谷より峰へ峰より谷へ

小島烏水




       穂高岳より槍ヶ岳まで岩壁伝いの日誌(明治四十四年七月)

二十日 松本市より島々しましままで馬車、島々谷を溯り、徳本とくごう峠をえ、上高地温泉に一泊。
二十一日 穂高岳を北口より登り、穂高岳と岳川岳(西穂高岳)の切れ目より、南行して御幣岳(南穂高岳または明神岳)の一角に達し、引き返して奥穂高岳に登り、横尾の涸沢からさわに下り、石小舎に一泊。
二十二日 石小舎を出発して、涸沢岳(北穂高岳)に登り、山稜を北行して、東穂高岳、南岳を経て、小槍ヶ岳(中の岳)、槍の大喰おおばみ岳を経て、槍ヶ岳に到り、頂下に一泊。
二十三日 蒲田がまた谷に下り、右俣に入りて、蒲田温泉に一泊。
二十四日 蒲田より白水谷をわたり、中尾を経て、割谷に沿い、焼岳(硫黄山)の新旧噴火口を探りて、再び上高地温泉に一泊。
二十五日 宮川の池に沿いて、宮川の窪を登り、岩壁を直進して、御幣岳の最南峰に登り、各峰を縦走して、二十一日の来路と合し、降路は下宮川谷に入りて、梓川に下り、上高地温泉に帰宿。
二十六日 上高地温泉を発足、徳本峠を越え、島々を経、馬車にて松本に到る。

    灰

      一

 汽車が桔梗ヶ原を通行するとき、原にはほこりと見まぎらわぬほどに、灰が白くかかって、畑の桑は洪水にでもひたされたあとのように、葉が泥みれになって、重苦しく俯向いている、車中の土地の人は、あれがきのう降った焼岳の灰で、村井や塩尻は、そりゃひどうござんした、屋根などは、パリパリいって、針で突っつくような音がしましたと、噴火の話をしてくれる。
 刈り残された雑木林の下路が、むら消えの雪のように、灰をなすりつけている。レールに近く養蚕広告のペンキ塗の看板が、鉛のような鉱物性の色をして、硬く平ったく烈しい日の光に向って立っていたが、汽車と擦れ違いさまに、たおれそうになって、辛くも踏み止まった。原の中の小さい池には、雲母を流したような雲の影が、白く浮んで、水の底からも銀色をした雲が、むらむら湧いて来る、丹念に桑の葉に、杞杓ひしゃくの水をかけては、一杯一杯泥を洗い落している、共稼ぎらしい男女もある、穂高山と乗鞍岳は、窓から始終仰がれていたが、灰のぬし(焼岳)は、その中間にはさまって、しゃがんでいるかして、汽車からは見えなかった。これらの山々から瞰下みおろされて、乾き切っている桔梗ヶ原一帯は、黒水晶の葡萄がみのる野というよりも、そりでも挽かせて、砂と埃と灰の上を、駈けずって見たくなった。
 松本市で汽車を下りたが、青々とした山で、方々を囲まれていて、雲がむくむくと、その上においぶさっている、山の頂は濃厚な水蒸気の群れから、二、三尺も離れて、その間に冴えた空が、澄んだ水でも湛えたように、冷たい藍色をしている、そこから秋の風が、すいすいと吹き落して来そうである。

       二

 翌くる日、なぎさというところから、馬車に乗った、馬車は埃で煙ッぽくなってる一本道を走る、この辺の農家によくある、平ったい屋根と、白い壁が、青々としたもりの中へ吸い込まれもせずに、りつくような日の下で、かっきりと浮き上って見える、埃の路は、ぼくぼくして、見るからにかったるい、その上を日覆いを半分卸した馬車は、痩せて骨立った馬に引かれて、のろのろと歩むかとおもうと、急に憶い出したように、塵をパッパと蹴立てて駈け出す。
 眼の前には、雁木がんぎの凹みのように、小さな峰が分れて、そこから日本アルプスの禿げた頭が、ぐいと出ている、雪の線が二筋三筋ほど、すすきに白いが入ったように、細く刻まれて、荒ららかな膚に、美しい白紐を引き締めている。
 馬車は一里もある松林へ入ると松は左へ左へと、すくすくと影を土に落して、往来には、太くまたは細い飛白かすりが織られる、年々来るところであるが、ことしはその松林の一区域が、伐り取られて、切株ばかりの原には、芒がぼうぼうと生えている、褐色の蝶が風に吹かれ吹かれて、急にひろくなった原の上を、迷い気味に飛んで行く、林の半ばほどの路で、立場たてば茶屋に休む、渋茶を汲んで出された盆の、菓子皿には、一と塊まりの蠅がたかって、最中もなかが真ッ黒になって動いている、アンペラをつけた馬が、尾をバサリと振るたびに、灰神楽はいかぐらをあげたように、黒いのが舞いあがる、この茶屋は車宿をしているが、蚕もやるらしく、桑の葉が座敷一杯に散らかって、店頭には駄菓子、ビール、サイダーなどが並べられてある。
 乗鞍岳は、始終よく見えたが、林に入る頃には、前山に近くなっただけ、頭をちょっと出して、直ぐ引っ込んだ、常念山塊には、雲が鮨でも圧すように、平ったく冠さって、その隙間から、仏手柑ぶしゅかんのような御光が、黄色く焦げるようにさしている、路端に御嶽大権現だの、何々霊神だのという、山の神さまや、行者の名を刻んだ石塔を見るにつけても、もう山国へ来たという感じが、あわただしく頭をそそる。
 アルプスおろしの風は、馬車のズックの日除けを吹きまくって、林の中へ通りぬけ、栗の青葉にバサバサ音をさせて、その行く末は千曲川の瀬音をみだしている、立場の茶屋の前を、水がちょろちょろ流れているのは、さすがに気持がいいが、見る限りの青草は、埃のために灰色に染めかえされて、蜘蛛くもの巣までが、埃をになって太くなっている、立場つづきの人家は、丈は低いが、檜やさわらの厚板で、屋根を葺いて、その上に石コロを載せている、松林の間から、北の方に、※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)らんてん色に冴えかえったアルプスの山々を見ると、深沈とした空の碧さと冷たさが、頭脳の中までしんと透き通る、雪袴を着けて、檜木笠を冠った女たちが、暑い日盛りを、林の中で働いている、林を出切ると、もう梓川に沿って、山の狭い懐中へと、馬車は揺られながら、入って行くので、間もなく、アルプスの駅路うまやじに突き当りそうなものだという感じを、誰にも抱かせる。

       三

 馬車は新淵橋を渡った、車中の客は、川沿いの高い崖に、丈がとどくまでに枝をのしあっている老楊を、窓から延び上って見た、楊の葉にも幹にも灰がべったりとこびりついて、しわだらけの顔に化粧をした白粉おしろいが、剥げてむらになったようで、焼岳という嫉みぶかい女性の、待女が繊細かぼそい手を出して、河原に立ちながら、旅客を冥府の谷底に招き寄せているのではあるまいかと思われた、崖の高い、曲りくねった路には、長い蔓をわせて、葛の三ツ葉が、青く重なり合い、その下から川の瀬音が、葉をむくむくともたげるようにして、耳にかよって来る、対岸の山を仰ぐと、斜めにっ立った、禿げちょろの「たちぎ」の傍には唐松の林が、しょんぼりと黒く塊まっている。
 山の宿屋というものを、思わせる「糸屋」と看板を出した旅籠屋はたごやには、椽側に紡車つむぎぐるまを置きっ放しにして、ひっそりかんとしている、馬車はここで停まった。
 私は重い行李を、車の中にしばらく置き去りにして、島々橋を渡った、橋の下は、島々谷の清い水が、蜻蛉とんぼの羽を見るように、底の石を綾に透かして、落ち口には、卵の殻のような、丸い白石が、おのずと並べられて、段を作っている、石灰岩の上を流れるために、いつも濁っている梓川の本流に、この島々谷の水が、いきおい込んで突きかかるところは、灰と緑と両様の水が、丁字に色別けをされて、やがてそれが一つの灰白色に、ごっちゃにされて、つれ合いながら、来た後を振り返り、振り返り、グイグイと流れて行くのを見ていると、この流れにも、焼岳の灰が交っているのではあるまいかと、おもわれる、そこから島々谷の水源の方を仰いでは見たが、青々とした山々が、幾重にも襟を掻き合せて、日本アルプスの御幣のような山々を、その背後に封鎖して、見せようともしない。
 島々の清水屋では、それしゃのあがりらしい女房が、昨日からお待ち申していたの、案内者を用意して置いたのが、ムダになったが、未だ足留めをしているのと、よくひとりでしゃべくる、二階に上って、烏賊いかに大根おろしをかけたのを肴に、茶のいきおいで、ボソボソした飯を掻き込む、大根の香物が、臭いのには少なからず閉口させられた、かみさんに云い付けて、馬車から行李を運ばせたりしているうちに、頼んで置いた嘉代吉(老猟師嘉門次のせがれ)も、仕度が出来て待っているというので、単衣ひとえを洋服に着換えるやら、草鞋わらじを引きずり出すやらで、登山装束を整える、そんなことをしてひるを過ごした。

