大貧に、大正義、望むべからず
――フランソワ・ヴィヨン
――フランソワ・ヴィヨン
第一回
一つの作品を、ひどく恥ずかしく思いながらも、この世の中に生きてゆく義務として、雑誌社に送ってしまった後の、作家の苦悶に
私はその日も、私の見事な一篇の醜作を、駅の前のポストに投函し、急に生きている事がいやになり、
私は、もちろん驚いた。
「あいたたた、」と突然背後に悲鳴が起り、「君、ひどいじゃないか。僕のおなかを、いやというほど踏んでいったぞ。」
聞き覚えのある声である。力あまって二三歩よろめき前進してから、やっと踏みとどまり、振り向いて見ると、少年が、草原の中に全裸のままで仰向けに寝ている。私は急に
「あぶないんだ。この川は。危険なんだ。」と、この場合あまり適切とは思えない
少年は上半身を起し、まつげの長い、うるんだ眼を、ずるそうに細めて私を見上げ、
「君は、ばかだね。僕がここに寝ているのも知らずに、顔色かえて駈けて行きやがる。見たまえ。僕のおなかの、ここんとこに君の
「見たくない。けがらわしい。早く着物を着たらどうだ。君は、子供でもないじゃないか。失敬なやつだ。」
少年は素早くズボンをはき、立ち上って、
「君は、この公園の番人かい?」
私は、聞えない振りをした。あまりの愚問である。少年は白い歯を出して笑い、
「何も、そんなに怒ること無いじゃないか。」
と落ちついた口調で言い、ズボンのポケットに両手をつっ込み、ぶらぶら私のほうへ歩み寄って来た。裸体の右肩に、桜の花弁が一つ、へばりついている。
「あぶないんだ。この川は。泳いじゃ、いけない。」私は、やはり同じ言葉を、けれども前よりはずっと低く、ほとんど
「知ってるよ、そんなこと。」少年は、すこし卑屈な笑いを鼻の両側に浮かべた。近くで見ると、よほどとしとった顔である。鼻が高くとがって、ちょっと上を向いている。眉は薄く、眼は丸く大きい。口は小さく、
「知らないよ。」私は、形がつかぬので、腕をうしろに組み、その辺を歩きまわり、ぶっきらぼうな答えかたをしていた。
「じゃ、徳川十代将軍は、誰だか知ってるかい?」
「知らん!」ほんとうに知らないのである。
「なんにも知らないんだなあ。君は、学校の先生じゃないのかい?」
「そんなもんじゃない。僕は、」と言いかけて、少し
「そうかね。」相手は一向に感動せず、「小説家って、頭がわるいんだね。君は、ガロアを知ってるかい? エヴァリスト・ガロア。」
「聞いた事があるような、気がする。」
「ちえっ、外国人の名前だと、みんな一緒くたに、聞いたような気がするんだろう? なんにも知らない証拠だ。ガロアは、数学者だよ。君には、わかるまいが、なかなか頭がよかったんだ。二十歳で殺されちゃった。君も、も少し本を読んだら、どうかね。なんにも知らないじゃないか。可哀そうなアベルの話を知ってるかい? ニイルス・ヘンリク・アベルさ。」
「そいつも、数学者かい?」
「ふん、知っていやがる。ガウスよりも、頭がよかったんだよ。二十六で死んじゃったのさ。」
私は、自分でも醜いと思われるほど急に悲しく気弱くなり、少年から、よほど離れた草原に腰をおろし、やがて長々と寝そべってしまった。眼をつぶると、ひばりの声が聞える。
若き頃、世にも興ある驕児 たり
いまごろは、人喜ばす片言隻句 だも言えず
さながら、老猿
愛らしさ一つも無し
人の気に逆らうまじと黙し居れば
老いぼれの敗北者よと指さされ
もの言えば
黙れ、これ、恥を知れよと袖 をひかれる。(ヴィヨン)
いまごろは、人喜ばす片言
さながら、老猿
愛らしさ一つも無し
人の気に逆らうまじと黙し居れば
老いぼれの敗北者よと指さされ
もの言えば
黙れ、これ、恥を知れよと
「自信がないんだよ、僕は。」眼をあいて、私は少年に呼びかけた。
「へん。自信がないなんて、言える柄かよ。」少年も寝ころんでいて、大声で、侮蔑の言葉を返却して寄こした。「せめて、ガロアくらいでなくちゃ、そんないい言葉が言えないんだよ。」
何を言っても、だめである。私にも、この少年の一時期が、あったような気がする。けさの知識は、けさ情熱を打ち込んで実行しなければ死ぬるほど苦しいのである。おそらくは、この少年も昨夜か、けさ、若くして死んだ大数学者の伝記を走り読みしたのに違いない。そのガロアなる少年天才も、あるいは、素裸で激流を泳ぎまくった事実があるのかも知れない。
「ガロアが、四月に、まっぱだかで川を泳いだ、とその本に書いていたかね。」私はお
「何を言ってやがる。頭が悪いなあ。そんなことで、おさえた気でいやがる。それだから、
私は、いやな気がした。こんどは、本心から、この少年に敵意を感じた。
第二回
決意したのである。この少年の
私は立って着物の裾の
「おい、君。タンタリゼーションってのは、どうせ、たかの知れてるものだ。かえって今じゃ、通俗だ。本当に頭のいい奴は、君みたいな気取った言いかたは、しないものだ。君こそ、ずいぶん頭が悪い。
少年は草原に寝ころび眼をつぶったまま、薄笑いして聞いていたが、やがて眼を細くあけて私の顔を横眼で見て、
「君は、誰に言っているんだい。僕にそんなこと言ったって、わかりやしない。弱るね。」
「そうか。失敬した。」思わず軽く頭をさげて、それから、しまった! と気附いた。かりそめにも目前の論敵に頭をさげるとは、容易ならぬ失態である。
「とにかく立たないか。君に、言いたい事があるんだ。」
胸に、或る計画が浮かんだ。
「怒ったのかね。仕様がねえなあ。弱い者いじめを始めるんじゃないだろうね。」
言う事がいちいち不愉快である。
「僕のほうが、弱い者かも知れない。どっちが、どうだか判ったものじゃない。とにかく起きて
