撫でられた象

中原中也




 様々な議論が沸騰してゐるけれど、それらの何れもはや議論といふよりは彷徨、それも随分無責任な、身入りのしないことにしか過ぎない。かくて人々は、それを時代のせゐに帰したりするのだが、それとて十分の根拠を有することでもない。
 現代は不安な時代であらうか? それはさうでもあらう。然るに文学者達が斯くも自信を失つてゐるのは強ちそのせゐであらうか?――然し、事象は歴史を織りなして行くであらうが、歴史が事象を織りなしてゆくとは冠履転倒のことであるから、時代なぞといふ方から文学を考へるよりも、文学者自体の実状を反省してみることは却て賢明なことであらう。
 扨、さういふことにすれば、現今文学者が彷徨してゐるといふことも、私には案外簡単なことに思へて来る。
 それは我々の前には近々七十年以前に、急劇にも西洋文学といふ、目新らしい様式の文学がドヤドヤ現れて来たといふことであり、それの消化は未だ甚だ不十分であるといふことである。何だ、そんなことかと諸君は云はれるでもあらうが、まあまあ鳥渡待つて下さい。人々はドストエフスキーを読みバルザックを読み、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレーヌを読むが、そして面白いといふのであるが、果してそれらの「流れ」、つまり持続を面白いといつてゐるのであらうか、それとも部分々々を面白いと思つたものであらうか? 恐らく後者だと私は思ふ。かくて象の鼻を撫でた人は細いといひ象の胴を撫でた人は太いと云つてゐるのと同断で、何もそれは象のことを云つてゐるのではないのである。扨、象のことを知らないで、象の部分を知つたことを以て、何かおぼろに感じた象のことを言表はさうとするやどんなことになるであらうか? とまれ作品は一個の全体的な或物でなければならない、象の鼻だけではすまない、然るに鼻しか知らないといふ時には、本来なら、おのづと象が描きたくなるものではないのだが、而も文学をやつて来た以上それを描きもしなければならぬといふ極く卑近な理由からしてともかく象を描かうといふ場合、我々はかの意志にばかり依拠することとなるのである。さて意志にばかり依拠することは、そのことが既に芸術の方則に悖ることとなるのである。何故なら、作品は一つの存在物、従つて一つの姿を持たねばならず、意志といふものから姿は出て来ぬものであるから。かくて実状は意志を以て鼻だけの材料でともかく象を描かうといふのであるから、無理はもとよりだが、単なる意志、単なる努力といふものも、事物の配列を変へる能力くらゐはあるものだから、とにかく作品のやうなものが出来はする。
 然るに、人間そんな作品のやうなものには自信の持てようわけはないのである。書きたいことはないけれど、あの人が嫌ではないしするから書かうといつて書く手紙に、受取つた人が感動する筈はないのである。だが現今の殆んど全ての文芸作品はその手紙に似てゐる。その手紙をともかく「手紙といふもの」と考へる限り、手紙の価値判断はたちどころに混乱して来るのである。その混乱をなんとか見究めようとして色々に考へても、それは自分で椅子に乗つて自分で椅子を動かさうといふのと同様、努力すれば努力する程拙いこととなるのである。
 今や人々は作品の「姿」を見失つてゐる。姿のない作品といふやうなものが充満してゐて、身動きも出来ない有様である。フォルムのない競技で以て、徒らに勝たうとばかりしてゐるやうなもので、仮令勝てたにしても、競技そのものを楽しむ気持はなく、勝つた時に熱病的に嬉しいだけで、十年の後に回想したらば、なんといふこともなかつたと、呆然としなければならない始末だらう。
 つまり、ドヤドヤと現れた西洋文学は、そのフォルムを迄了得する余裕を我々に与へなかつたのである。云換れば、それらの西洋文学は、我々自身の現識或ひは我々の従来の文学で云つてゐたことの如何いふことに該当するか、その相関関係が十分に納得出来ないうちに、西洋文学の筆法だけを採用し、ともかく我々は筆を執つたのである。
 それは恰度、音楽に鈍感な女の人が、オーケストラを聴いてゐて、フリュートなぞが単独に吹奏される部分でだけ、音そのものの物理的な快味にだけ感じ入るのに似てゐて、私は明治以降の殆んど全ての文学者が、外国文学の作品を読む時も、そんなやうなものであつたと云つても、強ち過言とは思はないのである。兎に角それらの作品の、その「流れ」、「持続」、「終始」といふやうなものを見たことはなく、而もたゞ読んだりしてゐるうちに、従来持つてゐたものさへも、失つたのである。
 現今私の知る限り文士くらゐ小児病的なものはない。文士の集りに於て、いかに相手にうまく取入るかといふこと以外に、果して何があるか? 話といふやうなものはてんでないで、話をしてゐても、その話が相手の気に触りはしないかといふことが念頭に浮ぶや、実に手の腹を返すが如く話頭を転ずるのだが、それでまた相手が妙にも思はぬといふ摩訶不思議な有様である。
 何サ、芸術は衣食的実用品ではないのである。誰も君なら君にそれを生んで呉れと要求するものはないのであるから、君がそれを生まうとなら、別して誠実でなければならないものを、文士の方が却て一般世人よりはよつぽど実がないとあつては、それで何が文学であらう!
