夏休みが終って残暑の幾日かが続いた後、一日二日強い雨でも降って、そしてからりと晴れたような朝、
ところが今年は病気をして外出が出来なくなった。二科会や院展も噂を聞くばかりで満足しなければならなかった。帝展の開会が間近くなっても病気は一向に
見ないものの批評が出来ようはずはない。と始めには考えたが、しばらくするとこの考えは少し変って来た。去年の秋一度逢ったきりで逢わない友達の批評をしたり、三年前に見た西洋を論じたりする人はいくらでもある。しかし誰もその不合理を
去年文展が帝展に変った時には大分色々の批評があった。ある人は面目を一新したと云って多大の希望をかけたようであり、またある人は別段の変りもないと云って落着いていた。前者は相に注目したのであり、後者は本質の事を云ったのであろう。今年も多少の相の変化はあるに相違ない。ある意味では変化し過ぎて困るかもしれない。何らの必然性のない
帝展というものに対する私の心像を眺める時に先ず眼につくのはあの竹の台の桜の紅葉で、その次には会場の前に並んだ美々しい自動車の群である。これがあの貧弱な会場の建築と対照して、そしてその中に陳列された美しいものに対するある予感を吹き込む。アリストクラシーないしブールジョアジーと芸術とのある関係を想わせる。この自動車と相対して、おそらく我が日本だけに特有な下足預り所なるものがある。「ステッキはコチラデスヨー」などという極めてプロレタリアンな声が、労働階級の細君ででもあるらしい下足番の口から響いて来る。それからあのいつもの
私の想像は無論群集に押されて第一室へ流れ込む。先ず何かしら大きな
二室三室と移って行くうちに、始めの緊張した心持は孔のあいた風船玉のようにしぼみ縮んで行く。そうして時々ちょっとしたスキルラやカリブディスに遭遇しても
批評でも書いてみようという成心を持っていない、通り一遍の観覧者の多数は、おそらくこういう感じを抱いて洋画の方へ移って行くに相違ない。新聞雑誌に現われる短評などにも随分こういう心持をそのままに云い表わしたのが多いように見える。それで多くの人の口からは「今年のもつまらない」という概括的な歎息がもらされる。出品者に取っておそらくこれほど残念な張合いのない事はあるまいと思う。こういう批評は恐ろしく無責任な冷酷なものとして神経過敏な出品者の不快な反感を買うかもしれない。しかしこの種の批評は必ずしも無責任とは云えない、ただ当然な事実の正直な告白に過ぎない。赤と緑の光を混じたものを見て灰色だというのはどうにもならない科学的の事実である。しかし全体の
かなりな作品があるのに観覧者の印象が空虚だとすれば罪は展覧会という無理な制度にあるのだろう。こういう意味で個人作品展覧会というものの有難味が今更のように深く味わわれる。
分光器にかけて分析した帝展の日本画が果してみんなそれぞれに充分
批評の態度には色々ある。批評家自身の芸術観から編み上げた至美至高の理想を詳細に
芸術の技巧に関する伝統が尊重された時代には、芸術の批評権といったようなものは主に芸術家自身か、さもなくば博学な美術考証家の手に保存されて、吾々素人は何か云いたくなる腹の虫を叱り付けていなければならなかった。ところが何時の間にか伝統の縄張りが朽ちて跡方もなくなって、普通選挙の広い野原が解放されてしまった。これはいい事だか悪い事だか見当が付かないが、ともかくもどうする事も出来ない事実である。
そうなると、批評というものの意味はもう昔とは大分違ったものになってしまう。民衆批評家は作品の客観的価値よりはむしろ自分の眼の批評をするのであり自分の要求を自白する、だから、自分さえ構わなければ何を云っても構わないと同時に、被批評者は何を云われても別に自分の信条に衝動を感じる必要はないかもしれない。
そういう民衆批評家の一人として何か云う前に自分の芸術観を内省してみた。
その内省の結果をここに告白しようとは思わないが、ただこれだけ云っておきたいと思う事がある。
絵画が
こういう立場から見た時にセザンヌやゴーホの価値が私には始めて明らかになると同時に、支那や日本の古来の名画までも今までとちがった光の下に新しく生きて来るような気がする。
こういう眼で見た帝展の日本画はどうであろう。美術院の絵画はどうであろう。完成を標準として見た時にあらの少ない絵はやはり大家の作に多いが、「強度」の大きい絵が却って割合に無名の若い作者のに多いという事はおそらく大多数の人の認めるところであろう。前者の例は差控える事にして、後者の例を試みに昨年の帝展から取ってみると、例えば「雪」という題で、二曲屏風一双に、枯枝に積った雪とその陰から覗く血のような椿とを描いたのがあった。描き方としては随分重苦しく厚ぼったいものである。軽妙な仕上げを生命とする一派の人の眼で見ればあるいは頭痛を催す種類のものかもしれない。それだけに作家の当該の自然に対する感じあるいはその自然の中に認めた生命が強い強度で表わされていると思った。それからまた「
