神鑿

泉鏡太郎




朱鷺船ときふね




 濡色ぬれいろふくんだあけぼのかすみなかから、姿すがたふりもしつとりとしたをんなかたに、片手かたて引担ひつかつぐやうにして、一人ひとり青年わかものがとぼ/\とあらはれた。
 いろ真蒼まつさをで、血走ちばしり、びたかみひたひかゝつて、冠物かぶりものなしに、埃塗ほこりまみれの薄汚うすよごれた、処々ところ/″\ボタンちぎれた背広せびろて、くつ足袋たびもない素跣足すはだしで、歩行あるくのに蹌踉々々よろ/\する。
 それをんなたすいたところは、夜一夜よひとよ辿々たど/\しく、山路野道やまみちのみちいばらなか※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)さまよつた落人おちうどに、しらんだやうでもあるし、生命懸いのちがけ喧嘩けんくわからあはたゞしく抜出ぬけだしたのが、せいきて疲果つかれはてたものらしくもある。が、道行みちゆきにしろ、喧嘩けんくわにしろ、ところが、げるにもしのんでるにも、背後うしろに、むらさと松並木まつなみきなはていへるのではない。やまくづして、みねあましたさまに、むかし城趾しろあと天守てんしゆだけのこつたのが、つばさひろげて、わし中空なかぞらかけるか、とくもやぶつて胸毛むなげしろい。とおなたかさにいたゞきならべて、遠近をちこちみねが、東雲しのゝめうごきはじめるかすみうへたゞよつて、水紅色ときいろ薄紫うすむらさき相累あひかさなり、浅黄あさぎ紺青こんじやう対向むかひあふ、かすかなかゆきかついで、明星みやうじやう余波なごりごと晃々きら/\かゞやくのがある。……山中さんちゆうを、たれ喧嘩けんくわして、何処どこから駆落かけおちしてやう? ……
 をんなは、とふと、引担ひつかつがれたそでにくるまつて、りや、しや、片手かたてもふら/\とさがつて、なに便たよるともえず。らふ白粉おしろいした、ほとんいろのないかほ真向まむきに、ぱつちりとした二重瞼ふたへまぶた黒目勝くろめがちなのを一杯いつぱい※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、またゝきもしないまで。してをとこみゝと、びんと、すれ/\にかほならべた、一方いつぱう小造こづくりはうではないから、をんな随分ずいぶんたかい。
 うかとおもへば、おびからしたは、げつそりとふううすく、すそしまつたが、ふうわりとしてちからはいらぬ。かゝといて、う、うへかつげられてさうな様子やうす
 二人ふたりとも、それで、やがてひざうへあたりまで、みだれかゝつた枯蘆かれあしおほはれたうへを、またしたかすみかくす。
 もつとみちのないところ辿たどるのではなかつた。背後うしろに、覚果さめはてぬあかつきゆめまぼろしのこつたやうに、そびへた天守てんしゆ真表まおもて差懸さしかゝつたのは大手道おほてみちで、垂々下だら/\おりの右左みぎひだりは、なかうもれたほりである。
 空濠からぼりふではない、が、天守てんしゆむかつた大手おほてあとの、左右さいうつらなる石垣いしがきこそまだたかいが、きしあさく、段々だん/\うもれて、土堤どてけてみちつゝむまであしもりをなして生茂おひしげる。しかも、かまとこしへれぬところをりから枯葉かれはなかいて、どんよりとかすみけたみづいろは、つて、さま/″\の姿すがたつて、それからそれへ、ふわ/\とあそびにる、いたところの、あの陽炎かげらふが、こゝにたむろしたやうである。
 あしがくれの大手おほてを、をんなけて、微吹そよふ朝風あさかぜにもらるゝ風情ふぜいで、をとこふらつくとゝもにふらついてりてた。……しこれでこゑがないと、男女ふたり陽炎かげらふあらはす、最初さいしよ姿すがたであらうもれぬ。
 が、青年わかもの息切いきゞれのするこゑで、ものいふのをけ。
るなんて、……るなんて、うしたんだらう。真個まつたくいて自分じぶんでもおどろいた。しらんでたもの。何時いつけたかちつともらん。おまへまたなんだ、つてゞもゆすぶつてゞもおこせばいのに――しかしつかれた、わたし非常ひじやうつかれてる。おまへわかれてから以来このかた、まるで一目ひとめないんだから。……」
とせい/\、かたゆすぶると、ひゞきか、ふるへながら、をんな真黒まつくろかみなかに、大理石だいりせきのやうなしろかほ押据おしすえて、前途ゆくさきたゞじつみまもる。


かんがへると、くあんななかられたものだ。」
をとこなかつぶやくやうに、
つてればてきなかだ。てきなかで、けるのをらなかつたのはじつ自分じぶんながら度胸どきやうい。……いや、うではない、一時いちじんだかもわからん。
 うだ、んだとへば、生死いきしにわからなかつた、おまへ無事ぶじかほうれしさに、張詰はりつめたゆるんで落胆がつかりして、それきりつたんだ。さぞまへは、ちにつたわたしふものが、まへえるかえないに、だらしなく、ぐつたりとつてしまつて、どんなにか、たのみがひがないとうらんだらう。
 真個まつたく安心あんしんあま気絶きぜつしたんだと断念あきらめて、ゆるしてくれ。たんぢやない。またうしてられる……じつ一刻いつこくはやく、娑婆しやば連出つれだすために、おまへかほたらばとき! だんりるなぞは間弛まだるツこい。天守てんしゆ五階ごかいから城趾しろあと飛下とびおりてかへらう! 意気込いきごみで出懸でかけたんだ、実際じつさいだよ。
 が、頂上ちやうじやうからとんには、二人ふたりとも五躰ごたい微塵みじんだ。五躰ごたい微塵みぢんぢや、かほられん、なんにもらない。うすりや、なにすくふんだか、すくはれるんだか、……なにふんだか、はゝはゝ。」
取留とりとめもなくわらつた拍子ひやうしに、くさんだ爪先下つまさきさがりの足許あしもとちからけたか、をんなかたに、こひ重荷おもにかゝつたはう片膝かたひざをはたとく、トはつとはなすと同時どうじに、をんな黒髪くろかみ頬摺ほゝずれにづるりとちて、前伏まへぶしに、をとこひざせなのめつて、弱腰よわごし折重をりかさねた。
「あつ!」とあはたゞしく、青年わかものおびうへけて、
あぶない。あゝ、なんことだ。――おうら、」
つたはをんなで。
怪我けがはしないか、何処どこいためはしなかつたか。よしなんともない。」
 をんなが、あ、ともはず、こゑいのを、過失あやまちはせぬこと、とうなづいて、さあ、たうとするとちつともうごかぬ。
たないか、こんなところ長居ながゐ無益むえきだ。うした。」
そつゆすぶる、したがつてゆすぶれるのが、んだうをひれつまんで、みづうごかすとおな工合ぐあひで、此方こちらめればじつつて、きもしづみもしないふう
 はじめておどろいたいろして、
うかしたか、おうら。はてな、いまころんだつて、したへはおとさん、怪我けが過失あやまちさうぢやない。なんだか正体しやうたいがないやうだ。矢張やつぱ一時いちじ疲労つかれたのか。あゝ、へば前刻さつきからひとにばかりものをはせる。確乎しつかりしてくれ、おうらうしたんだ。」
いまあはたゞしくつた。青年わかもの矢庭やにはうなじき、ひざなりにむかふへ捻廻ねぢまはすやうにして、むねまへひねつて、押仰向おしあふむけたをんなかほ
 いまふさがず、れいみはつて、ひそむべきなやみもげに、ひたひばかりのすぢきざまず、うつくしうやさしまゆびたまゝ、またゝきもしないで、のまゝ見据みすえた。
 かほと、とき引返ひきかへした身動みじろぎに、ひるがへつたつまみだれに、ゆきのやうにあらはれたまる膝頭ひざがしら……を一目ひとめるや、
「うむ、」と一声ひとこゑ※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)だう枯蘆かれあしこしおとして、ほとんど痙攣けいれんおこしたごとく、あし投出なげだしてぶる/\とふるへて、
ちがつた/\。つくりものだ、こしらへものだ、彫像てうざうだ。昨夜ゆふべつてつた形代かたしろだ、こりや、……おゝ。」
 おのゝに、をんなむね確乎しつかせば、ふくらかなゑりのあたりも、てのひらかたつめたいのであつた。
なんだ、またこれをつてかへるほどなら、たれいのちがけにつて、這麼こんなものをこしらへやう。……たぶらかしやあがつたな! 山猫やまねこめ、きつねめ、野狸のだぬきめ。」
邪慳じやけんに、胸先むなさきつて片手かたて引立ひつたてざまに、かれ棒立ぼうだちにぬつくりつ。可憐あはれ艶麗あでやかをんな姿すがたは、背筋せすぢ弓形ゆみなりもすそちうに、くびられたごとくぶらりとる。


 青年わかもの半狂乱はんきやうらんていで、地韜ぢだんだんで歯噛はがみをした。
「おのれえ、でも、おにでも、約束やくそくたがへる、と不都合ふつがふがあるか、なんつた、なんつた。」
なじるがごとくにかすごゑして、にぎつて、くうつて、天守てんしゆ屋根やねにらんでわめいた。大手筋おほてすぢ下切おりきつた濠端ほりばたに――まだ明果あけはてない、うみのやうな、山中さんちゆうはら背後うしろにして――朝虹あさにじうろこしたやうに一方いつぱうたにから湧上わきあがむかぎしなる石垣いしがきごしに、天守てんしゆむかつてわめく……
 わめくが、しかし、一騎いつき朝蒐あさがけで、てきのゝしいさましい様子やうすはなく、横歩行よこあるきに、ふら/\して、まへたり、退すさつたり、蹌踉よろめき、独言ひとりごとするのである。
畜生ちくしやうひと女房にようばううばつた畜生ちくしやう魔物まもの義理ぎりはあるまいが、約束やくそくたがへてむか、……なんつて約束やくそくした――をんな彫像てうざうこしらへろ、形代かたしろつてい。おうらかへすとつたのをわすれたか、わすれたのか。」
握拳にぎりこぶしで、おのひざはたつたが、ちからあまつて背後うしろ蹌踉よろける、と石垣いしがき天守てんしゆかすみれる。
てよ。雖然けれども自分じぶん製作こしらへたざうだ、これが、もし価値ねうちつもつて、あの、おうらより、はるかおとつてたらうする。まるで取替とりかへるあたひがないとへばそれまでだ、――あゝ、それがために、旧通もとどほりおうらかくして、木像もくざう突返つきかへしたのか。おれ夢中むちゆうで、これこひしいをんなだ、とおもつて、うか/\いてかへつたのか、うかもれん。
 それでは、劣作れつさくだとふのだな、駄物だものだ、とふのだな、劣作れつさくか、駄物だものか、此奴こいつ。」
くび引向ひきむむねいだいて、血走ちばしつたきつかほを。
おれが、こゝろらずに、けろりとしてましたつらよ。おのれいしでも、おれこゝろんで、睫毛まつげつゆ宿やどさないか。かすみにもくもらぬひとみは、蒟蒻玉こんにやくだま同然どうぜんだ。――それ道理だうりよ、かよはない、みやくもない、たましひのない、たかゞ木屑きくづ木像もくざうだ。」
興覚顔きようざめがほして、天守てんしゆあふいで、また俯向うつむき、
なんだ、これは、魔物まものひさうなことおれふ、自分じぶんふ、われくちのゝしるな。おゝ、自然しぜんてきたいして、みづから、罵倒ばたうするやうな木像もくざうでは、前方さき約束やくそくげんのも無理むりはない……駄物だもの駄物だもの駄物だもの、」
三舎さんしやける足取あしどりで、たぢ/\と後退あとずさりして、
「さあ、うなれば、おうら紀念かたみはう大事だいじだ。よくも、おのれ、ぬく/\と衣服きものた。」とふ/\※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしるがごと衣紋えもんひらいておびをかなぐり、そではづすと、やはらかなかたさがつて、うでがふらりとれる。さうたま乳房ちぶさにも、糸一条いとひとすぢあやのこさず、小脇こわきいだくや、彫刻家てうこくか半身はんしんは、かすみのまゝに山椿やまつばきほのほぱつ[#「火+發」、U+243CB、75-4]からんだ風情ふぜい
 下襲したがさねの緋鹿子ひがのこに、足手あしてゆき照映てりはえて、をんなはだえ朝桜あさざくら白雲しらくもうらかげかよふ、とうちに、をとこかほあをつた。――をんなざう片腕かたうでが、ひぢところから、あかう、さゝらつてられてた。
「わツ、」とさけんで、咽喉のどつかんだまゝ、けやうとして振挙ふりあげたの、すぢつてぼうごとくにげると、をんなざうつるのやうに、ちら/\とかみくろく、青年わかもの肩越かたごしつばさみだしてひるがへつた。
 が、のまゝには振飛ふりとばさず。ほりしてはるかな石垣いしがき只中たゞなかへもたゝきつけさうだつたいきほひせて――猶予ためらさまして……トした足許あしもとを、までくだらず、此方こなたひくほりきしの、すぐ灰色はいいろみづる、角組つのぐんだあしうへへ、引上ひきあげたか、うかべたか、みづのじと/\とあるへりにかけて、小船こぶね一艘いつそうそこつたかたちは、ところがられぬおほいなるうをの、がくり、とんだ白髑髏しやれかうべのやうなのがある。


 ところ小船こぶねは、なんときか、むかぎしからこのきし漕寄こぎよせたものゝごとく、とも彼方かなたに、みよしあし乗据のつすえたかたちえる、……何処どこ捨小船すてをぶねにも、ぎやくもやつたとふのはからう。まだかはつたことには、ふなばたかすみつゝんで、ふつくり浮上うきあがつたやうなともまつて、五位鷺ごゐさぎ一羽いちは頬冠ほゝかぶりでもさうなふうで、のつとつばさやすめてむかふむきにチヨンとた。
 城趾しろあとあたりは、人里ひとざととほいから、にはとりこゑからすこゑより、五位鷺ごゐさぎいろけやう。それ不思議ふしぎいが、如何いかひとおそれねばとて、鶏冠とさかうへで、人一人ひとひとり立騒たちさは先刻さつきから、造着つくりつけたていにきよとんとして、爪立つまだてた片脚かたあしろさうともしなかつた。
 ふねなかへ、どさりとおとした。
 をんなざうどう仰向あふむけに、かたふなべりにかゝつて、黒髪くろかみあしはさまり、したからすそけて、薄衣うすぎぬごとかすみなびけば、かぜもなしにやはらかな葉摺はずれのおとがそよら/\。で、ふね一揺ひとゆすれるとおもふと、有繋さすが物駭ものおどろきをたらしい、とも五位鷺ごゐさぎは、はらりとむらさきがゝつた薄黒うすぐろつばさひらいた。
 ひらいたが、びはしない、で、ばさりと諸翼もろつばさはうつとひとしく、俯向うつむけにくびばして、あのながくちばしが、みづとゞくやいなや、小船こぶねがすら/\とうごきはじめて、おともなくいでる。
 るものはあきてゝ、どかと濠端ほりばたこしけた。
 五位鷺ごゐさぎはたらくこと。ふね一艘いつそうぐなれば、あしかぜ風情ふぜいにもまらず、ひら/\と上下うへしたつばさあふる。とふねはうは、落着済おちつきすましてゆめそらすべるやう、……やがてみぎははなす。
 あし枯葉かれはをぬら/\とあをぬめりのみづして、浮草うきぐさ樺色かばいろまじりに、船脚ふなあしころの、五位鷺ごゐさぎはうちやう。またひとしきりはげしくきふに、なめらかなおもみづひゞいて、鳴渡なりわたるばかりとつたが。
 あまりの労働はたらきはねあひだ垂々たら/\と、あせか、しぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、76-16]か、羽先はさきつたつて、みづへぽた/\とちるのが、ごといろづいて真赤まつかあふれる。……
だ、だ。」と濠端ほりばたで、青年わかものおどろさけんだ。
 はたしてあせしぼる、とえたは、つばさちるであつた。
ばつせえふねひとふねひとばつせえ、飛込とびこむのだえ!」
野良調子のらでうし高声たかごゑげて、広野ひろのかすみかげけぶらせ、一目散いちもくさん駆附かけつけるものがある。
 驚駭おどろきのあまり青年わかものは、ほとん無意識むいしきに、小脇こわきいだいた、一襲ひとかさねの色衣いろぎぬを、ふねむかつてさつげる、とみづへはちたが、其処そこにはとゞかず、しゆながしたやうにかげ宿やどうきくさたゞよふて、そであふり、もすそひらいて、もだくるしむがごとくにえつゝ、本尊ほんぞんたるをんなざうは、ときはや黒煙くろけむりつゝまれて、おほき朱鷺ときかたちした一団いちだんが、一羽いちはさかさまうつつて、水底みなぞこひとしく宿やどる。ふなばたにもほのほからんだ。
「えゝ! 飛込とびこめい、みづあさい。」
とき濠端ほりばたかけつけたは、もつぺととなへる裁着たつゝけやうの股引もゝひき穿いた六十むそじあまりの背高せたか老爺おやぢで、こしからしたは、身躰からだふたつあるかとおもふ、おほき麻袋あさぶくろげたのを、あし一所いつしよばしてて、
「あゝ、らちあかぬ。」とつぶやいて落胆がつかりする。
 ともさぎほのほえて、ふねいたは、ばらりとひらいた。ひとひとつ、幅広はゞひろけむりてゝ、地獄ぢごくそらえてく、くろのやう、――をんなざうかげせた。
「やれ、おくれた。みづあさいで、飛込とびこめばたすかつたに。――なんまをさうやうもない、旦那だんながおつれかたでがすかの。」
 青年わかものかたゆすつて、たゞ大息おほいきくのであつた。
んだことぢや、こんなあやしげなところへござつて、素性すじやうれぬふねるとはふがあるかい。おまけにお前様めえさま五位鷺ごゐさぎ船頭せんどうぢや……たぬきこさへた泥船どろぶねより、まだ/\あぶないのはれたことを。」


 めた、とふでもなしに、少時しばらくすると、青年わかものひとみやゝさだまつた。
なに心配しんぱいにはおよばん、ふねたのはきた人間にんげんではいのだから。」
 木樵躰きこりていくだん老爺ぢゞいは、没怪もつけかほして、
「や、きた人間にんげんうてなんでがす……死骸しがいかね、お前様めえさま。」
死骸しがいひどい。……勿論もちろん魔物まもの突返つゝかへされて、火葬くわさうつたやつだから、死骸しがい同然どうぜんなものだらう。ものだらうが、わたしぢや死骸しがいではなかつた。生命いのちのある、価値ねうちのある、きたものゝつもりだつた。老爺ぢいさん、いまのは、あれは、木像もくざうだ、製作つくつた木彫きぼりをんななんだ。」
木彫きぼりの? はて、」
うでんで、
「えい、それまたかはつたもんだね。ふね一所いつしよけたものは、きたひとうて、わし安堵あんどをしたでがすが、木彫きぼりだ、とけばなほ魂消たまげる……えれ見事みごとな、宛然まるで生身しやうじんのやうだつけの。背後うしろ野原のはらところで、肝玉きもたま宿替やどがへした。――あれ一面いちめんかすみなかけむりつゝまれて、しろ手足てあしさびいく/\ながら、ほり石垣いしがきけてつるがるやうにえたゞもの。地獄ぢごくかまふたつて、娑婆しやば吹上ふきあげた幻燈うつしゑおもふたよ。
 尋常じんじやうな、をんなひとほどにえつけ。等身とうしんのお祖師様そしさまもござれば丈六ぢやうろく弥陀仏みだぶつさつしやる。――これ人形にんぎやうは、はい、玩具箱おもちやばこ引転返ひつくりかへしたなかからばかりるもんではねえで、の、見事みごとなに不思議ふしぎいだが、心配しんぱいするな木彫きぼりだ、とはつしやる、……お前様めえさまつてて、ふねなかかしつたかな。」
なに打棄うつちやつたんだ。」と青年わかもの口惜くやしさうにつた。
打棄うつちやらしつたえ、持重もちおもりがたゞかね。」
とけろりとして、はなれたしろまゆをふつさりゆする。
 青年わかものはじり/\とつた。
「で、老爺ぢいさん、なにか、きみきた人間にんげんいから安堵あんどしたとつたね、いまふねには係合かゝりあひでもあるひとか。」
係合かゝりあひにもなんにも、わしふね持主もちぬしでがすよ。」
の、魔物まもの。」
青年わかものは、つた見得みえに、後退あとずさりしながら身構みがまへして、
なぶるな。ひと生死いきしにあひだ彷徨さまよところを、玩弄おもちやにするのは残酷ざんこくだ。貴様きさまたちにもくぎをれほどなさけるなら、一思ひとおもひにころしてしまへ。さあ、引裂ひきさけ、片手かたて※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)げ……」とはたとにらむ。
旦那々々だんな/\、」
なに旦那だんなだ。捕虜ほりよへ、奴隷どれいべ、弱者じやくしやあざけれ。ゆめか、うつゝか、わからん、おれとて貴様達きさまたち抵抗てむかひするちからはない。残念ざんねんだが、貴様きさまむかふと手足てあししびれる、こしたん。
 が、たすはづだつた女房にようばうおぶつてなら……ふもと温泉をんせんまではおろかこと百里ひやくり二百里にひやくり故郷こきやうまでも、東京とうきやうまでも、貴様きさまからすくふためには、んでもかへるつもりでた。彫像てうざう一個ひとついて歩行あるくに持重もちおもりがしてるものか! ……
 何故なぜざまろ、可気味いゝきみだ、と高笑たかわらひをして嘲弄てうろうしない。おれてたはてたが、ふね彫像てうざうげたのは、貴様きさま蹴込けこんだも同然どうぜんだい。」とにぎつたこぶしをぶる/\ふるはす、くちびるしろおのゝく。
 老爺ぢゞい遣瀬無やるせなまたゝきして、
げいもねえ、あだけたことはつしやるな。成程なるほどふねいたはわるいけんど、蹴込けこんだとは、なんたることだの。」
「おゝ、ふねいたは貴様きさまだな。それろ、それろ。うぬ魔物まもの山猫やまねこか、狒々ひゝか、きつねか、なんだ! 悪魔あくま女房にようばううばつたやつ。せめて、おれに、正体しやうたいせてくれ。一生いつしやう思出おもひでだ。さあ、のつぺらぱうか、目一めひとつか、おのれ真目まじ/\とした与一平面よいちべいづらは。まゆなんぞ真白まつしろはやしやがつて、分別ふんべつらしく天窓あたま禿げたは何事なにごとだ。顱巻はちまきれ、恍気とぼけるな。」と逆立さかだつて、またじり※(二の字点、1-2-22)詰寄つめよる。
 老爺ぢゞいおのつらを、ぺろりとひと撫下なでさげた。


 いや、様子やうす如何いかにも、かほながら不気味ぶきみさうにえた。――まゆひそめて、
「ま、ま、わけ旦那だんな落着おちつかつせえ、しづめさつせえまし。……魔物まものだ、おにわめいて、血相けつさうへてござる……うもところ、――うへ逆上のぼせあがらつしやるなよ――うやら取逆とりのぼせてさつしやるが、はて、」
上下うへした天守てんしゆ七分しちぶ青年わかもの三分さんぶ見較みくらべ、
「もの、此処こゝ城趾しろあとの、お天守てんしゆあがらつしやりはねえかの。」
ねえかぢやからう。昨夜ゆふべ貴様きさま何処どこつた?」
づ、むゝ、それわかつた。」
わかつたか。いや昨夜さくや失礼しつれいしたよ、魔物まもの隊長たいちやう。」
「はて、迷惑めいわくな、わし魔物まものだとおもはつしやる。」
魔物まものくて、魔物まものくて、おのれ五位鷺ごゐさぎ漕出こぎだして、ほりなか自然しぜんける……不思議ふしぎふね持主もちぬしるものか。」
成程なるほどなに仔細しさいらつしやらぬお前様めえさまは、様子やうすても、此処等こゝらひとではござらつしやらぬ。」
那様そんことつてうする、貴様きさまうばつてつたおれ女房にようばうの、町処ちやうところまでつてるではいか。」
かつしやるな。山裾やますその、双六温泉すごろくをんせんへ、湯治たうぢさつせえたひとだんべいの。」
れたことを、貴様きさまがおうら掴出つかみだした、……あの旅籠屋はたごや逗留とうりうしてる。」
「そんなら、はい、無理むりはねえだ。」
莞爾につこりして、草鞋わらぢさき向直むきなほつた。けむり余波なごりえて、浮脂きら紅蓮ぐれんかぬ、みづ其方そなたながめながら、
「あの……木葉船こツぱぶねはの、ちやん自然ひとりでうごくでがすよ……土地とちのものはつとります。で、さぎ船頭せんどう渾名あだなするだ。それ、さしつたとほり、五位鷺ごゐさぎぐべいがね。」
ぐのはさぎでもとんびでもかまはん。がせるのは人間にんげんぢやいのだらう。」
 余計よけいなことを、と調子てうし
「いんや、お前様めえさま、お天守てんしゆの、」
こゑひそめて、
「……ひと為業しわざなら、同一おなじさぎぐにして、ふねひかりはなつて、ふわ/\くもなか飛行ひぎやうするだ。
 ……たか/″\人間にんげん仕事しごとだけに、はね船頭せんどう使つかふても、みづうへいてくだよ。なに希有けうがらつしやるにはあたらぬ。あのふねは、わし慰楽なぐさみつくるでがす。」
「えゝ、こしらへる、して魔物まものではいとふのか。」
随意まゝにさつしやりませ。すつとこかぶりをした天狗様てんぐさまがあつてろかい。しづめさつしやるがい。うそおもふなら、退屈たいくつせずに四日よつか五日いつかわし小屋こや対向さしむかひにすはつてござれ、ごし/\こつ/\と打敲ぶつたゝいて、同一おなじふねを、ぬしまへこさへてせるだ。」
「ふん、」と返事へんじ呑込のみこんだが、まだいき発喘はずむのであつた。
うしてつくる。」
うしてつくる? ……つひ一寸ちよつくら手真似てまねはなされるもんではねえ。むねに、機関からくりつとります。」
機関からくりか。」
危険けんのん機関からくりだで、ちひさくこさへて、小児こども玩弄おもちやにもりましねえ。が、親譲おやゆづりの秘伝ひでんものだ、はツはツはツ、」
浮世うきよわすれたわらひをる。
「おち、親譲おやゆづりの秘伝ひでんふと……」
かたせまつたが、こゑ調子てうし大分だいぶしづまる。
なにも、家伝かでん秘法ひはふふて、勿体もつたいけるでねえがね……祖父おんぢいだいからことを、やう見真似みまねるでがすよ。」
それぢや、三代さんだい船大工ふなだいくか。」
些少すこし落着おちついて青年わかものいた。


