註文帳

泉鏡花




剃刀研  十九日  紅梅屋敷  作平物語  夕空  点灯頃


雪の門  二人使者  左の衣兜  化粧の名残
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     剃刀研

       一

「おう寒いや、寒いや、こりゃべらぼうだ。」
 と天窓あたまをきちんと分けた風俗、その辺の若い者。双子ふたこの着物に白ッぽい唐桟とうざん半纏はんてん博多はかたの帯、黒八丈の前垂まえだれ白綾子しろりんずに菊唐草浮織の手巾ハンケチうなじに巻いたが、向風むこうかぜに少々鼻下を赤うして、土手からたらたらと坂を下り、鉄漿溝おはぐろどぶというのについて揚屋町あげやまちの裏の田町の方へ、紺足袋に日和下駄ひよりげた、後の減ったる代物しろもの、一体なら此奴こいつ豪勢に発奮はずむのだけれども、一進が一十いっし二八にっぱちの二月で工面が悪し、霜枯しもがれから引続き我慢をしているが、とかく気になるという足取あしどり
 ここに金鍔きんつば屋、荒物屋、煙草たばこ屋、損料屋、場末の勧工場かんこうば見るよう、狭い店のごたごたと並んだのを通越すと、一けん口に看板をかけて、丁寧に絵にして剪刀はさみ剃刀かみそりとを打違ぶっちがえ、下に五すけと書いて、親仁おやじが大目金めがねを懸けて磨桶とぎおけを控え、剃刀の刃を合せている図、目金と玉と桶の水、切物きれものの刃を真蒼まっさおに塗って、あとは薄墨でぼかした彩色さいしき、これならば高尾の二代目三代目時分の禿かむろ使つかいに来ても、一目して研屋とぎやの五助である。
 敷居の内は一坪ばかり凸凹のたたき土間。隣のおでん屋の屋台が、軒下から三分が一ばかり此方こなた店前みせさきかすめた蔭に、古布子ふるぬのこ平胡坐ひらあぐらつぎはぎの膝かけを深うして、あわれ泰山崩るるといえども一髪動かざるべき身の構え。砥石といしを前に控えたはいが、怠惰なまけが通りものの、真鍮しんちゅう煙管きせる脂下やにさがりにくわえて、けろりと往来をながめている、つい目と鼻なる敷居際につかつかと入ったのは、くだんの若い者、すてどんなり。
 手を懐にしたまま胸を突出し、半纏の袖口を両方入山形いりやまがたという見得で、
「寒いじゃあねえか、」
「いやあ、お寒う。」
「やっぱりそれだけは感じますかい、」
 親仁は大口をいて、啣えた煙管を吐出すばかりに、
「ははははは、」
暢気のんきじゃあ困るぜ、ちっと精を出しねえな。」
「一言もござりませんね、ははははは。」
「見や、それだから困るてんじゃあねえか。ぼんやり往来を見ていたって、何も落してやつアありやしねえよ。しかも今時分、よしんば落して行った処にしろ、お前何だ、拾って店へ並べておきゃ札をつけて軒下へぶら下げておくと同一おんなじで、たちまちとんびトーローローだい。」
「こう、はばかりだが、そんな曰附いわくつきの代物は一ツも置いちゃあねえ、出処でどこたしかなものばッかりだ。」とくだんののみさしを行火あんかの火入へぽんとはたいた。真鍮のこの煙管さえ、その中に置いたら異彩を放ちそうな、がらくた沢山、根附ねつけ緒〆おじめたぐい。古庖丁、塵劫記じんこうきなどを取交ぜて、石炭箱を台に、雨戸をよこたえ、赤毛布あかげっとを敷いて並べてある。
「いずれそうよ、出処はたしかなものだ。川尻権守ごんのかみ溝中どぶのなか長左衛門ね、掃溜はきだめ衛門之介などからおさがり遊ばしたろう。」
愚哉おろか々々、これ黙らっせえ、たいらの捨吉、なんじ今頃この処にきたって、憎まれ口をきくようじゃあ、いかさまいろがえものと見える。」と説破せっぱ一番して、五助はぐッとまた横啣よこぐわえ
 平の捨吉これを聞くと、壇の浦没落の顔色がんしょくで、
「ふむ、余り殺生が過ぎたから、ここん処精進よ。」と戸外おもての方へ目をそらす。狭い町を一杯に、昼帰ひるがえりを乗せてがらがらがら。

       二

 あとは往来ゆききがばったり絶えて、魔が通る前後あとさきの寂たるみちかな。如月きさらぎ十九日の日がまともにさして、土には泥濘ぬかるみを踏んだ足跡もとどめず、さりながら風は颯々さつさつと冷く吹いて、はるかに高い処ではたきをかける。
串戯じょうだんじゃあねえ、」と若い者は立直って、
紺屋こうやじゃあねえから明後日あさってとはわせねえよ。うち妓衆おいらんたちから三ちょうばかり来てるはずだ、もうとっくに出来てるだろう、大急ぎだ。」
「へいへい。いやまた家業の方は真面目まじめでございス、捨さん。」
「うむ、」
「出来てるにゃ出来てます、」と膝かけからすぽりと抜けて、行火あんかを突出しながらずいと立つ。
 若いものは心付いたように、ハアトと銘のあるのを吸いつける。
 五助は背後向うしろむきになって、押廻して三段に釣った棚に向い、右から左のへ三度ばかり目を通すと、無慮四五百挺の剃刀かみそりの中から、箱を二挺、紙にくるんだのを一挺、目方を引くごとくてのひらに据えたが、捨吉に差向けて、
「これだ、」
「どれ、」
 箱を押すとすッと開いて、研澄とぎすましたのが素直まっすぐに出る、裏書をちょいとながめ、
「こりゃ青柳あおやぎさんと、し、梅の香さんと、それから、や、こりゃ名がねえが間違やしないか。」
「大丈夫、」
たしかかね。」
「千本ごッたになったってわっしが受取ったら安心だ、お持ちなせえ、したが捨さん、」
「なあに、間違ったって剃刀だあ。」
「これ、剃刀だあじゃあねえよ、おめえさん。今日は十九日だぜ。」
「ええ、驚かしちゃあ不可いけねえ、張店はりみせ遊女おいらんに時刻を聞くのと、十五日すぎに日をいうなあ、大の禁物だ。年代記にも野暮の骨頂としてございますな。しかも今年はうるうがねえ。」
「いえ、閏があろうとあるまいと、今日は全く十九日だろうな。」と目金越にのぞき込むようにしてったので、捨吉は変な顔。
「どうしたい。そうさ、」
「おめえさんとこじゃあ構わなかったっけか。」
「何を、」
「剃刀をさ。」
 謂うことはのみ込めないけれども、急に改まって五助が真面目だから、聞くのも気がさして、
「剃刀を? おかしいな。」
「おかしくはねえよ。この頃じゃあ大抵何楼どこでも承知の筈だに、どうまた気が揃ったか知らねえが、三人が三人取りに寄越よこしたのはちっと変だ、こりゃお気をつけなさらねえとあぶねえよ。」
 ますます怪訝けげんな顔をしながら、
「何も変なこたアありやしないんだがね、別に遊女おいらんたちが気を揃えてというわけでもなしさ。しかしあたろうというのは三人や四人じゃあねえ、れるもんならうちに居るだけ残らずというのよ。」
みんなかい、」
「ああ、」
「いよいよ悪かろう。」
「だっておめえ、床屋が居続けをしていると思や、不思議はあるめえ。」
 五助は苦笑にがわらいをして、
洒落しゃれじゃあないというに。」
「何、洒落じゃあねえ、まったくの話だよ。」と若いものは話に念がって、仕事場の前に腰を据えた。


     十九日

       三

昨夜ゆうべひけすぎにおめえ、威勢よく三人で飛込んで来た、本郷辺の職人てあいさ。今朝になって直すというから休業やすみは十七日だに変だと思うと、案の定なんだろうじゃあないか。
 すったもんだとねかえしたが、言種いいぐさが気に入ったい、総勢二十一人というのが昨日きのうのこッた、竹の皮包の腰兵糧でもって巣鴨すがもの養育院というのに出かけて、ほどこしのちょきちょきをってさ、総がかりで日の暮れるまでに頭の数五そくと六十が処片づけたという奇特な話。
 そのくずれが豊国へ入って、大廻りに舞台がかわると上野の見晴みはらし勢揃せいぞろいというのだ、それから二にん三人ずつ別れ別れに大門へ討入うちいりで、格子さきで胄首かぶとと見ると名乗なのりを上げた。
 もとよりひってんは知れている、ただはげようたあ言わないから、出来るだけ仕事をさせろ。愚図ぐず々々ぬかすと、処々に伏勢ふせぜいは配ったり、朝鮮伝来の地雷火が仕懸けてあるから、合図の煙管きせるはたくが最後、芳原はくうへ飛ぶぜ、と威勢の懸合かけあいだから、一番景気だと帳場でも買ったのさね。
 そこで切味のいのが入用というので、ちょうどおめえとこへ頼んだのが間に合うだろうと、大急ぎで取りに来たんだが、何かね、十九日がどうかしたかね。」
「どうのこうのって、真面目なんだ。いけどしつかまつって何も万八をめるにゃ当りません。」
「だからさ、」
大概てえげえ御存じだろうと思うが、じゃあ知らねえのかね。この十九日というのは厄日でさ。別に船頭衆せんどしゅう大晦日おおみそかの船出をしねえというようなきまったんじゃアありません。ほかの同商売にはそんなことはえようだが、くるわ中のを、こうやって引受けてる、私許うちばかりだからいやじゃあねえか。」
「はて――ふうむ。」
「見なさる通りこうやって、二そく三百と預ってありましょう。殊にこれなんざあ御銘々使い込んだ手加減があろうというもんだから。そうでなくッたって粗末にゃあ扱いません。またその癖誰もこれを一ちょうどうしようと云うのもえてッた勘定だけれど、数のあるこッたから、念にゃあ念を入れて毎日一度ずつは調べるがね。紛失ふんじつするなんてえ馬鹿げたことはないはずだが、聞きなせえ、今日だ、十九日というと不思議に一挺ずつくなります。」
なんが、」と変な目をして、捨吉はわかったようで呑込のみこめない。
「何がッたって、預ってるうちのさ。」
「おお、」
「ね、御覧なせえ、不思議じゃアありませんかい。わっしもどうやらこうやら皆様みなさん贔屓ひいきにして、五助のでなくッちゃあ歯切はぎれがしねえと、持込んでくんなさるもんだから、長年居附いて、ばばどんもここで見送ったというもんだ。せんの内もちょいちょい紛失したことがあるにゃあります。けれども何の気も着かねえから、そのたんびに申訳をして、事済みになり/\したんだが。
 毎々のことでしょう、気をつけると毎月さ、はて変だわえ、とそれからいつでも寝際にゃあちゃんと、ちゅう、ちゅう、たこ、かいなのちゅ、と遣ります。
 いつの間にか失くなるさ、しからねえこッたと、大きに考え込んだ日が何でも四五年前だけれど、忘れもしねえ十九日。
 聞きなせえ。
 するとその前の月にも一昨日おととい持って来たとッて、東屋あずまやみやこという人のを新造衆しんぞしゅうが取りに来て、」
 五助は振向いて背後うしろの棚、くだんの屋台の蔭ではあり、間狭まぜまなり、日は当らず、剃刀ばかりで陰気なのを、目金越に見ていやな顔。