      四

 島々谷に沿って、溯って行くと、杉やら唐松やらが、茂り合って、もうここからは、人と自然の間に線を引かれている、この谷へ入るのは、人間が草木のある土を歩くのではなくて、草木の世界に人が無理やりに割り込んで行くのである、初夏の青が緑になり、緑の上にも年々の黒い緑が塗られて、蒼黯あおぐろい葉で丸く塊まった森は、稀に入って来る人間を呑み込んで、その蒼い扉をぴったりと閉じ、シンと沈黙してしまう、唐松の梢が、風にさやさやとゆらめくと、今まで黙っていた焼岳の灰が、梢を放れて粉雪ほどに、人間の肩に落ちかかる、赤蜻蛉が、谷川の上を、すーい、すーいと飛んで行く、空は帯のように細くなってしまう、稀に来る人の足音におどろいて、小さい黄色の蝶の群れがパッと一時に舞い立つと、秋の黄ばんだ銀杏いちょうの葉のように、上を下へと入り乱れる、私の友人で、昆虫学者なるT君が、去年私と一緒にこの路を通りながら、島々谷ぐらい、胡蝶の多い谷はすくないと言われたのを憶い出して、しばらくは飛んで行く黄色い小さな魂を見つめていた。
 この谷は、しばらくは、一方はっ立った崖で、一方は森の下道である、そして板橋一つで、向う岸へ往ったり、こっちへ来たりするので、橋が多い、その板橋を渡る時には、いつも冷たい風が、上流の方から吹いて来る、それは雪を含んで来るのでなければ、氷のように冷たい水のおもてを吹いて来るからであろう。
 私は路々に白いものがぼれているのを、注意して見たが、それは蝶のはねの粉が、草に触れ木になすられて、散ったように、よどんでいるのであるが、よく見ると例の灰である、傷を受けてげ足をする獣のあとに、濃い碧の血が滴れているように、日に一寸だめし、五寸だめしに、破壊されている焼岳が、おののいたりわめいたりするときに、ところを嫌わず、苦痛の署名サインをして行くのがこの灰である、先刻の梓川の河原にもあった、古楊にもあった、葛の裏葉にもついていたが、島々谷に入ると、黒い粘板岩にも熊笹の葉にもこすられていて、その大部分は風に吹かれ、雨に洗われるであろうのに、残ったのが、未だ執念深く、しがみついているのである。
 むかし戦国時代、飛騨の国司、姉小路秀綱卿が、いくさに負けて、夫人や姫君と共に、落ちのびるところを、追手に殺されたという、執念の谷に、執念ぶかい焼岳の煙が靡き、灰が降りかかるのである。
 谷がせばまるに随って、両崖の山は、互い違いに裾を引いて、脚部を水にひたしている、水はその爪先を綺麗きれいに洗って流れて行く、ノキシノブの、べったりといた、皺の皮がたるんだ桂の大木や、片側道一杯に、日覆いになるほどに、のさばっている七葉樹とちやで、谷はだんだん暗くなる、その木の下闇を白く抜いて、水は蒼暗い葉のトンネルを潜って、石を噛んでは音を立てる、小さな泡が、葉陰を洩れた日の光で、紫陽花あじさいの花弁をむらがらしたような、小刻みなさざなみを作って、ったりと静かにひろがるかとおもうと、一枚硝子ガラスの透明になって、見る見る、いくつも亀甲紋に分裂して、大きな水粒が、夕立降りにざあとくずれ落ちたり、飛び上ったりする。
 私はくたびれたので、さわらの大木の根元に腰をかけて、嘉代吉と話をしながら、梢の頭をふり仰ぐと、空は冴えた碧でもなく、曇った灰でもなく、乳白色の雲が、銀光りをして、うろこのようにぬらぬらと並び合い、欝々うつうつと頭を押しつけて、ただもう蒸し暑く、電気を含んだ空は、かさにかかっておどかしつけるようで、感情ばかり苛立いらだつ、そうして存外に近い山までが、濃厚な※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)らんてん色や、紺色に染まって、緑と青のシンフォニイから成った、茫とした壁画を見るようで、強く暗く、不安な威圧を与える、さすがに谷の底だけに、木の根にも羊歯しだが生えたり、石にも苔がびりついたりして、暗い緑に潜む美しさが、湿うるおっている。
 谷が狭くなるほど、両岸はり合うように近くなって、洗ったような浅緑の濶葉に、蒼い針葉樹が、三蓋笠さんがいがさかさなり合い、その複雑した緑の色の混んがらかった森の木は、肩の上に肩を乗り出し、上から圧しつけるのを支えながら、おどり上った梢は、高く岩角に這いあがり、振りかえって谷を通る人を、覗き込んでいる、この谷を通る人は、単調な一本道でありながら、山の襟が折りかさなっているので、谷がまだ幾筋も出ていると知り、奥山の隈がぼーっと青くなっているので、日が未だ高いのであると思っている、そうして前の山も後の山も、森林のために、肌理きめが荒く、※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)りょくてんにくすんだところへ、日が映って、七宝色に輝き出すと、うす暗い岩屏風から、高い調子の緑が浮ぶように出る、弱い調子の青が裏切って流れる、印象派の絵画に見るような色彩の凹凸が、鮮明に流動している、私はそれに見惚みとれていたが、ふと足許を見ると、大きな款冬ふきの濶葉のおもてが、方々に喰い取られたような、穴を明けられ、繊維が細かい網を織っている、そうしてその網の一本一本に、例の灰が白くこびりついている、このような自然の虐げの怖ろしさを、閑谷に封じて、焼岳は今もなお、山の奥の方で、燃えさかっていることであろう。
 谷は次第に浅くなって、河原は自分が突き出した古楊の根に、水を二筋に分け、二筋の流れは両岸の緑を※(「酉+焦」、第4水準2-90-41)ひたし、空の色を映して、走って行く、日は錫のような冷たい光を放射して、雲は一団の白い炎になり、ぎらぎらと輝く、私たちは路を狭めるやぶき分けて行く、笹の葉から、蛾が足を縮めて、金剛杖の下にパタリと落ちた、それが灰のように軽かった。
 岩魚止いわなどめの破れ小舎に、一と休みして、いよいよ徳本とくごう峠にかかる、河原が急になって、款冬や羊歯が多くなり、水声が下から追っかけて来る、頭の上は、枯木が目立って白く、谷間に咲くウツギの花も、ぼんやりと白く、空は匂いの高い焼刃に、吐息がかかったように、うす曇りになる、木立の中では、もう日暮に近くなって、うす暗いのであると思ったのに、木のないところへ来ると、空は日が未だ高くて、ふるいをかけたように、青葉の上に金光をチラリと流して、木の下道にのみ、闇がさまよっている。
 しかしその金光も、いつまで永く見るわけには行かなくなった、霧が山の上をひたして烟のように、水沫みなわのように、迷いはじめる、峠が高くなるだけ、白いシシウドや、黄花のハリフキがむらがって、白い幕の中で黄色い火をともしたように、うすぼんやりしている、この頃は山登りの人が多くなったと見えて、竹の皮や、脱ぎ捨てた草鞋が、散らばっている、白樺の裸の幹がすくすくと立って、三角の葉が頭の上でけぶるように、梢の傘をひろげている、朽の大木も多く見えて、浅青や濃緑がむらむらと波のように、たぎり返っている、峠の頂上は凹んで見えていながら、路は近そうで、幾度も折り返えしては登って行く、火事場の後のように、霧の煙はぼうぼうと、方々から白く舞いあがって、絶えるかとおもえばつづき、森の中を伸びつちぢみつして、消えて行く、水の声は夢の中からでも聞えるように、脚の下からのぼって来る、そうして、峠の頂に近くなったときは、霧がそぼそぼとして、細かい粒の雨が、バラつき出したが、それでも合羽かっぱを出すまでには至らなかった。
 根曲り竹や白樺の細路を、グングン登って行くと、向う側に見える山は、半分ばかり、この峠の影がのさばりかかって、喰い取られたように黒くむしばみ、上半分は夕日で黄に染まって、枯木にまで、その一端が照り添って、目眩まぶしいように、顔をむけたかと見えたが、またカッキリと白く、象牙のように夕の空に浮び出で、それが一本一本ハッキリとしたときには、黄な臭いような気分になった。
 峠の頂には、黒檜くろべもみや白樺が、こんもりと茂っている、その凹んだ鞍のような路から、左の小高い崖に登って向うの谷を見ると、大なる穂高山は、乱杭歯らんぐいばのような肩壁を張りつめて、奥の穂高とおぼしきは、一ときわ高く黒縅くろおどしの岩石を空に抜き出で、御幣岳は最も近く峰頭を尖らせ、南の穂高は残りの雪がべったりと白く、北東へ向けては岳川岳の大障壁が出て、梓川の谷間へどっしりと重たく、幅を利かしている、うぐいすはせせこましく、夕の空気をつん裂いて啼く。谷の中を、穂高岳を中心として、この山から去ろうとしては、思いを残しているような雲が、綿のように丸まって、穂高の肩にぶつかったが、女の子がちょいと投げた紙屑のように、そのまま無造作にすべり落ちて谷へと消える、幾度も来たところではあるし、日も落ちて足許が暗くなるので、私はあわただしく峠の下り道を走って下りた、穂高のうしろに低く聳えた大天井おてんしょう岳と常念岳が、夕日の照り返しを受けて、萌黄もえぎ色にパッと明るくなっている、野飼いの牛が、一本路をすたすた登って来たが、そこには、逆茂木さかもぎがしつらえてあるので、頭をれて、入ろうとしたが、入れそうもないので、恨めしそうに佇んで、ジッと見詰めている、私たちは逆茂木と牛の間に割り込んで、身を平ったく、崖につけて、牛をかわして、スタスタ下りる、振りかえれば、牛は追って来ようともしないで、夕暮の沈んだ空気の中に眼鼻も何もない黒いものが、むくむくとうごめいている。
 白樺の森も、梓川の清流も、眼に入らばこそ――足許が少しでも、物色の出来るうちにと、ひたすら路を貪って、峠からひた押しに、梓川の森の下道に入る、青い草が絨氈のようにふっくりして、くたびれた足を持ち上るようだ、やみの中でも、石だけは白く光っている、穂高岳をふと振りあおぐと、あの肉塊隆々とした、どす黒い岩壁の、空を境にした山稜を、遠くから洞燈ぼんぼりをさしかざしたように、柔らかな光線が、のたのたと、蛇のように這っている、それが岳川岳の方へと、一、二寸ぐらいずつ伸びつ縮みつして寄って来る、刹那刹那に烟のように変化して行く、アア Alpine Glow 始めて観たアルプスの妖魔の色!
 私は、くたびれを忘れて、躍り上って悦んだ、その光りは天頂の方へと段々高くなって、最後に燐寸マッチを擦ったように、パッと照り返した、森はもうまっくらになって、徳本の小舎のうしろへ来ると、嘉代吉は「オーイ」と呼ぶ、小舎の中からオーイとこたえる、「ちょっと待っていて下さい」と荷を卸して軽々と飛んで行ったが、間もなく戻って来て、おやじの嘉門次が、お客さまを槍ヶ岳と穂高へ案内して、少し足を痛め、小舎(宮川の)に帰ってきょう早くから寝ているという言伝てが、この小舎の人にあったと語る、嘉門次がいなくては、穂高岳から槍ヶ岳つづきの峰伝いは、どうなることやらと、心配しながら、温泉へと急ぐ。
 足もとは暗いが、木の梢だけは、夜の空にかっきりと黒く張って、穂高の輪廓は、ボーッと、物干棹ものほしざおでも突き出したように太く見える。私の眼の周囲には、萌黄にぼかされた穂高の峰々が、神経の電線に燃えついて、掻き消されそうもない、私は眼球の上へ、人さし指を宛てて、グリグリとやって見たが、一、二尺の先を見つめるのが精々で、森の梢は、その燃えさかりの※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの中に、暗を縦横に引っ掻き廻し、入り乱れて手を突き、ひじを張っている。
 私は幾度となく、首をれては、梢の下を潜った、枝は人を見ると、ひしひしと身を寄せかけて、しがみつきそうにする、私は引き締まった、用心ぶかい態度になって、木の葉のつぶやきも聞き洩らすまいとした、あとからいて来る嘉代吉の足音が、ひたひたするだけで、谷の夜空は、猫眼石から黒曜石に変化した、焼岳の願人坊主のような頭が、夜目にも、それと見えたので、心おぼえの橋が近いと思った、星の光が澄み切って、濁りのない山中の空気をすかして、針のように鋭くチラチラする。
 橋を渡って、竹籔の中を、しゃにむに押し分け、梓川の水面を見ながら、森の中を三、四町往ったかとおもうと、温泉宿の火光がちらりと見えた、嘉代吉が「オーイ」と呼んで見たが、返辞は更にない。

