妖術

泉鏡花




       一

 むらむらと四辺あたりを包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧のえんな姿で、電車の中から、さっ硝子戸がらすどを抜けて、運転手台にあらわれた、若い女の扮装みなりと持物で、大略あらましその日の天気模様が察しられる。
 日中ひなかは梅の香も女のそでも、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上のぼせるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちとつと、花曇りという空合そらあいながら、まだどうやら冬の余波なごりがありそうで、ただこう薄暗いうちはさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲がかさなると、ちらちら白いものでもまじりそうな気勢けはいがする。……両三日さんち
 今朝はうららかに晴れて、この分なら上野の彼岸桜ひがんも、うっかり咲きそうなという、午頃ひるごろから、急に吹出して、随分風立ったのがいまだにまぬ。午後の四時頃。
 今しがた一時ひとしきり、大路がかすみに包まれたようになって、洋傘こうもりはびしょびしょする……番傘にはしずくもしないで、くるま母衣ほろ照々てらてらつやを持つほど、さっと一雨かかった後で。
 大空のどこか、ほっ呼吸いきさまに吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上あがりそうに見えるが、淡く濡れた日脚ひあしの根が定まらず、ふわふわ気紛きまぐれに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。
 すっかり雨支度あまじたくでいるのもあるし、雪駄せったでばたばたと通るのもある。からかさを拡げて大きく肩にかけたのが、伊達だてに行届いた姿見よがしに、大薩摩おおざつまで押してくと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたもいものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、せわしそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。
 電車のちょっとまったのは、日本橋とおり三丁目の赤い柱で。
 今言ったその運転手台へ、鮮麗あざやかに出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄こまげたに、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重こうはぶたえ褄捌つまさばき、柳の腰になびく、と一段軽く踏んで下りようとした。
 コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘こんじゃのめの細々と艶のあるを軽く持つ。
 ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎ふなざきという私の知己ちかづき――それから聞いたのをここに記す。
 舟崎は名を一帆かずほといって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜ゆうべの酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。
 一旦いったんうちへ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡ふりょうけんめぐらしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、くだんの三丁目にたたずみつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘こうもりの用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過やりすごして、硝子戸越がらすどごしに西洋小間こまものをのぞく人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、しきりに謀叛気むほんぎを起していた。
 処へ……
 一目そのえんなのを見ると、なぜか、気疾きばやに、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出うごきだす、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。
 そこにぼんやりと立ったさまを、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺あたりの人に見らるるのをはばかったか。……しかし、実はどちらでもなかった、とかれは云う。
 乗合いは随分立籠たてこんだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何よりさきに映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿あだすがた

       二

 誰も知った通り、この三丁目、中橋なかばしなどは、とおりの中でもあい宿しゅくで、電車の出入ではいりが余り混雑せぬ。
 まった時、二人三人はほかにも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。
 乗ったのは、どの口からも一帆一人。
 入るともう、直ぐにぐいと出る。
 ト前の硝子戸がらすどを外から開けて、その女が、何と!
 姿見から影を抜出ぬけだしたような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。
 そして、ぱっちりした、うるみのある、涼しい目を、心持俯目ふしめながら、大きく※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、こっちに立った一帆の顔を、向うからじっと見た。
 見た、と思うと、今立ったもとの席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。
 その女は、丈長たけなが掛けて、銀の平打のうしろざし、それしゃ生粋きっすいと見える服装みなりには似ない、お邸好やしきごのみの、鬢水びんみずもたらたらと漆のようにつややかな高島田で、ひどくそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬めしちりめんも、なぜか紫の俤立おもかげだつ。
 いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側おんなじがわで、一帆はちとあわただしいまで、急いで腰を落したが。
 胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客のりてに隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先つまさきも見えなかったが、一目見られたひとみの力は、刻み込まれたか、と鮮麗あざやかに胸に描かれて、白木屋の店頭みせさきに、つつじが急流に燃ゆるような友染ゆうぜん長襦袢ながじゅばんのかかったのも、その女が向うへ飛んで、さかさにまた硝子越がらすごしに、扱帯しごきを解いた乱姿みだれすがたで、こちらを差覗さしのぞいているかと疑う。
 やがて、心着くと標示しるし萌黄もえぎで、この電車は浅草行。
 一帆がその住居すまいへ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。
 もっとも、わざととはなしに、一帳場ひとちょうばごとに気をけたが、女の下りた様子はない。
 で、そこまでくと、途中は厩橋うまやばし蔵前くらまえでも、駒形こまがたでも下りないで、きっと雷門まで、一緒にくように信じられた。
 何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、つまはずれが堅気かたぎと見えぬ。――何だろう。
 とそんな事。……中に人の数をはさんだばかり、つい同じ車に居るものを、一年ひととせ、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々いろいろな事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓がらすまどの薄暗くなって来たのさえ、しかとは心着かぬ。
 が、蔵前を通る、あの名代なだいの大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまですさまじく暗くなった。
 頸許えりもとがふと気になると、尾をいて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子をすかして、しずくのその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際うわの空でいたのであった。
 さあ、浅草へくと、雷門が、鳴出したほどなその騒動さわぎ
 どさどさぶちまけるように雪崩なだれて総立ちに電車を出る、乗合のりあいのあわただしさより、仲見世なかみせは、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女なんにょの姿。
 風立つ中をむらがって、さっと大幅に境内から、広小路へ散りかかる。
 きちがい日和びより俄雨にわかあめに、風より群集が狂うのである。
 その紛れに、女の姿は見えなくなった。
 電車の内はからりとして、水に沈んだ硝子函がらすばこ、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫の風情に見えて、つかちりも留めず、――外の人の混雑は、しゃちに追われたような中に。――
 一帆は誰よりもおくれて下りた。もう一人も残らないから、女も出たには違いない。

