日の出

国木田独歩




 なにがし法學士はふがくし洋行やうかう送別會そうべつくわい芝山内しばさんない紅葉館こうえふくわんひらかれ、くわいさんじたのはの八ごろでもあらうか。其崩そのくづれが七八めい京橋區きやうばしく彌左衞門町やざゑもんちやう同好倶樂部どうかうくらぶ落合おちあつたことがある。
 小介川文學士こすけがはぶんがくしともなふて一人ひとりをとこのぞいては此倶樂部このくらぶ會員くわいゐんで、一人ひとりはオックスホード大學だいがく出身しゆつしん其一人そのひとりはハーバード大學だいがく出身しゆつしんなど、なそれ/″\の肩書かたがきもつ年少氣鋭ねんせうきえい前途有望ぜんというばうといふ連中れんぢゆうばかり。たくかこんでてんで氣焔きえん猛烈まうれつなるはふまでもないことで、政論せいろんあり、人物評じんぶつひやうあり、經濟策けいざいさくあり、とき神學しんがく議論ぎろんまであらはれて一しきりはシガーのけむ※(「火+二点しんにょうの逢」、第4水準2-79-92)々濛々ぼう/\もう/\たるなかろくしち人面じんめん隱見いんけん出沒しゆつぼつして、甲走かんばしつた肉聲にくせい幾種いくしゆ一高一低いつかういつてい縱横じゆうわうみだれ、これにともな音樂おんがくはドスンとたくおと、ゴト/\とゆかおと、そしてり/\ふゆちまたあら北風きたかぜまどガラスをかすめるひゞきである。時々とき/″\使童ボーイ出入しゆつにふして淡泊たんぱく食品くひもの勁烈けいれつ飮料いんれう持運もちはこんでた。ストーブはさかんえてる――
貴殿あなた何處どこ御出身ごしゆつしんですか』と突然とつぜん高等商業かうとうしやうげふ出身しゆつしんなにがしいまある會社くわいしや重役ぢゆうやくおぼえ目出度めでた一人ひとりをとこ小介川文學士こすけがはぶんがくしとなりすわつて新來しんらいきやくひかけた。勝手かつて氣焔きえんもやゝくたぶれたころで、けだ話頭わとうてんじてすこしたたゞれをいやさうといふつもりらしい。人々ひと/″\同意どういえて一時いちじくちとぢたけれど、其中そのうち二三人にさんにんべつ此問このとひめず、ソフアにうづめてダラリと兩脇りやうわきれ、天井てんじやうながめてほそくしてものもあれば、シガーをパク/\ふかしてものもある。一人ひとり毒瓦斯どくがすくべくつてまどすこけた。人々ひと/″\新來しんらいきやくそゝいだ。
ぼくですか、ぼくは』とよどんだをとことしころ二十七八、面長おもながかほ淺黒あさぐろく、鼻下びかき八ひげあり、人々ひと/″\洋服やうふくなるに引違ひきちがへて羽織袴はおりはかまといふ衣裝いでたちいま都下とかもつと有力いうりよくなるなにがし新聞しんぶん經濟部主任記者けいざいぶしゆにんきしやたり、つぎ總選擧そうせんきよには某黨ぼうたうよりおされて議員候補者ぎゐんこうほしやたるべき人物じんぶつ兒玉進五こだましんごとて小介川文學士こすけがはぶんがくしすで人々ひと/″\紹介せうかいしたのである。
 兒玉こだま先程來さきほどらいおほくちひらかず、微笑びせうして人々ひと/″\氣焔きえんきいたが、いま突然とつぜん出身しゆつしん學校がくかうはれたので、一寸ちよつとくちひらなかつたのである。
ぼく學校がくかうをおたづねになるのですか。』と兒玉こだまつがうとして、さらふた。
『さうです。きみられた學校がくかうです。三田みたですか、早稻田わせだですか。』と高等商業かうとうしやうげふ紳士しんし此二者このにしやいでじといふ面持おもゝちふた。
ちがひます』と兒玉こだま微笑びせうした。
『オオさうですか。何處どこです。』
大島學校おほしまがくかうです。』
大島學校おほしまがくかう? きいたことのない學校がくかうですな、おくに學校がくかうですか。』
『さうです、故郷くに小學校せうがくかうです、私立小學しりつせうがくです』とつたとき兒玉こだまかほ眞面目まじめであつたけれど、人々ひと/″\わらした。
戲談じようだんつてはこまります。だから新聞記者しんぶんきしやひとわるい。ひと眞面目まじめくのに。』と高商紳士かうしやうしんしみじかくなつたシガーをストーブにんだ。
ぼく眞面目まじめこたへたのです。まつたぼく大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんです。故意わざ奇妙きめうこたへをして諸君しよくんおどろかすつもりけつしてもたないので。これまでもぼく出身しゆつしん學校がくかうきかれましたが。はじめからこたへないときもあり、こたへるとき何時いつもこたへをするのです。』