       四

「と、ここから出そうとすると無かろうね。探したが探したがさあ知れねえ。とうとう平あやまりのこっちへこみ、先方様さきさまむくれとなったんだが、しかも何と、その前の晩気を着けて見ておいたんじゃアあるまいか。
 持って来たのが十八日、取りに来たのが二十日の朝、しらべたのが前の晩なら、何でも十九日の夜中だね、希代なのは。」
「へい、」と言って、若い者は巻煙草まきたばこを口から取る。
 五助は前屈まえかがみに目金を寄せ、
「ほら、日が合ってましょう。それから気を着けると、いつかも江戸町のお喜乃きのさんが、やっぱり例の紛失で、ブツブツいってけえったッけ、翌日あくるひの晩方、わざわざやって来て、
(どうしたわけだか、鏡台の上に、)とこうだ。私許うちへ預って、取りに来てせたものが、鏡台の上にあるは、いかがでござい。
 鏡台の上はまだしもさ、悪くすると十九日には障子のさんなんぞに乗っかってる内があるッさ。
 浮舟さんが燗部屋かんべやさがっていて、七日なぬかばかり腰が立たねえでさ、夏のこッた、湯へへえっちゃあ不可いけねえと固く留められていたのを、悪汗わるあせひどいといって、中引なかびけ過ぎにッと這出はいだして行って湯殿口でざっくり膝を切って、それがもとで亡くなったのも、おめえ、剃刀がそこに落ッこちていたんだそうさ。これが十九日、去年の八月知ってるだろう。
 その日も一挺紛失さ、しかしそりゃ浮舟さんのうちのじゃあねえ、確か喜怒川きぬがわの緑さんのだ、どこへどう間違ってくのだか知れねえけれども、いやじゃあねえか、恐しい。
 ひっくるめてや、こっちも一挺なくなって、廓内くるわうちじゃあきっと何楼どこかで一挺だけ多くなる勘定だね。御入用のお客様はどなただか早や知らねえけれど、何でもわっし研澄とぎすましたのをお持ちなさると見えるて、御念の入った。
 ぱっとしちゃあ、お客にまで気を悪くさせるから伏せてはあろうが、お前さんだ、今日は剃刀をつかわねえことを知っていそうなもんだと思うが、うちでも気がつかねえでいるのかしら。」
「ええ! ほんとうかい、おめえとは妙に懇意だが、実は昨今だから、……へい?」と顔の筋を動かして、眉をしかめ、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはると、この地色の無い若い者は、思わず手に持った箱を、ばったり下に置く。
「ええ、もし、」
「はい。」と目金を向ける、気を打った捨吉もひとしく振向くと、皺嗄しゃがれた声で、
「お前さん、御免なさいまし。」
 敷居際につくばった捨吉が、肩のあたりに千草色の古股引ふるももひきあかじみた尻切半纏しりきりばんてん、よれよれの三尺、胞衣えなかとあやしまれる帽をかぶって、手拭てぬぐいを首に巻き、引出し附のがたがた箱と、海鼠形なまこなり小盥こだらい、もう一ツ小盥をかさねたのを両方振分にして天秤てんびんで担いだ、六十ばかりの親仁おやじやせさらぼい、枯木に目と鼻とのついた姿で、さもさも寒そう。
 捨吉は袖を交わして、ひやりとした風、つっけんどんなものいいで、
「何だ、」
「はい、もしお寒いこッてござります。」
北風ならいのせいだな、こちとらの知ったこッちゃあねえよ。」
「へへへへへ、」と鼻のさきさみしげなるえみもらし、
「もし、唯今ただいまのお話は、たしか幾日いくかだとかおっしゃいましたね。」

       五

 五助は目金越に、親仁の顔をみまもっていたが、
「やあ作平さくべいさんか、」といって、その太わくの面道具おもてどうぐを耳からねじり取るよう、※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ぎはなして膝の上。口をこすって、またたいて、
「飛んだ、まあお珍しい、」と知った中。捨吉間が悪かったものと見え、
「作平さん、かね。」と低声こごえで口のうち
 折から、からからと後歯あとば跫音あしおと、裏口ではたとんで、
「おや、また寝そべってるよ、図々しい、」
 叱言こごとは犬か、盗人猫ぬすっとねこか、勝手口の戸をあけて、ぴッしゃりと蓮葉はすはにしめたが、浅間だからじきにもう鉄瓶をかちりといわせて、障子の内に女の気勢けはい
「唯今。」
けえんなすったかい、」
「お勝さん?」と捨吉は中腰に伸上りながら、
「もうそんな時分かな。」
「いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、」
 という時、二枚だてのその障子の引手の破目やぶれめから仇々あだあだしい目が二ツ、頬のあたりがほの見えた。けだし昼のうちるだけに一間のなかばを借り受けて、情事いろごとで工面の悪い、荷物なしの新造しんぞが、京町あたりから路地づたいに今頃戻って来るとのこと。
「少し立込んだもんですからね、」
「いや、御苦労様、これからゆっくりとおひけに相成あいなります?」
「ところが不可いけないの、手が足りなくッて二度のつとめと相成ります。」
「お出懸でかけか、」と五助。
「ええ、困るんですよ、昨夜ゆうべもまるッきり寐ないんですもの、身体からだ中ぞくぞくして、どうも寒いじゃアありませんか、お婆さんたまらないから、もう一枚下へ着込んできましょうと思って、おお、寒い。」といってまた鉄瓶をがたりとる。
 さらぬだに震えそうな作平、
「何てえ寒いこッてございましょう、ついぞ覚えませぬ。」
「はッくしょい、ほう、」と呼吸いきを吹いて、たまりかねたらしい捨吉続けざまに、
「はッくしょい! ああ、」といって眉をひそめ、
うわさかな、恐しく手間が取れた、いや、何しろ三挺頂いて帰りましょう。薄気味は悪いけれど、名にし負う捨どんがお使者でさ、しかも身替みがわりを立てるうち奥の一間で長ッちりと来ていらあ。手ぶらでも帰られまい。五助さん、ともかくも貰ってくよ。途中で自然おのずからこのふたが取れて手が切れるなんざ、おっと禁句、」とこの際、障子の内へ聞かせたさに、捨吉相方なしの台辞せりふあり。
 五助はまめだって、
「よくそういなせえよ、」
「十九日かね、」と内からいう。
「ええ、御存じ、」といいながら、捨吉腰をのばしてずいと立った。
「希代だわねえ。」
「やっぱり何でございますかい、」と作平はこれから話す気、ふりかえて、荷をおろし、屋台へ天秤を立てかける。
 捨吉はぐいと三挺、懐へ突込みそうにしたが、じっと見て、
「おッと十九日。」
 という処へ、荷車が二台、浴衣の洗濯をうずたかく積んで、小僧が三人寒い顔をしながら、日向ひなたをのッしりといて通る。向うの路地の角なる、小さなまき屋の店前みせさきに、炭団たどんを乾かした背後うしろから、子守がひょいと出て、ばたばたと駆けてく。大音寺前あたりであめ屋の囃子はやし


     紅梅屋敷

       六

 その荷車と子守の行違ゆきちがったあとに、何にもない真赤まっかな田町の細路へ、捨吉がぬいと出る。
 途端にちりりんとりんの音、袖に擦合うばかりの処へ、自転車一輛、またたきする間もあらせず、
「危い、」と声かけてまた一輛、あッと退すさると、耳許みみもとへ再び、ちりちり!
 土手の方からさっと来たが、都合三輛か、それあるいは三びきか、三びきか、つばめか、兎か、見分けもつかず、波の揺れるようにたちまち見えなくなった。
 棒立ちになって、捨吉茫然ぼうぜんと見送りながら、
「何だ、一文もえ癖に、」
てめえじゃアあるまいし。」
「や、」
「どうした。」
「へい、」
「近頃はどうだ、ちったあ当りでもついたか、てめえ、桐島のおけしに大分執心だというじゃあないか。」
「どういたしまして、」
「少しも御遠慮には及ばぬよ。」
「いえ、先方さきへでございます、旦那だんなにじゃあございません。」
「そうか、いや意気地いくじの無いやつだ。」と腹蔵の無い高笑たかわらい少禿天窓すこはげあたまてらてらと、色づきの顔容かおかたち、年配は五十五六、結城ゆうき襲衣かさねに八反の平絎ひらぐけ棒縞ぼうじま綿入半纏わたいればんてんをぞろりと羽織って、白縮緬しろちりめんの襟巻をした、この旦那と呼ばれたのは、二上屋藤三郎ふたかみやとうさぶろうという遊女屋の亭主で、くるわ内の名望家、当時見番の取締とりしまりを勤めているのが、今むこうの路地の奥からぶらぶらと出たのであった。
 界隈かいわいの者が呼んで紅梅屋敷という、二上屋の寮は、新築して実にその路地の突当つきあたりとおり長屋並ならびの屋敷越に遠くちらちらとあるくれないは、早や咲初さきそめたつぼみである。
 捨吉はあらためて、腰をかがめて揉手もみでをし、
「旦那御一所に。」
「おお、これからの、」
 という処へ、萌黄もえぎ裏の紺看板に二の字を抜いた、切立きったて半被はっぴ、そればかりは威勢がいが、かれこれ七十にもなろうという、十筋右衛門とすじうえもん向顱巻むこうはちまき
 今一にん唐縮緬とうちりめんの帯をお太鼓に結んで、人柄な高島田、風呂敷包を小脇に抱えて、後前あとさきに寮の方から路地口へ。
 捨吉はこれを見て、
「や、とっさん、こりゃ姉さん、」
「ああ、今日はちっとの、内証ないしょに芝居者のお客があっての、実は寮の方で一杯と思って、下拵したごしらえに来てみると、困るじゃあねえか、おめえ。」
「へい、へい成程。」
「お若が例のやんちゃんをはじめての、騒々しいからいやだとうわ。じゃあ一晩だけ店の方へ行っていろと謂ったけれど、それをうむという奴かい。また眩暈めまいをされたり、虫でもおこされちゃあかなわねえ。その上お前、ここいらの者に似合わねえ、俳優やくしゃというと目のかたきにして嫌うから、そこで何だ。客はむこうへ廻すことにして、部屋の方の手伝に爺やとこのお辻をな、」
「へい、へい、へい、成程、そりゃおめえさん方御苦労様。」
「はははは、別荘おしもやしき穴籠あなごもりじじめが、土用干でございますてや。」
「お前さん、今日は。」とお辻というのが愛想のい。
 藤三郎はそのまま土手の方へ行こうとして、フト研屋とぎやの店を覗込のぞきこんで、
「よくお精が出るな。」
「いや、」作平と共に四人のかたを見ていたのが、天窓あたまをひたり、
「お天気で結構でございます。」
「しかし寒いの。」と藤三郎は懐手で空を仰ぎ、輪なりにずッと※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、
「筑波の方に雲が見えるぜ。」

