エジソンの蓄音機の発明が登録されたのは一八七七年でちょうど
エジソンの最初の蓄音機は、音のために生じた膜の振動を、円筒の上にらせん形に刻んだみぞに張り渡した
蓄音機の改良進歩の歴史もおもしろくない事はないが、私にとっては私自身と蓄音機との交渉の歴史のほうがより多く痛切で忘れ難いものである。
西南戦争に出征していた父が戦乱平定ののち家に帰ったその年の暮れに私が生まれた。その私が中学校の三年生か四年生の時であったからともかくも蓄音機が発明されてから十六七年後の話である。ある日の朝K市の中学校の掲示場の前におおぜいの生徒が集まって掲示板に現われた意外な告知を読んで若い小さな好奇心を動揺させていた。今度文学士何某という人が蓄音機を携えて来県し、きょう午後講堂でその実験と説明をするから生徒一同集合せよというのであった。これはたしかに単調で重苦しい学校の空気をかき乱して、どこかのすきまから新鮮な風が不時に吹き込んで来たようなものであった。生徒の喜んだことはいうまでもない。おもしろいものが見られ聞かれてその上に午後の課業が休みになるのだから、文学士と蓄音機との調和不調和などを考える
校長の紹介で講壇に立った文学士は堂々たる
まず器械の歴史から、その原理構造などを明快に説明した後にいよいよ実験にとりかかった時には異常な緊張が講堂全体に充満していたわけである。いよいよ
私はその瞬間に経験した不思議な感じを三十年後の今日でもありありとそのままに呼び返すことができるように思う。その奇妙な感じを完全に分析して説明する事は到底不可能であるが、種々雑多な因子の中にはもちろん緊張の
吹き込みが終わった文学士は額の汗を押しぬぐいながらその装置を取りはずして、さらに発声用の振動膜とラッパを取りつけた。器械が動きだすとともに今の歌がそろそろ出て来た。それは妙に押しつぶされたような鼻声ではあったが、ともかくも文学士の特徴ある「ラアヽ」などの抑揚をかなり忠実に再現したので、講堂の中からは自然な感嘆の声とおさえつけた笑声とが一時に沸きあがった。
この一日の出来事はどういうものか私の中学時代の思い出の中に目立って抜き出た目標の一つになっている。一つにはこの泰西科学の進歩がもたらした驚異の実験が、私の子供の時から芽を出しかけていた科学一般に対する愛着の心に強い衝動を与えたためであろうが、そのほかにまだ何かしらある啓示を与えたものがあるためではないかと思っている。私は今でも事にふれてこの文学士の「高い山から」を思い出す。あの時にあの罪のない
私にはかなり重大な、しかし他人にはおそらくくだらなく
エジソンの発明から十数年の後に、初めて東洋の
器械から出る音のエネルギーがいたずらに空中に飛散して銭を払わない往来の人に聞こえる事のないように、銭を払った花客だけによく聞こえるために幾対かのゴム管で分配されるようになっていた。耳にさした管を両手でおさえて首をたれて熱心に聞いている花客を見おろすようにして、口の内で器械の音曲をささやいている主人は
私は大道の蓄音機を聞いてみたいという希望をかなり強くもっていたにかかわらず、とうとう一度も聞く事ができなかった。私の知っている範囲の友だちや市民でこの蓄音機の管を耳にはさんでいるのを見かけた事もなかった。聞いているのはほとんど皆
大道で蓄音機を聞くという事がたいして悪い事とは思われない。りんごをかじりながら街頭をあるくよりも、環視の中でメリーゴーラウンドに乗るよりもむしろいい事かもしれないのに、何かしらそれを引き止める心理作用があって私の勇気を
大道蓄音機が文化の福音を片田舎に広めた事は疑いもないが、同時にあの耳にはさむ管の端が耳の病気を
改良を加えた
平円盤によって行なわれた声音学上の実験的研究もたくさんにあって、今でも続いて熱心な学者がこれを追究している。カルソーの母音の中の微妙な変化やテトラッチニの極度の高音やが分析の
私が初めて平円盤蓄音機に出会ったのは、
汽船会社は無論乗客の
このような不平を起こすのが間違っているという事は、その後だんだんに少しずつわかって来た。汽船の夜の蓄音機はこのごろどうなったか知らないが、これに代わるべきさらに強烈なものは今の世上にあまりに多い。いつまでもこのような不平を超越しないでいては自分のような弱い神経をもったものは生存そのものが危うくなるであろう。
汽船の外でも西洋小間物屋の店先や、居酒屋の