『さうすると貴殿あなた小學校せうがくかう以外いぐわい教育けういくはおうけにならんかつたのですか。とまうすと失敬しつけいですが其以外そのいぐわい學校がくかうにはおはひりにならなかつたのですか』とソフアにけてたオックスフオード出身しゆつしん紳士しんしおこしていた。其口元そのくちもとにはなんとなく嘲笑あざけりいろうかべてる。
『さうです、ぼくはオックスフオードにもハーバードにも帝國大學ていこくだいがくにも早稻田わせだにも三田みたにも高等商業學校かうとうしやうげふがくかうにもたことはいのです。たゞ故郷くに大島小學校おほしませうがくかうたばかりです。まうすと、諸君しよくんめうにおとりになるかもれませんが、ぼくはこれでもひそかに大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんといふことをほこつてるのです。こゝろから感謝かんしやしてるので御座ございます。ぼく不幸ふかうにして外國ぐわいこく留學りうがくすることも出來できず、大學だいがくはひることも出來できず、ですからぼく教育けういく所謂いはゆる教育けういくなるものは不完全ふくわんぜんなものでしよう。
 けれどもぼく大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんなることを、諸君しよくんごと立派りつぱ肩書かたがきもつらるるうち公言こうげんしてすこしはぢず、むしほこつて吹聽ふいちやうしたくなるのです。
 はれなければだまつてます。はれてもふてえきなき仲間なかまむかつてはだまつてます。けれども諸君しよくんごと教育けういくたか紳士しんしはれてはじつ眞面目まじめぼく大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんといふことを公言こうげんするのです。
 早稻田わせだたものは早稻田わせだあいし。大學だいがくたものは大學だいがくあいするのは當然たうぜんで、諸君しよくんかなら其出身そのしゆつしん學校がくかうあいほこらるゝでしよう。其如そのごとぼく故郷くに大島小學校おほしませうがくかうあい其出身そのしゆつしんたることをほこるのです。』
『そうです、ぼく故郷くに小學校せうがくかうあいします。』とつたのはハーバード出身しゆつしん紳士しんし
『そしてほこりますか。そして其出身そのしゆつしんたることを感謝かんしやしますか』とへした兒玉こだま口調くてうはやゝげきしてた。
『さうです。』
何故なぜですか』とふた兒玉こだまかゞやいた。
『イヤそう眞面目まじめはれてはこまる。ぼく小兒こどもとき回想くわいさうして當時たうじ學校がくかうなつかしくおもふだけの意味いみつたのです』とハーバードはつみのない微笑びせううかべて言譯いひわけした。
わかりました。それだけの意味いみならわかりました。けれども貴殿あなたがそういふことをまうされるのも要之つまりぼくが一のちひさな小學校せうがくかう出身しゆつしんであることをほこるとか、感謝かんしやするとかふのは、矯激けうげきげんろうしてみづかあざむきまたみづかくわいとするもののやうにつてらるゝからだらうとおもひます。しかし、ぼくけつしてさういふ輕薄けいはくこゝろもつふのではないのです。諸君しよくんうちぼくおなじく大島小學校おほしませうがくかうられたかたあつたなら、矢張やはりぼくおなじやうなじやうもたれるだらうとしんじます。
 大島小學校おほしませうがくかうたものが、いま東京とうきやう三人さんにんます。これがぼく同窓どうさうです。此三人このさんにんあつまるくわい僕等ぼくら同窓會どうさうくわいです。其一人そのひとり三田みた卒業そつげふしていま郵船會社いうせんぐわいしやます。其一人そのひとり法學士はふがくしとなつていま東京地方裁判所とうきやうちはうさいばんしよ判事はんじをしてます。けれども彼等二人かれらふたりぼくおなじく大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんなることをいまでもぼくおなじやうにほこ感謝かんしやしてるのです。そして僕等ぼくらつき一度いちど同窓會どうさうくわいひらいて一夕いつせきもつときよく、もつとたのしくかたあそぶのです。』
 兒玉こだま言々句々げん/\くゝ肺腑はいふよりで、其顏そのかほには熱誠ねつせいいろうごいてるのをて、人々ひと/″\流石さすがみゝかたむけて謹聽きんちやうするやうになつた。
 オックスホード出身しゆつしん紳士しんし年長者ねんちやうじやだけにわけても兒玉こだまところかんじたていで。
『それほどにはれますからには、其大島小學校そのおほしませうがくかうとやらいふ學校がくかうにはなに特種とくしゆことがあつて、貴殿あなたこゝろをそれほどまでにうごかしてるのだらうとおもはれます。それをおはなくださいませんか。ね、諸君しよくん、それをかしていただかうではないか。』