「樹を描くにしても、画家自身がある度までその樹にならなくてはいけない。」こんな事をエマーソンに云った画家があった。この条件に及第する樹の画があるかと思ってみても「雪」の枯枝などがやはり先ず心に浮かぶ。
見ている自分が「その絵の中に
それにしても私にはどうして世間から承認された大家の作品の多くのものに共鳴が出来ないだろう。そういう絵の多くは実によく「完成」されている。そして題材の採り方もさすがに気が利いている。しかし大概の場合にしばらく見詰めているときっと何かしら一つの「見付けどころ」が見つかる。そしてなるほどと感心すると同時にあらゆる美しい夢は消えてしまう。何だか批評者がそれを見付けて、そして簡単な誰にも分る概念的な言葉で讃美するに恰好なような趣向や設計がありあり眼につく。それを見付けた時には丁度絵捜しをさがしあてたような理知的の満足は得られても、それから後は却ってその点ばかりが眼について仕方がない。これが暗礁になって私の美しい幻の船は難破してしまう。
私は作家が自覚してこのような絵をこしらえるとは思わない。しかし私の望むところは、そういう安直な見どころをむしろ故意になくするように
反対にけなしたくてもどこと云ってけなす点の見付からないほどつまらないと思う絵もないではない。例えば毎年必ず二つ三つはある、同じ樹の葉を百枚もかいたのや、同じ顔の人物を十人も並べたというだけのものである。そういう絵に限って大概価値と反比例に大きな壁面を占有していると思う事もあった。そういう絵はむしろ小形の下絵を陳列した方がいいかもしれない。私はある種の装飾的の絵は実際そうした方が審査員にも作家にもまた観賞者にも双方便宜ではないかと考えている。
このような色々の考えを人に話した時に、私は何でも新しいもの変ったものでさえあればいいとするもののように思われる事が多い。しかし事実はむしろ反対かもしれない。その証拠にはならないまでも、私はいわゆる新しい大和絵や歴史画を見ると、せっかく頭の中にもっている「過去」の幻影を無残に破壊される場合が多い。宗教や伝説や偉人やその他一般に過去を題材とした新しい画から「新しい昔の幻像」を吹き込まれた例を捜してみたが容易に思い出せない。帝展以外の方面もひっくるめてやっと思い出しのが
日本画部から受けた灰色の合成的印象をもって洋画部へはいって行くと、冬枯れの野から温室の熱帯樹林へはいって行くような気持がするのは私ばかりではあるまい。製作のミリウ〔milieu 環境〕がちがうとは云え、培養された風土民俗が違うとは云ってもあまりに著しい相違である。同じような原始的芸術から進化する途中に偶然分れた二つ道が幾千年の後に再びここに相会してお互いに驚き合っているような気もする。ソマトーゼを服用した人としなかった人が十年振りで逢ったようなところもあると、誰かが云った。
このような差違の生じた原因の進化論的考究や、両者の美学的価値の比較をここで並べようとは思わない。そういう
帝展の洋画については私はあまり取りたてて云うほどの変った考えを持ち合せない。それだけ私は全体として一種の軽い満足を感じているのかもしれない。大概の絵からはある程度の真面目さがうかがわれ、ある程度の同情が誘発される。日本画部では好きなのが
ただ不思議に思われるのは、今でもあの単に道徳上の功利的価値だけを目標とした歴史画や、最もバナールな〔banal 陳腐な〕題材を最もバナールな技巧で表現したというだけの無遠慮に大きな田園風俗画などや、一昔前の
そうかと云って一概に私は

明るく鮮やかであった白馬会時代を回想してみると、近年の洋画界の一面に妙に陰惨などす黒いしかもその中に一種の美しさをもったものの影が拡がって来るのを覚えるのは私ばかりではあるまい。古いドイツやスペインあたりを思わせるような空気が、最も新しい西欧芸術の香と混合してそこに一種のグロテスクに近いものが生れている。同じ事はある派の日本画についても云われる。
ロシアのバレー作家のマッシンがある人の問に答えて、「見玉え。今の世界の
こういう芸術上のグロテスクな傾向が、循環的に吾々の倫理思想や人生観に与える反応はどんなものであろうか。これもその方面の人々の深く考えてみるべき問題の一つではあるまいか。
彫刻部に関する私の心像は空虚である。ただ意味のありそうな表題と作物との関係を考えさせられるだけである。これは多分私が彫刻を全然理解しないためであろう。私には古いギリシアか仏像以外のものは分らない。ロダンでさえ分らないくらいである。それで帝展の彫刻から受取るものの総和はむしろやはり一種の怪奇の感だけである。
ここまで書いた時に私はふとあの有名な西郷の銅像や広瀬中佐の群像を想い出した。それと同時に、いつかスイスで某将軍の銅像を真赤に塗りつぶして捕えられ罰金を課せられた英国の学生の話を想い出した。……しかしこれは帝展とは何の関係もない事である。
これで筆を
「お前にはそれくらいものが丁度いいだろう」と云われればそれまでである。私はそれくらいの絵をいまだ発見しない。
(大正九年十一月『中央美術』)