「へん、本当に怒っていやがる。どっこいしょ。」と小声で言って少年は起き上り、「上衣なんて、ありやしない。」
「嘘をつけ。貧を
「靴なんて、ありやしない。売っちゃったんだよ。」立ちつくし、私の顔を見上げて笑っている。
私は、異様な恐怖に襲われた。この目前の少年を、まるっきりの狂人ではないかと疑ったのである。
「君は、まさか、」と言いかけて、どもってしまった。あまりにも失礼な、恐しい質問なので、言いかけた当の私が、べそをかいた。
「きのう迄は、あったんだよ。
「はだしで来たわけじゃ、ないだろうね。」私は
「ああ、陸の上は不便だ。」少年はアンダアシャツを頭からかぶって着おわり、「バイロンは、水泳している間だけは、自分の
「君はバイロンかい。」私は努めて
「嫉妬さ。
見ると、彼は、いつのまにやら、ちゃんと下駄をはいている。買って間も無いものらしく、一見したところは私の下駄より、はるかに立派である。私は、なぜだか、ほっとした。救われた気持であった。
「ゆっくり話をして、みたいんだがね。」私は技巧的な微笑を頬に浮かべて、「君は、さっきから僕を無学だの低能だのと称しているが、僕だって多少は、名の有る男だ。事実、無学であり低能ではあるが、けれども、君よりは、ましだと思っている。君には、僕を侮辱する資格は無いのだ。君の不当の暴言に対して、僕も返礼しなければならぬ。」なかなか荘重な出来である。それにも拘らず、少年は噴き出した。
「なあんだ、僕と遊びたがっていやがる。君も、よっぽどひまなんだね。何か、おごれよ。おなかが、すいた。」
私も危く大笑いするところであったが、懸命に努めて渋面を作り、
「ごまかしては、いかん。君は今、或る種の恐怖を感じていなければならぬところだ。とにかく、僕と一緒に来給え。」ともすると笑い出しそうになって困るので、私は多少
私の計画とは、計画という言葉さえ
若い才能と自称する
「僕の母はね、死んだのだよ。僕の父はね、恥ずかしい商売をしているんだよ。聞いたら驚くよ。僕は、田舎者だよ。モラルなんて無いんだ。ピストルが欲しいな。パンパンと電線をねらって撃つと、電線は一本ずつプツンプツンと切れるんだ。日本は、せまいな。かなしい時には、素はだかで泳ぎまくるのが一番いいんだ。どうして悪いんだろう。なんにも出来やしないじゃないか。めったな事は言われねえ。説教なんて、まっぴらだ。本を読めば書いてあらあ。
わけの判らぬような事を、次から次と言いつづけるのであるが私は一切之を黙殺した。聞えない振りをして森を通り抜け、石段を降り、弁天様の境内を横切り、動物園の前を通って池に出た。池をめぐって半町ほど歩けば目的の茶店である。私は残忍な気持で、ほくそ笑んだ。さっきこの少年が、なあんだ遊びたがっていやがる、と言ったけれど、私の心の奥底には、たしかにそんな軽はずみな虫も動いていたようである。それから、もう一つ。次の時代の少年心理を、さぐってみたいという、けちな作家意識も、たしかに働いて、自分から進んでこの少年に近づいていったところもあったのである。ばかな事をしたものだ。おかげで私はそれから、不幸、
茶店に到着して、すなわち
「親子どんぶりがあるかね?」と私の傍に大きなあぐらをかいて、落ちついて言い出したので、私は狼狽した。私の
「待て、待て。」と私は老婆を呼びとめた。全身かっと熱くなった。「親子どんぶりは、いくらだね。」下等な質問であった。
「五十銭でございます。」
「それでは、親子どんぶり一つだ。一つでいい。それから、番茶を一ぱい下さい。」
「ちえっ、」少年は躊躇なく私をせせら笑った。「ちゃっかりしていやがら。」
私は、溜息をついた。なんと言われても、致しかたの無いことである。私は急に、いやになった。こんなに誇りを傷つけられて、この上なにを少年に説いてやろうとするのか。私は何も言いたくなくなった。
「君は、学生かい?」と私は、実に優しい口調で、
「きのうまでは、学生だったんだ。きょうからは、ちがうんだ。どうでもいいじゃないか、そんな事は。」少年は、元気よく答える。
「そうだね。僕もあまり人の身の上に立ちいることは好まない。深く立ちいって聞いてみたって、僕には何も世話の出来ない事が、わかっているんだから。」
「俗物だね、君は。申しわけばかり言ってやがる。目茶苦茶や。」
「ああ、目茶苦茶なんだ。たくさん言いたい事も、あったんだけれど、いやになった。だまって景色でも見ているほうがいいね。」
「そんな身分になりたいよ。僕なんて、だまっていたくても、だまって居れない。心にもない道化でも言っていなけれや、生きて行けないんだ。」
「それは、誰の事を言っているんだ。」
少年は、不機嫌に顔をしかめて、
「僕の事じゃないか。僕は、きのう迄、良家の家庭教師だったんだぜ。低能のひとり娘に代数を教えていたんだ。僕だって、教えるほど知ってやしない。教えながら覚えるという奴さ。そこは、ごまかしが、きくんだけども、
第三回
茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、
「食べたら、どうかね。」
少年は、急に顔を真赤にして、「君は? 食べないの?」と人が変ったようなおどおどした口調で言って、私の顔を
「僕は、
「いただきます。」と少年の、つつましい小さい声が聞えた。
「どうぞ。」と私は、少年をてれさせないように努めて淡泊の返事をして、また、ゆっくりと番茶を
「
その時には、私は、ただ困った。何事も知らぬ顔して、池のほうへ、そっと視線を返し、自分の心を落ちつかせる為に袂から
「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、
