一
昭和九年八月三日の朝、
これがどの程度に
今年の天候異常で七月中晴天が少なかったために、何か特殊な、蜜蜂の採蜜資料になるべき花のできが悪かったか、あるいは開花がおくれたといったような理由があるのではないかとも想像される。
近ごろ見た書物に、蜜蜂が花野の中で、つぼみと、咲いた花とを識別するのは、彼らにものの形状を弁別する能力のあるためだということが書いてあった。すなわち星形や十字形のものと、円形のものとを見分けることができるというのである。
しかし甘納豆の場合にはこの物の形が蜂を誘うたとは思われない。何か
それはとにかく、現代日本の新聞の社会面記事として、こういうのは珍しい科学的な
この
南半球の納豆屋さんには日本から飛んで来る蜜蜂が恐ろしいのである。
二
庭と中庭との隔ての
家人に聞いてみると、せんだって四つ目垣の朽ちたのを取り換えたとき、植木屋だか、その助手だかが無造作に根こそぎ引きむしってしまったらしい。
植物を扱う商売でありながら植物をかわいがらない植木屋もあると見える。これではまるで土方か牛殺しと同等であると言って少しばかり憤慨したのであった。
もっとも、自然を愛することを知らない自然科学者、人間をかわいがらない教育家も捜せばやはりいくらもあることはあるのである。
三
このごろ、のら
長年猫を飼っているが、こんな寄生虫を見るのははじめてのことである。
自分の頭から背中から足の
この猫が書斎の前の縁側にすわってかゆがって身もだえをしていられると、どうにも仕事が手につかない。文字通りの意味でのシンパシーまたミットライドとはこんなのを言うのかもしれない。
三つの「かゆい話」のぶつかったのは全く偶然のコインシデンスである。しかし、それを三つ結びつけて感じるのは必ずしも偶然ではないであろう。
四
八月二十四日の晩の七時過ぎに
一週間も
けんかでなしに別居している夫婦の仲のいいわけがわかるような気がする。
五
ある地下食堂で昼食を食っていると、向こう隣の食卓に腰をおろした四十男がある。麻服の上着なしで、五分刈り頭にひげのない丸顔にはおよそ屈託や気取りの影といったものがない。

なんだか非常にうらやましい気がした。何がうらやましいか、そのときにはよくわからなかった。たぶん、飲んでも食ってもふくれない「胃」がうらやましかったのではないかと思われる。
食うものばかりではない、見るもの聞くものまでがことごとく腹にたまって不消化を起こす自分などのような胃の弱い人間には、この男のような屈託のない顔は一生勉強してもとてもできそうもない。
六
お
おでこは心の広さを現わし、小さく格好よく引きしまった鼻はインテリジェンスとデリカシーの表象であり、下がった目じりは慈愛と温情の示現である、という場合もあるであろう。しかしまたこれと反対の場合のあることももちろんであろう。
顔の美醜は到底文字では現わせないものらしい。これを現わす解析法も幾何学もまだ発見されていない。まず現代でいちばん実用的な描写法としては世界的に知れ渡った映画スターなどのいろいろなタイプを借りて記載するのが近道であろうかと思われる。
国体や国民性の美醜にも言葉や教科書の文句では現わし難いものがある。それを学校生徒に教える唯一の道は先生自身がそのモデルでありタイプであることである。
小学校の先生になるのも容易なことではない。
七
最新の巨大な汽船の客室にはその設備に装飾にあらゆる善美を尽くしたものがあるらしい。外国の絵入り雑誌などによくそれの三色写真などがある。そういう写真をよくよく見ていると、美しいには実に美しいが、何かしら一つ肝心なものが欠けているような気がする。それが欠けているためにこの美しい
窓のない部屋はどんなに美しくてもそれは死刑囚の独房のような気がする。こういう室に一日を過ごすのは想像しただけでも窒息しそうな気がする。これに比べたら、たとえどんなあばら家でも、大空が見え、広野が見える室のほうが少なくも自由に呼吸する事だけはできるような気がする。