       七

「嘘あねえ。」
 と五助はあとでまた額をで、
「怠けちゃあ不可いけないとわれた日にゃあ、これでちっとは文句のある処だけれど、お精が出ますとおっしゃられてみると、恐入るの門なりだ。
 実際また我ながらお怠け遊ばす、ばばあどんの居た内はまだ稼ぐ気もあったもんだが、もうかなわねえ。
 人間色気と食気が無くなっちゃあ働けねえ、のみけで稼ぐというやつあ、これが少ねえもんだよ、なあ、お勝さん、」と振向いて呼んでみたが、
「もうお出懸けだ、いや、よく老実まめに廻ることだ。はははは作平さん、まあ、話しなせえ、誰も居ねえ、何ならこっちへ上って炬燵こたつに当ってよ、その障子を開けりゃい、はらんばいになって休んできねえ。」
「そうもしてはいられぬがの、通りがかりにあれじゃ、お前さんの話が耳にって、少し附かぬことを聞くようじゃけれど、今のその剃刀かみそりせるという日は、確か十九日とかいわしった、」
「むむ、十九日十九日、」と、気乗きのりがしたように重ね返事、ふと心付いた事あって、
「そうだ、待ちなせえ、今日は十九日と、」
 五助は身をひねって、心覚こころおぼえうしろざまに棚なる小箱の上から、取下とりおろした分厚な一てつの註文帳。
 膝の上で、びたりと二つに割って開け、ばらばらと小口を返して、指のさきでずッと一わたり、目金で見通すと、
「そうそうそう、」といって仰向あおむいて、たなそこで帳面をたたくこと二三度す。
 作平もしょぼしょぼとある目でのぞきながら、
日切ひぎれの仕事かい。」
「何、急ぐのじゃあねえけれど、今日中に一ちょうわしが気で研いで進ぜたいのがあったのよ、つい話にかまけて忘りょうとしたい、まあ、」
「それは邪魔をして気の毒な。」
「飛んでもねえ、ゆっくりしてくんねえ。何さ、実はおめえ、聞いていなすったか、その今日だ。この十九日にゃあ一日仕事を休むんだが、休むについてよ、こう水をあらためて、砥石といしを洗って、ここで一挺念入ねんいりというのがあるのさ、」
「気に入ったあつらえかの。」
「むむ、今そこへきなすった、あの二上屋の寮が、」
 と向うの路地をゆびさした。
「あ、あ、あれだ、紅梅が見えるだろう、あすこにそのお若さんてって十八になるのが居て、何だ、旦那の大の秘蔵女ひぞうっこさ。
 そりゃ見せたいような容色きりょうだぜ、寮は近頃出来たんで、やっぱり女郎屋の内証ないしょで育ったもんだが、人は氏よりというけれど、作平さん、そうばかりじゃあねえね。
 お蔭で命を助かった位なほどこしを受けてるのがいくらもあら。
 藤三郎父親ちゃんがまた夢中になって可愛がるだ。
 少姐ねえさんの袖にすがりゃ、抱えられてる妓衆こどもしゅうの証文も、その場でけむになりかねないいきおいだけれど、そこが方便、内に居るお勝なんざ、よく知ってていうけれど、女郎衆なんという者は、ハテ凡人にゃあ分らねえわ。お若さんの容色きりょういから天窓あたまを下げるのが口惜くやしいとよ。
 あっし鐚一文びたいちもん世話になったんじゃあねえけれど、そんなこんなでおめえ、その少姐ねえさんが大の贔屓ひいき
 どうだい、こう聞きゃあおめえだって贔屓にしざあなるめえ。死んだ田之助そッくりだあな。」

       八

「ところで御註文を格別のあつかいだ。今日だけはほかの剃刀を研がねえからね、仕事とや、内じゃあ商売人のものばかりというもんだに因って、一番不浄よけ別火べつびにして、お若さんのを研ごうと思って。
 うっかりしていたが、一挺来ていたというもんだ、いつでもこうさ。
 一体十九日の紛失一件は、どうもくるわにこだわってるにちげえねえ。たたるのは妓衆こどもしなんだからね、少姐ねえさんなんざ、遊女おいらんじゃあなし、しかも廓内くるわうちに居るんじゃあねえから構うめえと思ってよ。
 まあ何にしろ変な訳さ。今に見ねえ、今日もきっと誰方どなたか取りにござる。いや作平さん、狐千年をれば怪をなす、わっし剃刀研かみそりとぎなんざ、商売往来にも目立たねえ古物こぶつだからね、こんな場所がらじゃアあるし、魔がさすと見えます。
 そういやあ作平さん、お前さんの鏡研かがみとぎも時代なものさ、おたげえに久しいものだが、どうだ、御無事かね。二階から白井権八の顔でもうつりませんかい。」
 その箱とたらいとをになった、やせさらぼいたる作平は、けだし江戸市中世渡よわたりぐさにおもかげを残した、鏡を研いで活業なりわいとするじじいであった。
 淋しげにうなずいて、
「ところがもし御同様じゃで、」
「御同様※(感嘆符疑問符、1-8-78)」と五助は日脚を見て仕事にかかる気、寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。おけの中で砥石といしを洗いながら、慌てたようにいい返した。
「御同様は気がねえぜ、おめえの方にもいわくがあるかい。」
「ある段か、お前さん。こういうては何じゃけれど、田町の剃刀研、わしは広徳寺前を右へ寄って、稲荷町いなりちょうの鏡研、自分達が早や変化へんげたぐいじゃ、へへへへへ。」と薄笑うすわらい
「おやおや、てめえから名乗るやつもねえもんだ。」と、かっちり、つらつらと石を合せる。
「じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお位牌いはいの姿じゃわ、羅宇らお屋の方はまだけたのが出来たけれど、もう貍穴まみあなの狸、梅暮里のどじょうなどと同一ひとつじゃて。その癖職人絵合せの一枚ずりにゃ、烏帽子素袍えぼしすおうを着て出ようというのじゃ。」
「それだけになお罪が重いわ。」
「まんざらそのたたりに因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。」
「何か剃刀のせるに就いてか、」
「つい四五日前、町内の差配人おおやさんが、前の溝川の橋を渡って、しとみおろした薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、店賃たなちんの御催促。万年町の縁の下へ引越ひっこすにも、尨犬むくいぬわたりをつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ仕誼しぎ、一刻も猶予ならぬ立退たちのけでござりましょう。その儀ならばのちとは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますとうたらば。
 差配おおやさん苦笑にがわらいをして、狸爺め、濁酒どぶろくくらい酔って、千鳥足で帰って来たとて、桟橋さんばしを踏外そうという風かい。溝店どぶだなのお祖師様と兄弟分だ、わかい内から泥濘ぬかぬみへ踏込んだためしのないおれだ、と、手前てめえ太平楽を並べる癖に。
 御意でござります。
 どこまで始末にえねえかすうが知れねえ。いや、地尻の番太と手前てめえとは、おら芥子坊主けしぼうずの時分から居てつきの厄介者だ。あてもねえのに、毎日研物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにゃあ箕輪みのわの浄閑寺へ廻って、以前御贔屓ごひいきになりましたと、遊女おいらんの無縁の塔婆に挨拶あいさつをして来やあがる。そんな奴も差配さはい内になくッちゃあお祭の時幅が利かねえ。せがれは稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにやあ歩行あるかねえッての、むむ。」と大得意。この時五助はお若の剃刀をぴったりとにあてたが、哄然こうぜんとして、
「気に入った気に入った、それも贔屓の仁左衛門だい。」


     作平物語

       九

「ところで聞かっしゃい、差配おおやさまのうのには、作平、一番ひとつ念入ねんいりってくれ、その代り儲かるぜ、十二分のお手当だと、膨らんだ懐中ふところから、朱総しゅぶさつき、にしきの袋入というのを一面の。
 何でも差配おおやさんがお出入でいりの、麹町こうじまち辺の御大家の鏡じゃそうな。
 さあここじゃよ。十九日に因縁づきは。はばかってお名前は出さぬが、と差配おおやさんが謂わっしゃる。
 その御大家は今寡婦様ごけさまじゃ、まず御後室というのかい。ところでその旦那様というのはしかるべきお侍、もうその頃は金モオルの軍人というのじゃ。
 鹿児島戦争の時に大したお手柄があって、馬車に乗らっしゃるほどな御身分になんなされたとの。その方がわかい時よ。
 誰もこのまよいばかりは免れぬわ。やっぱりそれこちとらがお花主とくいの方に深いのが一人出来て、雨の、雪の夜もじゃ。とどのつまりがの、床の山で行倒れ、そのまんまずッと引取られたいよりほかに、何ののぞみもなくなったというものかい。居続けの朝のことだとの。
 遊女おいらんは自分が薄着なことも、髪のこわれたのも気がつかずに、しみじみと情人いろの顔じゃ。やつれりゃ窶れるほど、嬉しいような男振おとこぶりじゃが、大層ひげが伸びていた。
 鏡台の前に坐らせて、うがい茶碗でぬらした手を、男の顔へこう懸けながら、背後うしろへ廻った、とまあ思わっせえ。
 遊女おいらんは、胸にものがあってしたことか。わざと八寸の延鏡のべかがみが鏡たてに据えてあったが、男は映る顔に目も放さず。
 うしろから肩越に気高い顔を一所にうつして、遊女おいらんが死のうという気じゃ。
 あなた、私の心が見えましょう、と覗込のぞきこんだ時に、ああ、堪忍しておくんなさい、とその鏡を取って俯向うつむけにして、男がぴったりと自分の胸へ押着おッつけたと。
 何を他人がましい、あなた、と肩につかまった女の手を、背後うしろざまにねたので、うんにゃ、愚痴なようだがお前にはうらみがある。母様おっかさんによくた顔を、ここで見るのは申訳がないといって、がっくり俯向いて男泣おとこなき
 遊女おいらんはこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかというせた指で、剃刀かみそりを握ったまま、顔の色をかえて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突然いきなり逆手さかてに持直して、何と、背後うしろからものもいわずに、男の咽喉のど突込つっこんだ。」
 五助は剃刀のひらを指でおさえたまま、ひょいと手を留めた。
「おお、あぶねえ。」
「それにの、刃物を刺すといや、針さしへ針をさすことより心得ておらぬような婦人おんなじゃあなかった。おら遊女おいらんの名と坂の名はついぞ覚えたことはえッて、差配おおやさんは忘れたとわッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、れっきとした旗本のお嬢さんで、おやしきは番町辺。
 何でも徳川様瓦解がかいの時分に、父様おとっさんの方は上野へへえんなすって、お前、お嬢さんが可哀かわいそうにお邸の前へ茣蓙ござを敷いて、蒔絵まきえの重箱だの、お雛様ひなさまだの、錦絵にしきえだのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。
 それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐりあい、という深い交情なかであったげな。
 牛込見附で、仲間ちゅうげんの乱暴者を一にん、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという手利てききなお嬢さんじや、くるわでも一時ひとしきり四辺あたりを払ったというのが、思い込んで剃刀で突いたやつ。」
「ほい。」

