霰ふる

泉鏡花





 若いのと、少し年の上なると……
 この二人ふたり婦人おんなは、民也たみやのためには宿世すぐせからのえんと見える。ふとした時、思いも懸けない処へ、夢のように姿をあらわす――
 ここで、夢のように、と云うものの、実際はそれが夢だった事もないではない。けれども、夢の方は、また……と思うだけで、取り留めもなく、すぐに陽炎かげろうの乱るる如く、記憶のうちから乱れて行く。
 しかし目前まのあたり歴然ありありとその二人を見たのは、何時いつになっても忘れぬ。峰をながめて、山のたたずんだ時もあり、岸づたいに川船に乗って船頭もなしに流れて行くのを見たり、揃って、すっと抜けて、二人が床の間の柱から出て来た事もある。
 民也はここのツ……十歳とおばかりの時に、はじめて知って、三十を越すまでに、四度よたび五度いつたびたしかに逢った。
 これだと、随分中絶なかだえして、久しいようではあるけれども、自分には、さまでたまさかのようには思えぬ。人は我が身体からだの一部分を、何年にも見ないで済ます場合が多いから……姿見に向わなければ、顔にも逢わないと同一おなじかも知れぬ。
 で、見なくっても、逢わないでも、忘れもせねば思出おもいだすまでもなく、何時いつも身に着いていると同様に、二個ふたつ、二人の姿もまた、十年見なかろうが、逢わなかろうが、そんなにあいだを隔てたとは考えない。
 が、つい近くは、近く、一昔前は矢張やっぱり前、道理に於て年を隔てない筈はないから、とおから三十までとしても、そのあいだは言わずとも二十年経つのに、最初逢った時から幾歳いくとせを経ても、婦人おんな二人は何時も違わぬ、顔容かおかたちに年を取らず、ちっとも変らず、同一おなじである。
 水になり、空になり、面影は宿っても、虹のように、すっと映って、たちまち消えて行く姿であるから、しか取留とりとめた事はないが――何時でも二人づれの――その一人は、年紀としの頃、どんな場合にも二十四五の上へは出ない……一人は十八九で、このわかい方は、ふっくりして、引緊ひきしまった肉づきのい、中背ちゅうぜいで、……年上の方は、すらりとして、細いほど痩せている。
 そのせいの高いのは、極めて、品のつややかな円髷まるまげあらわれる。わかいのは時々よりよりに髪が違う、銀杏返いちょうがえしの時もあった、高島田の時もあった、三輪みつわと云うのに結ってもいた。
 そのかわり、衣服きものは年上の方が、紋着もんつきだったり、おめしだったり、時にはしどけない伊達巻だてまき寝着ねまき姿と変るのに、若いのは、きっしまものにさだまって、帯をきちんとめている。
 二人とも色が白い。
 が、少い方は、ほんのりして、もう一人のは沈んで見える。
 その人柄、風采とりなり、姉妹ともつかず、主従でもなし、親しい中の友達とも見えず、従姉妹いとこでもないらしい。
 と思うばかりで、何故なぜと云う次第は民也にも説明は出来ぬと云う。――にしろ、のがれられないあいだと見えた。孰方どっちか乳母ので、乳姉妹ちきょうだい。それともあによめ弟嫁おとよめか、かたき同士か、いずれ二重ふたえの幻影である。
 時に、民也が、はじめてその姿を見たのは、揃って二階からすらすらと降りる所。
 で、彼が九ツか十の年、その日は、小学校の友達と二人で見た。
 あられの降った夜更よふけの事――


