疑惑

南部修太郎




――水野敬三より妻の藤子に宛てた手記――
 昨日、宵の内から降り出したしめやかな秋雨が、今日も硝子戸の外にけぶつてゐる。F――川の川音も高い。町を挾んだ丘の斜面の黄ばんだ木の葉の色も急に濃くなつたやうだ。J――峠から海の方へ展がる山坡に沿うて、雨を含んだ灰色の雲が躍るやうに千切れては飛び、飛んでは千切れて行く。海の沖には風が騷いでゐるのかも知れない。とに角私が此處へ來てから暗い空模樣が今日で五日も續いてゐるのだ。著いた日の夜出した繪葉書はもうお前の手に屆いたことと思ふ。が、夏の終りに病後の一月餘りを過した時の事を思ひ浮べて、此處の晴れ晴れしい秋空を想像してはいけない。ほんとに陰氣な、物寂しい日ばかりなのだから‥‥‥‥。
 藤子、もうすべてをお前に打ち明けてしまひたい。
 この長い手紙、と云ふよりもこの部厚な手記を前觸れもなく突然私の手から受け取つた時、お前がどんなに怪しんで胸を轟かすか、そして、またこの手記の一句一節を次第に辿つて行く時に、お前の心がどんなに痛み、どんなに悶えるか、それは私によく分つてゐる。が、この手記に書かれてゐる事柄をお前に打ち明けようとして、私が四月餘りをどんなに苦しみ、どんなに惱んで來たか、それはこの手記を讀んでみれば自然お前にも分るだらうと思ふが、きつとお前の痛み悶えと、その強さは少しも變らないに違ひない。全く、今かうして筆を持ちながらもその心持は私を息苦しくさへするのだ。
 此處へくる日の朝、私は『研究論文の想を纒めに、また體の疲れを休めに‥‥‥』と、かうお前に斷りを云つた。が、それは詐りだつた、口實だつた。全く、これだけは許して貰ひたい。私には纒むべき論文の想もない、また體の疲れを休めやうなどと云ふ心持もない。ただ暫くなりともお前から離れて、すべてを深く靜に省みて、そして、この手記をお前に書き與へよう爲めに此處へ來たのだつた。お前と始終顏を合せながら、それをとうとう詞では云ひ出す事の出來ない自分の弱さを、臆病さを知り盡したから‥‥‥‥。
 私はこの手記を庭に向いた靜かな自分の部屋の縁先で、或は私の書齋の搖り椅子に凭りながら、一人讀み續けて行くお前の姿を想像する。きつとお前の指先は顫へるだらう、お前の胸の動悸は高まるだらう、お前の顏色は青白く變るだらう、若しかしたらお前の眼から涙が抑へても抑へきれぬやうに染み出すだらう。それを思ふと私の心は暗くなる、筆を動かす手先もすくんでしまふ。何故なら私が此處に書かうとする事柄に就いて、お前は何にも知らないのだから、いや、例へ知つてゐても、恐らく今のお前の胸からは美しく忘れ去られてゐる事なのだから‥‥‥。それをお前にかうして打ち明ける、お前の心を亂だす、お前の胸を苦しめる。その自分の殘酷さ、男らしい堅い沈默に堪へ得ない自分の薄志、私は決してそれを知つてゐないのではない。知つてゐるからこそ今まで苦しんで來たのだ。
 が、藤子、私を堅く信じてくれ。
 きつとこの手記はお前を苦しめ惱ますに違ひないのだ。然し、この手記を書く私は、決してお前を憎んではゐない。恨んではゐない、怒つてはゐない。またお前を責める心や、苦しめる心は少しもないので。そして私を堅く信じてくれ――と云ふやうに、私もお前を堅く信じてゐる。お前が、結婚後の私に對するお前が、私に捧げてくれた心と體、その中に籠められた愛の至純さを私はよく知つてゐる。そのすべてを信じ、且つ知つてゐるだけに、私はこの手記をお前に書き與へずにはゐられないのだ。自分の薄志と云つた、自分の弱さと云つた。が、私は決してこれをぢつと胸に包んで置けない事はない。飽くまでもお前に秘め隱す、そしてお前を苦しめず惱ませずに置く事も出來る。然し、それは夫婦生活の何と云ふ虚僞だらう。何と云ふ堪へ難い隙間だらう。その虚僞と隙間の意識が何物よりも私には苦痛なのだ。私はその虚僞を碎きたい、その隙間をしつくりと埋めてしまひたい。その爲めに私はこの手記をお前に書き與へようとするのだ。
 お前はただこれを讀んでくれれば好い。そして、心に堅く頷いてくれれば好い。お前自身がこの手記に答へたくなかつたら、別に答へを待つ事も私はしない。また答へてくれたら、私は快くそれを受けるだらう。が、例へこの手記を讀んでどんなに苦しみ悶えようとも、それは直ぐに忘れてくれ。ただ、この中に書く事柄を心に堅く頷いてさへくれれば私は滿足なのだから‥‥‥。それだけで私とお前の夫婦生活は眞實の上に成り立つに違ひないのだから‥‥‥‥。
 繰り返して言ふ、飽くまでも堅く私を信じてゐてくれ。現在も、未來も、そしてまた、過去も‥‥‥‥。

 日光が燒けつくやうに硝子窓に燃えてゐた八月の三日、さう思ふと、もう今日までに四月近かくの時が過ぎ去つてゐる。[#「過ぎ去つてゐる。」は底本では「過ぎ去つてゐる」]ほんとうに思ひ巡らす月日の短かさだ。
