三尊四天王十二童子十六
羅漢さては五百羅漢、までを胸中に
蔵めて
鉈小刀に彫り浮かべる腕前に、
運慶も
知らぬ
人は
讃歎すれども
鳥仏師知る身の心
耻かしく、
其道に志す
事深きにつけておのが
業の足らざるを恨み、
爰日本美術国に生れながら今の世に
飛騨の
工匠なしと
云わせん事残念なり、
珠運命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ
丈ケを尽してせめては我が
好の心に満足さすべく、
且は
石膏細工の鼻高き
唐人めに
下目で見られし
鬱憤の幾分を
晴らすべしと、
可愛や一向専念の誓を
嵯峨の
釈迦に
立し男、
齢は
何歳ぞ二十一の春
是より風は
嵐山の
霞をなぐって
腸断つ
俳諧師が、
蝶になれ/\と祈る落花のおもしろきをも
眺むる事なくて、見ぬ
天竺の何の花、彫りかけて永き日の
入相の鐘にかなしむ程
凝り
固っては、
白雨三条四条の
塵埃を洗って小石の
面はまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す
清水に、
瓜浸して食いつゝ
歯牙香と詩人の
洒落る川原の夕涼み快きをも
余所になし、
徒らに
垣をからみし夕顔の暮れ残るを見ながら
白檀の切り
屑蚊遣りに
焼きて是も余徳とあり
難かるこそおかしけれ。顔の色を林間の
紅葉に争いて酒に暖めらるゝ風流の仲間にも
入らず、
硝子越しの雪見に
昆布を
蒲団にしての湯豆腐を
粋がる徒党にも加わらねば、まして
島原祇園の
艶色には
横眼遣い
一トつせず、おのが手作りの弁天様に
涎流して余念なく
惚れ込み、
琴三味線のあじな
小歌は
聞もせねど、夢の
中には
緊那羅神の声を耳にするまでの熱心、あわれ
毘首竭摩の
魂魄も乗り移らでやあるべき。かくて
三年ばかり浮世を
驀直に渡り
行れければ、勤むるに追付く悪魔は無き道理、殊さら幼少より
備っての
稟賦、雪をまろめて
達摩を
作り大根を
斬りて
鷽の形を写しゝにさえ、
屡人を驚かせしに、修業の功を
積し上、
憤発の勇を加えしなれば
冴し腕は
愈々冴え鋭き
刀は
愈鋭く、七歳の
初発心二十四の暁に
成道して師匠も
是までなりと許すに珠運は
忽ち思い立ち
独身者の気楽さ親譲りの家財を売ってのけ、いざや奈良鎌倉日光に昔の
工匠が跡
訪わんと少し
許の道具を肩にし、
草鞋の
紐の結いなれで度々解くるを笑われながら、物のあわれも是よりぞ知る旅。
汽車もある世に、さりとては修業する身の痛ましや、
菅笠は街道の
埃に赤うなって
肌着に
風呂場の
虱を避け得ず、春の日永き
畷に疲れては
蝶うら/\と飛ぶに翼
羨ましく、秋の夜は
淋しき床に
寝覚めて、隣りの歯ぎしみに魂を驚かす。旅路のなさけなき事、風吹き
荒み熱砂顔にぶつかる時
眼を
閉ぎてあゆめば、
邪見の
喇叭気を
注けろがら/\の馬車に
胆ちゞみあがり、雨降り
切りては
新道のさくれ石足を
噛むに
生爪を
剥し悩むを
胴慾の車夫法外の
価を
貪り、
尚も並木で五割
酒銭は天下の法だとゆする、
仇もなさけも一日限りの、人情は薄き掛け
蒲団に
襟首さむく、
待遇は
冷な
平の
内に
蒟蒻黒し。
珠運素より
貧きには
馴れても、
加茂川の水柔らかなる所に
生長て
初て野越え山越えのつらきを覚えし
草枕、露に
湿りて心細き夢おぼつかなくも馴れし都の空を
遶るに無残や
郭公待もせぬ耳に眠りを切って
破れ
戸の
罅隙に、我は
顔の明星光りきらめくうら悲しさ、
或は柳散り
桐落て無常身に
