湯島の境内

泉鏡花




     湯島の境内 (婦系図―戯曲―一齣)

※(歌記号、1-3-28)返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
仮声使こわいろつかい、両名、登場。
※(歌記号、1-3-28)上野の鐘のも氷る細き流れの幾曲いくまがり、すえは田川に入谷村いりやむら
その仮声使、料理屋のかどに立ち随意に仮色を使って帰る。
※(歌記号、1-3-28)くるわへ近き畦道あぜみちも、右か左か白妙しろたえに、
この間に早瀬主税ちから、おつたとともに仮色使と行逢ゆきあいつつ、登場。
※(歌記号、1-3-28)往来ゆききのなきをさいわいに、人目を忍びたたずみて、
仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留たちどまる。
お蔦 貴方あなた……貴方。
早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)
お蔦 いい、月だわね。
早瀬 そうかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 ああ、成程。
お蔦 可厭いやだ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。
早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇やみだ。
お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体からだですもの。……
早瀬 お蔦。(とあらたまる。)
お蔦 あい。
早瀬 済まないな、今更ながら。
お蔦 水臭い、貴方は。……初手しょてから覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労がたのしみよ。月も雪もありゃしません。(四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわす)ちょいとお花見をしてきましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)
※(歌記号、1-3-28)たしかにここと見覚えの門のとぼそに立寄れば、(早瀬、引かれてあとずさりに、一脚のベンチに憩う。)
お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。
※(歌記号、1-3-28)風に鳴子なるこの音高く、
時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。
早瀬 何、月夜がかい。
お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月がすわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。
早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。
お蔦 急に雪でも降らなけりゃい。
早瀬 (懸念して)え、なぜだ。
お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。
早瀬 …………
お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親のなさけが貴方に乗憑のりうつったんだろうとそう思いますわ。……こうして月夜になったけれど、今日おひる過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体からだにはちょうどい空合いでしたから、貴方の留守に、おっかさんのお墓まいりをしたんですよ。……飯田町いいだまちへ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命いのちがけのねがいかなって、容子ようすの可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、おっかさんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。
早瀬 お蔦。
お蔦 でも、たまには一所に連れて出て下さいまし。夫婦いっしょになると気抜きぬけがして、意地もはりもなくなって、ただ附着くッついていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。――そうおっかさんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込ふさぎこんでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可いけないと思って強請ねだったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にもめられたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日きのう一昨日おとといまでだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊すりの手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜くやしいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間からふさいでいるのはその事でしょう。いじゃありませんか。んだりたりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のおっかさんもそう云いました。蔦がどんな苦労でもたのしみにしますから、お世帯向はして御心配なさいますなって、……云ってましたよ。
早瀬 難有ありがたい、おいら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のおっかさんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲もかかるだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇やみにもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷きとうは身勝手、御不沙汰ごぶさたの御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴ぐちを云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年みどしで、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとのよ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くがい、ついで、と云っては失礼だが、お前不忍しのばずまで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証ないしょ々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。
早瀬 お心まかせになさるがい。
お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、……よそうかしら。
早瀬 なぜ、ほかの事とは違う、信心ごとをしちゃ不可いけない。
お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。
早瀬 つまらん事を。災難なんか張倒す。
お蔦 おお、出来でかした、宿のおまえさん。
早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。
お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)
早瀬 早く行って来ないかよ。
お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶うっとうしいからって、貴方が脱いだ外套がいとうをここに置きますよ。夜露がかかる、着た方がいわ。
※(歌記号、1-3-28)気転きかして奥と口。
お蔦 (拍手かしわでうつ。)
天神様、天神様。
早瀬 何だ、ぶしつけな。
お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。
早瀬 (ほろりと泣く。)
お蔦 (きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐こわいんですもの。
早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷したや上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。
お蔦 そりゃつまを取ってりゃ、鬼が来てもいけれども、今じゃ按摩あんま可恐こわいんだもの。
早瀬 し、大きな目をいて見ていてやる。大丈夫だ、早くきなよ。
お蔦 あい。
※(歌記号、1-3-28)互に心合鍵に、
早瀬見送る。――お蔦く。――
…………………………
※(歌記号、1-3-28)はれて逢われぬ恋仲に、人に心を奥の間より、しらせ嬉しく三千歳みちとせが、
このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。
早瀬、腕をこまぬきものおもいに沈む。
お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。
早瀬 ああ。
お蔦 私は……こっちよ。
早瀬 おお早かったな。
お蔦 いいえ、お待遠さま。……私、何だか、案じられて気がいて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にしてすがる)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さしのぞく)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。――こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、――天神様のおそばはよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可いけません。急いで電車で帰りましょう。
早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むがい。
お蔦 もう沢山。
早瀬 おまいりをして来たかい。
お蔦 ええ、仲町なかちょうの角から、(軽く合掌す)手を合せて。
早瀬 何と云ってさ。
お蔦 まあ、そんな事。
早瀬 聞きたいんだよ。
お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町まさごちょうの先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、して決して河野こうのなんかと御縁組なさいませんよう。
早瀬 それから。
お蔦 それから?