『さうとも、兒玉こだまさんぼくつたことはおさはらんやうにねがひます。何卒どうぞその大島小學校おほしませうがくかうのことをはなしてもらひたいものです』とハーバードは前言ぜんげんのお謝罪わびにオックスホードに贊成さんせいした。
諸君しよくんがお聽下きゝくださるならまうします、しひてはまうしません。あま面白おもしろいはなしではないのですから。眞面目まじめ事實じゝつ流行りうかう小説せうせつとはすこおもむきことにしますから』と兒玉こだま微笑びせうらして『小説せうせつ面白おもしろ御座ございます。けれども事實じゝつさら面白おもしろ御座ございます。』
是非ぜひはなしねがひたいものです』とハーバードは乘氣のりきになつた。
よろしう御座ございます、それではおはなしゝましよう。』
 ぼくの十二のときです。ぼく父母ふぼしたがつてしばら他國たこくましたが、ちゝくわんするとともに、故郷くにかへりまして、ぼく大島小學校おほしませうがくかうといふにはひりました。
 海岸かいがんから三四丁はなれたやまふもとたつ此小學校このせうがくかうところけつして立派りつぱなものではありません。ことぼくはひつたころ粗末そまつ平屋ひらやで、教室けうしつかずよついつゝしかかつたのです。それで他國たこく立派りつぱ堂々だう/\たる小學校せうがくかうきふ其樣そんなすぼらしい學校がくかうぼく子供心こどもごころにもけつして愉快ゆくわい心地こゝちなかつたのです。
 けれどもぼく故郷くに二萬石にまんごく大名だいみやう城下じやうかで、縣下けんかではほとんどふにらぬちひさまちこと海陸かいりくとも交通かうつう便べんもつとかいますから、純然じゆんぜんたる片田舍かたゐなかで、日本全國にほんぜんこく津々浦々つゝうら/\までもゆきわたつてはず文明ぶんめい恩澤おんたくぼく故郷くにには其微光そのびくわうすらみとなかつたのです。學校がくかうといふのは此大島小學校このおほしませうがくかうばかり、其以外そのいぐわいにはいろはのいのまな場所ばしよはなかつたので御座ございます。ぼくはじめ不精々々ふしやう/″\かよつてました。
 校長かうちやう大島伸一おほしましんいち其頃そのころわづかに二十七八でしたらう。までたかくはないが、骨太ほねぶと肉附にくづきい、丸顏まるがほあたまおほきなひとまなじりながれ、はなたかくちしまり、柔和にうわなか威嚴ゐげんのある容貌かほつきで、生徒せいとしたしんでました。ぼく此校長このかうちやうもと大島小學校おほしませうがくかうたのは二年半ねんはんで、月日つきひにすればふにらず、十二さいより十五さいまで、ひと年齡ねんれいにすれば腕白盛わんぱくざかりでありましたけれど、ぼくしん教育けういくけたのは此時このときぼく一生いつしやう羅針盤らしんばんおかれたのはじつ此時このときです。
 ぼく大島學校おほしまがくかうあがつてから四五日目で御座ございました、四十をえたくらゐ一人ひとりをとこ學校がくかう運動場うんどうばて、校長かうちやうしきりに何事なにごとはなしてましたが、其周圍そのまはりに七八名の生徒せいとつてて、かほあげ二人ふたり物語ものがたりきいました。しばらくして其男そのをとこ丁寧ていねいにお辭儀じぎて、校長かうちやう至極しごく丁寧ていねいれいをして、そして二人ふたりわかれました。
 ぼく子供心こどもごころにも此樣子このやうす不審ふしんおもつたといふは、其男そのをとこ衣服みなりから風采ふうさいから擧動きよどうまでが、一見いつけん百姓ひやくしやうです、純然じゆんぜんたる水呑百姓みづのみひやくしやうといふ體裁ていさいです、けれども校長かうちやうかれたいする樣子やうす郡長樣ぐんちやうさんたいするほど丁寧ていねいなことなので、すで浮世うきよ虚榮心きよえいしんこゝろ幾分いくぶんめられてぼくにはまつたあやしくうつつたのです。
 けれどもうちかへつてべつ此事このことちゝにもはず、學校朋輩がくかうほうばいにもきませんでした。
 一月たぬうち自然しぜん此不審このふしんれてました。四十男しゞふをとこ水呑百姓みづのみひやくしやうおもつたのは、學校がくかうより十町ばかりだつて松林まつばやしおく一構ひとかまへ宅地たくちようし、米倉べいさう三棟みむねならべて百姓ひやくしやう池上權藏いけがみごんざうといふをとこで、大島小學校おほしませうがくかう創立者さうりつしや恩人おんじん保護者ほごしやであつたのです。それならば何故なぜ池上小學校いけがみせうがくかう名稱なのらずして大島小學校おほしませうがくかうといふ校長かうちやう同姓どうせい名稱めいしようけたか、諸君しよくんかなら不審ふしんおもはれるでしよう。これにはまた意味いみふか理由りいうるのです。