    神河内

 私の室として与えられたのは、この温泉宿の二階の取っ附きで、一体が大きな材木を使ってある割合には、粗雑な普請で、天井も張ってなければ、壁などは無論塗ってなく、板の壁には、新聞紙がベタベタ張りつけてある、床の間には印刷した文晁ぶんちょうの鹿の幅などが、なまじいに懸けてあるのが、山の宿としては、不調和であるが、それでもこの室だけは、一番上等のだと見えて、赤い毛布をいて、客間然とさせてある。
 障子を開けて、椽側に出ると、眼の下がすぐ湯殿で、幅濶はばひろ階子段はしごだんを下りると、板をかけ渡して湯殿へ交通が出来るようになっている、その湯殿の入口に、古ぼけた暖簾のれんを懸けてあるのが、何だか宿場しゅくばの銭湯をおもい出す、この湯殿の側には小池が二つ連なって、山から落ちた大石が池の中にはまり込んでいる、そうして水底から翡翠ひすいのような藻草や、海苔のりのようにベタベタした芹みたいな植物が、青く透き通って見える、その一ツの池からは、いつも湯の烟がほうほうと立って、鉄気かなけで水が赤びている、池の畔には川楊が行列をして、その間から、梓川の本流が、漫々と油のような水を湛えて、ぬるぬる流れている、この温泉は梓川の河原から湧いて出ると言って、いいくらいに、本流に近いのである。
 二階は手摺てすりつきで、廻り椽になっているので、西に向いた曲り角に来ると、焼岳がそっくり見える、朝早く起きたときには、活火山というよりも、水瓜すいかか何ぞの静物を観るように、冷たそうな水色の空に包まれて、ひっそりとしている、山の頂は、かぶとのような鈍円形をして、遠目ながらも森の枯木が何本となく、位牌のように白く立っているのが見える、木のないところは火口から吐き出す泥流がかぶさって、それが干からびて、南京豆の殻のような、がさがさとした、乾き切った色をしている、頭から肩と、温泉宿の方へズリ下りて、火口壁の聳えたところに、折り目がいくつか出来ている、そうして近頃の新火口らしい円い輪形から、てんの毛のような、褐色なっさりとした烟が、太く立ち上って、頂上から少し上の空を這って、風に吹き靡けられて、別に細い烟が一と筋、山の向う側から立って、頂をめているが、その方の噴火口は、宿からは見えない。
 山から眼を、宿の庭に移すと、それでも畑をこしらえて、ねぎがすこしばかり作ってある、唐松の苗も、植えてある、庭男に聞くと、焼岳が今のように荒れ出さない前には、この谷でも、馬鈴薯や大豆ぐらい、作れたものだそうだが、今ではもう、まるッきり見込がないとのことだ、物干棹には浴衣ゆかたなどが、かわかしてある、梓川を隔てて、対岸の霞沢岳の頂は、坊主頭や半禿げの頭を、いくつか振り立てて、白雲母花崗岩の大露出が、いつも雪のように白くなっている、それも胸から以下は、隙き間もないように青い木をよろっていて、麓には川楊の森林が、みどりの葉を、川のおもてにさばいている、梓川は温泉宿の前まで来るうちに、多くの沢水をあつめ、この辺から太くなって、水嵩も増し、ったりと彎曲して、流れているのであるが、宿からは川楊の木立かくれに、河原が白く見え、せせらぐ水は、白樺や水楊の木の間から、翠の羽を一杯にひろげた孔雀のような、贅沢な誇りの緑を輝やかせて、かなりな傾斜を、スーイ、スーイとのして行く。
 朝など、早く起きると、東の低い山の尾根が、最初に白んで、光線が山の頭をうっすりと撫でたかとおもうと、対岸の川楊の頭が、二、三寸だけ、陽炎かげろうでも燃え立つように、ちょろりと光る、瞬く間に川に向っている私の室は、朝日が一杯にさしこんで、夕日のように、赤々とまぶしくなる、そのうちに東の山々は、晃々こうこうとしてさし昇る日輪の強い光に、ぼい消されて、空がかっとする、もう仰いでいると、眼のまわりが、ぼやけてしまって、空だか山だか、白金のように混沌として分らない、霞沢岳や八右衛門岳は、その反射を受けて、岩塊が鮮やかに白くなるが、あまりに垂直なる岩壁の森林は、未だ暗黒で、幾分の夜の残りが漂っているようである、そうして梓川の大動脈を間に挟んで、霞沢岳は穂高岳とさし向いになっている、両方の山とも、のこぎりの歯のような岩壁を天外にうねらせて、胸部の深い裂け目から、岩石の大腸を露出しているのが、すごくもあるが、この両方の大岳には、五、六月頃になると、山桜や躑躅つつじが、一度に咲いて紅白ぜの幔幕まんまくを、山の峡間に張るそうである、それよりも美しいのは、九月の末から十月の半ごろにかけてである、秋とはいえ、霧は殆んどなく、その頃になると、霞沢岳は、裾がまだ緑であるのに、中腹はモミジで紅く燃えるようになり、頭は兀々こつこつたる花崗岩で、厳粛なる大気の中に、白くさらされている、このように紅緑白の三色をカッキリと染めるのが実に美しいと、温泉宿の主人は、さもれとするように話をしてくれる、私は親友水彩画家、大下藤次郎氏が、ある年七月の初めに、ここへ写生に来て「秋になったら、是非も一度、往って見たい」と幾度も繰りかえしていたことを憶い出した――その大下君は、年の秋を待たずに、この神河内かみこうちの自然に忠実なるスケッチ数十枚を残して、死なれてしまった。
 晴れた日ばかりではない、いま明るいかとおもうと、雲とも霧ともつかぬ水蒸気の一団が、低くこの峡谷に下りる、はじめは山百合の花ほどの大きさで、峡間の方々から咲く、それが見る見るうちに、もつれ合って、大きくひろがると、霞沢岳でも、穂高岳でも、胸から上に怖ろしく高い水平線が出来て、ピタピタと岩壁を圧しつけている、こういうときには、平常緩やかな傾斜を、梓川まで放出して、低く見える焼岳までが、緑の奥行きを深くして、山の線が霧と霧の間に、乱れ打つ、椀を伏せたような阿房あぼう峠まで、重たい水蒸気にのしかけられて、黯緑あんりょくで埋まった森の中に、水銀が湛えられる、その上に乗鞍岳が、峻厳にそそり立って、胴から上を雲に没している。
 谷風がさやさやと、川楊の葉に衣擦きぬずれのような音をさせて通行する、雲はずんずん進行して、山の緑は明るくなったり、暗くなったりする。
 夕日がさすころになると、岩魚釣がビクを下げて、川縁かわべりを伝わって来る、楊の影が、地に落ちて、棒縞がかっきりと路を染める中を、人の足だけが出たり入ったりしている、それから間もなく岩魚の塩焼が、膳にのぼる頃になると、楊の葉の中を、白いわたのように飛んで、室を目がけて、夕日に光る障子に、羽影をひらめかせる、風が死んで楊の葉はそよとも動かない。
 縁に出て池を見ると、水馬みずすましがつういつういと、泳いでいる、そのおもてには、水々しい大根を切って落したような雲が、白く浮いている、梓川の水は、大手を切って、気持のいいように、何のとどこおりもなく、すうい、すーいと流れて行く、その両側の川楊は、梢と梢とが、ずーっと手をひろげて、もう今からは、誰も入れないというように「通せん坊」をして、そうしてっそりと静まりかえってしまう、日が暮れるに随って、梢はぴったりと寄り添って、呼吸いきを殺して川のおもてを見詰める、川水はときどきむせぶように、ごぼごぼときこんで来る。
 かかるゆうべに、この美しい梓川の水に、微塵みじんも汚れのない、雪のように肌の浄い乙女がどこからともなく来て、裸体になって、その丈にあまる黒髪をも洗わせながら、ゆあみをしようではあるまいか、何故といって、秘密の美しさは、アルプスの夕暮の谷にのみ、気を許してうかがわせるからである、そんなことを考えているうち、雲が一筋穂高山の中腹によこたわった、焼岳はと見ると、黒い雲が煤紫色にかかって、そのうしろから、ぽっかりと遠い世の物語にでもありそうな雲が、パッと赤く映る。
 嘉門次が挨拶がてら、釣った岩魚を持って来てくれた、話を聞くと、岩魚は日が出て暖かくならなければ、浅い水へは出て来ない、この魚は殊に、籔の下へ隠れるものだそうで、やはり小谷よりも本谷に多くいる、れるのは旧の三月から十月頃までであるが、そのころはもうまずくなるので、喰って味のよいのは、ちょうど今だと愛嬌をいう。
 夜に入っては、私は虫が嫌いなので、障子を締め切ってしまうと、あっちでも、こっちでも障子の外で、カサカサカリカリと忍び音がする、くちばしひげで、プツリと穴を明けて、中をのぞき込んで、呪っているのではあるまいかと、神経が苛々いらいらする。
 夜など、燭をって、湯殿へ通うと、空には露が一杯で、十一月頃の冷たさが、ひしひしと肌に迫る、そうして凸凹のないところは、ないくらいな山の中にも、梓川が、静かな平坦な大道路となって、森の中を幅びろくのしている。