染る野寺の鐘、つく/″\命は
森林を縫う稲妻のいと続き難き者と観ずるに
付ても志願を遂ぐる道遠しと
意馬に
鞭打ち励ましつ、
漸く東海道の
名刹古社に神像木仏
梁欄間の彫りまで
見巡りて鎌倉東京日光も見たり、是より最後の
楽は奈良じゃと急ぎ登り行く
碓氷峠の冬
最中、雪たけありて
裾寒き
浅間下ろしの
烈しきにめげず
臆せず、名に高き
和田塩尻を
藁沓の底に踏み
蹂り、
木曾路に入りて
日照山桟橋寝覚後になし
須原の
宿に
着にけり。
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名物に
甘き物ありて、
空腹に
須原のとろゝ汁殊の
外妙なるに
飯幾杯か滑り込ませたる
身体を
此尽寝さするも毒とは思えど
為る事なく、道中日記
注け
終いて、のつそつしながら
煤びたる
行燈の横手の
楽落を
読ば山梨県士族
山本勘介大江山退治の際一泊と
禿筆の
跡、さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての
御わざくれ、おかしき
計りかあわれに覚えて初対面から
膝をくずして語る
炬燵に
相宿の友もなき
珠運、
微なる
埋火に脚を

り、つくねんとして
櫓の上に首
投かけ、うつら/\となる所へ
此方をさして来る足音、しとやかなるは
踵に
亀裂きらせしさき程の下女にあらず。御免なされと
襖越しのやさしき声に胸ときめき、
為かけた
欠伸を半分
噛みて何とも知れぬ返辞をすれば、
唐紙する/\と開き
丁寧に
辞義して、冬の日の
木曾路嘸や
御疲に御座りましょうが御覧下され
是は当所の名誉
花漬今年の夏のあつさをも越して今降る雪の
真最中、色もあせずに
居りまする梅桃桜のあだくらべ、御意に入りましたら
蔭膳を
信濃へ
向けて人知らぬ寒さを知られし都の
御方へ
御土産にと心憎き
愛嬌言葉
商買の
艶とてなまめかしく売物に
香を添ゆる口のきゝぶりに利発あらわれ、
世馴れて渋らず、さりとて
軽佻にもなきとりなし、持ち
来りし
包静にひらきて二箱三箱差し
出す
手つきしおらしさに、花は
余所になりてうつゝなく
覗き込む
此方の
眼を避けて
背向くる顔、折から
透間洩る
風に
燈火動き明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。
我折れ
深山に
是は何物。
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見て面白き世の中に
聞て悲しき人の上あり。昔は
此京にして此
妓ありと評判は
八坂の塔より高く
其名は
音羽の滝より響きし
室香と
云える
芸子ありしが、さる程に
地主権現の花の色
盛者必衰の
理をのがれず、
梅岡何某と呼ばれし中国浪人のきりゝとして男らしきに
契を込め、浅からぬ中となりしより
他の恋をば
贔負にする客もなく、線香の煙り
絶々になるにつけても、よしやわざくれ身は朝顔のと短き命、
捨撥にしてからは恐ろしき者にいうなる
新徴組何の
怖い事なく
三筋取っても
一筋心に君さま大事と、時を
憚り世を忍ぶ男を
隠匿し半年あまり、苦労の中にも
助る神の結び
玉いし縁なれや嬉しき
情の
胤を宿して帯の祝い
芽出度舒びし
眉間に
忽ち
皺の
浪立て騒がしき
鳥羽伏見の戦争。さても
方様の憎い程な気強さ、
爰なり
丈夫の志を
遂ぐるはと
一ト
群の
同志を率いて官軍に加わらんとし玉うを
止むるにはあらねど
生死争う
修羅の
巷に
踏入りて、雲のあなたの