 山国の山を、町へ掛けて、戸外おもての夜の色は、部屋のうちからよく知れる。雲は暗かろう……水はもの凄く白かろう……空の所々にさっ薬研やげんのようなひびがって、霰はその中から、銀河のたまを砕くが如くほとばしる。
 ハタとめば、その空のれた処へ、むらむらとまた一重ひとえ冷い雲がかさなりかかって、薄墨色に縫合ぬいあわせる、と風さえ、そよとのもの音も、蜜蝋をもって固く封じた如く、乾坤けんこんじゃくとなる。……
 建着たてつけの悪い戸、障子、雨戸も、カタリとも響かず。いたちのぞくような、鼠が匍匐はらばったような、切ってめたひしの実が、ト、べっかっこをして、ぺろりと黒い舌を吐くような、いや、念のった、雑多な隙間、れ穴が、寒さにきりきりと歯を噛んで、呼吸いきを詰めて、うむとこらえて凍着こごえつくが、古家ふるいえすすにむせると、時々遣切やりきれなくなって、ひそめたくしゃめ、ハッと噴出ふきだしそうで不気味な真夜中。
 板戸一つがぐ町の、店の八畳、古畳の真中に机を置いて対向さしむかいに、洋燈ランプに額を突合つきあわせた、友達と二人で、その国の地誌略ちしりゃくと云う、学校の教科書を読んでいた。――その頃、ふうをなして行われた試験間際に徹夜の勉強、終夜ととなえて、気の合った同志が夜あかしに演習おさらいをする、なまけものの節季せっき仕事と云うのである。
 一枚……二枚、と両方で、ペエジをやッつ、とッつして、眠気ざましに声を出して読んでいたが、こう夜が更けて、可恐おそろしく陰気にとざされると、低い声さえ、びりびりと氷を削るように唇へきしんで響いた。
 つねさんと云うお友達が、読み掛けたのを、フッとめて、
「民さん。」
 と呼ぶ、……本を読んでたとは、からりと調子が変って、引入ひきいれられそうに滅入めいって聞えた。
「……なあに、」
 ト、一つ一つ、自分のまつげが、紙の上へばらばらとこぼれた、本の、片仮名まじりに落葉おちばする、山だの、谷だのをそのままの字を、じっと相手に読ませて、傍目わきめも触らずていたのが。
 呼ばれて目を上げると、笠はやぶれて、紙をかぶせた、黄色にくすぶったほやの上へ、眉の優しい額を見せた、頬のあたりが、ぽっと白く、朧夜おぼろよに落ちたかずらと云う顔色かおつき
さびしいねえ。」
「ああ……」
「何時だねえ。」
先刻さっき二時うったよ。眠くなったの?」
 対手あいてたちまち元気づいた声を出して、
「何、眠いもんか……だけどもねえ、今時分になると寂しいねえ。」
「其処に皆寝ているもの……」
 と云った――大きな戸棚、と云っても先祖代々、刻み着けて何時いつだいにも動かした事のない、……その横のふすま一重ひとえの納戸の内には、民也の父と祖母とが寝ていた。
 母は世をはようしたのである……
「常さんのとこよりかさびしくはない。」
「どうして?」
「だって、君の内はおやしきだから、広い座敷を二つも三つも通らないと、おっかさんや何か寝ている部屋へ行けないんだもの。この間、君のとこで、徹夜をした時は、僕は、そりゃ、寂しかった……」
「でもね、僕ンとこは二階がないから……」
「二階が寂しい?」
 と民也は真黒な天井を。……
 常さんの目も、ひとしく仰いで、冷く光った。


