近来邦人が、いたづらなる夏期講習会、もしくは無意義なるいはゆる「湯治」「海水浴」以外に、種々なる登山の集会を計画し、これに附和するもの漸く多きを致す傾向あるは
頗る吾人の意を
獲たり、しかも邦人のやや山岳を識るといふ人も、富士、
立山、
白山、
御嶽など、三、四登りやすきを上下したるに過ぎず、その他に至りては、これを
睹ること、
宛ら外国の山岳の如くなるは、遺憾にあらずや。
例へば東京最近の山岳国といへば、甲斐なるべくして、しかも敢へて峡中に入り、
峻山深谿を
跋渉したるもの幾人かある、今や中央鉄道開通して、その益を
享くるもの、塩商米穀商以外に多からずとせば、邦人が鉄道を利用するの道もまた狭いかな、
偶ま地質家、山林家、植物家らにして、これらの
人寰を絶したる山間谿陰に、連日を送りたるものあるは、これを聞かざるにあらずといへども、しかもかくの如きはこれ、漁人海に
泛び、
樵夫山に入ると同じく、その本職即ち
然るのみ、余の言ふところの意はこれに異なり、
夏の休暇は、衆庶に与へられたる安息日なり、飽食と
甘睡とを以て、空耗すべきにあらず、
盍くんぞ自然の大堂に詣でて、造花の威厳を讃せざる、天人間に
横はれる契点を山なりとすれば、山の天職たるけだし重く、人またこれを閑却するを許さざるなり。
余今夏、友人紫紅山崎君と峡中に入る、峡中の地たる、東に金峰の大塊あり、北に八ヶ岳火山あり、西に駒ヶ岳の
花崗岩大系あり、余らの計画はこれらの山岳を、次第に巡るに在りて、今や
殆どその三の二を遂げたり、而して上下跋渉の間、心胸、
豁如、洞朗、昨日の我は今日の我にあらず、今日の我はおそらく明日の我にあらざらむ、而してこれ向上の我なり、いよいよ向上して我を忘れ、程を逐ひて自然に帰る、想ひ起す、昨八ヶ岳裾野の
紫蕊紅葩に、半肩を没して
佇むや、奇雲の夕日を浴ぶるもの、火峰の如く
兀々然として天を
衝き、乱焼の焔は、
茅萱の葉々を
辷りて、一
泓水の底に聖火を蔵す、富士山その残照の間に、
一朶の
玉蘭、紫を吸ひて遠く漂ふごとくなるや、
桔梗もまた羞ぢて
莟を垂れんとす、
眇たる五尺の身、この色に沁み、この火に焼かれて、そこになほ我ありとすれば、そは同化あるのみ、同化の極致は大我あるのみ、その原頭を、馬を
牽いて過ぎゆく
夫を目送するに、影は三丈五丈と延び、大樹の折るる如くして、かの水に落ち、
忽焉として聖火に冥合す、彼大幸を知らず、知らざるところ、彼の最も大幸なる
所以なり、ああ、岳神、大慈大悲、我らに代り、その
屹立を以て、その威厳を以て、その秀色を以て、千古万古天に祈祷しつつあるを知らずや。
徂徠先生その『風流使者記』中に曰く「風流使者訪名山」と。我らは風流使者にあらず、しかも天縁尽きずして、ここに名山を拝するの栄を得、名山が天を讃する如くにして、人間は名山を讃す、また可ならずや。
駒ヶ岳の麓、台ヶ原の客舎に昼餐を
了りたる束の間に、禿筆を
舐ぶりて偶感を記す、その文を成さざる、
冀くは我が興の高きを妨ぐるなからむ。