「小学校の先生が、なぜそんなに恥ずかしい商売なんだ。」私は、思わず大声になり、口を
「知らないんだよ、君は。」少年の声も、すこし大きくなった。「知らないんだよ。村の金持の子供には、先生のほうから御機嫌をとらなくちゃいけないんだ。校長や、村長との関係も、それや、ややこしいんだぜ。言いたくもねえや。僕は、先生なんていやだ。僕は、本気に勉強したかったんだ。」
「勉強したら、いいじゃないか。」根が、狭量の私は、先刻この少年から受けた侮辱を未だ忘れかねて、やはり意地悪い言いかたをしていた。「さっきの元気は、どうしたんだい。だらしの無い奴だ。男は、泣くものじゃないよ。そら、鼻でもかんで、しゃんとし給え。」私は、やはり池の面を眺めたままで、懐中の一帖の鼻紙を、少年の膝のほうに、ぽんと抛ってやった。
少年は、くすと笑って、それから素直に鼻をかんで、
「なんと言ったらいいのかなあ。へんな気持なんだよ。
「君はそれを
「ヴァレリイってのは、フランスの人でしょう?」
「そうだ。一流の文明批評家だ。」
「フランスの人だったら、だめだ。」
「なぜ?」
「戦敗国じゃないか。」少年の大きな黒い眼には、もう涙の跡も無く、涼しげに笑っている。「亡国の言辞ですよ。君は、人がいいから、だめだなあ。そいつの言ってる秩序ってのは、古い昔の秩序の事なんだ。古典擁護に違いない。フランスの伝統を誇っているだけなんですよ。うっかり、だまされるところだった。」
「いや、いや、」私は狼狽して、あぐらを組み直した。「そういう事は無い。」
「秩序って言葉は、素晴しいからなあ。」少年は、私の拒否を無視して、どんぶりを片手に持ったまま、ひとりで詠嘆の言葉を発し、うっとりした眼つきをして見せた。「僕は、フランス人の秩序なんて信じないけれど、強い軍隊の秩序だけは信じているんだ。僕には、ぎりぎりに苛酷の秩序が欲しいのだ。うんと自分を、しばってもらいたいのだ。僕たちは、みんな、戦争に行きたくてならないのだよ。生ぬるい自由なんて、飼い殺しと同じだ。何も出来やしないじゃないか。
「何を言ってやがる。君は、一ばん骨の折れるところから、のがれようとしているだけなんだ。千の主張よりも、一つの忍耐。」
「いや、千の知識よりも、一つの行動。」
「そうして君に出来る唯一の行動は、まっぱだかで人喰い川を泳ぐだけのものじゃないか。ぶんを知らなくちゃいけない。」私は、勝ったと思った。
「さっきは、あれは、特別なんだよ。」少年は、大人のような老いた苦笑をもらした。「どうも、ごちそうさま。」と神妙にお辞儀して、どんぶりを傍に片附け、「事情があったんだよ。聞いてくれるかね?」
「言ってみ給え。」
「言ってみたって、どうにもならんけど、このごろ僕は、目茶苦茶なんだよ。中学だけは、家のお金で卒業できたのだけれど、あとが続かなかったんだ。貧乏なんだよ。僕は数学を、もっと勉強したかったから、父に無断で高等学校に受けて、はいったんだ。葉山さんを知ってるかい? 葉山圭造。いつか、鉄道の参与官か何かやっていた。代議士だよ。」
「知らないね。」私は、なぜだか、いらいらして来た。どうも私は、人の身の上話を聞く事は、下手である。われに何の
「まあ、そうだ。」少年は、ひどく落ちついた口調である。「僕の郷土の先輩なんだ。郷土の先輩なんて、
「教えながら教わっていたのかね。」私は、早くこの話を、やめてもらいたかった。少しも興味が無い。
「女学校三年の娘がひとりいるんだ。
「ほのかな恋愛かね。」私は、いい加減な事ばかり言っていた。
「ばか言っちゃいけない。」少年は、むきになった。「僕には、プライドがあるんだ。このごろ、だんだんそいつが、僕を小使みたいに扱って来たんだよ。奥さんも、いけないんだがね。とうとう、きのう我慢出来なくなっちゃって、――」
「僕は、つまらないんだよ、そういう話は。世の中の概念でしか無い。歩けば疲れる、という話と同じ事だ。」私は、この少年と共に今まで時を費したのを後悔していた。
「君は、お坊ちゃん育ちだな。人から金をもらう、つらさを知らないんだ。」少年は、負けていなかった。「概念的だっていい。そんな、平凡な苦しさを君は知らないんだ。」
「僕だって、それや知っているつもりだがね。わかり切った事だ。胸に
「それじゃ君は、映画の説明が出来るかね?」少年と私とは、先刻から、視線を平行に池の面に放って、並んで坐ったままなのである。
「映画の説明?」
「そうさ。娘が、この春休みに北海道へ旅行に行って、そうして、十六ミリというのかね、北海道の風景を、どっさり撮影して来たというわけさ。おそろしく長いフィルムだ。僕も、ちょっと見せてもらったがね。しどろもどろの実写だよ。こんどそれを葉山さんのサロンで公開するんだそうだ。
「それあいい。」私は、大声で笑ってしまった。「いいじゃないか。北海道の春は、いまだ浅くして、――」
「本気で言ってるのかね?」少年の声は、怒りに震えているようであった。
私は、あわてて頬を固くし、真面目な口調に返り、
「僕なら、平気でやってのけるね。自己優越を感じている者だけが、真の道化をやれるんだ。そんな事で憤慨して、制服をたたき売るなんて、意味ないよ。ヒステリズムだ。どうにも仕様がないものだから、川へ飛びこんで泳ぎまわったりして、センチメンタルみたいじゃないか。」
「傍観者は、なんとでも言えるさ。僕には、出来ない。君は、嘘つきだ。」
私は、むっとした。
「じゃ、これから君は、どうするつもりなんだい。わかり切った事じゃないか。いつまでも、川で泳いでいるつもりなのか。帰るより他は無いんだ。元の生活に帰り給え。僕は忠告する。君は、自分の幼い正義感に甘えているんだ。映画説明を、やるんだね。なんだい、たった一晩の屈辱じゃないか。堂々と、やるがいい。僕が代ってやってもいいくらいだ。」最後の一言がいけなかった。とんでも無い事になったのである。私は少年から、嘘つき、と言われ、奇妙に痛くて逆上し、あらぬ事まで口走り、のっぴきならなくなったのである。
