ではないが詩はパンセする人から生れる! 而してパンセとは現象に対する忠実さの過剰と言へる。

 誠実のほかに詩の秘訣なし。


 叫びたいことが直接形を採るためには非常に熱烈である必要があるのだが、その熱度の聊低い者は叫ぶ者の容態を描くことになる。しかし
 世の成り行なるものはママに純粋理性に逆行するものゆゑ、叫び――即ち抒情が先に生れるべきであつたに、歴史は吾々に叙事芸術の先にあつたことを示す。――寧ろ私は古代は叙事することによつて抒情を感ずることが出来たのだと言ふべきだ。
 叙事は謂はば文人画風の型を作り、かくて人間的心情は所謂美――私にとつてはデコレイション――とその余りの部分とに分裂した。
 そのことがさまざまの迷蒙を作る! 迷蒙の中ではディレッタントが屡々確固たる性格者にみえる。かくて世の元気でない世には、定つて芸術が衰へる。

 若し自分自身の言語或ひは心象でパンセされて出来た主義なら、その主義は彼自身なのだから、その主義を守るも守らないもないものだ! あらゆる外的概念、あらゆる学校教育なぞが人を誤らせる。





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
底本の親本:「詩園」
   1939(昭和14)年6月号
初出:「詩園」
   1939(昭和14)年6月号
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2015年9月1日作成
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