蓄音機のラッパというものも私にはあまり気持ちのいいものではなかった。器械全体の大きさに対してなんとなく均衡を失して醜い不安な外観を呈するものである。一寸法師が
グラモフォーンに対する私の妙な反感がいくらか柔らげられるような機会が来たのは私が三十二の年にドイツへ行っていた時の事である。かの地の大使館員でMという人と知り合いになったがその人がラッパのない、小さな
それで蓄音機と私との交渉はそれきりになってさらに十年の歳月が流れた。
ある年の十月に私は妻を失った。やがて襲って来た冬はわびしいわが家をさらにわびしいものにした。おおぜいの子供をかかえて家内じゅうの世話をやく心せわしいさびしさのうちに年が暮れて正月になった。年頭の儀式は廃しても春はどこやら春らしくて、突きつまったような心にもいくらかのゆとりができた。三が日過ぎたある日親類へ行ったら座敷に蓄音機が出ていた。正月の客あしらいかたがたどこからか借りて来たので、私が来たら聞かせようと言って待っていたとの事であった。そこでおとぎ歌劇「ドンブラコ」というのを聞かされた。
この器械はいわゆる無ラッパの小形のもので、音が弱くて騒がしい事はなかったが、音色の再現という点からはあまり完全とは思われず、それに何かものを摩擦するような雑音がかなり混じていて耳ざわりであった。それにもかかわらず私の心はその時不思議にこのおとぎ歌劇の音楽に引き込まれて行った。充分には聞きとり兼ねる歌詞はどうであっても、歌う人の巧拙はどうであってもそんな事にかまわず私の胸の中には美しい「子供の世界」の幻像が描かれた。聞いているうちになんという事なしに、ひとりで涙が出て来た。長い間自分の目の奥に固く凍りついていたものが初めて解けて流れ出るような気がした。
聞きながら私は、うちでも一つ蓄音機を買ってやろうと思いついた。そして寒い雨の日に銀座へ出かけて器械と「ドンブラコ」のレコードを求めて来た。子供らの喜びは一通りでなかった。品物の届く時刻を待ちかねて門の外へ幾度か見に出たりした。
その夜のわが家はいつになくにぎわった。なんとなしに子供の心を押しつけていた暗い影が少なくともこの夜はどこかへ行ってしまったような気がした。疲れて快く眠る子供の顔を見比べながら雨戸にしぶく雨の音を聞いているうちにいつのまにか説明のできない涙が流れた。
当分の間は毎日子供から蓄音機を蓄音機をと迫られた。子供らはもうすっかり歌詞や旋律を覚えてしまって、朝起きると床の中からあちらでもこちらでもそれを歌っているのであった。
小学生のよく歌うような唱歌のレコードも買って来たが、それらはとても聞かれない妙な不愉快なものであった。ああいう歌でもちゃんとした声楽家の歌ったのならきっとおもしろいだろうと思われるが、普通のレコードのように妙な癖のあるませた子供の唱歌は私にはどうも聞き苦しい。そうかと言って邦楽の大部分や俗曲の類は子供らにあまり親しませたくなし、落語などというのは隣でやっているのを聞くだけでも私は頭が痛くなるようであった。それで結局私のレコード箱にはヴィクターの譜が大部分を占めるようになった。
妙なもので、初めのうちは「
普通の和製のレコードとヴィクターのと見比べて著しく目につく事は盤の表面のきめの粗密である。その差はことに音波の刻まれた部分に著しい。適当な傾きに光を反射させて見た時に一方のはなんとなくがさがさした感じを与えるが、一方は油でも含んだような柔かい光沢を帯びている。これは刻まれた線の深さにもよる事ではあろうが、ともかくもレコードの発する雑音の多少がこの光沢の相違と密接な関係のある事は疑いもない事である。これは材料その物の性質にもよりまた表面の仕上げの方法にもよるだろうが、少しの研究と苦心によって少なくも外国製に劣らぬくらいにはできそうなものであるのに、それができていないのはどういう理由によるものか、門外漢にはわかりかねる。しかし私の知れる範囲内では、蓄音機レコードの製造工場へ
いずれにしても今の蓄音機はまだ完全なものとは思われない。だれにでもいちばんに邪魔になるのはあのささらでこするような、またフライパンのたぎるような雑音である。あれを防ぐ目的で振動膜から発する音を長さ二十余尺あるいは四十余尺の幾度も折れ曲がった管の中を通過させて試験した人もある。そうすれば雑音の短い音波はかなり消却されるがそのかわり音が弱くなるのは免れ難いし、また同時に肝心の楽音の音色にもいくぶんかの変化を起こすのはやむを得ないようである。そのほかに