「君に、出来るものか。」少年は、力弱く笑った。
「出来るとも。出来るよ。」とむきになって言い切った。
それから一時間のち、私は少年と共に、渋谷の神宮通りを歩いていた。ばかばかしい行為である。私は、ことし三十二歳である。自重しなければならぬ。けれども私は、この少年に、口さきばかり、と思われたくないばかりに、こうして共に歩いている。所詮は私も、自分の幼い潔癖に甘えていたのかも知れない。私は自分の不安な
私には、もとより制服も制帽も無い。佐伯にも無い。きのう迄は、あったんだけれど、靴もろとも売ってしまったというのである。借りに行かなければならぬ。佐伯は私の実行力を疑い、この企画に
神宮通りをすたこら歩いた。葉山家、映画の会は、今夜だという。急がなければならぬ。
「ここです。」少年は立ちどまった。
古い板塀の上から、こぶしの白い花が覗いていた。
「くまもとう!」と少年は、二階の
「くまもと、くん。」と私も、いつしか学生になったつもりで、心易く大声で呼びたてた。
第四回
ワグネル君、
正直に叫んで、
成功し給え。
しんに言いたい事があるならば、
それをそのまま言えばよい。(ファウスト)
正直に叫んで、
成功し給え。
しんに言いたい事があるならば、
それをそのまま言えばよい。(ファウスト)
「はい。」という女のように優しい素直な返事が二階の障子の奥から聞えて来たので、私は奇妙に拍子抜けがした。いやしくも熊本君ともあろうものが、こんな優しい返事をするとは思わなかった。青本女之助とでも改名すべきだと思った。
「佐伯だあ。あがってもいいかあ。」少年佐伯のほうが、よっぽど熊本らしい粗暴な大声で、叫ぶのである。
「どうぞ。」
実に優しかった。
私は呆れて噴き出した。佐伯も、私の気持を敏感に察知したらしく、
「ディリッタンティなんだ。」と低い声で言って
私たちは躊躇せず下宿の門をくぐり、玄関から、どかどか二階へ駈けあがった。
佐伯が部屋の障子をあけようとすると、
「待って下さい。」と懸命の震え声が聞えた。やはり、女のように
「お二人だ。」うっかり私が答えてしまった。
「どなた? 佐伯君、一緒の人は、誰ですか?」
「知らない。」佐伯は、当惑の様子であった。
私は、まだ佐伯に私の名前を教えていなかったのである。
「木村武雄、木村武雄。」と私は、小声で佐伯に教えた。
「木村たけお。」佐伯は、うなずいて、「木村武雄くんと一緒に来たんだがね。」
「木村たけお? 木村、武雄くんですか?」障子の中でも、不審そうに
「木村武雄という者ですが。」私は、やぶれかぶれに早口で言って、「お願いがあって、やって来たんですけど。」
「おゆるし下さい。」意外の返事であった。「初対面のおかたとは、お逢いするのが苦しいのです。」
「何を言ってやがる。相変らず鼻持ちならねえ。」と佐伯が小声で呟いたのを、障子のかなたから聞き取った様子で、
「その鼻のことです。私は鼻を虫に刺されました。こんな見苦しい有様で、初対面のおかたと逢うのは、何より、つらい事です。人間は、第一印象が大事ですから。」
私たちは、爆笑した。
「ばかばかしい。」佐伯は、障子をがらりと開けて転げ込むようにして部屋へはいった。私も、おなかを抑えて笑い
薄暗い八畳間の片隅に、
「佐伯君、少し乱暴じゃありませんか。」と真面目な口調で言って、「僕は、親にさえ、こういう醜い顔を見せた事はないのですからね。」つんとして見せた。
佐伯は、すぐに笑いを
「読書かね?」と、からかうような口調で言い熊本君の傍にある机の、下を手さぐりして、一冊の文庫本を拾い上げた。机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐伯はそれには
熊本君は、気の毒なほど
「軽蔑し給うな。」と、ほとんど聞えぬくらいの低い声で言い、いかにも
私は部屋の隅にあぐらをかいて坐って、二人の様を笑いながら眺めていたが、なんだかひどく熊本君が可哀想になって来て、
「里見八犬伝は、立派な古典ですね。日本的ロマンの、」鼻祖と言いかけて、熊本君のいまの憂鬱要因に気がつき、「元祖ですね。」と言い直した。
熊本君は、救われた様子であった。急にまた、すまし返って、
「たしかに、そんなところもありますね。」赤い唇を、きゅっと引き締めた。「僕は最近また、ぼちぼち読み直してみているんですけれども。」
「へへ、」佐伯は、机の傍にごろりと仰向きに寝ころび、へんな笑いかたをした。「君は、どうしてそんな、ぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね? いつでも、必ずそう言うじゃないか。読みはじめた、と言ったっていいと思うがね。」
「軽蔑し給うな。」と再び熊本君は、その紳士的な上品な言葉を、まえよりいくぶん高い声で言って抗議したのであるが、顔は、ほとんど泣いていた。
「里見八犬伝を、はじめて読む人なんか無いよ。読み直しているのに違いない。」私は、仲裁してやった。この二少年の戦いの有様を眺めているのも楽しかったが、それよりも、今の私には、もっと重大な仕事があった。
「熊本君。」と語調を改めて呼びかけ、甚だ唐突なお願いではあるが、制服と帽子を、こんや一晩だけ貸して下さるまいか、と真面目に頼み込んだのである。
「制服と帽子? あの、僕の制服と帽子ですか?」熊本君は不機嫌そうに
「いやなら、よせ。」佐伯は寝ころんだままで