「寂しいって、別に何でもないじゃないの。」
 と云ったものの、両方で、机をずって、ごそごそと火鉢に噛着かじりついて、ひったりと寄合よりあわす。
 炭は黒いが、今しがた継いだばかりで、じょうにもならず、火気の立ちぎわ。それよりも、徹夜の温習おさらいに、何よりか書入かきいれな夜半やはんの茶漬で忘れられぬ、大福めいた餡餅あんも※(「火+共」、第3水準1-87-42)あぶったなごりの、餅網が、わびしく破蓮やればすの形で畳に飛んだ。……御馳走は十二時と云うとや済んで、――一つは二人ともそれがために勇気がないので。……
 常さんは耳の白い頬を傾けて、民也の顔をのぞくようにしながら、
「でも、誰も居ないんだもの……君のとこの二階は、広いのに、がらんとしている。……」
「病気の時はね、おっかさんが寝ていたんだよ。」
 コツコツ、炭を火箸でつついて見たっけ、はっとめて、目を一つまたたいて、
「え、そして、亡くなった時、矢張やっぱり、二階。」
「ううん……違う。」
 とかぶりをって、
「其処のね、奥……」
「小父さんだの、寝ている許かい。……じゃいや。」と莞爾にっこりした。
「弱虫だなあ……」
「でも、小母さんは病気の時寝ていたかって、今は誰も居ないんじゃないか。」
 と観世捩かんぜよりひしゃげたていに、元気なく話は戻る……
「常さんの許だって、あの、広い座敷が、風はすうすう通って、それで人っ子は居ませんよ。」
「それでも階下したばかりだもの。――二階は天井の上だろう、空に近いんだからね、高い所には何が居るか知れません。……」
「階下だって……君のうちでも、この間、僕が、あの空間あきまを通った時、吃驚びっくりしたものがあったじゃないか。」
「どんなものさ、」
「床の間によろいが飾ってあって、便所へ行く時に晃々ぴかぴか光った……わッて、そう云ったのを覚えていないかい。」
「臆病だね、……鎧は君、可恐おそろしいものが出たって、あれを着て向ってけるんだぜ、向って、」
 と気勢きおって肩を突構つきかまえ。
「こんな、さびしい時の、可恐こわいものにはね、鎧なんか着たって叶わないや……向って行きゃ、きえちまうんだもの……これから冬の中頃になると、軒の下へ近く来るってさ、あの雪女郎ゆきじょろう見たいなもんだから、」
「そうかなあ、……雪女郎って真個ほんとにあるんだってね。」
「勿論だっさ。」
「雨のびしょびしょ降る時には、油舐坊主あぶらなめぼうずだの、とうふかい小僧こぞうだのって……あるだろう。」
「ある……」
可厭いやだなあ。こんな、あられの降る晩には何にも別にないだろうか。」
「町の中には何にもないとさ。それでも、人の行かない山寺だの、峰の堂だのの、がくの絵がね、霰がぱらぱらと降る時、ぱちくりまばたきをするんだって……」
「嘘をく……」
 とそれでも常さんは瞬きした。からりとひさしを鳴らしたのは、樋竹といだけすべる、おちたまりの霰らしい。
「うそなもんか、それは真暗な時……ちょうど今夜見たような時なんだね。それから……雲の底にお月様が真蒼まっさおに出ていて、そして、降る事があるだろう……そう云う時は、八田潟はったがたふなが皆首を出して打たれるって云うんです。」
「痛かろうなあ。」
「其処が化けるんだから、……皆、兜を着ているそうだよ。」
「じゃ、僕ンとこの蓮池の緋鯉なんかどうするだろうね?」
 其処には小船も浮べられる。が、穴のような真暗な場末の裏町を抜けて、大川に架けた、近道の、ぐらぐらと揺れる一銭橋いちもんばしと云うのを渡って、土塀ばかりでうちまばらな、畠も池も所々ところどころ侍町さむらいまち幾曲いくまがり、で、突当つきあたりの松の樹の中のそのやしきに行く、……常さんのうちを思うにも、あたかもこの時、二更にこうの鐘のおとかすか


 町なかの此処も同じ、一軒家のおもいがある。
 民也は心もその池へ、目も遥々はるばるとなって恍惚うっとりしながら、
「蒼い鎧を着るだろうと思う。」
「真赤なひれへ。凄い月で、紫色に透通すきとおろうね。」
「其処へ玉のようなあられが飛ぶんだ……」
「そして、八田潟の鮒といくさをしたら、何方どっちが勝つ?……」
「そうだね、」
 と真顔に引込ひきこまれて、
「緋鯉は立派だから大将だろうが、鮒は雑兵ぞうひょうでも数が多いよ……かた一杯いっぱいなんだもの。」
かわず何方どっちの味方をする。」
「君の池の?」
「ああ、」
「そりゃ同じ所に住んでるから、緋鯉にくが当前あたりまえだけれどもね、君が、よくお飯粒まんまつぶで、糸で釣上つりあげちゃ投げるだろう。ブッと咽喉のどを膨らまして、ぐるりと目を円くして腹を立つもの……鮒の味方になろうも知れない。」
「あ、また降るよ……」
 凄まじい霰の音、八方から乱打みだれうつや、大屋根の石もからからと転げそうで、雲のうずまく影が入って、洋燈ランプの笠が暗くなった。
按摩あんまの笛が聞えなくなってから、三度目だねえ。」
「矢が飛ぶ。」
たまが走るんだね。」
「緋鯉と鮒とが戦うんだよ。」
「紫の池と、黒い潟で……」
しとみ一寸ちょっと開けてみようか、」
 と魅せられたていで、ト立とうとした。
 民也は急に慌しく、
「おし?……」
「でも、何だか暗い中で、ひらひら真黒なのに交って、緋だか、紫だか、飛んでいそうで、面白いもの、」
「面白くはないよ……可恐こわいよ。」
「何故?」
「だって、緋だの、紫だの、暗いうちに、あられに交って――それだといなびかりがしているようだもの……そのしとみをこんな時に開けると、そりゃ可恐こわいぜ。
 さあ……これから海が荒れるぞ、と云う前触れに、ひさしよりか背の高い、おおきな海坊主が、海から出て来て、町の中を歩行あるいていてね……人がのぞくと、蛇のように腰を曲げて、その窓から睨返にらみかえして、よくも見たな、よくも見たな、と云うそうだから。」
「嘘だ! 嘘ばっかり。」
真個ほんとだよ、あられだって、半分は、その海坊主が蹴上けあげて来る、波のしぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、302-7]が交ってるんだとさ。」
「へえ?」
 と常さんはだ腑に落ちないか、立掛たちかけた膝をおとさなかった……
 霰は屋根を駈廻かけまわる。
 民也は心に恐怖のある時、その蔀を開けさしたくなかった。
 母がまだ存生ぞんじょうの時だった。……一夏あるなつ、日の暮方から凄じい雷雨があった……電光いなびかり絶間たえまなく、雨は車軸を流して、荒金あらがねつちの車は、とどろきながら奈落の底に沈むと思う。――雨宿りに駈込かけこんだ知合の男が一人と、内中うちじゅう、この店に居すくまった。十時を過ぎた頃、一呼吸ひといきかせて、もの音は静まったが、裾を捲いて、雷神はたたがみを乗せながら、赤黒あかぐろに黄を交えた雲が虚空そらへ、舞い舞いあがって、昇る気勢けはいに、雨が、さあと小止おやみになる。
 その喜びをもうさんため、神棚に燈火みあかしを点じようとして立った父が、そのまま色をかえて立窘たちすくんだ。
 ひい、と泣いて雲にとおる、……あわれに、悲しげな、何とも異様な声が、人々の耳をも胸をも突貫つきつらぬいて響いたのである。