 その日の眞晝近く、地上のすべての事物は、人も、樹木も、家屋も、電柱も、また砂にまぎれる小蟻さへも、息を途絶えさすやうな劇しい暑さに疲れ果てて、ぢつと聲をひそめて立つてゐるやうに思はれるその眞晝近く、私は理科大學研究室の窓際の机に向つて、一所懸命に蘭科植物の葉色素研究の爲めに顯微鏡を覗き込んでゐた。そよとの風もない部屋の蒸暑さ、窓の向うに見える緑の深い銀杏の並木さへ葉をうなだれてゐたが、私の感覺はただ顯微鏡の小さな孔から映つてくる鬼蘭の、青い格子縞のやうな纖維に集中されてゐた。
『水野先生、お宅からお電話です‥‥‥』と、その時、不意に私の耳元に響いた小使の聲はどんなに私の心を驚かせただらう。その電話の知らせが、やがてお前のあの險惡な急性盲腸炎を呼び起す、體の異状を私に告げたのだつた。
 お前は日頃健康な質だつた。で、その日も、その翌日も、檢温器の示すお前の體の高い熱や、またお前の訴へる腹部の痛みを單純な膓加答兒ぐらゐに思ひ過して、お前自身も私も深くは氣に留めなかつた。それがどうだつたらう、そのまた翌日の朝になつても鎭まらない病勢の、而もお前の訴へる苦惱が急に異樣に劇しくなつて來たので、驚いてT――醫師を呼んだのだ。
『急性盲膓炎です。而も、少し手遲れ氣味です‥‥‥』と、その時、若いT――醫師も醫師らしくもなく態度の冷靜さを失つて、私にかう告げたのだつた。私もその物々しさに度を失はずにはゐられなかつた。が、實際にお前の生命はもう或る危險界に迫つてゐた。
 それから、私の友達のあの水島醫學士が外科主任をしてゐる、家の近くのS――病院へ、お前の母や、私の兄の謙一と一緒にお前をあわただしく擔架で運び込むまで、もう殆ど高熱に半ば意識を失ひながら、紫ずんだ脣から囈言のやうに苦しみを訴へてゐるお前を見詰めて、私はまるで自分の意識までを引つ掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)されるやうな焦燥と戰ひ、お前の生命に對する不安と爭つてゐたのだつた。
『手術の結果如何だが、とに角、盡すだけは盡してみよう‥‥‥』と、内科の瀧口博士と共にお前を一わたり診察し終つた時、水島はさうした頼りない詞を私に囁いて、お前の爲に寸刻を爭ふ手術の準備を整へに、手術室へ急いだのだ。
『餘程惡い御容態です。何しろ盲膓の半分は化膿してゐるやうですからね。無論、手術の效果次第ですが、或る程度のお覺悟は必要です‥‥‥』と、水島に續いて瀧口博士は私と兄を病室の廊下まで連れ出して、低く落ち着いた、然し、其處に一種の緊張感を持つた聲で、かう告げたのだ。その、或る程度のお覺悟――と云ふ、まるで鐵槌をいきなり眞面まともから打ち降されたやうな詞に、私の頭は混亂した。もう絶望だ――と、私は直ぐに考へてしまつたのだ。
『そんなに氣を落さんでも好い。まだ希望はあるのだ‥‥‥』と、兄は冷靜な態度で私を慰めてくれた。
『その希望が‥‥‥』と、私は直ぐに答へ返した。が、聲は無意識に顫へてゐた。
『馬鹿な事を、醫者が重病人に對してああ云ふのは一種の策略ポリシイだ。さう人間は生易しく死ぬものぢやない。大丈夫だ、己が保證する‥‥‥』と、兄は直ぐに私の詞にかう被せた。私にはその落ち着き拂つた樣子が小憎らしくさへ見えた。
『とに角、かうなつてはすべてが運だ。が、好い運に信頼するが好い‥‥‥』と、兄はかうでも云ひたいやうな表情を浮べて、ぢつと私を見返してゐた。
 二人はそのまま病室へ這入つた。[#「這入つた。」は底本では「這入つた、」]
 全く、今考へてみれば、私は餘に危急な出來事のすべてに氣を轉倒されてゐたのだ。平生丈夫なお前がそんな短い時間の内に、そんな思ひ掛けない宣言を與へられる。そして、堪らなく不安な氣持をそそられる手術を受ける。それが氣の弱い、感じ易い、物事に單純過ぎる、人間的な苦悶を知らないお坊ちやん育ちの私だから、もう一圖に醫師の詞に脅かされてしまつたのだ。それでなくとも、やつと三年目に近づいたばかりのお前との結婚生活を平穩に樂しんでゐる時代だつたから、お前の身に突然振りかかつて來たその不幸は、私に對してもいきなり拔身を突きつけられたやうな恐怖を與へたのだ。で、實際以上にすべては誇張されて映つて來た。そして、二人の結婚生活の幸福が當然お前の死に依つて破壞されてしまふのだと信じ切つてしまつたのだつた。
 病室へ這入ると、お前の母が老年の近い小皺の寄つた顏を土氣色にして、釣り上つたやうな眼でぢつとお前の顏を見詰めてゐる姿が、私の胸を衝いた。その母も、流石に兄も、私も、そして附添ふ若い一人の看護婦も、高い熱でさらさらに乾いた灰のやうなお前の顏色を見、夢中の口から洩れる呻き聲を聞いた時、お前の上に嚴かに死が迫らうとしてあるやうな豫感に打たれて、堅く口を噤んでしまつた。そして、消毒藥の何處となく漂ふ病室の中はお前の呻き聲に靜寂が破られるだけだつた。それに窓から見える病院の芝生の庭には一昨日のやうに、昨日のやうに、ぎらぎらした午後の太陽が照りつけ、處々に咲く松葉牡丹の花が陽炎の中に燃えるやうな紅を映してゐる、動く物一つない靜けさだ。