吾妻里、空寒き
奥州にまで帰る事は
云わずに
旅立玉う
離別には、
是を出世の
御発途と義理で
暁して
雄々しき
詞を、口に云わする心が
真情か、狭き女の胸に余りて案じ
過せば
潤む
眼の、涙が無理かと、
粋ほど迷う道多くて自分ながら思い分たず、うろ/\する
内日は
消て
愈
となり、
義経袴に
男山八幡の守りくけ込んで
愚なと
笑片頬に
叱られし
昨日の声はまだ耳に残るに、今、今の
御姿はもう一里先か、エヽせめては
一日路程も
見透したきを役
立ぬ此眼の腹
立しやと
門辺に伸び
上りての
甲斐なき
繰言それも
尤なりき。
一ト月過ぎ
二タ月
過ても
此恨綿々ろう/\として、
筑紫琴習う
隣家の
妓がうたう唱歌も我に引き
較べて絶ゆる事なく悲しきを、コロリン、チャンと
済して
貰い
度しと無慈悲の借金取めが朝に晩にの
掛合、返答も力
無や
男松を離れし
姫蔦の、
斯も世の風に
嬲らるゝ
者かと
俯きて、横眼に
交張りの、
袋戸に
広重が絵見ながら、
悔しいにつけゆかしさ忍ばれ、
方様早う帰って下されと
独言口を
洩るれば、
利足も払わず帰れとはよく云えた事と
吠付れ。アヽ大きな声して下さるな、あなたにも似合わぬと云いさして、
御腹には大事の/\
我子ではない顔見ぬ先からいとしゅうてならぬ
方様の
紀念、
唐土には胎教という事さえありてゆるがせならぬ者と
或夜の物語りに聞しに此ありさまの
口惜と
腸を断つ苦しさ。天女も
五衰ぞかし、
玳瑁の
櫛、真珠の
根掛いつか無くなりては
華鬘の美しかりける
俤とどまらず、身だしなみ
懶くて、光ると云われし
色艶屈托に曇り、好みの
衣裳数々彼に取られ
是に
易えては、着古しの
平常衣一つ、何の
焼かけの
霊香薫ずべきか、泣き寄りの
親身に一人の
弟は、有っても無きに
劣る
賭博好き酒好き、
落魄て相談相手になるべきならねば頼むは親切な
雇婆計り、あじきなく暮らす
中月
満て
産声美しく玉のような女の子、
辰と名
付られしはあの
花漬売りなりと、
是も昔は
伊勢参宮の
御利益に
粋という事覚えられしらしき宿屋の
親爺が物語に珠運も木像ならず、涙
掃って
其後を問えば、
御待なされ、話しの調子に乗って居る内、炉の火が
淋しゅうなりました。
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山家の
御馳走は
何処も豆腐
湯波干鮭計りなるが
今宵はあなたが
態々茶の間に
御出掛にて開化の若い方には珍らしく
此兀爺の話を
冒頭から
潰さずに
御聞なさるが快ければ、夜長の
折柄お
辰の物語を御馳走に
饒舌りましょう、残念なは去年ならばもう少し面白くあわれに申し
上て
軽薄な京の人イヤ
是は失礼、やさしい京の
御方の涙を
木曾に落さ
落させよう者を惜しい事には前歯一本欠けた
所から風が
洩れて此春以来
御文章を
読も下手になったと、
菩提所の
和尚様に
云われた程なれば、ウガチとかコガシとか申す者は
空抜にしてと断りながら、
青内寺煙草二三服
馬士張りの
煙管にてスパリ/\と
長閑に吸い無遠慮に
榾さし
焼べて舞い立つ灰の
雪袴に落ち
来るをぽんと
擲きつ、どうも私幼少から
読本を好きました
故か、
斯いう話を致しますると図に乗っておかしな調子になるそうで、
人我の
差別も分り憎くなると
孫共に毎度笑われまするが
御聞づらくも癖ならば癖ぞと
御免なされ。さてもそののち
室香はお辰を
可愛しと思うより、
情には鋭き女の勇気をふり起して昔取ったる
三味の