       三

 が、拍子抜けのした事は夥多おびただしい。
 ストンと溝へ落ちたような心持ちで、電車を下りると、大粒ではないが、引包ひッつつむように細かく降懸ふりかかる雨を、中折なかおれはじく精もない。
 鼠のつばをぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここをあてに来たように、素直まっすぐに広小路を切って、仁王門を真正面まっしょうめん
 濡れても判明はっきりと白い、処々むらむらとが立って、雨の色が、花簪はなかんざし箱狭子はこせこ輪珠数わじゅずなどが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目わきめらないで、御堂みどうかたへ。
 そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼くにおいが、雨を蒸して、暖かく顔を包む。
 その時、広小路で、電車の口からさっと打った網のすそが一度、混雑の波に消えて、やがて、むきのかわった仲見世へ、手元を細くすらすらと手繰寄せられたていに、前刻さっきの女が、肩を落して、雪かと思う襟脚細く、紺蛇目傘こんじゃのめを、姿の柳に引掛ひっかけて、つややかにさしながら、駒下駄を軽く、つまをはらはらとちと急いで来た。
 と見ると、左側から猶予ためらわないで、真中まんなかと寄って、一帆に肩を並べたのである。
 なよやかな白い手を、半ば露顕あらわに、飜然ひらりと友染の袖をからめて、紺蛇目傘をさしかけながら、
貴下あなた、濡れますわ。」
 と言う。瞳が、動いて莞爾にっこり留南奇とめきかおり陽炎かげろうのような糠雨ぬかあめにしっとりこもって、からかさが透通るか、と近増ちかまさりの美しさ。
 一帆の濡れた額は快よい汗になって、
「いいえ、構わない、私は。」
 と言った、がこれは心から素気そっけのない意味ではなかった。
「だって、召物が。」
「何、外套がいとうを着ています。」
 と別に何の知己ちかづきでもない女に、言葉を交わすのを、不思議とも思わないで、こうして二言三言、云ううちにも、つい、さしかけられたままで五足六足いつあしむあし。花の枝を手に提げて、片袖重いような心持で、同じからかさの中を歩行あるいた。
「人が見ます。」
 どうして見るどころか、人脚の流るる中を、美しいしぶきを立てるばかり、仲店前を逆らって御堂のみちへ上るのである。
 また、誰が見ないまでも、本堂からは、門をうろ抜けの見透みとおし一筋、お宮様でないのがまだしも、鏡があると、歴然ありありともう映ろう。
「御迷惑?」
 と察したように低声こごえで言ったのが、なお色めいたが、ちっと蛇目傘じゃのめを傾けた。
 目隠しなんどれたかと、はっきりした心持で、
「迷惑どころじゃ……しかしおだやかではありません。一人ものが随分通ります。」
 とやっと苦笑した。
「では、別ッこに……」と云うなり、ねた風にするりと離れた。
 と思うと、袖を斜めに、ちょっと隠れたさまに、一帆の方へ蛇目傘ながらほっそりしたせなを見せて、そこの絵草紙屋の店をながめた。けばけばしく彩った種々いろいろの千代紙が、にじむがごとく雨にもつれて、中でもべにが来て、女のまぶたをほんのりとさせたのである。
 今度は、一帆の方がそのそばへ寄るようにして、
「どっちへいらっしゃる。」
「私?……」
 とからかさの柄に、左手ゆんでえた。それが重いもののように、姿がしなった。
「どこへでも。」
 これを聞棄ききずてに、今は、ゆっくりと歩行あるき出したが、雨がふわふわと思いのまま軽い風に浮立つ中に、どうやら足許あしもともふらふらとなる。