早瀬 それから、……
お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。
早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。
お蔦 (無邪気に莞爾々々にこにこしつつ)いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっときまりの悪いもの。
早瀬 何だよ、何だよ。
お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃかった。……堪忍おしよ。いいだねえ。
早瀬 いから、何を買ったんだよ。
お蔦 見せましょうか、叱らない?
早瀬 …………
お蔦 叱ったって、もう買ったんだから構わない、(風呂敷より紙づつみを出す)髷形まげがたよ、円髷まるまげの。仲町に評判な内があるんですわ。
早瀬 髷形を、お蔦。(思わずそのつつみに手を掛く)おれ位牌いはいでも買やいのに。
お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。
早瀬 樹から落ちた俺の身体からだだ。……優しい嫁の孝行で、はじめて戒名が出来たくらいだ。俺は勘当されたッて。……何をお前、両親がお前に不足があるものか。――位牌と云うのは俺の位牌だ。――
お蔦 ええ。
早瀬 お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。
お蔦 (聞くとひとしくあわただしく両手にて両方の耳をおおう。)
早瀬 ちょっと、もう一度掛けてくれ。
お蔦 (ものも言わず、頭をふる。)
早瀬 よ。(と胸に手を当て、おそうとして、火に触れたるがごとく、ツト手を引く)死ぬ気になって、と聞いたばかりで、動悸どうきはどうだ、震えている。稲妻を浴びせたように……可哀相かわいそうに……チョッいっそ二人で巡礼でも。……いやいや先生に誓った上は。――ええ、俺は困った。どうしよう。(倒るるがごとくベンチにうつむく。)
お蔦 (見て、優しく擦寄る)聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体からだがすくむ。(とせわしく)早く聞かして下さいな。(としずかに云う。)
早瀬 俺が死んだと思って聞けよ。
お蔦 可厭いや。(はげしく再び耳をおさう)何を聞くのか知らないけれど、貴下あなたこの二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐こわいよ。
早瀬 (肩に手を置く)やあ、ほんとに、わなわな震えて。
お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が死んだつもりだなんて、私ゃ死ぬまで聞きませんよ。
早瀬 おお、お前も殺さん、俺も死なない、が聞いてくれ。
お蔦 そんなら、……でも、可恐こわいから、目をふさいで。
早瀬 お蔦。
お蔦 …………
早瀬 俺とこれッきり別れるんだ。
お蔦 ええ。
早瀬 思切って別れてくれ。
お蔦 早瀬さん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんじゃ、――貴方、なさそうねえ。
早瀬 洒落しゃれや串戯で、こ、こんな事が。俺は夢になれと思っている。
※(歌記号、1-3-28)跡には二人さしあいも、涙ぬぐうて三千歳が、恨めしそうに顔を見て、
お蔦 ほんとうなのねえ。
早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。
お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。
ツンとしてそがいになる。
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。
お蔦 ええ、薄情とは思いません。
早瀬 誓ってお前をきはしない。
お蔦 ええ、厭かれてたまるもんですか。
早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。ほかに何もふさぐ事はない、この二三日、顔を色をあやしまれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目をさませば俺より前に、台所だいどころでおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管きせるいて、考えると見ればおかずの献立、味噌漉みそこしで豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯ちゃとうして、合せる手を見るにつけ、咽喉のどを切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻さっきも先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後うしろからだましうちに、岩か玄翁げんのうでその身体からだを打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんなおもいをするんだもの、よくせきな事だと断念あきらめて、きれると承知をしてくんな。……お前に、そんなにねられては、俺はきてる空はない。
お蔦 ですから、死ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭いやなの。死ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命いのちおしくはない。
早瀬 さあ、その生命に、俺の生命を、二つ合せても足りないほどな、大事な方を知っているか。お前が神仏かみほとけを念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。
お蔦 (消ゆるがごとく崩折くずおれる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然ぼうぜんとす。)
早瀬 おれは死ぬにも死なれない。(身をもだゆ。)
お蔦 (はっと泣いて、早瀬にすがる。)
※(歌記号、1-3-28)一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、なきの涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。
この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながらしずかにベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬のたもとを控う。
お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。
