物質とエネルギー

寺田寅彦




 物には必ず物理がある。ここにいわゆる物とは何ぞや、直接間接に人間五感の対象となって万人その存在を認めあるいは認め得べきものを指す。故に幽霊はここにいわゆる物ではない。夢中の宝玉も物ではない。物理学者は通例物質とエネルギーという二つの物を認める。物質の定義が困難である。教科書などには質量を有するものとも書いてあるがこれは言葉を換えたに過ぎない。質量という考えを明らかにするにはどうしても力という考えを固めなければ工合ぐあいが悪い。力という言葉の起原はつまり人間の筋力の感覚から発達して来たものに相違ない。そうしてこの考えを押し拡げて吾人ごじんの身辺を囲繞いにょうするあらゆる変化を因果をもって律しようという了見から何かその変化の原因となるものを考えたいので、この原因に力という語を転用するに至ったのであろう。普通に云う力学上の力はすなわちいわゆる機械的の力で直接または間接に吾人の筋力と比較さるべきものである。これがある物に作用した時にこれが有限な加速度をもって運動すれば、その物はすなわち物質で質量を具えていると云う。その質量の大小は同じ力の働いた時の加速度に比例すると考えるのである。否むしろかくのごとき方則に従って力に反応する物を物質と名づけるのである。こういう考えで自然界の運動を解釈して矛盾するところがないので、力の考えはいよいよ明らかとなり質量の考えもいよいよ確かになる。この考えを更に押し拡め直接筋力と比較する事の出来ぬ種々の引力斥力を考えて森羅万象しんらばんしょうを整然たる規律の下に整理するのが物理学の主な仕事の一つである。
 力の考えから仕事の考えが導かれる。力の作用せる物が動けば力はその物に対して仕事をし、また仕事を受ける。その仕事は力と距離の相乗積で計る。これが現在力学の中の重要な Begriff の一つである。これはしかし力のごとき人間感覚に直接の交渉を有せぬ量であって、自然現象を整理するに便宜な尺度の一つと考えなければなるまい。仕事の考えが定まればエネルギーの考えはこれから導かれる。すなわち仕事をなす能をエネルギーと名づける。ある現象が起ってその間に甲が乙に仕事をしたとすれば甲はエネルギーをっていたと考え、その一部または全体が仕事として費やされたと考える。仕事を受けた方はまたそれだけのエネルギーを受取ったと考えてよい。これもまた一つの便宜上の Begriff であって自然その物はこの Begriff の中には少しも含まれておらぬのである。かくのごとく定めた energy なるものがあらゆる変化に際して総和において変らぬというのがいわゆる勢力エネルギー不滅則である。
 仕事と云いエネルギーと云うのはどこまでも人間特に物理学者が便宜上採用した観念である。力という語や速度という語が世俗に通じやすくて仕事エネルギーの解しにくいのはそのためである。このような観念の結合連鎖によって組み立てた力学物理学は吾人にとって非常に便宜なものであるが、しかしまたこの建設物が唯一な必然なものだとは信じられない。現在と全く異なった一つの力学系統を構成する事は不可能ではあるまい。現在の系統は一朝一夕に発達したものではなく、ガリレー以来ぜんを追うて発達して来たもので、種々な観念もだんだんに変遷し拡張されて来たものである。従って将来はまたどのような変化をし、またどのような新しい観念が採用されるようになるか、今日これを予言する事は困難である。
 光と名づけ音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺戟して万人その存在を認める。しかし「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味は尽されていない。昔ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルに到ってはこれをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播でんぱと考えられるに到った。その後アインスタイン一派は光の波状伝播を疑った。また現今の相対原理ではエーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に光の本体に関しては今日に到るもなんらの確かな事は知られぬのである。それにも関らず光が一種のエネルギーであるという考えは少しも動かされない。光がエネルギーをはこぶと考えると光のあらゆる物理的化学的性質を説明して矛盾するところがない。
 音の場合は光ほどむつかしくはないようである。この場合には音を搬ぶものが吾人の直接感覚し得る空気だからである。この場合には吾人は直接空気の振動を認める事が出来る。この音が伝わって行く際にエネルギーが搬ばれると考えると、少しも矛盾なく諸般の現象を説明する事が出来る。光は熱を生じ化学作用を起しまた圧力を及ぼして機械的の仕事をする。音も鼓膜を動かして仕事をし、また熱にも変ずる。しかるにのごとく搬ばれのごとく変化するエネルギーの本体は何物か。これは吾人の官能の外にあるものでつまり一つの観念ではあるまいか。物質の観念が未開人にもあるのにエネルギーの考えが俗人に通ぜぬのはそのためではあるまいか。
 こういう風に考えれば物質その物もまた分らぬものである。物質諸般の性質を説明するには物質がすべて分子原子から成立していると考える事が必要なばかりでなく、また分子の実在はブラウン運動等からみてももはや疑い難い事である。またこれら分子がまた原子から成立している事も疑いない事で、分子中における原子結合の状況についても各方面から推定を下す手掛りが出来ている。前世紀の末頃までは原子までで事が足りていたが、真空中放電の研究や放射能性物質の研究から更に原子の内部構造を考えなければならぬ破目になって、ここにエレクトロンなるものが発見される事になった。今日ではほとんどこの電子の実在を疑う者はない。放射性物質や真空放電の現象に止まらず、あらゆる方面にわたって電子によって始めて説明される新しい現象も発見さるるに至った。今日では電子の数をかぞえる事も出来る。各種物質の出す光のスペクトルの研究から原子内における電子の排列を探るような有様である。
 電子が一定量の陰電気を帯びている事、その質量が水素原子の質量のおよそ千八百分の一に当る事も種々の方面から推定される。かくのごとき電子の性質が次第に闡明せんめいされ、これが原子を構成する模様が明らかになる時が来ても、電子その物は何物ぞという疑問は残るのである。