       四

 門の下で、うしろを振返って見た時は、何店どこへか寄ったか、わきれたか。仲見世の人通りは雨のおぼろに、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。
 それきりわぬ、とは心のうちに思わないながら、一帆は急に寂しくなった。
 妙に心もあらたまって、しばらく何事も忘れて、御堂みどうの階段を……あの大提灯おおぢょうちんの下を小さく上って、おごそかなひさしを……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬宝珠ぎぼしゅで留まって、何やらほっと一息ついて、しずくするまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手布ハンケチで、ぐい、とぬぐった。
素面しらふだからな。」
 と歎息するように独言ひとりごとして、しごいて片頬かたほでた手をそのまま、欄干にひじをついて、あまねく境内をずらりとながめた。
 早いもので、もう番傘の懐手ふところで、高足駄で悠々と歩行あるくのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々いろいろな処へ、これから奥は、御堂の背後うしろ、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯ひきょうな、相合傘あいあいがさおくれは取らぬ、と肩のそびゆるまで一人で気競きおうと、雨もかすんで、ヒヤヒヤとほおに触る。一雫も酔覚よいざめの水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく……
 が、見透みとおしのどこへも、女の姿は近づかぬ。
「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」
 と打棄うっちゃり放す。
 大提灯にはたはたとつばさの音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女もこもひさしから、鳩が二三羽、と出て飜々ひらひらと、早や晴れかかる銀杏いちょうこずえを矢大臣門の屋根へ飛んだ。
 胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのおばあの前を、内端うちばな足取り、もすそを細く、蛇目傘じゃのめをやや前下りに、すらすらと撫肩なでがたの細いは……たしかに。
 スーとからかさをすぼめて、手洗鉢みたらしへ寄った時は、衣服きものの色が、美しくたたえた水に映るか、とこの欄干からはるかな心に見て取られた。……折からその道筋には、くだんの女ただ一人で。
 水色の手巾ハンケチを、はらりとなまめかしく口にくわえた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊のかたを見上げた。
 のめのめとそこに待っていたのが、了簡りょうけんの余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後うしろ向きに横へ廻る。
 パッパッと田舎の親仁おやじが、てのひらへ吸殻を転がして、煙管きせるにズーズーとやにの音。くく、とどこかで鳩の声。あかねあねえも三四人、鬱金うこん婆様ばさまに、菜畠なばたけ阿媽かかあまじって、どれも口を開けていた。
 が、あ、と押魂消おったまげて、ばらりと退くと、そこの横手の開戸口ひらきどぐちから、艶麗あでやかなのが、すうと出た。
 本堂へまいったのが、一廻りして、一帆の前にあらわれたのである。
 すぼめた蛇目傘じゃのめに手を隠して、
「お待ちなすって?」
 また、ほんのりと花のかおり
「何、ちっとも。……ゆっくりお参詣まいりをなさればい。」
貴下あなたこそ、さきへいらしってお待ち下さればうござんすのに、出張でっぱりにいらしって、しぶきつめたいではありませんか。」
 さっさと先へけではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸がすわって、
「だって雨をくぐって、一人でびしょびしょ歩行あるけますか。」
「でも、その方がおすきな癖に……」
 と云って、肩でわざとらしくない嬌態しなをしながら、片手でちょいと帯をおさえた。ぱちんどめが少しって、……薄いがふっくりとある胸を、緋鹿子ひがのこ下〆したじめが、八ツ口からこぼれたように打合わせの繻子しゅすのぞく。
 その間に、きりりと挟んだ、煙管筒きせるづつ? ではない。象牙骨ぞうげぼねの女扇を挿している。
 今圧えた手は、帯がゆるんだのではなく、その扇子おうぎを、一息探く挿込んだらしかった。

