一 花火
一月二十六日の祝日の午後三時頃に、私はただあてもなく日本橋から京橋の方へあの新開のバラック通りを歩いていた。朝よく晴れていた空は、いつの間にかすっかり曇って、湿りを帯びた弱い南の風が吹いていた。丸の内の方の空にあたって、時々花火が上がっているので、上がる度に気を付けて見ていた。ちょうど中橋広小路の辺へ来た時に、上がったのは、いつものただの簡単な昼花火とはちがって、よほど複雑な仕掛のものであった。先ず親玉から子玉が生れ、その子玉から孫玉が出て、それからまた
京橋の上まで来て、堀に沿うて東の方を見ると、向うの
行ってみると、堀の真中に、かなり大きな船が一艘つなぎ留めてあって、そこが花火の打ち上げ場になっているのである。なるほど、こうして河の真中でやっていれば、いかに東京人でも、そうそう傍まで押しかけて
船首から船長の三分の一くらいのところに当って、横に張り渡した横木に大小四本の円筒が並べて垂直に固定してある。筒の外側はアルミニウムペイントで御化粧をしてあるが、金属製だかどうだか見ただけでは分らない。昔は花火の筒と云えば、木筒に竹のたがを幾重となく鉢巻きしたのを使ったものだが、さすがに今ではもうそんなものは使わないと見える。第一その筒の傍に立って、花火の打上げを担当している二人の技手からが、洋服に、スエター、半ズボンというハイカラな服装である。そうしてその二人のうちで船首の方に立っている一人は、立派な
始めに小さな包のようなものを筒口へ
だんだん目が馴れて来ると弾が上がって行く途中の経路を明瞭に認める事が出来る、そして破裂する時に、先ず一方へ
いちばん小さな筒と、その次のとが、最も頻繁に使われる。一発打ち上げたのの煙が、おおかた消える時分に、次のを上げるという順序であるが、筒の大小は変っても、上がるものはたいてい同じような平凡なのが多い。同じくらいの時間間隔を置いて連続的に五回の爆発をやるのがいちばん多いようであった。つづけて五回音がして空中へ五つの煙の団塊が団子のように並ぶだけと云わばそれまでのものである。
「音さえすりゃあ、いいんだね」「音さえすりゃあ、いいんだよ」、こんな事を云いながら、それでもやはり未練らしくいつまでも見物している職人の仲間もあった。見物している連中を見渡してみると、ほとんど労働者階級の人らしく、兵隊や女も少しはまじっていたが、いわゆる知識階級に属するらしい人は一人も見当らなかった。知識階級の人は、こういう種類の見物にはあまり興味を持たないのか、それとも、花火の技術や現象などはとうにもう知っているから、いまさらこんなところで見物する必要がないのか、そうではあるまい、むしろそんなものをぼんやり
五回の爆声の間の四つの時間間隔は決して一様にはならないものらしい。その長短がいろいろの偶然的なコンビネーションで起るのが先ず面白かった。それから五つの煙の塊が空中に描く屈曲した線が色々の星座のような形をして、またそれが垂直に近くなったり、水平に近く出たり、あるいは色々な角度に傾斜するのも面白かった。それらの塊が風に流されて行く間にだんだん相対的位置を変えて行くのが、上層の風の構造を示すものとして、特別な興味があった。かつて誰かが、ある関東の山の上で花火を上げて、高層気象の観測をやろうという提案をした事を思い出して、なるほどこれならば存外ものになりそうだと思いながら見ていた。
なお面白いのは一つ一つの煙の団塊の変形である。これがみな複雑な
五回に一回くらいは風船に旗を吊したものや、相撲や兵隊などの人形の出るのがあった。人形がゆらりゆらり
そのうちに一つ、いつもとはちがって円筒形をした玉を込めているので、今度は何か変ったものが出るだろうと注意して見ていた。打ち上げられた円筒は、迅速に旋転しながら昇って行ったが、開いたのを見ると、それは夜の花火によくあるような、傘形にあるいはしだれ柳のように空に天蓋を拡げるのであった。これについて一つ不審に思った事は、あれがどうしていつでも傘のように垂直線のまわりに
いちばん大きな筒の順番はなかなか廻って来なかった。かれこれ半時間の余も見ていたが、いっこうに
しかしとうとう、そのいちばん大きな筒が装填される時が来た。「今度は大きいぞ大きいぞ」と云う声が、群衆の中で、そこからもここからも起った。