撥、再び握っても色里の往来して
白痴の大尽、
生な
通人めらが
間の
周旋、
浮れ車座のまわりをよくする油さし商売は
嫌なりと、
此度は
象牙を
柊に
易えて
児供を相手の
音曲指南、芸は
素より鍛錬を
積たり、
品行は
淫ならず、
且は
我子を育てんという気の
張あればおのずから弟子にも親切あつく良い
御師匠様と世に用いられて
爰に
生計の糸道も明き細いながら
炊煙絶せず安らかに日は送れど、
稽古する小娘が調子外れの
金切声今も昔わーワッとお辰のなき立つ事の
屡なるに胸苦しく、苦労ある身の乳も不足なれば思い切って近き所へ里子にやり必死となりて
稼ぐありさま
余所の
眼さえ
是を見て感心なと泣きぬ。それにつれなきは
方様の
其後何の
便もなく、手紙出そうにも
当所分らず、まさかに親子
笈づるかけて順礼にも出られねば
逢う事は夢に
計り、覚めて考うれば口をきかれなかったはもしや
流丸にでも
中られて亡くなられたか、
茶絶塩絶きっとして祈るを御存知ない
筈も無かろうに、神様も恋しらずならあり難くなしと愚痴と
一所にこぼるゝ涙流れて
止らぬ月日をいつも/\憂いに
明し
恨に暮らして
我齢の寄るは知ねども、早い者お辰はちょろ/\
歩行、折ふしは里親と共に来てまわらぬ舌に菓子ねだる口元、いとしや方様に生き写しと抱き寄せて放し難く、
遂に
三歳の秋より引き取って
膝下に
育れば、少しは
紛れて貧家に
温き
太陽のあたる
如く
淋しき中にも貴き
笑の唇に動きしが、さりとては
此子の愛らしきを
見様とも
仕玉わざるか
帰家れざるつれなさ、子供心にも親は恋しければこそ、
父様御帰りになった時は
斯して
為る者ぞと教えし
御辞誼の
仕様能く覚えて、
起居動作のしとやかさ、
能く
仕付たと
誉らるゝ日を
待て居るに、
何処の
竜宮へ行かれて
乙姫の
傍にでも
居らるゝ事ぞと、少しは邪推の
悋気萌すも我を忘れられしより子を忘れられし所には起る事、正しき女にも切なき
情なるに、天道怪しくも
是を恵まず。運は
賽の眼の
出所分らぬ者にてお辰の
叔父ぶんなげの
七と
諢名取りし
蕩楽者、男は
好けれど根性図太く
誰にも彼にも
疎まれて大の字に寝たとて一坪には足らぬ小さき身を、広き都に置きかね
漂泊あるきの渡り大工、段々と
美濃路を
歴て
信濃に
来り、折しも
須原の長者何がしの隠居所作る手伝い柱を削れ羽目板を
付ろと
棟梁の
差図には従えど、
墨縄の
直なには
傚わぬ
横道、お
吉様と呼ばせらるゝ秘蔵の嬢様にやさしげな
濡を仕掛け、
鉋屑に墨さし
思を
云わせでもしたるか、とう/\そゝのかしてとんでもなき穴掘り仕事、それも縁なら是非なしと愛に
暗んで男の性質も
見分ぬ長者のえせ
粋三国一の
狼婿、取って
安堵したと知らぬが仏様に
其年なられし跡は、山林
家蔵椽の下の
糠味噌瓶まで譲り受けて村
中寄り合いの席に
肩ぎしつかせての
正坐、片腹痛き世や。あわれ
室香はむら雲迷い
野分吹く
頃、少しの風邪に冒されてより
枕あがらず、秋の夜
冷に虫の音遠ざかり行くも観念の友となって独り
寝覚の床淋しく、自ら露霜のやがて
消ぬべきを悟り、お辰
素性のあらまし
慄う筆のにじむ墨に
覚束なく
認めて守り袋に父が書き
捨の
短冊一トひらと共に
蔵めやりて、明日をもしれぬ
我がなき後頼りなき
此子、
如何なる境界に
落るとも
加茂の明神も
御憐愍あれ、
其人命あらば
巡り
合せ玉いて、
芸子も女なりやさしき心入れ
嬉しかりきと、方様の
一言を草葉の
蔭に
聞せ玉えと、
遙拝して閉じたる眼をひらけば、