 ぼく此小學校このせうがくかうはひわづ四年前よねんぜん此學校このがくかう創立さうりつされたので、それよりさら十年前じふねんぜんのこと、正月元日しやうぐわつぐわんじつあさでした、新年しんねん初光しよくわういままさ青海原あをうなばらはてより其第一線そのだいゝつせんげ、東雲しのゝめ横雲よこぐも黄金色こんじきそまり、おきなる島山しまやまいたゞき紫嵐しらんつゝまれ、天地てんちるとして清新せいしんたされてときはま寂寞じやくばくとしていつ人影じんえいなく、おだやかにせてはへすなみろうし、またろうされて千鳥ちどりむれいはよりいはへとびかうてましたが、かるさいにも絶望ぜつばうそこしづんだひとこゝろ益々ます/\やみもとめてまよふものとえ、一人ひとり若者わかものありて、あをざめたかほえりうづめ、一の岩角いはかど蹲居うづくまつてしきりと吐息といきもらしてました。かれ其覺悟そのかくごめながらなほ、躊躇ためらうてたのです。
 ひと足音あしおとおどろいてうしろ振返ふりかへると一人ひとり老人らうじんちかづいてところです。老人らうじんそばて、
いまのぼるのをなさい、なん神々かう/″\しい景色けしきではないか』とやさしく言葉ことばをかけるまで、若者わかものなにおもひまもなく、ただ茫然ばうぜん老人らうじんかほたのです。
なさいいまだ、いま初日出はつひのでだ』と老人らうじんひつゝ海原うなばらとほながめてるので、若者わかものつれられておきながめました、眞紅しんくそこ黄金色こんじきふくんだ一團球いちだんきういましもなかば天際てんさい躍出をどりいでて、しばしたゆたふてさまです。
神々かう/″\しいぢやアないか、人間にんげんといふものは何時いつでも此初日出このはつひのでひかりわすれさへなければいのぢや』と老人らうじんかんえぬやうにつてあはしてしづかに禮拜れいはいしました。若者わかものおもはずはしました。るがうち波間なみまはなれ、大空おほぞら海原うなばらたへなるひかり滿ち、老人らうじん若者わかもの恍惚くわうこつとして此景色このけしきうたれてました。
わたしは六十になるがこん立派りつぱたことはない。來年らいねんはこれよりもうつくしい初日はつひをがみたいものだ。あゝ心持こゝろもちぢや』と老人らうじんつてさら若者わかものむかひ『おまへさんは何處どこものぢや』とひました。
むらもの御座ございます。』と若者わかものわづかこたへました。老人らうじん其柔和そのにうわかほ微笑びせううかべて
毎年まいねん初日はつひをがみにるのか。』
『さうでは御座ございません。』
『さうか、それでは今年ことしはじめてだのむかしからも一年いちねんはかりごと元旦ぐわんたんにありといふから、おまへさんも、今日けふわすれないでなさい如何どうじや大變たいへんかほいろわるいやうじやがそんな元氣げんきのない顏色かほいろをしててはなかわたれるものではない、一同いつしよをがんだも目出度めでたえんじや、これからわたしうちるがい、雜煮ざふにでもいははう。』
 老人らうじんさきたつくので若者わかもの其儘そのまゝあとき、つひ老人らうじんうちつたのです、砂山すなやまえ、竹藪たけやぶあひだ薄暗うすぐらみちとほると士族屋敷しぞくやしきる、老人らうじん其屋敷そのやしきひとつはひりました。
 老人らうじん大島仁藏おほしまじんざう若者わかもの池上權藏いけがみごんざうであるといふことをへば、諸君しよくんは、すで大概たいがい想像さうざうはつくだらうとおもひます。
 老人らうじん若者わかもの自殺じさつ覺悟かくご最初さいしよからつてたのですけれども最後さいごまで直接ちよくせつにさうとは一言いちごんひませんでした。
 屠蘇とそましながら、言葉ことばしづかにつてかした教訓けふくんけつしてめづらしいせつではなかつたのです。すこ理窟りくつならべるをとこならだれでもることなんでした。
 朝日あさひなみ躍出をどりいでるやうな元氣げんきひと何時いつもつなければならぬ。
 だからひと何時いつくらうちからおきをがむやうに心掛こゝろがけなければならぬ。
 そしているまで、あたり次第しだいなんでも御座ござれ、其日そのひるだけのこと一心不亂いつしんふらんなければならぬ。
 毎日まいにちる、ひと毎日まいにちはたらけ。さうすれば毎晩まいばんやすらかにねむられる、さうすれば、其翌日そのよくじつまたあたらしいをがむことが出來できる。
 一日はたらいて一日おくれば、それがひと一生涯いつしやうがいである、ときひとうまれて、ねむときひとぬるのである。
 老人らうじんかした言葉ことばんなものでありました。そして權藏ごんざうふるつて老人らうじんもとつたのです。