雪枝ゆきえ菊松きくまつ




なんの、お前様めえさまさるとほ二十八方仏子柑にじふはつぱうぶしかん山間やまあひぢや。伐出きりだいて谿河たにがはながせばながす……駕籠かごわたしの藤蔓ふぢづるむにせい、船大工ふなだいくりましねえ。――私等わしらうちは、村里町むらざとまち祭礼まつり花車人形だしにんぎやう木偶之坊でくのばうこしらへれば、内職ないしよくにお玉杓子たまじやくしつたでがす。獅子頭しゝがしら閻魔様えんまさま姉様あねさまくびの、天狗てんぐめん座頭ざとうかほ白粉おしろひればべにもなする、青絵具あをゑのぐもべつたりぢや。
 そんなものさ、甘干あまぼしかきたやうに、のきへぶらげてりましつけ、……水損すゐそん山抜やまぬけ、御維新ごゐしん以来このかた城趾しろあとくさへる、ほりまる、むらさとくなりましたところへ、みちかはつて、旅人たびびととほらぬけえに、つから家業かげふらんでの、わしら、木挽こびき木樵きこりる。温泉場をんせんば普請ふしんでもときには、下手へた大工だいく真似まねもする。ひまにはどぜうしやくつてくらすだが、祖父殿おんぢいどんは、繁昌はんじやうでの、藩主様とのさま奥御殿おくごてんの、お雛様ひなさまこさへさしたと……
 祖父殿おんぢいどんはの、山伏やまぶし姿すがたしたたび修業者しゆげふじやが、道陸神だうろくじんそば病倒やみたふれたのを世話せわして、死水しにみづらしつけ……修業者しゆげふじやならつたひます。
 轆轤首ろくろくびさ、引窓ひきまどからねてる、見越入道みこしにふだうがくわつとく、姉様あねさまかほ莞爾につこりわらふだ、――切支丹宗門キリシタンしうもんで、魔法まはふ使つかふとふて、おしろなかころされたともへば、行方知ゆくへしれずにつたともふ。
 はじめは、不思議ふしぎ機関からくり藩主様とのさま御前ごぜんせいふて、おしろされさしけえの、其時そのときこさへたのが、五位鷺ごゐさぎ船頭せんどうぢや。
 それ、ふねうかべたのは、矢張やはりほり。」
ひかけて、みづにはのぞまず、かへつてそらゆびさした老爺ぢいゆびは、ひとつみね相対あひむかつて、かすみたかい、天守てんしゆむねならんでえた。
「これは、三重濠さんぢゆうぼりで、まるおくでがす。お殿様とのさまは、継上下つぎかみしも侍方さむらひがた振袖ふりそで腰元衆こしもとしゆづらりとれて御見物ごけんぶつぢや。
町人ちやうにんふねうするな。』
御意ぎよいにござります。みよしえました五位鷺ごゐさぎつばさり、くちばしかぢつかまつりまして、人手ひとでりませずみづうへわたりまする。』
申上まをしあげたて。……なれどもたゞ差置さしおいたばかりではさぎつばさひらかぬで、ひと一人ひとり重量おもみで、自然おのづからいでる。……一体いつたいが、天上界てんじやうかい遊山船ゆさんぶねなぞらへて、丹精たんせいめました細工さいくにござるで、御斉眉おかしづきなかから天人てんにんのやうな※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じやうらう御一方おひとかた、とのぞんだげな。
 当時たうじ飛鳥とぶとりちるとふ、おめかけ一人ひとりつてたが、ふね焼出やけだしたのは、ぬしさしつたとほりでがす。――めかけふのが、祖父殿おんぢいどん許嫁いひなづけつたともへば、馴染なじみだとも風説うはさしたゞね。
 ところで、綾錦あやにしきえつくとき祖父殿おんぢいどんげて、
飛込とびこめ、たすかる。』
我鳴がならしつけが、おめかけあはてもせず、たまかんざしくと、ふなばたから水中すゐちう投込なげこんで、さつかみさばいたとおもへ。……どう突伏つゝぷしてうごかぬだ。
 はだか飛込とびこんだ、侍方さむらひがたふねりはつたれども、ほのほせぬ。やつとのおもひでふねひつくらかへした時分じぶんには、緋鯉ひごひのやうにしづんだげな。――これだもの、お前様めえさま祖父殿おんぢいどんうちかへりごとるめえがね。
 おまけ家中うちぢう無事ぶじなものは一人ひとりかつた。が不思議ふしぎわしだけがたすかりました。
 御時世ごじせいかはつてから、古葛籠ふるつゞらそこつけました。祖父殿おんぢいどん工夫くふう絵図面ゑづめんひまにあかしてつてて、わしつてたが、あんぢやう燃出もえだしたで、やれ、人殺ひとごろし、と……はツはツはツ、みづはいつておよいでげた。
 こまつたことには、わしはらからの工夫くふうでねえでの、くまいやうにくと、五位鷺ごゐさぎうごかぬ。ほり真中まんなかすを合点がつてんむきには、幾度いくどこさへてせてしんぜる。其処そこで、へい、ふもとのものは承知しようちして、わしがことをさぎ船頭せんどうらちもない芸当げいたうだあ。」
しやがんで、こし煙草入たばこいれひねす。
 くものは、ぢて恍惚ぼうとした。


ところが、かつせえまし。」
と、すぱ/\とけむりかす。ちか煙草たばこ遠霞とほがすみで、天守てんしゆつゝんだ鬱蒼うつさうたる樹立こだちかげいてる。
段々だん/\むら遠退とほのいて、お天守てんしゆさびしくると、可怪あやし可恐おそろしこと間々まゝるで、あのふねものがいでくと、いま前様めえさまうたがはつせえたとほり……
 わしこさへものとおもひながら、不気味ぶきみがつて、なにひと仕掛しかけてく、おとりのやうに間違まちがへての。谿河たにがはながいかだはしからすまつてもるだよ。
 たれらぬので、ひさしあひだ雨曝あまざらしぢや。船頭せんどうふね退屈たいくつをしたところまたこれが張合はりあひで、わし手遊おもちやこさへられます。
 旦那だんなさぞ前様めえさま吃驚びつくりさつせえたらうが、前刻いましがたふね一所いつしよに、しろ裸骸はだかひとけるのをときは、やれ、五十年百年目ごじふねんひやくねんめには、なかおなことまたるか、と魂消たまげましけえ。それうてさへ、御時節ごじせつ有難ありがたさに、切支丹キリシタン間違まちがへられぬがつけものゝところぢや。あれが生身いきみをんなうて、わしもチヨンられずにんだでがす……
 が、お前様めえさままた一躰いつたいどうさつせえたわけでがすの。」
と、ちよこなんとした割膝わりひざの、真中まんなかどころへあごえて、啣煙管くはへぎせるじつながめる。……老爺ぢゞいまへ六尺ろくしやくばかりくさへだてゝ、青年わかものはばつたりひざいて、げた。……姿すがたを、天守てんしゆからたら、むしのやうなかたちであらう。
失礼しつれいしました。御老人ごらうじん貴下あなた大先生だいせんせいです。うか、御高名ごかうめいをお名告なのください。わたくし香村雪枝かむらゆきえつて、出過ですぎましたやうですが、矢張やつぱりきざんで、ものゝかたちこしらへます家業かげふのものです。」とはツと額着ぬかづく。
これは、」
おなじくくさにつけたさうげたりげたり、いしきんでもじついて、
旦那だんな、はて、お前様めえさまなにはつしやる。うさつしやる……しづめてくらつせえよ。」
いゝえうぞ、失礼しつれいながらお名告なのください。御覧ごらんとほり、わたくしうかしてる。……ゆめなんだか、うつゝなんだか、自分じぶんだか他人たにんだか、宛然まるで弁別わきまへいほどです――前刻さつきからおはな被為なすつたことも、其方そちらではたゞあはあはわらつてらつしやるのが、種々いろ/\ことばつて、わたくしみゝこえるのかもわかりません。が、それてもおかせください。おみゝはいれば、わたくしわたくしだけで、うけたまはつたことゝ了見れうけんします。香村雪枝かむらゆきえつてふんです。先生せんせい真個まつたく靱負ゆきへつて、むかしさむらひのやうななんですが、それのまゝゆきえだいて、がうにして若輩じやくはいものです。」
「えゝ/\、こまつたな、これは。へなら、ふだけれど、あらたまつては面目めんもくねえ。」
天窓あたまでざまに、するりと顱巻はちまきいてり、
「へい、ちつぢゞいには似合にあひましねえ、むらしゆわらふでがすが、八才やつつぐれえな小児こどもだね、へい、菊松きくまつつてふでがすよ。」
菊松先生きくまつせんせい貴下あなた凡人ぼんじんではらつしやらない。」
勘弁かんべんしてらつせえ。うゝとも、すうとも返答へんたふすべもねえだ…わし先生せんせいはれるは、ほぞつては最初はじめてだでね。」
なんとも御謙遜ごけんそんで、申上まをしあげやうもありません。大先生だいせんせい貴下あなたくつて、うして、五位鷺ごゐさぎきざめます。あのふねうごかせます。して、秘密ひみつひとらせまいために、てんくとせて、ふねをおかくしなさるんでせう。」
「お前様めえさまもの、祖父殿おんぢいどん真似まねをするだ、で、わし自由じいうにはんねえだ。間違まちがへて先生せんせいだ、師匠ししやうはつしやるなら、祖父殿おんぢいどんばらつせえ。」
おなことです、大名だいみやう子孫しそん華族くわぞくなら、名家めいか御子孫ごしそん先生せんせいです。とくわたくしまをさなければりません。
 わたくしいま仕事しごとるやうにりましたのは、貴下あなたか、あるひ祖父様ぢいさま御薫陶ごくんたうあづかつたとつてよろしい。」……


技芸天ぎげいてん




ちゝ或県あるけん書記官しよきくわんでした。」
雪枝ゆきえ衣兜かくしはさんだ。
一年あるとし巡廻じゆんくわいしたことります。わたくし七才なゝつときです。ころは、いま温泉をんせんかつたやうですね。」
温泉をんせんひらけたのはちかころことでがすよ。うでがすとも。まへからさびれてはましつけえ、おしろまはりに、だ、まちかたちのこつたころは、温泉をんせんかつけの。
 地震ぢしんえらおつぱだかつて、しやつきりのこつたのはお天守てんしゆばかりぢや。人間にんげんいへ押転おつころばして、ほり半分はんぶんがたうまりましけ。ふゆことでの、前兆ぜんてうべい、八尺余はつしやくよつもつたゆき一晩ひとばんけて、びしや/\とえた。あれまつあをいわ、とうちに、てん赤黒あかぐろつて、きものといきものは、どろうへおよいだての。
 ひゞきで、いまところへ、熱湯ねつたう湧出わきだいた。ぢやがさ、天道てんだうひところさずかい。生命いのちだけはたすかつても、はうまうの分別ふんべつなんだところ温泉をんせんさかつてたで、うやら娑婆しやばかたちつた。のかはり、もとからうはさたかかつたお天守てんしゆへんは、ひと寄附よりつかぬすごところりましたよ。さつせえ、いまに太陽様おてんとうさまさつせえても、濠端ほりばたかけて城跡しろあとには、お前様めえさま私等わしらほかには、人間にんげんらしいかげもねえだ。偶々たま/\突立つゝたつて歩行あるくものは、しやうくねえ、野良狐のらぎつねか、山猫やまねこだよ。
 こんなところへ、ぬしなんとしてまた姉様あねさま人形にんぎやうれてさつせえた。」
それじゆんにおはなししませう、」
雪枝ゆきえ一度いちどふさいだを、茫乎ばうけて、
ちゝところ巡廻じゆんくわいしたせつ何処どこ山蔭やまかげちひさなだうに、うつくし二十はたちばかりのをんなの、めづらしい彫像てうざうつたのを、わたくし玩弄おもちやにさせうと、堂守だうもり金子かねつて、とものものにたせてかへつたのを、ほか姉妹きやうだいもなし、あねさんが一人ひとり出来できたやうに、おぶつたりいたりました。おほきざうで、めしときなんぞ、ならんですはる、と七才なゝつとしわたくし芥子坊主けしばうずより、づゝとうへに、かみさがつた島田しまだまげえたんです。衣服きもの白無垢しろむくに、水浅黄みづあさぎゑりかさねて、袖口そでくちつまはづれは、矢張やつぱりしろ常夏とこなつはならした長襦袢ながじゆばんらしく出来できて……それうへからせたのではない。木彫きぼり彩色さいしきたんです。が、不思議ふしぎなのは、白無垢しろむくうしていてもちつとでも塵埃ほこりたまらず、むしはいも、ついたかつたことがい。花畑はなばたけへでもいてると、綺麗きれい蝶々てふ/\は、おびて、とまつたんです、ひと不思議ふしぎなのは、立像りつざうきざんだのが、ひざやはらかにすつとすはる。
 そで両方りやうはうからふりつて、ちゝのあたりで、上下うへした両手りやうてかさねたのが、ふつくりして、なかなにはいつてさうで、……けてつて、
ねえさん、』とつかまつたときなぞ、かたれると、ころりん、ころりんとそれじつに……なんとも微妙びめうかすかる、……父母ふたおやをはじめ、るほどのものは、なんだらうなんだらう、とひ/\したが、ゆびらなくてはわからないから、無論むろんけては仕舞じまひ
 とう/\彫像てうざうを――なんです――ちゝ暖炉ストーブべていたまでもわからなかつたんです。
 ちら/\ゆき晩方ばんがたでした。……わたくしは、小児こども群食むらぐひで、ほしくない。両親りやうしん卓子ていぶる対向さしむかひで晩飯ばんめしべてた。其処そこへ、彫像てうざうおぶつてはいつたんですが、西洋室せいやうまひらきけやうとして、
ねえさん、』と仰向あふむくとうへから俯向うつむいてたやうにおもふ、……廊下らうかながい、黄昏時たそがれどきひらききはで、むら/\とびんが、其時そのときそよいだやうにおもひました。ぱつちりしたが、まゆしたで、睫毛まつげくろまたゝいたやうで。……」
 ながら、のまゝ、ひらきける、と小児こどもせなに、すそ後抱うしろだきにして彫像てうざうたけつて、まげが、天井裏てんじやううらたかところえた。
 ト半靴はんぐつさきらした、母親はゝおやしろあし卓子掛ていぶるかけ絨氈じうたんあひだうごいた。まどそとゆきひかりでゝ、さら/\おとさうに、つきつて、植込うゑこみこずえがちら/\くろい。烈々れつ/\える暖炉だんろのほてりで、あかかほの、小刀ナイフつたまゝ頤杖あごづゑをついて、仰向あふむいて、ひよいと此方こちらいたちゝかほ真蒼まつさをつた。


東京とうきやう駿河台するがだいうちがあつた、二階にかいでした。」
ひかけて、左右さいうる、とほりくさばかりではく、だまつて打傾うちかたむいて老爺ぢゞいた。それを、……雪枝ゆきえたしか面色おもゝちであつた。
ちち矗乎すつくりつと……
『おのれ!』とつて、つか/\とましたが。わたくし身躰からだひとつ、胴廻どうまはりをると、かたからさかさまをんなちた。すそひぢかゝつて、はしつてゆかく、仰向あふむけのしろ咽喉のどを、小刀ナイフでざつくりと、さあ、りましたか、いたんですか。
『きやつ、』とつて、わたくし鉄砲玉てつぱうだまのやうに飛出とびだしたが、廊下らうかかべひたひつて、ばつたりたふれた。……よわはゝもひきつけてしまつたさうです。
 はゝは、ちゝが、木像もくざうどう挫折ひしをつた――それまたもろれた――のを突然いきなりあたまから暖炉ストーブ突込つゝこんだのをたが、折口をれくちくと、内臓ないざうがすつかり刻込きざみこんであつた。まるでしやうのものをるやうにはらわたながく、あをそれからんだので、あまりこと気絶きぜつしたんだ、とのちひます。
 ちゝとしつてくなるまで、其時そのときこといては一言いちごんなんにもはない。もつと当坐たうざ二月ふたつきばかりは、うかすると一室ひとまこもつて、たれにもくちかないで、考事かんがへごとをしてたさうですが、べつ仔細しさいかつたんです。
 たゞし其時そのときから、両親りやうしんわたくしをとこにしました。それまで、三人さんにん出来できみんなそだたなかつたので、わたくしをんなにしていたんです。雪枝ゆきえをんなのやうな。
 ぐにがうにして、いま、こんな家業かげふるやうにつたのも、小児こどもときから、ざうことが、にもこゝろにも身躰からだにもはなれなかつたせゐなんです。
 こんな辺鄙へんぴ温泉をんせんまゐつたのも、じつわすれられない可懐なつかしいたゝめです。何処どこらんが、木像もくざうは、ちゝ土地とちからつてかへつたとふぢやありませんか。
 やまたにみづも、其処そこにはわたくし師匠ししやうがある、としんた。はたして貴下あなたにおにかゝつた。――あの、白無垢しろむく常夏とこなつ長襦袢ながじゆばん浅黄あさぎゑりして島田しまだつた、りやう秘密ひみつかくした、絶世ぜつせ美人びじんざうきざんだかたは、貴下あなた祖父様おぢいさんではいでせうか。」
 雪枝ゆきえじつ対手あひてながめた。
「え、貴下あなたかもわからん、貴下あなたかもれません。先生せんせい仰有おつしやつてください、一生いつしやうのおねがひです。」
わけ旦那だんな祖父殿おんぢいどんことわしらんで、なにはつしやりますやうな悪戯いたづらたかもわからねえ。わしや、獅子鼻しゝばな団栗目どんぐりめ御神酒徳利おみきどつくりくちなら真似まねるが、弁天様べんてんさまえねえ……まあ、そんなことかつしやい。ぢやが、お前様めえさまやま先生せんせいみづ師匠ししやうふわけあひで、私等わしらにや天上界てんじやうかいのやうな東京とうきやうから、遥々はる/″\と……飛騨ひだ山家やまがまでござつたかね。」
掻蹲かつゝくばひ、両腕りやううでひざあづけたまゝ啣煙管くはへぎせる摺出すりだていは、くちばしながさぎ船頭せんどうけたやうなさまである。
 雪枝ゆきえは、しばらく猶予ためらつた。
かりにも先生せんせいんだ貴下あなたむかつて、うそへません。……一度いちどやう、是非ぜひたい。うまれない以前いぜんから雪枝ゆきえ身躰からだとは、許嫁いひなづけ約束やくそくがあるやうな土地とちです。信者しんじや善光寺ぜんくわうじ身延みのぶ順礼じゆんれいるほどなねがひだつたのが、――いざ、今度こんど、ととき信仰しんかうにぶつて、遊山ゆさんつた。
 それわるかつたんです……
 家内かない二人連ふたりづれたんです、しか婚礼こんれいたばかりでせう。」
 さかづきをさめるなり汽車きしやつていへ夫婦ふうふ身体からだは、人間にんげんだかてふだか区別くべつかない。遥々はる/″\た、とはれてはなんとももつきまりわるい。たましひもふら/\で、六十余州ろくじふよしうはなうへ歩行あるいてもつかれぬ元気げんきそれつゝかけに夜昼よるひるかけて此処こゝまでたなら、まだ/\仕事しごと手前てまへやまにもみづにも言訳いひわけがあるのに……彼方あつち二晩ふたばん此方こつち三晩みばんとまとまりの道草みちくさで、――はなにはくれなゐつきにはしろく、処々ところ/″\温泉をんせんを、よめ姿すがた彩色さいしきしては、前後左右ぜんごさいう額縁がくぶちのやうなかたちで、附添つきそつて、きざんでこしらへたものが、くものか、とみづから彫刻家てうこくかであるのをあざける了見れうけん

十一


 をののみわすれたものが、木曾きそ碓氷うすひ寐覚ねざめとこも、たびだかうちだか差別さべつで、なんやまたにを、神聖しんせい技芸ぎげいてん芸術げいじゆつおもはう。
 うちこそ、みねくもに、たにかすみに、とこしへふうぜられて、自分等じぶんら芸術げいじゆつかみ渇仰かつがうするものが、精進しやうじんわしつばさらないでは、そま山伏やまぶし分入わけいこと出来できぬであらう。ながれにはをのひゞきにはのみおとしろ蝙蝠かはほりあかすゞめが、ふもとさといろどつて、辻堂つじだううちなどはかすみかゝつて、はな彫物ほりものをしてやうとまで、しんじてたのが、こひしいをんな一所いつしよたゝめ、みねくもきざみ、みづたにつきつた、大彫刻だいてうこくながめても、をんなさしかんざしほどもかないで、温泉宿をんせんやどとまつた翌日よくじつ以前もとならばなによりもさきに、しか/″\のだうはないか、それらしい堂守だうもりまいか、とちゝ以前いぜん持帰もちかへつた、神秘しんぴ木像もくざうあとの、心当こゝろあたりをさがところ、――にもけないまでわすれてしまつて、温泉宿をんせんやど亭主ていしゆんで、たづねたのが、つたへた双六谷すごろくだにことだつた。
老爺おぢいさん。」
雪枝ゆきえ嗟歎さたんしてつた。
 温泉いでゆまちの、谿流けいりうについてさかのぼると、双六谷すごろくだにふのがある――其処そこ一坐いちざ大盤石だいばんじやく天然てんねん双六すごろくられたのがるとふが、事実じじつか、といたのであつた。
 亭主ていしゆこたへて、如何いかにも、へんうはさするには、はるあけぼののやうに、蒼々あを/\かすんだ、なめらかな盤石ばんじやくで、藤色ふぢいろがゝつたむらさきすぢが、寸分すんぶんたがはず、双六すごろくつてる。
ちやうど、工合ぐあひおもはれまする。』とてのひらたゝみけてゆびさしてせた。
 其時そのときすはつて蒲団ふとんが、蒼味あをみ甲斐絹かひきで、成程なるほどむらさきしまがあつたので、あだかすで盤石ばんじやく双六すごろく対向さしむかひにつたがして、夫婦ふうふかほ見合みあはせて、おもはず微笑ほゝえんだ。
 ……と雪枝ゆきえふ。
 けれども、それかみをのの、微妙いみじ製作せいさく会得ゑとくしたうれしさではなかつた。じつ矢叫やさけびごとながれおとも、春雨はるさめ密語さゝやきぞ、とく、温泉いでゆけむりのあたゝかい、山国やまぐにながらむらさきかすみ立籠たてこもねやを、すみれちたいけと見る、鴛鴦えんわうふすま寝物語ねものがたりに――主従しゆじう三世さんぜ親子おやこ一世いつせ夫婦ふうふ二世にせちぎりく……
まつた未来みらいでもへるのでせうか。』と他愛たあいのないこと新婦しんぷつた。
 二世にせおろ三世さんぜまでもとおも雪枝ゆきえも、言葉ことばあらそひをきようがつて、
なに二世にせなぞがあるものか、たましひほろびないでも、ねば夫婦ふうふはわかれわかれだ。』
とはぐらかすと、つま引合ひきあはせながら、起直おきなほつて、
わたしばかりではいやです。』
とツンとした。
『それでは二人ふたりで、一世いつせか、二世にせかけをしやう。』
 いやしくも未来みらい有無うむ賭博かけものにするのである。相撲取草すまうとりぐさくびぴきなぞでは神聖しんせいそこなふことおびたゞしい。けば山奥やまおく天然てんねん双六盤すごろくばんがある。仙境せんきやうきよくかこまう。
 で、勝敗しようはい紀念きねんとして、一先ひとまづ、今度こんど蜜月みつゞきたび切上きりあげやう。けれども双六盤すごろくばんは、たゞ土地とち伝説でんせつであらうもれぬ。実際じつさいなら奇蹟きせきであるから、ねんのためと、こゝで、翌日よくじつ旅店りよてん主人あるじいたのが、……くだん青石あをいし薄紫うすむらさきすぢはいつた、あたか二人ふたりいた座蒲団ざぶとんるとそれであつた。
案内者あんないしやでもやとへやうか。』
 亭主ていしゆとんでもない顔色かほつきで、二人ふたりながめたも道理だうり

十二


 双六すごろくたしかにあり。天工てんこう奇蹟きせきゆゑに、四五六しごろくまた双六谷すごろくだに其処そことなへ、温泉をんせんこえに、双六すごろくはするが、たにきはめて、盤石ばんじやくたものはむかしからだれい。――土地とち名所めいしよとはひながら、なか/\もつて、案内者あんないしやれて踏込ふみこむやうな遊山場ゆさんばならず。双六盤すごろくばんこと疑無うたがひなけれど、これあるは、つきなか玉兎ぎよくとのある、とおんなこと、と亭主ていしゆかたつた。
 土地とちのものが、其方そなたそらぞとながる、たにうへには、白雲はくうん行交ゆきかひ、紫緑むらさきみどり日影ひかげひ、月明つきあかりには、なる、また桃色もゝいろなる、きりのぼるを時々ときどきのぞむ。たまか、黄金こがねか、にもたうと宝什たからひそんで、群立むらだつよ、と憧憬あこがれながら、かぜ音信たよりもなければ、もみぢを分入わけいみちらず……あたか燦爛さんらんとして五彩ごさいきらめく、天上てんじやうほしゆびさしても、られぬ、とかはりはない。
 たゞ山深やまふかしづが、もすれば、伐木ばつぼくこだまにあらぬ、あやしく、ゆかしくかすかに、ころりん、から/\、とたへなる楽器がくきかなづるがごときをく――其時そのときは、もりえだが、ひとひと黄金こがね白銀しろがねいとつて、つたふるがごとくにかんずる……おもふに魔神まじん対向むかひあつて、さいげるひゞきであらう……なんにつけても、飛騨谷ひだだに第一だいいちかく場所ばしよちかづきがた魔所ましよである、と亭主ていしゆかたつたのである。
 二人ふたりは、くがごと他界たかいであるのをしんずるとともに、双六すごろくかけいやうへにも、意味いみふかいものにつたことよろこんだ……勿論もちろんたに分入わけいるにいて躊躇ちうちよたり、恐怖おそれいだいたりするやうなねんいさゝかかつた。
 と雪枝ゆきえつゞいてつた。
うへ好奇心かうきしんにもられたでせう。ぐにも草鞋わらぢはして、とおもつたけれども、彼是かれこれ晩方ばんがたつたから、宿やど主人あるじゐて、途中とちゆうまで案内者あんないしやけさせることにして、晩飯ばんめしすませました。」
 双六谷すごろくだにへは、翌早朝よくさうてう意気組いきぐみ今夜こんや二世にせかけた勝敗しようはいしに、たゞむつまじいのであらうとおもふ。宵寐よひねをするにもあまはやい、一風呂ひとふろびたあと……を、ぶらりと二人連ふたりづれ山路やまみちたのが、ちやうど……きつねあなにはあかりかぬが、さるみせにはともしび時分じぶんなにとなくうすさむい、其処等そこらかすみも、遠山とほやまゆきかげすやうで、夕餉ゆふげけむり物寂ものさびしうたにおちる。五六軒ごろくけん藁屋わらやならび、なかにも浅間あさま掛小屋かけこやのやうな小店こみせけて、あなから商売しやうばいをするやうにばあさんが一人ひとりそとかしてた。みせけものかはだの、獅子頭しゝがしらきつねさるめん般若はんにやめん二升樽にしやうだるぐらゐな座頭ざとうくび、――いやそれしろをぐるりといて、亀裂ひゞはいつたかべ仰向あふむいたかたちなんぞあんま気味きみいものではなかつた。たれこしらへるものがて、それるらしい。破莚やれむしろうへは、あゐ絵具ゑのぐや、紅殻べにがらだらけ――ばあさんの前垂まへだれにも、ちら/\しものやうに胡粉ごふんがかゝつた。角細工つのざいく種々いろ/\ある。……
「はツはツ、婆様ばあさまうちぢや。」と老爺ぢゞい不意ふいわらけて、
ちやでもあがつてござつたかの。」
 雪枝ゆきえ不図ふと心着こゝろづいたらしく調子てうしへて、
「あゝ、お知己ちかづきみせなんですか。」
むかしこひでがす。あれでもの、お前様めえさま新造盛しんざうざかりのことつけ。人形あねさましがる時分じぶんぢや。なんぼ山鳥やまどりのおろのかゞみで、頤髯あごひげでたところで、えだで、のこぎり使つかひ/\、さるあしならんだしりを、したからせてはつこちねえ。其処そこで、人形にんぎやうやら、おかめのめんやら、御機嫌取ごきげんとりこしらへてつて行つては、莞爾につこりさせて他愛たあいなく見惚みとれてたものでがす。はゝゝ、はじめのうち納戸なんど押入おしいれかざつての、るなるな、とふ。おそろしい、をとこつてほねかくす、とむらのものがなぶつたつけの……真個ほん孤屋ひとつやおにつて、狸婆たぬきばゞあが、もと色仕掛いろじかけでわし強請ゆすつて、いまではおあしにするでがすが、旦那だんななにはしつたか、沢山たんと直切ねぎらつしやればかつけな。」