「いや、いや。」私は佐伯に、いい人と言われて狼狽した。「僕だって、エゴイストです。佐伯君がいやだというのを僕が無理を言って、ここへ連れて来てもらったのですから。事情を申し上げてもいいんだけど、とにかく、僕から頼むのです。一晩だけ貸して下さい。あしたの朝早く、必ずお返し致します。」
「勝手にお使い下さい。僕は、存じません。」と泣き声で言って、くるりと、私の方に背を向け、机の上の洋書を、むやみにぱっぱっとめくった。
「よそうよ。僕は、どうなったって、いいんだ。」佐伯は上半身を起して、私に言った。
「それあ、いかん。」私は、断然首を横に振った。「君は、今になって、そんな事を言い出すのは、
「なんですか。」熊本君は、私たちが言い争いをはじめたら、奇妙に喜びを感じた様子で、くるりと、またこちらに向き直り、「佐伯君が、また何か、はじめたのですか? 深い事情があるようですね。」と、ひどく尊大な口調で言い、さも、分別ありげに腕組みをした。
「もういいんだ。僕は、熊本なんかに、ものを頼みたくないんだ。」佐伯は、急に立ちあがった。「僕は、帰るぞ。」
「待て、待て。」私も立ち上って、佐伯を引きとめた。「君には、帰るところは無い筈だ。熊本君だって、制服を貸さないとは言ってないんだ。君は、だだっ子と言われても仕様が無いよ。」
熊本君は、私が佐伯をやり込めると、どういうわけか、実に嬉しい様子であった。いよいよ得意顔して立ち上り、
「そうですとも。だだっ子と言われても仕様が無いですとも。僕は、お貸ししないとは言ってないんですからね。僕はエゴイストじゃありません。」壁に掛けてある制服と制帽を
「いや、結構です。」私は思わず、ぺこりとお辞儀をして、「ここで失礼して、着換えさせていただきます。」
着換えが終った。結構ではなかった。結構どころか、奇態であった。袖口からは腕が五寸も、はみ出している。ズボンは、やたらに太く、しかも短い。膝が、やっと隠れるくらいで、
「よせよ。」佐伯は、
「そうですね。」熊本君も、腕をうしろに組んで、私の姿をつくづく見上げ、見下し、「どういう御身分のおかたか存じませんけれど、これでは、私の洋服の評判まで悪くなります。」と言って念入りに溜息まで吐いてみせた。
「かまわない。大丈夫だ。」私は頑張った。「こんな学生を、僕は、前に本郷で見た事があるよ。秀才は、たいてい、こんな
「帽子が、てんで頭にはいらんじゃないか。」佐伯は、またしても私にけちを附けた。「いっそ、まっぱだかで歩いたほうが、いいくらいだ。」
「僕の帽子は、決して小さいほうでは、ありません。」熊本君はもっぱら自分の品物にばかり、こだわっている。「僕の頭のサイズは、普通です。ソクラテスと同じなんです。」
熊本君の意外の主張には、私も佐伯も共に、噴き出してしまった。熊本君も、つい吊り込まれて笑ってしまった。部屋の空気は期せずして
「さあ行こう。熊本君も、そこまで、どうです。一緒にお茶でも、飲みましょう。」
「熊本は勉強中なんだ。」佐伯は、なぜだか、熊本君を誘うのに反対の様子を示した。「これから、また、ぼちぼち八犬伝を読み直すのだから。」
「僕は、かまいません。」熊本君も、私たちと一緒に外出したいらしいのである。「なんだか、面白くなりそうですね。あなたは青春を
「すると、メフィストフェレスは、この佐伯君という事になりますね。」私は、年齢を忘れて多少はしゃいでいた。「これが、むく犬の正体か。旅の学生か。滑稽至極じゃ。」
たわむれて佐伯の顔を覗くと、佐伯の眼のふちが赤かった。涙ぐんでいるのである。今夜の事が急に心配になって来たのだろうと、私は察した。黙って少年佐伯の肩を、どんと叩いて私は部屋から出た。必ず救ってやろうと、ひそかに決意を固くしたのである。
三人は、下宿を出て渋谷駅のほうへ、だらだら下りていった。路ですれちがう男女も、そんなに私の姿を怪しまないようである。熊本君は、
「どこかで、お茶でも飲みましょう。」私は、熊本君に伺った。
「そうですねえ。せっかく、お近づきになったのですし。」と熊本君は、もったいぶり、「しかし、女の子のいるところは、割愛しましょう。きょうは、鼻が、こんなに赤いのですから。人間の第一印象は、重大ですよ。僕をはじめて見た女の子なら、僕が生まれた時からこんなに鼻が赤くて、しかもこの後も永久に赤いのだと独断するにきまっています。」真剣に主張している。
私は、ばかばかしく思ったが、懸命に笑いを
「じゃ、ミルクホールは、どうでしょう。」
「どこだって、いいじゃないか。」佐伯は、先刻から意気
「それは、どういう意味なんですか。」熊本君は、くるりと背後の佐伯に向き直って詰め寄った。「へんな事を言い給うな。僕と、このかたとお茶を飲むのは、お互の親和力の結果です。純粋なんだ。僕たちは、里見八犬伝に
往来で喧嘩が、はじまりそうなので、私は閉口した。
「
「君こそ嘲笑している癖に。」佐伯は、私にかかって来た。「君は、
言い合っていると際限が無かった。私は、小さい食堂を前方に見つけて、
「はいろう。あそこで、ゆっくり話そう。」興奮して
「佐伯君は、いけません。悪魔です。」熊本君は、泣くような声で訴えた。「ご存じですか? きのう留置場から出たばかりなんですよ。」
私は仰天した。
「知りません。全然、知りません。」
私たちは、もう、その薄暗い食堂にはいっていた。
第五回
私は

「坐り給え。」私は彼を無理矢理、椅子に坐らせようとした。
佐伯は、一言も発せず、ぶるんと大きく全身をゆすぶって私の手から、のがれた。のがれて
「刺すぞ。」と、人が変ったような、かすれた声で言った。私は、
「はははは。」と私は空虚な笑声を発した。「恥ずかしくて、きりきり舞いした