       十

「男はまるで油断なり、万に一つも助かる生命いのちじゃあなかったろうに、御運かの。遊女おいらんは気がせいたか、少しねらいがはずれた処へ、その胸に伏せて、うつむいていなすった、鏡で、かちりとその、剃刀の刃が留まったとの。
 わしはどちらがどうともわぬ。遊女おいらん贔屓ひいきをするのじゃあないけれど、思詰めたほどの事なら、遂げさしてやりたかったわ、それだけ心得のある婦人おんなが、仕損じは、まあ、どうじゃ。」
「されば、」
「その代り返す手で、我が咽喉のどね切った遊女おいらんの姿の見事さ!
 口惜くやしい、口惜しい、可愛いこの人の顔を余所よそ婦人おんなに見せるのは口惜しい! との、唇をんだまま、それなりけり。
 全く鏡を見なすった時に、はッと我に返って、もう悪所には来まいという、きっとした心になったのじゃげな。
 容子ようすで悟った遊女おいらんも目が高かった。男は煩悩の雲晴れて、はじめて拝む真如しんにょの月かい。生命いのちの親なり智識なり、とそのまま頂かしった、鏡がそれじゃ。はてふさつき錦の袋入はそのはずじゃて、お家に取っては、宝じゃものを。
 念を入れて仕上げてくれ、近々にその後室様が、実のよりも可愛がっておいでなさる、甥御おいご一方ひとかた。悪い茶も飲まずに、さる立派な学校を卒業なされた。そのお祝に、御教訓をかねてお遣物つかいものになさるつもり、まずまあ早くいってみりゃ、油断が起って女狂おんなぐるい、つまり悪所入あくしょばいりなどをしなさらぬようにというのじゃ。
 作平頼む、と差配おおやさんが置いてかれた。かしこまり奉るで、昨日きのうそれが出来て、差配さんまで差出すと、すぐに麹町のおやしきとやらへかしった。
 点火頃ひともしごろに帰って来て、作、喜べと大枚三両。これはこれはとしんから辞退をしたけれども、いや先方様さきさまでも大喜び、実は鏡についてその話のあったのは、御維新ごいっしんになって八年、霜月の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同一おんなじ、ちょうど昨日の話で今日、あらためてその甥御様に送る間にあった、ということで、研賃とぎちんには多かろうが、一杯飲んでくれと、こういうのじゃ。
 頂きます頂きます、飲代のみしろになら百両でも御辞退つかまつりまする儀ではござりませぬと、さあ飲んだ、飲んだ、昨夜ゆうべ一晩。
 ウイか何かでなあ五助さん、考えて見ると成程な、その大家の旦那がすっかり改心をなされた、こりゃ至極じゃて。
 お連合つれあいの今の後室が、忘れずに、大事にかけてござらっしゃる、お心懸こころがけ天晴あっぱれなり、来歴づきでお宝物にされた鏡はまた錦の袋入。こいつもいわい。その研手とぎてわしをつかまえた差配さんも気に入ったり、研いだ作平もまず可いわ。立派な身分になんなすった甥御もし。いましめのためとうて、遣物にさっしゃる趣向も受けた。手間じゃない飲代にせいという文句も可しか、酒も可いが、五助さん。
 その発端になった、旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊女おいらんの身になって御覧ごろうじろ、またこのくらいよくない話はあるまい。
 まよいじゃ、迷は迷じゃが、自分の可愛い男の顔を、ほか婦人おんなに見せるのがいやさに、とてもとあきらめた処で、殺して死のうとまで思い詰めた、心はどうじゃい。
 それを考えれば酒も咽喉のどへは通らぬのを、いやそうでない。魂魄こんぱくこのとどまって、浄閑寺にお参詣まいりをするわしへの礼心、無縁の信女達の総代に麹町の宝物を稲荷町までお遣わしで、わしに一杯振舞うてくれる気、と、早や、手前勝手。飲みたいばかりの理窟をつけて、さて、あおるほどに、けるほどに、五助さん、どうだ。
 わしの顔色の悪いのは、おはばかりだけれど今日ばかりは貧乏のせいでない。三年目に一度という二日酔の上機嫌じゃ、ははは。」とさも快げに見えた。


     夕空

       十一

 時に五助は反故紙ほごがみしごいてすました剃刀かみそりぬぐいをかけたが、持直しててのひらへ。
 折から夕暮のそら暗く、筑波から出た雲が、早や屋根の上から大鷲おおわしくちばしのごとく田町の空を差覗さしのぞいて、一しきりはげしくなった往来ゆききの人の姿は、ただ黒い影が行違ゆきちがい、入乱るるばかりになった。
 この際一際ひときわ色の濃く、あざやかに見えたのは、屋根越に遠く見ゆる紅梅の花で、二上屋の寮の西向の硝子がらす窓へ、たらたらと流るるごとく、横雲の切目きれめからとばかりの間、夕陽が映じたのである。
 剃刀の刃は手許てもとの暗い中に、青光三寸、颯々さつさつと音をなして、骨をも切るよう皮をすべった。
「これだからな、自慢じゃあねえが悪くすると人ごろしの得物にならあ。ふむ、それが十九日か。」といって少しふさぐ。
「そこで久しぶりじゃ、わしもちっと冷える気味でこちらへ無沙汰ぶさたをしたで、また心ゆかしにくるわを一まわり、それから例のへ行って、どうせこけの下じゃあろうけれど、ぶッつかり放題、そのお嬢さんの墓と思って挨拶をして来ようと、ぶらぶら内を出て来たが。
 おきまりでおまいとこへお邪魔をすると、不思議な話じゃ。あとさきはよく分らいでも、十九日とばかりで聞く耳が立ったての。
 何じゃ知らぬが、日が違わぬから、こりゃものじゃ。
 五助さん、おまいの許にもそういうかかりあいがあるのなら、悪いことはわぬ、お題目を唱えて進ぜなせえ。
 つい話で遅くなった。やっとこさと、今日はもう箕の輪へだけ廻るとしよう。」と謂うだけのことを謂って、作平は早や腰をそうとする。
 トタンにがらがらと腕車くるまが一台、目の前へあらわれて、人通ひとどおりの中をいて通る時、地響じひびきがして土間ぐるみ五助のたいはぶるぶると胴震どうぶるい
「ほう、」といって、俯向うつむいていたぼんやりの顔を上げると、目金をはずして、
「作平さん、お前はうらみだぜ、そうでなくッてさえ、今日はおきまりのお客様が無けりゃいが、と朝から父親おやじの精進日ぐらいな気がしているから、有体ありていの処腹のうちじゃお題目だ。
 唱えて進ぜなせえは聞えたけれど、おめえ言種いいぐさに事を欠いて、わしとこをかかりあいは、おおきに打てらあ。いや、もうてっきり疑いなし、毛頭違いなし、お旗本のお嬢さん、どうしてたまるものか。話のようじゃあ念が残らねえでよ、七代まではたたります、むむ祟るとも。
 串戯じょうだんじゃあねえ、どの道何かうらみのある遊女おいらんの幽霊とは思ったけれど、何楼どこの何だかつかまえどこのねえ内はまだしも気休め。そう日が合って剃刀があって、当りがついちゃあかなわねえ。
 そうしておめえ咽喉のどを突いたんだっていったじゃあねえか。」
「これから、これへ、」と作平はあかじみた細いしわだらけの咽喉仏のどぼとけ露出むきだして、握拳にぎりこぶしで仕方を見せる。
 五助も我知らず、ばくりと口をいて、
「ああ、ああ、さぞ、血が出たろうな、血が、」
「そりゃ出たろうとも、たらたらたら、」と胸へ真直まっすぐに棒を引く。
「うう、そして真赤まっかか。」
「黒味がちじゃ、まぐろわたのようなのが、たらたらたら。」
しねえ、何だなおめえ、それから口惜くやしいッて歯をんで、」
怨死うらみじにじゃの。こう髪をくわえての、すごいような美しい遊女おいらんじゃとの、こわいほど品のいのが、それが、お前こう。」と口をゆがめる。
「おお、おお、苦しいから白魚しらおのような手をつかみ、足をぶるぶる。」と五助は自分で身悶みもだえして、
「そしておめえ死骸しがいを見たのか。」
「何を謂わっしゃる、わしは話を聞いただけじゃ。遊女おいらんの名も知りはせぬが。」
 五助は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはってホッと呼吸いき
「何の事だ、まあ、おどかしなさんない。」

       十二

 作平も苦笑い、
「だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。」
「目に見えるようだ。」
わしもやっぱり。」
「見えるか、ええ?」
「まずの。」
「何もそう幽霊に親類があるように落着いていてくれるこたあねえ、これが同一おなじでも、おばさんに雪責にされて死んだとでもいう脆弱かよわ遊女おいらんのなら、五助も男だ。こうまでは驚かねえが、旗本のお嬢さんで、手が利いて、中間ちゅうげんを一人もんどり打たせたと聞いちゃあ身動きがならねえ。
 作平さん、こうなりゃおめえ対手あいてだ、放しッこはねえぜ。
 一升買うから、後生だからお前今夜は泊りこみで、炬燵こたつで附合ってくんねえ。一体ならお勝さんが休もうという日なんだけれど、限って出てしまったのも容易でねえ。
 そうかといって、宿場で厄介になろうという年紀としじゃあなし、無茶にくるわへ入るかい、かえって敵に生捉いけどられるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈心だからたまるめえじゃねえか、恐しい。名代みょうだい部屋の天井から忽然こつねんとして剃刀が天降あまくだります、生命いのちにかかわるからの。よ、隣のは筋がいぜ、はんぺんの煮込を御厄介になって、別に厚切なまぐろを取っておかあ、船頭、馬士うまかただ、お前とまた昔話でもはじめるから、」と目金に恥じずしょげたりけり。
 作平が悦喜えっきななめならず、嬉涙うれしなみだより真先まっさきに水鼻をすすって、
「話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお輿みこしを据えては例のお花主とくいに相済まぬて。」
「それを言うなというに。無縁塚をお花主とくいだなぞと、とかく魔の物を知己ちかづきにするから悪いや、で、どうする。」
「もう遅いから廓まわりは見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。」
「むむ、それもそうさの。わっしも信心をすみが、おめえもよく拝んで御免こうむって来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一はしりいぜ。とてもひとりじゃ遣切やりきれねえ、荷物はたしかに預ったい。」
「何かわしうめ乾物ひものなど見付けて提げて来よう、待っていさっせえ。」と作平はてくてく出かけて、
「こんなに人通ひとどおりがあるじゃないかい。」
「うんや、ここいらを歩行あるくのに怨霊おんりょう得脱とくだつさせそうな頼母たのもしい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨がむようだ。」
 作平は空を仰いで、
「すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは、」
 五助あわただしく。
「白いものか、禁物々々。」