さい



十三


「おゝ、老爺おぢいさんが、あの、種々いろ/\なものを。」
雪枝ゆきえめた顔色かほつきして、
めんかしらも、お製作こしらへにつたんですか。……あゝ、いや、さぎのお手際てぎはたのでわかる。のきさがつた獅子頭しゝがしらや、きつねめんなど、どんな立派りつぱなものだつたかわからない。が、それ了見れうけんなら、こんな虚気うつけな、――対手あひておににしろ、にしろ、自分じぶん女房にようばううばはれる馬鹿ばかない。
 失礼しつれいながら、そんなものはめないで、
さいいか。』
『おばあさん、あの、さいはありませんか。』
同伴つれをんないたんです。」……
 双六巌すごろくいはらうとふ、よくかんがへればゆめのやうなことだつた。
一六いちろく三五さんご采粒さいつぶかの、はい、ござります。』とすみかべ押着おつゝけた、薬箪笥くすりだんすふるびたやうな抽斗ひきだしけると、ねづみふんが、ぱら/\こぼれる。なかから、畳紙たとうがみして、ころ/\とゆすりながらのき明前あかりさきつてた。
ゐのしゝきばこさへました、ほんにさいでござります、御覧ごらうじまし。』と莞爾々々にこ/\しながら、てのひららしてせたところを、二人ふたり一個ひとつづゝつた。
 さいたまのやうにえた。綺麗きれいみがいたのが透通すきとほるばかりに出来できて、点々ぽち/\つたくろいのが、ゆきなかかげあらはれた、つらな山々やま/\ひいでたみねふかたにのやうに不図ふとえた。
可愛かあいぢやありませんか。』
同伴つれをんな一寸ちよいとつまんだが、てのひらなほして、
『おばあさん、おもませうか。』とみぎふたむねへつけて、ころ/\とつてる。
 と背中せなかからめて、づる/\ととほくへつてかれたやうにつて、雪枝ゆきえ其時そのときこと思出おもひだした。
ときことふのは、ちゝ土地とちほこらからつてかへつた、あの、てのひら秘密ひみつかくした木像もくざうです。」
「おゝ、」とうなづく、老爺ぢい腕組うでぐみかたうごかす。
「あゝ、それぢや、木彫きぼり美人びじんが、ちゝのナイフに突刺つきさされて、暖炉ストーブなかかれたときまで、ちつとも秘密ひみつかさなかつた、微妙びめうのしたものは、同一おなじさいであつたかもれない。
 ときに、そばつた家内かない姿すがたが、それ髣髴そつくりだ、とおもふと、想像さうざうとほむかしかへつて、不思議ふしぎなもので、そでならべたおうら姿すがたが、づゝとはなれてはるかなむかふへ……」
雪枝ゆきえかたつて、押遣おしやるやうにつた。
其時そのときことおもふと、老爺おぢいさん、うちにも貴方あなた身体からだとほくへく……ふら/\とあひだはなれる。」……
 して、ばあさんのみせなりに、おうら身体からだむかふへ歩行あるいて、それが、たにへだてたやま絶頂ぜつちやうへ――湧出わきでくも裏表うらおもてに、うごかぬかすみかゝつたなかへ、裙袂すそたもとがはら/\と夕風ゆふかぜなびきながらうすくなる。
 あのあたりへ、夕暮ゆふぐれかねひゞいたら、姿すがたちかもどるのだらう、――とふともなく自分じぶん安心あんしんして、益々ます/\以前もとかんがへふけつてると、ほだくか、すみくか、谷間たにまに、彼方此方かなたこなた、ひら/\、ひら/\と蒼白あをじろほのほあがつた。
 おもはず彫像てうざういた暖炉ストーブ心着こゝろづいて、何故なぜか、きふをんなあやぶまれてた。
『おうら。』
んだが返事へんじをしない。
『おうら、おうら。』とつたが、返事へんじない。雪枝ゆきえうきよろ/\しした、それ二足三足ふたあしみあしづゝ、前後左右ぜんごさいうを、ばた/\とつたり、たり……
 あはたゞしくつてた。
 第一だいいち、おうらばかりぢやない、其処そこばあさんもえなければ、それらしいみせもない。
 いや、これは可怪おかしいぞ。一人ひとりばかりないのなら、をんなうかしたのだらうが、みせばあさんもなくなつた、とすると……前方さきさらはれたのぢやなくつて、自分じぶんつままれたものらしい。
『おゝい、おゝい。』
智恵ちゑのないこゑをしながら、無暗むやみひとんで、雪枝ゆきえ山路やまみちかけづりまはつた。

十四


段々だん/\くらくなる、くらむ、かぜ吹出ふきだす。かぜは……昼間ひるまあをんだやまかひからおこつて、さはつてえだ岩角いはかど谷間たにあひに、しろくものちぎれてとりとまるやうにえたのはゆきのこつたのか、……とおもふほど横面よこづらけづつてつめたかつた。
『ま……、何処どこへござらつしやる、旦那だんな。』
とすた/\小走こばしりにけてて、背後うしろからたもと引留ひきとめた、山稼やまかせぎのわかをとこがあつた。
『お城趾しろあとかしつてはりましねえだよ。れたに、当事あてこともねえ。』とすこしかつてふ。
 けむりつて、づん/\とあがるさか一筋ひとすぢ、やがて、けむりすそ下伏したぶせに、ぱつとひろがつたやうな野末のずゑところかゝつてました。」
 雪枝ゆきえむね伸上のしあげて、みさき突出つきでわんそとのぞむがごと背後状うしろざま広野ひろのながめた。……東雲しのゝめくも野末のずゑはなれて、ほそながたて蒼空あをぞらいといて、のぼつてく、……ひとうまも、其処そことほつたら、ほつほつとゑがかれやう、とりばゞえやう、――けれども天守てんしゆ屋根やねもりつゝんで、かすみがくれになほくらい。うへはて引上ひきあげくも此方こなたをさしてたゝまつてるやうで、老爺ぢゞい差向さしむかつた中空なかぞらあつさがす。くらおくから、黄金色こがねいろ赤味あかみしたくもが、むく/\と湧出わきだす、太陽たいやう其処そこまでのぼつた――みぎはあしれたにも、さすがにうすひかりがかゝつて、つのぐむ芽生めばえもやゝけぶりかけた。けむり月夜つきよのやうにみづうへにもかゝる。ふねけた余波なごり分解わかず……たゞ陽炎かげらふしきりかたちづくりするのが分解わかる。――やがて、これが、一面いちめんくさつたはつて、次第しだいにひら/\と、ふもとりて遊行ゆぎやうしやう。……さて、あたれば、北国ほくこく山中さんちゆうながら、人里ひとざと背戸せど垣根かきねに、かみかせたもゝさくらが、何処どこともそらうつらう。まだ、朝早あさまだき、天守てんしゆうへからをかけてかたちくもむらがつて、処々ところ/″\物凄ものすさまじくうづまいて、あられほとばしつてさうなのは、かぜうごかすのではない。四辺あたり寂寞ひつそりしてる……みねあたり、いたゞきさはつて、山々やま/\のためにれるのである。
 くもうごとき二人ふたりかたちおほきくつた。じつとするとき渠等かれら姿すがたちひさくつた。――飛騨ひだやまのあたりは、土地とち呼吸こきうをするのかもわからぬ。
 雪枝ゆきえ伸上のびあがつたときひざくさいてた。
とき来懸きかゝつたのは、うも、はらの、むかふの取着とつゝきであつたらしい。
『お城趾しろあとはうつてはんねえだ。』とつてをとこ引取ひきとめました……わたくし家内かない姿すがたたかやま見失みうしなつたが、うも、むかふがそらあがつたのではなく、自分じぶん谷底たにそこちてたらしい。其処そこきづだらけにつて漸々やう/\ところが、取着とつゝきで、以前いぜん夫婦ふうふづれで散歩さんぽ場所ばしよとは、全然まるで方角はうがくちがう、――御存ごぞんじのとほり、温泉をんせん左右さいう見上みあげるやうなやまひかへた、ドンぞこからきます。
 で、ばあさんのみせつたのはみなみさかで、城趾しろあときた山路やまみちからるのでせう。
 土地とちをとこ様子やうすいて、
『あゝ、つままれた……つままれたんだ。いや、薄髯うすひげへたつらで、なんとも面目めんぼく次第しだいもない。』
しきり面目めんもくながるくせに、あは/\得意とくいらしい高笑たかわらひをつた。家内かない無事ぶじ祝福しゆくふくするこゝろでは、自分じぶんせられたのを、かへつて幸福かうふくだとおもつてよろこんだんです。
えらい、東京とうきやうきやくだますのは豪儀がうぎだ。ひよい、といて温泉宿をんせんやど屋根越やねごしやまひとつ、まるで方角はうがくちがつたところへ、わたしつて手際てぎはふのはい。なにか、へんに、有名いうめいきつねでもるか。』
つぱらひのやうなことつて、ひよろ/\ながら、をとこみちびかれて引返ひきかへす。
きつねたぬきではござりましねえ、お天守てんしゆにござる天狗様てんぐさまだのエ、時々とき/″\悪戯いたづらをさつしやります。』
なに天狗てんぐ。』
ふとあはたゞしくたもといて、
『えゝ、おほきこゑをさつしやりますな、こえるがのエ』と、あをかほして、をとこは、足許あしもとこずゑからいてえる、ともしびかげゆびさしたんです。」


こだま



十五


 で、其処そこ温泉宿をんせんやどだ、とをしへて、山間やまあひがけしげつたほそみちへ、……背負せをつてた、たけびた雑木ざうきまきを、身躰からだごとよこにして、ざつとはいつてく。
 しばらく、ざわ/\とつてた。
 きふなんだかさびしくつて、ゑひざめのやうな身震みぶるひがた。いそいで、燈火ともしびあて駆下かけおりる、とおもひがけず、ゆきにはおぼえもない石壇いしだんがあつて、それ下切おりきつたところ宿やどよこながれるるやうな谿河たにがはだつた。――おどろいたのは、やまふたわかれの真中まんなかを、温泉宿をんせんやどつらぬいてながれる、かはを、何時いつへて、城趾しろあとはうたかすこしもおぼえがい。
 きしづたひに、いはんで後戻あともどりをて、はし取着とつゝき宿やどかへつた、――これ前刻さつきわたつて、むかごしで、山路やまみちはうへ、あのばあさんのみせはしだつた。
『おかへりなさいまし。』
むか廊下らうかから早足はやあしで、すた/\来懸きかゝつた女中ぢよちゆう一人ひとり雪枝ゆきえ立停たちとまつた。
御緩ごゆつくさまで、』と左側ひだりがはの、たゝみ五十畳ごじふでふばかりの、だゞつぴろ帳場ちやうば、……真中まんなかおほきつた、自在留じざいとめの、ト尾鰭をひれねたこひかげから、でつぷりふとつたあかがほして亭主ていしゆふ。
同伴つれかへつたらうね。』といたとき雪枝ゆきえ間違まちがひことしんじながら、なんだかむねがドキ/\した。
奥方様おくがたさまで、はゝ、なにや、一寸ちよいと見申みまをせ。』とあごけると、其処そこ女中ぢよちゆうが、
御一所ごいつしよではかつたのでございますか。』
 で、ばた/\と廊下らうかを、ぐに二階にかい駆上かけあがつた。
 何故なぜ雪枝ゆきえ他人たにん訪問はうもんたやうな心持こゝろもちつて、うつかり框際かまちぎは広土間ひろどま突立つゝたつてた。
 山路やまみちから、あとけてたらしいあらしが、たもとをひら/\とあふつて、さつ炉傍ろばた吹込ふきこむと、ともしび下伏したぶせくらつて、なかあかるえる。これがくわつと、かべならんだ提灯ちやうちんはこうつる、と温泉いでゆかをりぷんとした。
 五六段ごろくだん階子はしごのこして、女中ぢよちゆう廊下らうかたかところかほして、
『まだ、おかへあそばしません。』
りてて、ちやんとまをさぬかい、なんぢや、不作法ぶさはふな。』と亭主ていしゆ炉端ろばたから上睨うはにらみをる。
 雪枝ゆきえ一文字いちもんじまへ突切つゝきつて、階子段はしごだん駆上かけあがざまに、女中ぢよちゆう摺違すれちがつて、
『そんなはづい。そんな、おまへ、』とたしなめるやうにひ/\飛上とびあがつたのであつた。
『それともおへおでなさいましてですか、お座敷ざしきにはらつしやいませんですよ。』と小走こばしりにいてる。
 もとより女中ぢよちゆう串戯ぢやうだんふわけはい。ないものはないので、座敷ざしきると、あとを片附かたづけて掃出はきだしたらしく、きちんとつて、けたてのしんほそめた台洋燈だいらんぷが、かげおほきくとこはして、片隅かたすみ二間ふたまたゝんだ六枚折ろくまいをり屏風びやうぶ如何いかにもさびしい。
 してたれない八畳はちでふ真中まんなかに、双六巌すごろくいはたと紫縞むらさきじま座蒲団ざぶとん二枚にまい対坐さしむかひえてつたのを一目ひとめると、天窓あたまからみづびたやうに慄然ぞつとした。此処こゝへもさつ一嵐ひとあらし廊下らうかからつて座敷ざしき吹抜ふきぬけて雨戸あまどをカタリとらす。
 うして、おうらかれるのがきまつた運命うんめいではからうかとおもつた……
浴室ゆどのだ、浴室ゆどのだ。ておいで。と女中ぢよちゆう追遣おひやつて、たふむやうに部屋へやはいつて、廊下らうか背後向うしろむきに、火鉢ひばちつかまつて、ぶる/\とふるへたんです。……老爺おぢいさん。」
雪枝ゆきえ片手かたてむねいた。
亭主ていしゆあがつてました。
『えゝ、一寸ちよいと引合ひきあはせまをしまする。このをとこの、明日みやうにち双六谷すごろくだに途中とちゆうまで御案内ごあんないしまするで。さあ、ぬし、お知己ちかづきつてけや。』と障子しやうじかげしやがんで山男やまをとこかほさせる、とこれが、いましがたつひ其処そこまでわたしおくつてくれたわかいもの、……此方こつち其処そこどころぢやい。」

十六


ると、外聞ぐわいぶんなんぞかまつてはられない。つままれたかたぶらかされたか、山路やまみち夢中むちゆう歩行あるいたこと言出いひだすと、みなまではぢはぬうちに……わかをとこ半分はんぶん合点がつてんしたんです。」
 さあ、亭主ていしゆとんでもかほをする。さがすのに、湯殿ゆどの小用場こようばでは追着おつつかなくつた。
権七ごんしちや、ぬしづ、婆様ばあさまみせはしれ、旦那様だんなさま早速さつそくひとしますで、おあんじなさりませんやうに。ぬしはたらいてくれ、さあ、い、』
わかいものをれて、どたばた引上ひきあげる時分じぶんには、部屋へやまへから階子段はしごだんうへけて、女中ぢよちゆうまじりに、人立ひとだちがするくらゐ、二階にかいしたなにとなくさはつ。
 雨戸あまどけて欄干らんかんからそとると、山気さんきひやゝかなやみつて、はしうへ提灯ちやうちんふたつ、どや/\と人影ひとかげが、みち右左みぎひだりわかれて吹立ふきたてるかぜんでく。
 真先まつさき案内者あんないしや権七ごんしちかへつてたのが、ものゝ半時はんときあひだかつた。けれども、あし爪立つまだつてつてには、夜中よなかまでかゝつたやうにおもふ。
 ばあさんにけば、夫婦ふうふづれのしゆは、うち采粒さいつぶはつしやると、両方りやうはうかほ見合みあひながら後退あとしざりをして、むかがけくらはうはいつたまで。それからはおぼえてらぬ。うとし、暮方くれがたではあり、やがてくらくなつてしまつた、と権七ごんしちふ。
 のみ、手懸てがゝりはなんにもい。
矢張やつぱりなにわたしのやうに、つままれてみちまよつたらうか。』
うでもござりやすめえ、奥様おくさまは、のお前様めえさまさが歩行あるいて、それだ、おかへりがいのでござりやせうで、天狗様てんぐさま二人一所ふたりいつしよさらはつしやることは滅多めつたにねえことでござります。いまにおかへりにるでござりやしやう。宿やどでも心配しんぱいをしてりますで、夜一夜よつぴてねえでさがしますで、お前様めえさまは、まあ、やすまつしやりましたがうござります。』
 ではい。一所いつしよさがしにかけやうとふと、いや/\山坂やまさか不案内ふあんない客人きやくじんが、やみ夜路よみちぢや、がけだ、たにだで、かへつて足手絡あしてまとひにる。……案内者あんないしややとはれるものが、なにらないまへ道案内みちあんないたとふもなにかのえんおもふ。人一倍ひといちばい精出せいだしてさがさうからしづかにやすめ、と頼母たのもしくつて、すぐにまた下階したりた。
 一時ひとしきり騒々さう/″\しかつたのが、寂寞ひつそりばつたりして平時いつもより余計よけいさびしくける……さあ、一分いつぷん一秒いちびやうえ、ほねきざまれるおもひ。ときてばつだけ、それだけおうらかへのぞみがくなるとつた勘定かんぢやう九時くじ十時じふじ十一時じふいちじぎても音沙汰おとざたい。時々とき/″\廊下らうか往通ゆきかよ女中ぢよちゆうが、とほりすがりに、
あそばしたのでございませう、』
『うむ、』
御心配ごしんぱいでございます。』
『あゝ、』
 ――返答へんたふ出来できないで、溜息ためいきかほて、げるやうに二三人にさんにんけた。
 やがて十二時じふにじつた。女中ぢよちゆうとこりにて、ひとべて、ふたならべやうとたので、
『そりやからう、』とつたときわれながらへんこゑだとおもつた。……勿論もちろんもせず、枕元まくらもとれい紫縞むらさきじまのをらして、落着おちつかない立膝たてひざなにくともみゝますと、谿河たにがはながれがざつとひゞくのが、ちた、ながれた、打当ぶちあてた、いはくだけた、しんだ――とこえる。
『あゝつ、』といまはしさにはらつて、すはなほして其処等そこら※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはす、とそつ座敷ざしきのぞいた女中ぢよちゆうが、だまつて、スーツと障子しやうじめた。――けてさむからうと、深切しんせつたにちがひないが、未練みれんらしいあきらめろ、と愛想尽あいさうつかしをれたやうで、くわつかほあつくなる。
 背中せなかがぞつとさむる……背後うしろる、ととこ袖畳そでだゝみをしたをんな羽織はおり、わがねた扱帯しごきなにとなくいろつめたつて紀念かたみのやうにえてた、――持主もちぬしくなると、かへつてそんなものが、きてたやうにおもはれて、一寸ちよいとさはるのもはゞかられる。
 何処どこか、しゆつ/\とかぜとほる……

十七


「うらかなしい、心細こゝろぼそい、可厭いやこゑで、
『お客様きやくさまあゝ、』
奥様おくさま、』とぶのが、山颪やまおろしかぜひゞいて、みゝへカーンとこだまかへしてズヽンとなうえぐる。
『お客様きやくさま、』
奥方様おくがたさま。』……はなさけない。すこ裏山うらやまちかつたとおもふと、をんなこゑまじつて、
奥様おくさまやあ、』とんだ。ヒイとこれ悲鳴ひめいげるやうで、家内かない絞殺しめころされるさけびにこえる、たまりません。
 廊下らうか跣足はだして、階子段はしごだんうへからさかさま帳場ちやうばのぞいて、
御主人ごしゆじん御主人ごしゆじん、』
と、うみいだあとを、ぶる/\ふるへるなみのやうなたゝみうへに、をとこだかをんなだか、二人ふたりばかり打上うちあげられたていで、くろつて突伏つゝぷした真中まんなかに、手酌てじやくでチビリ/\つて亭主ていしゆが、むつくりあたまげて、
『まだ御寐およりませんかな。』とひ/\四五段しごだんのぼつた、中途ちゆうと上下うへした欄干てすりごしかほはせた。
またかはつててくれたのかね、あゝつてんでるのは、』
『へい、いゝえ山深やまふかまゐつたのが、近廻ちかまはりへ引上ひきあげてたでござります。』
『まだ、れんのだね、あゝして呼立よびたてゝるのをると。』
『へい、なにしろ、や、やまたにすうれんところでござりますけにな。……』
歎息たんそくたが、つらつて、くしやみをした。
『しかし、あれでござりましよ。何分なにぶんけましたで、みちをしへますものも明方あけがたまでちませうし、また……奥方様おくがたさまも、みち草臥くたびれでござりませうで、いづれにもけましたら、わかるに相違さうゐござりません。』
わかるつて? 死骸しがいか、』
『えゝ?』
んだらそれまでだ。』と自棄やけつて寐床ねどこかへつて打倒ぶつたふれた。……
『お客様きやくさま、』
奥様おくさま、』とぶのが十声とこゑばかりして、やがて、ガラ/\とかどおほきくつてく。わたしゑりかぶつてみゝふさいだ! だれ無事ぶじだ、とらせてても、くまい、とねたやうに……勿論もちろんなんともつてはません。
 其癖そのくせ、ガラ/\とまた……今度こんど大戸おほどしまつたときは、これで、う、家内かないわたしは、幽明いうめいところへだてたとおもつて、おもはずらずなみだちた。…
 ト前刻さつきせ、とつてめたけれども、それでも女中ぢよちゆうべてつた、となり寐床ねどこの、掻巻かいまきそでうごいて、あふるやうにして揺起ゆりおこす。
『おゝ、』と飛附とびつくやうな返事へんじかほしたが、もとよりたれやうはずい。まくらばかりさびしくちやんとあり、木賃きちんいのがほうらかなしい。
 じつ視詰みつめて、茫乎ぼんやりすると、ならべた寐床ねどこの、家内かないまくら両傍りやうわきへ、する/\とくさへて、みじかいのがる/\びると、おほひかゝつて、かやともすゝきともあしともわからず……なか掻巻かいまきがスーとえる、とおほきへびがのたりとて、わたしはう鎌首かまくびもたげた。ぐつたりして手足てあしはたらかす元気げんきもない。くびめてころさばころせで、這出はひだすやうにあたま突附つきつけると、真黒まつくろつて小山こやまのやうな機関車きくわんしやが、づゝづと天窓あたまうへいてとほると、やはらかいものがつたやうな気持きもちで、むねがふわ/\と浮上うきあがつて、反身そりみ手足てあしをだらりとげて、自分じぶん身躰からだ天井てんじやう附着くつつく、とおもふとはつとめる、……けないのです。
 おなじやうなせつないゆめを、幾度いくたびとなくつゞけてて、半死半生はんしはんせいていつとわれかへつたとき亭主ていしゆが、
御国許おくにもと電報でんぱうをお被成なさりましては如何いかゞでござりませう。』と枕許まくらもとすはつてました。
馬鹿ばかな。』
一言いちごんのもとにしりぞけたんです。」

十八


怪我けが過失あやまち病気びやうきなら格別かくべつ、……如何いか虚気うつけなればとつて、」
 雪枝ゆきえ老爺ぢゞいこれかたとき濠端ほりばたくさ胡座あぐらした片膝かたひざに、握拳にぎりこぶしをぐい、といてはら波立なみたつまで気兢きほつてつた。
女房にようばう紛失ふんしつした、と親類しんるゐ知己ちき電報でんぱうけられない。
なにしろ、ちつ手懸てがゝりの出来できるまでそれ見合みあはせやう。』
『で、ござりまするが、ねんのために、お国許くにもとへおらせにりましては如何いかゞなもので、』
いゝから、死骸しがいでもなんでも見着みつかつたときにせう。』
の、へい……死骸しがいうも、』
なんだ、死骸しがいわからん。』
 わたしむねけるほど亭主ていしゆ言葉ことばさはつた。死骸しがいつてる、とつたやうな、やつ言種いひぐさなんとももつ可忌いまはしい。
おれ見着みつけてつてかへる、死骸しがいるのをつてれ。』とにらみつけて廊下らうか蹴立けたてゝた――帳場ちやうば多人数たにんず寄合よりあつて、草鞋穿わらぢばき巡査じゆんさ一人ひとりかまちこしけてたが、矢張やつぱりこといてらしい。
 痘痕あばたのある柔和にうわかほで、どくさうにわたした。がくちかないでフイとかどを、ひとからふりもぎる身躰からだのやうにづん/\出掛でかけた。」
 くもしろやまあをく、かぜのやうに、みづのやうに、さつあをく、さつしろえるばかりで、黒髪くろかみみどり山椿やまつばき一輪いちりん紅色べにいろをしたつままがふやうないろさへ、がゝりは全然まるでない。
 くらむほどはらけば、よた/\と宿やどかへつて、
『おい、めしはせろ。』
 で、また飛出とびだす、がけたにもほつゝき歩行あるく、――とくもしろく、やまあをい。……ほかえるものはなんにもない。あをなうあをつてしまつたかとおもふばかり。時々とき/″\くろいものがスツスツととほるが、いぬだか人間にんげんだか差別さべつがつかぬ……客人きやくじんへんつた、ちがつた、とこゑあざけるごとく、あはれごとく、つぶやごとく、また咒咀のろごとみゝはいる……
『お客様きやくさま、』
奥様おくさま』とぶのがみねからつたはる。こだまかへしてたにへカーンとひゞく、――くもしろく、やまあをく、かぜいてみづながれる。
客人きやくじんちがつた、』とふのがわかる。
よしなんとでも言へ、昨日きのふ今日けふ二世にせかけてちぎりむすんだ恋女房こひにようばうがフト掻消かきけすやうに行衛ゆくゑれない。それさがすのが狂人きちがひなら、めしふものはみな狂気きちがひあついとふのもへんで、みづつめたいとおもふも可笑をかしい。温泉をんせん湧出わきだすなどは、沙汰さたかぎりの狂気山きちがひやまだ、はゝゝはゝ、」
雪枝ゆきえ額髪ひたひがみゆするまで、ひざかゝへて、高笑たかわらひつた。
 くもうごいて、薄日うすびして、らしたむねと、あふいだひたひかすかにらすと、ほつとつたやうないろをしたが、くちびるしろく、血走ちばしるのである。
 老爺ぢゞい小首こくびかたむけた。
 きふまた雪枝ゆきえは、宛然さながら稚子おさなごるやうに、両掌りやうてさうしかてゝ、がつくり俯向うつむく、背中せなかくもかげくらした。
うち四辺あたり真暗まつくらつた。くらつたのはよるだらう、よるくらさのひろいのは、はたけ平地ひらちらしい、はらかもれない……一目ひとめ際限さいげんよるなかに、すみにじんだやうにえたのはみづらしかつた……が、みづでもかまはん、女房にようばう行衛ゆくゑさがすのに、なかだつていとひはない。づか/\踏込ふみこまうとすると、
『あゝ、ふかいぞ、たれぢや、みづへ……』
其時そのときくらがりから、しやがれたこゑけて、わたし呼留よびとめたものがあります。
 やみかすと、たかおほき坊主ばうずて、から三尺さんじやくばかりたかところちう胡座あぐらいたも道理だうりみぎは足代あじろんでいたわたしたうへ構込かまへこんで、らうことか、出家しゆつけくせに、……みづなかへはひろ四手網よつであみしづめてある。」
 老爺ぢゞい眉毛まゆげをひくつかせた。
「はての。」


