一種の
この夫婦のように、深く相愛して愛におぼれず、堅く相信じて信に甘えないというのは、アメリカ人の目にはよほど珍しく目新しい一大発見として映ずるかもしれないが、日本人には実は少しも珍しくもなんともない、むしろ
江戸の言葉で粋と言ったのは現代語をもってしては説明のむつかしい言葉であり、外国語に訳そうとする場合には全く途方にくれる言葉である。しかしこの映画「影なき男」に現われた夫婦愛のソフィスティケーションの中にわれわれは江戸っ子の粋の反映のようなものを認めることはできないであろうか。
粋の精神はまた一面において
世界じゅうでいちばん「若い」アメリカ人が一九三〇年代の今ごろになって、いくらかこの俳諧の世界の存在に気づいて来たように見えるのははなはだ興味の深いことである。そうして、そのうちに本家の
日本映画人がかつてソビエト露国から俳諧的モンタージュの逆輸入を企て一時それに熱中したのはすでに周知の事実なのである。
前に見た「コンチネンタル」と同じく芸人フレッド・アステーアとジンジャー・ロジャースとの舞踊を主題とする音楽的喜劇である。はなはだたわいのないものである。これを見ていたとき、私のすぐ右側の席にいた四十男がずっと居眠りをつづけて、なんべんとなくその汗臭い頭を私の右肩にぶっつけようぶっつけようとしていた。全くこうした映画に全然興味をもとうという用意のない正直な観客には退屈至極な映画であろうと思われた。
しかし、私にはこのアステーア、ロジャースの踊りのデュエットは見ていてやっぱりおもしろい。自分は踊りの事は何も知らないし、ましてやこんな西洋の足踏み踊りなどいったいなんのことだかちっともわけがわからない。わけがわからないくせにやっぱりおもしろいのが不思議である。
この二人の踊りは見ていてちっともあぶなげがない。手でも足でも思い切り自由に伸ばしたり縮めたりしてはね回っているけれども、その運動の均衡が実に安定であって、非常によくバランスのとれた何かの複雑なエンジンの運転を見ているような不思議な快感がある。
二人の呼吸が実によく合っている。そこから生まれる効果は一プラス一が二になる代わりに三になり四になり十になるようである。同じようなことをしばしば
アステーアという男もロジャースという女もはじめのうちは変な男妙な女にしか見えなかったが、二人の踊りを見ているとだんだんに男が腹に強い力をもった男に見えて来るし、女が胸に美しい意気をもった女のように見えてくるから不思議なものである。
芸の力は恐ろしいものだと思う。しかし、またやっぱり腹と意気がなくては芸はできないものではないかと思うのである。
(昭和十年十月、渋柿)