早瀬 実は柏家かしわやの奥座敷で、胸に匕首あいくちを刺されるような、御意見をこうむった。小芳こよしさんも、あおくなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれじにをしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色けしきばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命いのちを懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者のまことを御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男にこがれて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体もったいない、意地で先生にたてを突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返おしかえして出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、そばで聞く俺がきまりの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、おんなを棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際じんみらいざい、俺は何とも、ほかに言うべき言葉を知らん。
お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、たしかに誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分ききわけてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸にすがって、顔を見合わす。)
※(歌記号、1-3-28)見る度ごとに面痩おもやせて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子かねがある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取るとひとしく)手切れかい、失礼な、(となげうたんとして、腕のえたるさま)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形まげがたの包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄うっちゃって行きたいけれど、それではねるに当るから。
早瀬 で、お前はどうする。
お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体じっていに働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜きゅうりも出るし、お前さんの好きなお香々こうこうをおいしくして食べさせてめられようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴ぐちらしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。……これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。……寝冷ねびえをしては不可いけませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、つぼみを吹いて、ふくらましていたんですよ、水をって下さいな……それから。
早瀬 (うつむいてうなずいてのみいる、たまりかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落しゃれに。
お蔦 まあ、どうして。
早瀬 それでなくッてさえ、掏賊すりの同類だ、あいずりだと、新聞ではやされて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋はぬけて、静岡へ駈落かけおちだ。少し考えた事もあるし、当分引込ひっこんでいようと思う。
お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気がいてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)
早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。……ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹いとこが一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!……よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。
お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないがうござんす。小児こどもの時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返いちょうがえしなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、おしゃくさんの桃割ももわれなんか、お世辞にもめられました。めの字のかみさんが幸い髪結かみゆいをしていますから、八丁堀へ世話になって、梳手すきてに使ってもらいますわ。
早瀬 すき手にかい。
お蔦 ええ、修業をして。……貴方よりさきへ死ぬまで、人さんの髪をましょう。私は尼になった気で、(風呂敷を髪にあねさんかぶりす)円髷まるまげって見せたかったけれど、いっそこの方が似合うでしょう。
早瀬 (そのかぶりものを、引手繰ひったぐってつつと立つ)さあ、一所に帰ろう。
お蔦 (外套を羽織らせながら)あの……今夜は内へ帰ってもいの。
早瀬 よく、肯分ききわけた、お蔦、それじゃ、すぐに、とぼとぼと八丁堀へ行く気だったか。
お蔦 ええ、そうよ。……じゃ、もう一度、雀にえさが遣れるのね、よく馴染なじんで、※(「木+靈」、第3水準1-86-29)子窓れんじまどの中まで来て、可愛いッたらないんですもの。……これまで別れるのは辛かったわ。
早瀬 何も言わん。さあ、せめて、かえりに、好きな我儘わがままを云っておくれ。
お蔦 (猶予ためらいつつ)手をいて。
※(歌記号、1-3-28)いえど此方こなたは水鳥の浮寝の床の水離れ、よしあし原をたちかぬれば、
この間に早瀬手を取る、お蔦振返る早瀬もともに、ふりかえり伏拝む。
さてかんとして、お蔦と一方に身を離す。
早瀬 どこへ行く。
お蔦 一人々々両側へ、別れたあとの心持を、しみじみ思って歩行あるいてみますわ。
早瀬 (うなずく。舞台を左右へ。)
お蔦 でも、もう我慢がし切れなくなって、私もしか倒れたら、けつけて下さいよ。
早瀬 (頷く。)
お蔦 切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体からだを裂いて分れるような。
早瀬 (頷く。)
お蔦しおしおときかかり、胸のいたみをおさえて立留たちどる、早瀬ハッと向合う。両方おもてを見合わす。
※(歌記号、1-3-28)に寒山のかなしみも、かくやとばかりふる雪に、積る……
幕外へ。
※(歌記号、1-3-28)思いぞ残しける。
男は足早に、女はしずかに。
――幕――
大正三(一九一四)年十月





底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
   1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年2月12日公開
2005年9月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について