明治文壇には、紀行文家と称せられる一群の顔ぶれがあった。根岸派では、饗庭篁村が先達で、八文字舎風の軽妙洒脱な紀行文を書き『東京朝日』の続きものとして明日を楽しませた。幸田露伴にも『枕頭山水』の名作があり、キビキビした筆致で、自然でも、人間でも、片っぱしからきめつけるような
犀利な文章を書いている。しかしこのご両人は、あまりに老大家であって、「一群」からは、かけ離れていた。一群の人たちは、遅塚麗水、大町桂月、江見水蔭、田山花袋、久保天随、坪谷水哉などであるが、花袋が紀行文家と言われた時分は、自然派文学勃興以前のことで、文章に感傷癖はあったが、淡泊清新、ことに武蔵野あたりの原野や雑木林の寂しさを、淡彩的に点描するのに巧みであった。武蔵野といえば、ただちに独歩の名作が連想されるが、花袋も紀行文家として「野の人」であった、武蔵野の人であった。私はなんのかのと、不足は言いながらも、しんみりと落ち着いた心持ちで、花袋が読めた。自然派勃興以後の花袋自身は、おそらく「こんなもの」と言うかもしれないが、私のすきな花袋は、やはり情緒綿々たる紀行文家の花袋である。
しかし直接に文通したのは、少しく金の入用があったので、
白峰の紀行文を、花袋を通じて『太陽』に寄せたときが初めてであった。おかげで明治三十七年二月の『太陽』に掲載せられたのはいいが、どうしたものか、博文館から原稿料を送ってよこさない。「武士は食わねど高楊子」主義で突っぱった当時の青年文士は、いいかげんシビレを切らしても、原稿料の催促はしたくなかった。しかるにその年の秋も過ぎて、いよいよ手元切迫に及んだので、からめ手から催促するような手紙をやった。すると花袋からすぐ返事が来た。
拝啓 最早とうに稿料差上候事と存居候ひしに御手紙にて始めて知り、大に驚き申候、二三日の中に博文館の方にまゐるべく候間其節編輯記者に相話し早速御送金いたすやう取計らひ申すべく、不知とは申しながら怠慢の罪免るべからざることと存候、何卒不悪御思召被下度候、追々年もさし迫りさぞ御忙しきことと存候、大日本地誌は先日も紫紅兄の横浜通なる眼光を以て批評せられ大にヘコミ居申候ことに御座候、先づは御返事まで

々不一
烏水大兄 九日
花袋
拝啓 其後は御無沙汰にのみ打過申候偖小生今月十七日より北陸漫遊の途に上り漸く今日帰京御手紙の御返事相おくれ申訳これなく候草枕につき有益なる忠言を賜り有難多謝候再版の時には訂正いたし度と存候貴著『日本山水論』は草村氏より拝受、確かに一佳作たるに背かずと存候一読後大日本地誌の著者山崎直方氏に一読をすすめ置き申候細かき処は猶御面晤の栄を得候時万々申述度候
山嶽小説のこと御たづねにあづかりうれしく候日本には未だ此種のもの無之候へども欧州各国を通し候ても、諾威の山岳国にのみ此種の文学を出せしことも一奇と存候其作数種有之著者ビョルンソンは御存知のごとく、イブセンと諾威文学の牛耳を執り候人、其半期の作物は多くは山岳、或は荒海などを舞台に使ひたるものにして、其人物と言ひ、其配景といひ一種他に見るべからざる野趣を帯び居り、其文章も空霊とでも申すべきか、大に簡にして味ふべきもの有之候其傑作を奉くれば
B Bjornson.
Synnove Solbakken.
Arne.
A Happy boy.
The Bridal March.
などに可有之、ことにアルネは山岳小説の尤も粋を尽したるものに候、先刻は中西屋に其英訳大抵そろひ居り候ひしが、今は如何に候ふや小生大抵所持致し候間、御入用ならば、いつにても御郵送申上べく、大に世間に山岳趣味を鼓吹いたし度希望罷在候
東京にても御出遊の節は是非一度御目にかかり度く存候
且、文庫屡ば御寄贈を辱うし奉謝候貴兄の批評は大に愛読いたし居候益々御尽力あらんことを祈り申候例の乱筆御ゆるしを乞うの外なく候