かなり大きな音と共に飛び出した弾は、風の音を立てて昇って行って、突然開いた。
何が出るかと思って、緊張している、大勢の頭上の空中に、一団の大きな黄黒色のボアのような煙の団塊が一つ出来た。そしてただそれだけであった。煙は次第次第に乱れて拡散して、やがてただ
花火船の
船首の技手は筒の掃除をする。若い親方はプログラムを畳む。見物は思い思いに散って行った。散った跡の河岸に誰かが
いちばん大きな筒から打上げる花火は、いちばん面白いものでなければならない、という理窟はどこからも出て来ない訳であった。それでも、なんだか少し
そして、自分はこれまでに、これとよく似た幻滅を感じさせられた色々の場合を想い起しながら、またあてもなく、祝日の人通りに賑わう銀座の方へ歩いて行った。
二 ボーイ
A町を横に入った狭い
広いこの都会の、数多い洋食店の中でも、自分の注文に合うような家はまことに稀であった。高等な料理店へ行けば、室内も立派で清潔ではあるが、そこに集まって食事をしている人達が、あまりに自分とはかけ
そういう点で、自分の六かしい要求に比較的よくはまるのが、このA町の家であった。ここへは一団の政治界や経済界に羽をのして歩くようなえらい人達は来ないようであった。そうかと云ってあまり騒々しいぷろれたがり屋の酒呑み客も来なかった。来ている人は、もちろんどういう人か分らないが、何かしら少なくも自分と同じ世界のどこかに住んでいる人のような気がした。時々は家族連れの客も来ていたが、みんなつつましい、静かな人達のようであった。
食卓には、いつも、
ボーイはただ一人で間に合っていた。それは三十を少し越したくらいの男であった。いつでもちゃんとした礼装をして、頭髪を綺麗に分けて、顔を剃り立てて、どこの国の一流のレストランのボーイにもひけを取らないだけの
何もこの男に限らない事ではあるが、私はすべてのレストランのボーイというボーイの顔のどこかに潜んでいるある特別な表情を発見する事が出来ると思う。それは何と形容してよいか分らない。例えば従順と
それでも永い間の
あの大地震に次いで起った火災は、この洋食店の辺も残らず灰にしてしまった。一、二月もたって近辺にぽつぽつバラックが建ち並ぶようになった頃に、思い出して行ってみたが、その店はまだ焼跡のままであった。料理場の跡らしい
それから三月ほど後に、再びここを通ってみたら、いつの間にか、バラックが出来上がって、開業していた。
ボーイは居なかった。その代りに若い女ボーイが一人居た。大柄な肥った女で、近頃はやる何とかいう不思議な髪を
前のボーイはどうしたのだろう、聞いてみたいと思いながらもとうとう何も聞かずにそこを出た。
何だか少し物足りないような心持になって、そこらのバラックの街を歩いた。自分の頭の中にある狭い世の中の一角が、それは小さな一角ではあるが、永久に焼払われたような気がした。何故だろう。
今まであの店の部屋の古風な装飾なり、また
それからしばらくしてまた行ってみると、私の頭にはもうここに居なくなったはずの昔のボーイがちゃんと出て控えていた。聞いてみると病気で休んでいたというのである。私はいつもながらの自分の任意な空想に欺されたのだと思って
私は別に何事も深く尋ねてもみなかった。ただ地震当時の模様など聞いたばかりで帰って来た。
その後また行ってみると、今度はまた男ボーイは居ないで前の女がただ一人で給仕をつとめていた。あの男はまた病気でもしているのかと思って聞いてみると、先日からもう暇を取って、ここには居ないというのである。どうしてかと聞いてみると、よくは分らないが、何か間違いでも仕出かして、一度出されかかったのを、定客か誰かの仲裁で、再び元通りになっていた。しかしやはり工合が悪くて、結局自分でよしてしまったのであるらしい。
この事件の内容については、それきりで何事も自分には分らない。しかし、それは、もしあの大震災さえなければ起らなかったような事件ではなかったろうかという気がした。少なくも震災が事件の「引金」を引いたのではないかという、漠然とした想像をした。そして、この事はともかくも、今度の震災が動機となって起ったであろうと思われる、ありとあらゆる事件や葛藤、それらの犠牲となったさまざまな人達の事を、空想の
(大正十三年四月『中央公論』)