燈火僅に
蛍の如く、弱き光りの
下に何の夢見て居るか罪のなき寝顔、せめてもう
十計りも大きゅうして
銀杏髷結わしてから死にたしと
袖を
噛みて忍び泣く時お辰
魘われてアッと声立て、
母様痛いよ/\
坊の
父様はまだ
帰えらないかえ、
源ちゃんが
打つから痛いよ、
父の無いのは犬の子だってぶつから痛いよ。オヽ
道理じゃと抱き寄すれば
其儘すや/\と
睡るいじらしさ、アヽ死なれぬ身の
疾病、
是ほどなさけなき者あろうか。
格子戸がら/\とあけて
閉る音は
静なり。
七蔵衣装立派に着飾りて顔付高慢くさく、
無沙汰謝るにはあらで誇り
気に今の身となりし本末を語り、
女房に都見物
致させかた/″\
御近付に
連て参ったと
鷹風なる言葉の尾につきて、下ぐる
頭低くしとやかに。
妾めは
吉と申す
不束な田舎者、
仕合せに御縁の端に
続がりました上は
何卒末長く
御眼かけられて
御不勝ながら
真実の妹とも
思しめされて下さりませと、
演る口上に
樸厚なる
山家育ちのたのもしき所見えて
室香嬉敷、重き
頭をあげてよき程に
挨拶すれば、女心の
柔なる
情ふかく。
姉様の
是ほどの御病気、
殊更御幼少のもあるを他人任せにして置きまして
祇園清水金銀閣見たりとて何の面白かるべき、
妾は
是より
御傍さらず
[#「御傍さらず」は底本では「御傍さらす」]御看病致しましょと
云えば七蔵
顔膨らかし、腹の
中には余計なと思い
乍ら、ならぬとも云い難く、それならば家も狭しおれ
丈ケは旅宿に帰るべしといって
其晩は夜食の
膳の上、
一酌の
酔に
浮れてそゞろあるき、鼻歌に酒の
香を吐き、川風寒き千鳥足、乱れてぽんと町か
川端あたりに
止まりし事あさまし。室香はお吉に
逢いてより三日目、
我子を
委ぬる
処を得て気も休まり、
爰ぞ天の恵み、臨終
正念たがわず、
安かなる大往生、
南無阿弥陀仏は
嬌喉に
粋の
果を送り
三重、
鳥部野一片の
烟となって
御法の風に舞い扇、極楽に歌舞の
女菩薩一員増したる事疑いなしと様子知りたる
和尚様随喜の涙を
落されし。お吉
其儘あるべきにあらねば雇い
婆には
銭やって
暇取らせ、色々
片付るとて
持仏棚の奥に一つの
包物あるを、不思議と開き見れば様々の
貨幣合せて百円足らず、是はと驚きて
能々見るに、
我身万一の時お
辰引き取って
玉わる方へせめてもの
心許りに細き暮らしの
中より一銭二銭積み置きて是をまいらするなりと包み紙に筆の跡、読みさして身の毛立つ程悲しく、是までに思い込まれし子を育てずに
置れべきかと、
遂に
五歳のお辰をつれて夫と共に
須原に
戻りけるが、因果は
壺皿の
縁のまわり、七蔵本性をあらわして不足なき身に長半をあらそえば段々悪徒の
食物となりて
痩せる身代の
行末を
気遣い、女房うるさく
異見すれば、何の女の知らぬ事、ぴんからきりまで心得て
穴熊毛綱の
手品にかゝる我ならねば負くる
計りの者にはあらずと
駈出して三日帰らず、四日帰らず、
或は松本善光寺又は
飯田高遠あたりの
賭場あるき、
負れば
尚も
盗賊に追い銭の愚を尽し、勝てば
飯盛に祝い酒のあぶく
銭を費す、
此癖止めて止まらぬ
春駒の
足掻早く、坂道を飛び
下るより
迅に、親譲りの山も林もなくなりかゝってお吉心配に病死せしより、
齢は
僅に
十の冬、お辰浮世の
悲みを知りそめ
叔父の
帰宅らぬを困り
途方に暮れ居たるに、近所の人々、
彼奴め
長久保のあやしき女の
許に
居続して妻の
最期を
余所に見る事憎しとてお辰をあわれみ助け
葬式済したるが、七蔵