       五

 紫の矢絣やがすり箱迫はこせこの銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜やみざくらとか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅うすくれないのちらちらするすごい好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘こんじゃのめそぐわない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇子おうぎは余りお儀式過ぎる。……踊の稽古けいこ帰途かえりなら、相応したのがあろうものを、初手しょてから素性のおかしいのが、これで愈々いよいよ不思議になった。
 が、それもそのはず、あとで身上みじょうを聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品むすめてじな、と云うのであった。
 思い懸けず、あんまり変ってはいたけれども、当人の女の名告なのるものを、怪しいの、疑わしいの、嘘言うそだ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方こなたから推着おしつけに、あれそれともめられないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆のうなずいたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御堂みどうの裏、田圃たんぼ大金だいきんの、とある数寄屋造すきやづく[#「数寄屋造り」は底本では「敷寄屋造り」]の四畳半に、ぜんを並べて差向った折からで。……
 もっとも事のそこへ運んだまでに、いささか気になる道行みちゆきの途中がある。
 一帆は既に、御堂の上で、その女に、大形の紙幣さつを一枚、紙入から抜取られていたのであった。
 やっぱり練磨の手術てわざであろう。
 その時、扇子を手でおさえて、貴下あなたは一人で歩行あるく方が、
「……おすきな癖に……」
 とそう云うから、一帆は肩をゆすって、
「こうなっちやもう構やしません。是非相合傘にして頂く。」とおどすように云って笑った。
「まあ、駄々だだのようだわね。」
 と莞爾にっこりして、
貴方あなた、」と少し改まる。
「え。」
「あの、少々お持合わせがござんすか。」
 と澄まして言う。一帆はいささか覚悟はしていた。
「ああ。」
 とわざと鷹揚おうように、
幾干いくらばかり。」
「十枚。」
 と胸を素直まっすぐにした、が、またその姿もかった。
「ちょいと、買物がしたいんですから。」
「お持ちなさい。」
 この時、一帆は背後うしろに立った田舎ものの方を振向いた。みんな、きょろりきょろりとながめた。
 女は、帯にも突込つっこまず、一枚たなそこに入れたまま、黙って、一帆に擦違すれちがって、角の擬宝珠ぎぼしゅを廻って、本堂正面の階段の方へ見えなくなる。
 大方、仲見世へ引返したのであろう、買物をするといえば。
 さて何をするか、手間の取れる事一通りでない。
 煙草たばこももう吸い飽きて、こまぬいてもだらしなく、ぐったりと解ける腕組みを仕直し仕直し、がっくりと仰向あおむいて、唇をペろぺろと舌でめる親仁おやじも、しゃがんだり立ったりして、色気のない大欠伸おおあくびを、ああとするあかね新姐しんぞも、まんざら雨宿りばかりとは見えなかった。が、綺麗きれい姉様あねさま待飽倦まちあぐんだそうで、どやどやと横手の壇をり懸けて、
「お待遠まちどおだんべいや。」
 と、親仁がもっともらしい顔色かおつきして、ニヤリともしないでほざくと、女どもはどっと笑って、線香の煙の黒い、吹上げのしぶきの白い、誰彼たそがれのような中へ、びしょびしょと入ってく。
 吃驚びっくりして、這奴等しやつら、田舎ものの風をする掏賊すりか、ポンひきか、と思った。軽くなった懐中ふところにつけても、当節は油断がならぬ。
 その時分まで、同じ処にぼんやりと立って待ったのである。