 私はむつと熱いいきれの鼻を打つお前の枕元に近附いて、時々痙攣するやうに動いてゐるお前の手を堅く執つた。丁度、死の爲めにもぎ去られて行かうとするお前を自分の手で守らうとするやうに‥‥‥。が、お前の掌はじつとりと汗ばみ、其處から傳はつてくる體熱はお前の體を燒き盡さうとでもするやうに強かつた。あつふあつふと生ら暖い吐息が私の顏に感じられた。お前の口は半分明け放たれ、齒並の奧に白苔の生えた舌が縺れてゐた。
『どうかして下さい。痛、痛つ‥‥‥』と、その時お前は顏を歪めて、敷布シイツの上にのけぞりながら身もがきした。私は我知らず顏を反けずにはゐられなかつた。そんなお前のしどけない姿を、醜い澁面グリメエスを私は今まで見た事がなかつたのだ。そして、病氣がお前の日頃のつつましやかな、物靜かな、内氣な物ごしのすべてを毀してしまつた幻滅をふと感じた。實際、お前の訴へてゐる苦惱と、またお前の生死に對する不安とに殆ど意識を困迷させられてゐながら、どうしてそんな冷たい心の隙間が私の心に出來たか。とに角、掛布を速にお前の胸に覆ひながら、滑り落ちた氷嚢をお前の額に置きながら、さうしたお前を母や兄や看護婦達にまざまざしく見詰められる事が私には苦しかつた。
『お動きなすつてはいけません。もう少しで御座います。お體に障ります‥‥‥』と、同時に看護婦はお前の耳元に囁いた。
『痛、痛つ‥‥‥』と、お前はまた夢中で叫んで、敷布を撥ねのけた。
 手術前の體の消毒の爲めに運搬車が來て、一先づお前を消毒室へ運び去つて行つた時、急に呻き聲の消えた靜かな病室の中に、私は兄とお前の母と顏を見合せてぢつと押し默つてしまつた。お前の姿が眼の前から消え去つた事、それは私の心に或る幽かなゆとりを與へた。と同時に、今まで自分の胸にくるめいてゐた不安や焦燥や苦惱が人力以上の物に支配されてゐるお前の生死に對して、何等の力にも何等のたしにもなり得ないやうな心持になつた。なるやうにしかならないと云ふ宿命的な考へと、なるやうになつてしまへと云ふ或る輕い絶望の氣持が、私の胸を幽かに落ち着かせたのだつた。そして、また其處に兄の詞がさつき暗示したやうな希望が、萬が一と云ふ希望が遠くからだんだん明るく、力強く近附いてくるやうにも感じられた。
『平生丈夫だから、大丈夫なやうな氣もしますね‥‥‥』と、ふと私は兄を見上げて云つた。兄は窓際によつてぎらぎらと輝いてゐる夏空を見上げてゐたのだ。
『大丈夫だ‥‥‥』と、兄は力強く答へた。
 心痛と不安とで人心地もなかつた、お前の母は、その兄の詞を聞いて顏を和らげたやうだつた。が、そのままお前の身を案じるやうに消毒室の方へ出て行つた。
 と、其處へ手術室の準備を終つたらしい水島があわたゞしく這入つて來た。
『消毒が濟んだら直ぐに取り掛かるよ‥‥‥』と水島は云つた。愈※(二の字点、1-2-22)だ――と云ふ衝撃シヨツクが私をぎくりとさせた。
『そりやあさうと手術には立ち會へまいか‥‥‥』と、私はお前一人を恐ろしい手術室に閉ぢ込められてしまふ不安を急に感じて云つた。
『さ、それは止めたが好い。そして、僕達を信じてゐてくれ給へ‥‥‥』と、水島は直ぐに遮つた。
『何故だ‥‥‥‥』
『一體病院の規定から云つてもそれは禁じてある。と云ふのは、手術と云ふものは、あんまり氣持の好いものぢやない。だから、可成り氣の強い人でも素人は平氣で見てはゐられない。大概腦貧血を起すか、目を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すかだ。ひどいのになると、穢い話だが嘔吐を催す。そんな事になると、手術以外に立會人の介抱で一騷ぎしなければならないからね‥‥‥』
『然う、僕にはそんな事はあるまい。是非立ち會はせてくれ‥‥‥‥』
『さ、それが、大抵の人がさう云ふんだ‥‥‥‥』
『だが、僕は爲事の點から云つても、それには少し慣れてゐる積りだ‥‥‥‥』
『うむ、とに角君の妻君の生死に係る事だからそれは無理もないがね。まあ考へて見給へ。君の妻君のおなかから血みどろの海鼠綿みたいなものを切り出すんだぜ‥‥‥‥』
『何、大丈夫だ‥‥‥』と、私はかさに掛かつて云ひ張つた。そして、とうとうお前の手術に立ち會はせて貰ふ事にしたのだつた。
『ぢや、とに角僕の顏に免じて‥‥‥』と、水島は頷きながらまた病室を出て行つてしまつた。
『ほんとに大丈夫か‥‥‥』と、傍でぢつと水島と私の對話を聞いてゐた兄は云つた。
『そんな、兄さん‥‥‥』と、私は輕く冷笑し返すやうな氣持で答へた。