此後愈身持放埒となり、村内の心ある者には
爪はじきせらるゝをもかまわず
遂に須原の長者の
家敷も、
空しく庭
中の
石燈籠に美しき
苔を添えて人手に渡し、長屋門のうしろに大木の
樅の
梢吹く風の音ばかり、今の耳にも
替らずして、
直其傍なる
荒屋に
住いぬるが、さても
下駄の
歯と人の気風は一度ゆがみて一代なおらぬもの、
何一トつ満足なる者なき中にも
盃のみ欠かけず、
柴木へし折って
箸にしながら
象牙の
骰子に誇るこそ
愚なれ。かゝる叔父を持つ身の当惑、
御嶽の雪の
肌清らかに、
石楠の花の顔
気高く生れ
付てもお辰を嫁にせんという者、七蔵と云う名を
聞ては山抜け
雪流より恐ろしくおぞ毛ふるって思い
止れば、
二十を
越して痛ましや
生娘、昼は賃仕事に肩の張るを休むる間なく、夜は
宿中の
旅籠屋廻りて、元は
穢多かも知れぬ
客達にまで
嬲られながらの
花漬売、
帰途は一日の苦労の
塊り銅貨
幾箇を酒に
易えて、
御淋しゅう御座りましたろう、御不自由で御座りましたろうと
機嫌取りどり
笑顔してまめやかに仕うるにさえ時々は無理難題、
先度も
上田の
娼妓になれと云い
掛しよし。さりとては
胴慾な男め、
生餌食う
鷹さえ
暖め鳥は許す者を。
[#改ページ]
珠運は
種々の人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ
今宵覚えて
屋の角に鳴る山風寒さ一段身に
染み、胸痛きまでの悲しさ
我事のように鼻詰らせながら亭主に礼
云いておのが
部屋に
戻れば、
忽気が
注は床の間に二タ箱買ったる
花漬、
衣脱ぎかえて
転りと横になり、
夜着引きかぶればあり/\と浮ぶお
辰の姿、首さし
出して
眼をひらけば花漬、
閉ればおもかげ、
是はどうじゃと
呆れてまた
候眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は
馬籠峠越えて
中津川迄行かんとするに、
能く休までは
叶わじと
行燈吹き消し
意を静むるに、又しても
其美形、エヽ
馬鹿なと
活と見ひらき天井を
睨む眼に、
此度は花漬なけれど、
闇はあやなしあやにくに梅の花の
香は箱を
洩れてする/\と
枕に通えば、何となくときめく心を種として
咲も
咲たり、桃の
媚桜の色、さては
薄荷菊の花まで今
真盛りなるに、
蜜を吸わんと飛び
来る
蜂の羽音どこやらに聞ゆる
如く、耳さえいらぬ事に迷っては
愚なりと
瞼堅く
閉じ、
掻巻頭を
蔽うに、さりとては
怪しからず
麗しき
幻の花輪の中に
愛嬌を
湛えたるお辰、気高き
計りか後光
朦朧とさして
白衣の観音、古人にも
是程の
彫なしと
好な道に
慌惚となる時、物の
響は
冴ゆる冬の夜、台所に荒れ
鼠の騒ぎ、憎し、寝られぬ。
裏付股引に足を包みて
頭巾深々とかつぎ、
然も下には帽子かぶり、二重とんびの
扣釼惣掛になし
其上首筋胴の
周囲、
手拭にて
動がぬ
様縛り、
鹿の皮の
袴に
脚半油断なく、足袋二枚はきて
藁沓の
爪先に
唐辛子三四本足を
焼ぬ
為押し入れ、毛皮の
手甲して
若もの時の助けに
足橇まで
脊中に用意、充分してさえ
此大吹雪、容易の事にあらず、
吼立る
天津風、山山鳴動して峰の雪、
梢の雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、
瞬間に
路を
埋め、
脛を
埋め、鼻の
孔まで粉雪吹込んで水に
溺れしよりまだ/\苦し、ましてや
准備おろかなる都の
御客様なんぞ命
惜くば
御逗留なされと