    森林より穂高岳へ

 河童かっぱ橋から、中川という梓川の小支流を渡って、林の中に分け入る、根曲り竹が、うるさく茂って、掻き分けてゆくと、もう水中の徒渉をやらないうちから、胴から下がビッショリになるほど、朝の露が一杯である、林が一と先ず切れると、梓川の本流がうす暗い緑色になって、浅く流れている、青海原の強い潮流が一筋、き込んで、古代ながらの大木の、森々とした海峡を押し切ってゆく力強さである。川楊の大木が、嵐にも洪水にも抵抗し抜いて、力も何も尽き果てたというように、ぐったりと根こそぎに、岸から川の中へ打ち倒れているのを、橋代りにして渡ったが、向う岸に着くまでには、三度ばかり冷たい水の徒渉をしないわけには行かなかった。
 根曲り竹はますます茂って、人の丈より高くなる、人混みの中を、押し分けるように気兼ねをしながら行くと、笹の茂りからは、白い灰がフーッと舞い立って、木の葉の露で手のべる杖までが、ザラつくようになった、木の間がくれに焼岳を見ると、肩から上の半分だけ、新しい灰を冠って、死人のように白くなっている、穂高山の方から、岳川が梓川の本流に突っ込んで来るところで、嘉代吉は若い男を振りかえって「あねそら(上)へ行けやい」とあごで指図しながら、杖をコツンと石について考えている。
 川添いの森には、苔で青くなった石が丸く寝ている上を、もみさわらが細い枝を張り合っている、脂くさい空気を突ッついて、ミソサザイがしきりに啼く、岳川から石の谷を登る、水はちっともない、独活うどの花がところどころに白く咲いている、喬木はしんしんと両岸に立ちふさがって、空を狭くしているが、木の幹がまだらに明るくなるので、晴れてるのだとおもう、どうかすると梢の頭から、水がこぼれたように、ちらりと光って、鏡のような小さな空を振り仰がせる、草鞋わらじの底が柔らかくプクプクするので、足の爪先に眼をおとすと、蒼い苔がむくんだ病人の顔のようにふくれて、石の厚蒲団が、暗いところでゴロゴロ寝ている。
 樹は次第に稀れになって、空は頭の上にひろがってくる、根曲り竹も少しはあるが、白樺やナナカマドが幹も梢も痩せ細って、石の間に挟まっている、穂高から焼岳へとつづく間の、岳川岳の大尾根は、小槍の穂先のような岩石が尖り出て、波をうって西の空へと走っている、その下から大岩壁の一角が白くなだれをうって、怖ろしい「押し出し」となって、梓川の谷まで一と息に突き切っている。
 森が尽きて、この岩石の「押し出し」へ足がかかった、眼の前には焼岳の傾斜をこえて、赤くいだ阿房峠が低く走り、その上に乗鞍岳の頂上が全容をあらわした、左の肩の最高峰朝日岳には、雪が縦縞の白いを入れている、小さなぶよが眼の前を、粉雪のように目まぐるしく舞う、森の屋根を剥がされた空からは、晃々としてき切るような強い光線を投げつける。
「押し出し」は上へ行くほど、石が大きくなって来る、山体の欠片が、岩壁の破れた傷口から、新しく削り取られては、前後左右に無秩序に転がっているのである、眼下には上河内かみこうちの峡流が林の中を碧くねり、ところどころに白い洲に狭められて、碧水が白い泡を立てて流れている、風がさやさやと森を吹き抜いたかとおもうと、焼岳の中腹から麓へかけて森林の中から灰が、砂煙のように白く舞い※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)がって、おどろくべき速力で、空の一角を暗くするばかりに、ずんずんと進行をはじめる。この灰の行くところ、峠を越え里に出て、今頃は高原の人々に、手を額に加えて仰ぎ視させているであろう。
 岳川を仰ぎながら、「押し出し」は穂高岳の方へと屈曲して行く、それも段々せばまって、乾き切った石の谷も、水がちょろちょろ走りはじめたので、もう雪が近いとおもわれた、梓川は寸線にちぢまり、焼岳は焼けただれた顔面を、半分見せたきりであるが、乗鞍岳はいよいよ高く、虚空を抜いて来た、岳川岳には殆んど雪がなく、白い筋が二、三本入っているだけだ、嘉代吉に言わせると、去年は雪の降り方が、少なかったからだそうだ、雪のないだけに、あかっぽく薙いだ「崩れ」が、荒々しくぐられて、岩石と一緒に押し流された細い白樺が、揉みくしゃに折られて、枝が散乱している。
 この石の崩れを登っていると、石がキラキラと日光に削られて、眼鏡に照りかえす、「石いきれ」が顔にほてる、それでも「押し出し」が尽きて、右の方の草原へ切れ込むと、車百合や、四葉塩釜よつばしおがまや、岩枯梗や、ムカゴトラノオなどの高山植物が、ちらほら咲きはじめて、草むらの間には、石の切れ屑がときどき草鞋を噛む、殆んど登りつめた端は、雪がおどろくべき漆黒色をして、黒い岩壁が流動したようである、それが例の焼岳の灰だと解ったが、咽喉のどが乾いて堪まらないので、上側を二、三寸掻き取って見ると、中からは綿のような白いのが、現われた、それをしゃぶりながら、焼岳を見ると、半腹以上岩壁が赭っちゃけて、あらわれている、嘉代吉と人夫も、一と息つきながら焼岳の煙を見つめている、「いいねあの煙は」「どうも天気がやかましい」「どうしてね」「あの煙が、乗鞍の方へ寝ると案じはねえだが、飛騨の方へ吹きつけてるから、ちょっとやかましいわい」私は少し心配になって来た、「そこが風の吹き廻しで、解らないところだろうよ」「いんや、西へ吹くと、雨になるだあ、測候所より確かなものだ」という。
 焼岳の麓からは、灰の埃が濛々もうもうとして、谷の白洲に大きな影をのたくらせながら、徳本峠を圧しかぶせるようにして、里の方へと下りてゆくのが、まだつづく、乗鞍岳の左肩に、御嶽は円錐形の傾斜を長く引いて、弱い紺色に日を含んだ萌黄色が、生暖かい靄のように漂っている、どこからか鶯が啼く、細くうすッぺらな、鋭利な刃物で、薄い空気の層を、つん裂いて、兀々ごつごつとした硬い石壁に突きあたる。灰で塗られた雪田は、風の吹きつけた痕らしく、おもてに馬蹄形の紋をあらわしている、焼岳の右の肩から遠くの空へ、飛騨の白山つづきの山脈が、広重ひろしげの錦絵によく見るような、古ぼけた煤色をぼかしている。
「押し出し」の石崩れも登りつくした、灰を被むって黒く固まった万年雪は、杖も立たないので、人夫が先に立って、なたっては足がかりをこしらえた、柱のように斜に筋を入れた岩壁は、両側にそそり立って、黒い門をしつらえたようである、その頭は筆架のように分れて、無数の尖った岩石が、空を刺している、その薄ッペラの崖壁にも、信濃金梅しなのきんばいや、黒百合や、ミヤマオダマキや、白山一華はくさんいちげの花が、刺繍をされた浮紋うきもんのように、美しく咲いている、偃松はいまつなどに捉まって、やっと登ったが、この二丁ばかりの峻直なる岩壁は、日本アルプスにも、たぐいの多からぬ嶮しさであった、そうして登りよりも降りの方が、なお怖ろしかろうと思われる。
 鋸歯のような岳川岳から、ここ穂高岳に列なっている岩壁は、一波が動いて幾十の波が、互い違いに肩を寄せつけながら、大ねりに畝ねって、頭を尖らせ、裾をひろげて乱立するように、強い線で太い輪廓を劃した立体が、地球の心核を、無限の深さからつかみ上げてすっくと突っ立っているのである、そうして截っ立てた絶壁は、世に見らるる限りの、壮大なる垂直線をして、梓川と蒲田谷の中間にズリ落ち、重たい水蒸気が溜息をくように、谷の底から漂って来て、団々の雲となって、ふうわりと草むらを転げてゆく、雷鳥がちょいと首を出す、人夫が石を投げたので、また首を引っ込めてしまった。
 この岩壁の脈から、左の方の低い尾根へと取れば、槍ヶ岳へ行かれるのであるが、私は穂高の峰々を片ッ端から踏んで見たくなったので、私が御幣岳(明神岳または南穂高岳)と呼ぶ三本槍状の穂高を、先へ駈けぬけるつもりで、人夫だけを別れ道に待たせて置いて、嘉代吉と二人で偃松の間をむやみに走った。
 眼の下に遠く梓川は、S字状にねっている、私の足音につれて、石がコロコロと崩れ落ちる、壁一重を隔てて、ざわざわがらがらと、滝のたぎり落ちるような音がする、嘉代吉を振りかえって聞くと、石が崩れているのだという、かの戦慄すべく、恐怖すべき、残忍なる石と石の挌闘かくとうと磨滅が始まったのである、私は絶壁を横切りながら、鋭い切れ物で、頬をペタペタたたかれるような気持をしながらも、ここまで来ると、岩石のうるわしき衰頽と壊滅は、古城の廃趾のように、寂びを伴って、その石なだれの尖端は、まっしぐらに梓川の谷に走りこんでいる、地心から迸発ほうはつさせた岩石の大堆朶だいたいだを元に還すために、傾け尽くされたような、断末魔の時節が、もう到来しているのではないかと思った。