 が、血みどろの海鼠綿と云つた水島の詞は、押し隱してはゐたが、私を何とも云へない或る恐怖の中に投げ込んだ。そして、ぢつと眼をふさいで椅子に身を凭せてゐると、まだ手術室に這入り込まない先からお前の手術の場面シインがまざまざと眼の前にちらついてくる。と、足先からかう百足むかでにでも這はれてゐるやうな戰慄が總身に傳はつて來て、頭の中がぐらぐらしてくるやうな、厭な氣持に襲はれたのだつた。全く、お前のゴムのやうな腹部の白い皮膚をメスの銀色の刄が鍵形にすつと撫でて行く、丁度チキンの肉を裂きでもするやうに‥‥‥。と、どす黒い血がさつと染み出てくるだらう。次の瞬間にはその開いた傷口にピンセツトと鋏とがす早く入り交るだらう。そして、血みどろの海鼠綿が――と、動かないでも好い想像が變に調子づいて私の頭の中を動いて行くのだつた。
『さうだ、思ひ切らう。そして、水島を水島の冴えた腕を信じよう‥‥‥』と、私は無氣味な想像の壓迫に堪へられなくなつて、かう考へた。
『が、若しかして手術の時間に心臟麻痺でも起してしまつたら‥‥‥』と、又かう思ひ返してみると、お前の生命に對する不安がぐんぐん胸に迫つて來たのだつた。それでなくとも、例へお前が夢中でゐたにしても、若しひよつと意識が眼覺めて來て手術室の冷かさを、また手術そのものの恐怖を感じた時、少くともお前には他人の醫師以外の人の影を見なかつたとしたら――と考へてくると、私はどうしても其場に立會はずにはゐられないやうな要求に動かされて來た。
 私は口を噤んで、お前の脱殼になつた寢臺の白い敷布を見詰めながら、心の中で暫くこの二面と爭ひ合つてゐた。が、一つは自分自身の爲めの感情、一つはお前の爲めの感情、その何れが必然でならないかはだんだんに私の頭に明かになつた。
『もう、直ぐに手術でございますから‥‥‥』と、やがてかう中年の看護婦長が知らせて來たが、私は直ぐに決心して立ち上つた。
『氣を附けるが好いぞ‥‥‥』と兄は背後からぐつと抑へつけるやうな聲で云つた。
 窓硝子を堅く鎖してしまつた手術室の中は、夏の午後のむれ返るやうな熱氣で、息が抑へられるやうだつた。が、折からの窓の西日影を薄茶色のカアテンで遮つた室内の薄暗さが、白壁と、コンクリイトの床と、エナメル塗の手術室と、銀色の外科用具と、まつ白なガアゼや脱脂綿と、酸いやうな匂ひのする消毒藥と、また其處に動いてゐる若い三人の助手や看護婦長や看護婦達の白の著附、無表情な顏――さうした感情的な何物もない、冷靜、清淨、精緻、明確その物のやうな存在物と共に、心を底冷えさせてしまふやうな空氣をあたりに漂はせてゐたのだつた。
『ほんとに大丈夫だらうね‥‥‥』と、消毒著に著換へた私が其處に這入つて手術臺に面した窓際に立つた時、メスの刄を調べてゐた水島はかちりとそれを硝子臺の上に置いて、また低い聲でかう私に耳打ちした。
『いや、決して案じないで好いよ‥‥‥』と、私は總身に一種の緊張感を感じながら答へた。と、助手の一人がその聲にひよいと聽耳を立てて、私の顏に意味ありげな視線を投げた。が、全くの處、私はその詞に確信を持つてゐたのだ。そして、もう如何とも仕難い數分間の内に迫つたお前の手術に對して、例へそれがどんなに凄慘な場面シインを展開させようと、また例へその爲めにお前の生命がどう云ふ結果にならうと、私は自分の理性が、いや意志が、堅固に自分を支配して行くに違ひない事を信じてゐたのだ。
『ふむ、それで僕も安心だ‥‥‥』と、水島はその額の廣い、端嚴な理智の勝つた顏で頷きながらかう云つた。私は、お前の生命を當然左右し得る立場にゐる水島の、その落ち着き拂つた態度に一種の尊敬の念と心強さを感ぜずにはゐられなかつた。
『然うね水野君、これも前以て注意して置きたい事だが、手術を受ける患者はコロロホルムの麻醉期に這入ると、大概の場合歌を唄ひ出したり、囈言を云つたりするものだ。藤子さんはどうだか知らないが、これにも驚いちや好けないぜ‥‥‥』と、また水島は云つた。
『ふうん、そんな事があるかね‥‥‥』と、私はお前が歌を唄ひ出したりする瞬間の想像に、ひよいと幽かなをかしさを感じながら呟いた。と、傍の助手の二人が顏を見合せながらにやりと微笑うて、私を見返つた。
『あるとも、一昨日なんか骨膜炎の手術を受けた老人がね、義太夫を唸り出す騷ぎだつたよ‥‥‥』と、水島は相變らず冷靜な顏附で云つた。そして、助手の一人が幽かな笑聲を立てたのを責めるやうにぢつと見詰めた。
『ほお‥‥‥』と、我知らず答へた時、私は總身の緊張感もほぐれたやうな、またお前の身に迫る次の危急な瞬間も忘れてしまつたやうな、その場合には餘にそぐはない心の弛みを感じて、水島の顏を見返した。が、水島は床に眼を落して、兩手を背中に組んだまま、靜に歩調を取つて窓際を往き來しながら振り向かうともしなかつた。と、急に私は、ひどく嚴肅に、ひどく重大に考へてゐた手術と云ふ事柄に對して、或る期待を裏切られたやうな拍子拔けの氣持を意識せずにはゐられなかつた。そして、何氣なく顏を上げて正面の壁を見詰めた時、其處に掛かつてゐる小形の角時計が四時七分を示してゐるのに氣附いた。私はひよいと或る空虚うつろを心の中に意識せずにはゐられなかつた。