     点灯頃

       十三

「はい、はい、はい、誰方どなただい。」
 作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目のくさきも薄暗いが、さて見廻すと居廻いまわりはなおのことで、もう点灯頃ひともしごろ
 物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもよりはや洋燈ランプをと思う処へ、大音寺前の方からさかん曳込ひきこんで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、轟々ごうごうという音に、地鳴じなりまじえて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に気勢けはいがあった。
 五助はわざと大声で、
「お勝さんかね、……何だ、隣か、」と投げるようにつぶやいたが、
「あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。」
 耳をすまして、
「畜生、この間もあので驚かしゃあがった、尨犬むくいぬめ、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ黙然だんまりで、蒲団ふとん引被ひっかぶるとトントンだ、誰方だね、だんまりか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう戸外おもてから廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか臆病おくびょうづらを下げて、きまりの悪いおもいをしたか知れやしねえ、畜生め、ひとが臆病だと思いやあがって、」とちゅうぱらでずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、かめばい
 じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついてにじあがると、くだんの障子をそっと開けたが、早や次の間は真暗まっくらがり。足をずらしてつかつかと出ても、れて畳のやぶれにもつっかからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手をのばすとそのまま取れる柄杓ひしゃくだから、並々と一杯、突然いきなり天窓あたまからぶっかぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに婦人おんな、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、
「畜生!」といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。
 首を出して※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすと、がさともせぬ裏の塵塚ちりづか、そこへ潜ってげたのでもない。彼方あなたは黒塀がひしひしと、はるかに一ならび、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、しんとして三味線さみせんもしない。ただ遥にくういて、雲のその真黒まっくろな中に、暗緑色のともしびの陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突立つったったようなのは、二上屋の常燈である。
 五助は半身水口から突出して立っていたが、しきりうしろ見らるるような気がしてたまらず、柄杓をぴっしゃり。
「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりをすかすと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸外おもての人どおり。
 やがてもとの仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。
「おや、変だぜ。」
 五助は片膝立て、中腰になり、四ツにいなどして掻探かいさぐり、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、
「はてな、先刻さっきああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」
 正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮のむすめお若の剃刀かみそりを、どこへか置忘れてしまったのであった。
懐中ふところへは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。
 しばらくして、
「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処をすそにして、扱帯しごきの上あたりでつまを取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉のあざやかな鼻筋の通った、真白まっしろな頬にびんの毛の乱れたのまで、判然はっきりと見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨居かもいにもつかえそうなのが、じっと此方こなたを見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。
「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、ししつき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けたあおざめたてのひらに、毒蛇のうろこの輝くような一ちょうの剃刀を挟んでいて、
「これでしょう、」
 五助はがッと耳がなった、頭に響く声もかすかに、山あり川あり野の末に、糸より細く聞ゆるごとく、
「不浄けの別火だとさ、ほほほほほ、」
 わずかに解いた唇に、艶々つやつや鉄漿かねを含んでいる、幻はかえって目前まのあたり
「わッ」というと真俯向まうつむき、五助は人心地あることか。
「横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しにくるわが見えるぜ。」
とこの際戸外おもて暢気のんきなもの。
「や! 雪だ、雪だ。」とよばわったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、とどッとばかりになだれて通る。


     雪の門

       十四

 宵に一旦いったんちらちらと降ったのは、垣の結目ゆいめ、板戸の端、ひさし往来ゆききの人の頬、びんの毛、帽子のつばなどに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木のこずえも、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、煙草たばこ屋の店のともしび、おでんの行燈あんどう、車夫の提灯かんばん、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれがむらがって、真白まっしろ灯取虫ひとりむしがばたばた羽をあてる風情であった。
 やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄駒下駄こまげたあとも、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかにくぼみを残すのみ、車のわだち遥々はるばると長き一条の名残なごりとなった。
 おうおうと遠近おちこち呼交よびかわす人声も早や聞えず、辻にたたずんで半身に雪をかぶりながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒くあらわれた巡査の姿、研屋とぎやの店から八九間さきなる軒下に引込ひっこんで、三島神社のあたりから大音寺前のとおり、田町にかけてただ一白。
 折からさっと渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の上面うわづらでてあたかもふるいをかけたよう、一様にたいらにならして、人の歩行あるいた路ともなく、夜の色さえうずみ消したが、見る見る垣をわたり、軒を吹き、廂をかすめ、梢を鳴らし、一陣たちまち虚蒼あそぞらに拡がって、ざっという音はげしく、丸雪は小雪を誘って、八方十面降り乱れて、静々しずしずと落ちて来た。
 紅梅の咲く頃なれば、かくまでの雪のさまも、あさひとともに霜より果敢はかなく消えるのであろうけれど、丑満うしみつ頃おいはみやこのしかも如月きさらぎの末にあるべき現象とも覚えぬまでなり。何物かこれ、この大都会を襲って、紛々皚々がいがいの陣を敷くとあやまたるる。
 さればこそ、高く竜燈のあらわれたよう二上屋の棟にあおき光の流るるあたり、よし原の電燈のかすかに映ずる空をめて、きれぎれにゆる三絃の糸につれて、高笑たかわらいをする女の声の、さかしまに田町へ崩るるのも、あたかもこの土の色の変った機に乗じて、くう外道変化げどうへんげささやきかと物凄ものすごい。
 十二時くに過ぎて、一時前後、雪も風も最も烈しい頃であった。
 吹雪の下に沈める声して、お若が寮なる紅梅のかどしずか音信おとずれた者がある。
 トン、トン、トン、トン。
「はい、今開けます、唯今ただいま、々々、」と内では、うつらうつらとでもしていたらしい、眠けまじりのやや周章あわてた声して、上框あがりがまちから手をのばした様子で、掛金をがッちり。
 その時戸外おもてに立ったのが、
「お待ちなさい、貴方あなたはおうちの方なんですか。」と、ものありげに言ったのであるが、何の気もつかない風で、
「はい、あの、杉でございます。」と、あたかもその眠っていたのを、詫びるがごとき口吻くちぶりである。
 そのになお声をかけて、
「宜いんですか、開けても、夜がふけております。」
「へい、……、」ちと変ったいいぐさをこの時はじめて気にしたらしく、杉というのは、そのままじっとして手を控えた。
 小留おやみのない雪は、軒の下ともいわず浴びせかけてふりしきれば、男の姿はありとも見えずに、風はますます吹きすさぶ。

       十五

「杉、じいやかい。」とこの時に奥のかたから、風こそすさべ、雪のは天地を沈めてしずかに更けく、畳にはらはらとなまめく跫音あしおと
 端近はしぢかになったがいとわかすずしき声で、
「辻が帰っておいでかい。」
「あれ、」と低声こごえ年増としまが制して、かどなるかたはばか気勢けはい
かったら開けて下さい、こっちにお知己ちかづきの者じゃあないんです、」
「…………」
「この突当つきあたりうちで聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。」
「はい、あの誰方どなた様で、」
「いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。」
「お開けよ。」
「…………」
「こっちへさあ。いわ、」
 ここにおいて、
「まあ、お入りなさいまし。」と半ばおさえていた格子戸をがらりと開けた。かまちにさし置いた洋燈ランプの光は、ほのぼのと一筋、戸口から雪の中。
 同時に身を開いて一足あとへ、体を斜めにする外套がいとうた人の姿を映して、あまりあかりは、左手ゆんでなる前庭を仕切った袖垣を白く描き、枝をまじえた紅梅にうつッて、間近なるはそのくれないつぼみてらした。
 けれども、その最もよく明かに且つ美しく照したのは、雪の風情でなく、花の色でなく、お杉がさした本斑布ほんばらふくしでもない。濃いお納戸地に柳立枠やなぎたてわくの、小紋縮緬こもんちりめんの羽織を着て、下着は知らず、黒繻子くろじゅすの襟をかけたしま縮緬の着物という、寮のお若が派手姿と、障子に片手をかけながら、身をそむけて立った脇あけをこぼるる襦袢じゅばんと、指に輝く指環ゆびわとであった。
 部屋ばたらきのお杉は円髷まるまげかしらを下げ、
「どうぞ、貴下あなた、」
「それでは、」と身を進めて、さすがに堪え難うしてか、飛込むいきおい中折なかおれの帽子を目深まぶかに、洋服の上へ着込んだ外套の色の、黒いがちらちらとするばかり、しッくい叩きの土間も、研出とぎだしたような沓脱石くつぬぎいしも、一面に雪紛々。
「大変でございますこと、」とお杉が思わず、さもいたわるように言ったのを聞くと、ほっとする呼吸いきをついて、
「ああ、乱暴だ。失礼。」と身震みぶるいして、とんとんと軽く靴を踏み、中折を取ると柔かに乱れかかる額髪を払って、色の白い耳のあたりをぬぐったが、年紀としのころ二十三四、眉のあざやかな目附に品のある美少年。殊にものいいの判然はっきりとしてなまりのないのはあきらかにその品性を語り得た。お杉は一目見ると、直ちにかねて信心の成田様の御左おんひだり矜羯羅童子こんがらどうじを夢枕に見るような心になり、
「さぞまあ、ねえ、どうもまあ、」とばかり見惚みとれていたのが、あわただしく心付いて、庭下駄をひっかけると客の背後うしろ入交いれかわって、吹雪込むかどの戸を二重ふたえながら手早くさした。
「直ぐにおいとまを。」
「それでも吹込みまして大変でございますもの。」
 と見るとお若が、手を障子にかけて先刻さっきから立ったままぼんやり身動みうごきもしないでいる。
「お若さん、御挨拶をなさいましなね、」
 お若は莞爾にっこりして何にも言わず、突然いきなり手をつかえて、ばッたりしおれ伏すがごとく坐ったが、透通るような耳許みみもとさっくれない
 髷の根がゆらゆらと、身をむばかりさも他愛なさそうに笑ったと思うと、フイと立ってばたばたと見えなくなった。
 客は手持無沙汰てもちぶさた、お杉もすべを心得ず。とばかりありて、次の襖越ふすまごしに、勿体らしいすましたものいい。
「杉や、長火鉢の処じゃあ失礼かい。」

