安井氏の絵はだんだんに肩の凝りが解けて来たという気がする。同時にだんだん東洋人らしいところが出て来るように見える。もう一歩進むと結局南画のようなものに接近する可能性を持っているのではないかと思われる。あの裸体の少女でも、あれを少しどうかすると支那画の童子のような感じが出そうである。
そう云えば、すぐ隣りにある山下氏の絵にもやはり東洋人が顔を出している。雪景色の絵などはどこか
津田君の小品ではこの東洋人がむき出しに顔を出している訳である。
坂本氏の絵がかなり目立っている。これに対する向い側の壁に大分猛烈な絵が並んでいるので、コントラストの作用で一層この人の絵が静かに上品に見える。しかし自分には何だか完全に
ブラマンク張りの絵が
その他にも大分同類がある。同じ人で静物は甲の仏人、人物は乙の仏人といったように真似の使い分けをしているのもある。
この人の絵を見ていると、日常見馴れているものの中に潜んでいるグロテスクな分子を指摘される。天プラや、すしなどがあんなに恐ろしい鬼気をもって人に迫り得るという事を始めてこの画から教えられる。
このままでだんだんに進んで行くところまで行ったら意外な面白いところに到達する可能性があるかもしれない。
中川
院展もちょっと覗いてみた。
近藤
心臓もなければ脳味噌さえもない絵の多い事を残念に思う。もう少し数を減らせて、そして絵は下手でもいいから何かしら味のあるアマチュウアの絵でも加えたらどうであろうか。
大きな屏風に梅の化物を描いたのがある。実に不愉快な絵だと思う。不自然の醜さという事のデモンストラチオンに使用されるに恰好なものと思う。
ついでに仏展も見物する。
近代画家の絵には随分つまらないのや乱暴なのがあるが、しかしどんな変なものでもどこかのびやかな自由さを持っている。フランス人がフランス人の絵を描いているせいだろうかと思う。これを日本人が真似したところでそののびやかさ自由さが出るはずがない。素人にはこれほど自明的な事はないと思われる事が専門の画家にはどうして感ぜられないかという気がする。
モロオの絵がある。この人もオリジナルな人である。この人の習作や沢山の未成の絵を並べて、そして一夜漬けの模造品を雑作もなく塗り上げる人達に見せるのもいいかと思う。
ジョコンダの絵と、ルウベンスの模写が出ている。模写の出来る絵と出来ない絵とがあるとすれば、この二つはその代表者だと思う。ジョコンダの模写を見ると本物の価値が始めてよく分るし、ルウベンスの模写を見ると、ルウベンスの大幅が到る処のギャレリイにのさばっている理由が明白になると思う。
マイヨオルのものの見えないのが物足りない。何か訳があって出ないのではないかを心配する。フランス人と日本人との心持のピッタリ接触し得る接触点を示すものがマイヨオルのプラスティックであるかと思う。ロダンなどは、ほんとうは日本人に背中を向けておりはしないか。
マイヨオルの作品を見ると、人に見せよう展覧会に出そうという発表意識が少しも感ぜられない。作者が自分ですっかり目尻を下げているようなところがある。
これに反して、近頃の展覧会の多くの絵などは、作者が幕の陰にかくれていて、見物人の眼の色ばかり読んでいそうな気がする。そんな心持が少しでもあって、いい芸術が生れようとは思われない。見る人にとっても釣り込まれるような感興が起ろうはずはない。
思うままを備忘までに書いてみた、名前を挙げた画家達に礼を失するような事がありはしないかと思うが、素人の妄言として寛容を祈る。
(大正十四年十月『明星』)