 笛を吹く……と皆思った。笛もある限り悲哀を籠めて、呼吸いきの続くだけ長く、かつ細く叫ぶらしい。
 雷鳴に、ほとんいなんとした人々の耳に、驚破すわや、天地一つの声。
 たれもその声の長さだけ、気を閉じて呼吸を詰めたが、引く呼吸はその声の一度止むまでは続かなかった。
 皆おののいた。
 ヒイと尾をかすかに、その声が切れた、と思うと、雨がひたりと止んで、また二度めの声が聞えた。
「鳥か。」
いいや。」
「何だろうの。」
 祖母と、父と、その客とことばを交わしたが、その言葉も、晃々きらきらと、震えて動いて、目を遮る電光いなびかりは隙間を射た。
「近い。」
き其処だ。」
 と云う。叫ぶ声は、確かに筋向いの二階家の、軒下のあたりと覚えた。
 それが三声みこえめになると、泣くような、怨むような、呻吟うめくような、くるし※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがくかと思う意味があきらかにこもって来て、あたらしくまた耳をつんざく……
「見よう、」
 年わかくて屈竟くっきょうなその客は、身震いして、すっくと立って、内中うちじゅうで止めるのもかないで、タン、ド、ドン! とその、其処のしとみを開けた。――

「何、」
 と此処まで話した時、常さんは堅くなって火鉢を掴んだ。
「その時の事を思出おもいだすもの、ほかに何が居ようも知れない時、その蔀を開けるのは。」
 と民也は言う。

 却説さて大雷たいらいの後の稀有なる悲鳴を聞いた夜、客が蔀を開けようとした時の人々の顔は……年月としつきを長く経ても眼前まのあたり見るような、いずれも石を以て刻みなした如きものであった。
 蔀を上げると、格子戸を上へ切った……それも鳴るか、しょうの笛の如き形した窓のような隙間があって、と電光に照される。
 と思うと、引緊ひきしめるような、柔かな母の両の手が強く民也の背にかかった。既に膝に乗って、噛り着いていた小児こどもは、それなり、薄青い襟を分けて、真白な胸の中へ、頬も口も揉込もみこむと、恍惚うっとりとなって、もう一度、ひょいと母親の腹の内へ安置されおわんぬで、トもんどりを打って手足を一つに縮めた処は、滝を分けて、すとんと別の国へ出たおもむきがある、……そして、透通すきとおる胸の、暖かな、鮮血からくれないの美しさ。真紅の花の咲満さきみちた、雲の白い花園に、ほがらかな月の映るよ、とその浴衣の色を見たのであった。
 が、その時までの可恐おそろしさ。――