もう一つの蓄音機の欠点は、レコードの長さに制限があって長い曲が途中で中断せられる事である。この中絶をなくするために二台の器械を連結してレコードの切れ目で一方から他方へ切りかえる仕掛けがわが国の学者によって発明されたそうであるが、一般の人にはこの中断がそれほど苦にならないと見えて、まだ市場にそういう器械が現われた事を聞かない。
音波によって起こされた電流の変化を、電磁石によって鋼鉄の針金の付磁の変化に翻訳して記録し、随時にそれを音として再現する装置もすでに発見されて、現にわが国にも一台ぐらいは来ているはずである。これならば任意に長い記録を作る事も理論上可能なわけであるが、なんと言っても電気装置などを使わずに
私の和製の蓄音機は二年ぐらい使った後に歯車の故障が起こって使用に堪えないものになってしまった。近所の時計屋などではどうしても直しきれなかった。もと買った店へ電話で掛け合ったら、取りには行かれないが持って来れば修繕してもいいという返事であった。買う時には店員まで付き添って雨の降る中を届けて来たのに、それでは少しおかしいとは思ったがどうにもならなかった。しかしはるばる持って行くのがおっくうなので長い間
ある日K君のうちへ遊びに行ったらヴィクトロラの上等のが求めてあって、それで種々のいいレコードを聞かされた。レコードは同じのでも器械がいいとまるで別物のように感じられた。今までうちで粗末な器械でやっていたのはレコードに対する虐待であった事に気がついた。うちの器械で鋼鉄の針でやる時にあまりに耳立ちすぎて不愉快であったピッコロのような高音管楽器の音が、いい器械で竹針を用いれば適当に柔らげられ、一方ではまた低音の弦楽器の音などがよほど正常の音色を出す事を知った。
年の暮れに余分な銭のあったのをヴィクトロラの中でいちばん安いのにかえて針も三角の竹針を用いる事にした。同じレコードの中から今まで聞かれなかったいろいろの微細な音色のニュアンスなどが聞き分けられるのが不思議なくらいであった。ごまかしの八百倍の顕微鏡でのぞいたものをツァイスのでのぞいて見るような心持ちがした。精妙ないいものの中から、そのいいところを取り出すにはやはりそれに応ずるだけの精微の仕掛けが必要であると思った。すぐれた頭の能力をもった人間に牛馬のする仕事を課していたような、済まない事をしていたというような気がするのであった。
鉄針と竹針とによる音色の相違はおそらく針自身の固有振動にも関係するだろうしまた接触点の弾性にもよるだろうが、これらの点を徹底的に研究すれば今後の改良に関する有益なヒントを得られるだろうと思われる。
いずれにしてもまだ現在の蓄音機は不完全と言われてもしかたのない状態にある。三色写真が絵画の複製術として物足りないごとく、蓄音機は名曲のすぐれた演奏の再現器として物足りないものである。それだから蓄音機は潔癖な音楽家から軽視されあるいは
蓄音機でいい音楽を聞くのと、三色版で名画を見るのとはちょっと考えると似ているようで実は少し違ったところがあると思う。私の考えでは、三色版が色彩に対しても不忠実であるのみならず、画面の微妙な光沢や組織に対し全然再現能力のないのに反して、良い蓄音機では音色や強弱の機微な差別が相応に現われ、そして最も重要な要素と考えられる時間関係がかなり厳密に再現される。そういう点で蓄音機のほうがある意味で三色版より進んでいるとも言われる。ただ困る事には今の蓄音機に避くべからざる雑音の混入が、あたかも三色版の面にきたないしみの散点したと同様であるようにも思われる。しかし人間の耳には不思議な特長があって、目の場合には望まれない選択作用が行なわれる。すなわち雑多な音の中から自分の欲する音だけを抽出して聞き分ける能力を耳はもっている。音楽家が演奏をしている時に風や雨の音、時には自分の打っているキーの不完全な
これに反して目のほうでは白色の中から赤や緑を抜き出す事が不可能であり、画面から汚点を除却して見る事はどうしてもできない。
このような本質的の区別がありはするが、蓄音機のあまりにはなはだしい雑音はやはり耳ざわりには相違ない。しかし一つの曲に修熟してその和音や旋律を記憶して後にそのレコードの音を専心に追跡しあるいは先導して行く場合にはかなりの程度までこの選択ができるように思われる。これは修練によってだれでも自然にできるだろうと思われるが、かつてある学者の試みたように蓄音機から出る音を壁にかけた反射鏡から一度反射させて聞けば、あたかも隣室の音楽を聞いているような心持ちがするので器械の雑音の気になる事がさらによく防がれるだろうと思う。