       十六

「いいえ、貴下あなた失礼でございますが、別にお座敷へ何いたしますと、寒うございますから。そしてこれをお羽織んなさいまし、気味が悪いことはございません、仕立したてましたばかりでございます。」と裏返しか、新調か、知らず筋糸のついたままなる、結城ゆうき棒縞ぼうじまねん半纏ばんてんせられるのを、
「何、そんな、」とかえって剪賊おいはぎに出逢ったように、肩をねじるほどなおすべりのい花色裏。雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで傷々いたいたしい、うしろから苦もなくすらりとかぶせたので、洋服の上にこの広袖どてらで、長火鉢の前に胡坐あぐらしたが、大黒屋惣六そうろくなるもの、S. DAIKOKUYA という風情である。
「どうしてこんな晩に、遊女おいらんがお帰しなすったんですねえ、ひどいッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうもとんでもない、火をお吹きなすっちゃあ不可いけません、飛でもない。」
 と什麼そもさんこうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥のくちばしにでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉をひそめて、すまして、雪のような頬を火鉢のふちにおしつけながら、
「消炭を取っておいで、」
唯今ただいま何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少姐ねえさんのお部屋でついお心易立こころやすだてにお炬燵こたを拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、」
「つい眠くなったじゃあないか、」とお若は莞爾にっこりする。
「それでも今夜のように、ふらふら睡気ねむけのさすったらないのでございますもの。」
「おきまりだわ。」
可哀相かわいそうに、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、うつつでございましたの。」
「私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方がうございますわ。構やしません、そんな遊女おいらんは一晩の内に凍砂糖こおりざとうになってしまいます。」と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人をくるわなる母屋の客と思込んだものであろう。
「私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。」
「お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、」
「別に隠しなんぞするものか。
 しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気がとがめたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりやわたりに舟なんで、どうも凍えそうでたまらなかった。」
 と語るに、ものもいいにくそうな初心な風采ふうさい、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔をみまもりながら、
「そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くおかんをつけましょうか。」
めしあがるかしら、」とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。
「どうして、酒と聞くと身震みぶるいがするんだ、どうも、」
 と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、彼方かなたに目の覚めるようなお若の姿とをきっと見ながら、あかる洋燈ランプと、今青いを上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、
「私を変だと思うでしょう。」

       十七

「自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もういんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?」
「はい、さようでございます。」とお若はあでやかに打微笑うちほほえむ。
「ええと、ここを出て突当りにうちがありますね、そこを通って左へくと、こう坂になっていましょうか、そう、そこからじきに大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、」とお若の方に向直った。
「姉さんに届けるものがあるんです、」といいながらお杉に向い、
「確かくるわへ入ろうという土手の手前に、こっちからくと坂が一ツ。」
 打頷うちうなずけば頷いて、
「もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、腕車くるまつかえたのでやっと目が覚めたんだ。」
 この日脇屋欽之助わさやきんのすけ独逸行ドイツゆきを送る宴会があった。
「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の目的めあてにされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。
 もっとも待たしておくはずの腕車はあったんだけれども、一体内はの方、あれから下谷したやへ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする発奮はずみに、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。」
「まあ、お危うございます、」
「ちっと擦剥すりむいた位、怪我けがも何もしないけれども。
 それだもんだから、辻車に飛乗とびのりをして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。
 お話のその土手へあがろうという坂だ。しっくりつかえたから、はじめて気がついてね、見ると驚いたろうじゃあないか。いつの間にか四辺あたり真白まっしろだし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空をくぎって電燈が映ってるし、今度こうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。
 それで、御本人はまさしく日本の腕車くるまに乗ってさ、笑っちゃあ不可いけない車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った泥除どろよけをおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、御串戯ごじょうだんもんだ、と言うんです。
 四ツ谷へ帰るんだッてね、少しれ込むと、まあうがすッさ、お聞きよ。
 馬鹿にしちゃかん、と言って、間違まちがい原因もとを尋ねたら、何も朋友ともだち引張ひっぱって来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああってくれ、といって乗ったそうだ。
 遣ってくれと言うから、なかいて来たのに不思議はありますまいとすましたもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いからうちまで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。
 頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂をあがって四ツ谷くんだりまでこの雪にかれるもんじゃあない。
 箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと河岸かしの方とかで泊りこみという寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、突然いきなり靴だから飛び下りたさ。」


     二人使者

       十八

 欽之助は茶一碗、霊水かたちみずのごとくぐっと干して、
「お恥かしいわけだけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分らない。芳原はそこに見えるというのに、車一台なし、人ッ子も通らない。聞くものはなし、一体何時頃か知らんと、時計を出そうとすると、おかしい、られたのか、落したのか、鎖ぐるみなくなっている。時間さえ分らなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。
 心細いッたらないのだもの、おまけに目もあてられない吹雪と来て、酔覚えいざめじゃあり、寒さは寒し、四ツ谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて迷児まいごになったんだから、こりゃ自分の身体からだはどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、こわくなったんです。
 ただ車夫くるまやに間違えられたばかりなら、雪だっても今帷子かたびらを着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。
 気になるのは、昼間腕車くるまが壊れていましょう、それに、伊予紋で座がきまって、杯の遣取やりとりが二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。
 あかりがついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭のあゆみを越して玄関へ出て見ると、叔母のうちに世話になって、従妹いとこ書物ほんなんか教えている婦人が来て立っていました。
 先刻さっき奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もうお出かけになりましたあとだそうです。お約束のものが昨日きのう出来上って参りましたものですから、それを貴下あなたにお贈り申したいとおっしゃって、お持ちなすったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなすって、あののことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうでもない、お朋達ともだちにおつき合で、ほかならばいが、芳原へでもくと危い。お出かけさきへ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。
 何でも広徳寺前あたりに居る、名人の研屋とぎやが研ぎましたそうでございますからッてね、紫の袱紗包ふくさづつみから、にしきの袋に入った、八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡すだろうじゃありませんか。」と少年は一呼吸いきついた。お若と女中は、耳も放さず目も放さず。
「鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこのくるわで道楽をして、命にも障る処を、そのおかげで人らしくなったッてね。
 私も決して良い処とは思わないけれども、大抵様子は分ってるが、叔母さんと来た日にゃあ、若い者が芳原へ入れば、そこで生命いのちがなくなるとばかり信じてるんだ。
 その人に甘やかされて、子のようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は知っていても廓は恐しい処とばかり思ってるし、叔母の気象も知ってるんだけれども、どうです、いやしくも飲もうといって、わかい豪傑が手放てばなしで揃ってる、しかもえんなのが、まわりをちらちらする処で、御意見の鏡とは何事だ。
 そうして懐へ入れて持って帰れと来た日にゃあ、私は人魂ひとだまおッつけられたように気が滅入めいった。
 しかもお使番が女教師の、おまけに大の基督教キリストきょう信者と来ては助からんねえ。」
 打微笑うちほほえみ、
「相済まんがどうぞうちの方へお届けを、といって平にあやまると、使つかいの婦人が、私も主義は違っております。かようなものは信じませんが、貴君あなたしんから思召していらっしゃる方の志は通すもんです。私もその御深切を感じて、喜んで参りました位です、こういうお使は生れてからはじめてです、とった。こりゃ誰だって、全くそう。」

       十九

「しかし土手下で雪に道を遮られて帰るみちさえ分らなくなった時思出して、ああ、あれを頂いて持っていたら、こんな出来事が無かったのかも知れない。考えて見ればいくら叔母だって、わざわざ伊予紋まで鏡をもたして寄越よこすってことは容易でない。それを持して寄越したのも何かの前兆、私が受取らないで女の先生を帰したのも、腕車くるまこわれたのも、車夫に間違えられたのも、来ようはずのない、芳原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、ぞっとしたんだね。
 もっとも、その時だって、天窓あたまからけなして受けなかったのじゃあない、懐へでも入れば受取ったんだけれども、」
 我が胸のあたりをさしのぞくがごとくにして、
「こんな扮装いでたちだから困ったろうじゃありませんか。
 叔母には受取ったということに繕って、そっ貴女あなたから四ツ谷の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、わか夜会結やかいむすびのその先生は、不心服なようだッけ、それでは、腕車で直ぐ、お宅の方へ、と謂って帰っちまったんですよ。
 あとは大飲おおのみ
 何しろ土手下で目が覚めたという始末なんですから。
 それからね。
 何でも来た方へさえ引返ひっかえせば芳原へ入るだけの憂慮きづかいは無いと思って、とぼとぼって来ると向い風で。
 右手に大溝おおどぶがあって、雪をかついで小家こいえが並んで、そして三階づくりの大建物の裏と見えて、ぼんやりあかりのついてるのが見えてね、刎橋はねばしが幾つも幾つも、まるでの花おどしよろいの袖を、こう、」
 借着の半纏はんてんたもとを引いて。
「裏返したようにどぶを前にして家の屋根より高く引上げてあったんだ。」
 それも物珍しいから、むやむやの胸の中にも、傍見わきみがてら、二ツ三ツ四ツ五足に一ツくらいを数えながら、靴も沈むばかり積った路を、一足々々踏分けて、欽之助が田町の方へ向って来ると、鉄漿溝おはぐろどぶが折曲って、切れようという処に、一ツだけ、その溝の色を白く裁切たちきって刎橋のかかったままのがあった。
「そこの処に婦人おんなが一にん立ってました、や、路を聞こう、声を懸けようと思う時、
 近づく人に白鷺しらさぎの驚き立つよう。
 前途ゆくてへすたすたと歩行あるき出したので、何だか気がさしてこっちでも立停たちどまると、はげしく雪の降り来る中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ引返ひっかえして来て、またするすると向うへ走る。
 続いて歩行あるき出すと、向直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立停るという工合、それが三度目には擦違って、婦人おんなは刎橋の処で。
 私は歩行あるき越して入違いに、今度は振返って見るようになったんだ。
 そうするとその婦人おんながこうたたずんだきり、うつむいて、さも思案に暮れたという風、しょんぼりとしてあわれさったらなかったから。
 私は二足ばかり引返ひっかえした。
 何か一人では仕兼ねるようなことがあるのであろう、そんな時には差支えのない人に、力になって欲しかろう。自分を見てげないものなら、どんな秘密を持っていようと、声をかけて、構うまいと思ってね。
 実は何、こっちだって味方がほしい。またどんな都合で腕車の相談が出来ないものでも無いとも考えたから。
 お前さんどうしたんですッて。」
「まあ、御深切に、」と、話に聞惚ききとれたお若は、不意に口へ出した、心の声。
そばへ寄って見ると、案の定、跣足はだしで居る、実に乱次しどけない風で、長襦袢ながじゅばん扱帯しごきをしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が判然はっきり見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、勤人つとめにんだ。
 脊の高いね、恐しいほど品の遊女おいらんだったッけ。」