 又一方、偶々外国の作品のその「流れ」や「終始」を感得する人々があつても、さういふ人々はまたイヤに落付いてゐて、何らの意味ででも外国文学一般といふものを知らうとしないから、つまり有り得た、又有り得べきフォルムのあれやこれやを納得しないから、AならAといふ作品に感動したとしても、そのAが自分の文学観のの位置に在るものかが決らないから、手を出してゐたら丁度其処へボールが飛込んだやうなもので、なにもボールを受とめたこととはならない。従つてそれは文学作品を享楽したこととはなつても、文学を了得することとはならない。尠くも、人に向つて、それが「面白かつた」とは云へても「良い作品である」とは云へまい。――此の場合では素養も足りないが、熱意はもつと足りないと云へるのである。
 文学といふものが、凡そ文字を知つてゐれば、誰にも読むことが出来るといふことからして、余りに文士志望者が容易に生じるといつた現状だが、文学を仕事とするからには、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレーヌの言葉を以てすれば、「自分の通り道にあつたものだけを読むだけ」の努力では何にもならぬ。云へば平凡なこととなるけれど、あれやこれやの作品が、その読む人の人格といふ点で関連し合ひ、ひいては文学一般の了得が、その人なりに満足され、つまり、競技に勝つだけでなく、そのフォルムも自分にとつて決定的である筈のものが最後的に探索されねばならないのである。
 撫でられた象は、イビツな象にしか過ぎなく、一個のものではないので、つまり切り取られた自然といふものは作品、つまり「人間」の作つた物ではなく、機械的な作業に他ならぬ。
 日本文学にしろ外国文学にしろ、その作品の「流れ」の諦視、「持続ぶり」「終始ぶり」の諦視、さてはフォルムに就いての理念、その涵養が今日我々の緊急事である。とまれ、フォルムに就いての理念が生ぜざる限り、アマチュアであり、またアマチュアとしてさへが、文学芸術に興じたのではなく、知ることの喜びを文学に於ても得てゐるといふに過ぎないことを分らねばならない。
 勿論、私は常に全身像を製作しろといふやうなことを云つてゐるのではなく、トルソも結構、手だけでも結構だが、トルソならトルソで、それが全一的な感じを与へるものではなければならぬと云ふのである。全一的な一つの持続ぶりを示したものでない限り、それの存在してゐる姿といふものはないのだし、つまり歴史に参与するものではないのである。つまり、作品ではないのである。
 芸術といふものが、衣食的実用品ではなくて、謂はば臨時に生の余剰価値をこの人生に附加することであるから、つまり創造であるから、「存在の姿」を持つといふことは何を措いても必須のことである。さもなくば、一個人の手記ではあらうとも、それ以外のものではない。勿論手記の形式を採つた作品といふものはあり得るがそれは別の話である。
 作品が存在の姿を持つためには、なんらか書かうとする前に書かんとする作品の全的な予想といふものがハツキリとしてゐなければならぬ。データの予考といふことではないが、その今いふ予想たるや、ハツキリしてゐればゐる程口には云へないものでもあらうが、だからこそ作品にして現はす必要があるのでもあらうが、その予想がハツキリと肝に銘じてゐるのでなければ、仮りになんとか読めるものが出来たとしても、作者は心に満足出来るものではないし、人に進上は出来ない筈である。その今いふ予想といふものが、作品に形式を与へるものでもあらうし、とまれ作品に「存在の姿」を与へるものである。その「予想」が現今大概の人の場合に稀薄なのであるし、これは多分「人間像」を見失ふ、つまり「おのづと感じられる面白味」といふものの離散であらうし、それは意志だけの如き意志、謂はば周章狼狽の結果でもあらう。成程それが時勢の然らしめる所かも知れないが、もしさうならば差当つて芸術作品の創造をしなくなるのが当然であらう。とまれ芸術といふものは、意志することではなく、意志されて来ることでなければなるまいからだ。
 だが事実はそんなにアツサリ文字通りのことではない。我々にあつて芸術的欲求が根を断つてゐるといふわけではない。そこで、臨床的な話をするならば、先人の作品に、更めて親炙すること唯一つである。さうしてその「様態」に、そのフォルムに迄関心が届くやうにならなければならない。つまり文学芸術といふ観念が自己の胸底に十分に確立しなければならぬ。その観念の確立に到達するまでは、何を書かうと児童の自由画といつたやうなものに過ぎぬ。フォルムの自覚のないものは、「やりつぱなし」に過ぎぬ。「やりつぱなし」が比較的面白いからといふので、買はれたつて、当人としても世間としても浅墓なことである。人生の余剰価値ともあるべき筈の芸術が浅墓なことであるくらゐならば、頼みもしないにそんなものを作らなくてもよいのだし、作るとすれば図々しいことである。単なる意志だけで為されたことは、為されたその時だけホンの瞬間熱病的に嬉しいかも知れなくても、なんの意義あることでもないし、人を喜ばすことでもない。そんな熱病的なことがあんまり沢山だものだから、文学志望者をだけ読者に持つやうな、浅間しいことにもなるのだ。
 何度云つても同じだが、フォルムに就いての理念のないといふことが、当今文学人をして彷徨不安ならしめてゐる第一の事だと思ふのである。
(一九三五・一〇)





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2015年9月1日作成
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