「常さん、今君が蔀を開けて、何かが覗いたって、僕は潜込もぐりこ懐中ふところがないんだもの……」

 しょうの窓から覗いた客は、何も見えなかった、と云いながら、真蒼まっさおになっていた。
 その夜から、筋向うのその土蔵つきの二階家に、一人気が違ったおんながあったのである。
 寂寞ひっそりあられが止む。
 民也は、ふと我に返ったようになって、
「去年、おっかさんがなくなったからね……」
 火桶ひおけおもてそむけると、机に降込ふりこんだ霞があった。
 じゅうと火の中にも溶けた音。
「勉強しようね、僕はおとっさんがないんだよ。さあ、」
 鮒が兜を着ると云う。……
「八田潟の処を読もう。」
 と常さんは机の向うに居直った。
 洋燈ランプが、じいじいと鳴る。
 その時であった。


 二階の階子壇はしごだん一番上いっちうえの一壇目……と思う処へ、欄間らんまの柱を真黒に、くッきりとそらにして、袖を欄干てすりれに……その時は、濃いお納戸と、薄い茶と、左右に両方、褄前つまさきを揃えて裾を踏みくぐむようにして、円髷まげと島田の対丈ついたけに、面影白く、ふッと立った、両個ふたりの見も知らぬ婦人おんながある。
 トその色も……薄いながら、判然はっきりすすの中に、塵を払ってくっきりと鮮麗あざやかな姿が、二人が机に向った横手、畳数たたみかず二畳ばかりへだてた処に、寒き夜なれば、ぴったり閉めた襖一枚……台所へ続くだだっ広い板敷とのへだてになる……出入口ではいりぐちひらきがあって、むしゃむしゃといわの根に蘭を描いたが、年数さんするにえず、で深山みやまの色にくすぼった、引手ひきてわきに、嬰児あかんぼてのひらの形して、ふちのめくれた穴が開いた――その穴から、件の板敷を、向うの反古張ほごばりの古壁へ突当つきあたって、ぎりりと曲って、直角に菎蒻色こんにゃくいろ干乾ひからびた階子壇……とおばかり、遥かに穴の如くに高いその真上。
 即ち襖の破目やれめとおして、一つ突当って、折屈おりまがった上に、たとえば月の影に、一刷ひとはけいろどった如く見えたのである。
 トンと云う。
 と思うと、トントントンと軽い柔かな音に連れて、つまが揺れ揺れ、揃ったもすそが、柳の二枝ふたえだなびくよう……すらすらと段を下りた。
 肩を揃えて、雛の絵に見る……袖を左右から重ねた中に、どちらの手だろう、手燭か、台か、裸火はだかびの蝋燭を捧げていた。
 蝋の火は白く燃えた。
 胸のあたりに蒼味が射す。
 頬のかかり白々しろじろと、中にも、円髷まるまげったその細面ほそおもて気高けだかく品の女性にょしょうの、もつれたびんの露ばかり、面婁おもやつれした横顔を、またたきもしないそうの瞳に宿した途端に、スーと下りて、板の間で、もの優しく肩が動くと、その蝋の火が、件の絵襖の穴をのぞく……その火が、洋燈ランプしんの中へ、ぱっ[#「火+發」、U+243CB、308-3]と入って、一つになったようだった。
 やあ! 開けると思う。
「きゃッ、」
 と叫んで、友達が、さきへ、背後うしろの納戸へ刎込はねこんだ。
 口も利けず……民也もその身体からだへ重なり合って、父の寝た枕頭まくらもと突伏つっぷした。
 ここの障子は、幼いものの夜更よふかしを守って、寒いに一枚開けたまま、あられの中にも、父と祖母のなさけの夢は、紙一重ひとえの遮るさえなく、机のあたりにかよったのであった。
 父は夢だ、と云って笑った、……祖母もともに起きてで、火鉢の上には、再びかんばしいかおりが満つる、餅網がかかったのである。
 茶の煮えた時、真夜中にまた霰が来た。
 後で、常さんと語合かたりあうと……二人の見たのは、しかもそれが、錦絵をはんに合わせたように同一おなじかったのである。
 これが、民也の、ともすれば、フト出逢う、二人の姿の最初はじめであった。
 常さんの、三日ばかり学校を休んだのはさる事ながら、民也は、それが夢でなくとも、さまで可恐おそろしいとも可怪あやしいとも思わぬ。
 あえて思わぬ、と云うではないが、こうしたあやしみには、その時分馴れていた。
 毎夜の如く、内井戸の釣瓶つるべの、人手を借らず鳴ったのも聞く……
 轆轤ろくろきしんで、ギイと云うと、キリキリと二つばかり井戸縄の擦合すれあう音して、少須しばらくして、トンとかすかに水に響く。
 きまったように、そのあとを、ちょきちょきとこまかにまないたを刻む音。時雨しぐれの頃からお冴えて、ひとり寝の燈火ともしびを消した枕にかよう。


