妖魔の辻占

泉鏡花




        一

 伝へ聞く……文政ぶんせい初年の事である。将軍家の栄耀えよう其極そのきょくに達して、武家のは、まさに一転機をかくせんとした時期だと言ふ。
 京都に於て、当時第一の名門であつた、比野大納言資治卿ひのだいなごんやすはるきょう(仮)の御館みたちの内に、一日あるひ人妖じんようひとしい奇怪なる事が起つた。
 の年、霜月しもつき十日は、かねて深く思召おぼしめし立つ事があつて、大納言卿、わたくしならぬ祈願のため、御館の密室にこもつて、護摩ごまの法をしゅせられた、其の結願けちがんの日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ雪洞ぼんぼりの入らない、日暮方ひくれがたと云ふのに、とどこおりなく式が果てた。多日しばらく精進潔斎しょうじんけっさいである。世話に云ふ精進落しょうじんおちで、其辺そのへんは人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き心構こころがまえ夕餉ゆうがれいの支度が出来た。
 其処そこで、御簾中ごれんちゅうが、奥へ御入おんいりある資治卿をむかえのため、南御殿みなみごてんの入口までお立出たちいでに成る。御前おんまえあわいげんばかりをへだつて其の御先払おさきばらいとして、うちぎくれないはかまで、すそを長くいて、静々しずしずただ一人、おりから菊、朱葉もみじ長廊下ながろうかを渡つて来たのはふじつぼねであつた。
 の局は、聞えた美女で、年紀としちょうど三十三、比野ひのの御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、つとめを引いて引籠ひきこもつて居たのが、此の日修法しゅほうほどき、満願の御二方おふたかた心祝こころいわいの座に列するため、久しぶりで髪容かみかたちを整へたのである。畳廊下たたみろうかに影がさして、艶麗えんれいに、しか軟々なよなよと、姿は黒髪とともにしなつて見える。
 背後うしろに……たとへば白菊しらぎくとなふる御厨子みずしうちから、天女てんにょ抜出ぬけいでたありさまなのは、あてに気高い御簾中である。
 作者は、くわしく知らないが、これは事実ださうである。わらわの影もない。比野卿の御館みたちうちに、此の時卿を迎ふるのは、ただ此のかたたちのみであつた。
 また、修法のから、脇廊下わきろうか此方こなたへ参らるゝ資治卿の方は、佩刀はかせを持つ扈従こしょうもなしに、ただ一人なのである。御家風ごかふうか質素か知らない。此の頃のうした場合の、江戸の将軍家――までもない、諸侯だいみょうの大奥とおもて容体ようだいに比較して見るがい。
 で、藤のつぼねの手で、隔てのおふすまをスツとける。……其処そこで、卿と御簾中ごれんちゅうが、一所いっしょにお奥へと云ふ寸法であつた。
 かたわらとも云ふまい。片あかりして、つめたく薄暗い、其の襖際ふすまぎわから、氷のやうな抜刀ぬきみを提げて、ぬつと出た、身のたけ抜群な男がある。なか二三じゃく隔てたばかりで、ハタと藤の局とおもてを合せた。
 局が、其の時、はつと袖屏風そでびょうぶして、なかさえぎるとひとしく、御簾中の姿は、すつと背後向うしろむきに成つた――たけなす黒髪が、もすそゆらいだが、かすかに、雪よりも白き御横顔おんよこがおの気高さが、振向ふりむかれたと思ふと、月影ににじの影の薄れ行くおもむきに、廊下をつつ引返ひきかえさる。
ひとまづ。」
 と、局が声を掛けて、腰をなよやかに、片手をひざに垂れた時、や其の襖際に気勢けはいした資治やすはる卿の跫音あしおとの遠ざかるのが、しずかに聞えて、もとの脇廊下わきろうか其方そなたに、おごそか衣冠束帯いかんそくたいの姿が――其の頃の御館みたちさましのばれる――ふすま羽目はめから、黄菊きぎくかおりともろともにれ透いた。
 藤の局は騒がなかつた。
たれぢや、何ものぢや。」
「うゝ。」
 とうめくやうに言つて、ぶる/\と、ひきつるが如く首をる。かれは、四十ばかりの武士さむらいで、黒の紋着もんつきはかま足袋跣たびはだしで居た。びん乱れ、もとどりはじけ、薄痘痕うすあばた顔色がんしょく真蒼まっさおで、両眼りょうがんが血走つて赤い。酒気は帯びない。宛如さながら、狂人、乱心のものと覚えたが、いまの気高い姿にも、あわてゝあとへ退かうとしないで、ひよろりとしながら前へ出る時、垂々たらたらと血のしたたるばかり抜刀ばっとうさえが、みゃくを打つてぎらりとして、腕はだらりと垂れつつも、切尖きっさきが、じり/\と上へつた。
 つぼねは、猶予ためらはず、肩をすれ違ふばかり、ひた/\と寄添よりそつて、
其方そなた……此方こちらへ。」
 ひそみもやらぬまゆずみを、きよろりとながら、乱髪抜刀の武士さむらいも向きかはつた。
 それをば少しづゝ、出口へ誘ふやうに、局は静々しずしずくれないの袴を廊下に引く。
 勿論、兇器きょうきは離さない。うわそらの足がおどつて、ともすれば局の袴につまずかうとするさまは、燃立もえた躑躅つつじの花のうちに、いたちが狂ふやうである。
「関東の武家のやうに見受けますが、うなさつた。――此処ここは、まことにおそれ多い御場所ごばしょ。……いはれなう、其方そなたたちの来るところではないほどに、よう気をしずめて、心を落着けて、いかえ。とがせまい、罪にもせまい。わらわが心で見免みのがさうから、いかえ、柔順おとなしく御殿をや。あれを左へ突当つきあたつて、ずツと右へ廻つてお庭にや。お裏門の錠はまだ下りてはぬ。いかえ。」
「うゝ。」
「分つたな。」
「うーむ。」
 雖然けれどもつぼね立停たちどまると、刀とともに奥の方へ突返つっかえらうとしたから、其処そこで、うちぎそでを掛けて、くせものの手を取つた。それが刀を持たぬ方の手なのである。あらき風に当るまい、手弱女たおやめ※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうの此の振舞ふるまいは讃歎に値する。
 さて手を取つて、其のまゝなやし/\、お表出入口の方へ、廊下の正面を右に取つて、一曲ひとまがり曲つて出ると、杉戸すぎといて居て、たたみの真中に火桶ひおけがある。
 其処そこには、踏んで下りる程の段はないが、一段低く成つて居た。ために下りるのに、逆上した曲ものの手を取つた局は、かれを抱くばかりにしたのである。抱くばかりにしたのだが、余所目よそめには手負ておへるわしに、丹頂たんちょうつる掻掴かいつかまれたとも何ともたとふべき風情ふぜいではなかつた。
 折悪おりあしく一人の宿直士とのい番士ばんしの影も見えぬ。警護の有余ありあまつた御館おやかたではない、分けて黄昏たそがれの、それぞれに立違たちちがつたものと見える。欄間らんまから、うすもみぢをてらす日影がして、おおき番火桶ばんひおけには、火も消えかゝつて、灰ばかりしもを結んでわびしかつた。
 局が、自分づ座になおつて、
「とにかく、落着いて下にや。」
 くせものは、仁王立におうだちに成つて、じろ/\と瞰下みおろした。しかし足許あしもとはふら/\して居る。
「寒いな、さ、手をかざしや。」
 と、美しくえんなおつぼねが、白くしなやかな手で、びつを取つて引寄せた。
「うゝ、うゝ。」
 とばかりだが、それでも、どつかと其処そこに坐つた。
其方そち煙草たばこを持たぬかえ。」
 すると、此の乱心ものは、あわただしさうに、懐中をけ、たもとを探した。それでもさやへは納めないで、大刀だんびらを、ズバツとたたみ突刺つっさしたのである。
 兇器きょうきが手を離るゝのをて、局はかれ煙草入たばこいれを探すすきに、そと身を起して、飜然ひらりと一段、天井の雲にまぎるゝ如く、廊下にはかますそさばけたと思ふと、武士さむらいしやりつくやうに追縋おいすがつた。
「ほ、ほ、ほ。」
 と、局は、もの優しく微笑ほほえんで、また先の如く手を取つて、今度は横斜違よこはすかいに、ほの暗い板敷いたじき少時しばし渡ると、ぱっ[#「火+發」、193-13]ともみぢの緋の映る、脇廊下わきろうかの端へ出た。
 言ふまでもなく、今はくに、資治卿は影も見えない。
 もみぢが、ちら/\とこぼれて、チチチチと小鳥が鳴く。
千鳥ちどり、千鳥。……」
 と※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたく口誦くちずさみながら、なかば渡ると、白木しらききざはしのあるところ
「千鳥、千鳥、あれ/\……」
 とゆびさし、且つ恍惚うっとりと聞きすますていにして、
「千鳥や、千鳥や。」
 と、やゝ声を高うした。
 向う前栽せんざい小縁こえんの端へ、千鳥と云ふ、其の腰元こしもとの、濃いむらさきの姿がちらりと見えると、もみぢの中をくる/\と、まりが乱れて飛んでく。
 あたかも友呼ぶ千鳥の如く、お庭へ、ぱら/\と人影が黒く散つた。
 其時そのとき、おつぼねが、階下へ導いてざまに、両手でしっかと、くせもののかたな持つ方の手をおさへたのである。
「うゝ、うゝむ。」
「あゝ、御番ごばんの衆、見苦しい、お目触めざわりに、成ります。……くくるなら、其の刀を。――何事もなさけ卿様だんなさま思召おぼしめし。……乱心ものゆゑ穏便おんびんに、許して、見免みのがしてつてたも。」
 牛蒡ごぼうたばねに、引括ひきくくつた両刀を背中に背負しょはせた、御番の衆は立ちかゝつて、左右から、曲者くせものの手を引張つて遠ざかつた。
 ほっ呼吸いきして、おもての美しさもすごいまで蒼白あおじろく成りつつ、きざはしに、くれないはかまをついた、おつぼねの手を、振袖ふりそでで抱いて、お腰元の千鳥は、震へながら泣いて居る。いまのあやうさを思ふにつけ、安心の涙である。
 下々しもじもの口かられて、たちま京中きょうちゅう洛中らくちゅう是沙汰これさただが――乱心ものは行方が知れない。