じやうぬま



十九


入道にふだうの、のそ/\と身動みうごきするのが、暗夜やみなかに、くもすそひく舞下まひさがつて、みづにびつしより浸染にじんだやうに、ぼうと水気すゐきつので、朦朧もうろうとしてえた。
ぬまぢや、けやれ』と打切ぶつきつたやうにひます。
ぬまでもうみでも、女房にようばうればはいらずにけない。』
 苛々いら/\するから、此方こつちはふてくされで突掛つゝかゝる。
 と入道にふだうみゝつらぬいて、骨髄こつずゐとほことを、一言ひとこと
『はゝあ、此処こゝなは、御身おみ内儀ないぎか、』
ふ。
此処こゝなは……わたしの……女房にようばうだと? ……』
『おゝ、わしいま出逢であふた、水底みなぞこから仰向あふむけにかほいた婦人をんなことぢや。』
『や、おぼれてんだか。』
とばつたりひざく、と入道にふだう足代あじろうへから、蔽被おつかぶさるやうにのぞいて、
て、て、死骸しがいたではい。ぢやが、しやうのものでもなかつた……はゞかげぢやな。こゑいろ影法師かげぼふしぢや……のものから、御身おみふてはなしてくれい、とわし托言ことづけをされたよ。……
 なにかな、御身おみ遠方ゑんぱうから、近頃ちかごろ双六すごろく温泉をんせんへ、夫婦ふうふづれで湯治たうぢて、不図ふと山道やまみち内儀ないぎ行衛ゆくゑうしなひ、半狂乱はんきやうらんさがしてござる御仁ごじんかな。』とつけ/\たづねる。
 女房にようばうせて半狂乱はんきやうらん、」
雪枝ゆきえは、思出おもひだすのも、口惜くやしさうに歯噛はがみをした。
さつしてください、……たゞ音信たよりきたさに、
『えゝ、そのものです』と返事へんじました。
『やれ/\、どく。』
とさら/\と法衣ころもそで掻合かきあはせるおとがして、
わしたびのものぢやが、ぬまは、じやうぬまふげぢやよ。』
 老爺おぢいさん、其処そこじやうぬまところだつた。」
 雪枝ゆきえいきせはしくつて一息ひといきく。ト老爺ぢい煙草たばこはたいた。吸殻すゐがらおち小草をぐさつゆが、あぶらのやうにじり/\とつて、けむりつと、ほか/\薄日うすびつゝまれた。くもやゝうすつたが、天守てんしゆむねは、そびみねよりもそらおもい。
「えゝ、じやうぬまの。はあ、夢中むちゆう其処そこ駆廻かけめぐらしつたものとえる……それはやまうへではい。お前様めえさま温泉をんせんさつしやつた街道端かいだうばたの、田畝たんぼちか樹林きはやしなかにあるおほきぬまよ。――なにが、みづ谿河たにがはながれいてめたではうて、むかしからの……此処こゝほりみづそこかよふとふだね。……
 お天守てんしゆしたへもあなとほつて、おしろ抜道ぬけみちぢや不思議ふしぎぬまでの、……わし祖父殿おんぢいどん手細工てざいくふねで、殿様とのさまめかけいたとつけ。ときはい、かげが、じやうぬま歴然あり/\うつつて、そら真黒まつくろつたとふだ。……それ真個ほんとううかわからねども、お天守てんしゆむねは、今以いまもつてあきらかにうつるだね。みづしづかときおほきつのりうそこしづんだやうで、かぜがさら/\とときは、胴中どうなかつてみづおもてうろこはしるで、おしろ様子やうすのぞけるだから、以前いぜんぬま周囲まはり御番所ごばんしよつた。もつともはあ、殺生せつしやう禁制きんせい場所ばしよでがしたよ。
 うへぬしむ、とふて、今以いまもつ誰一人たれひとりつりをするものはねえで、こひふないかこと。……
 お前様めえさま温泉宿やどさしつけな、囲炉裡ゐろり自在留じざいどめのやうなやつさ、山蟻やまありふやうに、ぞろ/\歩行あるく。
 あの、ぬまへ、たつせえ、」
またまゆをびく/\つた。
四手場よつでばこさえてあみるものは近郷近在きんがうきんざいわしほかいのぢやが、……お前様めえさまさしつた、じやうぬま四手場よつでば足代あじろうへ黒坊主くろばうずと……はてな……坊様ばうさまおほきわりに、いろあをざめてはらんかの。」

二十


「あゝ、あをざめた、」
雪枝ゆきえ起直おきなほつてつた。
はなまるい、ひたひひろい、くちおほきい、……かほを、しかいやいろえたので、暗夜やみました。……坊主ばうず狐火きつねびだ、とつたんです。」
「それ/\、坊様ばうさまなら、よひくちわしたのんで四手場よつでばもらふたのぢや……、はあ、其処そこへお前様めえさま行逢ゆきあはしつたの。はて、どうも、妙智力めうちりき旦那様だんなさまわしえんるだね。」
たしか師弟していえんるとおもひます、」
雪枝ゆきえ慇懃ゐんぎんふ。
「まあ、串戯じやうだんかつせえ。……とき坊様ばうさまなんふでがすね。」
「えゝ、……
わしたびからたびをふら/\と経廻へめぐるものぢやが、』と坊様ばうさまふんです。
れて此処こゝとほりかゝると、いまわし御身おみまをしたやうに、ぬまみづふかいぞ、とけたものがある。四手場よつでば片膝かたひざで、やみみづ視詰みつめて老人らうじんぞや。さてれうはあるか、とへば、れうるが、さかな一向いつかうれぬとふ。
 希有けうことくものぢや、理由いはれは、とたづねると、老人らうじん返事へんじには、』
坊主ばうずはなしたんです。……ぢや、老爺おぢいさん――老人らうじん貴下あなたなら、貴下あなた坊主ばうずはなされた、とふ、じやうぬまこひふなは、あみすくへばれうはあるが、びくれるとぐにえて、一尾いつぴきそこたまらぬ。どぜう一尾いつぴき獲物えものい。いのを承知しやうちで、此処こゝむとふのは、けるとみづしづめたあみなかへ、なんともへない、うつくしいをんなうつる。それたいために、ひとうやつてかまへてる、……とおはなしがあつたやうに、とき坊主ばうずからいたんです……それは真個ほんとうことですか? 老爺おぢいさん。」
 一切いつさい事実じじつだ、と老爺ぢゞいこたへたのである。
 はじめのうち、……うをびくなか途中とちゆうえた。荻尾花道をぎをばなみち下路したみち茄子畠なすびばたけあぜ籔畳やぶだゝみ丸木橋まるきばし、……じやうぬますなどつて、老爺ぢゞい小家こやかへ途中とちゆうには、あなもあり、ほこらもあり、つかもある。月夜つきよかげ銀河ぎんが絶間たえま暗夜やみにもくまある要害えうがいで、途々みち/\きつねたぬきやからうばられる、と心着こゝろづき、煙草入たばこいれ根附ねつけきしんでこしほねいたいまで、したぱらちからめ、八方はつぱうくばつても、またゝきをすれば、ひとせ、はなをかめばふたせ、くしやみをすればフイにる。……で、だも途中とちゆうまでびくおもうち張合はりあひもあつた。けれども、次第しだい畜生ちくしやう横領わうりやうふるつて、よひうちからちよろりとさらふ、すなどあとからめてく……る/\手網であみ網代あじろうへで、こし周囲まはりから引奪ひつたくる。
 もつとときは、なにとなく身近みぢかものおそ気勢けはひがする。ひだりがびくりとするときひだりから丁手掻ちよつかいで、みぎうでがぶるつとときみぎはうからねらふらしい。頸首ゑりくび脊筋せすぢひやりとるは、うしろまへてござるやつ天窓あたまから悚然ぞつとするのは、おもふに親方おやかた御出張ごしゆつちやうかな。いやや、それりつゝ、さつ/\とつてかれる。もつと身体からだふたびくさかないてゞもれば、如何いか畜生ちくしやう業通ごふつうつても、まさかにほねとほしてはくまい、と一心いつしんまもつてれば、ぬま真中まんなかへひら/\ともやす、はあ、へんだわ、とると、立処たちどころこひせる。かねば、わざへて、何処どこともらず、真夜中まよなかにアハヽアハヽわらひをる、吃驚びつくりするとふなえる、――此方こつち自棄腹やけばらどうめて、少々せう/\わきしたくすぐられても、こらへてじつとしてびくまもれば、さすがせて、とがつたつらなが尻尾しつぽさぬけれど、さてうしてには、足代あじろんで四手よつでしづめて、身体からだつて、ていよく賃無ちんなしでやとはれたじやうぬま番人ばんにん同然どうぜん寐酒ねざけにもらず、一向いつかういちさかえぬ。

二十一


 うをるとれば、あみげる、あみ両手りやうてで、ぐい、といて、こゝろみづられるとき惨憺みじめさ。ガサリなどゝおとをさして、びく俯向うつむけに引繰返ひきくりかへす、と這奴しやつにしてらるゝはまだしものことつたうを飜然ひらりねて、ざぶんとみづはいつてスイとおよぐ。
 あまり他愛たあいなさに、効無かひな殺生せつしやうやめにしやう、と発心ほつしんをしたばん、これが思切おもひきりのあみくと、一面いちめんじやうぬまみづひるがへして、大四手おほよつで張裂はりさけるばかりたてつて、ざつと両隅りやうすみからたかほしそらかげして、ぬまうへはなれるときあみそゝいでちるみづひかり、かすみかゝつたおほき姿見すがたみなかへ、うつすりとをんな姿すがたうつつた。
「よく、はい、うはさくお客様きやくさまかゝつたやうだね。う、あみ引張ひつぱつて、」
 老爺ぢゞいつかんでこしらしてふのである。
けたところでがんしよ……ふな一尾いつぴきはいつた手応てごたへもねえで、みづはざんざと引覆ぶつけえるだもの。人間にんげん突入つゝぺえつたおもさはねえだ。で、つたまま大揺おほゆりに身躰からだごとあみれば、矢張やつぱりれて、衣服きものだかひれだか、尾毛しつぽだか、あみなかをんな姿すがたがふら/\うごくだ。はて、へんだとはなすと、ざぶりとしづむだ。あみそこはう……みづなかに、ちら/\とかほえる……のお前様めえさましろかほ正的まともじつ此方こちらるだよ。
 や、其時そのときびく足代あじろおつこちて、どろうへ俯向うつむけだね。其奴そいつが、へい、あしやしてぬま駆込かけこまぬがつけものだで、畜生ちくしやうめ、今夜こんやめをつた。
 なんのつけ、二度にどことではない、とふつ/\つてかへりましけえ。怪※をかし[#「りっしんべん+牙」、U+3909、119-16]ことには、まゆう、う、とおぼえはねえだが、なんともはれねえ、をんな容色きりやうだで……いろこひけれども、るやうで、なんともの、うつくしさがわすれられぬ。
 けたならけたでよし今夜こんやじやらうもんねえが、一晩ひとばん出懸でかけてべい。」……
 で、またてく/\とぬま出向でむく、と一刷ひとはいたかすみうへへ、遠山とほやまみねよりたか引揚ひきあげた、四手よつでいてしづめたが、みちつてはかへられぬ獲物えものなれば、断念あきらめて、こひ黄金きんふなぎんでも、一向いつかうめず、みづまかせてふかす。
 かぜき、かぜぎ、みづうごき、みづしづまる。大沼おほぬま刻限こくげんも、村里むらざとかはう、やがて丑満うしみつおもふ、昨夜ゆふべころ、ソレ此処こゝで、とあみつたが、ばんうへ引揚ひきあげるまでもなく、足代あじろうへからみづのぞくと歴然あり/\またかほうつつた。
 と老爺ぢゞいはなす。
かつせえまし、かたからむねあたりまで、うつすらとえるだね、ためしてろで、やつとげると、矢張やつぱあみかゝつてみづはなれる……今度こんどは、ヤケにゆつさゆさ引振ひつぷるふと、揉消もみけすやうにすツとえるだ――其処そこでざぶんとしづめる、とまたみづなかあらはれる。……
 三夜みよさ四夜よよさつゞいたが、何時いつ時刻じこくきつうつるだ。追々おひ/\馴染なじみ度重たびかさなると、へい、朝顔あさがほはな打沈ぶちしづめたやうに、ゑり咽喉のどいろわかつて、くちひやうはらぬけれど、目附めつきなりひたひつきなり、押魂消おつたまげ別嬪べつぴんが、過般中いつかぢゆうから、おな時分じぶんに、わしかほはせると、みづなか莞爾につこりわらふ。……
 や、笑顔ゑがほおもふては、地韜ぢだんだんでこらへても小家こやへはられぬ。あめればみのて、つき頬被ほゝかぶり。つひ一晩ひとばんかさねえで、四手場よつでばぢいも、きし居着ゐつきのいはのやうだ――さてけばひよんなことぬまぬし魅入みいられた、なに前世ぜんせ約束やくそくで、じやうぬま番人ばんにんつたゞかな。何処どこかんがえる、と心細こゝろぼそうへぢやが、なんても思切おもひきれぬ……
 いけどしぢゞいが、女色いろまよふとおもはつしやるな。たぬまご可愛かあいさも、極楽ごくらくこひしいも、これ、おなことかんがえたゞね。……
 さてこまつたは、さむければ、へい、さむし、あつければあつ身躰からだぢや、めしへば、さけむで、昼間ひるまよる出懸でかけて、ぬま姫様ひいさまるはえが、そればかりではきてられぬ。」


くもこゑ



二十二


 たとへばまぼろしをんな姿すがたあこがるゝのは、おひり、極楽ごくらくのぞむとおなじとる。けれども姿すがたやうには、……ぬま出掛でかけて、手場でばつくばつて、ある刻限こくげんまでたねばならぬ。で、屋根やねからつきすやうなわけにはかない。其処そこで、かせぎも活計くらしてず、夜毎よごとぬまばん難行なんぎやうは、極楽ごくらくまゐりたさに、身投みなげをるもおなこと、と老爺ぢゞい苦笑にがわらひをしながらつた。
 そんなら、手場でばめにして、小家こや草鞋わらぢでもつくればいゝが、因果いんぐわうは断念あきらめられず、れると、そゝ髪立がみたつまで、たましひ引窓ひきまどからて、じやうぬましてふわ/\としろ蝙蝠かはほりのやうに※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)さまよく。
 てよ、うまで、こゝろかるゝのは、よも尋常たゞごとではるまい。つたぬまなかへは古城こじやう天守てんしゆさかさま宿やどる……祖先そせんじゆつために、あやしき最後さいごげたをんなが、子孫しそんまつは因縁事いんねんごとか。それともとむらはれずかばぬれいが、無言むごんうち供養くやうのぞむのであらうもれぬ。ひとりではなにしろおもい。むらたれにかもせて、あやしさをたゞしぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、122-3]ごとらさう、とひとげぬのではいけれども、昼間ひるまさへ、けてよるつて、じやうぬま三町四方さんちやうしはう寄附よりつかうと兄哥せなあらぬ。
 ほとんど我身わがみあましたころの、……
「お前様めえさまはしつた坊主ばうずて、のつそりつた。や、これもあやしい。顔色かほいろあをざめたすみ法衣ころもの、がんばり入道にふだうかげうすさも不気味ぶきみ和尚をしやうなまづでもけたか、とおもふたが、――く/\の次第しだいぢや、御出家ごしゆつけ、……大方おほかた亡霊ばうれい廻向えかうたのむであらうとおもふで、功徳くどくめ、丑満うしみつまで此処こゝにござつて引導いんだうたのむでがす。――たび疲労つかれらつしやらうか、なんなら、今夜こんやわし小家こややすんで、明日あすばんにも、とふたが、それにはおよばぬ……しや、それ真実しんじつなら、片時へんしはや苦艱くかんすくふてしんぜたい。南無南無なむなむくちうちとなうるで、饗応振もてなしぶりに、わらなどいてすはらせて、足代あじろうへ黒坊主くろばうず入替いれかはつた。
 さあ、身代みがはりは出来できたぞ! 一目ひとめをんなされ、即座そくざ法衣ころもいはつて、一寸いつすんうごけまい、とやみ夜道よみちれたみちぢや、すた/\と小家こやかへつてのけた……
 翌朝あけのあさはや握飯にぎりめしこしらへ、たけかはつゝみにて、坊様ばうさま見舞みまひきつけ…もやなかかげもねえだよ。
 はあ、よもや、とはおもふたが、矢張やつぱなまづめがせたげな。えゝ、らちもない、とけて、また番人ばんにんぢや、と落胆がつかりしたゞが、ばんもう一度いちどく、とつともよるけても、何時いつもかげうつらなんだ。四手よつでげてもほしかゝらず、びんのするしづくちぬ。あゝ、引導いんだうわたしたな。勿躰もつたいない、名僧智識めいそうちしきつたもの、と足代あじろわらいたゞいたゞがの、……それでは、お前様めえさまわしあとへござつて、坊主ばうずあはしつたものだんべい。
 ……までは、はあ、わかつたが、わしじやうぬまみづうつをんなはじめたはひさし以前いぜんぢや。お前様めえさま湯治たうぢにござつて、奥様おくさま行方ゆきがたれなくつたは、つひごろことではねえだか、坊様ばうさま何処どこいて、奥様おくさまことづけをたゞがの。」
それ坊様ばうさんつたんです。出家しゆつけふには、
『……ひとらぬが、此処こゝ老人らうじんに、みづなか姿すがたあらはすまぼろしをんな廻向えかうを、とたのまれて、出家しゆつけやくぢや、……よひから念仏ねんぶつとなへてつ、と時刻じこくた。
 大沼おほぬまみづたゞかぜにもらずあめにもらぬ、灰色はいいろくもたふれたひろ亡体なきがらのやうにえたのが、みぎはからはじめて、ひた/\と呼吸いきをしした。ひた/\とした。かすかにひた/\と鳴出なりだした。
 町方まちかた里近さとちかかはは、真夜中まよなかるとながれおとむとふが反対あべこべぢやな。ぬまは、其時分そのじぶんからうごす……呼吸いき全躰ぜんたいかよふたら、真中まんなかから、むつくときて、どつと洪水こうずゐりはせぬかとおも物凄ものすごさぢや。
 となかなにやらこゑがする。』……と坊主ばうずひます。」

二十三


 こゑが、五位鷺ごゐさぎの、げつく、げつくともこえれば、きつねさけぶやうでもあるし、いたちがキチ/\とぎしりする、勘走かんばしつたのもまざつた。うかとおもふと、とほくにからかねひゞいてるか、とも聞取きゝとられて、なんとなく其処等そこらががや/\しす……雑多ざつたこゑふくろれて、虚空こくうからぬまうへへ、くちゆるめて、わや/\と打撒ぶちまけたやうにおもふと、
あらへ、』
あらへ』
人間にんげんあらへ。』
しもとやぶつた。』
むちつた。』
つめいた。』
はだきよめろ、』
きよめろ。』
たかひくく、声々こゑ/″\大沼おほぬまのひた/\とるのがまざつて、暗夜あんやきざんでひゞいたが、くもからりたか、みづからいたか、ぬま真中まんなかあたりへうすけむり朦朧もうろうなびいてつ……
煮殺にころすではないぞ。』
『うでるでない。』とふ。
湯加減ゆかげん湯加減ゆかげん、』
水加減みづかげん。』とわめいた……
ぬまあついか。』とぼやけたおんくのがある……
熱湯ねつたう。』と簡単かんたんこたへた。
人間にんげんるまいな。』
るものか。』と傲然がうぜんとした調子てうしつた。
ぬまからなん沸湯にえゆる。』
いてころさぬと、うをへてみづくなる、ぬまかはくわ。』
つた。
※舌しやべ[#「口+堯」、U+5635、125-7]るな、はたらけ。』
あらへ、』
きづあらへ』
小袖こそでがせ』
むらさきは?』
菖蒲あやめよ、ふぢよ。』
おびながいぞ。』
つたかつら山鳥やまどりよ。』
下着したぎうばへ、』
くれなゐは、』
『もみぢ、はな。』
『やあ、はだえは、』
山陰やまかげゆきだ。』
 ひいツ、と魂消たまぎつて悲鳴ひめいげた、いとのやうなをんなこゑこだまかへしてぬまひゞいた。

 坊主ばうず此処こゝまでつたときいてたわたし熱鉄ねつてつのやうなあせながれた。」
雪枝ゆきえ老爺ぢゞいかたりながらくちびるおのゝかせて、
坊主ばうずつゞけて、はなす。

 さあなにものかゞつてたかつて、たれかを白裸まるはだかにした、とおもへば、
いぬよ、いぬよ。』とんだのがある。
 びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、とはるかにいぬ長吠ながぼえして、可忌いまはしく夜陰やいんつらぬいたが、またゝに、さとはうから、かぜのやうにさつて、背後うしろから、足代場あじろばうへうづくまつた――法衣ころもそでかすめてんだ、トタンになまぐさけものにほひがした。
 みづうへで、わん、わん、とく……
をとこるまい。』
『うゝ、』といぬこゑ
不便ふびんやつだ。』
『びやう、』とまたいた。
 あひだ、ざぶり/\とみづけるおとしきりにした。
『やがていか、』
まつた。』
また鞭打むちうつて、』
またあらはう。』
『やあ、おれ、』
あし、』
つらまつはるは。』
みづひろがる黒髪くろかみぢや、』
やま婆々ばゞ白髪しらがのやうに、すく/\といたうはさぬ。』
へびよりは心地こゝちよやな。』と次第しだいこゑかぜく……

二十四


 びやう/\とすごこゑで、かたちえず、ぬまうへそらざまにいぬく。
いぬよ、いぬよ。』
『おう。』とえた。
人間にんげんにはえぬ……城山しろやま天守てんしゆうへに、をんなうつばりからつるしてく、とをとこへ!』
なにが、みゝはいらう。』
『わん、といたら、いぬだとおもはう、痴漢たわけが。』
あざけこゑかたはらからけたこゑして、
『……言附ことづけは、いぬでは不可いかぬ。時鳥ほとゝぎす一声ひとこゑかせろ。』
『まだ/\、まだ/\、やまなか約束やくそくは、人間にんげんのやうに間違まちがはぬ。いま時鳥ほとゝぎす時節じせつい。』
たゞ姿すがただけせればい。温泉宿ゆのやど二階にかいたかし。あの欄干らんかんから飛込とびこませろ、……女房にようばうかへらぬぞ、女房にようばうかへらぬぞ、とはね天井てんじやうをばさばさらせろ。』
をとこは、をんなたましひ時鳥ほとゝぎすつたゆめて、しろ毛布けつとつゝんでらうと血眼ちまなこ追駆おつかまはさう……寐惚面ねぼけづらるやうだ。』
 どつとわらつて、天守てんしゆはうえたあとは、颯々さつ/\かぜつた。
 が、田畠野たばたけのそらを、やまして、なんとなくやみながらくもがむくむくととほつてく。気勢けはひが、やがて昼間ひるま天守てんしゆむねうへいたほどに、ドヽンとすごおとがして、足代あじろつたした老人らうじんしづめてつた手網であみ真中まんなかあたりへ、したゝかなものちたおとみづつて、さつあみ乗出のりだしてひろげたなかへ、天守てんしゆかげが、かべ仄白ほのじろえるまで、三重さんぢうあたりをこずゑかこまれながら、歴然あり/\うつつてた。
 不思議ふしぎや、天守てんしゆかべいて、なかけたやうに、うをかたちした黄色きいろあかりのひら/\するのが、矢間やざまあひから、ふかところ横開よこひらけで、あみうつるのかおよ五十畳ごじふでうばかりの広間ひろまが、水底みずそこから水面すゐめんへ、なゝめ立懸たてかけたやうにつて、ふわ/\とうごいてえる。
 ほかなにだれらぬ。あかりたゞひとる。あかりが、背中せなかからあはして、真白まつしろちゝしたすかす、……おびのあたりが、薄青うすあをみづつて、ゆら/\とながれるやうな、したすそつて、一寸ちよつとかげどうかられたかたちで、むねらした、かほ仰向あふむけに、悚然ぞつとするやうなうつくしをんな
 ところで、みづうつかげへば、面影おもかげのぞくやうに、ぬまむかつて、かほはせるやうにえるのであらう、とおもふたがちがう。――黒髪くろかみきしへ、あし彼方かなたへ、たとへばむかふのみぎはからかげすのを、さかさまながめるかたち。つく/″\とれば無残むざんや、かたちのないこゑ言交いひかはしたごとく、かしらたゝみうへはなれ、すそうつばりにもまらずにうへからさかさまつるしてる……
 ともがくかみづれるか、わな/\と姿すがたおのゝく――天守てんしゆかげ天井てんじやうから真黒まつくろしづくちて、手足てあしかゝつて、のまゝかみつたふやうに、ながつて、したへぽた/\とちて、ずらりとびて、まはりつうねりつするのを、うをおよぐのか、とおもふと幾条いくすぢかのへびで、うつばりにでもをくつてるらしい。
 うかとおもふと、ひざのあたりを、のそ/\と山猫やまねこつてとほる。階子はしごしたからあがつてるらしく、海豚いるかをどるやうな影法師かげぼふしきつねで。ひよいと飛上とびあがるのもあれば、ぐる/\と歩行あるまはるのもあるし、どうばして矢間やざまからて、天守てんしゆむね鯱立しやちほこだちにるのもえる。
 時々とき/″\ひら/\とからすて、つばさで、をんなむねはたく……
 なかおそろしかつたは、――ちや白大斑しろおほまだらけもの一頭いつとう天守てんしゆ階子はしごを、のし/\と、ひづめんであがつて、たゝみいてひとのやうに立上たちあがつた影法師かげぼふしが、をんなうへよことほると、姿すがたかくれて、さつあをつた面影おもかげと、ちらりとしろ爪尖つまさきばかりののこつたときで――けものやがえたとおもふと、むねうつしたかげ波立なみだち、かみ宿やどしたみづうごいた……
御身おみ女房にようばう光景ありさまぢや。』と坊主ばうずわたしかほまへへ、何故なぜおほきてのひらひらけてした。」