 が、お前を載せた運搬車のゴム輪の軋りが[#「軋りが」は底本では「軌りが」]廊下に聞えた次の瞬間に、私の體はまた水を浴びせられたやうに戰いた。そして、その戰きを抑へながらぢつと不安の眼を見開いてゐる私の前に、白の手術著を著せられたお前は半ば意識を失つたまま手術臺の上に寢かされたのだつた。水島はお前の胸に一わたり聽診器を當てた。忽ちマスクがお前の顏を覆つた。と、一人の助手はコロロホルムの滴壜を持つた。二人の助手は左右からお前の手の脈搏を數へ出した。
『私について數を數へて下さい‥‥‥』と、滴壜を手にした助手は、命令するやうな句調でお前の耳元に囁いた。お前は幽かに頷いた。
『一‥‥‥』と、その助手が太い、バスの聲で叫んだ。
『一‥‥‥』と、お前は低い、けれどはつきりした聲で助手の聲を追つた。
『二‥‥‥』と、間を置いてまた助手が云つた。
『二‥‥‥』と、お前はそれに續けた。
 水島は傍の置時計を見詰めながら、お前の聲に聽き入つてゐた。
 私はもう身動きする事も許されないやうな氣持で窓際に佇んで、助手の間に見えるお前の顏に喰ひ込むやうな視線を投げてゐた。そして、抑へようとすればする程ぴくぴく顫へ出してくる脣を噛みながら、お前の、まるで穴の底から反響してくるとでも云ひたい、陰氣な餘韻を殘して行く数へ聲に引き寄せられて、二、三、四、五‥‥‥と口の中で追ひ續けてゐたのだつた。と、喘いでゐたお前の息は丁度臨終の迫つた病人のやうに和いで來、鎭まつて行き、段々に間遠になつて、時々深い吐息がお前の白い咽喉首を脹らました。同時に數へる聲も次第に力を失つて行き、明瞭さを薄くして、助手の力強いバスの聲の響が高まつて行くのとは反對に、數が十、十一と重なるにつれて弱くかまれて行くのだつた。
『ふつ‥‥‥』と、私は我知らず吐息づいて、その吐息を感じてひよいと振り向いた水島と視線をかち合はせた。水島の顏はまるで彫刻のやうに嚴かに、冷かに見えた。眼には私の胸に最高音のリズムを打つて蘇つて來た不安を、恐怖を見通すやうな鋭さがあつた。私は自分を胡魔化すやうに視線を反らした。と、その視線がまた左手を執つてゐた助手の背後にゐる看護婦長の、盛りを過ぎた女の、とろんと濁つた眼とぶつかつた。それをあわてて反らすと同時に、『十七‥‥‥』と、助手が叫んだ。
『十七‥‥‥』と、それに習つたお前の聲は、もうその時『ふうち‥‥‥』と呟いたやうに細く、ぼやけてゐた。
 と、それに續いた靜けさの中に、遠くの空を流れて行く、何處とも知れない工場の鈍い汽笛が、私の耳を掠めて行つた。そして、それが私の意識をこぼれるやうにすつと外に誘つたかと思うと、同時に助手の聲が『十八‥‥‥』と、高く響いた。意識が小波を打つて輕く途惑つた。が、再びはつきりそれが手術室の中に歸つて、お前の習ふ聲を待ち構へた時、私はそれに代る自分の胸の動悸を聞いた。部屋はしんとなつた。動悸が急に高くなつたやうな氣がした。眼はお前の顏の上にす早く走つた。と、間もなく、お前は『十六‥‥‥』と呟やいた。水島は滴壜とマスクの上に支へた助手と、ひよいと顏を見合せた。
來たねシユラアフ・ズヒテン‥‥‥』と、水島は小聲で云つた。
『十九‥‥‥』と、助手は水島の詞に幽かに頷いて、急に力を込めた聲で數を讀んだ。
『十九‥‥‥』と、長い間を置いて、お前はやつと『九』が聞えるばかりのか細い聲で續けて、深い息を吸つた。
プルスは‥‥‥』と、また水島はきらりと眼を光らせて囁いた。
九十三ドライ・ノインチツヒ‥‥‥』と、お前の右手を支へてゐた助手が答へた。
 私は窓際から我知らず一歩程體を前に進めて、その助手の傍に立つて、ぢつとお前の體を覗き込んだ。と、お前の息は殆ど絶えてしまつたかと思はれるやうに幽かに間遠になり、マスクの周圍に見えてゐる頬や額にはほのかな血の赤みが差してゐた。そして、病室にゐた間の身もがきも、無意識な手足の動きもすつかり止んで、まるで安らかな眠りが來たやうに、冷かな死がすべてを支配してしまつたやうに、お前は手術臺の上に横はつてゐたのだつた。
『昏睡‥‥‥』と、水島を顧みた、私の聲は顫へてゐた。
『ふむ、丁度それに這入りかけた處だ‥‥‥』と、水島は靜に頷いた。
 そのお前を、もう病氣の苦痛も生死の不安も、忘れたやうな、いや人間すべての意識から斷たれてしまつたやうなお前をぢつと見詰めてゐると、私の體ぢうの筋肉は痛い程張り、神經は冴え、感情は鋭くなり、髮の毛一本に突つかれても劇しい衝撃シヨツクを受けさうな心持がした。そして、手術に對する恐怖やお前の生死に對する懸念を離れて、ただ次から次へと迫つてくる瞬間が何とも云へない強い力で私の心を脅かすのであつた。
『二十三‥‥‥』
『二十三‥‥‥』
『二十四‥‥‥』と、助手が勵ますやうに聲を高めた。