       二十

「その婦人おんなに頼まれたんです。姉さん、」と謂いかけて、美しい顔をまともにきっむすめに向けた。
 お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、大呼吸おおいきをつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。
「誰?」
「へい。」と、ただまじまじする。
「姉さんに、その遊女おいらんが今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、同一おなじ御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、朋友ともだちにも知れてはならず、新造しんぞなどにさとられては大変なので、昼からを見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
 ちょうど今夜は、内証ないしょに大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも寐込ねこんだのをしおにぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ遠退とおのいた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。
 寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえばじきに知れますが、あれ、あんなに犬がえて、どうすることもならないから、生命いのちを助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
 何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬくるわのこと、一大事ででもあるようだから、じかにことづかった品物があるんです。
 ただ渡せばいか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。
 その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、帰路かえりみちもそこだというもの。そのまま別れてって来ると、先刻さっき尋ねました、路地の突当りになるとおりの内に、一軒あかりの見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その婦人おんながまだ立っていて、こっちへゆびさしをしたように見えたけれども、朧気おぼろげでよくは分らないから、一番ひとつ、そのあかりさいわい
 路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、じじいの声で教えてくれた。
 何、一々くわしいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、このあかるあかりを見ると、何だか雪路ゆきみちのことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に婦人おんなばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。
 そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、」といって、無造作にひじを張って、左の胸に高く取った衣兜かくしの中へ手を入れた。――
 固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口をからめながら、少し仰向いて、考えるらしくすずのような目を細め、
「何だろうねえ、杉や。」
「さようでございます、」とばかり一大事の、生命いのちがけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客のことばを疑う色は無かったのである。
「待って下さい、」とこの時、また右の方の衣兜かくしを探って、小首を傾け、
「はてな、じゃあ外套がいとうの方だった、」と片膝立てたので。
 杉、
「私が。」
「確か左の衣兜へ、」
 と差俯さしうつむいた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのをいとわず、大切に抱くようにして持って来た。
 敷居の上へななめに拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、ぞっとしたよう。

       二十一

うございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。」
 探しあぐんで、外套を押遣おしやって、ちと慌てたように広袖どてらを脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえてしおれてじっと考えた時、お若は鷹揚おうようも意に介する処のないような、しかも情のこもった調子で、かえって慰めるようにった。
 お杉は心も心ならず、憂慮きづかわしげに少年のさまみまもりながら、さすがにこの際くちれかねていたのであった。
 此方こなたはますます当惑の色面おもてあらわれ、
いじゃアありません、かあない、可かあない、」
 と自ら我身をののしるごとく、
「落すなんて、そんな間のあるわけはないんだからねえ、頼んだ人は生命いのちにもかかわる。」と、早口にいってまた四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわした。
「一体どんなものでございます。」とお杉は少年に引添うて、かれかばうようにして言う。
「私もあらためちゃ見なかった、いいえ、実は見ようとも思わなかったような次第なんです。何でもこう紙につつんだ、細長いもので、受取った時少し重みがあったんだがね。」
 お若はちょいとうなずいて、
「杉、」
「ええ、」
「瀬川さんの……ね、あれさ、」と呑込のみこませる。
「ええ、成程、貴下あなた、それじゃあ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったんですよ、あの、お頼まれなすった遊女おいらんは、脊の高い、品の可い、そして淋しい顔色かおつきの、ああ煩っているもんだからてっきり、そう!」
 といきおいよくそれにした。
「今夜までに返すからと言ったにゃあ言いましたけれども、何、少姐ねえさんは返してもらうおつもりじゃございませんのに、やっと今こっちじゃあ思い出しました位ですもの。」
「何です、それは、」とやや顔の色を直して言った。口うらを聞けば金子かねらしい、それならばと思う今も衣兜の中なる、手尖てさきに触るるは袂落たもとおとし。修学のためにやがて独逸ドイツに赴かんとする脇屋欽之助は、叔母に今は世になき陸軍少将松島主税まつしまちからの令夫人を持って、ここになげうって差支えのない金員あり。もって、余りに頼効たのみがいなき虚気うつけの罪を、この佳人の前にあがない得て余りあるものとしたのである。
 問われてお杉は引取って、
「ちっとばかりお金子です。」
 欽之助は嬉しそうに、
「じゃあ私が償おう。いいえ、どうぞそうさしておくんなさい、大したことならば帰るまで待ってもらおうし、そんなでも無いならつかって可いのを持っているから。」と思込んで言った。
「飛んでもない、貴下あなた、」と杉。
 お若は知らぬ顔をして莞爾にっこりしている。
 此方こなたは熱心に、
「お願いだから、可いんだから、それでないと実に面目を失する。こうやって顔を合していても冷汗が出るほど、何だかきまりが悪いんだ、夜々中よるよなか見ず知らずが入込んで、どうも変だ。」
「あなた、可いんですよ、私お金子を持っています、何にも遣わないお小遣こづかい沢山たんとあるわ、銀のだの、貴下、紙幣さつのだの、」といいながら、窮屈そうに坐ってかしこまっていた勝色かちいろうらのつまを崩して、膝を横、投げ出したように玉のかいなを火鉢にかけて、ななめに欽之助のおもてを見た。姿もかたちも、世にまたかほどまでに打解けた、ものを隠さぬ人を信じた、美しい、しかもわだかまりのない言葉はあるまい。

     左の衣兜

       二十二

 意外な言葉に、少年はあきれたような目をしながら、今更顔がみまもられた、時に言うべからざる綺麗きれいおもい此方こなたの胸にも通じたので。
 しかも遠慮のない調子で、
「いずれおわびをする、あらためてお礼に来ましょうから、相済まんがどうぞ一番ひとつ腕車くるまの世話をしておくんなさい。こういうお宅だから帳場にお馴染なじみがあるでしょう、御近所ならば私が一所にいてくから、お前さん。」
 杉はむすめの方をちょいと見たが、
「あなた何時なんどきだとお思いなさいます。わたくしどもでは何でもありやしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。
 あれあのとおり、まだ戸外おもてはあんなでございますよ。」
 少年は降りしきる雪の気勢けはいを身に感じて、途中を思い出したかまたぞっとした様子。座にことばが途絶えると漂渺ひょうびょうたる雪の広野ひろのを隔てて、里あるかたに鳴くように、胸には描かれて、はるかに鶏の声が聞えるのである。
「お若さん、お泊め申しましょう、そして気を休めてからお帰りなさいまし。
 わたくしどもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。
 お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。
 御自分じゃちゃんとしておいで遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心がたしかじゃないようにお見受申します。
 お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車はこわれたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、おことづかり下さいましたものもせますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷くんだりまで、そりゃ十年おやといつけのようなたしかな若いものを二人でも三人でもおけ申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、みんなが御迷惑を少しずつ分けて頂いて、貴下あなたのお身体からだつつがのないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしったためしのございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。
 悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。
 そしてお若さんもお炬燵こたへ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞおあったかなもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、
 あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。」
「実はどういうんだか、今夜の雪は一片ひとつでも身体からだへ当るたびに、毒虫にさされるような気がするんです。」
 と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸にまとわれて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。
「ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さんうございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。」
 お杉大明神様と震えつく相談とおもいの外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、恍惚うっとりして眠そうである。
 はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、呆気あっけに取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、
「夜が明けるとすぐお帰んなさるんなら厭!」
「そうすりゃ、」と杉は勢込み、突然いきなり上着の衣兜かくしの口を、しっかりとつかまえて、
「こうして、お引留めなさいましな。」

       二十三

 寝衣ねまきに着換えさしたのであろう、その上衣と短胴服チョッキ、などを一かかえに、少し衣紋えもんの乱れた咽喉のどのあたりへおッつけて、胸にいだいて、時のやつれの見えるおとがいを深く、俯向うつむいた姿なりで、奥の方六畳のふすまを開けて、お若はしょんぼりして出て来た。
 襖の内には炬燵こたつすそ屏風びょうぶの端。
 うしろ片手でとあとをしめて、三畳ばかり暗い処で姿が消えたが、静々と、十畳の広室ひろまあらわれると、二室ふたま二重ふたえの襖、いずれも一枚開けたままで、玄関のわきなるそれも六畳、長火鉢にかんかんと、大形の台洋燈だいランプがついてるので、あかりは青畳の上をすべって、お若の冷たそうな、爪先つまさきが、そこにもちらちらと雪の散るよう、足袋は脱いでいた。
 このあかりがさしたので、お若は半身を暗がりに、少し伸上るようにしてすかして見ると、火鉢には真鍮しんちゅう大薬鑵おおやかんかかって、も一ツ小鍋こなべをかけたまま、お杉は行儀よく坐って、艶々つやつやしく結った円髷まるまげの、その斑布ばらふくしをまともに見せて、身動きもせずに仮睡いねむりをしている。
 差覗さしのぞいてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったり、抱えてたものを畳に落して、陰々として忍泣しのびなきの声がした。
 しばらくすると、そっとまたその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際なる衣桁いこうわたし
 お若は力なげに洋袴ずぼんをかけ、短胴服チョッキをかけて、それから上衣をひっかけたが、持ったまま手を放さず、じっと立って、再びそっ爪立つまだつようにして、を隔ってあたかも草双紙の挿絵を見るよう、きぬしまも見えて森閑と眠っている姿を覗くがごとくにして、立戻って、再三衣桁にかけた上衣の衣兜かくし
 しかもその左の方を、しっかと取ってお若は思わず、
「ああ、いやだっていうんだもの、」と絶入るように独言ひとりごとをした。あわれこうして、幾久しくちぎりめよと、杉が、こうして幾久しく契を籠めよと!
 お若は我を忘れたように、じっとおさえたまま身を震わして、しがみつくようにするトタンに、かちりと音して、爪先へひやりとあたり、総身に針を刺されたようにぞっと寒気を覚えたのを、と見ると一ちょう剃刀かみそりであった。
「まあ、こわいことねえ。」
 なお且つびっしょり濡れながらたもとの端に触れたのは、包んで五助がかたへあつらえた時のままなる、見覚えのある反故ほごである。
 お若はわなわなと身を震わしたが、左手ゆんでに取ってじっと見る間に、おもての色がさっと変った。
「わッ。」
 というと研屋とぎやの五助、わめいて、むッくとね起きる。炬燵の向うにころりとせ、貧乏徳利を枕にして寝そべっていた鏡研かがみとぎの作平、もやい蒲団ぶとん弾反はねかえされて寝惚声ねぼげごえで、
「何じゃい、騒々しい。」
 五助はきものはだけに大の字なり名残なごりを見せて、ひきがえるのような及腰およびごし、顔を突出して目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、障子越に紅梅屋敷のかたみつめながら、がたがたがたがた、
「大変だ、作平さん、大変だ、ひ、ひ、人殺し!」
「貧乏神が抜け出す前兆しらせか、恐しくおどされるの、しっかりさっししっかりさっし。」といいながら、余り血相のけたたましさに、捨ておかれずこれも起きる。枕頭まくらもとには大皿に刺身のつま、猪口ちょくやらはしやら乱暴で。
「いや、おめえしっかりしてくれ、大変だ、どうも恐しいたたりだぜ、一方ひとかたならねえ執念だ。」