 ともかくも三本槍の、一番手前の根もとに達した、それから中央の大身の槍を目懸けて、岩壁の喰い欠かれた大垂るみを走りながら、ようやく取りついた、霧は反古ほごまるめて捨てたように、足もとに散らばりはじめた、東の空に、どうしても忘れられない富士山が、清冷凜烈りんれつなる高層の空気に、よくも溶けないとおもわれるような、しなやかな線を、八字状に、蛋白色の空に引き、軟かそうな碧の肌が、麗わしくうかび出た、やや遠くは八ヶ岳、近くは蝶ヶ岳が、雲の海に段々沈んでゆきそうだ。
 槍ヶ岳へのわかれ路まで戻って来ると、人夫は親子連れの雷鳥を、石でち殺して、足を縛っているところであった、先刻首を引ッ込めたそれか知ら、とうとう助からなかったかなあと思う、逆さにして荷にくくりつけられたのを見ると、眼は吊上って、赤い肉冠とさかは血汐が滲んだように気味悪く、鋭くとがった爪は、空を掻いて、きじに似た褐色の羽の下から、腹へかけて白い羽毛が、もみくしゃに取り乱され、脚の和毛にこげが菅糸のように、ふわふわ空に揺られている、可愛そうだと言った口で、今夜私も一緒になって、この肉を喰うのかなあと思う。
 岩壁の大天井まで這い上ると、日輪は爛々として、頭上に高い、西の方乗鞍岳御嶽の大火山脈は紫紺の森と、白雪と、赭岩の三筋に塗られ、南の方木曾山脈は、鳶色の上著うわぎに白雪の襟飾りをつけ、遥かに遠く赤石山系は、鼠がかった雲の中に沈没している、常念岳や、大天井岳は、谷一つの向いに近く、富士と八ヶ岳は、夢のように空に融けようとしている、北では鹿島鎗ヶ岳と、白馬岳を見たが、半分は雲に没して、そこから低く南走した山は、全く雲底に沈んでしまっている、雲と遠山の間の空は、うす気味の悪い蛋白色の透明で、虚無の中をどこまでも突きぬけている。
 私のいう西穂高岳へ出ると、ここに、もとは三角測量標があったということであるが、今は奥穂高の方へ移されたので、石の断片ばかり磊々らいらいとして、小さくうずたかくなっている、ここは槍ヶ岳へも、岳川岳から岩壁伝いに乗鞍岳へも、また奥穂高へも、行かれるところで、三方への追分路である、雲が天上を縦横に入り乱れて、その影が山に落ちて、あざが方々に出来る、常念岳の禿げ頭が光って見える。
 それから尾根を伝わって、下り気味になる、ちょいちょい小さく尖った山稜は、大波の間に、さざ波をだぶだぶ打ち寄せたようで、爪先が上ったり下ったりする、石の皺には、黄花の石楠花しゃくなげが、ちらほら咲いている、この花の弁で承けた霧の雫を吸ったときは、甘酸っぱい香気で、胸が透いた。
 岩壁は次第に薄い刃となり、擦り切れて、尖っているので、一つの方向ばかり行かれないから、南側を行ったり、北側へ廻ったりする、北側は大雪田で、谷までグイと凹んで、ぐられたとこが多い、「今夜の泊まりはあすこだ」と霧のもつれ合っている間から、涸沢からさわの谷底を眼の下に見て、嘉代吉が指さす、その霧のぴしゃぴしゃささやぐ間を、奥穂高岳の絶頂へと辿たどりついたが、残雪は六尺ばかり高く築いて、添った壁をっている、奥穂高の前に野営に適したような窪地があったが、石ばかりで、偃松の枝一本見つからないほどだから、燃料のないことだけでも、絶望をしなければならなかった。
 奥穂高といっても、岩石の逼迫ひっぱくした凸った地点に、棒杭一本を打ち込んであるだけのことであった。
 そこから、今夜の野営地と決めた谷まで、下りようとしたが、霧のために空へ薄い膜をかけられ、突き破っても、切り払っても、ぼんやりとして一、二尺の先を見つめるのが、精々の努力である、そのうちに霧とも言われない大粒の雨が、防水布の外套を、パチパチはじいて、飛び散る水玉が、石にまで沁みこむようになった、手もこごえはじめて、下り道を選んでいる暇はない、鋭い山稜だの、崩石だのを迂廻して、一、二丈ばかりの絶壁に行き当った。
 ここを下りなくては、谷へ行けそうもないので、準備の綱を出して、嘉代吉にその一端を持たせ、私は金剛杖を先ず投げ出して置いて、空手で綱にすがった、雨に濡れた麻の綱は、思わずツルツルと辷って、私を不用意に直下させたが、それでも、中途で岩に足を踏んがけ、綱を力に、身を弓のように反らせて下りた、人夫も後から下りて来た、下りては見たが野営地とは方角が違って石炭の粉のように黒く砕けた岩石が、ザラザラと狭い谷へくずれ落ちている、谷の水音が雨の音に交ってザアザアと聞える、こんなところじゃあなかったと、嘉代吉は考えていたが、少し戻り気味に岩石の盛り上った堤防を越して、大雪田の頭に出た、陸地測量部員が、去年泊まった跡だとかいう、石をらして平坦にしたところがあって、燃え残りの偃松が、半分炭になって、散らばっていたが、木材は求められなかった。
 その直ぐ下から、大きな雪田が、峻急の傾斜をして、谷へズリ落ちている、雪田の末は、石がゴロゴロしていて、その中に四角な黒檀の机でも、据えたような、大石がある、形がおもしろく目立つので、今まで霧の隙き間から、山稜伝いに眼の下に、眺めていたものだ、それが石の小舎で、今夜はあの石の中に、潜り込むのだと聞いた。
 私は雪田の縁辺の断石をんで、下りかけたが、いかにもまだるッこいので、雪を横に切って斜に下りようとした、雪のおもては、焼岳の灰がばらついて、胡麻塩色になっている、雪は中垂るみの形で、岩壁をグイと刳ぐり、涸谷からたにに向いて、扇面のように裾をひろげている、その末はミヤマナナカマドの緑木が、まだらに黒い岩の上に乗しかかって、夕暮の谷の空気に、湿めッぽく煙っているので、雪の海に、小さな森を載せた島嶼とうしょが突き出ているようだ、私が踏んがけた雪は、思いの外に堅く氷っているので、さらぬだに辷りやすい麻の草履が、よく磨きあげた大理石の廊下でも走るように、止めどもなくつるつると滑り始めた、前にのめって顔でもすりむいてはと、気がかりになって、ちょっと反り身になると、身体が膝を境に「く」の字の角度をして、万年雪のおもてが、蚯蚓張みみずばりに引ッ掻かれたかとおもうとき、金剛杖は私の手から引ッたくられたように放り出されて、私は両手で雪を突いた、傾斜がついているから、そのはずみに、軽い体が雪の上を泳ぎはじめた、アッア、アッと本能的に叫んだときには、足の爪先がり上げられたように、万年雪を蹴って、頭の中は冷たい水をさされた、もういきおいのついたうわずった身体が、雪田の境にある断石の堤防へ、けし飛んで行った。
 先へ下りた嘉代吉が、血相かえて、私に抵抗するように、大手をひろげて、向って来たかとおもったとき、私は嘉代吉の懐にグイと抱き締められていた、「どうしました、怪我はしませんか、怪我は」私は黙って首を振った、胸が重石で圧されたように痛い、雪田を下りかけた人夫は杖を突っかいながら、呆気あっけに取られた顔をしている。
 しばらくは嘉代吉の肩にりかかりながら、徐々そろそろと雪田を下った、裾の方へ来ると、水音が雨に伴って、ざわつき出した、くるぶしを痛めたので、跛足をひきながら、石の小舎へ来た。
 石は人の手入れを経ない、全くの自然石で、不思議にも中はおのずと、コ字形に刳ぐられていて、濶さは一坪半ぐらいはあろう、四人ぐらいはもぐれそうであるが、うっかり立てば頭を打ちつけるほどに低い。嘉代吉と人夫が荷を卸して、油紙で庇を拵えてくれるのを、待ち兼ねて、石の中へ潜って寝た、雨はざんざ降りになって、庇から岩を伝わっては、ポタポタしずくが落ちる、防水布の外套に包まれて、ココアを一杯興奮剤に飲んだまま、飯も喰わずにたわいもなく痲痺したようになって寝た。
 夜中にふと眼をさまして、石の外へい出してうかがうと、雨はいつか止んだらしいが、風はゴーッと唸って、樺の稚木わかぎが騒いでいる、聞きなれないとりが、吐き出すように、クワッ、クワッと啼いている、どす黒い綿雲がちぎれて、虚空をボツボツ飛んでゆく間から、三日月がぶし銀のように、冷たく光っている、嘉代吉や人夫の寝顔までが、月のうす明りで、芋虫のうす皮のように、透き徹って見える、崖の方を見ると、雲の絶え間から、万年雪が玻璃はりの欠片のように白く光って、水の色は、鈍く扁平にひからびている、私は穴蔵へでも引き入れられるような気になって、また石小舎へ戻った、光を怖れる土竜もぐらが、地の底へもぐりこむように。