        二

「やあ、小法師こほうし。……」
 こゝで読者に、真夜中の箱根の山を想像して頂きたい。同時に、もみぢと、きりと、しもと、あのあしと、大空の星とを思ひ浮べて頂きたい。
 繰返して言ふが、文政ぶんせい初年霜月しもつき十日の深夜なる、箱根の奥の蘆の湖のなぎさである。
 霧は濃くかゝつたが、関所はまで遠くない。とうげ三島寄みしまよりの渚に、はばからず、ばちや/\と水音みずおとを立てるものがある。さみしさも静けさも、霜に星のきらめくのが、かち/\と鳴りさうなのであるから、不断の滝よりは、此の音が高く響く。
 さぎかわうそましらたぐいが、うおあさるなどとは言ふまい。……時と言ひ、場所と言ひ、しからずすさまじいことは、さながらおおかみが出て竜宮の美女たちを追廻おいまわすやうである。
 が、耳もきばもない、毛坊主けぼうず円頂まるあたまを、水へさかさま真俯向まうつむけに成つて、あさ法衣ころものもろはだ脱いだ両手両脇へ、ざぶ/\と水を掛ける。――かか霜夜しもよに、掻乱かきみだす水は、氷の上を稲妻いなずまが走るかと疑はれる。
 あはれ、殊勝な法師や、捨身しゃしん水行すいぎょうしゅすると思へば、あし折伏おれふ枯草かれくさの中にかご一個ひとつ差置さしおいた。が、こいにがしたびくでもなく、草をしろでもない。屑屋くずやにな大形おおがた鉄砲笊てっぽうざるに、あまつさへ竹のひろひばしをスクと立てたまゝなのであつた。
「やあ、小法師こほうし、小法師。」
 もの幻の霧の中に、あけの明星の光明こうみょうが、嶮山けんざんずい浸透しみとおつて、横に一幅ひとはば水が光り、縦に一筋ひとすじむらさきりつつ真紅まっかに燃ゆる、もみぢに添ひたる、三抱余みかかえあまり見上げるやうな杉の大木たいぼくの、こずえ近い葉の中から、ふくろうの叫ぶやうな異様なる声が響くと、
羽黒はぐろの小法師ではないか。――小法師。」
 と言ふ/\、枝葉えだはにざわ/\と風を立てて、しかも、音もなく蘆の中に下立おりたつたのは、霧よりも濃い大山伏おおやまぶしの形相である。金剛杖こんごうづえちょう脇挟わきばさんだ、片手に、帯の結目むすびめをみしと取つて、黒紋着くろもんつきはかま武士さむらい俯向うつむけに引提ひきさげた。
 武士ぶしは、ひもひっからげて胸へ結んで、大小を背中に背負しょはされて居る。卑俗なたとえだけれど、小児こどもが何とかすると町内を三べん廻らせられると言つた形で、此が大納言の御館みたちを騒がした狂人であるのは言ふまでもなからう。
「おう、」
 と小法師のもたげた顔の、鼻は鉤形かぎなりとがつて、色はとびひとしい。青黒あおぐろく、滑々ぬらぬらとした背膚せはだ濡色ぬれいろに、星の影のチラ/\とさまは、大鯰おおなまずの花を刺青ほりものしたやうである。
「これは、秋葉山あきばさん御行者おぎょうじゃ。」
 と言ひながら、水しぶきを立てて、身体からだを犬ぶるひに振つた。
御身おみは京都の返りだな。」
れば、虚空こくうを通りがかりぢや。――御坊ごぼうによう似たものが、不思議な振舞ふるまいをするにつて、大杉おおすぎに足を踏留ふみとめて、葉越はごしに試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊とて、拙道せつどうきもひやしたぞ。はて、時ならぬ、何のための水悪戯みずいたずらぢや。悪戯いたずらは仔細ないが、ぶしの怪我けがで、うみちて、おぼれたのではないかと思うた。」
「はゝ。」
 と事もなげに笑つて、
「いや、と身にけがれがあつて、不精ぶしょうに、猫の面洗つらあらひとつた。チヨイ/\とな。はゝゝゝ明朝あしたは天気だ。まあ休め。」
 と法衣ころもそでを通して言ふ。……呼吸いきの、ふか/\と灰色なのが、人間のやうには消えないで、両個ふたつとも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖のおもてに、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
 羽黒の小法師こほうし、秋葉の行者ぎょうじゃ、二個はうたがいもなく、魔界の一党、狗賓ぐひんの類属。東海、奥州、ともに名代なだい天狗てんぐであつた。