汽船でも汽車でも飛行機でも、一度乗ったが最後途中でおりたくなっても自分の自由にはおりられない。この意味ではこれらは皆一種の囚獄である。しかし窓から外界が見える限り外の世界と自分との関係だけはだいたいにわかる、もしくはわかったつもりでいられる。これに反して窓のない部屋にいるときには外界と自分とのつながりはただ記憶というたよりない連鎖だけである。しかし外界は不定である。一夜寝て起きたときは、もうその室が自分を封じ込んだまま世界のいずこの果てまで行っているか、それを自分の能力で判断する手段は一つもないのである。
こんなことを考えてみてもやっぱり「心の窓」はいつでもできるだけ数をたくさんに、そうしてできるだけ広く明けておきたいものだと思う。
八
劇場などで座席を選ぶ場合に、一列の
だれであったか忘れたが昔のギリシアの哲学者の一人は集会所のベンチの片端に席を占める癖があった。人がその理由を尋ねたら「せめて片側だけでも自由がほしい」と答えたそうである。昔も今もこうしたわがままなエゴイストの心理は同様だと見える。
しかし、一方ではまた、反対に両側に人がいないとさびしく物足りないという人もかなりあるようである。
群集を好む動物があり一方にはまた孤独を楽しむ動物があるかと思うと、また一方ではある時期には群集を選ぶが他の時期、特に営巣生殖の時期には群れを離れて自分だけの
エゴイストが自由を欲するのは、やはり自分の
こういうふうに考えて来ると世事の交渉を回避する学者や、義理の拘束から逃走する芸術家を営巣繁殖期に入った鳥の類だと思って、いくぶんの
九
東京市電気局の争議で電車が一時は全部止まるかと思ったら、臨時従業員の手でどうにか運転を続けていた。この予期しなかった出来事は、見方によっては、東京市民一般に関するいろいろな根本問題を研究するために必要あるいは有益な資料を提供する一つの大がかりなエキスペリメントであったとも見られなくはない。すなわち、実証的科学の実験と同じ意味において一つの実験であったと考えることができるとすれば、われわれはこの大規模で高価な実験をむだに終わらせないように努力しなければならない。それには、この実験によって生じたいろいろの効果を正確に観察し、それを忠実に記録し、そうしてその結果を分析し帰納し、それから、もしできるなら、市民交通を支配する方則のようなものを抽出し、それから
市電争議の原因はなかなか複雑で到底科学者などにはわからないような事がらがいろいろ裏面に伏在しているには相違ないであろうが、しかしたくさんな原因の一つとしては、市電が経済的に不利な経営法を行ないきたったという事実もあるであろう、そうしてそのまた理由の一つとしては電車の運転のスケジュールが科学的研究にその基礎を置いてない間に合わせなものだということもあげられはしないかと想像されるのである。
それはとにかく、争議中の電車に乗って往来している間に自分の気づいた現象の一つは、各線路における各時刻の乗客数の異常である。少なくも争議開始後二三日は全線いったいに乗客が少ないではないかと思われた。これは市民の出足がなんとない不安のためにいくぶん止められたためかと想像された。しかしまた、乗り換え切符を出さなくなったために乗客の選ぶコースが平常と変わり、その結果としていつもは混雑するある時刻のある線路が異常に閑散になったというような現象もあるらしく思われた。この異常時の各線路の乗客数の調査をしたら市電将来の経営について非常にいい参考資料が得られるであろうと思ったが、しかし電気局ではその当時それどころの騒ぎではなかったであろう。