    穂高岳より槍ヶ岳へ

 石小舎の前には、きのうの夕まで、霧や雨で見えなかった御幣岳が、しっとりとした朝の空気に、ビショ濡れになって立っている、一体に粗い布目を置いたように、破れ傷のある岩石は、尾根から尾根へと波をうって、いかにも痙攣けいれん的に、吊り上げられたように、虚空をもだいている、疲れてまといつくような水蒸気のかたまりが、べっとりと岩を包もうとするのを、峰は寄せつけもせず、鋭く尖った歯をき出して、冷やかに笑っている、小舎のうしろには昨日超えた奥穂高が原始の墳墓のように、黒い衣をかぶって、僧形に立ちはだかって、谷底に小さく動いている人々を見下している、私は振り返って奥穂高を仰いでいたが、その冷たい瞳に射すくめられて、身顫みぶるいした。
 前の峰からは、大残雪が横尾の谷へと白く走っている、御幣岳からずり下りに、梓川の方へと立て廻わす大岩壁は、屏風岩とも、仙人岩とも言うそうで、削ったようなのが、大手をひろげて立ちふさがっている、東の空にピラミッド形をしてそそり立っているのは、常念岳らしい。
 石小舎の前には、樺や偃松が、少しは生えて、生々しい緑が捨てられている、谷底一杯は石の破片で埋まっていると言って、いいくらいで、白壁のような残雪が、崖の腹からくずれかかってその破れ石の上を、継ぎ剥ぎに縫っている。
 朝飯が炊けると、嘉代吉はお初穂を取って押しいただいた、山の神さまへ捧げるのだという、私も人夫も、それを四、五粒ずつ分けてもらって、同じように押し頂いて喰べた、奥穂高はと見ると、もういつの間にか、霧がかかった、きょうもまた雨の糸で縫いこめられる象徴シムボルのように。
 雪田を峰へかけて、登りはじめる、尾根へ近くかかるとき、富士山や、八ヶ岳や、立科たてしな山の、ったりと緩やかな傾斜が、いかにも情緒的の柔らかさで、雲の中へ溶けている、それらの山々を浮かせて、白銀のような高層の雲が、あざやかな球体をして、幾重にもかさなって、千万のうろこが水底できらめくように光っている、「へえこの雲じゃあ、時降しぶりにゃあなりっこなし、案じはねえ」と嘉代吉は受け合っているが、それでも朝日の金光を、中途から断ち切って、霧がぴちゃぴちゃつぶやきながら、そそいで来ると、何とも言われない陰欝メランコリイな暗い影が、頭蓋骨の中にまでさして来る、かとおもうと、霧が散って冴えた空が、ひろがるときは、もう足までが軽々と空へ持ち上げられるような気になる。
 谷の日陰の高山植物は、うら枯れて、昆布のようにねっとりと、本性を失っている、やがて米粒ほど小さな、白のツガザクラが咲いていたとおもうと、偃松が黒くあらわれる、岩片は縦横に処狭いまでに喰い合っている、尾根にすぐ近くなって、涸沢岳(北穂高)の三角測量標が、ついと出る、東から南へかけて、富士山、甲斐駒、赤石山系の山々、金峰山、八ヶ岳、立科山が、虚空にずらりと立ち並ぶ、西の方はと見れば、白山がいつものように、残雪をまとって、大輪の朝顔のような、冴えた藍色が匂やかである。
 尾根の頂上へ出たときは、大斜線の岩壁が、深谷へ引き落されて、低くなったかとおもうと、また兀々ごつごつとした石の筋骨が、投げ上げられて、空という空を突き抜いている、そうして深秘な碧色の大空に、粗鉱あらがねを幅広に叩き出したような岩石の軌道が、まっしぐらに走っている。
 日本北アルプスの頂点は、てんでんばらばらに、この大軌道が四方へ放射しているところに、尖り出ているのであるが、その中でも穂高岳から槍ヶ岳へとつづく岩石の軌道は、堅硬に引き締まって、いつも重たい水蒸気に洗われ、冷たい氷雪に磨かれながら、黒光りに光っているのである、この上に立ったとき、私はただもう張り詰めた心になって、金剛杖を取り直した、タケスズメが三羽、絶壁から絶壁を縫うようにして飛んだ、ありゃあ、ここいらじゃあ、スバコと言うだが、随分高いところを飛ぶなあ、と嘉代吉と人夫が、話し合っている、影は見えないが、壁の下から笛の音をポツポツ切って投げつけたような肉声が、音波短かく耳に入る。
 槍ヶ岳が一穂の尖先きっさきを天に向けて立っている、白山が殆んど全容をあらわして、藍玉のように空間につながっている、私は単なる詠嘆が、人生に何するものぞと思っている、また岩石の集合体が、よし三万尺四万尺と繋がって虚空に跳りあがったところが、それが人間に何の交渉があるかと顧みても見た、しかしながら、私という見すぼらしい生活をしている人間に比べて、彼らは何というブリリアントな、王侯貴族にもひとしい、豪奢ごうしゃでそして超高な、生活をしているのであろうか、私は寂しい、私の生活は冷たい、私に比べれば、岩石は何という美わしい色彩と、懐つかしい情緒をもっているのであろう、私は胸を突き上げられるようになって、岩に抱きついて、やる瀬のないような思いに、ジッとなって考えこんだ。
 岩石の長い軌道は、雲から雲に出没して、虚空を泳いでいる、そうして日本本州の最高凸点なる、飛騨と信濃の境になっている、信濃方面の斜めな草原に下りたときは、ほっと一と息けたが、飛騨境の、稜々として刃のような岩壁を、身を平ッたくして、蝙蝠こうもりのように吸いついて渡ったときには、冷たい風が、臓腑まで喰い入って来るように思われた、蒲田の谷を、おそろしく深く、底へ引き落されるように見入りながら、岩壁を這ってゆくと、浅間山の煙が、まぼろしのように、遠い雲の海から、すーっと立っている、峻酷なる死、そのものを仰視するような槍ヶ岳は、槍の大喰おおばみ岳を小脇に抱え、常念岳を東に、蓮華、鷲羽わしばから、黒岳を北に指さして、岩壁の半圏をめぐらしている、大喰岳の雲の白さよ、蒲田谷へとそそぐ「白出しの沢」は、糸のように、細く眼の下に深谷をのたくって行く、「あの沢は下りられるかね」「どうしてたきがえらくて、とっても、下りられません、一番の難場でさあ」こんな話が、私と嘉代吉の間に取り交わされた、笠ヶ岳はまともに大きく見える。
 襤褸ぼろのように、石がズタズタに裂けている岩壁にも、高山植物が喰いついて、石の頭には岩茸がべったりと纏っている、雪も噛んでみた、黄花石楠花の弁を、そっとむしって、露を吸っても見た、それほど喉が乾いて来た、小さな獣の足跡が、涸谷からたにの方から、尾根の方へ、雨垂れのように印している、嘉代吉は羚羊かもしかの足跡だと言って、穂高岳も、この辺は殆んど涸谷に臨んでいる絶壁ばかりだと言った、それが垂るんだり、延びたりしているのである。
 その「大垂るみ」の絶壁が飛騨側から信州側に移ったとき、垂直線を引き落した、おどろくべき壮大なる石の屏風がそそり立って、側面の岩石は亀甲形に分裂し、背は庖刀ほうちょうの如く薄く、岩と岩とは鋭く截ち割られて、しかも手をかけると、虫歯のうろのようにポロポロと欠けるので、石とも土ともつかなくなっている、手をかけても、危くないように、揺り動かしては、うわべの腐蝕したところを欠く、欠けば欠くほど、ざわざわと屑の石が鳴りはためいて、谷々へ反響する、霧は白くかたまって、むくむくと空を目がけて※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)あがって来る、準備の麻の綱を出して、私の胴を縛りつけ、嘉代吉に先へ登って、綱を引いてもらって、岩壁にしがみつきながら、登ったが、さて飛騨から信州側に下りようとしたら、岩の段が崩壊して、どうにもこうにも、ならない、中で頑畳らしい岩を挟んで、A字形に嘉代吉に綱を引いてもらい、それにすがって、少しく下りて、偃松の枝に捉まって、涸谷を眼下に瞰下みおろすようになったが、ここにも大きな残雪があったので、雪と岩片をぜに渡った。
 大きな霧が、忍び音に寄せて来た、あたりに暗い影がさした、この魚の骨のように尖った山稜で、雨になられたらとおもうと、水を浴びたようにぞっとなる、霧がたためく間に灰色をして、岩壁を封じてしまう、その底から嘉代吉のなたが晃々と閃めいて、斜めに涎掛よだれかけのように張りわたした雪田は、サクサクと削られる、雪の固い粒は梨の肉のような白い片々となって、汁でもほとばしりそうに、あたりに散らばる、鉈の穿うがった痕の雪道を、足溜まりにして、渡った。
 屏風岳は、近く眼前に立て廻され、遥かに高く常念岳は、あかっちゃけた山骨に、偃松の緑をね合せて、峻厳なる三角塔につぼんで、ひんがしの天に参している、その迂廻した峰つづきの、赤沢岳の裏地は、珊瑚さんごのように赤染めになっている、振りかえれば、今しがた綱を力にえた峻壁の頭は、棹のように霧をつん裂いている、奥穂高につづく尾根は絶高なる槍の尖りを立てて、霧に圧し伏せられる下から、頭を抜き出している、そのうちに偃松が深くなって、尾根が行かれないため、谷へ下りる、もう日が少し高くなったので、雪田の下からは、水がつぶやいて流れている、その溜り水で、小池が二つ出来て、そこにもアルプス藍の底知れぬ青空が映っている、融け水の末は大きな滝となって、横尾谷に落ちて行く、「横尾の大滝」と言われているのだそうだ。
 信濃金梅の黄色い花で、滑べっこそうな草原を登る、尾根の岩が一列に黒くなって、空を塗りつぶしている、草原の中には、黒百合の花も交っている、尾根に近くなって、横尾の谷と本谷を瞰下される、むやみに這って尾根の一角に達せられたときは「横尾の大喰おおばみ」という絶壁が、支線を派して、谷へ走りこみ、その谷の向うには、赤沢岳が聳えて、三角測量が、天辺てっぺんにつんとしている、これから尾根伝いに行かれるはずの小槍ヶ岳(中の岳)には、雪が縦縞に、細い線を引き合っている、横尾の大喰みというのは、この辺で、よく熊の喰べ荒した獣の骨が、散乱しているからだと、嘉代吉の話しである。
 しかし尾根の一角に達しても、頂上までは未だ間があった、峻急なやぐらのような大石が、畳み合って、その硬い角度が、刃のように鋭く、石の割れ目には、偃松が喰い入って、肉の厚く端の尖った葉が、ところ嫌わず緑青ろくしょうの塊をなすりつけている、東の方に大天井岳や、つばくろ岳が見えはじめたが、野口の五郎岳あたりから北は、雪に截ち切られている、脚の下を、岩燕が飛んでいる。
 この大岩壁を超えると、うって変った小石の多い、ツガザクラでふっくらとした原となって、偃松がまばらに平ったく寝ている、白山一華の白花が、ちらほら明るく咲いている、霧が谷の方から長い裾を引いて、来たとおもうと、雷鳥が邪気あどけない顔をして、ちょこちょこと子供のように歩んで来た、ここに、こわい叔父さんたちがいるよと、言って笑った。
 間もなく南岳の三角測量標に着いた、岳という名はつけられたものの、緩やかな高原の一部で、測量標の東面からかけて、谷に向いて、一丈あまりもあろうとおもう高い残雪が、天幕でも張ったように、盛り上っている。
 ともかく岩壁を這いずったり、じ上ったりすることは、これからはないと言われたので、急に頭も、手も、足も、解放されたような気になった、もう頭と手足とは、別の仕事をしても、大した差支えはなくなったので、頭では西洋料理が喰べたいなと思っている、青い色や赤い彩の、電燈の下で人いきれのする市街も、悪くはないなと思っている、手は金剛杖をお役目のように引き擦っている、足は何の感覚もなく、小石原や、青草の敷きものの上を辷っている、次第にはびこる霧の中から、常念岳の頭だけが出ているのを見ながら、三つ四つ小隆起を超える、東側には絶えず雪田が、谷へ向いて白い布をさらしている。
 槍ヶ岳はいよいよ近く、小槍ヶ岳を先手として、間の「槍の大喰岳」を挟んでいる、小槍ヶ岳の岩石は、鼠色にぼけて、ツガザクラの寸青を点じている、遠くで見たときと違って、輪廓が雄大に刻まれている、そうして中腹には雪田が、涎懸よだれかけのように石を喰い欠いて、堆く盛り上っている、その雪田の下の方を、半分以上廻り途して、頂上へと達した。
 そこからまた下りになって、尾根へつづく、尾根の突角は屋根の瓦のように、平板にげた岩石が、散乱している、嘉代吉は偃松の下で、破れ卵子たまごを見つけ、足の指先で雷鳥の卵子だと教えてくれた、この尾根の突角で、深い谷を瞰下しながら、腹這いになり、偃松の枝にのしかかって、頬杖をついて休んだ、空は冴えかえって、額をジリジリ焼くような、紫をふくんだ菫色の光線が、雨のように一杯に満ちている、そうして細い針金のように、ふるえながら、頬にピリつく、嘉代吉や人夫も、偃松の間の石饅頭に、腰を卸して、烟菅キセルを取り出し、スパスパやりはじめた、その煙が蒼くうすれて空にくゆってゆくのを、私はうっとりと眺めていたが、耳のわきで、あぶのブンブンうなるのを聞きながら、いい心持に眠くなってきた、べて生けるもの、動けるものの、肉から発する音響という音響を、一切断絶して、静の極となった空気の中で、このまま化石してしまいそうだ。「父っさんだ」「オー父っさんだ、早いもんだな」と人夫たちが、騒ぎ出したので、垂るんだ眼の皮を無理やりに張って、谷底を見ると、万年雪の上に、ポツリと黒子ほくろほどの大きさに点じているものがある、その黒子の点をさがしあてたときには、少しずつ影がずり寄るように、動いているのが解った、嘉門次が米をしょいがてら、温泉からやって来て、今夜嘉代吉と交替する手筈になっていたことが、やっと考え出された、重いまぶたが、いくらかはっきりして来た。
 高低のある絶壁の頭を越して、峰頭の二分した槍の大喰岳を通過してしまい、やっと槍ヶ岳の根元へついた、そうして去年も登った槍ヶ岳を、しみじみと見上げたが、この何万年も不眠症でいる、原始の巨人ジャイアントは、鋼鉄のような固い頭を振り立てて、きょうもまた霧の垂幕を背景バックにして、無言のまま日本の、陸地の最も高い凸点にぬーっと立っている、全能の大部分を傾けて、建設したのではないかとまで、壮大にして不滅に近いモニュメントを、私は覚えず敬虔の念を以て礼拝せずにはいられなかった。
 槍ヶ岳のすぐそば――といっても、蒲田谷へ向い気味で、やや下った石コロ路の中で、露営を張ることになった、雪はすぐうしろにあるので、煮炊にたきに不自由はない、一枚の大岩を屏風とも、棟梁とも頼んで、そこへ油紙の天幕テントを張った、夕飯の仕度にかかっているうち、嘉門次もエッサラとあがって来た、去年とは違った小犬を伴につれている、今夜の用意に、来る路の、谷でいて置いたという白樺の皮を出して、急拵えの石竈いしかまどの下を、燃やし始めた。
 霧がすっきりとれて、前には笠ヶ岳の大尾根が、赭っちゃけた紅殻べにがら色の膚をあらわし、小笠から大笠へと兀々としたこぶが、その肩へ隆起している、遠くの空に、加賀の白山は、いつもの冷たい藍色に冴えて、雪の縞が、むしろ植物性の白い色をおもわせる。
 白山から南に、飛騨の山脈が、雪の中に溶けている、北は鎌尾根から、山勢やや高くなって、蓮華岳の、へらねたような万年雪のむしばみが、鉛色に冷たく光っている、それから遥かに、雪とも水平線ともつかぬうすい線が、銀色に空を一文字に引いている、露営地にいると、わずか二、三丁ばかり背後の槍ヶ岳も、兀々と散乱した石の小隆起に遮られて、見えないので、草履を引っかけて出て見る。
 いま夕日は赤く照り返しをはじめて、槍ヶ岳の山稜は、赤い煙硝を燃やしたようにボーッとなった、岳からくずれ落ちた岩石には、ちょろちょろと陽炎かげろうが立っている、天幕のうしろの雪は、結晶形に見るようなつやもなく、白紙のように、ざらついて、気味の悪いほど乾いている、足許の黄花石楠花が、焔の切れっ端のように燃え出した、「はあれ、きれいな御光だ」と感嘆している嘉門次の顔も、赤鬼のように赤くなっている。
 夕日は蓮華岳の頭から、左へ廻って、樺色の雲に胴切りにされ、上半分は櫛のようになって、赤銅色に燻ぶったかとおもうと、日本アルプスの山々は、回帰線でもあるかのように、雲の中を一筋に放射してゆく、谷より立つ白雲と、氷を削ったような銀色の雲が、もくもくと大空にふさがり合い、そのつばが朱黄色に染まって、雲が柘榴ざくろのように裂け、大噴火山のように赤くなった、その前に立った日本北アルプスの峰々は、猩紅しょうこう色や、金粉を塗った円頂閣となり、色彩の豊麗な宝石をちりばめた、三角の屋根となった。
 見る見るその雲の大隆起の下には、火の川が一筋流れ、余光が天上の雲に反照して、篝火かがりびが燃えたようになった。
 油紙の天幕には、チロチロとさざなみの刻むような光りがする、岩石の間に、先刻捨てた尻拭き紙までが、真赤にメラメラと燃えている、この窪地一帯に散乱する岩石の切れ屑は、柔らかく圭角けいかくを円められて、赤い天鵝絨ビロード色がしはじめた。
 今まで見たこともない、荘厳をきわめた、日本アルプスの夕日!