 池上權藏いけがみごんざう此日このひからうまかはりました、もとより強健きやうけん體躯からだもつ元氣げんきさかんをとこではありましたが、放蕩はうたう放蕩はうたうかさねて親讓おやゆづり田地でんちほとんえてくなり、いへ屋敷やしきまで人手ひとでわたりかけたので、つひ失望しつばう落膽らくたんし、今更いまさ世間せけんへも面目めんもくなく、はておもせまつておほいに決心けつしんしてたのです。けれどもかれ此日このひからうまかはりました。
 一じつまたじつかれかせぎにかせぎ、百姓ひやくしやう勿論もちろんすみやけば、材木ざいもくす、養蠶やうさんもやり、地木綿ぢもめんらし、およ農家のうかちから出來できることなら、なんでも手當次第てあたりしだい、そして一生懸命いつしやうけんめいにやりました。五年目ごねんめには田地でんち取返とりかへし、はたけ以前いぜんよりえ、山懷やまふところ荒地あれち美事みごと桑園さうゑんへんじ、村内そんないでも屈指ゆびをり有富いうふう百姓ひやくしやうおはせたのです。しかもかれ勞働辛苦らうどうしんくはじめすこしかはらないのです。
 大島老人おほしまらうじん病床びやうしやうして、最後さいご教訓けうくんかれもとめとき老人らうじんしづかに
『おまへさんはおぼえてなさるか。』
毎朝まいあさをがんでります。』
『おまへさんはさかんところて、元氣げんきよくはたらいたのはよろしい、これからは、其美そのうつくしいところて、うつくしいはたらきをもるがからう。うつくしいことを。』
 權藏ごんざうしばらかんがへてたが、
『それでは如何どんことせばろしう御座ございましよう。』とひました。老人らうじんぢたまゝ
『それはおまへさんがかんがへなければならん、おまへさんのこゝろで、これはうつくしいことだとおもふこと、てあゝうつくしいとおもふとおなじやうなことならば、なんでもよろしい。おまへさんはをがむだらう。』
『ヘイをがみます。』
『それならをがまれるほどのことをなさい。』
およびもつかんこと御座ござります、勿體もつたいないことで御座ござります。』と權藏ごんざう平伏へいふくしました、
『イヤそうでない、おまへさんは元氣げんきわすれましたか。』
はれて權藏ごんざうは、『わかりました、難有ありがたぞんじます』とつたぎり、感泣かんきふしてしばらくはあたま得上えあげませんでした。
 大島仁藏翁おほしまじんざうをう死後しご權藏ごんざう一時いちじ守本尊まもりほんぞんうしなつたていで、すこぶ鬱々ふさいましたが、それも少時しばしで、たちまもと元氣げんき恢復くわいふくし、のみならず、以前いぜんましはたらしました。
 鬱々ふさいたのはかんがへてたのです。かれ老人らうじん最後さいご教訓けうくん暫時しばらくわすれることが出來できないので、をがまれるほどうつくしいことるにはなにたらからうと一心いつしんかんがへたのです。神々かう/″\しき朝日あさひむかつて祈念きねんこらしたこともあつたのです。ふとおもあたつたときにはかれおもはずをどあがつてよろこんださうです。『自分じぶん大島先生おほしませんせいをがんでもりないほどおもふ、それならば大島先生おほしませんせいのやうなことをればよい。』
 其處そこ學校がくかうたて決心けつしんかれこゝろわいたのです、諸君しよくんかれ決心けつしんあま露骨むきだしで、單純たんじゆんなことをわらはれるかもれませんが、しかし元來ぐわんらい教育けういくのない一個いつこ百姓ひやくしやうです、むし其心そのこゝろばせの眞率しんそつ無邪氣むじやきところおもへばじつうつくしさをかんずるのです、ぼくは。
 かく此決心このけつしんさだまるや、かれさら五年ごねんあひだ眞黒まつくろになつてはたらきそして、つひに一の小學校せうがくかう創立さうりつして、これを大島仁藏おほしまじんざう一子いつし大島伸一おほしましんいちけんじ、大島小學校おほしませうがくかう命名めい/\して老先生らうせんせい紀念きねんとなし一切いつさいのことを若先生わかせんせい伸一しんいちまかしてしまつたのです。
 以上いじやう大島小學校おほしませうがくかう由來ゆらい御座ございます。けれどもはたして池上權藏いけがみごんざうこゝろざし學校がくかうてたばかりで、成就じやうじゆしましたらうか。
 大島伸一先生おほしましんいちせんせいなかつたなら、此小學校このせうがくかうた、世間せけんりふれたもの大差たいさなくをはつたかもれません。
 しか伸一先生しんいちせんせい老先生らうせんせいうるはしき性情せいじやうけてさらにこれをあたらしくみがげた人物じんぶつとして此小學校このせうがくかう監督かんとく我々われ/\第二だいに權藏ごんざうとなつて教導けうだうされたのです。權藏ごんざうこゝろざしもつと完全くわんぜん成就じやうじゆされました。