あつらもの



二十五


わたしいきいて退すさつたんです。」と雪枝ゆきえかたつゞけた。
「……みづなかからともなく、そらからともなく、かすか細々ほそ/″\としたえるやうな、わかをんなこゑで、出家しゆつけんだ、とひます。
 して、百年ひやくねん以来いらい天守てんしゆあるあやしいものゝさらはれて、いまらるゝとほりの苦艱くげんける……なにとぞおもむきを、温泉をんせんいま逗留とうりうするをつとつたへて、寸時すんじはや人間界にんげんかいたすけられたい。すくふには、天守てんしゆ主人あるじ満足まんぞくする、自分じぶん身代みがはりにるほどな、木彫きぼりざうを、をつときざんでつくなことで。ほかたすかるすべはない……とあつた。
みやこひとたゞわしくちからふたでは、あまりことまこととされまい。……あはれな犠牲いけにえ婦人をんなも、たゞまをしたばかりでは、をつとこゝろうたがひませう……いましるしを、とふてな、いろせたが、可愛かあいくちびるうごかすと、白歯しらはくはえたものがある。白魚しらうをのやうなくろ点々ぽち/\ひとえた……くちからは不躾ぶしつけながら、らるゝとほいましめの後手うしろでなれば、ゆびさへ随意まゝにはうごかされず……あゝ、くるしい。と総身そうしんふるはして、ちひさなくちせつなさうにゆがめてけると、あふみづ掻乱かきみだされてかげえた。戞然かちりおとして足代あじろうへへ、大空おほぞらからハタとちてたものがある……るとあられのやうにつめたかつたが、えもけもしないで、やぶ法衣ごろもそでのこつた。
しるしはこれぢや。』
わたしてのひらけさせて、ころりとつてせたのは、わすれもしない、双六谷すごろくだにで、夫婦ふうふ未来みらい有無ありなしかけやうとおもつてつたさいだつたんです。
みやこひと、』
坊主ばうずまたあらためて、
御身おんみ木彫きぼりるかな。』
ります!』
こたへたときわたし蘇生よみがへつたやうにおもつた。みづしろあかるつた……おうら行方ゆくへれ、在所ありかわかり、草鞋わらぢ松明たいまつさぐつたところで、所詮しよせん無駄むだだと断念あきらめく……それに、魔物まものから女房にようばう取返とりかへ手段しゆだん出来できた。身代みがはりざうつくれとふ。あへ黄金こがねめ、やまくづせ、とめいずるのではいから、前途ぜんと光明くわうめいかゞやいて、こゝろあきらかにかれすくみち第一歩だいいつぽ辿たどた。
 くさひらいて、天守てんしゆのぼみち一筋ひとすぢじやうぬまみづそゝいで、野山のやまをかけてながすやうに足許あしもとからうごいてえる。
 つまくがごとくんば、御身おんみにくかれ、われはらわたつ。相較あひくらべておとりはせじ。こらへよ、暫時しばし製作せいさくほねけづり、そゝいで、…苦痛くつうつくなはう、とじやうぬまたいして、瞑目めいもくし、振返ふりかへつて、天守てんしゆそらたか両手りやうてかざしてちかつた。
 とき、おうらくちびるひらいて、そうおとしたとふ、ゐのしゝきばさい自分じぶんくちふくんでた。が、おなしたさきれた、とおもふとしぼつてづるのやうななみだとゝもに、ほろり、とさいちた。たなごゝろわするゝばかりこゝろめて握占にぎりしめたときはなうづまくやうに製作せいさくきよういた。――づる、またひらく、あふぎかなめ思着おもひついた、ほねあればすぢあれば、うごかう、あしびやう……かぜあるごとものいはう…とつく木彫きぼりざうは、きてうごいて、ながらも頼母たのもしい。さてかなめは、……にぎつたさいであつた。
 てんめいじて、われをしてさしむる、美女たをやめ立像りつざうは、てのひらさいつゝんで、さく神秘しんぴむねめやう。ふまでもく、面影おもかげ姿すがたは、古城こじやう天守てんしゆとりこつた、最惜いとをしつまのまゝ、と豁然くわつぜんとしてさとると同時どうじに、うでにはをのちからこもつて、ゆびゆびとはのみたうとして自然ひとりうごく――ときなるかなさくこうべかざるがごとく、くもやぶつて、晃々きら/\ほしうつつた。
 ほししたんでかへつて、温泉いでゆ宿やどで、準備じゆんびを、とあしく、ととほはなれた谿河たにがはながれが、砥石といしあらひゞきつたへる。

二十六


 うすると、こゝろきざんで、想像さうざうつくげた……しろ俘虜とりこ模型もけい彫像てうざうが、一団いちだんゆきごとく、沼縁ぬまべりにすらりとつ。べよ、とおもへばべ、ちゝおほへとおもへばおほひ、かみみだせとおもへばみだれ、むすべよ、とおもへばむすばる――さて、きぬせやうとおもへばる。
 さく出来栄できばえ予想よさうして、はなかほりひらめくひかりごと眼前がんぜんあらはれた彫像てうざう幻影げんえいは、悪魔あくまに、おびうばはうとして、らず、きぬかうとして、ず、いましめられてもなやまず、むちうつてもいたまず、おそらくにもけず、みづにもおぼれまい。
 よ/\、おなまぼろしながら、かげ出家しゆつけくちよりつたへられたやうな、さかさまうつばりつるされる、繊弱かよは可哀あはれなものではい。真直まつすぐに、たゞしく、うるはしくつ。あゝ、たまごとかたに、やなぎごと黒髪くろかみよ、白百合しろゆりごとむねよ、と恍惚くわうこつわれわすれて、偉大ゐだいなるちからは、つくらるべき佳作かさくむがめ、良匠りようしやう精力せいりよくをしてみじか時間じかんつくさしむべく、しか労力らうりよく仕払しはらふべき、報酬はうしうりやう莫大ばくだいなるにくるしんで、生命いのちにもへて最惜いとをし恋人こひびとかりうばふて、交換かうくわんすべき条件でうけんつる人質ひとじちたに相違さうゐない。
 卑怯ひけうなるかな土地祇とちのかみ、……まこと雪枝ゆきえ製作せいさく美人びじんもとめば、れいあつくしてきたはずや。もし代価だいかくるしむとならば、たまさゝげよ、あたはずんば鉱石くわうせきさゝげよ、あたはずんばいはほいてきたさゝげよ。一枝ひとえだかつられ、一輪いちりんはなめ。なんぞみだりにつまあだして、われをしてくるにところなく、するにすべなからしむる。……汝等なんじら此処こゝに、立処たちどころ作品さくひんかげあらはれたるまぼろし姿すがたたいして、れいきをぢざるや……
 と背後うしろからながめて意気いきあがつて、うでこまぬいて、虚空こくうにらんだ。こしには、暗夜あんやつて、たゞちに木像もくざう美女たをやめとすべき、一口ひとふり宝刀ほうたうびたるごとく、威力ゐりよくあしんで、むねらした。
本気ほんき沙汰さたではない、にあるまじき呵責かしやく苦痛くつうけてる、女房にようばう音信おとづれいて、くわつつてちがつたんです。」
 われ想像さうざうつて、見惚みとれたたまはだえせなかとほして、坊主ばうずくろ法衣ころもうつる、とみづなか天守てんしゆうつばり釣下つりさげられた、姿すがたけものおそふ、おもかげ歴然あり/\た。無惨むざんさまに、ふつと掻消かきけしたごとうるはしいものはえた。
ぶわ、ぶわ。』
つた坊主ばうずこゑ
『おゝい/\、』
『お客様きやくさま、お客様きやくさま。』
さけぶのが、はるかに、よわ稲妻いなづまのやうに夜中よなかはしつて、提灯ちやうちん点々ぽつ/\なはて※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)さまよふ。
『お客様きやくさま。』
旦那だんな、』
奥方様おくがたさま。』
 あゝ、また奥方様おくがたさまをくはせる……あまつさへ、いま心着こゝろづいて、みゝませてけば、われみづからも、ごろでは鉦太鼓かねたいここそらさぬけれども、土俗どぞくいまる……天狗てんぐさらはれたものをさが方法しかたで、あのとほ呼立よびたる――成程なるほどおもへば、何時いつ温泉をんせん宿やどて、何処どことほつて、じやうぬまたかおぼえてらぬ。
御身おみぶぢやろ、なつしやい。』と坊主ばうずが、はつとまたてのひらひろげた。煽動あふり横顔よこがほはらはれたやうにおもつて、蹌踉よろ/\としたが、おもふに幻覚げんかくからめた疲労ひろうであらう、坊主ばうず故意こいうしたものではいらしい。
御身おみ内儀ないぎことづけをわすれまいな。』
わすれない。』
奮然ふんぜんとしてこたへた。すで鬼神きじん感応かんおうある、芸術家げいじゆつかたいして、坊主ばうず言語げんご挙動きよどうは、なんとなくぎたやうにおもはれたから……のまゝかたそびやかして、かゞやほしつて、たゞちにひたひかざ意気組いきぐみたかく、あしんで、ぬまきしはなれると、足代あじろ突立つゝたつて見送みおくつた坊主ばうずかげは、背後うしろから蔽覆おつかぶさるごとく、おほひなるかたちつてえた。

二十七


 温泉いでゆ宿やどして、じやうぬまから引返ひきかへ途中とちゆうは、そゞろに、ぐにもはじむべき――いなすで何等なにらそれむかつてはたらく……あらた事業じげふたいする感興かんきようくもるやう、かひなはねつて、ほししたぶがごと心地こゝちした。
 うまでじやうたかぶつたところへ、はたと宿やどからさがしに一行いつかう七八人しちはちにん同勢どうぜい出逢であつたのである……定紋じやうもんいた提灯ちやうちん一群いちぐんなかツばかり、念仏講ねんぶつかうくづれともえれば、尋常じんじやう遠出とほで宿引やどひきともえるが、旅籠屋はたごやつては実際じつさい容易よういことではからう、――仮初かりそめ宿やどつた夫婦ふうふが、をんな生死しやうし行衛ゆくゑれず、をとこそれために、ほとんど狂乱きやうらんかたちで、夜昼ひるよるともしにまよ歩行あるく……
 不面目ふめんもくゆゑ、国許くにもと通知つうち無用むよう、と当人たうにんかためたものゝ、はいやうで、とばかりで旅籠屋はたごやではましてられぬ。
 で、宿やど了見れうけんばかりで電報でんぱうつた、とえて其処そこ出逢であつた一群いちぐんうちには、おうら親類しんるゐ二人ふたりまざつた、……なかない巡査じゆんさなどは、おな目的もくてきで、べつ方面はうめんむかつてるらしい。
 畝路あぜみち出合であひがしらに、一同いちどうさわてた。就中なかんづく、わざ/\東京とうきやうから出張でばつて親類しんるゐのものは、あるひなぐさめ、あるひはげまし、またいましめなどする種々いろ/\言葉ことばを、立続たてつゞけに※舌しやべ[#「口+堯」、U+5635、135-15]つたが、あたまからみゝにもれず……暗闇くらやみ路次ろじはいつて、ハタと板塀いたべい突当つきあたつたやうに、棒立ぼうだちにつてたが、唐突だしぬけに、片手かたててのひらけて、ぬい、と渠等かれらまへ突出つきだした。坊主ばうず自分じぶんむかつておなことたのを、フト思出おもひだしたのが、ほとんど無意識むいしき挙動ふるまひた。トすくなからず一同いちどうおどろかして、みなだぢ/\とつて退すさる。
 トのみち、たがねつべきかひなは、一度ひとたびてのひらかへして、多勢たせいあつして将棊倒しやうぎだふしにもする、おほいなる権威けんゐそなはるがごとくにおもつて、会心くわいしん自得じとくこゝろを、高声たかごゑらして、呵々から/\わらつた。
御苦労ごくらう御苦労ごくらうまこと御骨折ごほねをりけて誰方どなたにも相済あひすまん。が、御心配ごしんぱいにはおよばんのだ。――おきなさい、行衛ゆくゑれなかつた家内かないは、唯今たゞいま所在ありかわかつた。……ナニ、無事ぶじか? 無事ぶじかではない。かんがえてたつてれます。繊弱かよわをんなだ、しか蒲柳ほりうしつです。一寸ちよいとつまづいても怪我けがをするのに、方角はうがくれないやまなかで、掻消かきけすやうにかくれたものが無事ぶじやうはづはないではないか。
 けつして安泰あんたいではない。まさつめぎ、しぼり、にく※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしほねけづるやうな大苦艱だいくかんけてる、さかさまられてる。…………………』
おのゝいたが、すぐかたそびやかした。
何処どこる? なに、おうら所在ありか何処どこだ、とふのか。いや、君方きみがたに、それはなしてもわかるまい。みづそこのやうな、こずゑのやうな、くもなかのやうな、……それぢやわからん、わからない、とふのかね、勿論もちろんわかりませんとも!
 吾輩わがはいにはちやんわかつてる。位置ゐち方角はうがくのこらずつてる、――ゆびさしてへば、土地とちのものはのこらずつてる。けれどもそれはなすとなると、それけ、すくへで、松明たいまつり、鯨波ときこゑげてさわぐ、さわいだところ所詮しよせん駄目だめです。
 たれつても何者なにものさわいでも、とてかれすくせない。
 おゝ! 君達きみたちにもほゞ想像さうざう出来できるか、おうらさらはれた、天狗てんぐつかんだ、……おそらくうだらう。……が、わたしこれ地祇神とちのかみ所業しよげふおもふ。たゞし、おににしろ、かみにしろ、天狗てんぐにしろ、なにのためにおうらさらつたか、意味いみわかるまい、諸君しよくんにはれなからう。
 ひとりこれをるものは吾輩わがはいだよ。してこれすくふものもまた吾輩わがはいでなければ不可いけない。しかかれかへみちは、ちやんいてるんだ。たゞ少時しばらく辛抱しんばうです。いや/\、けつして貴下方あなたがた御辛抱ごしんばうなさるにはおよばん。辛抱しんばうをするのはおうらだ、可哀想かあいさうをんなだ。我慢がまんをしてくれ、おうらうでたしかだ。』
と、てのひらひらいて、ぱつ、とす。と一同いちどうはどさ/\とまた退すさつた。吃驚びつくりして泥田どろた片脚かたあしおとしたのもある、……ばちやりとおとして。……
ちがつた。』
へんだ。』
真物ほんものだ。』……とさゝやふ。


ほこら



二十八


 狂気きやうきした、へんだ、とふのは言葉ことば切目毎きれめごとみゝはいつた。が、これほどたしかことを、渠等かれらくもつかむやうにくのであらう。われにぎつて、さうまなこあきらかにさいを、多勢たぜい暗中あんちゆう摸索もさくして、ちやうか、はんか、せいか、か、と喧々がや/\さわてるほど可笑をかしことい。
『はゝゝ、大丈夫だいじやうぶ心配しんぱいいとふに、――おうら所在ありかも、すくみちも、すべてたなごゝろうちる。吾輩わがはいつかんでる。えうたゞつかんだひら時間じかんことだ。――いまひらけ、とつてもうは不可いかん。たゞひらくのではない、ひらいておうらてのひらかへすんだ、いや/\彫像てうざうこぶしおさめるんだ。』
と、益々ます/\こんがらかつて、自分じぶんにもわからなくる。先方さきのきよとつくだけ此方こつち苛立いらだつ。へばふほど枝葉えだはしげつて、みちわかれてたにふかく、ひろく、やまたかつて、くもす、かすみがかゝる、はて焦込じれこんで、くうつて、
みんな、これだ。』
たかところから揮下ふりおろしたこぶしなかに、……さいつかんでことふまでもい。
『……狂人きちがひでもなんでもかまはん。自分じぶん生命いのちがけの女房にようばう自分じぶんすくふに間違まちがひるまい。すべまかしてもらはう。なんでもわたしのするまゝにしてください。……
 ところで、わたしが、おうらすくみちとして、すゝむべき第一歩だいいつぽは、何処どこでもい、小家こいへ一軒いつけんさがことだ。小家こやでもいゝ辻堂つじだうほこらでもかまはん、なんでもひとない空屋あきやのぞみだ。
 なに、そんなところにおうらるか、と……つまらんことを――おうら居処ゐどころ居処ゐどころはなしちがう。空家あきやさがすのはわたしさがしてわたし其処そこはいるんだ。――所帯しよたいつのぢやない。……えゝ、落着おちついて、かなければ不可いかん。
 よろしいかね、これえうするに、すくなくとも空屋あきやかぎる……りますか、ひとない小家こやはあるか。れば、其処そこく。これからあしぐにきます。――宿やどかへつて一先ひとま落着おちつけ? ……呑気のんきことを。落着おちついて相談さうだんと? ……うへなん相談さうだんるんです。おうらすくふのには一刻いつこくあらそふ、寸秒すんべうをしむ。早速さつそくさあ、ひとない小家こや辻堂つじだうほこらなんでもかまはん、其処そこかう。つてぐに仕事しごとにかゝる。が、たれては不可いけない、きつては不可いけない、いづれ、やがて仕事しごと出来できると、おうら一所いつしよに、諸共もろともにおかゝつてあらためて御挨拶ごあいさつをする。
 しかし、ふのをしんじないで、わたしかせることを不安心ふあんしんおもふなら、提灯ちやうちんうへ松明たいまつかずふやして、鉄砲てつぱう持参じさんで、たいつくつて、喇叭らつぱいておさがしなさい、それ御勝手ごかつてです。』
あざけるやうにまたアハアハわらふ。いや、気味きみわるい……
『あれ、天狗様てんぐさま憑移のりうつらしやつた。』
魔道まだうちさしたものだんべい。』
ひそめいてふのがきこえた。
 が、う、そんなこと頓着とんぢやくしない。人間にんげんなどにはけないで、くらなか矢鱈やたらに、其処等そこいらながめた。きざむにえだや、みきや、とひからす……これも眼前がんぜんこゝろかよはす挙動きよどうごとくにえたであらう。
 けれども言出いひだしたことは、いきほひだけに誰一人たれいちにん深切しんせつづくにもあへめやうとするものはく、……同勢どうぜいで、ぞろ/\と温泉宿をんせんやどかへ途中とちゆうなはて片傍かたわき引込ひつこんだ、もりなかの、とあるほこらへ、送込おくりこんだ……とふよりは、づか/\踏込ふみこんだ。あといてて、渠等かれら狐格子きつねがうしそとまつたのである。
 提灯ちやうちん一個ひとつ引奪ふんだくつて、三段さんだんばかりあるきざはし正面しやうめん突立つゝたつて、一揆いつきせいするがごとく、大手おほてひろげて、
『さあ、みんなかへれ。してたれ宿屋やどやつて、わたし大鞄おほかばん脊負しよつてもらはう。――なかにすべて仕事しごと必要ひつえう道具だうぐがある。……わたしう、あの座敷ざしきはいつて、いである衣服きものいてあるあか扱帯しごきるにしのびん。……かれ魔物まものかゝつて、身悶みもだへしながら、おびからはじめてらるゝのをまへるやうだから。』
 親類しんるゐ一人いちにん、インバネスををとこ真前まつさきつて、みなぞろ/\とかへつた。……かげくゞつてる、ほこらまへの、たふれかゝつた鳥居とりゐつた、何時いつときのか、注連縄しめなはのこつたのが、ふたツのたくつて、づらりとかゝつたへびえた……

二十九


 はて、面白おもしろい。あれが天井てんじやうつた朽縄くちなはなら、したに、しよんぼりとつたはしらは、ぐにおうら姿すがたる……つてざうきざ材料ざいりやうつかうとやう。のこぎりいて、をんな立像りつざうだけいてる、と鳥居とりゐは、片仮名かたかなのヰのつて、ほこらまへに、もり出口でぐちから、田甫たんぼなはてやまのぞいてつであらう。
 とじつながめる、と鳥居とりゐはしらなかへ、をんな姿すがたいてうつる……木目もくめみづのやうにはだまとふて。
旦那様だんなさま、お荷物にもつつてめえりやした、まあ、くれとこなにてござらつしやる。』
 成程なるほど狐格子きつねがうしつていた提灯ちやうちん何時いつまでも蝋燭らふさくたずにはらぬ。……くと板椽いたえんこしおとし、だんあしげてぐつたりしてた。
 かばん脊負しよつてたのは木樵きこり権七ごんしちで、をとこは、おうら見失みうしなつた当時たうじ、うか/\城趾しろあと※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)さまよつたのを宿やどつれられてから、一寸々々ちよい/\ては記憶きおくうちかげあらはす。これと、じやうぬま黒坊主くろばうずあをざめた面影おもかげのぞいては、たれかほ判然はつきりおぼえてなかつた。
燈明とうみやうけさつしやりませ。洋燈らんぷでは旦那様だんなさま身躰からだあぶないとふで、種油たねあぶらげて、燈心とうしん土器かはらけ用意よういしてめえりやしたよ。追附おつつけ、寝道具ねだうぐはこぶでがすで。しづめてやすまつしやりませ。……私等わしらまた油断ゆだんなく奥様おくさま行衛ゆくゑさがしますだで、えら、こゝろくるはさつしやりますな。』
ふ/\燈心とうしんともして、板敷いたじきうへ薄縁うすべりべたり、毛布けつとく……
わしたのまれましたけに、ちよく/\見廻みまはりにめえりますだ。ようがあるなら、言着いひつけてくらつせえましよ。』
背後うしろむきにかゝとさぐつて、草履ざうり穿いて、だんりて、てく/\く。
て、て。』とつてて、鳥居とりゐをする/\とでゝせた。
村一同むらいちどうことづけをたのまう。はしら一本いつぽんいたゞく……鳥居とりゐのな。……あといくらでも建立こんりふするから、とつてな。』
『はい、……えゝ、東京とうきやうからござつた旦那方だんながたのつもりで相談さうだんたしつた。奥様おくさまさつしやるところれるまでは、なんでもお前様めえさますることさからはねえやうにとふだで、随分ずゐぶん次第しだいにさつしやるがうがんす。だが、もの、鳥居とりゐ木柱きばしらうするだね。』
これきざんでざうつくる、をんなのな、それはうつくしい、弁天様べんてんさまつたもんだ、おまへにもせてらう、吃驚びつくりするなよ。』
あきがほてのひらでべたりとでる。と此処こゝ一人ひとりつてるほど性根しやうねすはつたやつ突然いきなり早腰はやごしかさなんだが、おほふて、おもてそむけて、
『いとしぼげな、御道理ごもつともでござります。』
とのそ/\かへる……矢張やつぱりおうらさらはれたために、ちがつたとおもふらしい。いや、これだから人間にんげんるのはうるさい!
「……しかし、のちとも三度さんど食事しよくじなり、みづなり、ほこらようしてくれたのはをとこで。ときとすると、二時三時ふたときみときそばじつわたし仕事しごとる。くちさず邪魔じやまにはらん。
 で、下仕事したしごと手伝てつだひぐらゐはつたんです。」
雪枝ゆきえあらためてつた。
ところで、一刻いつこくはや仕上しあげにしやうとおもふから、めし手掴てづかみで、みづ嚥下のみおろいきほひえてはたらくので、時間じかんも、ほとんど昼夜ちうや見境みさかひはない。……をんなざう第一作だいいつさくが、まだ手足てあしまでは出来できなかつたが、ほゞかほかたちそなはつて、むねから鳩尾みづおちへかけてふつくりとつた、木材もくざいちゝならんで、目鼻口元めはなくちもときざまれた、フトしたとき……
『どうだ、大分だいぶものにつたらう、』といさゝ得意とくいで。ちやう居合ゐあはせた権七ごんしちかほげてると……けたいろくろいのがまたおそろしく真黒まつくろで、ひたひて、くちびるながつて、ががつくりとくぼんだ、がピカ/\とひかつて、ふツふツ、はツはツ、とあへぐやうないきをする。……


供揃ともぞろ



三十


 いや、いきくさこと……あまつさへ、つでもなくすはるでもなく、中腰ちゆうごししやがんだ山男やまをとこひざれかゝつた朽木くちぎ同然どうぜんふしくれつてギクリとまがり、腕組うでぐみをしたひぢばかりがむね附着くつつき、布子ぬのこそでもとせばまつて両方りやうはうねたところが、宛然さながらつばさ
権七ごんしちぢやない! 小天狗こてんぐが、天守てんしゆから見張みはりにたな。』
 おもはず突立つゝたつと、出来できかゝつたざうのぞいて、つの扁平ひらたくしたやうな小鼻こばなを、ひいくひいく、……ふツふツはツはツといきいてたのが、とがつたくち仰様のけざまひとつぶるツとふるふと、めんさかさまにしたとおもへ。
 彫像てうざう眼球がんきうをグサリとした。
 はつとおもへば、からすほどの真黒まつくろとり一羽いちは虫蝕むしくひだらけの格天井がうでんじやうさつかすめて狐格子きつねがうしをばさりと飛出とびだす……
 ひとえぐられては半身はんしんをけづりられたもおなことこれがために、第一だいいちさく不用ふようした。
 ……あまりの仕儀しぎたゞ茫然ばうぜんとして、はてなみだながしたが、いや/\、こゝかたちづくられた未製品みせいひんは、かたちなかばにして、はやくも何処どこにか破綻はたんしやうじて、さくほつするものゝ、不満足ふまんぞくたしたのであらう――いかさまにもひとのこつたひとみれば、おうらそれよりなさけ宿やどさぬ、つゆびぬ、……手足てあしすでまつたうしてをのもつくだかれても、対手あひて鬼神きじんでは文句もんくはないはづちからかたむつくさぬうち、あらかじ欠点けつてん指示さししめして一思ひとおもひに未練みれんてさせたは、むしすくなからぬ慈悲じひである……
 で、たゞちに木材もくざい伐更きりあらためて、第二だいにざうきざみはじめた。が、またさくたいする迫害はくがい一通ひととほりではないのであつた。ねこんで行抜ゆきぬける、ねずみかじる。とろ/\とねむつてめれば、いぬてぺろ/\とめてる……胴中どうなかへびく、いまあなたらしい家守やもりはなうへたてにのたくる……やがては作者さくしや身躰からだおそふて、をゆすぶる、襟頸ゑりくびつて引倒ひきたふす、何者なにものれずキチ/\といてわきしたをこそぐりける。
 無残むざんや、なかにもいのちけて、やつ五躰ごたい調とゝのへたのが、ゆびれる、乳首ちくびける、みゝ※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)げる、――これは打砕うちくだいた、をのふるつたとき、さく/\さゝらにざうは、ほねおとがして、物凄ものすご飛騨山ひだやまこだまひゞいた。
 夜更よふけから、しばらく正躰しやうたいうしなつたが、ときらずわれかへると、たちま第三番目だいさんばんめつくりはじめた、……ときほこらまへ鳥居とりゐたふれて、ちたるなはは、ほろ/\とれてあともなくる。……
 と今度こんどのは完成くわんせいした。して本堂ほんだう正面しやうめんに、さゝえかず、内端うちはんだ、にくづきのしまつた、ひざはぎ釣合つりあひよく、すつくりとつたときはだえ小刀こがたなさえに、あたかしもごとしろえた。……がとびらひらいて、伝説でんせつなき縁起えんぎなき由緒ゆいしよなき、一躰いつたい風流ふうりうなる女神によしんのまざ/\としてあらはれたか、とうたがはれて、かたはらたなのこつた古幣ふるぬさなゝめにつたのにたいして、あへはゞかるべきいろかつた。
 をりから来合きあはせた権七ごんしちせると、いろへ、くちとがらせ、ひからせてながめたが、つらからすにもらず、……あし朽木くちきにもらず、そではねにもらぬ。
 其処そこで、自分じぶん引背負ひつしよふなり、くなりして、彫像てうざう城趾しろあと天守てんしゆはこぶ。……途中とちゆうちりけるためおほひがはりに、おうら着換きがえを、とおもつて、権七ごんしち温泉宿をんせんやどまでりにつた。
 あとで、ほこらこもつてから、幾日いくかあひだ鳥居とりゐよりそとへはない、身躰からだ伸々のび/\として大手おほでつて畝路あぜみちからなはてた――までとほくもないじやうぬまはうへ、なにとなくあしいて、ぶらり/\と歩行あるいたが、住居すまゐ其処等そこら散歩さんぽをする、……ほこらいへにはおうら留主るすをして、がために燈火ともしびのもとで針仕事はりしごとでもるやうな、つひしたたのしい心地こゝちがする。……ほそステツキたないのが物足ものたりないくらゐなもので。
 かぜもふわ/\とえだくすぐつて、はら/\わらはせてはなにしやうとするらしい、つぼなかのやうではあるが、山国やまぐにをぼろ