もう一つ音楽家にとって不満足であろうと思うのは、たとえ音色がよく再現できていると言ったところで、これをほんとうの楽器に比べればどうしてもいくぶんの差違のある事は免れ難い事である。いろいろな音の相対的の関係はかなりによく行っていても、全体にかぶさっている濁りあるいは曇りのようなものがあってそれが気になるだろうと思われる。しかしこれはたとえば同一の絵を少し暗い室で見るとか、あるいは少し色のついた光の下で見るとよく似た事であって、正常の光で見た時の印象が確実に残っていない人にとってはその区別は全然認識されない。もしそうでなかったら曇り日に見たセザンヌと晴天に見たセザンヌは別物に見えなければならないわけである。同じようなわけで八畳の日本室で聞くヴァイオリンと、広い演奏室で聞く同じひき手の同じヴァイオリンとも別物でなければならない。
不完全なる蓄音機から本物の音楽を聞き出そうとする人にとってもう一つの助けになるのは人間心理の特徴として知られた補足作用である。自分の文章の校正刷りを見る時に顕著な誤植を平気で読み過ごすと同じような
蓄音機が完成に近づくに従って生ずる新しい利用方面がいろいろに考えられる中にも、従来すでに行なわれているような音楽や演説の保存運搬、外国語の発音の教授などは別として、たとえば学校の講義のあるものを
学校の講義と言ってもいろいろの種類があるが、その内にはただ教師がふところ手をしていて、毎学年全く同じ事を陳述するだけで済むものもある。そういうのは蓄音機でも代用されはしないかという問題が起こる。それからまた黒板に文字や絵をかいたりして説明する必要のある講義でも、もし蓄音機と活動写真との連結が早晩もう少し完成すれば、それで代理をさせれば教師は
私は蓄音機や活動写真器械で置き換え得られるような講義はほんとうの意味の教育的価値のないものだろうと思っている。もし講義の内容が抜け目なく系統的に正確な知識を与えさえすればいいとならば、何も器械の助けを借りるまでもなくその教師の書いた原稿のプリントなり筆記なりを生徒に与えて読ませれば済む場合もあるわけである。甲の講義を乙が述べてもそれでたくさんなわけである。
しかし多くの人が自らその学校生活の経験を振り返って見た時に、思い出に浮かんで来る数々の旧師から得たほんとうにありがたい
これはおそらくだれでも知っている事であろうが、あまりに教育というものを系統的科学的従って機械的な研究の対象とする場合にややもすれば忘られがちな事である。一度これを忘れればすべての教育は蓄音機や活動写真で代用する事ができるようになると同時に、教育の効果はその場限りの知識の商品切手のようなものになる。生徒の
十年一日のごとき講義をするといってよく教師を非難する人が往々ある。しかしそれだけの事実では教師の教師たる価値は論ぜられないと思う。講義の内容の外見上の変化が少なくともその講義の中に流れ出る教師の生きた「人」が生徒に働きかけてその学問に対する興味や熱を鼓吹する力が年とともに加わるという場合もあるかもしれない。これに反して年々に新しく書き改め新事実や新学説を追加しても、教師自身が、漸次に後退しつつある場合も考えられない事はない。この二つの場合のどちらが蓄音機のレコードに適するかを一般的概念的に論断するのは困難ではあるまいか。
蓄音機が完成した暁に望み得られることのうちで私が好ましいと思う一つのものは、あらゆる「自然の音」のレコードである。たとえば山里の夜明けに聞こえるような鶏犬の声に和する谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、
蓄音機に限らずあらゆる文明の利器は人間の便利を目的として作られたものらしい。しかし便利と幸福とは必ずしも同義ではない。私は将来いつかは文明の利器が便利よりはむしろ人類の精神的幸福を第一の目的として発明され改良される時機が到着する事を望みかつ信ずる。その手始めとして格好なものの一つは蓄音機であろう。
もしこの私の空想が到底実現される見込みがないという事にきまれば私は失望する。同時に人類は永遠に幸福の期待を捨てて再びよぎる事なき門をくぐる事になる。
(大正十一年四月、東京朝日新聞)