        三

成程なるほど、成程、……御坊ごぼうの方は武士さむらいであつた。」
 行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、――小法師が言つたのである。
れば、此ぢや。……浜松の本陣から引攫ひきさろうて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御館おんやかたへ、しかも、念入りに、十二けんのお廊下へドタリとつた。」
「おゝ御館おやかたでは、藤のつぼねが、我折がおれ、かよわい、女性にょしょう御身おんみあまつさただ一人にて、すつきりとしたすゞしき取計とりはからひを遊ばしたな。」
「ほゝう。」
 と云つた山伏やまぶしは、真赤な鼻をつまむやうに、つるりとでて、
「最早知つたか。」
洛中らくちゅう是沙汰これさた。関東一円、奥州まで、愚僧が一山いっさんへも立処たちどころに響いた。いづれも、京方きょうがた御為おんため大慶たいけいに存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏捷すばやい。」
「やあ、如何いかがな。すばやいは御坊ぢやが。」
「さて、其が過失あやまり。……愚僧、早合点はやがてんの先ばしりで、思ひけない隙入ひまいりをした。御身おみと同然に、愚僧御司配ごしはい命令おおせこうむり、京都と同じ日、づ/\同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、千住せんじゅ大橋おおはし、上野の森をひとのしに、濠端ほりばたの松まで飛んで出た。かしこの威徳おとろへたりといえども、さすがは征夷せいい大将軍の居城きょじょうだ、何処いずこの門も、番衆、見張、厳重にして隙間すきまがない。……ぐるり/\とうかがふうちに、桜田門の番所そばの石垣から、おおきへびつらを出して居るのをと見つけた。かすみせきには返りざきの桜が一面、陽気はづれの暖かさに、冬籠ふゆごもりの長隠居、炬燵こたつから這出はいだしたものと見える。往来おうらい人立ひとだちだ。
 ところへ、はるか虚空こくうから大鳶おほとび一羽いちわ、矢のやうにおろいて来て、すかりと大蛇おおへび引抓ひきつかんで飛ばうとすると、這奴しゃつ地所持じしょもち一廉いっかどのぬしと見えて、やゝ、其の手ははぬ。さかうろこを立てて、螺旋らせんうねり、かえつて石垣の穴へ引かうとする、つかんで飛ばうとする。んだ、揉んだ。――いや、おびただしい人群集ひとだかりだ。――そのうちに、鳶のが、少しづゝ、石垣のあいだへ入る――いささかは引いて抜くが、少しづゝ、段々に、片翼かたつばさが隠れたと思ふと、するりとまれて、片翼だけ、ばさ/\ばさ、……あおつて煽つて、おおもがきに藻掻もがいてこらへる。――見物は息をんだ。」
「うむ/\。」
 と、山伏やまぶしも息を呑む。
馬鹿鵄ばかとびよ、くそとびよ、とんびとんび、とりもなほさずとびは愚僧だ、はゝゝゝ。」
 と高笑ひして、
「何と、お行者ぎょうじゃ、未熟なれども、羽黒の小法師こほうし、六しゃくや一じょうながむしに恐れるのでない。こゝがだ。人間の気を奪ふため、ことさらに引込ひきこまれ/\、やがてたちまその最後の片翼かたつばさも、城の石垣につツと消えると、いままで呼吸いきを詰めた、群集ぐんじゅが、おう一斉いっときに、わツと鳴つて声を揚げた。此の人声ひとごえに驚いて、番所の棒がそろつて飛出とびだす、麻上下あさがみしもが群れ騒ぐ、大玄関おおげんかんまで騒動の波が響いた。
 驚破すわ、そのまぎれに、見物の群集ぐんじゅの中から、頃合ころあいなものを引攫ひきさらつて、空からストンと、怪我けがをせぬやうにおといた。が、丁度ちょうど西の丸の太鼓櫓たいこやぐらの下の空地だ、真昼間まっぴるま。」
みょう。」
 と、山伏がハタと手をつて、
御坊ごぼうが落した、試みのものは何ぢや。」
屑屋くずやだ。」
「はて、屑屋とな。」
紙屑買かみくずかい――すなわち此だ。」
 とくだん大笊おおざる円袖まるそで掻寄かきよせ、湖の水の星あかりに口を向けて、松虫まつむしなんぞをくすぐるやうにざるの底を、ぐわさ/\と爪で掻くと、手足を縮めてかいすくまつた、あかだらけのきたない屑屋が、ころりと出た。が、出ると大きく成つて、ふやけたやうに伸びて、ぷるツと肩を振つて、継ぎはぎの千草ちぐさ股引ももひき割膝わりひざで、こくめいに、枯蘆かれあしなかにかしこまる。
 此の人間の気が、ほとぼりに成つてかよつたと見える。ぐたりとかえるつぶしたやうに、手足を張つてへたばつて居た狂気武士きちがいざむらいが、びくりとすると、むくと起きた。が、あいの如き顔色がんしょくして、血走つたまゝの目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりつつ、きよとりとして居る。