 わすれもしません、ぼく病氣びやうき學校がくかうやすんでると、先生せんせいたづね
貴樣あなたえらひとになるのだから、けつして病氣位びやうきぐらゐまけてはならん病氣びやうきかしてやらなければ』とつてぼくげましたことがあります。伸一先生しんいちせんせいけつして此意味このいみ舊式きうしきつたのではありません。
ひととなれ』とは先生せんせい訓言くんげんでした。ひと碌々ろく/\としてぬべきでない、ちからかぎりつくして、英雄えいゆう豪傑がうけつとなるを本懷ほんくわいとせよとは其倫理そのりんりでした。
 ひと人以上ひといじやうものになることは出來できない、しかひとひと能力のうりよく全部ぜんぶつくすべき義務ぎむもつる。此義務このぎむつくせばすなは英雄えいゆうである、これが先生せんせい英雄經えいゆうきやうです。
 そして老先生らうせんせい權藏ごんざうげた言葉ことば、あれが其註解そのちゆうかいです、そして權藏ごんざう其人そのひともつ先生せんせい實物教育じつぶつけういく標本へうほんとしたのです。
 ろとは、大島小學校おほしませうがくかう神聖しんせいなる警語けいごで、その堂々だう/\たる冲天ちゆうてんいきほひと、そのくまで氣高けだかい精神せいしんと、これが此警語このけいご意味いみです。
 一日いちじつまたにちと、全力ぜんりよくつくして[#「つくして」は底本では「つくくして」]はたらく、これが其實行そのじつかうなのです。
 伸一先生しんいちせんせい柔和にうわにして毅然きぜんたる人物じんぶつは、これ教訓けうくん兒童こどもこゝろむにてきしてたのです。
 そして、先生せんせいた、一心不亂いつしんふらん此精神このせいしんもつ兒童じどうみちびき、何時いつたのしげにえ、何時いつ其顏そのかほ希望きばうかゞやいてました。
 小學校生活せうがくかうせいくわつくはしいことべつまうしますまい。去年きよねんなつでした、ぼくひさしぶりで故郷くにかへつてましたが、伸一先生しんいちせんせいとしつたばかり、其精神そのせいしん其生活そのせいくわつすこしもかはりません。としつたとつたところで四十二三ですもの、人間にんげん働盛はたらきざかりです。精神せいしん意氣いきかはりのあるはずもないのです。
 たゞおい益々ます/\其教育事業そのけういくじげふたのしみ、その單純たんじゆん質素しつそ生活せいくわつたのしんでらるゝのをてはぼく今更いまさら崇高すうかうねんうたれたのです。
 むかしのまゝ練壁ねりかべ處々ところ/″\くづちて、かはら完全くわんぜんなのは見當みあたらくらゐそれに葛蔓かづらのぼつてますから、一見いつけん廢寺ふるでらかべるやうです。
 其壁そのかべして、桑樹くはのき老木らうぼくしげり、かべまがつたかどには幾百年いくひやくねんつか、うつとして日影ひかげさへぎつて樫樹かしのき盤居わだかまつてます。
 昔風むかしふうもんはひると桑園くはゞたけあひだ野路のみちのやうにして玄關げんくわんたつする。いへわづか四間よま以前いぜんいへこはして其古材そのふるざいたてたものらしくいへかたちなしるだけで、風趣ふうちなにいのです。
 先生せんせい其一間そのひとま書齋しよさいとしてられましたが、書籍しよせき學校用がくかうようほか新刊物しんかんものが二三しゆとこうへいてあるばかりでした。
 縁邊えんがはにはまめふるぼけた細籠ざるいれほしてある、其横そのよこあやしげな盆栽ぼんさいが二はちならべてありました。
東京とうきやう仕事しごと如何どうです。新聞しんぶん毎々まい/\難有ありがたう、續々ぞく/\面白おもしろ議論ぎろんますなア』と先生せんせいぼくかほるやくちひらきました。
『イヤ如何どう愚論ぐろんばかりではづかしう御座ございます、しかしあれでもわたくしちから一杯いつぱいなのです。』
『それで十分じふゞんです、ちからかぎいてそれ愚論ぐろんならべつ仕方しかたいからな。けれどもたのしみります。わたくしはこのごろになつて益々ます/\かんずることは、ひと如何どん場合ばあひてもつねたのしいこゝろもつ其仕事そのしごとをすることが出來できれば、すなは其人そのひとまこと幸福かうふくひとといひることだ。不精々々ふしやう/″\にやつた仕事しごと立派りつぱ仕事しごとはない、そして一生懸命いつしやうけんめい仕事しごとするときほどたのしいものはないやうだ。』
 先生せんせい此等これら言葉ことば其實そのじつ平凡へいぼんせつですけれど、ぼく先生せんせい生活せいくわつ此等これらせつくと平凡へいぼん言葉ことば清新せいしんちからふくんでることをかんじました。
 伸一先生しんいちせんせい給料きふれうつき十八ゑんしか受取うけとりません、それで老母らうぼ妻子さいし、一にん家族かぞくやしなふてるのです。家産かさんといふは家屋敷いへやしきばかり、これを池上權藏いけがみごんざう資産しさんくらべてると百分一ひやくぶんのいちにもあたらないのです。