佐伯は、黙って一歩、私に近寄った。私は、さらに大いに笑った。佐伯は、ナイフを持ち直した。その時、熊本君は、佐伯の背後からむずと組み附いて、
「待って下さい。」と懸命の金切り声を挙げ、「そのナイフは、僕のナイフです。」と又しても意外な主張をしたのである。「佐伯君、君はひどいじゃないか。そのナイフは、僕の机の左の引出しにはいっていたんでしょう? 君は、さっき僕に無断で借用したのに、ちがいありません。僕は、人間の名誉というものを重んずる方針なのだから、
悪漢佐伯も、この必死の抗議には参ったらしく、急に力が抜けた様子で、だらりと両腕を下げ、
「返すよ。返すよ。返してやるよ。」と自嘲の口調で言って、熊本君の顔を見ずにナイフを手渡し、どたりと椅子に腰を下した。
「さあ、何とでも言うがいい。」と佐伯は、ほんものの悪党みたいな、下品な口をきいたので、私は
「五一郎君、」とはじめて佐伯の名を、溜息と共に言い、「そんなふてくされたものの言いかたをするものじゃないよ。君らしくも無いじゃないか。」
「猫撫で声は、よしてくれ。げろが出そうだ。はっきり負けた奴に、そんなに優しくお説教をはじめるのは、いい気持のものらしいね。」佐伯は、顔を不機嫌にしかめて、強く、吐き出すように言い、両腕をぐったりテエブルの上に投げ出した。手が附けられぬくらいに、ふてくされてしまっている。私は、いよいよ味気ない思いであった。
「君はくだらない奴だね。」と私は、思ったままを、つい言ってしまった。
「ああ、そうさ。」すぐに、はね返して寄こすのである。「だから、はじめから、言ってるじゃねえか。説教なんか、まっぴらだって言ったじゃないか。
「なんですか? さて、どうしたのですか。あなたのおっしゃる事にも、また、佐伯君の申す事にも、一応は
「君は、もう帰ったらどうだい。ナイフも返してやったし、制服と帽子も今すぐ、この人が返してあげるそうだ。ステッキを忘れないようにしろよ。」にこりともせず、落ちついた口調で言ったのである。
熊本君は、もう既に泣きべそを
「そんなに軽蔑しなくてもいいじゃないですか。僕だって、君の力になってやろうと思っているのですよ。」
私は、熊本君のその懸命の様子を、可愛く思った。
「そうだ、そうだ。熊本君は、このとおり僕に制服やら帽子やらを貸してくれたし、謂わば大事な人だ。ここにいてもらったほうがいい。コオヒイ、三つだ。」私は、食堂の奥のほうに向って大声でコオヒイを命じた。薄暗い、その食堂の奥に先刻から、十三、四歳の男の子が、ぼんやり立って私たちのほうを眺めていたのである。
「母ちゃん、お風呂へ行った。」その、まだ小学校に通っているらしい男の子は、のろい口調で答えるのである。「もうすぐ、帰って来るよ。」
「ああ、そうか。」私は瞬間、当惑した。「どうしましょう。」と小声で熊本君に相談した。
「待っていましょう。」熊本君は、
「ビイルを飲めば、いいじゃないか。」佐伯は、突然、言い出した。「そこに、ずらりと並んである。」
見ると、奥の棚にビイルの瓶が、
「おい、」と店番の男の子を呼び、「ビイルだったら、お母さんがいなくても出来るわけだね。
男の子は、不承不承に
「僕は、飲みませんよ。」熊本君は、またしても、つんと気取った。「アルコオルは、罪悪です。僕は、アカデミックな態度を、とろうと思います。」
「誰も君に、」佐伯は、やや口を尖らせて言った。「飲めと言ってやしないよ。へんな事を言わないで、お姉さんに叱られますと言ったほうが、早わかりだ。」
「君は、飲むつもりですか?」熊本君も、こんどは、なかなか負けない。「止し給え。僕は、忠告します。君は、おとといもビイルを飲んだそうじゃないですか。留置場に、とめられたって、学校じゃ評判なんですよ。」
男の子が、ビイルを持って来て、三人の前に順々にコップを置くが早いか熊本君は、一つのコップを手に取って憤然、ぱたりと卓の上に伏せた。私は内心、閉口した。
「よし、佐伯も飲んじゃいかん。僕が、ひとりで飲もう。アルコオルは、本当に、罪悪なんだ。なるべくは、飲まぬほうがいいのだ。」言いながら、私はビイル瓶の栓を抜き、ひとりで自分のコップに
「そうですとも。」熊本君は、御機嫌を直して、尊大な口調で相槌打った。「私たちは、パルナシヤンです。」
「パルナシヤン。」佐伯は、低い声でそっと
佐伯の、その、ふっと呟いた二言には、へんにせつない響きがあった。私の胸に、きりきり痛く喰いいった。私は、更に一ぱいビイルを飲みほした。
「五一郎君、」と私は親愛の情をこめて呼んだ。「僕には、なんでも皆わかっているのだよ。さっき君が僕に風呂敷包みを投げつけて、逃げ出そうとした時、はっと皆わかってしまったのだ。君は、僕をだましたね。いや、責めるのじゃない。人を責めるなんて、むずかしい事だ。僕は、わかったけれども、何も言えなかったのだ。言うのが、つらくて、いっそ知らん振りしていようかとさえ思ったのだが、いまビイルの酔いを借りて、とうとう言い出したわけだ。いや、考えてみると、君が僕に言わせるようにしむけてくれたのかも知れないね。ビイルを見つけてくれたのは、君なんだから。」
「なるほど、」と熊本君は小声で呟き、「佐伯君には、そんな遠大な思いやりがあって、ビイルのことを言い出したというわけですね。なるほど。」としきりに
「そんな、ばかな思いやりって、あるものか。」佐伯は少し笑って、「僕は、ただ、その、ほら、――」と言い
「わかってるよ。僕の機嫌を取ろうとしたのだ。いやそう言っちゃいけない。この場の空気を、明るくしようと努めてくれたのさ。佐伯は、これまで生活の苦労をして来たから、そんな事には敏感なんだ。よく気が附く。熊本君は、それと反対で、いつでも、自分の事ばかり考えている。」ビイルの酔いに乗じて、私は、ちくりと熊本君を攻撃してやった。