『――四‥‥‥』と、語尾の漸く聞き取れるばかりのお前の聲はその時もうけだるく、力を失つたものだつた。
『二十五‥‥‥』と、續いて助手の聲は手術室の靜かな空氣を高く貫いた。
と、其處に何秒間かの沈默が來た。お前はもう答へなかつた。ただ幽かな息の音がマスクの下に感じられた。そして、更に聲高な助手の『二十六、二十七‥‥‥』にもお前の聽覺は何等の反響を感じないやうに見えた。深い昏睡がお前の上に來たのだ。水島は靜かにお前に近づいて瞳孔を調べた。その眼は助手の顏の上に、續いて銀色のメスやピンセツトの上にす早く動いて行つた。
 瞬間、しんとした室内の七人の人影は臥像のやうなお前を取り卷いて、ぢつと佇んだ。嵐の前のやうな靜寂がふと其處に來たのだつた。が、助手は再び滴壜を傾けてマスクの上にコロロホルムを滴らしながら、脣をお前の耳元に近づけて『二十八‥‥‥』と叫んだ。然し、其處にはお前の間遠な息が靜に聞えてゐるばかりだつた。
 何秒間かが息を抑へるやうな靜けさの内に流れて行つた。
と、次の刹那に、お前の顏を覆つたマスクが忽にふはふはと動き出したのに驚く隙もなかつた。
『庭の千草も‥‥‥』と、お前は突然唄ひ出したのだつた。その聲は今までの數へ聲をすつかり裏切つてしまふ程高く、澄んでゐた。そして、その歌はお前が家にゐる時好んで口ずさむあの歌だつた。私は我知らずぎよつとして、コンクリイトの床に堅く足を踏ひ著けて身構へた。途端に水島は『どうだ‥‥‥』と云つたやうな表情を浮べて、私を見返つたのだつた。
 が、お前の歌聲は直ぐに途切れた。途切れた隙に私は思はず息を呑んだ。と、脣の痙攣するやうな動きにつれて、マスクが落ちかかつた。助手はそれをあわてて支へた。その間もなく、急に或る感動に迫られたやうな、而も今までの私が決して聞かなかつたやうな、はつきりした鋭い聲でお前は何かを喋舌り始めた。無論、お前の體は死人のやうに横はつてゐて、口だけが動いてゐるのだ。が、その詞は暫く何の意味をもなしてゐなかつた。
『いいえ、いいえ‥‥‥あの晩‥‥‥苦しい‥‥‥考へましたわ‥‥‥貞雄さん‥‥‥お詞は‥‥‥お詞は‥‥‥愛する‥‥‥けど、けど‥‥‥無理‥‥‥辛い‥‥‥どんなに苦しんだか‥‥‥』と、實際その途切れ/\の詞がお前の脣から洩れてゐるのか、それともお前の脣の中に何かが隱れてゐてそれをお前に云はせてゐるのか、とに角、それがまるで電氣を浴せ掛けられてゐるやうな氣持でぢつと聞き澄ましてゐる私の耳に、疑ひもなく、はつきり響いて來たのだ。私の聽覺は刺刀のやうに冴えた。そして、すべての意識が、一時に其處へ固まつてしまつたやうに緊張してしまつた。
『三十‥‥‥』と、それでも助手はお前の詞のすべてを氣にも留めないやうにかう數へて、抑へたマスクの上に滴壜を傾けたのだつた。
『‥‥‥そんなにお責めになつて‥‥‥ああ‥‥‥駄目、とても駄目‥‥‥あなた‥‥‥許して‥‥‥苦しい‥‥‥』と、お前の不思議な程の滑かさを持つて來た聲は、マスクの下でかう續いて行くのだ。私はわなわな顫へ出した。貞雄君のあの顏を何云ふとなく、鋭く思ひ浮べながら‥‥‥‥。
プルスは‥‥‥』と、水島はまた云つた。
八十九ノイン・アハチツヒ‥‥‥』と、助手がそれに答へた。
瞳孔パピツレ‥は‥‥』
全開フオオル‥‥‥』と、助手が喋舌り續けてゐるお前の眼を開いてみながら、かう水島に答へた。
と、水島は全くお前の聲を氣にも留めない冷靜さで、しつかりと助手に頷き返した。脈を取つてゐた一人の助手と看護婦は直ぐに手術臺の傍の硝子臺に近づいて、ピンセツトやガアゼを取つた。同時に水島は息抑へのマスクを口元に覆つて、す早く手術臺に近く立つた。お前の後半身は助手に依つて生々しく露出された。
『ほんとに許して‥‥‥ああ‥‥‥惡かつたわ‥‥‥だつてあの時あなたが‥‥‥あの道で‥‥‥手を‥‥‥熱い‥‥‥』と、喋舌り續けてゐるお前をぢつと見返りながら、水島は暫く佇んでゐた。と、その眼には暗い影がちらりと差して、それをひよいと私の顏に振り向けた。
『ひどい囈言だ‥‥‥』と、私は水島の視線を避けながら、湧き返るやうな胸の混亂を抑へてかう呟いた。
『何、直ぐ止む‥‥‥』と、かう答へた時、水島の眼に差してゐた暗い影は消えた。
 が、囈言と云つた私は、すべてを否定して濟まさうとしてゐた私は、其處まで來た時もうお前の昏睡の脣から洩れてくるその斷續した詞の意味を囈言と思ふ事も、否定し濟ます事も出來なかつた。頭にはかあつと血が上つて來た。胸の鼓動は小指先にまで鋭く傳つて行くのを意識した。そして、私は水島や助手や看護婦の前に、いやさうして尚ほも脣を動かし續けてゐるお前の前に佇んでゐる堪らない苦痛と、赤面と、恥ぢと、戰きとにあらがつて行く事は出來なくなつた。が、私は却く事も、進む事も、耳を抑へる事も、顏を反ける事も出來なかつた。恰も地に釘づけされたやうに、凝化してしまつたやうに、私は手術臺を二三尺離れて立ち惱んでゐたのだつた。