 けれども先生せんせい其家そのいへかこ幾畝いくせかの空地くうちみづからたがやして菜園さいゑんとし種々しゆ/″\野菜やさいゑてます。また五六羽ごろつぱにはとりふて、一もちゆるだけのたまごつてます。
 書齋しよさいまへ小庭こには奇麗きれい掃除さうぢがしてつて、其處そこへはとりれないやうにしてあります。
 先生せんせい生活せいくわつけつして英雄えいゆう豪傑がうけつふうではありません、けれども先生せんせいまこと生活せいくわつをしてゐるのです、先生せんせいけつして村學究そんがくきうらしい窮屈きゆうくつ生活せいくわつ、ケチ/\した生活せいくわつはしてません、けれど先生せんせい自分じぶん虚榮心きよえいしん犧牲ぎせいになるやうな生活せいくわつません。
 ぼく先生せんせい對座たいざして四方山よもやま物語ものがたりをしてながら、熟々つく/″\おもひました、うるはしき生活せいくわつがあるならば、先生せんせい生活せいくわつごときはじつにそれであると、先生せんせい言論げんろんには英雄えいゆう意氣いきみちながら先生せんせい生活せいくわつ一見いつけん平凡へいぼんきはまるものでした。
 先生せんせいふた、翌日よくじつでした、使者しゝや手紙てがみもついまから生徒せいと數名すうめいれて遠足ゑんそくにゆくがきみ仲間なかまくははらんかといふ誘引さそひです。ぼく支度したくして先生せんせいうちけつけました、それがあさ六時ろくじ山野さんやあるらしてかへつてたのがゆふべ六時ろくじでした、先生せんせい夏期休業なつやすみいへどつね生徒せいとちかづき、生徒せいとめに時間ときおくつてらるゝのです。
 諸君しよくんうちぼく故郷くに旅行りよかうせられるやうなことがつたならば、是非ぜひ一度いちど大島小學校おほしませうがくかうはれたいものです。海岸かいがんちかやまやまには松柏しようはくしげり、其頂そのいたゞきには古城こじやう石垣いしがきのこしたる、其麓そのふもと小高こだかところつてるのが大島小學校おほしませうがくかうであります。それがぼく出身しゆつしん學校がくかうなのです、四十幾歳いくさい屈強くつきやう體躯からだをした校長かうちやう大島氏おほしましは、四五にん教員けうゐん相手あひてに二百餘人よにん生徒せいと教鞭けふべんつてられます。
よ』といふ警語けいごいまむかしかはりなく、あたかちからとがいまむかしかはりのないやうに、全校ぜんかう題目だいもくとなり、目標もくへうとなり、唱歌しやうかとなりるのを御覽ごらんになりましよう。
 かたをはつて兒玉こだま一呼吸ひといきくやオックスホードの紳士しんし
『なるほどわかりました、ちからです、です、そしてじつまた希望きばうです、ぼく貴殿あなた大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんであることを感謝かんしやし、ほこらるゝことを、當然たうぜんおもひます。ぼく一度いちど是非ぜひくにまゐつて大島伸一先生おほしましんいちせんせいにもおにかゝりたう御座ございます。』
『そして、ぼく池上權藏いけがみごんざうつてたい』など高等商業かうとうしやうげふ紳士しんし大眞面目おほまじめつた。
權藏ごんざういま如何どうしてますか』ととふたのはハーバードである。
『さうでした、權藏ごんざうのことをふのはわすれてました、益々ます/\達者たつしやくらしてます。大島小學校おほしませうがくかういまむら經濟けいざい維持ゐぢしてますが、しかしむら經濟けいざい首腦しゆなう池上權藏いけがみごんざうですから、學校がくかう保護者ほごしや依然いぜんとしてむかし覺悟かくごまできめた百姓ひやくしやう權藏ごんざうであります。
 權藏ごんざうとみいま一郡第一いちぐんだいゝちとなり、かれつて色々いろ/\公共事業こうきやうじげふおこなはれてるのです。けれど諸君しよくんかれあつたらおそらく意外いぐわいおもはるゝだらうとおもひます。
 權藏ごんざう最早もう彼是かれこれ六十です。けれどもづるまへきてぼつするまではたらくことはいまむかしかはりません。そして大島老人おほしまらうじんかれすくふたときいはうえつて、
來年らいねんはこれよりもうつくしい初日はつひをがみたいものだ。』とつた言葉ことば其言葉そのことばかたおぼえてて、其精神そのせいしんあぢはうて、としとも希望きばうあらたにし、一日いちにちまた一日いちにちはたらいておいいたるのをすこしもかんじない樣子やうすです。