三十一


 たとへばじやうぬま裏返うらがへして、そらみなぎらしたよるいろ――をびれて戸惑とまどひをしたやうなふとつたつきが、みづにもうつらず、やま姿すがたらさず……うかとつて並木なみきまつかくれもせず、たにそこにもちないで、ふわりと便たよりのないところに、土器色かはらけいろして、なはてあぜばうあかるいのに、ねばつた、生暖なまぬる小糠雨こぬかあめが、つきうへからともなく、したからともなく、しつとりとて、むら/\と途中とちゆうえる……とかみきものれもしないで、湿しめつぽい。が、でゝてもしづくわからぬ。――あめるのではない、つき欠伸あくびするいきがかゝるのであらう……そんなばんにはかはをそけるとふが、山国やまぐにそれ相応ふさはぬ。イワナがけて坊主ばうずになつて、殺生禁断せつしやうきんだん説教せつけう念仏ねんぶつとなへて辿たどりさうな。……
 ところを、歩行ある途中とちゆう人一人ひとひとりにもはなんだ、がへばをんなでも山猫やまねこでも、みな坊主ばうず姿すがたえやうとおもつた。
 こん/\ときつねいた。……いぬこゑではない。あるまつかげで、つひとほりかゝつた足許あしもとで。
 こん/\こん/\とくのに、フトみゝかたむけて、むしくがごと立停たちどまると、なにかものをふやうで、
『コンクワイ、クワイ、ぬかい、ぬかい。』とく。
ぬかい、ぬかい、ぬかい、案山子かゝしぬかい案山子かゝし、』とまたきこえる。
 うちに、あぜかげから、ひよいとつた、藁束わらたばたけあしで、やせさらばへたものがある。……こがらしかれぬまへに、雪国ゆきぐにゆき不意ふいて、のまゝ焚附たきつけにもらずにのこつた、ふゆうちは、真白まつしろ寐床ねどこもぐつて、立身たちみでぬく/\とごしたあとを、草枕くさまくら寐込ねこんでた、これは飛騨山ひだやま案山子かゝしである。
 親仁おやぢやぶみのらして、しよぼりとしたていで、ひよこひよことうごいてて、よたりとまつみきよりかゝつて、と其処そこつてまる。
んかい、案山子かゝしんかい、案山子かゝし………』とれいこゑつゞけてぶ。
 はなれたあぜつたつて、むかふからまたひとつ、ひよい/\とて、ばさりとかしらせておなじくまる。と素直まつすぐ畷筋なはてすぢを、べつ一個ひとつよたよた/\/\と、それでも小刻こきざみ一本脚いつぽんあしたけはやめていそいで近寄ちかよる。
 あとのなんぞは、何処どこ工面くめんをしたか、たけ小笠をがさよこちよにかぶつて、仔細しさいらしく、かさ歩行あるくれてぱく/\と上下うへしたゆすつたもので。
 三個みつつが、……それから土瓶どびんつて番茶ばんちやでもさうなかたちあつまると、なにかゞまたす。
『コー/\/\、いそがういそがう。』
 ばさ/\、と左右さいうわかれて、前後あとさき入乱いりみだれたが、やがてなはて三個みつつならぶ。
 其時そのときうへから、なにやらとりこゑがして、
何処どつけ何処どつけ!』
 で、がさりとえだんだおとがした。うやらものゝ、くちばしながなはて瞰下みおろす気勢けはひがした。
『ほこらだ。』
『ほこら、』
『ほこらへくだ。』
とひよつこり、ひよこり、ひよつこりと歩行あるす……案山子かゝしどもの出向でむくのが、ほこらはうへ、雪枝ゆきえみち方角はうがくあたる。むかふをしてじやうぬま身投みなげにくのではいらしい。
 て、よくはわからぬ、其処等そこらふか、ほこらふか、こゑつたへる生暖なまぬる夜風よかぜもサテぼやけたが、……かへみちなれば引返ひきかへして、うか/\と漫歩行そゞろあるきのきびすかへす。
『く、く、く、』
『ふ、ふ、』
『は、は、は、』とかたちさだめず、むや/\の海鼠なまこのやうな影法師かげぼふしが、案山子かゝしあしもとをいつツむら/\とまとふてすゝむ。
「それはきつねいぬらしい、それともなにとりて、うへをふわ/\とんだのかもわかりません。」
雪枝ゆきえ老爺ぢゞいふのであつた……

三十二


わすれもしない、温泉をんせんきがけには、夫婦ふうふ腕車くるまとほつた並木なみきを、魔物まものうです、……勝手次第かつてしだいていでせう。」
 ときがつかなかつたが、ときかへりがけに案山子かゝし歩行あるうしろからると、途中とちゆう一里塚いちりづかのやうな小蔭こかげがあつて、まつ其処そこに、こずえひくえだれた。つかうへ趺坐ふざして打傾うちかたむいて頬杖ほゝづゑをした、如意輪によいりん石像せきざうがあつた。とのたよりのない土器色かはらけいろつきは、ぶらりとさがつて、ほとけほゝ片々かた/\らして、木蓮もくれんはな手向たむけたやうなかげした。
 まへを、一列ひとならびに、ふら/\と通懸とほりかゝつて、
御許ごゆるされ』と案山子かゝしひとつが言へば、
御許ごゆるされ。』
またひとつがおなこと繰返くりかへす。
御許ごゆるされ、御許ごゆるされ。』とこゑまじつて、喧々がや/\※舌しやべ[#「口+堯」、U+5635、148-6]つた、とおもはれよ。
大儀たいぎぢや』
まさしく如意輪によいりんあふせあつた……
『はツ、』とふと一個ひとつちやう石高道いしだかみち※(「石+鬼」、第4水準2-82-48)いしころ一本竹いつぽんだけ踏掛ふみかけた真中まんなかのが、カタリとあしおとてると、乗上のりあがつたやうに、ひよい、とたかつて、すぐに、ひよこりとまたおなたけ歩行あるす。
 人間にんげんまへとき如意輪によいりん御姿おすがたは、スツと松蔭まつかげやゝとほく、くらちひさくをがまれた。
 あめがやゝしきつてた。
 案山子かゝしみのは、みつつともぴしよ/\とおとするばかり、――なかにもにくかつたはあとからやつかさたを得意とくい容躰ようだい、もの/\しや左右さいう※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはしながら前途ゆくて蹌踉よろめく。
 はたしてほこらしたらしい。
 よこれて田畝道たんぼみちを、むかふへ、一方いつぱうやますそ片傍かたはら一叢ひとむらもり仕切しきつた真中まんなかが、ぼうひらけて、くさはへ朧月おぼろづきに、くもむらがるやうなおくに、ほこら狐格子きつねがうしれるが、細雨こさめにじむだのをると――猶予ためらはず其方そちらいて、一度いちどはすつて折曲をれまがつてつらなく。
 其時そのときかゝつたのは、ほこらまへきぎはしから廻廊くわいらうしたけて、たゞいつツではない、なゝツ、それ/\ウにもあまものかたちが、どれ土器色かはらけいろ法衣ころもに、くろいろ袈裟けさかけた、あだか空摸様そらもやうのやうなのが、たか坊主ばうずひく坊主ばうずおほき坊主ばうずちひさな坊主ばうずと、胡乱々々うろ/\うごいて、むら/\る……
『やあ、おうらなぶる、』
まへ案山子かゝしどもを、よこかすめて、一息ひといきけて、いきなりきざはし飛附とびついて、ると、さても、つたわ、たわ。僧形そうぎやうえたりたけの人数にんずは、それこれおなじやうな案山子かゝし数々かず/\。――つてとほつた人間にんげんそであふりに、よた/\とみな左右さいうつた、なかには廻廊くわいらうたふれかゝつて、もぞ/\とうごくのもある。
 正面しやうめん伸上のびあがつてれば、むかふから、ひよこ/\三個みつゝ案山子かゝしも、おなじやうな坊主ばうずえた。
 とびらはいると、無事ぶじであつた。おうらのまゝの彫像てうざうは、かげにちら/\とひとみうごいて、人待顔ひとまちがほ立草臥たちくたびれて、よこたさうにもえたのである。
 したいた白毛布しろけつとうへには、所狭ところせまのみかんなちらかり放題はうだい初手しよて毛布けつとくるんで、夜路よみち城趾しろあとへ、とおもつたが、――時鳥ほとゝぎすかぬけれども、うするのは、はなれたおうらたましひれたやうで、かつじやうぬまふち旅僧たびそうくちから魔界まかい暗示あんじつたへられたゝめに――いたいまはしかつたので、……権七ごんしち取寄とりよせさした着換きがえきぬは、あたかほこら屋根やねふぢはなきかゝつたのを、つき破廂やぶれひさしからかげおとしたやうにとゞいてた。しかつばかりの扱帯しごきは、いましもこしのあたりをする/\とすべつたごとく、足許あしもと差置さしおかるゝ。
 縋着すがりつけば、ころ/\とたなそこめたさいつた。
『ござるか。』
『…………』
『ござるか、ござるか。』
蚯蚓みゝずふやうなこゑきざはしところきこえる。
たれだ。』
と、うつかり、づゝとると、つひわすれた……づらりと其処そこ案山子かかしども。


バサリ



三十三


 なかいづれがものいふ? 中気病ちゆうきやみのやうなけた、した不足たらずで、
『おねんぎよ。』とふ。
『おねんご。』
またうつたうる。……
 糠雨ぬかあめ朧夜おぼろよに、ちひさ山廓さんかくほこらまへやぶみののしよぼ/\した渠等かれら風躰ふうてい、……ところが、お年貢ねんぐ、お年貢ねんぐ、ときこえて、未進みしん科条くわでう水牢みづらうんだ亡者もうじやか、百姓一揆ひやくしやういつき怨霊おんりやうか、とおもく。莚旗むしろはたげたのがほこらであらうもれぬ。――が、なにもとむる? ない。じつみつむれば、みぎからひだりからきざはしまへへ、ぞろ/\とつた……みの摺合すれあおとして、
『うけとろ、』
らう。』
『おねんご受取うけとろ。』とふのが、何処どこからこゑか、一本竹いつぽんだけつたなかから、ぶる/\湧出わきだす。
『おゝ、』
おもはず合点がつてんした。
人形にんぎやうか、彫像てうざうらうとふのか?』
 なかにもかさある案山子かゝしうなづくのが、ぱく/\うごく。それ途中とちゆうからの馴染なじみらしい。
『おゝさう、おぶおう、おぶさう。』と野良のらおんあたかも、おゝ、おぶはう、おぶされ、とふがごとし。
よしよし、』
 で、衣服きものけ、彫像てうざういだいたなり、狐格子きつねがうしあらためてひらいて立出たちいでたつる、
『おい、案山子かゝしども、』
真面目まじめつた。いまおもへば、……ふまでもうかしてる。
御苦労ごくらう御厚意ごかうい受取うけとつたが、おれきざんだをんなきとるぞ。貴様きさまたちに持運もちはこばれてはみちおこさう、自分じぶんでおんぶだ。』
高笑たかわらひをして、其処そこかたうへ揺上ゆすりあげた。いてもうでつたのに……と肩越かたごし見上みあげたとき天井てんじやうかげかみくろうへから覗込のぞきこむやうにえたので、歴然あり/\と、自分じぶん彫刻師てうこくしつたおさなとき運命うんめいが、かたちあらはれた……あめ朧夜おぼろよを、ほそかすかゆきのやうにしろ野山のやま降懸ふりかゝつた。
出懸でかけるぞ、案内あんないするか、つゞいてるか。』
 案山子かゝしどもはわらみだれたけむりごとく、前後あとさきにふら/\附添つきそふ。……してほこら樹立こだち出離ではなれる時分じぶんから、希有けう一行いつかうあひだに、ふたあかりいたが、ひかりりともえず、ものをうつさぬでもい。たとへばつき本尊ほんぞんかすんでしまつて、田毎たごと宿やどかげばかり、たてあめなかへふつとうつる、よひ土器色かはらけいろつきいくつにもつてたらしい。
 それ案山子かゝしどものはうへ、すゝめばすゝみ、うつればうつり、みちまがときなぞは、スイとまへんで、一寸ちよいとまつて、土器色かはらけいろくわつとしてつ。ともすればくもることもあつた。はひく/\呼吸いきく、とえた。
 ひく藁屋わらや二三軒にさんげん煙出けむだしのくちかず、もなしに、やみから潜出もぐりだしたけもののやうにつくばつて、しんまへとほつたとき
『ばツさ、ばツさ。』
 みのらしたのではない。案山子かゝしひとつが、みゝれて遠慮ゑんりよのないくちけた。
『ばつさよ、ばつさよ。』
『コーコー、ーい、い。』
最一もひと※舌しやべ[#「口+堯」、U+5635、152-15]つた。
 ばさりとふのが、ばさりとこえて、ばさりとつて、藁屋わらやひさしから、なはてへばさりとちたものがある、つゞいてまたひとつばさりとおやる。
 とりけものか、こゝにバサリとづくるものがんで、案山子かゝし呼出よびだされたのであらう、とおもつたが、やがてそれふたつがならんで、真直まつすぐにひよいとつ、と左右さいうたふれざまに、またばさりと言つた。が、ではない。ばさりととなへたはおとで、正体しやうたい二本にほん番傘ばんがさ、トじやひらいたはいゝが、古御所ふるごしよすだれめいて、ばら/\にけてる。

三十四


 ると、両方りやうはうからはせて、しつくりむだ。やぶがさつて、なはてをぐる/\とまはつてちやうまる。
 案山子かゝしツ、ふら/\と取巻とりまいて、
つされ。』
『お人形にんぎやうつせえ。』とふ。
『はゝあ、せろ、とふのか、面白おもしろい。』
 あんずるに、くるまつて、作品さくひんれいするのであらう。厚志かうしあへて、輿こし駕籠かごやぶがさとをえらばぬ。其処そこ彫像てうざうわきいて、からかさこしえると、不思議ふしぎや、すそひらかず、かたらず……にかはけたやうに整然ちやんつた、同時どうじにくる/\とからかさまはつて、さつさとく……
 やがて温泉いでゆ宿やど前途ゆくてのぞんで、かたはら谿河たにがはの、あたか銀河ぎんがくだけてやまつらぬくがごときをときからかさながれさからひ、水車みづぐるまごとくに廻転くわいてんして、みづ宛然さながらやぶはしけて、なゝめに黄色きいろゆきつた。や、うも案山子かゝしぶこと、ひよろつくこと
 これよ、人々ひと/″\。――
 で、つきみちらすのも、案山子かゝしぶのも、からかさくるまも、くるまに、と反身そりみで、しやかまへてつたざうけるがごときも、一切すべて自分じぶん神通力じんつうりきごとくにかんじて、寝静ねしづまつた宿屋やどやはうこぶし突出つきだして呵々から/\わらつた。
これよ、人々ひと/″\。』
 其時そのときくるま真中まんなかに、案山子かゝしれつはしにかゝつた。……おと横切よこぎつて、たけあしを、蹌踉よろめくくせに、小賢こざかしくも案山子かゝし同勢どうぜい橋板はしいたを、どゞろ/\とゞろとらす。
るにさわがしい。』
欄干らんかんこゑけた。
『あゝ、どくだ。』
とうつかり人間にんげん雪枝ゆきえこたへた。おや、と心着こゝろづくとうざんざと川水かはみづ
 まだ可怪おかしかつたのは、一行いつかうが、それから過般いつかの、あの、城山しろやまのぼ取着とつつき石段いしだんかゝつたときで。これから推上おしあがらうとふのに一呼吸ひといきつくらしく、フトまると、なかでも不精ぶせうらしいみのすそながいのが、くものやうにうづまいただんしたの、大木たいぼくえんじゆみき恁懸よりかゝつて、ごそりと身動みうごきをしたとおもへ。
『わい、くすぐつてえ。』とわめいた。
 からかさはぐる/\とだんにかゝる、ともなく攀上よぢのぼるに不思議ふしぎはない。こまやかないろだんつゝんで、くもせたやうにすら/\とすべらしげる。はやい、身軽みがるなのが、案山子かゝしなかにもあるにこそ。ふた追続おつつゞいて、すいとんで、くるまうへちうからのぼつたのが、アノ土器色かはらけいろつきかたちともしびをふわりと乗越のりこす。
 だんうへで、一体いつたい石地蔵いしぢざうつた。
ばうちやま、ばうちやま。』とひとツがふ。
『さても迷惑めいわく、』
仰有おつしやつたが、御手おんて錫杖しやくぢやうをづいとげて、トンとろしざまに歩行あゆらるゝ……成程なるほど御襟おんゑり唾掛よだれかけめいたきれが、ひらり/\とれつゝらるゝ。
野原のはらときです。」
雪枝ゆきえ老爺ぢいむかいて、振返ふりかへつて左右さいうながめた。
 陽炎かげらふひざつて、太陽たいやうはほか/\としてる。そられたが、くさ濡色ぬれいろは、次第しだいかすみ吸取すひとられやうとする風情ふぜいである。
地蔵尊ぢざうそんが、まへはうから錫杖しやくぢやういたなりで、うしろつゞいたわたし擦違すれちがつて、だまつてさかはうもどつてかるゝ……と案山子かゝしもぞろ/\と引返ひきかへすんです。
 番傘ばんがさは、とると、これもくる/\とまはつてかへる。が、まるでからつて、うへせた彫像てうざうがありますまい。
 ……つひむかふを、うです、……大牛おほうし一頭いつとう此方こなたけてのそりとく。図体づうたいやまあつして野原のはらにもはゞつたいほど、おぼろなかかげおほきい。背中せなかにおうらざうが、くれなゐ扱帯しごきながく、仰向あふむけにつてやはらかにかゝつてる。」

三十五


やぶがさくるまでは、べつあなどられはづかしめられるともおもはなかつたが、いまうしけられたのをると、むごたらしくて我慢がまん出来できない! きざんだものではあるが、ふしから両岐ふたまたかれさうにおもはれて、生身なまみのおうらだか、ざうをんなだか、分別ふんべつかないくらゐ。
『あツ、』とさけんで、背後うしろから飛蒐とびかゝつたが、一足ひとあしところとゞきさうにつても、うしてもおよばぬ……うしいそぐともなく、うごかない朧夜おぼろよ自然おのづからときうつるやうに悠々いう/\とのさばりく。
 しばらくして、大手筋おほてすぢを、去年きよねん一昨年おととしのまゝらしい、枯蘆かれあしなかつたときは、ぞく水底みづそこんでとほるとふ、どつしりしたものにえた。せな彫像てうざう仰向あふむけのむねさいにぎつたこぶしが、くるしんでくうつかむやうにえてへられない。
 あとあへぎ/\、はあ/\と呼吸いきしてつゞく。
うしが、老爺おぢいさん、」
雪枝ゆきえくものを呼懸よびかけた。
 天守てんしゆいしずゑつち後脚あとあしんで、前脚まへあしうへげて、たかむねいだくやうにけたとおもふと、一階目いつかいめ廻廊くわいらうめいた板敷いたじきへ、ぬい、とのぼつて外周囲そとまはりをぐるりと歩行あるいた。……おとやりだけ中空なかぞら相聳あひそびえて、つき太陽むかふるとく……建物たてものはさすがに偉大おほきい。――おぼろなかばかりはびこつたうし姿すがたも、ゆかはしねずみのやうにえた。
 ぐるりと一廻ひとまはりして、いつしよいはほえぐつたやうなとびら真黒まつくろつてはいつたとおもふと、ひとつよぢれたむかざまなる階子はしごなかほどを、灰色はいいろうねつてのぼる、うしまだらで。
 一階目いつかいめゆかは、いまよぎつたに、とびらてまはしたとるばかりひろかつた。みじかくさ処々ところ/″\矢間やざまひと黄色きいろつきで、おぼろおなじやう。
 と黒雲くろくもかついだごとく、うし上口あがりくちれたのをあふいで、うへだんうへだんと、両手りやうてさきけながら、あはたゞしく駆上かけあがつた。……つきくらかつた、矢間やざまそともり下闇したやみこけちてた。……うし身躰からだは、まただんうへなかばを乗越のりこす。
 ぐる/\といそいでまはつて取着とつついてつてのぼる。と矢間やざまつきあかかつた。魔界まかいいろであらうとおもふ。が、猶予ためらひまもなくたゞちに三階目さんがいめのぼる……
 あふいでものぞいても、大牛おほうしかたちまらなくつたゝめに、あとは夢中むちゆうで、打附ぶつゝかれば退すさり、ゆかあればみ、階子はしごあればのぼる、何階目なんかいめであつたかわからぬ。くもか、もやか、綿わたつゝんだやうにおよ三抱みかゝえばかりあらうとおも丸柱まるばしらが、しろ真中まんなかにぬつく、とつ、……と一目ひとめれば、はしら一人ひとり悄然しよんぼりつたをんな姿すがた……
『おうら……』とひざいて、摺寄すりよつて緊乎しつかいて、ふだけのこと呼吸いき絶々たえ/″\われわすれて※舌しやべ[#「口+堯」、U+5635、157-12]つた。こゑこもつてそらひゞくか、天井てんじやううへ――五階ごかいのあたりで、多人数たにんずうのわや/\ものこゑきながら、積日せきじつ辛労しんらう安心あんしんした気抜きぬけの所為せゐで、そのまゝ前後不覚ぜんごふかくつた。……
『や』
 心着こゝろづく、とくもんでるやうなあぶなつかしさ。夫婦ふうふきてふたゝ天日てんじつあふぐのは、たゞ無事ぶじしたまで幾階いくかいだんりる、そればかり、とおもふと、昨夜ゆふべにもず、爪先つまさきふるふ、こしが、がくつく、こほつてにくこはばる。
けて、けて、あぶない。』と両方りやうはうあしゆびしろいのと、をとこのと、十本じふぽんづゝを、ちら/\と一心不乱いつしんふらんみつめながら、あたか断崖だんがいりるやう、天守てんしゆしたごとながるゝか、とえた。……
 雪枝ゆきえかたこゑよわつて、
やつとのおもひで此処こゝまでて……一呼吸ひといきくと、あのていだ。老爺おぢいさん、形代かたしろ犠牲にえへて、からくもです、すくしたとばかりよろこんだのは、おうらぢやない、家内かないぢやない。昨夜ゆふべつてつた彫像てうざうのまゝ突返つゝかへされて、のめ/\とかついでかへつたんです。しか片腕かたうでもぎつてある、あのさいたせたが。……あゝ、わたし五躰ごたいしびれる。」とむねつかんでもだたふれる。


天守てんしゆした



三十六


 てつ。……
 飛騨国ひだのくに作人さくにん菊松きくまつは、其処そこあふたふれていまわるゆめうなされてるやうな――青年せいねん日向ひなたかほひたひ膏汗あぶらあせなやましげなさまを、どくげにみまもつた。
けばくほど、へい、なんともひやうはねえ。けんども、お前様めえさま、おわけえに、くらゐことに、おとさつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、昨夜ゆふべつてかしつた形代かたしろざうが、お天守てんしゆの…何様なにさまちねえところがあるで、約束やくそくとほ奥様おくさまかへさねえもんでがんしよ。だで、ひとこさえさつせえ。うつくしをんな木像もくざうまた遣直やりなほすだね。えゝ、お前様めえさま対手あひて七六しちむづヶしいだけに張合はりえゝがある……案山子かゝしぢやんねえ。素袍すはうでもてあひたま輿こしつて、へい、おむかへ、と下座げざするのをつくらつせえ。えゝ! と元気げんきさつしやりまし。」
其処そこです、老爺おぢいさん、」
雪枝ゆきえくさつかんで起直おきなほつて、
現在げんざいくるしみをるおうらすくはんために製作こしらへたんです。ありつたけの元気げんきした、ちからつくした。やうがない。しかし此処こゝ貴老あなたつたのはてん引合ひきあはせだらうとおもふ。
 いや、それよりも土地とちて、ゆめともうつゝともわからない種々いろ/\ことのあるのは、べつではない、をんなのために、仕事しごとわすれたねむりさまして、つゝしんで貴老あなたをしへけさせやうとする、げいかみはからひであらうもれない。わたしひざまづく、草鞋わらぢいたゞく……うぞ、弟子でしにしてください、をしへてください、しておうらすくつてください。」
「いや、前刻さつきふねなかけるのをむかふからときな、きたひとだと吃驚びつくりしつけの。お前様めえさま一廉ひとかどきゝものだ。べつ私等わしら相談さうだんたつしやるにおよぶめえが、奥様おくさまのおうへぢや、出来でき手伝てつだひならずにはられぬで、としこうだけも取処とりどこがあるなら、今度こんどつくらつしやるに助言ぢよごんべいさ。まあ、またつせえよ、わしいま、」とたぬきのやうな麻袋あさぶくろをふらりと、こしして、のつそりとつた。
 あさひさす一人ひとり老爺ぢゞい腰骨こしぼねんで、ものをさがふうして歩行あるいたが、少時しばらくして引返ひきかへした。ひろつてたのは雄鹿をじかつのをれやまふかければ千歳ちとせまつふるとく、伏苓ふくれうふものめいたが、なにべつに……尋常たゞえだをんなかひなぐらゐのほそさで、一尺いつしやく有余いうよなり
 トくだん麻袋あさぶくろくちけて、握飯にぎりめしでもしさうなのが、一挺いつちやう小刀こがたな抽取ぬきとつて、無雑作むざうさに、さくりとてる、ヤまたれる、えだはすかりとふたツにつた。
こひともおもふが、ちつこい。どぜうでは可笑をかしかんべい。ふなひとこさへてせつせえ。ざつかたちえ。うろこ縦横たてよこすぢくだ、……わしおなじにらかすで、くらべてるだね。ひよつとかして、わしはう出来できくば、相談対手さうだんあひてれるだでの、いゝか、さあ、ござらつせえ。」
小刀こがたなへて突着つきつけた。雪枝ゆきえ胡座あぐら組直くみなほした。
イ、はじめるぞ、はゝゝはゝ駆競かけつくらのやうだの。なに前後あとさきかまひごとはねえだよ。お前様めえさま串戯じやうだんごとではあんめえが、なんでも仕事しごとするには元気げんきかぎるだで、景気けいきをつけるだ。――えゝかの、イで、りかけるだ。イ! はツはツはツ。」
 わらひかけて、ましてす。老爺ぢゞいにも小刀こがたなうごく、とならんで二挺にちやうひかり晃々きら/\きらめきはじめた……たなそこえだは、小刀こがたなかゞやくまゝに、あたかひれふるふとゆる、香川雪枝かがはゆきえ[#「香川雪枝も」はママ]、さすがに青年わかものであつた。
 と老爺ぢゞい雪枝ゆきえとが、あさひむかつて濠端ほりばた小刀こがたな使つかふ。前面ぜんめん大手おほて彼方かなたに、城址しろあと天守てんしゆが、くもれた蒼空あをぞら群山ぐんざんいて、すつくとつ……飛騨山ひださんさやはらつたやりだけ絶頂ぜつちやうと、十里じふり遠近をちこち相対あひたいして、二人ふたり頭上づじやう連峯れんぽうひきゐてそびゆることわすれてはならぬ。
 くだん天守てんしゆむねちかい、五階目ごかいめあたりの端近はしぢかところて、かすみひつゝ大欠伸おほあくび坊主ばうずがある。