        四

 此の時代の、事実として一般に信ぜられた記録がある。――薩摩さつま鹿児島に、小給しょうきゅうの武士の子でとし十四に成るのが、父の使つかいに書面を持つて出た。朝いつどきの事で、侍町さむらいまちの人通りのない坂道をのぼる時、大鷲おおわしが一羽、虚空こくうからいわ落下おちさがるが如く落して来て、少年を引掴ひっつかむと、たちまち雲を飛んで行く。少年は夢現ゆめうつつともわきまへぬ。が、とにかく大空を行くのだから、落つれば一堪ひとたまりもなく、粉微塵こなみじんに成ると覚悟して、風を切る黒き帆のやうな翼の下に成るがまゝに身をすくめた。はじめは双六すごろくの絵を敷いた如く、城が見え、町が見え、ぼうとかすんで村里むらざとも見えた。やがて渾沌こんとん瞑々めいめいとして風の鳴るのを聞くと、はてしも知らぬ渺々びょうびょうたる海の上をけるのである。いまは、運命に任せて目をつむると、と風も身も動かなく成つた。我に返ると、わしおおいなるこずえに翼を休めて居る。が、山の峰のいただきに、さながら尖塔せんとうの立てる如き、雲をつらぬいた巨木きょぼくである。片手をつと動かすと自由に動いた。
 時に、脇指わきゆびに手を掛けはしたものの、鷲のために支へられて梢にまつた身体からだである。――殺しおほせるまでも、かれきずつけて地に落されたら、立処たちどころに五体が砕けよう。が、此のまゝにしても生命いのちはあるまい。う処置しようと猶予ためらふうちに、一打ひとうあおつて又飛んだ。飛びつつ、いつか地にやゝ近く、ものの一二けんかすめると見た時、此の沈勇ちんゆうなる少年は、脇指を引抜ひきぬきざまにうしろづきにザクリと突く。弱るところを、呼吸いきもつかせず、三刀みかたな四刀よかたなさし通したので、弱果よわりはてて鷲が仰向あおむけに大地に伏す、伏しつつ仰向けにひるがえる腹に乗つて、やわらか羽根蒲団はねぶとんに包まれたやうに、ふはふはと落ちた。
 あたかも鷲の腹からうまれたやうに、少年は血を浴びて出たが、四方、山また山ばかり、山嶽さんがく重畳ちょうじょうとして更に東西をべんじない。
 とぼ/\と辿たどるうち、人間の木樵きこりつた。木樵は絵の如くおのを提げて居る。進んで礼して、城下を教へてと言つて、道案内みちあんないを頼むと、城下とは何んぢやと言つた。お城を知らないか、と言ふと、知んねえよ、とけろりとして居る。薄給でも其の頃の官員のせがれだから、向う見ずに腹を立てて、鹿児島だい、と大きく言ふと、鹿児島とは、何処どこぢやと言ふ。おのれ、日本にっぽん薩摩国さつまのくに鹿児島を知らぬかと呼ばはると、伸び/\とした鼻の下をやっと縮めたのは、おおきな口をけてあきれたので。薩摩は此処ここから何千里あるだい、と反対あべこべに尋ねたのである。少年も少し心着こころづいて、此処ここ何処どこだらう、と聞いた時、はじめて知つた。木曾の山中やまなかであつたのである。
 此処ここで、二人で、始めて鷲の死体を見た。
 ふもと連下つれくだつた木樵が、やがて庄屋しょうやに通じ、陣屋に知らせ、こおりの医師を呼ぶ騒ぎ。精神にも身体からだにも、見事異状がない。――鹿児島まで、及ぶべきやうもないから、江戸の薩摩屋敷まで送り届けた。
 朝いつどき、宙にられて、少年が木曾山中さんちゅうで鷲の爪を離れたのは同じ日のゆうべ。七つ時、あいだ五時いつとき十時間である。里数はほぼ四百里であると言ふ。
 ――鷲でさへ、まして天狗てんぐわざである。また武士さむらいが刀を抜いて居たわけも、此の辺で大抵想像が着くであらう。――
 ものには必ずついがある、ついでに言はう。――これと前後して近江おうみ膳所ぜぜの城下でも鷲が武士の子をさらつた――此は馬に乗つて馬場に居たのをくらから引掴ひっつかんであがつたのであるが、此の時は湖水の上をさっした。刀は抜けてうみに沈んで、小刀しょうとうばかり帯に残つたが、したくがに成つた時、砂浜のなぎさに少年を落して、鷲は目の上の絶壁の大巌おおいわに翼を休めた。しばらくして、どつとおろいて、少年にとびかゝつて、顔の皮を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしりくらはんとするところを、一生懸命脇差わきざしでめくらきにして助かつた。人に介抱かいほうされて、のちに、所を聞くと、此の方は近かつた。近江の湖岸で、里程は二十里。――江戸と箱根はこれより少し遠い。……
 それから、人間が空をつられて行くさまに参考に成るのがある。……此は見たものの名が分つて居る。讃州高松さんしゅうたかまつ、松平侯の世子せいしで、貞五郎ていごろうと云ふのが、近習きんじゅうたちと、浜町はまちょう矢の倉のやしきの庭で、たこを揚げて遊んで居た。
 と寒いほどの西風で、凧に向つた遙か品川の海の方から、ひら/\とあかいものが、ぽつちりと見えて、空中を次第に近づく。真逆まっさかさになった[#「なった」はママ]女で、髪がふはりと下に流れて、無慙むざんや真白な足を空に、顔はもすそで包まれた。ヒイと泣叫なきさけぶ声が悲しげに響いて、あれ/\と見るうちに、遠く筑波つくばの方へかすんでしまつた。近習たちも皆見た。ちょう日中ひるなかで、しかも空は晴れて居た。――はだきぬもうつくしく蓑虫みのむしがぶらりと雲からさがつたやうな女ばかりで、に何も見えなかつた。が、天狗てんぐつかんだものに相違ない、と云ふのである。
 けれども、こゝなる両個ふたつの魔は、武士さむらい屑屋くずやさかさまつたのではないらしい。