    谷

 夕焼の凶徴はあった。
 夜中からは、ざんざ降りで、尾根伝いの笠ヶ岳登りを見合せて、蒲田谷へ下りるより、外にしようはなかった。
 峰の上から見おろすと、傾斜面は青い草で、地の色も見えないほど、ふくらんで、掻巻かいまきでもかけたように温かそうである、が下り始めると、大きな石や小さな石が、草むらの底にひそんで爪先をこじらせたり、かかとすべらせたりする、足の力を入れるほど、膝がガクガクするので、支えるさえ大抵ではなかった、ゴム引の黒い雨外套と、頭巾とですっかり身を包んで眼ばかり出していたが、どうかすると、青草の間の石楠花の、雨をふくんだ白い弁に、見惚れては尻餅をつき、行儀悪く両足を前に投げ出して、先へ立って行く嘉門次に、うしろを振り向かせた、私の後からは、荷かつぎが一人いて来る、私の辷るたびに急に下り足を停めようとしては惰力でよたよたしながら、杖を突いてどうやらこうやら踏み止まる、威勢よく先に立つのは、嘉門次の連れた犬ばかりである、私は辷るのが怖いので、斜面に曲線を描きながら二人の間に挟まれるようにして、それでも次第に谷の中へ下りて来る、下りて来るというより、谷底へと呼び込まれる。
 谷の始まりと思うところには、青草で包まれた小山が、岬のように出ている、小山の向うが左俣谷で、こっちが右俣谷である、左俣谷の上に、笠ヶ岳の長い尾根が高くつらなっているのと向い合って、右俣谷の上を截ち切るように、高くぐっているのは、槍ヶ岳から穂高岳、岳川岳へとかけた岩石の大屏風で、両方とも肩をれにして、大きな岩の塊を虚空に投げ上げている、高さを競って嫉刃ねたばでも合せているように、岩が鋭い歯を剥き出して、水光りに光っている。
 この両山脈の間の薬研やげんの底のような溝が、私どもの行く谷である、長い青草が巨大な手で、掻き分けられたように左右に靡いているのが、おのずといい径になっている、嘉門次は杖の先でちょっと叩いて見せて「熊が行っただあ」と教えてくれる、したがその草分路は、大先達が通行した跡のように荒々しくも威厳のあるものに見られた、草原から河原となっても、水はあまりなかったが、大きな一枚石で、下りられそうもない、崖へ来ると、雪解の水が、ちょろちょろ流れる、その上へかざした白樺の細い幹が、菅糸を巻いたような、白い皮を※(「糸+施のつくり」、第3水準1-90-1)ぐらかして、あかッちゃけた肌が雨止みのうす日に光っている、向うを見ると穂高岳の肩が、白くげて、この谷へ一直線にくずれ落ちている、白出しの尾根はあれずらあと、嘉門次は、雲の絶え間を仰向いて言ったが、私は、ことしもしくじった笠ヶ岳の残雪に、執念を残さないわけにはゆかなかった。
 独活うどが多くなって、白い小さい花が、傘のように咲いている、変に人慣れないような、青臭い匂いが、鼻をそそる、谷から谷を綾取るようにして、鶯が鳴き出す、未だ溶けそうもない雪の塊まりが、鮮やかな白さを失って、灰に化性けしょうしたようになって、谷の隈に捨てられている、昨日通った槍ヶ岳の山稜から、穂高岳へとかけて大きく彎曲した、雁木がんぎのようなギザギザの切れ込みまでが、距離の加減で、ったりと落ちつきはらって、南の空を、のたくっている、それでも尖りに尖った山稜の鋭角からは、古い大伽藍の屋根の瓦が、一枚一枚くられては、落ちて砕けて、長い廻廊ギャラリイに足踏みもならぬほど、うずたかく盛り上ったように、谷の中は、破片岩が一杯で、おのずと甃石たたみいしになっている、うろこがくっついているのかとおもう、赤くぬらくらしたのもあれば、黄な碼碯めのう色のものや、陶磁器の破片のように白く硬く光っているのもある、青い円石の中に、一筋白く岩脈ダイクの入ったのが、縞芒しますすきでも見るようで美しい、この高らかな大なる山稜を見ていると、何十万年となく、孤独の高い座を守っている聖堂でも見るように思われて、私は偶像崇拝者の気になり、何だか自分でひとり決めに、日本人の総代になったつもりで、ちょっと目礼をしてみた、実際石と石の間に割り込んだ我々三人は、石の仲間入をしたので、誰も石よりも、権威のあるものだと、信ずるわけにはゆかなかった。
 うす日で安心していた間もなく、雨がザッとふり注いで来た、谷の中で雨に降り出されるほど、滅入った気になることはない、ゆうべ槍ヶ岳の峰頭から見た、北の空の燃え抜けるように美しい夕日も、今になって見ると、神棚の火のように影がうすいものであった。私は頭の中まで、ぼんやりと膜が下りたようになった、眼鏡は曇って、一寸先を見透すのさえ大なる努力を要する、外套のおもてには、雨が糸筋を引いていい加減に結び玉を拵えては、急にポロポロと転び落ちる、それが人間よりは、生命のある原子のようにも思える、両側の青木の中から、霧はもやもやと舞い立って、谷が一杯に白くなって、鉛で圧しつけられるようだ。
 始めは上流とは思われぬほどに、川幅がひろかったが、谷が次第にせばまって、水嵩みずかさが多くなったので、左の岸の森へ入った、山桜がたった一本、交って、小さい花が白く咲いているのが、先刻の白花の石楠花とふたつ、この谷で忘られないものになった、足許には矢車草の濶い葉や、車百合の赤い花があったようだが、眼もくれずに踏みにじって行く、森がつきて河原に出ると、岳川岳の大きな岩石が、杓子しゃくしを並べたように、霧の中にうすぼんやりとあぶり出されて、大きくひろがったり、小さく縮んだりしている。
 イワス(岩壁のり立っているところ)にぶつかると、水が深くて急であるから、森の中へ潜り込む、そうしてまた森から吐き出されては、谷の中へと飛び込む。犬は森の中を潜るたびに、ビッショリになって、川縁へ下り立つたびに、プルプルと総身を震わせては、水を切っている。
 槍ヶ岳から落ちるという槍沢は、崖になって、雪が綿のように白い、その下から水がすさまじい幅濶の滝になって、落ちて来る、河原にはよもぎすなの中に埋まって生えている、大さな石から石には、漂木がはさまって、頭を支え、足を延ばし、自然の丸木橋になっているところを、私たちは上ったり下りたりした、水は膝頭までの深さなら、渉ることにしている、急流になると、嘉門次に手を取ってもらって、あやしい足取りをして渉る、そういうときに、犬は石から石を伝わり、川面を眺めて、取り残されたのを哀しむように吠える。
 幅が濶くなると谷川が二つにも三つにも分れて、大きな石が、おのずと洲の上に堤防を築いている、ねぎのような浅青色の若葉をした川楊が、疎らに立っている、石にむせぶ水烟が、パッと立って、梢から落ちる雨垂と一ツになって、川砂の上を転がっている、川楊の蔭に入っている分流は、うす蒼くなって、青い藻が細やかな線と紋を水面に織り出しながら、やんわりと人里を流れる小川のように、静かに澄んでいる。空は藍鼠色に濁って、雨雲が真ッ黒な岩壁に、のしかかっている。
 岳川岳の方から「白出し沢」という白い砂石が押し流して来ている、両方の川縁の浅そうなところを選って、右左とS字状に縫って、徒渉をする、いけないところは、森の中へ入る、ゴゼンタチバナの白い花や、日を見ることを好まない羊歯しだ類が、多くのさばって、もう血色がなくなったといったような、白い葉の楓が、雨に洗われて、美しい蝋石ろうせき色をしている。
 崖がせばまったところは、嘉門次と人夫とで、たおれた木を梯子はしご代りに崖にさしかけ、うるさい小枝をなたで切っ払って、その瘤を足溜あしだまりに、一人ずつ登る、重い荷をしょった人夫の番になると、丸木の梯は、弓のようにしなって、両足を互い違いに、物を狙うようにかがみ身になって、フラフラしていたが、先に登りついた嘉門次は、崖の上から手を借して、片手で樅の幹を抱えながら、力足を踏ん張って引きあげる、私も登ったが取り残された犬は、丸太を爪で、がりがり引っ掻いていたが、駄目と見極めをつけて、あちこち川砂を蹴立てて駈けていた、崖は截っ立って、取りつくところもないので、悲しそうにきゃん、きゃん、啼いている、森の中へ入って行く私どものうしろから、水分の交った空気を伝わって、すがりつくように吠えるのが、どこまでも耳について聞える、嘉門次は口笛を吹いて、森の中に没しながら、自分たちの行く路を合図して、森々たる喬木の蔭を潜る、すると小さな路がついていて、自然と崖を越して、河原へ下りる、鉱山発掘のあとの洞穴があって、その近傍だけは、木材を截って櫓井戸やぐらいどを組み合せ、渋色をした鉱気水が、底によどんでいる、暫らく休んで、はぜつくだにで、冷たい結飯むすびを喰べたが、折角あったと思った路は、ここで消えてしまっている。「犬は大丈夫かい」「エエエエっきに来ますわ」「どうしてあの崖を駈け登れるだろう」慕門次は笑っている、ひょいと見ると、鼻をフン、フン、やりながら、もういつの間にか、傍へやって来て、嬉しそうに尾をっている。つくだに飯を喰わせてやる。
 また洲を伝わって行くと、山林局の立ち腐れになった小舎にぶつかった、川面が明るくなるかとおもうと、私雨しぐれがそぼそぼと降り出して、たとえば狭い室のうす明りに湯気が立って、壁にぼーッとあざが出来るように、山々の方々に立つ霧は、白いかびのように、森や岩壁にベタベタしている、そうして水分を含んだ日の光に揺れて、年久しく腐ったもろもろの生物の魂のように、ふわふわしてさまよっている。
 もう小山一重を隔てた「左俣の谷」との、出合いが近くなったので、水音は、ごうごうと、すさまじく谷の空気を震動させ、白い姿をした大波小波は、川楊の枝をこづき廻して、さんざめき、そそり立つ切り崖の迫って来る暗い谷底で、手を叩いたり、足踏みをしたり、石に抱きついたり、梢に飛びついたりして、振り返り、振りかえり、濶くなった川幅を、押し合って行く。
 その谷の、高原川へと、出合いに近い右の岸に、今夜泊まる蒲田の温泉宿があるのである。

    穂高の御幣岳(新登路より初登山の記)

      一

 信州神河内(上高地)の温泉から、御幣岳(明神岳または南穂高岳)、奥穂高岳、涸沢からさわ岳(北穂高岳)、東穂高岳などの穂高群峰を、尾根伝いに走って、小槍ヶ岳(新称)、槍の大喰岳を登り、槍ヶ岳から蒲田谷へ下りて、硫烟のさまよう焼岳を雨もよいの中に越え、また神河内へと戻って来た私は、蒲田谷の乱石をわたるとき、足首を痛め、弱りこんでいたが、穂高岳の黒くおどした岩壁が、鶏冠とさかのような輪廓を、天半に投げかけ、正面を切って、谷を威圧しているのを、温泉宿の二階から仰ぎ見ていると、ここで草鞋わらじを脱ぎ切ってしまうのは、残念でまらない、きのうまで案内に連れて歩いた嘉門次爺が「やれお疲れなさんしつろう」と障子の外から声をかけて、入って来た。
 爺はことし六十五であるが、穂高山のぬしと言われるくらいな山男で、何でも二十五、六歳のころ、旧の師走であったが、三人連れで、この温泉の上まで、猟にやって来たとき、雪崩ゆきなだれに押し流されて、一里も下まで落っこち、左の脚を折ったということで、もし自分一人であったら、到底命は助からなかったろうと、物語った。今でも気をつけて視ると、すこし跛足を引いているが、かぬ気のとつッさんである、この嘉門次が一年中の半分は、寝泊りしているところは、温泉宿から半里ばかり、宮川の小舎といって、穂高岳の麓にある、宮川の池のほとりにしつらえた、間口二間奥行二間半ほどの、木造小舎である、この小舎の後ろから、穂高岳は、水の綺麗に澄んでいる池を隔て、鉄糞かなくそで固めたように、ドス黒く兀々ごつごつとして、穹窿形きゅうりゅうけいの天井を、海面から約一〇二四〇尺(三一〇三米突メートル)の高さまで、抜き出している。
 穂高岳をめぐっている空気は、いつも清澄で、ゆうべの空の色などは、美しく濃く、美しく鮮やかで、プルシアンブルーが、谷一面の天を染めている、その下に、ずらりと行列して、空の光が雨のようにふりそそぐに任せている谷の森林は、もみつが白檜しらべ唐櫓とうひ黒檜くろべ落葉松からまつなどで、稀にさわら米栂こめつがを交え、白樺や、山榛やまはんの木や、わけてはやなぎの淡々しく柔らかい、緑の葉が、裏を銀地に白く、ひらひらと谷風にそよがして、七月の緑とは思われぬ水々しさをしているが、一度穂高岳の半腹に眼をうつすと、鋭利な切れ物で、青竹をはすいだような欠刻が、空気にき出されて、重苦しい暗褐色の岩壁が、蝙蝠こうもりの大翼をひろげて、人の目鼻をふさぐように、谷の森にも、川にも、河原にも、かさになってのしかかって見える。
「あんなところが登れようかね」と、岩壁の白いなぎを指しながら、話のいとぐちを引き出したところが、あすこは嘉門次が、つい去年、山葵わさび取りに入りこんで、始めて登ったところで、未だ誰もその外に、入ったものはないと言うので、私はふと聞き耳を立てた。嘉門次は穂高山の主だから、別物として、劫初ごうしょ以来人類の脚が、未だ触れたこともない岩石と、人間の呼吸が、まだ通ったことのない空気とに、突き入るということは、その原始的なところだけでも、人間の芸術的性情を、そそのかすものではなかろうか、私は急に習慣の力から脱け出して、栗鼠りすが大木の幹に、何の躊躇もなく駈けあがるような、身の軽さをおぼえた。
 あの黒曜石のように、黒く光っている穂高山! あのやかましやのトルストイの顔のような、深刻なしわを、何十万年となく縮ませている穂高山! 何物をも遠くへ突き放すように、深谷の中で、いつでも、ひとッちで、苦り切っている穂高山!
 私は是非こうと決心した、その夜は森の匂いよりも、川瀬のたぎる水音よりも、私の官能は、あの大岩壁の幾重にも乱れ合う拒絶の線の、美しさと怖ろしさを按排あんばいした中へ、無理やりにもぐり込もうとしては叩き落され、這い込んではずりさがって、蜘蛛くもの糸のように虚空に閃めく寸線にも、触れたが最後、しっかりとつかまって、放すまいとしていた。