       六

 早く下りよ、と段はそこにきざはしを明けて斜めに待つ。自分に恥じて、もうその上は待っていられないまでになった。
 端へ出るのさえ、後を慕って、紙幣さつ引摺ひきずられるような負惜まけおしみの外聞があるので、角の処へも出ないでいた。なぜか、がっかりして、気が抜けて、その横手から下りて、みちを廻るのも億劫おっくうでならぬので、はじめて、ふらふらと前へ出て、元の本堂前の廻廊を廻って、欄干について、前刻さっき来がけとはいきおいが、からりとかわって、中折なかおれつばも深く、おもてを伏せて、そこを伝う風も、我ながら辿々たどたどしかった。
 トあの大提灯を、釣鐘が目前めのまえへぶら下ったように、ぎょっとして、はっと正面へつままれた顔を上げると、右の横手の、広前ひろまえの、片隅に綺麗に取って、時ならぬ錦木にしきぎ一本ひともと、そこへ植わった風情に、四辺あたりに人もなく一人立って、からかさを半開き、真白まっしろな横顔を見せて、生際はえぎわを濃く、美しく目迎えて莞爾にっこりした。
沢山たんと、待たせてさ。」と馴々なれなれしく云うのが、遅くなった意味には取れず、さかさまうらんで聞える。
 言葉戦いかなうまじ、と大手を拡げてむずと寄って、
「どこにしましょう。」
「どちらへでも、貴下あなたのおよろしい処がうござんす。」
「じゃ、行く処へいらっしゃい。」
「どうぞ。」
 ともう、相合傘の支度らしい、片袖を胸に当てる、柄よりも姿がほっそりする。
 丈がすらりと高島田で、並ぶと蛇目傘じゃのめの下につい
 で、大金だいきんへ入った時は、舟崎は大胆に、自分がからかさを持っていた。
 けれども、後で気が着くと、真打しんうちの女太夫に、うやうやしくもさしかけた長柄の形で、舟崎の図は宜しくない。
 通されたのが小座敷こざしきで、前刻さっき言ったその四畳半。廊下を横へ通口かよいぐち[#ルビの「かよいぐち」は底本では「かよひぐち」]がちょっと隠れて、気の着かぬ処に一室ひとまある……
 数寄すきに出来て、天井は低かった。畳の青さ。床柱にも名があろう……壁に掛けたかご豌豆えんどうのふっくりと咲いた真白まっしろな花、つるを短かく投込みにけたのが、窓明りにあかるく灯をともしたように見えて、桃の花より一層ほんのりと部屋も暖い。
 用を聞いて、円髷まげった女中が、しとやかにひらきを閉めてったあとで、舟崎は途中も汗ばんで来たのが、またこうこもったので、火鉢を前に控えながら、羽織を脱いだ。
 それを取って、すらりとしごいて、綺麗に畳む。
「これははばかり、いいえ、それには。」
「まあ、好きにおさせなさいまし。」
 と壁の隅へ、自分のわきへ、小膝こひざを浮かして、さらりとって、片手で手巾ハンケチさばきながら、
「ほんとうにちと暖か過ぎますわね。」
「私は、逆上のぼせるからなおたまりません。」
「陽気のせいですね。」
「いや、お前さんのためさ。」
「そんな事をおっしゃると、もっとそばへ。」
 と火鉢をぐい、として来て、
「そのかわり働いて、ちっと開けて差上げましょう。」
 と弱々とななめにひねった、着流しの帯のお太鼓の結目むすびめより低い処に、ちょうど、背後うしろの壁を仕切って、細いくぐり窓の障子がある。
 カタリ、と引くと、直ぐに囲いの庭で、敷松葉を払ったあとらしい、ふきの葉がめぐんだように、飛石が五六枚。
 柳の枝折戸しおりど、四ツ目垣。
 トその垣根へ乗越して、今フト差覗さしのぞいた女の鼻筋の通った横顔を斜違はすっかいに、月影に映す梅のずわえのごとく、おおいなる船のへさきがぬっと見える。
「まあ、いこと!」
 と嬉しそうに、なぜか仇気あどけない笑顔になった。