「いや、それは、」熊本君は、思いがけぬ攻撃に面くらって、「そんなことは、主観の問題です。」と言って、それからまた、下を向いてぶつぶつ二言、三言つぶやいていたが、私には、ちっとも聞きとれなかった。
私は次第に愉快になった。謂わば、気が晴れて来たのである。ビイルを、更に、もう一本、注文した。
「五一郎君、」と又、佐伯のほうに向き直り、「僕は、君を、責めるんじゃないよ。人を責める資格は、僕には無いんだ。」
「責めたっていいじゃないか。」佐伯も、だんだん元気を恢復して来た様子で、「君は、いつでも自己弁解ばかりしているね。僕たちは、もう、大人の自己弁解には聞き
「それあ、まあ、そうだがね。」と私は、醜く笑って、内心しまった! と狼狽していたのだが、それを狡猾に押し隠して、「君の、その主張せざるを得ない内心の怒りには、同感出来るが、その主張の言葉には、間違いが在るね。わかるかね。大人も、子供も、同じものなんだよ。からだが少し、薄汚くなっているだけだ。子供が大人に期待しているように、大人も、それと同じ様に、君たちを、たのみにしているものなのだ。だらしの無い話さ。でも、それは本当なんだ。力と、たのんでいるのだ。」
「信じられませんね。」と熊本君は、ばかに得意になってしまって、私を憐れむように横目で見下げて言った。
「君たちだって、ずるいんだ。だらし無いぞ。」私はビイルを、がぶがぶ飲んで、「少し優しくすると、すぐ、程度を越えていい気になるし、ちょっと強く言おうと思うと、言われぬ先から、泣きべそをかいて逃げたがるじゃないか。君たちに自信を持ってもらいたくて、愛だの、理解だのと遠廻しに言っているのに、君たちは、それを軽蔑する。君たちが、も少し強かったら、それは安心して叱りとばしてやる事も出来るんだ。君たちさえ、――」
「水掛け論だ。」佐伯は断定を下した。「くだらない。そんな言い古された事を、僕たちは考えているんじゃないよ。しっかりした人間とは、どんなものだか、それを見せてもらいたいんだ。」
「そうですね。」熊本君は、ほっとした顔をして、佐伯の言を支持した。「酒を飲む人の話は、信用出来ませんからね。」と言って、頬に
「僕は、だめだ。」そう言って、私には、腹にしみるものが在った。「けれども僕は、絶望していないんだ。酒だって、たまにしか飲まないんだ。冷水摩擦だって、毎日やっているんだ。」自分ながら奇妙と思われたような事を口走って、ふっと眼が熱くなり、うろたえた。
第六回
「青年よ、若き日のうちに享楽せよ!」
と教えし賢者の言葉のままに、
振舞うた我の愚かさよ。
(悔ゆるともいまは詮なし)
見よ! 次のペエジにその賢者
素知らぬ顔して、記し置きける、
「青春は空 に過ぎず、しかして、
弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン)
と教えし賢者の言葉のままに、
振舞うた我の愚かさよ。
(悔ゆるともいまは詮なし)
見よ! 次のペエジにその賢者
素知らぬ顔して、記し置きける、
「青春は
弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン)
むかし、フランソワ・ヴィヨンという、
「何も、そんなに卑下して見せなくたって、いいじゃないか。」と私を慰め
「わかってる。」私は顔を
「うん、」佐伯は、恥ずかしそうに小さく
「では、ほんの一ぱいだけ。」熊本君は、佐伯の急激に高揚した意気込みに圧倒され、しぶしぶ立って、「僕は事情をよく知らんのですからね、ほんのお附合いですよ。」
「事情なんか、どうだっていいじゃないか。僕の出発を、君は喜んでくれないのか? 君は、エゴイストだ。」
「いや、ちがいます。」熊本君も、こんどは敢然と報いた。「僕は、物事を綿密に考えてみたいんだ。納得出来ない祝宴には
「ちえっ!」佐伯は、たちまち嘲笑した。「自分を科学的という奴は、きまって科学を知らないんだ。科学への、迷信的なあこがれだ。無学者の証拠さ。」
「よせ、よせ。」私も立上り、「熊本君は、てれているんだ。君の、おくめんも無い感激振りに
「古い型のね。」佐伯は低く附け加えた。
「乾杯します。」と熊本君は、思いつめた果のような口調で言った。「僕は、ビイルを飲むと、くしゃみするんです。僕は、その事を科学的と言ったんです。」
「正確だ。」佐伯は、噴き出した。私も笑った。
熊本君は笑わず、ビイルのコップを手にとって目の高さまで捧げ、それから片手で着物の
「佐伯君の出発を、お祝いいたします。あしたから、また学校へ出て来て下さい。」真剣な、ほろりとするような声であった。
「ありがとう。」佐伯も上品に軽くお辞儀をして、「熊本が、いつもこんなに優しく勇敢であるように祈っています。」
「佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います。」私は、たいへん素直な気持で、そう言って泡立つビイルのコップを前方に差し出した。
カチリと三つのコップが逢って、それから三人ぐっと一息に飲みほした。途端に、熊本君は、くしゃんと大きいくしゃみを発した。
「よし。よろこびのための酒は一杯だけにして止めよう。よろこびを、アルコオルの口実にしてはならぬ。」私は、もっとビイルを飲みたかったのだが、いまこの場の空気を何故だか、ひどく大事にして置きたくて、飲酒の欲望を
熊本君は、さかんに拍手した。佐伯は、立ったまま、にやにや笑っている。私は普通の語調にかえって、