        五

「ふむ、……其処そこで肝要な、江戸城のおもむき如何いかがであつたな。」
「いや以てのほかの騒動だ。外濠そとぼりからりょういても、天守へらいが転がつても、太鼓櫓たいこやぐらの下へ屑屋がこぼれたほどではあるまいと思ふ。又、此の屑屋がきょうがつた男で、鉄砲笊てっぽうざるかついだまゝ、落ちたところ俯向うつむいて、篦鷺へらさぎのやうに、竹のはし其処等そこらつっつきながら、胡乱々々うろうろする。……此を高櫓たかやぐらからあり葛籠つづら背負しょつたやうに、小さく真下まっしたのぞいた、係りの役人の吃驚びっくりさよ。おもてむしばんだやうに目がくらんで、折からであつた、つの太鼓を、ドーン、ドーン。」
 と小法師こほうしなるに力ある声が、湖水に響く。ドーンと、ものすごこだまして、
「ドーン、ドーンと十三打つた。」
みょう。」と、又乗出のりだした山伏やまぶしが、
「前代未聞。」とことばの尾を沈めて、なかば歎息して云つた。
謀叛人むほんにんが降つて湧いて、まる取詰とりつめたやうな騒動だ。将軍の住居すまいは大奥まで湧上わきあがつた。長袴ながばかますべる、上下かみしも蹴躓けつまずく、茶坊主ちゃぼうずは転ぶ、女中は泣く。追取刀おっとりがたなやり薙刀なぎなた。そのうち騎馬で乗出のりだした。何と、紙屑買かみくずかい一人を、鉄砲づくめ、槍襖やりぶすまとらへたが、見ものであつたよ。――国持諸侯くにもちだいみょうしらみ合戦かっせんをするやうだ。」
まことか、それは?」
「云ふにや及ぶ。」
「あゝ幕府の運命は、それであらかた知れた。――」
「む、大納言殿御館おやかたでは、大刀だんびらを抜いた武士さむらいを、手弱女たおやめの手一つにて、黒髪一筋ひとすじ乱さずに、もみぢの廊下を毛虫の如く撮出つまみだす。」
「征夷大将軍の江戸城に於ては、紙屑買ただ一人を、老中ろうじゅうはじめ合戦の混乱ぢや。」
「京都のおんため。」
 と西に向つて、草を払つて、秋葉の行者ぎょうじゃと、羽黒の小法師こほうしそろつて、手をいて敬伏けいふくした。
小虫しょうちゅう微貝びばい臣等しんら……」
欣幸きんこう慶福けいふく。」
つつしんで、万歳をしゅくたてまつる。」

        六

「さて、……町奉行まちぶぎょう白洲しらすを立てて驚いた。召捕めしとつた屑屋を送るには、槍、鉄砲で列をなしたが、奉行役宅やくたく突放つっぱなすとひきがえるほどの働きもない男だ。横からても、縦から視ても、きたない屑屋に相違あるまい。奉行は継上下つぎがみしも、御用箱、うしろに太刀持たちもち用人ようにん与力よりき同心徒どうしんであい、事も厳重に堂々と並んで、威儀を正して、ずらりと蝋燭ろうそくを入れた。
 灯を入れて、あらためて、町奉行が、あまりの事に、櫓下やぐらした胡乱うろついた時と、同じやうなさまをして見せろ、とな、それも吟味ぎんみの手段とあつて、屑屋を立たせて、ざる背負しょはせて、しめたやうな手拭てぬぐいまでかぶらせた。が、なおの事だ。今更ながら、一同のあきれたところを、ひさしまたいでさかしまのぞいてねらつた愚僧だ。つむじ風をどっと吹かせ、白洲しらす砂利じゃりをから/\と掻廻かきまわいて、パツと一斉に灯を消した。逢魔おうまどきくらまぎれに、ひよいとつかんで、くうへ抜けた。お互に此処等ここらは手軽い。」
「いや、しかし、御苦労ぢや。其処そこで何か、すぐに羽黒へ帰らいで、屑屋を掴んだまゝ、御坊ごぼう関所ぢかく参られたは、其の男に後難ごなんあらせまい遠慮かな。」
「何、何、愚僧が三度息を吹掛ふきかけ、あの身体中からだじゅうまじなうた。屑買くずかい明日あすが日、奉行の鼻毛を抜かうとも、くさめをするばかりで、一向いっこうに目は附けん。其処そこいささかも懸念はない。が、正直な気のいゝ屑屋だ。不便ふびんや、定めし驚いたらう。……労力ほねおりやすめに、京見物をさせて、大仏前のもちなりと振舞ふるまはうと思うて、足ついでに飛んで来た。が、いや、先刻の、それよ。……城の石垣に於て、大蛇おおへび捏合こねおうた、あの臭気におい脊筋せすじから脇へまとうて、飛ぶほどに、けるほどに、段々たまらぬ。よつて、此の大盥おおだらいで、一寸ちょっと行水ぎょうずいをばちや/\つた。
 愚僧は好事ものずき――お行者こそ御苦労な。江戸まで、あの荷物をおくりと見えます。――武士さむらいは何とした、しんえて、手足が突張つっぱり、ことほか疲れたやうに見受けるな。」
「おゝ、其の武士さむらいは、部役ぶやくのほかに、仔細あつて、きゅうを用ゐたのぢや。」
「道理こそ、……此は暑からう。待て/\、お行者ぎょうじゃ。灸と言へば、煙草たばこ一吹ひとふかし吹したい。ちょうど、あの岨道そばみちほたるほどのものが見える。猟師が出たな。火縄ひなわらしい。借りるぞよ。来い。」
 とハタとてのひらを一つ打つと、はるかへだつた真暗まっくらなぎさから、キリ/\/\と舞ひながら、森もくぐつて、水のおもを舞つて来るのを、小法師こほうしは指の先へ宙で受けた。つはぶきの葉を喇叭らっぱに巻いたは、すなわ煙管きせるで。あしの穂といはず、草と言はず※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり取つて、青磁色せいじいろの長い爪に、火をかざして、ぶく/\とすいつけた。火縄を取つて、うしろざまの、肩越かたごしに、ポン、と投げると、杉の枝に挟まつて、ふつと消えたと思つたのが、めら/\と赤く燃上もえあがつた。ぱち/\と鳴ると、双子山颪ふたごやまおろしさっとして、松明たいまつばかりに燃えたのが、見る/\うちに、ごうと響いて、およ片輪車かたわぐるまの大きさに火のからんだのが、こずえかかつて、ぐる/\ぐる/\と廻る。
 此の火にてらされた、二個の魔神のさまを見よ。けたゝましい人声ひとごえかすかに、鉄砲を肩に、猟師が二人のめりつ、りつ、尾花おばなの波に漂うて森の中をげて行く。
 山兎やまうさぎが二三びき、あとを追ふやうに、おどつてけた。
「小法師、あひかはらず悪戯いたずらぢや。」
 とかぶとのやうな額皺ひたいじわの下に、おそろしい目を光らしながら、山伏やまぶしは赤い鼻をひこ/\と笑つたが、
拙道せつどう煙草たばこ不調法ぶちょうほうぢや。らば相伴しょうばん腰兵糧こしびょうろうは使はうよ。」
 と胡坐あぐらかいた片脛かたずねを、づかりと投出なげだすと、両手で逆に取つて、上へそらせ、ひざぶしからボキリボキリ、ミシリとやる。
「うゝ、うゝ。」
「あつ。」
 と、武士さむらいと屑屋は、思はず声を立てたのである。
 見向きもしないで、山伏は挫折へしおつた其のおのが片脛を鷲掴わしづかみに、片手できびす穿いた板草鞋いたわらじ※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしてると、横銜よこぐわへに、ばり/\とかじる……
 鮮血なまちの、唇を滴々たらたらと伝ふをて、武士さむらいと屑屋はひとのめりに突伏つっぷした。
 不思議な事には、へし折つた山伏の片脛のあとには、又おなじやうな脛が生えるのであつた。
 杉なる火の車は影をした。寂寞せきばくとして一層ものすごい。
「骨も筋もないわ、肝魂きもたましいも消えて居る。不便ふびんや、武士さむらい……わびをして取らさうか。」
 と小法師が、やゝものしずかに、
「お行者よ。きゅうとは何かな。」