『あたしが惡いわ、いいえ、あたしが惡いわ。でも、もう爲方がない‥‥‥どうする事も‥‥‥苦しい‥‥‥痛い‥‥‥許して、許して‥‥‥あの晩、ほんとにあの晩‥‥‥貞雄さん‥‥‥誰にも、誰にも‥‥‥考へ‥‥‥思ひ違ひ‥‥‥かんに、かんにして‥‥‥』と、お前の無氣味な鋭さを持つた聲は、何時か絶え入るやうな涙聲に變つて、其處でポツンと切れた。そして、すいすいと、宛ですべてが裏はらに變つて了つたやうな安らかな息が、お前の口を洩れて來た。
『三十‥‥‥』と、數へ聲を止めてゐた助手は、急に張り上げた聲でまたお前の耳元に叫んだ。
『あ、あ、あ‥‥‥』と、やがてお前はそれに答へるともない調子で呟くやうに云つたかと思ふと、深い息を吸つてそのままひつそりと鎭まつてしまつた。
 長い、けれど總身を引き絞るやうな沈默が續いた。
 私はカアテンを透して差す西日影にほの白く浮んだお前の顏を、黒髮を、つぶつた眼を、幽かに波打つ胸を、脹らんだ乳を、開き出された生々しい腹部を――鋭い視線の刄物で縱に斷ち切るやうにずつと見通した。そして、其處に例へ一點でも感じられる暗い影があつたら見遁すまいとした。恐らくその視線は誰の眼にも陰慘な殘酷な、光を持つてゐるやうに見えたであらう。が、その光の影には引き裂かれるやうな苦悶が、悲痛が、驚きが、失望が高く波打つてゐたのだつた。今まですべてを、いやお前の心と體のすべてを自分の物と信じてゐた私の信念が、其處で粉微塵に碎かれてしまつたやうな氣がしたのだ。
『何と云ふ事だ‥‥‥』と、かう心に獨りごちた時、私の眼にはあの貞雄君の顏が消さうとしても消えぬ幻影になつてまざまざしく映つた。
『若しやお前が‥‥‥』と、さう疑ひ返した時、また私の眼にはあの貞雄君の、呉に去つてから久しく私達の家を訪れない貞雄君の顏が、私がお前のいとこ達の中で一番好きだつた、あの快活な、懷しい微笑を口元から絶やさない貞雄君の、あのあの淺黒い顏が浮んで來たのだ。
『馬鹿な、馬鹿な‥‥‥』と、私は自分の醜い、不愉快な、瞬間に卷き起つて來た疑惑を抑へようとした。實際、それは餘りに意外な、餘りに信じられない事實だつた。が、例へそれが笑ふべき、お前の單純な幻想から湧いて來たに過ぎない囈言であらうとも、『思ひ違ひ、かんにして‥‥‥』とまではつきりお前の脣から洩れた詞を、どうして私がさう生易しく否定し去る事が出來よう。その長い沈默の間、私の頭には總身の血がかあつと煮え返つてゐた。そして、その感情の波が、ともすれば自分の意識を昏迷させてしまひさうだつた。
 が、私は辛くも自分を制御してゐた。
『メス‥‥‥』と、靜かな、深い眠りに落ちてしまつたお前をぢつと見詰めてゐた水島は、やがて落ち着いた聲で傍の助手に囁いた。
と、次の刹那、水島の手には冷かな銀色を反射する小刀のメスが執られてゐた。そして、水島の鋭い眼は暫くお前の腹部に注がれてゐたのだ。
 助手も看護婦もお前も私も、その水島も、瞬間、化石したやうに佇んだ。そして、何時の間にかスヰツチをひねられた頭上の電氣の光に、暗い陰影を型取られ、顏の眉一つを動かさなかつた。
 メスが水島の手に閃いた。助手の手にピンセツトが光つた。看護婦の手にガアゼが握られた。私の總身はさつと引き締まつた。そして、思はず瞬きして、眼を注いだ時、吹き出るやうに切り口を流れた血潮が助手の左手のガアゼを眞赤に染めてゐた。と、殆ど同時に、私の意識はすうつと拭はれるやうに總身から消え去つて、血潮の赤が限りなく遠くに霞んだかと思ふと、私はくらくらと倒れかかつた。鼻に腐肉を嗅ぐやうな匂ひを意識しながら‥‥‥。
 肩に、背中から抱きすくめた何かの力が幽かに感じられた。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥。
 耳元に幽かに囁く人聲がした。冷かな風が首筋を掠めて過ぎた。と、私は漸く我に返つた。そして、けばけばしい日光の反射が疼くやうに網膜を差すのに眼を細めながら、ひよいとあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した時、私はお前の病室の窓際の椅子に身を投げ掛けてゐたのだつた。
『敬さん、敬さん‥‥‥‥』
『氣が附いたか‥‥‥‥』
と、お前の母と兄の聲がまだ遠くの人聲のやうに、同時に耳を打つた。
『あ‥‥‥』と、吐息づきながら思はずはつきり眼を見開いて、母と兄の顏を見守つたが、それはまつ青な、云ひ知れぬ不安を湛へた、陰鬱な顏だつた。
 頭はまだ空つぽだつた。すべての意識は混沌としてゐた。ただ、吐氣のつきさうな感覺と、腐肉を突きつけられてゐるやうな匂ひとが、むつと胸元に感じられるだけだつた。
『やつぱり大丈夫ぢやなかつたな‥‥‥』と、兄は暫くしてかう云つた。
『ええ‥‥‥』と、私は[#「私は」は底本では「私の」]その意味を捉へ兼ねて訊き返した。