双六盤すごろくばん



三十七


 雪枝ゆきえ合掌がつしようしてひざまづいた。
 かれまへには、一座いちざなめらかな盤石ばんじやくの、いろみどりあをまじへて、あだか千尋せんじんふちそこしづんだたひらかないはを、太陽いろしろいまで、かすみちた、一塵いちぢんにごりもない蒼空あをぞらに、あはかゞみしてるやうな……おほきさはれば、たゝみ三畳さんでふばかりとゆる、……おとく、飛騨国ひだのくに吉城郡よしきごふり神宝かんたから山奥やまおくにありとふ、双六谷すごろくだにへる双六巌すごろくいはこれならむ。いはおもて浮模様うきもやうすそそろへて、上下うへしたかうはせたやうな柳条しまがあり、にじけづつてゑがいたうへを、ほんのりとかすみいろどる。
 背後うしろかこつた、若草わかくさ薄紫うすむらさき山懐やまふところに、黄金こがねあみさつげた、ひかり赫耀かくやくとしてかゞやくが、ひとるほどではなく、太陽たいやうときに、かすかとほ連山れんざんゆきかついだ白蓮びやくれんしべごとくにえた。……次第しだいちか此処こゝせまやまやまみねみねとのなかつないで蒼空あをぞらしろいとの、とほきはくも、やがてかすみ目前まのあたりなるは陽炎かげらふである。
 陽炎かげらふは、しかく、村里むらざと町家まちやる、あやしき蜘蛛くもみだれた、幻影まぼろしのやうなものではく、あだか練絹ねりぎぬいたやうで、てふ/\のふわ/\と呼吸いきが、そのはねなりに飜々ひら/\ひろがる風情ふぜいで、しかみなうつくしいをんな姿すがたかたどる。あるものはもすそに、あるものはそでむらさきに……
 むらさきなるはすみれかげで、なるは鼓草たんぽゝはなうついろであつた。
 いはのあたりは、二種ふたいろはなうづむばかりちてる……其等それらいろある陽炎かげらふの、いづれにもまらぬをんな風情ふぜいしたなかに、たゞ一人いちにんこまやかにゆきつかねたやうな美女たをやめがあつて、いは彼方かなたあだかつくえむかつてさましてたゝずんだ。
 雪枝ゆきえ美女たをやめまへ盤石ばんじやくへだてゝうづくまつたのである……
 双六巌すごろくいはの、にじごと格目こまめは、美女たをやめおびのあたりをスーツといて、其処そこへもむらさきし、うつる……くもは、かすみは、陽炎かげらふは、遠近をちこちこと/″\美女たをやめかたちづくるために、くもうすくもかゝるらし。かたちおごそかなるは、白銀しろがねよろひしてかれ守護しゆごする勇士いうしごとく、姿すがたやさしいのは、ひめ斉眉かしづ侍女じぢよかとえる。
 美女たをやめ背後うしろあたる……山懐やまふところに、たゞ一本ひともと古歌こか風情ふぜい桜花さくらばな浅黄あさぎにも黒染すみぞめにも白妙しろたへにもかないで、一重ひとへさつ薄紅うすくれなゐ
 いろ美女たをやめまぶたにさし、かげ美女たをやめきぬとほす……
 雪枝ゆきえみちけ、いはつたひ、ながれわたり、こずゑぢ、かつらつて、此処こゝ辿たどいた山蔭やまかげに、はじめてたのはさくらで。……
 一行いつかうは、かれと、老爺おやぢと、べつ一人ひとりたかい、いろあを坊主ばうずであつた。
 これよりさき雪枝ゆきえ城趾しろあと濠端ほりばたで、老爺ぢいならんで、ほとん小学生せうがくせい態度たいどもつて、熱心ねつしんうをかたちきざみながら、同時どうじ製作せいさくしはじめた老爺ぢい手振てぶりるべく……そつ傍見わきみして、フトらしたとき天守てんしゆ矢間やざまいてるやうな黒坊主くろばうず姿すがたたが、からすか、ふくろうか、とおもつた。
 が、大牛おほうしる、つまとらはれたしろである……よしそれ天狗てんぐでも、らすところでない。こゝ一刀いつたうろすは、かれすく一歩いつぽである、とさはやかに木削きくづらして一思ひとおもひにきざみてた。
『どう、せさつせえ。』
 小刀こがたなふくろをさめて、頤杖あごづゑしてつて老爺ぢいは、雪枝ゆきえ作品さくひんえて煙管きせるくはえた。
『おゝ、出来できた。ぴち/\とねる……いや、うあらうとおもふた……見事みごとなものぢや、かはかしてくと押死おつちぬべい、それ、勝手かつておよげ!』とひよいと、はふると、ほりみづへばちやりとちた。が、はらして浮脂きらうへにぶくりとく。

三十八


『そりやわかうを元気げんき見習みならへ。ぬしも、ばちや/\とおよげい。』
 で、老爺ぢい今度こんど自分じぶんきざんだうをを、これはまた不状ぶざま引握ひんにぎつたまゝひとしくげる、としぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、163-9]つたが、浮草うきくささつけて、ひれたて薄黒うすぐろく、水際みづぎはしづんでスツととまる。ト雪枝ゆきえ作品さくひんならべたところは、あだか釣糸つりいとけた浮木うきさかな風情ふぜいであつた。……
 なにをかこゝろむる、とあやしんで、おこみぎはつて、枯蘆かれあしくきごしに、ほりおもてみつめた雪枝ゆきえは、浮脂きらうへに、あきらかに自他じた優劣いうれつきぎけられたのを悟得さとりえて、おもはず……
『はつ、』と歎息たんそくした。
 老爺ぢいは、もつぺのひざ小刀屑こがたなくづはたきながら、まゆをふさ/\とゆすつてわらひ、
『はつはつはつい! 私等わしらかちぢや。さつせえ、かたちおなじやうな出来できだが、の、お前様めえさまふなみづれるとはらいたで、ちたいをよ、……私等わしらふなは、およいでも、ひれてたればきたやつなんとしたところで、まないたせれば、人間にんげんくちへいでも、翡翠かはせみねらふたら、ちよつくらもぐつてげべいさ。
 囲炉裏ゐろり自在竹じざいだけ引懸ひつかけるこひにしても、みづはなせばきねばならぬ。お前様めえさまふなのやうに、へたりとはらいてはかねえ。けづとき釣合つりあひひとつで、みづれたときかたちがふでねえかの、たてまればしやうがある、よこれば、んだりよ。……むづことではねえだ。
 が、お前様めえさま手際てぎはでは、昨夜ゆふべつくげて、お天守てんしゆつてござつた木像もくざうも、矢張やつぱりおなかたではねえだか。……寸法すんぽふおなじでもあしすぢつてらぬか、それでは跛足びつこぢや。みぎひだりうで釣合つりあひわるかつたんべい。ほつぺたのにくが、どつちかちがへば、かたがりべいと不具かたわぢや、それではうつくしいをんなでねえだよ。
 もし、へい、五体ごたい満足まんぞく彫刻物ほりものであつたらば、真昼間まつぴるま、お前様めえさまわしとが、つら突合つきあはせた真中まんなかいては動出うごきだしもすめえけんども、つき黄色きいろ小雨こさめ夜中よなか、――ぬしいまはなさしつた、案山子かゝし歩行あるなかれたら、ひとりでつまつて、しやなら、しやならとるべい。なにも、やぶがさぐるまほねらせてはこばせずとことよ。平時いつもならかくぢや、おまけ案山子かゝしどもがこゑいて、おむかひ、と世界せかいなら、第一だいゝち前様めえさまざうかついでほふはあるめえ。なんではい、歩行あるけ、さあ、木像もくざう、とはららしやらぬ。……
 それでは魔物まもの不承知ふしようちぢや。前方さきちつとも無理むりはねえ、るもらぬもの……出来でき不出来ふでき最初せえしよから、お前様めえさまたましひにあるでねえか。
 其処そこけては我等わしらふなぢや。案山子かゝしみのさばいてらうとするなら、ぴち/\ねる、見事みごとおよぐぞ。老爺ぢい広言くわうげんくではねえ。なんの、はし欄干らんかんこゑす、えんじゆくしやみをすべいなら、うろこひからし、くもいてをどりをどらう。
 遣直やりなほさつしやい、あらたにはじめろ、最一まひとつくれさ。
 うやらお前様めえさまよりましだんべいで、出来できこと助言じよごんべい、ところ手伝てつだふべい。
 こしにつけて道具だうぐそろふ。』
えびらごとく、麻袋あさぶくろたゝいてつた。
『すかりとれるぞ。のこらずすべい。兵粮へうらうはこぶだでの! 宿やどへもほこらへもかへらねえで、此処こゝ確乎しつかり胡座あぐらけさ。下腹したはらへうむとちかられるだ。雨露あめつゆしのぐなら、私等わしら小屋こやがけをしてしんぜる。大目玉おほめだまで、天守てんしゆにらんで、ト其処そこられてござるげな、最惜いとをしい、魔界まかい業苦がうくに、なが頭髪かみのけ一筋ひとすぢづゝ、一刻いつこく生血いきちらすだ、奥様おくさま苦脳くなうわすれずに、くまでれさ、たふれたら介抱かいはうすべい。』
 雪枝ゆきえ満面まんめんくれなゐそゝいで、天守てんしゆむかつてみねよりたか握拳にぎりこぶしげた。
わかいものをそゝのかしてらぬほねらせるな、娑婆しやば老爺おやぢめが、』
二人ふたり背後うしろにぬいとつた……
 こけかとゆる薄毛うすげ天窓あたまに、かさかぶらず、大木たいぼくちたのが月夜つきよかげすやうな、ぼけやたいろ黒染すみぞめ扮装でたちで、かほあを大入道おほにうだう
 振向ふりむいた老爺おやぢかほ瞰下みおろして、
おぼえてるか、やみばんを、』と北叟笑ほくそゑみしたほゝくらい。


ひとさしゆび



三十九


『おゝ、御坊ごばう?』
何日いつかのばんの!』
 雪枝ゆきえ老爺ぢい左右さいうからひとしくばわる。
御身おみときわかひとな。』と雪枝ゆきえいて、片頬かたほゝまたくらうして薄笑うすわらひをた。
血気けつきはやつて、うか/\と老爺ぢいくちらぬがい。……城趾しろあとはやいて、天守てんしゆ根較こんくらべをらうなら、御身おみあしなか鉋屑かんなくづかへる干物ひもの成果なりはてやうぞ……この老爺ぢいはなか/\がある! 蝙蝠かはほりきざんでばせ、うをつておよがせるかはりには、年紀としをしてしからず、色気いろけがある、……あるはいが、うぬ持余もてあました色恋いろこひを、ぬつぺりと鯰抜なまづぬけして、ひとにかづけやうとするではないか。じやうぬま暗夜やみおもへ!
 なにか、自分じぶん天守てんしゆ主人あるじから、手間賃てまちん前借まへがりをしてつて、かりかへ羽目はめを、投遣なげやりに怠惰なまけり、格合かくかうをりから、わかいものをあふつて、身代みがはりにはたらかせやうかもはかられぬ。』
『これ、これ、御坊ごばう御坊ごばう、』とつてしまつたくちとがらかす。
 相対あひたひする坊主ばうずくちは、三日月形みかづきなりうへおほきい、小鼻こばなすぢふかにやつて、
『いや、やみわすれまい。ぬまなかあてきやうませて、斎非時ときひじにとておよばぬが、渋茶しぶちやひと振舞ふるまはず、すんでのことわし生涯しやうがい坊主ばうず水車みづぐるまらうとした。』
『む、まづ出家しゆつけやくぢや……断念あきらめさつしやい。また一慨いちがい説法せつぽふされては、一言いちごんもねえことよ。……けんども、やきもきと精出せいだいてひと色恋いろこひむのが、ぬしたち道徳だうとくやくだんべい、押死おつちんだたましひみちびくもつとめなら、持余もてあました色恋いろこひさばきけるもほふではねえだか、の、御坊ごばう。』
ればな……いやくちらぬ老爺ぢゞい身勝手みがつてふが、一理いちりある。――ところでな、あのばん手網であみばんをしたが悪縁あくえんぢや、御身おみとほ色恋いろこひさばきたのまれたことおもへ。
 べつではない、わかひと内儀ないぎことでな、』
 雪枝ゆきえきつ向直むきなほつた。
 流盻しりめけつゝ老爺ぢいに、
『……夢幻ゆめまぼろしのやうに言托ことづけたのまれて、さいしるし受取うけとつたは、さて此方衆こなたしゆつてのとほりだ。――たのまれたこと手廻てまはしに用済ようずみとつたでな、翌朝あけのあさすぐにも、此処こゝ出発しゆつぱつおもふたが、なにる……温泉宿おんせんやど村里むらざと托鉢たくはつして、なにとなく、ふら/\とおくつた。様子やうすけば、わし言托ことづけとほり、なにか、内儀ないぎ形代かたしろ一心いつしんきざむとく、……それ成就じやうじゆしたと昨夜ゆふべぢや。わかひと人形にんぎやうはこんであとになりさきになり、天守てんしゆはいつて四階目しかいめのぼつた、ところはしら木像もくざう抱緊だきしめて、んだやうにねむつてる。
 はてな、内儀ないぎかへさぬか、一体いつたいどんな魔物まものむぞ。――其処そこくまでにはなにいたものはかつたにつて――うへか、と最一もうひと五階ごかいのぼつてた。様子やうすれた。』
うなづいてつた。
なにが、何者なにものるんだ。』と雪枝ゆきえ苛立いらだつてひし詰寄つめよる。
 さへぎごとしやかまへて、
『いや、なにわからん、ものはえん。が、五階ごかいのぼつて、かたたゝみうへつた。つめたかぜひやりとると、ひだりうでがびくりとうごく、と引立ひつたてたやうに、ぐいとあがつて、人指指ひとさしゆびがぶる/″\とふるふとな、なにかゞくちくとおなじに、こゝろみゝつうじた。……
 天守てんしゆ主人あるじは、御身おみ内儀ないぎ美艶あでやかいろ懸想けさうしたのぢや。もない、ごふちから掴取つかみとつて、ねやちか幽閉おしこめた。従類じうるゐ眷属けんぞくりたかつて、げつろしつさいなむ、しもと呵責かしやく魔界まかい清涼剤きつけぢや、しづか差置さしおけば人間にんげん気病きやみぬとな……
 ふまでもないにくほふつてすゝるに仔細しさいはないが、をつと香村雪枝かむらゆきえとか。天晴あつぱ一芸いちげいのあるかひに、わざもつつまあがなへ! 魔神まじんなぐさたのしますものゝ、美女びじよへてしかるべきなら立処たちどころかへさする。――
 いかな、こゝろ御身おみ内儀ないぎに、わしたのまれて、御身おみつたへた。』

四十


けてながめうとおもはなを、つとのまゝへやかせていて、待搆まちかまへたつくなひのかれなんぢや! つんぼの、をうしの、明盲人あきめくらの、鮫膚さめはだこしたぬ、針線はりがねのやうな縮毛ちゞれつけ人膚ひとはだ留木とめきかをりかはりに、屋根板やねいたにほひぷんとする、いぢかりまたの、腕脛うですねふしくれつた木像女もくざうをんななにる! ……わるこぶしさいたせて、不可思議ふかしぎめいた、神通じんつうめいた、なにとなく天地あめつちの、ふにはれぬこゝろめたらしい所業しわざ可笑をかしい。笑止千万せうしせんばん大白痴おほたはけ!』
『ヌ、』とばかりで、下唇したくちびるをぴりゝとんで、おもはず掴懸つかみかゝらうとすると、鷹揚おうやう破法衣やぶれごろもそでひらいて、つばさ目潰めつぶしくろあふつて、
『と、な、……天守てんしゆ主人あるじはるゝのぢや……それがなにもない天井てんじやうから、ゆびにぶる/\とひゞいてこえた。』
 と、天守てんしゆむねつて、人指指ひとさしゆびそらばすと、雪枝ゆきえあをつて、ばつたり膝支ひざつく。
 けぬ老爺ぢいは、前屈まへこゞみにこしれて、
わかつた、わかつたよ、御坊ごばう。お前様めえさまが、ほとけでもおにでも、魔物まものでも、たゞ人間にんげん坊様ばうさまでもえ。はつしやることちた……はやはなしが、ひとつてつたは、はらいたふなだで、うつくしい奥様おくさまとは取替とりかへぬ。……ひれてたうをい、かへしてると、うだんべい。
 さ、其処そこぢやい! 其処そこどころぢやにつてわし後見かうけん助言じよごんて、すぐれた、まさつた、あたらしい、……いゝかの、生命いのちのある……肉附にくづきもふつくりと、脚腰あしこしもすんなりした、はだい、つきてばたまのやう、むかへばゆきのやうな、へい、魔王殿まわうどの一目ひとめたら、松脂まつやによだれながいて、たましひ夜這星よばひぼしつてぶ……ちゝしろい、爪紅つめべにあかやつ製作こさへるとはぬかい!
 わかいものをそゝのかして、徒労力むだぼねらせると何故あぜふのぢや。御坊ごばう飛騨山ひだやま菊松きくまつが、烏帽子えばうしかぶつて、向顱巻むかふはちまき手伝てつだつて、見事みごと仕上しあげさせたらなんとする。』
れば、とほりに仕上しあがつて、其処そこ木像もくざううごくかな、はたらかすかな、び、まがるか、あしうじや、歩行あるくかな。』
みなまではせず、老爺ぢいまゆ白銀しろがねごとひかりびて、太陽むかかゞやかした。手拍子てべうしつやう、こし麻袋あさぶくろをはた/\とたゝいたが、おにむかつていしきく、大胆不敵だいたんふてきさまえた。
天守てんしゆ魔物まもの何時いつからむよ。飛騨国ひだのくに住人じうにん日本につぽん刻彫師ほりものし菊之丞きくのじやうまご菊松きくまつ行年ぎやうねんつもつて七十一歳しちじふいつさい極楽ごくらくから剰銭つりせんとしで、じやうぬまをんなかげ憂身うきみやつすおかげには、うごく、はたらく、彫刻物ほりものきて歩行あるく……ひとりですら/\と天守てんしゆあがつて、魔物まものねや推参すゐさんする、が、はり意地いぢいてるぞ、とききらはれぬ用心ようじんさつせえ、と御坊ごばう言托ことづけたのまうかい。』
い、い。』
 ニヤ/\とりやうほゝくらくして、あの三日月形みかづきなり大口おほぐちを、食反くひそらしてむすんだまゝ、口元くちもとをひく/\としたあかかへるまで、うごめかせたわらかたで、
面白おもしろい! たびのものぢやが、それいた。此方こなた手遊てあそびにこしらえる、五位鷺ごゐさぎ船頭せんどうは、つばさ舵取かぢとり、くちばしいで、みづなかくとな………』
天守てんしゆうへから御覧ごらんなされ、太夫たいふほんの前芸まへげいにござります、ヘツヘツヘツ』とチヨンとかしらげて揉手もみでふ。
『おゝ、面魂つらだましひ頼母たのもしい。満更まんざらうそとはおもはん。成程なるほど此方こなたつくつたざうは、またゝかう、歩行あるかう、いやなものにはねもせう。……れば御身おみは、わかいものゝ尻圧しりおししていしるまでもはたらけ、とはげますのぢや。で、そゝのかすとはおもふまい。徒労力むだぼねをさせるとはるまい。が、わしは、無駄むだぢやめい、とすゝめる……理由わけうてかさう。
 其処そこで、老爺おやぢ、』
『おい、』
御身おみふ、ざうにはかよふか、』
かよふだ?』と聞返きゝかへす。
ればよ、はりさきいても生命いのちしぼる、の、あの人間にんげんうつくしいかよふかな。』
『…………』と老爺ぢいまゆがはじめてひそむ。

四十一


 黒坊主くろばうずかさかゝつて、
『まだきたい。御身おみさくはだなめらかぢやらう。が、にくはあるか、れて暖味あたゝかみがあるか、木像もくざうつめたうないか。』
『はてね、』ととひあやしなかに、とひるんだのが、づる。
第一だいゝち肝要かんえうなはくちくかな、御身おみさくこゑすか、ものをふかな。』
馬鹿ばかことを、無理無躰むりむたいぢや。』
呆果あきれはてた様子やうすであつた。
もない。はじめからひとつまつかつてものをふ、悪魔あくま所業しわざぢや、無理むり無躰むたい法外ほふぐわい沙汰さたおもへ。
 此所こゝけよ、二人ふたりひと。……御身達おみたちが、とほり、いまあたらしく遣直やりなほせば、幾干いくらすぐれたものは出来できやう、がな、それたゞまへのにくらべてまさるとふばかりぢや。
 それからう、なにたぬ、むなしいとぼしいものにつたら、御身達おみたちつくあらためると木像もくざうでも、いよりはしぢや、しなつて、うつくしいとも、めづらしいともおもはうもれぬ。
 けれどもな、天守てんしゆ主人あるじは、うちに、きた、生命いのちある、ものをふ、かよふ、艶麗あでやかをんなにぎつてるのぢや。いか、それへやうとふからには、ほたるほしちりやまつゆ一滴いつてきと、大海だいかいうしほほど、抜群ばつぐんすぐれた立優たちまさつたものでいからには、なにまた物好ものずきに美女びぢよ木像もくざうへやう。
 彫刻ほりしたふなおよぐもい。面白おもしろうないとははぬが、る、く、あるひなまのまゝにく※(「口+敢」、第3水準1-15-19)くらはうとおもふものに、料理りやうりをすれば、すみる、はひる、きれなににせい、と了見れうけんだ。
 悪魔あくまいまにくほつする、もとむる……ほとけ鬼女きぢよ降伏がうぶくしてさへ、人肉じんにくのかはりにと、柘榴ざくろあたへたとふではいか。
 すで目指めざ美女びぢよとらへて、おもふがまゝに勝矜かちほこつた対手あひてむかふて、らぬつくなひの詮議せんぎめろ。
 うぢや、それとも、御身達おみたちに、煙草たばこ吸殻すゐがら太陽たいやうほのほへ、悪魔あくま煩脳ぼんなう[#「煩脳を」はママ]焼亡やきほろぼいて美女びぢよたすける工夫くふうがあるか、すりや格別かくべつぢや。よもあるまい。るか、からう。……
 それ、徒労力むだぼねことよ! えうもない仕事三昧しごとざんまい打棄うつちやつて、わかひとつま思切おもひきつて立帰たちかへれえ。老爺おやぢらぬ尻押しりおしせず、柔順すなほつまさゝげるやうに、わかいものを説得せつとくせい。
 勝手かつて木像もくざうきざまばきざめ、天晴あつぱ出来でかしたとおもふなら、自分じぶんそれ女房にようぼうのかはりにして、断念あきらめるが分別ふんべつ為処しどころだ。見事みごとだ、うつくしいと敵手あひてゆるは、其方そつち無理むりぢや、わかつたか。』
ゆびげてくもした。
天守てんしゆ主人あるじ言托ことづけとほり。あらためてしるしせう、……前刻さきにまをした、鮫膚さめはだ縮毛ちゞれけの、みにくきたない、木像もくざうを、仔細しさいありげによそほふた、心根こゝろねのほどの苦々にが/\しさに、へしつて捻切ねぢきつた、をんな片腕かたうでいまかへすわ、受取うけとれ。』
法衣ころも破目やぶれめくゞらすごとく、ふところからいて、ポーンと投出なげだす。
 途端とたんまたゆびてつゝ、あし一巾ひとはゞ坊主ばうず退さがつた。いづれ首垂うなだれた二人ふたりなかへ、くさかうをつけて、あはれや、それでもなまめかしい、やさしいかひな仰向あふむけにちた。
 雪枝ゆきえたゞかたいだいてしぼつた。
 老爺ぢいは、さすがに、まだ気丈きじやうで、対手あひてまでに、口汚くちぎたなののしあざける、新弟子しんでしさく如何いかなるかを、はじめて目前まのあたりためすらしく、よこつてじつて、よわつたとひそかたで、少時しばらくものもはなんだ。うすうはつたが、てない、底光そこひかりのするほそうして、
『いや、御出家ごしゆつけ。』
調子てうしへて……
むし居所ゐどころくわつともたがの、かんがえてれば、お前様めえさまは、たゞ言托ことづけたのまれたばかりのことよ。なにつてかゝるにはあたらなんだか。……また前様めえさまとてもなにもこれ、わかひとうらみおんむくひもあらつしやる次第しだいでねえ。……ところでものは相談さうだんぢやが、なんとかして、奥様おくさまたすけると工夫くふうはねえだか、のう、御坊ごばう人助ひとだすけは此方こなたつとめぢや、ひと折入をりいつてたのむだで、勘考かんかうしてくらつせえ。』とがらりと出直でなほる。