        七

 此のに――
塩辛しおからい。」
 と言ふ山伏やまぶしの声がして、がぶ/\。
「塩辛い。」
 と言つて、湖水の水を、がぶ/\と飲んだ――
「お行者ぎょうじゃ。」
「其の武士さむらいは、小堀伝十郎こぼりでんじゅうろうと申す――陪臣ばいしんなれど、それとても千石せんごくむのぢや。主人の殿との松平大島守まつだいらおおしまのかみと言ふ……」
西国方さいこくがた諸侯だいみょうだな。」
「されば御譜代ごふだい。将軍家に、ながれみなもとも深い若年寄わかどしよりぢや。……何と御坊ごぼう。……今度、其の若年寄に、便宜べんぎあつて、京都比野大納言殿より、(江戸隅田川の都鳥みやこどりが見たい、一羽首尾ようして送られよ。)と云ふお頼みがあつたと思へ。――御坊の羽黒、拙道せつどうの秋葉に於いても、旦那だんなたちがこのたび一儀いちぎを思ひ立たれて、拙道使つかいに立つたも此のためぢや。申さずとも、御坊は承知と存ずるが。」
「はあ、うか、いや知らぬ、愚僧早走はやばしり、早合点はやがってんの癖で、用だけ聞いて、して来いな、とお先ばしりに飛出とびでたばかりで、一向いっこうに仔細は知らぬ。が、さては、根ざすところがあるのであつたか。」
「もとよりぢや。――大島守おおしまのかみが、此の段、殿中に於いて披露に及ぶと、老中ろうじゅうはじめひたいを合せて、
 此は今めかしく申すに及ばぬ。業平朝臣なりひらあそんの(名にしおはゞいざこととはむ)歌の心をまのあたり、鳥の姿に見たいと言ふ、花につけ、月につけ、をりからのきく紅葉もみじにつけてのおもよりには相違あるまい。……大納言こころでは、将軍家は、其の風流の優しさに感じて、都鳥をば一番ひとつがい、そつと取り、くれないむらさきふさを飾つた、金銀蒔絵まきえかごゑ、使つかい狩衣かりぎぬ烏帽子えぼしして、都にのぼす事と思はれよう。ぢやが、海苔のりじょう煎餅せんべいの袋にも、贈物おくりものは心すべきぢや。すぐに其は対手あいてに向ふ、当方の心持こころもちしるし相成あいなる。……将軍家へ無心むしんとあれば、都鳥一羽も、城一つも同じ道理ぢや。よき折から京方かみがたに対し、関東の武威をあらはすため、都鳥をて、こうはねたかの矢をむなさきに裏掻うらかいてつらぬいたまゝを、わざと、蜜柑箱みかんばこと思ふが如何いかが、即ち其の昔、権現様ごんげんさま戦場お持出もちだしの矢疵やきず弾丸痕たまあとの残つた鎧櫃よろいびつに納めて、やりを立てて使者を送らう。と言ふ評定ひょうじょうぢや。」
気障きざな奴だ。」
「むゝ、づ聞けよ。――評定は評定なれど、此を発議ほつぎしたは今時の博士はかせ秦四書頭はたししょのかみと言ふ親仁おやじぢや。」
「あの、親仁おやじ。……かね大島守おおしまのかみ取入とりいると聞いた。成程なるほど其辺そのへんもよおしだな。つもつても知れる。老耄おいぼれ儒者めが、うち引込ひっこんで、溝端どぶばたへ、きりなえでも植ゑ、孫娘の嫁入道具の算段なりとしてれば済むものを――いや、何時いつの世にも当代におもねるものは、当代の学者だな。」
「塩辛い……」
 と山伏やまぶしは、又したゝか水を飲んで、
其処そこでぢや……松平大島守、やしきは山ぢやが、別荘が本所大川ほんじょおおかわべりにあるにり、かた/″\大島守か都鳥をて取る事に成つた。……此の殿、いささかものの道理をわきまへてゐながら、心得違ひな事は、諸事万端、おありがたや関東の御威光がりでな。――一年ひととせ、比野大納言、まだお年若としわかで、京都御名代ごみょうだいとして、日光の社参しゃさんくだられたを饗応きょうおうして、帰洛きらくを品川へ送るのに、資治やすはる卿の装束しょうぞくが、藤色ふじいろなる水干すいかんすそき、群鵆むらちどりを白く染出そめいだせる浮紋うきもんで、風折烏帽子かざおりえぼしむらさき懸緒かけおを着けたに負けない気で、この大島守は、紺染こんぞめ鎧直垂よろいひたたれの下に、白き菊綴きくとじなして、上には紫の陣羽織。胸をこはぜがけにて、うしろ折開おりひらいた衣紋着えもんつきぢや。小袖こそでと言ふのは、此れこそ見よがしで、かつて将軍家より拝領の、黄なるあやに、雲形くもがた萌葱もえぎ織出おりだし、白糸しろいとを以てあおい紋着もんつき。」
「うふ。」
 と小法師こほうし噴笑ふきだした。
「何と御坊ごぼう。――資治卿が胴袖どてら三尺さんじゃくもしめぬものを、大島守なりで、馬につて、資治卿の駕籠かごと、演戯わざおぎがかりで向合むかいあつて、どんなものだ、とニタリとした事がある。」
気障きざな奴だ。」
「大島守は、おのれ若年寄の顕達けんたつと、将軍家の威光、此見これみよがしの上に、――かねて、資治卿が美男におはす、従つて、此の卿一生のうちに、一千人の女をたのしむ念願あり、また婦人の方よりかくと知りつつ争つてこびを捧げ、色をていする。もっぱら当代の在五中将ざいごちゅうじょうと言ふ風説うわさがある――いや大島守、また相当の色男がりぢやによつて、一つは其ねたみぢや……負けまい気ぢや。
 されば、名にしおはゞの歌につけて、都鳥の所望しょもうにも、一つはつたものと思つてい。
 また此の、品川で、陣羽織菊綴きくとじで、風折烏帽子かざおりえぼしむらさき懸緒かけお張合はりあつた次第を聞いて、――例の天下の博士はかせめが、(遊ばされたり、老生ろうせいも一度の御扮装を拝見。)などと申す。
