花間文字
泉鏡花
晩唐一代の
名家、
韓昌黎に、
一人の
猶子韓湘あり。
江淮より
迎へて
昌黎其の
館に
養ひぬ。
猶子年少うして
白皙、
容姿恰も
婦人の
如し。
然も
其の
行ひ
放逸にして、
聊も
學ぶことをせず。
學院に
遣はして
子弟に
件はしむれば、
愚なるが
故に
同窓に
辱めらる。
更に
街西の
僧院を
假りて
獨り
心靜かに
書を
讀ましむるに、
日を
經ること
纔に
旬なるに、
和尚のために
其の
狂暴を
訴へらる。
仍て
速に
館に
召返し、
座に
引いて、
昌黎面を
正うして
云ふ。
汝見ずや、
市肆の
賤類、
朝暮の
營みに
齷齪たるもの、
尚ほ
一事の
長ずるあり、
汝學ばずして
何をかなすと、
叔公大目玉を
食はす。
韓湘唯々と
畏りて、
爪を
噛むが
如くにして、ぽつ/\と
何か
撮んで
食ふ。
其の
状我が
國に
豌豆豆を
噛るに
似たり。
昌黎色を
勵まして
叱つて
曰く、
此の
如きは、そも/\
如何なる
事ぞと、
奪つて
是を
見れば、
其の
品有平糖の
缺の
如くにして、あらず、
美しき
桃の
花片なり。
掌を
落せば、ハラハラと
膝に
散る。
時や
冬、
小春日の
返り
咲にも
怪し
何處にか
取り
得たる。
昌黎屹と
其の
面を
睨まへてあり。
韓湘拜謝して
曰く、
小姪此の
藝當ござ
候。
因りて
書を
讀まず
又學ばざるにて
候。
昌黎信とせず、
審に
其の
仔細を
詰れば、
韓湘高らかに
歌つて
曰く、
青山雲水の
窟、
此の
地是れ
我が
家。
子夜瓊液を

し、
寅晨降霞を
咀ふ。
琴は
碧玉の
調を
彈じ、
爐には
白珠の
砂を
煉る。
寶鼎金虎を
存し、
芝田白鴉を
養ふ。
一瓢に
造化を
藏し、
三尺妖邪を
斬り、
逡巡の
酒を
造ることを
解し、また
能く
頃刻の
花を
開かしむ。
人ありて
能く
我に
學ばば、
同くともに
仙葩を
看ん、と
且つ
歌ひ
且つ
花の
微紅を
噛む。
昌黎敢て
信ぜず。
韓湘又館、
階前の
牡丹叢を
指して
曰く、
今、
根あるのみ。
叔公もし
花を
欲せば、
我乃開かしめん。
青黄紅白、
正暈倒暈、
淺深の
紅、
唯公が
命のまゝ
也。
昌黎其の
放語を
憎み、
言ふがまゝに
其の
術をなせよと
言ふ。
猶子先づ
屏風を
借り
得て、
庭に
牡丹叢を
蔽ひ、
人の
窺ふことを
許さず。
獨り
其の
中にあり。

の
四方を
掘り、
深さ
其の
根に
及び、
廣さ
人を
容れて
坐す。
唯紫粉と
紅と
白粉を
齎らし
入るのみ。
恁くて
旦に
暮に
其の
根を
治む。
凡て
一七日、
術成ると
稱し、
出でて
昌黎に
對して、はじめて
羞ぢたる
色あり。
曰く、
恨むらくは
節遲きこと
一月なり、
時既に
冬にして
我が
思ふがまゝならずと。
然れども
花開いて
絢爛たり。
昌黎植うる
處、
牡丹もと
紫、
今は
白紅にして
縁おの/\
緑に、
月界の
採虹玲瓏として
薫る。
尚ほ
且つ
朶ごとに
一聯の
詩あり。
奇なる
哉、
字の
色分明にして
紫なり。
瞳を
定めてこれを
讀めば――
雲横秦嶺家何在、
雪擁藍關馬不前――
昌黎、
時に
其の
意の
何たるを
知らず。
既にして
猶子が
左道を
喜ばず、
教ふべからずとして、
江淮に
追還す。
未だ
幾干ならざるに、
昌黎、
朝に
佛骨の
表を
奉るに
因り、
潮州に
流されぬ。
八千の
途、
道に
日暮れんとし
偶雪降る。
晦冥陰慘、
雲冷たく、
風寒く、
征衣纔に
黒くして
髮忽ち
白し。
嶺あり、
天を
遮り、
關あり、
地を
鎖し、
馬前まず、――
馬前まず。――
孤影雪に
碎けて
濛々たる
中に、
唯見れば
一簇の
雲の
霏々として
薄く
紅なるあり。
風に
漂うて
横ざまに
吹き
到る。
日は
暮れぬ。
豈夕陽の
印影ならんや。
疑ふらくは
紅涙の
雪を
染むる
事を。
袖を
捲いて
面を
拂へば、
遙に
其の
雲の
中に、
韓湘あり。
唯一人、
雪を
冒して
何處よりともなく、やがて
馬前に
來る。
其の
蓑紛々として
桃花を
點じ、
微笑して
一揖す。
叔公其の
後はと。
昌黎、
言ふこと
能はず、
涙先づ
下る。
韓湘曰く、
今、
公、
花間の
文字を
知れりや。
昌黎默然たり。
時に
後れたる
從者辛うじて
到る。
昌黎顧みて、
詢うて
曰く、
此の
地何處ぞ。
藍關にて
候。さては、
高きは
秦嶺也。
昌黎嗟嘆すること
久うして
曰く、
吾今にして
仙葩を
視たり。
汝のために
彼の
詩を
全うせんと。
韓文公が
詩集のうちに、
一封朝奏九重天―
云々とあるもの
則是。
於茲手を
取りて
泣きぬ。
韓湘慰めて
曰く、
愴むこと
勿れ、
吾知る、
公恙あらず、
且つ
久しからずして
朝廷又公を
用ふと。
別るゝ
時一掬の
雪を
取つて、
昌黎に
與へて
曰く、
此のもの
能く
潮州の
瘴霧を
消さん、
叔公、
御機嫌ようと。
昌黎馬上に
是を
受けて
袖にすれば、
其の
雪香しく
立處に
花片となんぬとかや。
明治四十一年四月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。