      二

 温泉宿から梓川に沿いて、河童橋を渡り、徳本とくごうの小舎まで来た、飛騨から牛を牽いて、信州へ山越しにゆく牧場稼ぎの人たちが、行き暮れて泊まるところだ。小舎の前の森を突き抜けて、梓川の本谷が屈曲して、また浅緑の森の下蔭へとはいって行く、浅く美しい水の底から、小石の浮紋うきもんが、川のおもてに綾を織っている、川は幾筋にも分れて、川鴫かわしぎという鳥が、一、二羽水の面をかすめて飛んでいる、川をざぶざぶ入って行くので、足の指先から脳天まで、血が失せるかとおもわれるほど、冷いやりとする、向う岸に着いて、根曲り竹を掻きわけ、宮川の池にかけた丸木橋を、あぶなっかしく渡って、嘉門次の小舎へ来た、小舎のわきに、小さな木祠がまつってあって、扉を開けて見ると、穂高神社奉遷座云々と、禿び筆で書いた木札などが、散乱している。
 唐檜や落葉松が、しんしんと立てこんでいる中を、木祠のうしろへ出ると、そこが宮川の池である、一の池という一番大きいのが、穂高へ寄った方の岸は、青みどろの藻で、翡翠かわせみの羽をひろげたようであるが、水が絶えず流れているので、透き徹っている、二の池へ来ると、岩には白花の石楠花が、もう咲き散ったが、落葉松のひょろりとせた喬木が、水にみどりの影を映して、沈まりかえっている、一の池と二の池の境には、赤いツツジが多いということであるが、今は咲いていなかった、深く生い茂った熊笹を分けて岨道そばみちを屈曲して行くと、二の池の水が、一段低い三の池へ、森の空気を震動させて落ちて行く、三の池の水も、清く澄みわたって、髪の毛一筋、見落しはしまいとおもわれるほど、底まで見え透いて、青豆をいたような※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)らんてんの水が、落葉松の樹の間に、とろりと光って、水草や青い藻は、岸にすがって、すいすいとくしけずっている、どこにも地平線のない空は、森の梢にも、山の輪廓にも、天の一部を見せて、コバルト色に冴えわたり、若い女の呼吸いきのような柔かい霧が、兎の毛のように、ふうわりと白く朝空のおもてに、散らばっている。
 小さな水なし谷、宮川のクボを、左右に横切って、石ばかりの涸沢からさわを行くと、蒼黒い針葉樹に交って、白樺の葉が、軟らかに絵日傘に当るような、黄色い光を受けて、ただ四月頃の初々しい春の感じが、森の空気にただよっている、その若葉がくれに、前穂高のかつい岩壁を仰いで、沢を登ると、残雪に近くなるかして、渓水がちょろちょろ糸のように乱れはじめ、大岩のっ立てたところから、滝となって落ちている、もう沢を行かれないので、草を踏み分けて、左岸の森林の中に迷い込む、木はようやく細く痩せて、石楠花が多いが、その白花はもうないかわりに、マイヅル草の白い小花が、米粒でもこぼしたように、暗く腐蝕した落葉の路に、視神経をチクリとさせる、木の根には蘚苔こけが青々として、水がジクジクと土に沁みこみ、山葵がにょっきり生えている、嘉門次はこの山葵を採りに入って、登り路を発見したのであると言っている、樹の間がくれに焼岳は、朝の空にどっしりと、鈍円錐形を据えて、せた桔梗色の霞沢岳は、去年ながらの枯木の乱れた間から、白雲母花崗岩の白砂を、雪のように戴いて、分岐した峰頭が碧空の底を撫でている。
 踏み心地のよい針葉樹の、暗い路を登るほどに、いつしか栂の純林となって、この鈍林を放れ切るまで、松葉つなぎの腐蝕土はつやを消したような光線で、うす暗くぼかされている。
 林を全く離れて、正北を指さし、花崗みかげの裸岩にかじりついたときには、いよいよ日本北アルプス中の絶大なる「岩石の王さま」へ人間の呼吸いきがかかるのだと思った、この岩壁は十町ほども、するすると延び上って、おどろくばかり峻急なる傾斜は、天半を断絶して、上なる一端を青空の中へ繋ぎ、下なる一半を、深谷の底へと没入させている、岩石の散乱した間に、飛散した種子から生えたらしい、落葉松の稚樹わかぎが、二、三本よろよろと、足許を覚束なげに立っている、顧れば焼岳の頂は凹字にえぐられて、黄色い噴煙が三筋、蒲田谷の方へ吹き靡いている、私の立っているところは、もう向う側の霞沢岳の頂上に、手がとどきそうになって、岳の右の肩に、三角測量標のあるのが、分明ぶんめいに見える、眼の下に梓川の水は、藍瓶あいびんを傾むけたような大空の下に、錆ついた鉱物でも見るような※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)りょくてん色になって、薄っぺらに延びている、それは流れているとは見えないのである、暫らく休んでいると、冷たい谷風が、下から吹きあげて、森は魂が入ったように、さやさやと靡いて、蒼玄あおぐろたてがみが這い上って来る、焼岳の左の肩を超えて、乗鞍岳の一角が見えめた。

      三

 赤裸で残忍な形相をした石の路を、殆んど登りつめたところから、左へ切れこみ、前穂高岳の三角測量標を仰ぎながら、草原に入ると、傾斜はいよいよ峻急になって、岩菅の花が、火のように赤く、風露草のうす紫や、猪独活ししうどの白い花などが、その間に交って、ドス黒い岩壁へ、更紗を布いたように綺麗であるが、角度が急でややともすると、腹這いになる、美しい花が私の面をって、甘酸っぱい匂いが、冴えた空に放散する、嶮しい岩角で、一足踏みすべらすと、大変なことになると思いながらも、花の匂いが官能を刺戟して、うっとりと気が遠くなる、空は濃碧に澄んで、ちり一つの陰翳もなく、あぶが耳もとで、ブンブン唸る。
 嘉門次はふと草原を切り靡けたような、路のあるのを見出して、太い短かい杖で、猪独活をあしらいながら、「熊が通った路だあ」と言った、草はよほどの重量を、載せたように、右に左に押し倒されて、そのくぼんだ痕が、峰の方へ、斜に切って、するすると登って行く。
 もう前穂高の三角点のある岩尾根は、醜恠しゅうかいあかっちゃけて、ササラのように擦り減らされた薄っぺらの岩角を、天に投げかけている、細い石渓の窪地や、あざみがところ嫌わずチクチクやる石原の中を、押し分けてというより、押し登って行くと、鼻っ先の風露草とすれすれに、乗鞍岳はもう雲の火焔に包まれている、眼前の岩壁には、白樺の細木が行列して、むくむく進行する草原の青波を、めながら、崖の縁をかがっている、その白樺を押し分けて、ひさしのように突き出た岩壁にすがる、やぐらのように大きな一枚岩で、浦島ツツジが、べったりと、石のを見せずに、ばりついているので、手障てざわりがいかにも柔らかで、暖かい蒲団の中へ手をさしこんだように快い。
 小石のかわらとなって、高根黄菫たかねきすみれがところどころに咲いている、偃松がたった一株、峰から押し流されたように、手を突いて這っている、そのしわだらけの絶壁を這い上ろうとしたとき、私たちの背中を目がけて、いきなり大砲でも放したような、大音響が、音波短かく、平掌ひらてでビシッと谷々を引っぱたいた、頭脳がキーンと鋭く、澄んで鳴った、手をかけた岩壁まで、ぶるぶると震動したかとおもわれて、振りかえると、兜形かぶとがたをした焼岳の頭から、白い黄な臭そうな硫烟が、紫陽花あじさいのような渦を巻いて、のろしとなって天に突っ立っている。
「また灰が降ったこったろう」「きのうの今ごろ、あすこを通ったが、今日だったら、どんな目に遇わされたことやら」私と嘉門次の間にこんな話が交わされた、二人は岩屏風に縫いつけられたようになって、焼岳を見詰めた、焼岳のうしろには、遠く加賀の白山山脈が、桔梗色の濃い線を引いている、眼を下へうつすと、神河内から白骨しらほねへと流れて行く大川筋が、緑の森林の間を見え、隠れになって、のたくって行く、もう前穂高の三角測量標は、遥か眼の下にっちゃられて、小さくなっている。
 やっと山稜の一角に達した、この山稜は御幣岳(南穂高岳)の頂上へと、繋がって行く、しかも鋭利なる剃刀かみそりの刃のように、薄く光って、空へ空へと躍り上って行く。
 ワゼミヤガワ(上宮川)谷も瞰下みおろされる、蝶ヶ岳も眼下に低くなって、霞沢岳は、雲で截ち切られてしまっている、この蝶ヶ岳、霞沢岳、焼岳の直下を、蛇のように小さくのたくっている梓川の本谷まで、私の立ってる山稜からは、逆落さかおとしに、まっしぐらに、遮るものなく見徹みとおされるので、私は髪の毛がよだって、岩壁を厚く縫っている偃松を、命の綱にしっかりとつかまえて見ていた、そうして立ちすくむ足を踏みめて、空を仰ぐと、頭上には隆々たる大岩壁が、甲鉄のように、凝固した波を空にげ上げ、それ自らの重力に堪えがたいように、尖端が傾斜して、くずれ落ちた大岩石を谷底までぶちまけている。
 御幣岳の肩へ、ミヤマナナカマドや、偃松を捉まえて、やっと這い上った、常念岳や大天井岳が、東の空に見える、谷底から、霧は噴梱のように、ボツボツと※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)あがって来て、穂高岳の無数の絶壁は、むせんでたおれるように、肩から肩へとりかかって、私たちを圧倒しようとしている、少量の残雪が、日陰の偃松の間に、白く塊まっている、乱石の縦横なる大岩角を、跛足引き引き伝わって、時には岩の大穴に落ちそこなったが、どうやら絶頂へ、足を載せたときは、ホッと安心して、サイダーを抜いて祝った、焼岩魚やきいわなを肴にしてムスビを噛じった、ふと包んだ新聞紙を見ると、二号活字で、日英同盟、援務的契約などいう文字が読まれた、人と人がどうした、国と国がどうした、私たちにさしあたっての問題は、人と獣と石の三位であった。
 ここから見ると、三本槍状に聳えた御幣岳は、一と塊に鋳固いかためられたように黒くなって、その裏を奥穂高岳の尾根が、肩幅ひろくぶっ違いに走っている、三本槍の間には、岩壁の切れ込みが深くて、ジムカデだの、イワヒゲだのという、小植物が這っているばかり、大空に浮きつ沈みつして、遠く岳川岳まで、岩石の大集塊が、延びあがり、谷一つを隔てて笠ヶ岳が頭を出して来た。
 私たちは三本槍を、片ッ端から、登っては降りして、数日前に来たことのある御幣岳の一角と行き合った、嘉門次すら、この三本槍を縦走したのは、この年になるまで、きょうが始めてだと言っていた、岩石の連嶺は、ここで槍ヶ岳から、蒲田谷を包み、焼岳をぐって、びったりともとの位置で、繋ぎ合われた。
 私はもう行くところがない。

      四

 振りかえれば、私たちが、前の日に苦しめられた奥穂高つづきの絶壁は、大屏風を霧の中にたたんだり、ひろげたりして、右へ右へと大身の槍の槍ヶ岳まで、半天の空を黒く截ち切っている、三木槍の頭は、尖った岩石の集合体で、両側がいだように薄く、そこから谷へずり下りて、基脚へ行くほど、太くひろがって、裾を引いているが、その中腹、殊に下宮川谷に臨んだ方は、万年雪が漆喰しっくいのように灰白になって、岩壁の傾斜をべったりと塗っている、遠くは西方の浄土、加賀の白山は、純潔なる桔梗紫の肌を、大空に浮き彫りにして、肩から腰へとつづく柔軟な肉は、冷たい石の線とも思われず、抛物線のふるいつきたい美しさを、鼠の荒縞かけた雲の上に、うっとりと眺め入っていたが、日が暮れぬうちと思って、下宮川の谷へ下り始めた、その尾根は痩せ馬の背のように細くて、偃松がたてがみを振り分けている、剃刀かみそりの刃のような薄い岩角を斜めに下り、焼岳の灰で黒くなった雪の傾斜を、嘉門次になたで切らせて、足がかりをこしらえ、やっと横切って、その万年雪の縁と、そそり立つ絶壁の裾と、せばまり合うところに足を踏んがけ、雪と壁の溝に身を平ったく寄せて、雪からのがれると、そこに大崩石の路が、一筋の岩壁を境目にして、二分して谷にずり込んでいる、私は左を取って、ゴート(岩石の磊落らいらく崩壊している路をいう)へとかかった。
 このゴート路の長さだけでも、一里あるというが、梓川の谷までは、直線に下っても、二里半はあろう、前後左右の絶壁からは、岩石が瓦落瓦落がらがらとなだれ落ちて、路はきりのように切截された三角石や、とげだらけのひいらぎ石に、ふだんの山洪水が、すさまじく押し出した石滝が、乗っかけて、見わたす限り、針の山に剣の阪で、河原蓬の寸青が、ぼやぼやと点じているばかりだ。
 ゴート路を下り切ると、ダケカンバなどの、雑木林になって、雨水でくぼんだ路が、草むらの中に入り乱れている、時々大石に蹴躓けつまずいては、爪を痛める、熊笹が人より高くなって、掻き分けて行くと、ねかえりざまに顔をぴしゃりと打つ、笹のざわつくたびに、焼岳の降灰がぷーんと舞いあがるので、顔も、喉も、手も、米の粉でも塗ったようにザラザラとなる、その上に、こわい笹ッ葉で、手足が生傷だらけになって梓川の本谷――それは登るときに徒渉したところより、約十町の川上に、突き落されるように飛び下りて、四ツン這いに這ってしまった。

文中に前穂高とあるは、御幣岳の北部より下れる一支峰にして、梓川に臨み、上高地温泉または河童橋より、最も近く望見し得らるる、三角測量標を有せる低山をいう。





底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年7月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」大修館書店
   1979(昭和54)年9月〜1987(昭和62)年9月
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2009年8月18日作成
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