 ところで、今度、隅田川両岸りょうがん人払ひとばらい、いや人よせをして、くだんの陣羽織、菊綴、葵紋服あおいもんぷく扮装いでたちで、拝見ものの博士を伴ひ、弓矢を日置流へぎりゅうばさんで静々しずしず練出ねりだした。飛びも、立ちもすれば射取いとられう。こゝに可笑おかしな事は、折から上汐あげしお満々たる……」蘆の湖は波一じょう、銀河を流す気勢けはいがした。
「かの隅田川に、ただ一羽なる都鳥があつて、雪なす翼は、朱鷺色ときいろの影を水脚みずあしに引いて、すら/\と大島守の輝いて立つそでの影にるばかり、水岸みずぎしへ寄つて来た。」
「はて、それはな?」
「誰も知るまい。――大島守のやしきに、今年二十になる(白妙しろたえ。)と言つて、白拍子しらびょうしまいだれの腰元が一人あるわ――一年ひととせ……資治卿を饗応の時、酒宴うたげの興に、此の女がひとさし舞つた。――ぢやが、新曲とあつて、其の今様いまようは、大島守の作るところぢや。」
「迷惑々々。」
「中に(時鳥ほととぎす)何とかと言ふ一句がある。――白妙が(時鳥)とうたひながら、扇をかざしてひざをついた。時しもむねに、時鳥がいっせいしたのぢや。大島守の得意、察するにあまりある。……ところが、時鳥は勝手に飛んだので、……こゝを聞け、御坊ごぼうよ。
 白妙は、資治卿の姿に、恍惚うっとりと成つたのぢや。
 大島守は、折に触れ、資治卿のうわさをして、……その千人の女にちぎると言ふ好色をしたゝかにののしると、……二人三人のめかけてかけ、……わざとか知らぬ、横肥よこぶとりに肥つた乳母うばまで、此れを聞いてつまはじき、身ぶるひをするうちに、白妙ただ一人、(でも。)とか申して、内々ないない思ひをほのめかす、大島守は勝手が違ふ上に、おのれ容色きりょう自慢だけに、いまだ無理口説むりくどきをせずにる。
 其の白妙が、めされて都にのぼると言ふ、都鳥の白粉おしろいの胸に、ふつくりと心魂こころだましいめて、肩も身も翼に入れて憧憬あこがれる……其の都鳥ぢや。何と、げるどころではあるまい。――しかし、人間には此は解らぬ。」
「むゝ、聞えた。」
「都鳥は手とらまへぢや。蔵人くらんどさぎならねども、手どらまへた都鳥を見て、将軍の御威光、殿の恩徳おんとくとまでは仔細ない、――別荘で取つて帰つて、ぶしをゆわへて、桜の枝につるし上げた。何と、雪白せっぱく裸身の美女を、こずえまとにした面影おもかげであらうな。松平大島守みなもと何某なにがし、矢の根にしるして、例の菊綴きくとじあおい紋服もんぷく、きり/\と絞つて、ひょうたが、射た、が。射たが、薩張さっぱり当らぬ。
 もっとも、此の無慙むざんな所業を、白妙は泣いてめたが、かれさうなはずはない。
 拝見の博士はかせの手前――まで射損いそんじて、殿、怫然ふつぜんとしたところを、(やあ、飛鳥ひちょう走獣そうじゅうこそ遊ばされい。かか死的しにまと、殿には弓矢の御恥辱おんちじょく。)と呼ばはつて、ばら/\と、散る返咲かえりざきの桜とともに、都鳥の胸をも射抜いぬいたるは……
 ……塩辛い。」
 と山伏やまぶしは又湖水を飲む音。舌打したうちしながら、
「ソレ、其処そこに控へた小堀伝十郎、即ち彼ぢや。……拙道せつどう引掴ひっつかんだと申して、決して不忠不義の武士さむらいではない。まづ言はば大島守には忠臣ぢや。
 さて、ところで、矢をつらぬいた都鳥を持つて、大島守登営とえいに及び、将軍家一覧の上にて、如法にょほう鎧櫃よろいびつに納めた。
 わざと、使者差立さしたてるまでもない。ぢやが、大納言の卿に、将軍家よりの御進物ごしんもつ。よつて、九州へ帰国の諸侯が、途次みちすがらの使者兼帯、其の武士さむらいが、都鳥の宰領さいりょうとして、罷出まかりいでて、東海道をのぼつて行く。……
 秋葉の旦那だんな、つむじが曲つた。颶風はやての如く、御坊ごぼうの羽黒と気脈を通じて、またゝくの今度のもよおし拙道せつどうは即ちおおせをうけて、都鳥の使者が浜松の本陣へ着いたところを、風呂にも入れず、縁側から引攫ひっさらつた。――武士さむらい這奴しゃつの帯の結目ゆいめつかんで引釣ひきつると、ひとしく、金剛杖こんごうづえ持添もちそへた鎧櫃よろいびつは、とてもの事に、たぬきが出て、棺桶かんおけを下げると言ふ、古槐ふるえんじゅの天辺へ掛け置いて、大井おおい、天竜、琵琶湖びわこも、瀬多せたも、京の空へ一飛ひととびぢや。」
 と又がぶりと水を飲んだ。
「時に、……時にお行者ぎょうじゃ。矢をつらぬいた都鳥は何とした。」
「それぢや。……桜の枝にかかつて、射貫いぬかれたとともに、白妙しろたえは胸を痛めて、どつと……息も絶々たえだえとこに着いた。」
南無三宝なむさんぼう。」
「あはれとおぼし、峰、山、たけの、姫たち、貴夫人たち、届かぬまでもとて、目下もっか御介抱ごかいほう遊ばさるる。」
珍重ちんちょう。」
 と小法師こほうしが言つた。
「いや、安心は相成あいならぬ。が、かた/″\の御心ごしんもじ、御如才おじょさいはないかに存ずる。やがて、此の湖上にも白い姿が映るであらう。――水も、も、さてけた。――武士さむらい。」
 と呼んで、居直いなおつて、
「都鳥もし蘇生よみがえらず、白妙なきものと成らば、大島守を其のまゝに差置さしおかぬぞ、としかと申せ。いや/\待て、必ず誓つて人にはもらすな。――拙道の手に働かせたれば、最早もはそち差許さしゆるす。小堀伝十郎、しかとせい、伝十郎。」
「はつ。」
 と武士さむらいは、魂とともに手をいた。こゝに魂と云ふは、両刀の事ではない。