「佐伯君、僕に二十円くらいあるんだがね、これで制服と靴とを買い戻し給え。また、外形は、もとの生活に帰るのだ。葉山氏の家にも、辛抱して行き給え。わびしい時には、下宿で毛布をかぶって勉強するのだ。それが一ばん華やかな青春だ。何くそと固パンかじって勉強し給え。約束するね?」
「わかってるよ。」佐伯は、ひどく赤面しながらも、口だけは達者である。「そんな事を言ってると、君の顔は、まるで、昔のさむらいみたいに見えるね。明治時代だ。古くさいな。」
「士族のお生まれではないでしょうか。」熊本君は、また変な意見を、おずおず言い出した。
私は噴き出したいのを怺えて、
「熊本君、ここに二十円あります。これで、佐伯の制服と制帽と靴を買い戻してやって下さい。」
「要らないよ、そんなもの。」佐伯は、いよいよ顔を真赤にして、小声で言った。
「いや、君にあげるわけじゃないんだ。熊本君の友情を見込んで、一時、おあずけするだけだ。」
「わかりました。」熊本君は、お金を受け取り、眼鏡の奥の小さい眼を精一ぱいに見開いて、直立不動の姿勢で言った。「たしかに、おあずかり致します。他日、佐伯君の学業成った暁には、――」
「いや、それには及びません。」私は、急に、てれくさくて、かなわなくなった。お金など、出さなければよかったと思った。「ここを出ましょう。街を、少し歩いて見ましょう。」
街は、もう暮れていた。
私ひとりは、やはり多少、酔っていた。自分のたいへんな、苦学生の姿も忘れて、何かと大声で、ばかな事ばかりしゃべり散らしていた。
「おい佐伯、その風呂敷包みは重くないか。僕が、かわりに持ってやろう。いいんだ、僕によこせ。よし来た。アル・テル・ナ・テ・ヴ・マン、と。知ってるかい? どっこいしょの、うんとこしょって意味なんだ。フロオベエルは、この言葉一つに、三箇月も苦心したんだぞ。」
ああ、思えば不思議な宵であった。人生に、こんな意外な経験があるとは、知らなかった。私は二人の学生と、宵の渋谷の街を酔って歩いて、失った青春を再び、現実に取り戻し得たと思った。私の高揚には、限りが無かった。
「歌を歌おう。いいかい。一緒に歌うのだよ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。よし。
ああ消えはてし 青春の
愉楽の行衛 今いずこ
心のままに 興じたる
黄金 の時よ 玉の日よ
汝 帰らず その影を
求めて我は 歎くのみ
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
塵をかぶりて 若人の
帽子 は古び 粗衣は裂け
長剣 は錆 を こうむりて
したたる光 今いずこ
宴 の歌も 消えうせつ
刃音 拍車 の 音もなし
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
されど正しき 若人の
心は永久 に 冷 むるなし
勉 めの日にも 嬉戯 の
つどいの日にも 輝きつ
古 りたる殻は 消ゆるとも
実 こそは残れ 我が胸に
その実を犇 と護 らなん
その実を犇と護らなん」(アルト・ハイデルベルヒ)
愉楽の
心のままに 興じたる
求めて我は 歎くのみ
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
塵をかぶりて 若人の
したたる光 今いずこ
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
されど正しき 若人の
心は
つどいの日にも 輝きつ
その実を
その実を犇と護らなん」(アルト・ハイデルベルヒ)
歌っているのは、私だけであった。調子はずれの
「おい、おい。」と背後から肩を叩かれた。振り向いて見ると、警官である。「宵の口から、そんなに騒いで歩いては、悪いじゃないか。君は、どこの学生だ。隠さずに言ってみ給え。」
私は自分の運命を直覚した。これは、しまった。私は学生の姿である。三十二歳の酔詩人ではなかった。ちょっとのお
「おい、おい。」重ねて呼ばれて、はっと我に帰った。私は、草原の中に寝ていた。陽は、まだ高い。ひばりの声が聞える。ようやく気が附いた。私は、やはり以前の、井の頭公園の玉川上水の
「おい、僕は帰るぞ。」と落着いた口調で言い、「君は、眠っちゃったじゃないか。だらしないね。」
「眠った? 僕が?」
「そうさ。可哀そうなアベルの話を聞かせているうちに、君は、ぐうぐう眠っちゃったじゃないか。君は、仙人みたいだったぞ。」
「まさか。」私は
「なに十分か十五分かな? ああ、寒くなった。僕は、もう帰るぜ。しっけい。」
「待ち給え。」私は、上半身を起して、「君は、高等学校の生徒じゃなかったかね?」
「あたり前さ。大学へはいる迄は、高等学校さ。君は、ほんとうに頭が悪いね。」
「いつから大学生になったんだい?」
「ことしの三月さ。」
「そうかね。君は、佐伯五一郎というんだろう?」
「
「そうかね。じゃ、何だって、この川をはだかで泳いだりしたんだね?」
「この川が、気に入ったからさ。それくらいの気まぐれは、ゆるしてくれたっていいじゃないか。」
「へんな事を聞くようだが、君の友人に熊本君という人がいないかね? ちょっと、こう気取った人で。」
「熊本?――無いね。やはり、工科かね?」
「そうじゃないんだ。みんな夢かな? 僕は、その熊本君にも逢いたいんだがね。」
「何を言ってやがる。寝呆けているんだよ。しっかりし給え。僕は、帰るぜ。」
「ああ、しっけい。君、君、」と又、呼びとめて、「勉強し給えよ。」
「大きにお世話だ。」
「おや、きょうは、お一人? おめずらしい。」
「カルピスを、おくれ。」おおいに若々しいものを飲んでみたかった。
茶店の