       七

「池があるんだわね。」
 と手をいて、壁に着いたなりでほっそりしたおとがいを横にするまで下からのぞいた、が、そこからは窮屈で水は見えず、忽然こつぜんとしてへさきばかりあらわれたのが、いっそ風情であった。
 カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾模様すそもようの後姿で、すらりとした芸者が通った。
 向うの座敷に、わやわやと人声あり。
 枝折戸しおりどの外を、柳の下を、がさがさとほうきを当てる、印半纏しるしばんてんの円いせなかが、うずくまって、はじめから見えていた。
 それには差構いなく覗いた女が、芸者の姿に、そっと、直ぐに障子を閉めた。
 向直った顔が、斜めに白い、その豌豆えんどうの花に面した時、眉を開いて、じった。が、瞳を返して、右手めてに高い肱掛窓ひじかけまどの、障子の閉ったままなのをきっ見遣みやった。
 咄嗟とっさの間の艶麗あでやかな顔の働きは、たとえば口紅を白粉おしろいに流して稲妻を描いたごとく、なまめかしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡翠ひすいに化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。
 一帆は思わず坐り直した。
 処へ、女中がぜんを運んだ。
「お一ツ。」
「天気は?」 
いい塩梅あんばいあがりました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。」
「いいえ、結構。」
「もし、貴女あなた。」
 女が、ものれたさま猪口ちょくを受けたのは驚かなかったが、一ツ受けると、
「何うぞ、置いてらしってうござんす。」と女中をたせたのは意外である。
 一帆はしばらくして陶然とうぜんとした。
あらためて、一杯ひとつ、お知己ちかづきに差上げましょう。」
きまりが悪うござんすね。」
「何の。そうしたお前さんか。」
 と膝をぐったり、とこうべを振って、
「失礼ですが、お住所ところは?」
「は、提灯ちょうちんよ。」
 と目許めもと微笑ほほえみちょうと、手にした猪口を落すように置くと、手巾ハンケチではっと口を押えて、自分でも可笑おかしかったか、くすくす笑う。
「町名、町名、結構。」
 一帆は町名と聞違えた。
「いいえ、提灯なの。」
「へい、提灯町。」
 と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。
 また笑って、
「そうじゃありません。私のうちは提灯なんです。」
「どこの? 提灯?」
「観音様の階段の上の、あの、おおきな提灯の中が私のうちです。」
「ええ。」と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。
「お名は。」
「私? 名ですか。娘……」
娘子むすめこさん。――成程違いない、で、お年紀としは?」
「年は、婆さん。」
「年は婆さん、お名は娘、住所ところは提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」
 といた。
 後に舟崎が語って言うよう――
 いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜くやしいといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢としごろの娘に向って、お商売? はちと思切った。
 しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣さつがある。
 その時、ちとあらたまるようにして答えたのが、
「私は、手品をいたします。」
 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席よせでも一向りのない処から、座敷を勤めさして頂く。
「ちょいと嬰児あかさんにおなり遊ばせ。」
 思懸おもいがけない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。
「お笑い遊ばしちゃ、いやですよ。」と云う。
「これは拝見!」と大袈裟おおげさに開き直って、その実は嘘だ、と思った。
 すると、軽く膝をいて、蒲団ふとんをずらして、すらりと向うへ、……ひらきの前。――此方こなたに劣らずさかずきは重ねたのに、きぬかおりひやりとした。
 扇子を抜いて、畳にいて、つむりを下げたが、がっくり、と低頭うなだれたようにしおれて見えた。
「世渡りのためとは申しながら……さきへ御祝儀を頂いたり、」
 と口籠くちごもって、
「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。
 いや、そこどころか。
 あの、かごの白い花を忘れまい。
 すっと抜くと、てのひらに捧げて出て、そのまま、※(「木+靈」、第3水準1-86-29)子窓れんじまどの障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一そう、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃しきって浮く。
 空は晴れて、かすみが渡って、黄金のような半輪の月が、うっすりと、淡い紫のうすもの樹立こだちの影を、星をちりばめた大松明おおたいまつのごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波なごり敷妙しきたえの銀の波。
 トみつめながら、
「は、」と声がかかる、袖を絞って、たもとを肩へ、脇明わきあけ白き花一片ひとひら、手をすべったか、と思うと、あらず、緑のつるに葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。
 ただ一攫ひとつまみなりけるが、船の中に落つるとひとしく、つぶて打った水の輪のように舞って、花は、鶴ののごとくへさきにまで咲きこぼれる。
 その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透すみとおる水に映って、ちらちらとゆらめいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、そのおおきさ、やがて扇ばかりな真白まっしろな一羽の胡蝶こちょう、ふわふわと船の上にあらわれて、つかず、離れず、豌豆えんどうの花に舞う。
 やがて蝶がつがいになった。
 内は寂然ひっそりとした。
 芸者の姿は枝折戸しおりどを伸上った。池を取廻とりまわした廊下には、欄干越てすりごしに、燈籠とうろうの数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。
 蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、ともえに乱れ、まんじと飛交う。
 時にそよがした扇子を留めて、池を背後うしろ肱掛窓ひじかけまどに、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、ひじをついて、呆気あっけに取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横にそむいて、胸越しに半面をおおうて差俯向さしうつむく時、すらりと投げたもすそを引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれたつまを寄せたのである。

 フトうつつから覚めた時、女の姿は早やなかった。
 女中に聞くと、
「お車で、たった今……」
明治四十四(一九一一)年二月





底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
   2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について