        八

「何と御坊」
 と、少時しばらくして山伏やまぶしが云つた。
「思ひけず、かかところ行逢ゆきおうた、たがい便宜べんぎぢや。双方、彼等かれら取替とりかへて、御坊ごぼうは羽黒へ帰りついでに、其の武士さむらいつて行く、拙道せつどう一翼ひとつばさ、京へして、其の屑屋くずやを連れ参つて、大仏前のもちはさうよ――御坊の厚意は無にせまい。」
「よい、よい、名案。」
「参れ。……屑屋。」
 と山の※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)ひだを霧の包むやうに枯蘆かれあしにぬつと立つ、此のだいなる魔神ましんすそに、小さくなつて、屑屋は頭から領伏ひれふして手を合せて拝んだ。
「お慈悲じひ、お慈悲でござります、お助け下さいまし。」
「これ、身はそこなはぬ。ほね休めに、京見物をさしてるのぢや。」
「女房、女房がござります。がござります。――何として、箱根から京まで宙が飛べませう。江戸へ帰りたう存じます。……お武家様、助けて下せえ……」
 と膝行いざり寄る。なかば夢心地の屑屋は、前後の事を知らぬのであるから、武士さむらいて、其の剣術にすがつても助かりたいと思つたのである。
 小法師こほうしが笑ひながら、ちりを払つて立つた。
可厭いやなものは連れては参らぬ。いや、お行者ぎょうじゃ御覧の通りだ。御苦労には及ぶまい。――屑屋、法衣ころもそでを取れ、しかと取れ、江戸へ帰すぞ。」
「えゝ、滅相めっそうな、お慈悲、慈悲でござります。山を越えて参ります。歩行あるいて帰ります。」
歩行あるけるかな。」
ひます、這ひます、這ひまして帰ります。つちを這ひまして帰ります。其の方が、どれほどおなさけか分りませぬ。」
「はゝ、気まゝにするがい、――らば入交いれかわつて、……武士さむらい武士さむらい、愚僧にすがれ。」
「恐れながら、恐れながら拙者せっしゃとても、片時へんしも早く、もとの人間に成りまして、人間らしく、相成あいなりたう存じます。とうげを越えて戻ります。」
「心のまゝぢや。――御坊。」
 と山伏やまぶし式代しきたいした。
「お行者。」
少時しばらく少時しばらくうぞ。」
 とうずくまりながら、手を挙げて、
唯今ただいま、思ひつきました。此には海内かいだい第一のお関所がござります。拙者てがたを持ちませぬ。夜あけを待ちましても同じ儀ゆゑに……ハタと当惑をつかまつります。」
 武士さむらいはきつぱり正気に返つた。
「仔細ない。久能山辺くのうざんあたりに於ては、森の中から、時々、(興津鯛おきつだいが食べたい、燈籠とうろうの油がこぼれるぞよ。)なぞと声の聞える事を、此辺こんあたりでもまざ/\と信じてる。――関所に立向たちむかつて、大音だいおんに(権現ごんげんが通る。)と呼ばはれ、すみやかに門をひらく。」
「恐れ……恐多おそれおおい事――うけたまわりまするも恐多い。陪臣ばいしんぶんつかまつつて、御先祖様お名をかたります如き、血反吐ちへどいて即死をします。」
 と、わな/\と震へて云つた。
「臆病もの。……し。」
はからひ取らせう。」
 同音どうおんに、
「関所!」
 と呼ぶと、向うから歩行あるくやうに、する/\と真夜中の箱根の関所が、霧をかずいて出て来た。
 山伏やまぶしの首が、高く、とざした門を、上から俯向うつむいて見込む時、小法師こほうしの姿は、ひよいと飛んで、棟木むなぎしゃがんだ。
権現ごんげんぢや。」
罷通まかりとおるぞ!」
 どっと笑つた。
 小法師の姿はあずまの空へ、星の中に法衣ころもそで掻込かいこんで、うつむいて、すつと立つ、早走はやばしりと云つたのが、身動きもしないやうに、次第々々に高くあがる。山伏の形は、腹這はらばさまに、金剛杖こんごうづえかいにして、横に霧をぐ如く、西へふは/\、くるりと廻つて、ふは/\と漂ひ去る。……
 、仰いで見るうちに、数十人の番士ばんし足軽あしがるの左右に平伏ひれふす関の中を、二人何の苦もなく、うかうかと通り抜けた。
「お武家様、もし、お武家様。」
 ハツとしたやうに、此の時、刀のつかに手を掛けて、もの/\しく見返つた。が、きたない屑屋に可厭いやな顔して、
「何だ。」
「おたもとすがりませいでは、一足ひとあし歩行あるかれませぬ。」
「ちよつ。参れ。」
「お武家様、お武家様。」
「黙つて参れよ。」
 小湧谷こわくだに大地獄おおじごくの音を暗中あんちゅうに聞いた。
 目の前のみちに、霧が横に広いのではない。するりと無紋むもんの幕が垂れて、ゆるく絞つたふさむらさきは、く内側のともしびの影に、色も見えつつ、ほのかに人声ひとごえれて聞えた。
 女の声である。
 時に、紙屑屋の方が、武士さむらいよりは、ものれた。
 そして、ひざまずかせて、屑屋もつちに、並んでうやうやしく手をいた。
「江戸へ帰りますものにござります。山道に迷ひました。お通しを願ひたう存じます。」
 ひつそりして、少時しばらくすると、
「お通り。」
 と、ものやわらかな、優しい声。
 さっと幕が消えた。ゆるにつれて、朦朧もうろうとして、白小袖しろこそでくれないはかま、また綾錦あやにしき振袖ふりそでの、貴女たち四五人の姿とともに、中に一人、雪にまがふ、うつくしき裸体の女があつたと思ふと、都鳥が一羽、瑪瑙めのうの如き大巌おおいわたたへた温泉いでゆに白く浮いて居た。が、それも湯気とともにあおく消えた。
 星ばかり、峰ばかり、颯々さっさつたる松の嵐の声ばかり。
 かすかに、たがいの顔の見えた時、真空まそらなる、山かづら、山のに、ほがらかな女の声して、
「矢は返すよ。」
 風を切つて、目さきへ落ちる、此が刺さると生命いのちはなかつた。それでも武士さむらいは腰を抜いた。
 引立ひきたてても、目ばかり働いて歩行あるき得ない。
 屑屋が妙なことをはじめた。
「お武家様、此のざるへお入んなせい。」
 れると、まだ天狗てんぐのいきの、ほとぼりが消えなかつたと見えて、鉄砲笊てっぽうざるへ、腰からすつぽりとおさまつたのである。
 屑屋が腰を切つて、肩を振つて、其の笊を背負しょつて立つた。
くずい。」
 うつかりと、……
「屑い。」
 落ちた矢を見ると、ひよいと、竹のはしではさんで拾つて、癖に成つて居るから、笊へほうる。
 こうはねの矢をひたいに取つて、あおい顔して、頂きながら、武士さむらいは震へて居た。





底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
   1922(大正11)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について