おいらなければいず、ぼく池上權藏いけがみごんざうぬるまでおいないだらうとおもひます、ぬるいまはのきはにも、かれさら一段いちだん光明くわうみやうなる生命せいめいのぞんでるだらうとおもひます。不死不朽ふしふきうとはこのことでは御座ございますまいか。
 權藏ごんざう其居間そのゐまとこ大島老先生おほしまらうせんせい肖像せうざうをかゝげ、其横そのよこさがつてます。これは伸一先生しんいちせんせいもとめていてもらつたのださうです。そして大島小學校おほしませうがくかう一室いつしつには池上權藏いけがみごんざう肖像せうざうがかけてあります。』

 それより一週間いつしうかんばかりつて、兒玉進五こだましんごたくかれ所謂いはゆ同窓會どうさうくわいひらかれた。
 兒玉こだま此席このせき同好倶樂部どうかうくらぶ一條いちでうはなした、二人ふたり微笑びせうしたばかり、べつなんともひやうしなかつた。
 會毎くわいごと三人さんにん相談さうだんしてかならつき一度いちど贈品ぞうひん大島小學校おほしませうがくかうおくる、それがかならずしも立派りつぱものばかりではない、筆墨ひつぼくるゐ書籍しよせき圖畫づぐわるゐなどで、オルガン一臺いちだい寄送きそうしたのが一番いちばん金目かねめものであつた。
今度こんどなにおくらう』と兒玉こだま二人ふたりふた。
矢張やはり書籍ほんからうぢやないか』と判事はんじこたへた。
ほんならぼくかんがへがある。今度こんど會社くわいしや世界航海圖せかいかうかいづあたらしいのが出來できたから、あれをもらつておくらう如何どうだね、』と郵船會社員いうせんぐわいしやゐん一案いちあんした。
『それも至極しごくめうだ。けれども其他そのほかなににしよう。』
如何どうだらう』と判事はんじ一案いちあんした。
いが最早もうりふれたものばかりだからなあ。』
じつ先日せんじつ倫敦ろんどん友人いうじんから『世界せかい名畫めいぐわ』とだいして、隨分ずゐぶん巧妙かうめうすつてあるのを二十まいばかりおくつてれたがね、それは如何どうだらうかとおもふのだ。』
かろう!』と二人ふたり贊成さんせいした。
其所そこれい唱歌しやうか一件いつけんだがね、ぼく色々いろ/\かんがへたが今更いまさら唱歌しやうかにもおよぶまいとおもふのだ如何どうだらう。『ろ』で澤山たくさんじやアないか。それをなまじつかいま歌人うたよみたのんでつくらしたところでありふれた、初日はつひうたなどは感心かんしんしないぜ。くるなら學校がくかうからものつくつたのでなければ、とても『ろ』の一語いちご我等われらかんずるやうなもの出來できないぞ、如何どうだろう?』と兒玉こだまいたのに二人ふたり異議いぎなく贊成さんせいし、兒玉こだま二人ふたりまへ大島校長宛おほしまかうちやうあてにすら/\とつぎ手紙てがみいた。
御依頼ごいらい唱歌しやうかけん我等われら三人さんにんとも同意どういいたさふらふ東京とうきやうにも歌人うたよみ大家先生たいかせんせい澤山たくさんあれど我等われらのやうに先生せんせい薫陶くんたう大島小學校おほしませうがくかうもんまなさふらふものならで、我等われら精神感情せいしんかんじやう唱歌しやうかうたいだるものるべきや、はなは覺束おぼつかなく存候ぞんじさふらふ我等われら學校がくかう何時いつかはまこと詩人しゞんづることあらん。そのときまでは矢張やはり『ろ』で十分じふゞんかと存候ぞんじさふらふ唱歌しやうかうたふて朝寐坊あさねばうする人物じんぶつ學校がくかうからるやうになりてはなんやくにもつまじく、其邊そのへん御賢慮ごけんりよ願上候ねがひあげさふらふ。』
 三人さんにん連名れんめい此手紙このてがみした、大島先生おほしませんせいから返事へんじ
御主意ごしゆい御尤ごもつともさふらふ唱歌しやうかおもまりさふらふあさましいかな教室けうしつさふらふしたがつてこゝろよりもかたちをしへたく相成あひなかたむ有之これあり以後いご御注意ごちゆうい願上候ねがひあげさふらふ。』





底本:「定本 國木田獨歩全集 第三卷」学習研究社
   1964(昭和39)年10月30日初版発行
   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
   1984(昭和59)年1月20日第10刷発行
底本の親本:「運命」佐久良書房
   1906(明治39)年3月18日発行
初出:「教育界 第二卷第三號」金港堂
   1903(明治36)年1月1日発行
※「今更いまさら」と「今更いまさら」の混在は、底本通りです。
入力:葛西重夫
校正:川山隆
2014年12月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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