     化粧の名残

       二十四

「とうとうおめえ、旗本の遊女おいらんれた男の血筋を、一人紅梅屋敷へ引込んだ、同一おなじ理窟で、お若さんが、さ、さ、先刻さっき取り上げられた剃刀かみそりでやっぱり、お前、とても身分違いでおもいかなわぬとッて、そ、その男を殺すというのだい。今行水をつかってら、」
「何をいわっしゃる、ははははは、風邪を引くぞ、うむ、夢じゃわ夢じゃわ。」
「はて、しかし夢か、」とぼんやりして腕を組んだが、
「待てよ、こうだによってと、誰か先刻さっきここの前へ来て二上屋の寮を聞いたものはねえか。」
「おお、」
 作平も膝を叩いた。
「そういやあある。おめえは酔っぱらってぐうぐうじゃ、何かまじまじとしてわしられん、一時いっとき半ばかり前に、恐しく風が吹いた中で、たしかに聞いた、しかもわかい男の声よ。」
「それだそれだ、まさしくそれだ、や、飛んだこッた。
 おめえ、何でも遊女おいらんに剃刀を授かって、お若さんが、殺してしまうと、身だしなみのためか、行水を、お前、行水ッて湯殿でお前、小桶こおけわきざましの薬鑵やかんの湯をちまけて、お前、惜気もなく、肌を脱ぐと、懐にあった剃刀をくわえたと思いねえ。硝子戸がらすどの外からのぞいてた、わしが方を仰向あおむいての、仰向くとその拍子に、がッくり抜けた島田の根を、邪慳じゃけんひっつかんだ、顔色かおつきッたら、先刻さっき見た幽霊にそッくりだあ、きゃあッともいおうじゃあねえか、だからお前、はやく行って留めねえと。」
「そして男を殺すとでもいうたかい、」
「いや、わしが夢はおめえの夢、ええ、小じれッてえ。何でもお前が紅梅屋敷を教えたからだ。今思やうつつだろうか、晩方しかも今日研立とぎたての、お若さんの剃刀を取られたから、気になって、気になってたまるめえ。
 処へ夜が更けて、尋ねてくものがあるから、おかしいぜ、此奴こいつ贔屓ひいきの田之助に怪我でもあっちゃあならねえと、直ぐにあとをつけてくつもりだっけ、例の臆病おくびょうだから叶わねえ、不性ぶしょうをいうお前を、引張出ひっぱりだして、夢にも二人づれよ。」
「やれやれ御苦労千万。」
「それから戸外おもてへ出ると雪はもうんでいた、寮の前へくとひっそりかんよ。人騒せなと、思ったけれど、あやまる分と、声をかけて、戸を叩いたけれど返事がねえ。
 いよいよ変だと思うから大声でわめいてドンドンやったが、成るほど夢か。叩くと音がしねえ、思うように声が出ねえ。我ながら向う河岸の渡船わたしぶねを呼んでるようだから、構わず開けて入ろうとしたが掛金がっちりだ。
 どこかく処があるめえかと、ぐるぐる寮の周囲まわりを廻る内に、湯殿の窓へあかりがさすわ。
 はて変だわえ、今時分と、そこへ行ってのぞいた時、お若さんが寝乱れ姿で薬鑵を提げて出て来たあ。とまず安心をしてすごいように美しい顔を見ると、目を泣腫なきはらしています、ね。どうしたかと思う内に、鹿の子の見覚えあるしごき一ツ、背後うしろ縮緬ちりめんの羽織を引振ひっぷるって脱いでな、つまを取ってながしへ出て、その薬鑵の湯をちまけると、むっとこう霧のように湯気が立ったい、小棚から石鹸を出して手拭てぬぐい突込つっこんで、うつむけになって顔を洗うのだ。ぐらぐらとお前その時から島田の根がぬけていたろうじゃねえか。
 それですっぱりと顔をいてよ、そこでまた一安心をさせながら、何と、それから丸々ッちい両肌を脱いだんだ、それだけでもぞっとするのに、考えて見りゃちっと変だけれど、胸の処に剃刀が、それがおめえ
(五助さん、これでしょう、)と晩方遊女おいらんった図にそっくりだ。はっと思うトタンに背向うしろむきになって仰向けに、そうよ、上口あがりぐちの方にかかった、姿見を見た。すると髪がざらざらと崩れたというもんだ、姿見に映った顔だぜ、その顔がまた遊女おいらんそのままだから、キャッといったい。」

       二十五

 されば五助が夢に見たのは、欽之助が不思議の因縁で、雪のに、お若が紅梅の寮に宿ったについての、くわしい順序ではなく、遊女の霊が、見棄てられたその恋人の血筋の者を、二上屋のむすめに殺させると叫んだのも、覚際さめぎわにフト刺戟された想像にとどまったのであるが、しかしそれは不幸にも事実であった。宵におびやかされた名残なごりとばかり、さまでには思わなかった作平も、まさしくわかい声の男に、寮の道を教えたので、すてもおかず、ともかくもと大急ぎで、出掛ける拍子に、棒を小腋こわきに引きそばめた臆病おくびょうものの可笑おかしさよ。
 戸外おもてへ出ると、もう先刻さっきから雪の降る底に雲の行交ゆきかう中に、薄く隠れ、鮮かにあらわれていたのがすっかり月のに変った。火の番の最後の鉄棒かなぼう遠く響いてくるわの春の有明なり。
 出合頭であいがしらに人が一人通ったので、やにわに棒を突立てたけれども、何、それは怪しいものにあらず、
「お早うがすな。」とすまして土手の方へ行った。
 積んだたきぎの小口さえ、雪まじりに見える角の炭屋の路地を入ると、かすかにそれかと思う足あとが、心ばかり飛々とびとびくぼんでいるので、まず顔を見合せながら進んで門口かどぐちくと、内はしんとしていた。
 これさえ夢のごときに、胸をとどろかせながら、試みに叩いたが、小塚原こつかッぱらあたりでは狐の声とや怪しまんと思わるるまで、如月きさらぎの雪の残月に、カンカンと響いたけれども、返事がない。
 猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中をくぐると、向うにきらきら水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思うと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄くおよそ人の脊丈ばかり湯気が立っていた。
 これにぎょッとして五助、作平、湯殿の下へ駆けつけた時はもうあえいでいた。逡巡しりごみをする五助に入交いれかわって作平、突然いきなり手を懸けると、が忘れたか戸締とじまりがないので、硝子窓がらすまどをあけてまたいで入ると、雪あかりの上、月がさすので、明かに見えた真鍮しんちゆうの大薬鑵。ふたと別々になって、うつむけにひっくりかえって、濡手拭ぬれてぬぐいおけの中、湯は沢山にはなかったと思われ、乾き切って霜のようなながしが、網を投げた形にびっしょりであった。
 上口から躍込むと、あしのあとが、板の間の濡れたのを踏んで、肝を冷しながら、あかり目的めあてに駆けつけると、洋燈ランプは少し暗くしてあったが、お杉は端然ちゃんと坐ったまま、そのまげ、そのくし、その姿で、小鍋をかけたまま凍ったもののごとし。
 ただいつの間にか、先刻さっき欽之助が脱いだままで置いて寝に行った、結城ゆうき半纏はんてんせかけてあった。とお杉はこれをいって今もさめざめと泣くのである。
 五助、作平は左右より、いらって二ツ三ツ背中をくらわすと、杉はアッといって、我に返ると同時に、
「おいらんが、遊女おいらんが、」と切なそうにいった。
 半纏はお若が心優しく、いまわの際にもいたわってその時かけて行ったのであろう。
 後にお杉はうつつながら、お若が目前まのあたりに湯を取りに来たことも、しかもまくり手して重そうに持って湯殿のかたへ行ったことも、知っていたが、これよりさき朦朧もうろうとして雪ぢらしの部屋着をた、品のい、脊の高い、見馴みなれぬ遊女おいらんが、寮の内を、あっちこっち、幾たびとなくお若の身に前後して、お杉が自分で立とうとすると、きっにらまれて身動きが出来ないのであったとう。
 とこういうべきいとまあらず、我にかえるとお杉もいたくお若の身を憂慮きづかっていたので、飛立つようにして三人奥のへ飛込んだが、ああ
 既に遅矣おそし、雪の姿も、紅梅も、狼藉ろうぜきとして韓紅からくれない
 狂気のごとくお杉が抱き上げた時、お若はまだ呼吸いきがあったが、血の滴る剃刀を握ったまま、
「済みませんね、済みませんね。」と二声いったばかり、これはただ皮を切った位であったけれども暁を待たず。
 男は深疵ふかでだったけれども気がたしかで、いまかけつけた者を見ると、
「お前方、助けておくれ、大事な体だ。」
 といったので、五助作平、腰を抜いた。
 この事実は、翌早朝、金杉の方から裏へ廻って、寮の木戸へつけて、同一おなじ枕に死骸を引取って行った馬車と共によく秘密が守られた。
 しかし馬車でのりつけたのは、昨夜ゆうべ伊予紋へ、少将の夫人の使つかいをした、たちばなという女教師と、一名の医学士であった。
 その診察に因って救うべからずと決した時、次のかしこまっていた、二上屋藤三郎すなわちお若の養父から捧げられたお若の遺書かきおきがある。
 橘は取って披見した後に、枕頭まくらもとに進んで、声を曇らせながら判然はっきりと読んで聞かせた。
 この意味は、人の想像とちっともたがわぬ。
 その時まで残念だ、と呼吸いきの下でいって、いい続けて、時々歯噛はがみをしていた少年は、耳をすまして、聞き果てると、しばらくうっとりして、早や死の色の宿ったる蒼白そうはくおもてやわらげながら、手真似てまねをすること三度ばかり。
 医学士がうなずいたので、橘が筆をあてがうと、わずかに枕をもたげ、天地べにの半きれに、薄墨のあわれ水茎のあと、にじりがきの端に、わかまいらせそろ[#「参らせ候」のくずし字、519-15]とある上へ、少し大きく、い手で脇屋欽之助つま、と記して安かに目をねむった。
 一座粛然。
 作平は啜泣すすりなきをしながら、
「おめでてえな。」
 五助が握拳にぎりこぶしを膝に置いて、
「お若さん、喜びねえ。」
明治三十四(一九〇一)年一月





底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
   1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年5月10日作成
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