 一体電子を借りなければ説明の出来ないような諸現象がまだ発見されず、物質の最小部分が原子だとして充分であった時代において、原子は更に一層微細なる部分より成ると論ずる人があったとすれば、その人は空想家か哲学者であって少なくも実験科学者ではない。実験科学は形而上学ではない。取扱うものは自然の経験的事実である。ある時代には物理学は事柄が如何に起るかという事を論ずるのみで、何故かという事は論じないという言葉が流行して、その真の意味が誤解された事があった。今日多くの物理学者に云わせれば、何故という言葉と如何にという詞も相去る事あまり遠くはないのである。如何にという事が分れば何故も分り、何故という事が明らかになればその結果は同時に「如何に」に対する答である。それで原子のみでは分らぬ現象が知られるに至って何故という問題が起り、その結果「如何にして」の答案が上述のごとき電子の出現となったのである。しかし科学者には没交渉であるはずの物の本性に立ち入ろうとする人間自然の欲求は更に電子は何かという疑問を発して止まぬのである。
 前世紀において電気は何物ぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。電気窃取罪の鑑定人として物理学者が法廷に立った事もある。二十世紀の今日においては電気の疑問が電子に移った。電子は連続的のものでなくて粒から成り立っている。一電子の有する電気以下の少量の電気はどこにも得る事が出来ぬ。あらゆる電気はこの微粒の整数倍であるという事になった。それで電気を盗むのはこの電子の莫大な粒数を盗むのである。そこでその電子は物質かエネルギーか。
 電子は質量を有するように見える。それで前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在は一体何によって知る事が出来るかというと、これと同様の物を近づけた時に相互間に作用する力で知られる。その力は間接に普通の機械力と比較する事が出来るものである。既に力を及ぼす以上これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかしこのエネルギーは電子のどこに潜んでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は荷電体エネルギーをその物の内部に認めず、却ってその物体の作用を及ぼす勢力範囲すなわちいわゆる電場に存するものと考えた。この考えは更に電波の現象によって確かめらるるに至った。この考えによれば電子の荷電のエネルギーは電子その物に存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。
 しかるに一方において荷電体が動く時はその周囲の電場を引連れて動く。その時この電場の運動のためにいわゆる磁場が起る、電流の通ずる針金の周囲に磁場を生じるのはすなわちこれである。かくのごとくして起る電磁場は一種の惰性を有する事が実験上から知られる、すなわち荷電体を動かし始める時には動くまいとし、動いているのを止める時には運動を続けようとする、丁度物質質量と同様な性質を有しているのである。質量の定義に従えば荷電体従って電子はそれが電気を帯びているために一種の質量を有すると云わなければならぬ。従って上の物質の定義に従えば、電気はすなわち物質と云わなければならない。但しその質量の少なくも一部分はその周囲電磁場のエネルギーに帰因するものである。しからばエネルギーはすなわち物質か。こういう疑問がおのずから起らぬを得ないのである。吾人が通例取り扱っている物質の質量なるものはその物の速度如何いかんによって変らない。しかるに荷電体の電磁的質量は速度よって変るものである。今電子の質量が純粋な電磁的のものかあるいは一部分は速度に無関係なものであるかという問題を決するには、速度種々に異なる電子が電磁場でその径路を変える模様を見れば分るはずであるので、カウフマン以後種々の人が精密な実験を行うたその結果は電子の質量はほとんど全部電磁的のものであるらしい。そうなると勢い吾人が従来物質の質量と考えているものも、やはり同様にことごとく電磁的なものでないかという疑いを起さざるを得ない。もしそうであらばエネルギーと物質とは打して一丸となり、物質すなわちエネルギーとなる訳である。しかしこの疑問はまだなかなか解決がつかぬ。陰電子とともに物質を構成しておりしかも物質質量の大部分をなしている陽電子なるものの性質本体がまだ分らぬうちは前途なお遠しと云わなければなるまい。
 物理学の根原は実験的の事実で、その基となるものは人間の五感である。しかし物理学の進歩するほどその基となる五感は閑却されて来るのである。昔の物理学では五感の立場から全く別物として取扱ったものがだんだん一緒になって来る。電波や熱や光やX線やγ線や、人間を離れて見れば全く同じ物で波の長さという事の外には本質的の差異を認めない。六十余種の原素もおそらくはただ陰陽電子の異なる排列に過ぎぬと考えられる。いよいよ進んで物質とエネルギーは一元に帰しようとする傾向さえ生じている。従来不可解の疑問たる万有引力なるものもまた光との間になんらかの連鎖をほのめかしているのである。
 物理の理の字は正にかくのごとき総括を意味するとも云える。直接五感に触れる万象をことごとく偶然と考えないとすれば、経験が蓄積するにつれて概括抽象が行われ箇々の方則を生じ、これらの方則が蓄積すれば更に一段上層の概括が起る。そうなればもはや人間というものは宇宙の片隅に忘れられてしまって、少数の観念と方則が独り幅を利かすようになって来るのである。しかもこの大系統は結局人間の産物であって人間現在の知識の範囲内にのみ行わるるものである。ポアンカレーは「方則は不変なりや」という奇問を発している。
(大正四年頃)





底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1985(昭和60)年7月5日第3刷発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
2016年2月25日修正
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