背広服の運転手や車掌はなんとなく電車内の空気をなごやかにする。いつもは生きた機械か、別世界から出張した人間のように思われるこれらの従業員が、こうして見るとやはり乗客の自分らと同じ人種に見えるから妙である。昔北欧を旅行したとき、たしかヘルシングフォルスの電車の運転手が背広で、しかも切符切りの車掌などは一人もいず、乗客は勝手に上がり口の箱の中へかねて買い置きの白銅製の切符を投げ入れていたように記憶している。こんなのんびりした国もあるのかと思ったことであった。
今度の
あるバスの女車掌は
ある電車運転手は途中で停車して共同便所へ一時雲隠れしたそうである。こうなると運転手にも人間味が出て来るから妙である。
争議が解決した後も、いっその事思い切って従業員の制服を全廃して思い思いの背広服ないし和服着流しにする事を電気局に建言したらどうかと思ってみたのであった。
十
このごろ、熱帯魚を売る店先を通るときはたいていいつでも五分や十分は立ち止まって種々な種類の魚の動作を観察する癖がついた。種類による個性の差別がだんだんにわかって来るのがなかなかおもしろい。
ラスボラ・ヘテロモルファという魚は、時には活発に運動しているが、また時によると二三十尾の群れが
エンゼルフィッシの子が数尾同じ槽にいるのを見ていると、一尾が徐々に上昇し始めるとほとんど同時に他の仲間も上昇を始める。しばらくしてどれかが下降し始めると他のものもまた相前後して下降する。お互いに合図するのかまねをするのか、それとも外界の物理的化学的条件に応じて機械的に反応しているのか、どちらだか自分にはわからない。ただ同じ魚の群れが共同的の動作をするという事実がおもしろい。
大きな水槽に性情を異にするいろいろな種類の魚を雑居させたのがある。そこではもはやこうした行動の一致は望まれないと見えて右往左往の混乱が永久に繰り返されている。これでは魚が疲れてしまいはせぬかと思って気になるようである。
交通があまりに発達して、世界が一つの水槽のようになってしまうと、その中に動いている国々も騒がしくなるはずである。
十一
毎週一回
ものを研究したり、創作したりしようとするには自動人形では間に合わない。それだけにこうした仕事にはいつでも危険が伴なうのであろう。
十二
もう十年も前から毎週一回
とにかく、その突然の変化の起こったのは
事実はとにかく、このような連関は鉄道省とそれを統率する内閣とが一つの有機体である以上可能なことである。
いつか自分の手指の
有機体ではいかなる
有機体の中にその有機系と全然無関係な細胞組織が何かの間違いでできることがある。やっかいな
国家という有機体にも時々癌腫が発生する。ひどくなると国家を殺すが、多くの場合に、その癌細胞自身も結局共倒れになって死んでしまうようである。
癌のやっかいなことは外科手術で切り取ってもすぐお代わりが芽を出す。また手術をすると生命がなくなることもある。
癌の発生する原因がまだよくわからないように国家の癌の発生する真因がまだよく突きとめられていない。それがわからなくては根本的な治療や予防はできるはずがない。癌研究所と同様に国家癌の科学的研究所の設立も今日の国家の急務であるかもしれないのである。
十三
九月中旬になって東京の街路を飾るプラタヌスの並み木が何か思い出しでもしたように新しい芽を出している。老衰して黒っぽくなりその上に
いつであったか、街燈の照明の影響でこの木の黄葉落葉に遅速があるということが、どこかの通俗科学雑誌の紙上で問題になったことがあるように記憶するが、しかし現在の新芽の場合では、街燈との関係はどうもあまりはっきりしないようである。
この銀杏でもプラタヌスでも、やはり一種の生物であってみれば、ただの無機物のようにそうそう簡単でないのはむしろ当然のことであろう。
それはとにかく、こんなちょっとした例を見ただけでも、環境の作用だけで「人間」を一色にしようとする努力が無効なものである、という、その平凡な事実の奥底には、普通政治家・教育家・宗教家たちの考えているとはかなり違った、自然科学的な問題が伏在していることが想像されるようである。
(昭和九年十一月、中央公論)