『まあ、どんなにびつくりしたでせう、敬さん‥‥‥』と、お前の母はぢつとその私を見詰めた。
『いや、とうとう腦貧血を起してしまつたぢやないか‥‥‥』と、兄は詰るやうに云つた。
『腦貧血‥‥‥』と、思はず聞き返した時、私の意識にはすべての經過がはつきり蘇つた。そして、手術室にゐるお前の事がぎくりと思ひ出されたのだ。
『あの、藤子は、藤子はどうしたんです‥‥‥』と、私は叫んだ。
『ふむ、今濟んだと云ふ知らせがあつた。大變巧く行つたらしい‥‥‥』と、兄は落ち着いた調子で答へた。
『巧く行きましたか‥‥‥』と、云ひ返した時、私はがくりと重荷を下したやうな心の安らぎを感じた。そして、窓臺に頸を凭せかけながら眼を瞑つた。
『ほんとにお前のお蔭で餘計な人騷ぎをした‥‥‥‥‥』
『それでもまあ直ぐ鎭まつて、ようございましたね‥‥‥‥』
『それもさうですが、ほんとに云はんこつちやない‥‥‥』と、兄は幽かに舌打ちした。
 私は深く息を吸つた。そして、明け放した正面から窓の方へ流れてくる涼しい風に吹かれながら、ぢつと口を噤んでゐた。もう夕方が近いのだつた。眞晝の燒けつくやうな暑さが和ぐ頃だつた。意識は次第にはつきりして來た。感情の劇しい興奮も弛んで來た。昏倒した體の後疲れが何處となく感じられて來た。そのまま身動きもせずに、お前の母や兄の詞に答へようともせずに、私はぢつと僅か一時間程の間に自分が過ぎて來た複雜な心の跡を顧みてゐた。と、それがまるでかりそめの夢だつたやうな、また氣まぐれに自分の前を掠めた幻影だつたやうな氣もした。
『さうだ、夢であれ、幻影であれ‥‥‥』と私は思つた。
と、『お前の爲めに餘計な人騷ぎをした‥‥‥』と、單純に私を責めてくれてゐる兄の詞までが決して恨めしくは思へなかつた。すべてをさう思つて、ただ單純に私が昏倒したのだ――と思つてゐてくれたら、お前の手術の結果が巧く行つたと云ふ歡びをすべてが感じてゐる今、それはどんなに幸福な解釋だつたか知れないのだ。
 が、夢だつたらうか、幻影だつたらうか。私にはそれが忽ち冷かな現實の、過ぎ去つたものではあるが到底疑ふ事の出來ない現實の姿となつて、ひしひしと心の前に浮んで來たのだつた。そして、それが現實であつたと思ふと同時に、私はあの昏睡期に這入つたお前が囈言のやうに語り續けたあの詞が、實際實の事だつたらうかと、また疑はずにはゐられなかつた。
『若しそれが現實の事だつたら、そして、お前とあの貞雄君が‥‥‥』と、私は考へた。
と、私には戰慄が來た、苦悶が來た。そして、直ぐにその考へを否定してしまつた。お前が、またあの貞雄君が――と思ひ並べる事は、私には到底堪へ得ない恐ろしい想像だつた。淺ましい自分の邪推に過ぎないと否定せずにはゐられない事だつた。が、お前のあの聲がまざまざと耳に殘つてゐるのをどうしようか‥‥‥‥。
と、私の默想はまたあの廊下に軋る[#「軋る」は底本では「軌る」]運搬車のゴム輪の音に破られた。
 お前はまた死人のやうに眠つてゐた。顏は灰白色に變つて、脣は紫色にしぼんでゐた。眼は何時開かれるとも知れないやうに閉ぢられてゐた。そして、艶々しい黒髮も、ふくよかな片頬の肉も、黒み勝ちな瞳も、何時も潤んだその赤い脣も――すべてはお前の姿から忘れられてしまつたやうに思はれた。そのお前が母や看護婦達の手に依つて寢臺の上に寢かされて、靜かな、幽かな、安らかさうな息が病室の靜けさの中に聞えてくるまで、私は我を忘れてぼんやりお前を見守つてゐた。そして、コロロホルムの麻醉に、手術の痛みも、夢中な自分の詞も、私の苦悶も、私の昏倒も、そしてすべての人達の懸念も焦慮も知らずに過ぎたに違ひないお前を、何となく一番幸福者のやうに感じたのだつた。
『夢であれ、幻影であれ‥‥‥』と、かげりかけた眞夏の西日が窓を赤く染めてゐるのをぼんやり見詰めながら、お前の爲めに私はかう呟き續けてゐた。
 お前の母も、兄も口を噤んでゐた。そして、靜かな病室の中にはまだ昏睡から覺めないお前の寢息が幽に流れてゐた。(をはり)
 作者附記――水野の手記は此篇で終つてゐる。が、この手記はとうとう藤子に送られずにしまつた。そして、藤子の退院後も二人の結婚生活は幸福に續いてゐた。藤子に送らるべきこの手記が私の手に送られて來たのは最近の事である。『死がすべてを葬つてしまつた今、この手記の發表は藤子に取つて何等の心の痛みともなるまい‥‥』と、水野はこの手記に添へて私に書いてゐる。藤子は手術の缺陷のあつた爲めか盲膓炎を再發して昨年の秋に死んだのである。水野が私の中學時代からの友人である事は云ふまでもあるまい。(九年二月)





底本:「太陽」
   1920(大正9)年4月号
入力:小林徹
校正:はやしだかずこ
2000年10月5日公開
2006年1月9日修正
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