 続いて、台所を、ことことと云う跫音あしおとがして、板の間へかかる。――この板の間へ、その時の二人の姿は来たのであるが――また……実際より、寝ていて思う板の間の広い事。
 民也は心に、これを板の間ヶ原だ、ととなえた。
 伝え言う……孫右衛門まごえもんと名づけた気のい小父さんが、独酌どくしゃく酔醒よいざめに、我がねたを首あげて見る寒さかな、と来山張らいざんばりの屏風越しに、魂消たまげた首を出してのぞいたと聞く。
 台所の豪傑儕ごうけつばら座敷方ざしきがた僭上せんじょう栄耀栄華えようえいがいきどおりを発し、しゃ討て、緋縮緬ひぢりめん小褄こづまの前を奪取ばいとれとて、かまど将軍が押取おっとった柄杓ひしゃくの采配、火吹竹の貝を吹いて、鍋釜の鎧武者が、のんのんのんのんと押出おしだしたとある……板の間ヶ原や、古戦場。
 襖一重は一騎打いっきうちで、座敷方では切所せっしょを防いだ、其処の一段低いのも面白い。
 トその気で、頬杖をつく民也に取っては、寝床から見るその板の間は、遥々はるばるとしたものであった。
 跫音あしおとは其処を通って、一寸ちょっと止んで、やがて、トントンと壇をあがる、と高い空で、すらりと響く襖の開く音。
「ああ、二階のお婆さんだ。」
 と、じっと耳を澄ますと、少時しばらくして、
「ええん。」
 と云うせきばらい
「今度は二階のお爺さん。」
 この二人は、母の父母で、同家ひとついえに二階住居ずまいで、むつまじく暮したが、民也のもの心を覚えて後、母に先だって、前後して亡くなられた……
 その人たちを、ここにあるもののように、あらぬ跫音を考えて、しわぶきを聞く耳には、人気勢ひとけはいのない二階から、手燭して、するすると壇を下りた二人の姿を、さまで可恐おそろしいとは思わなかった。
 かえって、日をるに従って、物語を聞きさした如く、ゆかしく、可懐なつかしく、身に染みるようになったのである。……
 あられが降ればおもいる。……
 そうした折よ、もう時雨の頃から、その一二年は約束のように、井戸の響、板の間の跫音、人なき二階の襖の開くのを聞馴ききなれたが、おんなの姿は、当時また多日しばらくあいだ見えなかった。
 白菊の咲く頃、大屋根へ出て、棟瓦むねがわらをひらりとまたいで、高く、高く、雲の白きが、かすかに動いて、瑠璃色るりいろ澄渡すみわたった空を仰ぐ時は、あの、夕立の夜を思出おもいだす……そして、美しく清らかな母の懐にある幼児おさなごの身にあこがれた。
 この屋根と相向あいむかって、真蒼まっさおながれを隔てた薄紫の山がある。
 医王山いおうぜん
 いただきを虚空に連ねて、雪の白銀しろがねの光を放って、遮る樹立こだちの影もないのは、名にし白山はくさんである。
 やや低く、山の腰にその流をめぐらして、萌黄もえぎまじりの朱の袖を、おもかげの如く宿したのは、つい、まのあたり近い峰、向山むかいやまと人は呼ぶ。
 その裾を長くいた蔭に、円い姿見の如く、八田潟の波、一所ひとところの水が澄む。
 島かと思う白帆に離れて、山のの岬の形、にっと出たはしに、鶴の背に、緑の被衣かつぎさせた風情の松がある。
 遥かに望んでも、その枝の下は、一筵ひとむしろ掃清はききよめたか、とちりとどめぬ。
 ああ山の中に葬った、母のおくつきは彼処かしこに近い。
 その松の蔭に、そののち、時々二人してたたずむように、民也は思った、が、母にはそうした女のつれはなかったのである。
 月の冴ゆる夜は、峰に向った二階のえん四枚よまいの障子に、それか、あらぬか、松影射しぬ……戸袋かけて床の間へ。……
 また前に言った、もの凄い暗い夜も、年経て、なつかしい人を思えば、降積ふりつもあられも、白菊。





底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房
   2006(平成18)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店
   1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
初出:「太陽」
   1912(大正元)年11月号
※表題は底本では、「あられふる」となっています。
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2015年10月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「さんずい+散」、U+6F75    302-7
「火+發」、U+243CB    308-3


●図書カード