四十二


 これをくと、もあらむ、と面色おもゝちした坊主ばうず気色きしよくやゝやわらいで、
れば、はれるとわしよわる。天守てんしゆからは、よくさばけ、最早もはをんなおもるやうわかひとさとせとある……御身達おみたち生命いのちへても取戻とりもどしたいとつてふ。
 で、それ取戻とりもど唯一たゞひとつの手段てだてふのが、つくなひのざうつくるにある、ざうが、御身おみたちに、』
『えゝ、えゝ、う、わかつた。なんわし顱巻はちまきしても、かよふ、あたゝか彫刻物ほりもの覚束おぼつかないで、……なんとかべつ工夫くふうたのむだ、なものは、』とにしたかひなを、思切おもひきつたしるしに、たゝきつけやうとして揮上ふりあげた、……こぶしれて、ころ/\とさいこぼれて。いちろくか、くさなかに、ぽつりと蟋蟀こほろぎとまんぬ。
 三人さんにんじつながめた。
 坊主ばうずづ、
老爺おやぢ……』とこゝろありげにんだ。
『はあ、これぢや、』
さいうへふたするやうに、老爺ぢいまゆしたかざして、
『ちよつくらいたことがある、たつせえ、御坊ごばう……』
『…………、』
わかひとおもふ。お前様めえさま小児こどもとき姉様あねさまにしてなつかしがらしつたと木像もくざうからえんいて、過日こないだ奥様おくさま行方ゆきがたわからなくつたときからまはめぐつて、采粒さいつぶまとふ、いま此処こゝさいがある……山奥やまおく双六すごろくいはがある。其処そこ魔所ましよぢやとたかい。時々とき/″\やまくうつてしんとすると、ころころとさいげるおと木樵きこりみゝひゞくとやら風説ふうせつするで。天守てんしゆにも主人あるじがあれば双六巌すごろくいはにもぬしまう……どちらも膚合はだあひおな魔物まものが、はえはなし親類附合しんるゐつきあひやうもれぬだ。魔界まかいまた魔界まかい同士どうしはなしかたもあらうとおもふ、うだね、御坊ごばう。』
 坊主ばうず二三度にさんどうなづいた。で、ふかひろひたひせた。
『いや、ところいた、……なんにせい、うへ各々おの/\らずに人頼ひとだのみぢや。たのむには、成程なるほどへんであらうかな。』
つてべい。方角はうがく北東きたひがしやりだけ見当けんたうに、辰巳たつみあたつて、綿わたつゝんだ、あれ/\天守てんしゆもり枝下えださがりに、みねえる、みづえる、またみねえてみづまがる、またひとみね抽出ぬきでる。あのそら紫立むらさきだつてほんのり桃色もゝいろうすえべい。――麻袋あさふくろには昼飯ひるめしにぎつたやつあまるほどめてく、ちやうど僥幸さいはひやまいも穿つて横噛よこかじりでも一日いちにち二日ふつかしのげるだ。りからかせ、さあ、ござい。わかひと。……お前様めえさまさいひろはつしやい。御坊ごばう、』
りかゝつたふねぢや、わしく。……』
 で、連立つれだつて、天守てんしゆもりそとまはり、ほりえて、少時しばらく石垣いしがきうへ歩行あるいた。
 爾時そのとき十八九人じふはつくにん同勢どうぜいが、ぞろ/\とえてけてた。なかには巡査じゆんさまじつたが、ほりむかふのたか石垣いしがきうへに、もりえだつたてい雪枝ゆきえ姿すがたを、ちひさなとりつて、くもく、とながめたであらう。……
 げ、ばうり、ステツキはしなどして、わあわつとこゑげたが、うちに、一人ひとりくさおちをんな片腕かたうでたものがある。それから一溜ひとたまりもなく裏崩うらくづれして、真昼間まつぴるまやま野原のばらを、一散いつさんに、や、くもかすみ
 もりまくさつちて、双六谷すごろくだに舞台ぶたいごと眼前めのまへひらかれたやうに雪枝ゆきえおもつた。……悪処あくしよ難路なんろ辿たどりはしたが、までときつたともおもはず、べつそれために、とおも疲労つかれさない。で、あしはこうちいたいたので、宛然さながら城址しろあと場所ばしよから、もり土塀どべいに、一重ひとへへだてた背中合せなかあはせの隣家となりぐらゐにしかかんじない。――もつと案内あんないをすると老爺ぢいより、坊主ばうずはうが、すた/\さきつて歩行あるいたが。
 ときに、真先まつさきに、一朶いちださくら靉靆あいたいとして、かすみなか朦朧もうろうたるひかりはなつて、山懐やまふところなびくのが、翌方あけがた明星みやうじやうるやう、巌陰いはかげさつうつつた。


四五六谷しごろくだに



四十三


しつ!」
老爺ぢい警蹕けいひつめいたこゑを、われくちくつわける。
 トなだらかな、薄紫うすむらさきがけなりに、さくらかげかすみ被衣かつぎ、ふうわり背中せなかからすそおとして、鼓草たんぽゝすみれ敷満しきみちたいはまへに、美女たをやめたのである。
 少時しばらく一行いつかう呼吸いきらした。
 よ! よ! いはめんなめらかに、しつあをつやきざんで、はないろうつしたれば、あたかむらさきすぢつた、自然しぜん奇代きたい双六磐すごろくいは磐面ばんめんにははなんだ、大輪だいりんすみれ鼓草たんぽゝとが、陽炎かげらふかゞやなかに、鼓草たんぽゝく、すみれうすく、うつくしくいろわかつて、十二輪じふにりん十二輪じふにりん二十四輪にじふしりんこまなるよ……むかはせに区劃くぎりへだてゝ、二輪にりん一輪いちりん一輪いちりん二輪にりんそら蒔絵まきゑしたほしごとく、浮彫うきぼりしたやうならべられた。
 美女たをやめは、やゝ俯向うつむいて、こまじつながめる風情ふぜいの、黒髪くろかみたゞ一輪いちりん、……しろ鼓草たんぽゝをさしてた。いろはなは、一谷ひとたにほかにはかつた。
 かる黒髪くろかみそよがしにかぜもなしに、そらなるさくらが、はら/\とつたが、とりかぬしづかさに、花片はなびらおとがする……一片ひとひら……二片ふたひら……三片みひら……
みツつ」とうぐひすのやうなこゑそでのあたりがれたとおもへば、てふひとツひら/\とて、ばんうへをすつとく……
ひとつ、」
美女たをやめまたかぞへて、鼓草たんぽゝこまつて、格子かうしなかへ、……すみれはないろけて、しづか置替おきかへながら、莞爾につこ微笑ほゝゑむ。……
 気高けだかなかやさしさ。
「は、」と、おもはず雪枝ゆきえは、此方こなたひそみながら押堪おしこらへたいき発奮はづんだ。
たれ? ……」
美女たをやめこゑかゝる。
 老爺ぢいしはぶきひとわざとして、雪枝ゆきえ背中せなかとん突出つきだす。これに押出おしだされたやうに、蹌踉よろめいて、鼓草たんぽゝすみれはなく、くも浮足うきあし、ふらふらとつたまゝで、双六すごろくまへかれ両手りやうていてひざまづいたのであつた。
 坊主ばうず懐中ふところ輪袈裟わげさつてけ、老爺ぢい麻袋あさふくろさぐつた、烏帽子えぼうしチヨンかぶつて、あらためてづゝとた。
 美女たをやめびんおさへた。
 こゑせぬ雪枝ゆきえかはつて、老爺ぢい始終しゞう物語ものがたつた……
 坊主ばうずは、時々とき/″\まなこひらいて、聞澄きゝすま美女たをやめ横顔よこがほうかゞる。
「お姫様ひめさま、」
かたてゝ老爺ぢいんで、
「おたすけをつかはされ、さあ、わかひとねがへ。」
姫様ひいさま、」
雪枝ゆきえは、やつれにやつれた人間にんげんかほして見上みあげた。
※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じやうらうどの、」と坊主ばうず言足いひたす。
 美女たをやめ引合ひきあはせたそでひらいた。して、
天守てんしゆのお使者つかひ天守てんしゆのお使者つかひ。」
二声ふたこゑばるゝ。
「やあ、拙僧わしことか、」と、いて坊主ばうずこたへた。
「あの、ゆびをおしになれば、天守てんしゆかたの、おこゝろつうじますかえ。」
如何いかにも。」と片手かたてにぎつて、片手かたてあをほゝげたにならべて、よこひらいておうじたのである。
双六すごろくつてけませう。わたしほかことなんにもらねば……して、わたしけましたら、其切それきり仕方しかたがありません。もし、あの、わたしかちとなれば、のおかた奥様おくさまを、つゝがなう、おもどしになりますやうに……お約束やくそく出来できませうか。」
物優ものやさしいがちからあるこゑしてく。
 坊主ばうず言下ごんかくうした。
天守てんしゆおいては、かね貴女あなた双六すごろくつてなぐさみたいが、御承知ごしようちなければ、いたしやうもかつたをりから……ちやう僥倖さいはひ、いやもとより、もとよりのぞまをところ……とある!」

四十四


 美女たをやめにもうれしげに……たのまれてひとすくふ、善根ぜんこん功徳くどく仕遂しとげたごと微笑ほゝゑみながら、左右さいうに、雪枝ゆきえ老爺ぢいとを艶麗あでやかて、すゞしいひとみ目配めくばせした。
「そんなら、わたしちましたら、奥様おくさまをおかへしなさいますね。」
御念ごねんおよばぬ、じやうぬまそこく……霊泉れいせんゆあみさせて、きづもなく疲労つかれもなく苦悩くなうもなく、すこやかにしておかへまをす。」
 美女たをやめは、十二じふにかずの、むらさきを、両方りやうはうへ、さつけて、
天守てんしゆのおかた。どちらのこまを……」
赫耀かくやくとしてかゞやく、黄金わうごんはな勝色かちいろ鼓草たんぽゝわしはうへ。」
せたほゝげたのふくらむまで、坊主ばうず浮色うきいろつてゑみふくんで、こまふたつづゝ六行ろくぎやうに。
 おなじくふたつづゝ六行ろくぎやうに……むらさき格子かうしならべた。
むらさきあけうばふ、お姫様ひめさますみれはなが、勝負事しようぶごとには勝色かちいろぢや。」
老爺ぢい盤面ばんめん差覗さしのぞいて、坊主ばうず流盻しりめいさんだ顔色かほつき
 これに苦笑にがわらくちむすんだ、坊主ばうず心急こゝろせ様子やうすえて、
「ざ! ※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じやうらう、」
「おきやくなれば貴僧あなたから、」
「や、さいは、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じやうらう。」と高声たかごゑつた。
そらくもかづ、」
まゆひらいて見上みあぐるてんを、しろくもてはえ、しろくもてはえする。
さくらはなるのをかぞへ、てふつばさんで、貴僧あなたわたし順々じゆん/\に。」
 坊主ばうずうなづいて袈裟けさゆすつた。
。」
たか美女たをやめが。
乞目こひめ、」
坊主ばうずが、たがひ一声ひとこゑうぐひすふくろふと、同時どうじこゑ懸合かけあはせた。
ひとて、ふたつぢや。」
つる姿すがたくもにらんで、鼓草たんぽゝ格子かうしうごく。
 ト美女たをやめたもとつて、そでなゝめに、ひとみながせば、こゝろあるごとさくらえだから、花片はなびらがさら/\としろかざしはなかすめるときくれないいろして、そで飜然ひらりまつた。
みぎみつつ、」
そでかへして、ひだりたもとしづかにくと、また花片はなびらがちらりとる。
ひとつとふたつ、」
すみれはなしろゆびから格子かうしはいつた。
くもよ、くもよ、くもよ、」
んで、気色けしきばんで、やゝ坊主ばうずがあせりした。――あらそひのなかばであつた。
くもる、はなる。や、さいながいぞ。うちをのち、玉手箱たまてばこやぶれうもれぬが。わかひとさいを……さいさつしやい。うつかり見惚みとれてわしわすれた。」
めたやうに老爺ぢいつた。
 青年わかものくから心着こゝろづいて、仏舎利ぶつしやりのやうにさゝげてたのを、そつ美女たをやめまへした。
ひとつたり、」
老爺ぢいかたはらから、肝入きもいれして、さい盤石ばんげさせた。
「お姫様ひいさま、それ/\、ほしひとつで、うめぢや。またゝきするに、十度とたびる。はやく、もし、それ勝負しようぶけさつせえまし。」
天下てんか重宝ちやうほうわしもつひこれかなんだ。」
坊主ばうず手早てばやひろる。
「いえ、いそいではりません、はなかずてふかずくもかずくつては。」と美女たをやめかしらつた。
「えゝ、お姫様ひいさまの! うやらいままでの乞目こひめでは、一度いちど一年いちねんかゝりさうぢや。おかげ私等わしらひもじうも、だるうもけれど、肝心かんじんたすらうとふ、奥様おくさまをおさつしやれ。一息ひといき一点ひとたらし一刻いつこくにく一分いちぶしぼられる、けづられる……天守てんしゆうつばりさかさまで、むちひまはないげな。」
とほり。」と傲然がうぜんとして、坊主ばうず身構みがまそでかゝげた。

四十五


 美女たをやめかほいろ是非ぜひなげにえた。
 いちき、ろくで、さんかはり、かへり、ならぶ。てんほしかゞやごとく、さいく、こまはげしくうごくにれて、中空なかぞらよ、しうき、たにぶ、えたくものこり、つゞくもかさなり、くも結着むすびついて、くもはやがてあつく、くもはやがてく、すでにしてちかくなり、ひくつた。……
 たちま一片いつぺん美女たをやめおもてにもくもかげすよとれば、一谷ひとだにくらつた。
 するど山颪やまおろしると、舞下まひさがくもまじつて、たゞよごとすみれかほりぱつ[#「火+發」、U+243CB、182-14]としたが、ぬぐつて、つゝとえると、いなづまくうつた。……坊主ばうず法衣ころもは、大巌おほいはいろみだれた双六すごろくばんおほふて、四辺あたりすみよりもかげくろい。
 ト暗夜あんやごと山懐やまふところを、さくらはなるばかり、しろあめそゝぐ。あひだをくわつとかゞやく、電光いなびかり縫目ぬいめからそらやぶつて突出つきだした、坊主ばうずつら物凄ものすさましいものである……
 れば、かしらに、無手むづ一本いつぽんつのひたり。顔面がんめんくろうるしして、くま鼻頭はなづら透通すきとほ紫陽花あぢさゐあゐながし、ひたひからあぎとけて、なが三尺さんじやくくちからくちはゞ五尺ごしやく仁王にわうかほうへふたしたはせたばかり、あまおほきさとつて、カチ/\とときわにかとおも大口おほぐちくわつひらいて、上頤うはあごめるしたあかい。
さわぐまい、時々とき/″\ある……深山幽谷しんざんいうこくへんじや。わかひとたれかほ姿すがたも、かはるかんねえだ! おどろくとくるふぞ、ふさいでせぐゝまれ、しやがめ、突伏つゝふせ、ふさげい。」
老爺ぢいよばはる。
 雪枝ゆきえはハツとせて、いは吸込すひこまれるかと呼吸いきめたが、むね動悸だうきが、持上もちあ揺上ゆりあげ、山谷さんこくこと/″\ふるふをおぼえた。
 殷々ゐん/\としてらいひゞく。
 おとなかに、
らう!」
思切おもひきつた美女たをやめの、ほそとほ声音こはねが、むねえぐつてみゝつらぬく。
なにを、ればとふていまは……乞目こひめ!」
誇立ほこりたつた坊主ばうずこゑひゞいたが。
「やあ、つた。」
さけんで、大音だいおん呵々から/\わらふとひとしく、そらしたゆびさきへ、法衣ころもすそあがつた、黒雲くろくもそでいて、虚空こくういなづまいてぶ。
 とかぜ余波なごりしんとして、たにまたゝに、もとの陽炎かげらふ
 が、ひかりやゝよわく、きぬのひた/\とところに、うすかげ繊細かほそくさして、散乱ちりみだれたさくらはなの、くびにかゝつたまゝ、美女たをやめは、ひたひてゝ、双六盤すごろくばん差俯向さしうつむいて、ものゝなやましげな風情ふぜいであつた。
「お姫様ひめさま、」
かぜゆがんだ烏帽子えばうしひも結直ゆひなおしたが、老爺ぢいこゑちからかつた。
姫様ひいさま。」
膝行いざつて、……雪枝ゆきえ伸上のびあがるやうにひざいて、そでのあたりををがんだ。
たのまれたのに、みません。」
 二筋ふたすぢ三筋みすぢ後毛をくれげのふりかゝるかほげて、青年わかものかほじつながめて、睫毛まつげかげはなしづくひかつて、はら/\とたまなみだおとす。
 老爺ぢいはなつまらせた。
 雪枝ゆきえしぼつて湧出わきいづるやうに、あつい、やはらかなみだながれた。
断念あきらめます、……断念あきらめる……わたくしはおうら思切おもひきります。うぞ、かはり、ゆめでもい、ゆめなら何時いつまでもめずに、わたくし此処こゝに、貴女あなたそばにおください。
 貴下あなた生効いきがひのないわたくしばちあたれ、んでもかまはん。」
前倒まへたふしにげて、ひし美女たをやめすがると、りもはらはず取添とりそへて、
雪様ゆきさま。」
やさしくふ。
「え、」
 いや、老爺ぢいおどろくまいか。


獅子しゝかしら



四十六


「おなつかしい。わたし貴下あなた七歳なゝつ年紀とし、おそばたお友達ともだち……過世すぐせえんで、こひしうり、いつまでも/\、御一所ごいつしよにとおもこゝろが、我知われしらずかたちて、みやこ如月きさらぎゆきばんゆきは、故郷ふるさとからわたしむかひたものを、……かへちつとしに、貴下あなたせなよりかゝつて、二階にかい部屋へやはいりしなに、――貴下あなたのお父様とうさま御覧ごらんには、……きふ貴下あなたおほきくつて、としごろもつゐくらゐ、わたし二人ふたり夫婦ふうふのやうでじつ抱合だきあかたちえて、……あやしいをんなと、ぐにで、暖炉ストーブはいにされましたが、外面そともからひた/\る……むかひのゆきけむりつゝんで、つきしたを、もと故郷ふるさとかへりました。
 非情ひじやうのものが、こひをしたとがめけて、ときから、たゞ一人ひとりで、いままでも双六巌すごろくいはばんをして、雨露あめつゆたれても、……貴下あなたことわすれられぬ。
 こゝろつうずるのか、貴下あなた年月としつきち、つても、わたしことをおわすれなさらず、昨日きのふまでも一昨日おとゝひまでも、おもめてくださいましたが、奥様おくさま出来できたので、つひ余所事よそごとになさいました。
 それをおうらまをすのではない。嫉妬ねたみそねみもせぬけれど、……口惜くちをしい、それがために、かたきから仕事しごと恥辱ちじよくをおあそばす。……くも花片はなびらかずめば、おもふまゝの乞目こひめて、双六すごろくてたのに、……たゞ一刻いつこくあらそふて、あせつておもだあそばすから、あぶないとはおもひながら、我儘わがまゝおつしやる可愛かあいらしさに、謹慎つゝしみもつひわすれ、こゝろみだれて、よもやにかされ、人間にんげんさい使つかつたので、かひなくかたきけました。貴下あなたも、わるい、わたしわるい。
 あゝ、はなみだれぬうち、くもうちから奥様おくさまたすし、こゝへならべて、てふかげから、貴下あなたよろこかほて、あと名告なのりたうごさんした。」
としめやかに朱唇しゆしんうごく、とはなさゝやくやうなのに、恍惚うつとりしてわれわすれる雪枝ゆきえより、飛騨ひだくに住人じゆうにんつてのほか畏縮ゐしゆくおよんで、
南無三宝なむさんぽう、あやまりてた。」と烏帽子えばうしいて猪頸ゐくびすくむ。
「いえ/\これさだまる約束やくそく。……しかし、なつかしい。奥様おくさま思切おもひきり、てゝもわたしそばいのちをかけてやうとおつしやる。のお言葉ことば奥様おくさますくはれます……わたしまたいのちにかけても、おのぞみげさせましやう。
 さあ、貴下あなた、あらためて、奥様おくさまつくなふための、木彫きぼりざうをおつくあそばせ、すぐれた、まさつた、生命いのちある形代かたしろをおきざみなさい。
 きつかたき不足ふそくはせぬ。花片はなびらゆきにかへて、魔物まもの煩悩ぼんなうのほむらをひやす、価値ねうちのあるのを、わたくしつくらせませう、……おぢいさん、」
見返みかへつて、
貴翁あなたがおいへ重代じゆうだいの、小刀こがたなを、雪様ゆきさまにおくださいまし。」
心得こゝろえました。」
つゝしんでつてる、小刀こがたな受取うけとると、取合とりあつたはなして、やはらかに、やさしく、雪枝ゆきえかうの、かたつてゆびうごかぬを、でさすりつゝ、美女たをやめてのひらにぎらせた。
 四辺あたり※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはし、衣紋えもんなほして、雪枝ゆきえむかつて、背後向うしろむきに、双六巌すごろくいはに、はじめはこしける姿すがたえたが、つまはなして、ばんうへへ、すみれ鼓草たんぽゝこまけて、さいつてよこた。
 陽炎かげらふもすそかゝつた。
 美女たをやめ風采ありさまは、むらさき格目こまめうへに、にじまくらした風情ふぜいである。
 雪枝ゆきえは、たふれたとて、つゝとつた。
「……雪様ゆきさまわたしを、わたしまゆを、わたしひたひを、わたしかほを、わたしかみを、のまゝに……小刀こがたなでおきざみなさいまし。」
「や、」と老爺ぢい吃驚びつくりして、けたこゑして、
成程なるほど、お天守てんしゆ不足ふそくふまい、が、当事あてこともない、滅法界めつぽふかいな。」
雪様ゆきさまいたくはない。ぬ、まゆひそめるほどもない。いて、つて、さあ、小刀こがたなで、のなりに、……のなりに、……」
思切おもひきる、断念あきらめた、女房にようばうなんぞけがらはしい。貴女あなた一所いつしよいてください、おぢいさんもたのんでください、一度いちどつて、」
 戞然からりと、どき/\した小刀こがたな投出なげだす。
のおこゝろせないうちはや小刀こがたなをおりなさいまし。……そんなことをおつしやつて、奥様おくさまは、いまうしてらつしやいます。」
 それをくや、
「わつ、」といて、雪枝ゆきえ横様よこざますがりついた、むね突伏つゝふせて、たゞおのゝく……
 やをら、を、あねがするやう掻撫かいなでながら、
るのがさだまりごと、……ひとうんひとつづゝてんほし宿やどるとひます。それおなじに日本国中にほんこくちゆう何処どこともなう、或年あるとし或月あるつき或日あるひに、ひと行逢ゆきあはす、やまにもにも、みづにもにも、くさにもいしにも、はしにもいへにも、まへからさだまるうんがあつて、はなならば、はなてふならば、てふくもならば、くもに、うつくしくもすごくもさびしうも彩色さいしきされていてある…取合とりあふてむつふて、ものつて、二人ふたりられるではない。
 たゞかたちばかり、何時いつ何処いづくでも、貴方あなたおもとき其処そこる、ねんずるときぐにへます、おあそばせばまゐられます。
 や、小刀こがたなを……、小刀こがたなを……、」
帰命頂礼きみやうてうらい南無不可思議なむふかしぎ帰命頂礼きみやうてうらい南無不可思議なむふかしぎ。」
となへながら、老爺ぢいひろつてわたしたとき雪枝ゆきえひし小刀こがたなつた。
一刀一拝いつたういつぱいをがめ、たのめ、ねんじて、ねんじて、」
はげましをしうるがごとくに老爺ぢいふ。
ひめひめ、」
いさましく、
きづけたら、わたしぬ。」
じつて、小刀こがたな取直とりなほした。
 美女たをやめ姿すがたありのまゝ、木彫きぼりざうつたときひざつて、雪枝ゆきえひし抱締だきしめてはななんだ。
 老爺ぢいいてこして、さて、かはる/″\ひもし、きもして、嶮岨けんそ難処なんしよ引返ひきかへす。と二時ふたときほどいた双六谷すごろくだにを、城址しろあとまでに、一夜ひとよ山中さんちゆう野宿のじゆくした。
 ほしうつくしさ。
 なかにもやまちかいのが、美女たをやめざうひたひかざつてかゞやいたのである。
 翌朝あけのあさむねくもあふいで、いさましく天守てんしゆのぼると、四階目しかいめ上切のぼりきつた、五階ごかいくちで、フトくらなかに、金色こんじきひかりはなつ、爛々らん/\たるまなこた、
 一て、
「やあ、祖父殿おんぢいどんが、」
老爺ぢいさけぶ、……それなるは、黄金こがねしやちかしらた、一個いつこ青面せいめん獅子しゝかしらけるがごと木彫きぼり名作めいさくやぐらあつして、のつしとあり。つのも、きばも、双六谷すごろくだに黒雲くろくもなかた、それであつた。……
 祖父おほぢさくに、ひさしぶりのはなしがある、と美女たをやめざう受取うけとつて、老爺ぢい天守てんしゆ胡座あぐらしてあとのこつた。ときに、祖父おほぢわがまゝのわびだと言つて、麻袋あさぶくろを、烏帽子えばうしれたまゝ雪枝ゆきえゆづつた。
 さて、温泉宿ゆのやどかへつたが、人々ひと/″\は、雪枝ゆきえかほいろ清々すが/\しいのをながめて、はじめてわたした一通いつつう書信しよしんがある。
 途中とちゆうより、としておうらで、二人ふたり結婚けつこんないまへから、ちぎりをはした少年せうねん学生がくせい一人ひとりある。たび密月みつゞきたび第一夜だいいちやから、附絡つきまとふて、となり部屋へや何時いつ宿やどる……それさへもおそろしいのに、つひ言葉ことばのはづみから、双六谷すごろくだに分入わけいつて、二世にせちぎりけやうとする、けば名高なだか神秘しんぴ山奥やまおくとて罪深つみふかさにへないため、もろともにかくす、とあつた。
 かれ神色しんしよく自若じゞやくとした。
 あはれ、かみは、香村雪枝かむらゆきえまもらせたまふ!
 うでいと、くまでに恋慕こひしたつたをんなくるはずにはなかつたのである。
 東京とうきやうかへつてのちべばこたへてあらはるゝ、双六谷すごろくだに美女たをやめざうを、たゞひらいてるやうに、すら/\ときざた。麻袋あさふくろのみ小刀こがたなは、如意によい自在じざいはたらく。
 彫像てうざうつたとききた一天いつてんにはかに黒雲くろくも捲起まきおこして月夜つきよながらあらればした。
 としつて、ふたゝ双六すごろく温泉をんせんあそんだとき老爺ぢいなかつた。が、城址しろあとほりにはふねがあつて、さぎではない、老爺ぢい姿すがたが、木彫きぼりつてつのをて、かれ蘆間あしまつかえて、やがて天守てんしゆはいした。
 ふねれば、すら/\といでて、けないどころか、もとの位置ゐちへすつともどる……つた諾亜ノアふねごときものであらう。





底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店
   2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「神鑿」文泉堂書房
   1909(明治42)年9月16日
初出:「神鑿」文泉堂書房
   1909(明治42)年9月16日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「をんせん」と「おんせん」、「城趾」と「城址」、「やりだけ」と「やりだけ」の混在は底本の通りです。
※「魚」に対するルビの「うを」と「いを」、「水底」に対するルビの「みずそこ」と「みづそこ」、「灰」に対するルビの「はひ」と「はい」、「烏帽子」に対するルビの「えばうし」と「えぼうし」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「神鑿しんさく」となっています。
※初出時の署名は「鏡花小史」です。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年8月12日作成
2016年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「火+發」、U+243CB    75-4、182-14
「さんずい+散」、U+6F75    76-16、122-3、163-9
「りっしんべん+牙」、U+3909    119-16
「口+堯」、U+5635    125-7、135-15、148-6、152-15、157-12


●図書カード