朴訥は仁に近き親切。なるほど話し
聞てさえ恐ろしければ
珠運別段急ぐ旅にもあらず。されば今日
丈の
厄介になりましょうと
尻を
炬燵に
居て、退屈を輪に吹く
煙草のけぶり、ぼんやりとして
其辺見回せば端なく
眼につく
柘植のさし
櫛。さては
花漬売が心づかず落し
行しかと手に取るとたん、
早や
其人床しく、
昨夕の亭主が物語今更のように、思い出されて、
叔父の憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく
唯お
辰可愛く、おれが仏なら、
七蔵頓死さして
行衛しれぬ親にはめぐりあわせ、
宮内省よりは貞順善行の
緑綬紅綬紫綬、あり
丈の
褒章頂かせ、小説家には
其あわれおもしろく書かせ、
祐信長春等を呼び
生して美しさ充分に写させ、そして日本一
大々尽の嫁にして、あの
雑綴の木綿着を
綾羅錦繍に
易え、油気少きそゝけ髪に
極上々
正真伽羅栴檀の油
付させ、
握飯ほどな
珊瑚珠に
鉄火箸ほどな
黄金脚すげてさゝしてやりたいものを
神通なき身の是非もなし、家財
売て
退けて懐中にはまだ三百両
余あれど
是は
我身を
立る
基、道中にも片足満足な
草鞋は
捨ぬくらい
倹約して居るに、
絹絞の
半掛一トつたりとも
空に恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる
善女に
結縁の良き方便もがな、
噫思い
付たりと
小行李とく/\
小刀取出し小さき
砥石に
鋒尖鋭く
礪ぎ上げ、
頓て
櫛の
棟に何やら一日掛りに彫り
付、紙に包んでお辰
来らばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの
粋様め、おかしき
所業あてが外れて其晩吹雪
尚やまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の
溜る
如く、
逢わざるに
思は積りて
愈なつかしく、我は薄暗き部屋の
中、
煤びたれども天井の下、赤くはなりてもまだ
破れぬ畳の上に
坐し、
去歳の春すが
漏したるか怪しき
汚染は滝の糸を乱して
画襖の
李白の
頭に
濺げど、たて
付よければ身の毛
立程の寒さを
透間に
喞ちもせず、
兎も
角も安楽にして居るにさえ、うら寂しく
自悲を知るに、ふびんや
少女の、あばら屋といえば天井も
無かるべく、屋根裏は
柴焼く煙りに塗られてあやしげに黒く光り、
火口の如き煤は
高山の
樹にかゝれる
猿尾枷のようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪
引詰に結うて、
腸見えたるぼろ畳の上に、
香露凝る
半に
璧尚
な
細軟な
身体を
厭いもせず、なよやかにおとなしく
坐りて
居る事か、人情なしの七蔵め、
多分小鼻怒らし
大胡坐かきて炉の
傍に、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、
藍格子の大どてら着て、充分酒にも
暖りながら
分を知らねばまだ足らず、炉の
隅に転げて居る
白鳥徳利の寐姿
忌
しそうに
睨めたる
眼をジロリと注ぎ、
裁縫に急がしき手を
止さして無理な
吩附、跡引き上戸の言葉は針、とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに
慄う
歟唇、それに
用捨もあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨
露れし壁
一重、たるみの出来たる
筵屏風、あるに
甲斐なく世を
経れば貧には運も
七分凍りて
三分の未練を命に
生るか、
噫と
計りに
夢現分たず珠運は
歎ずる時、雨戸に雪の音さら/\として、火は
消ざる
炬燵に足の先
冷かりき。
[#改ページ]
よしや
脊に
暖ならずとも
旭日きら/\とさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、
眼も
眩む
許りの美しさ、
物腥き西洋の
塵も
此処までは
飛で来ず、
清浄潔白
実に
頼母敷岐蘇路、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、
是も神代を
其儘と
詰らぬ
者をも面白く感ずるは、
昨宵の
嵐去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。
珠運梅干渋茶に夢を
拭い、朝
飯[#「朝飯」は底本では「朝飲」]平常より
甘く食いて
泥を踏まぬ
雪沓軽く、
飄々と
立出しが、折角
吾志を彫りし
櫛与えざるも残念、家は宿の
爺に
聞て街道の
傍を
僅折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、
果せる
哉縦の木高く
聳えて外囲い大きく
如何にも
須原の長者が昔の
住居と思わるゝ立派なる家の横手に、
此頃の風吹き
曲めたる
荒屋あり。近付くまゝに
中の様子を伺えば、
寥然として人のありとも
想われず、是は不思議とやぶれ戸に耳を
付て聞けば
竊々と

やくような音、
愈あやしく
尚耳を
澄せば
啜り
泣する女の声なり。さては邪見な
七蔵め、何事したるかと
彼此さがして大きなる
節の抜けたる所より
覗けば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の
摩利夫人とさえ
此珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、
酷らしき縄からげ、
後の柱のそげ多きに手荒く
縛し付け、薄汚なき
手拭無遠慮に
丹花の唇を
掩いし心無さ、
元結空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪
恨は長く垂れて顔にかゝり、
衣引まくれ胸あらわに、
膚は春の
曙の雪今や
消入らん
計り、見るから
忽ち肉動き
肝躍って分別思案あらばこそ、雨戸
蹴ひらき
飛込で、人間の手の四五本なき事もどかしと
急燥まで
忙しく、手拭を
棄て、縄を解き、
懐中より
櫛取り
出して乱れ髪
梳けと渡しながら冷え
凍りたる
肢体を痛ましく、思わず
緊接抱き寄せて、
嘸や柱に脊中がと片手に
摩で
擦するを、女あきれて
兎角の
詞はなく、ジッと
此方の顔を見つめらるゝにきまり悪くなって
一ト足離れ
退くとたん、
其辺の畳雪だらけにせし
我沓にハッと気が
注き、
訳も分らず
其まゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろ/\/\、あわや
膝突かんとしてドッコイ、是は
仕たり、
蝙蝠傘手荷物忘れたかと
跡もどりする時、お
辰門口に
来り
袖を
捉えて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に
覚なき異な心持するにうろつきて、土間に落散る
木屑なんぞの
詰らぬ者に眼を注ぎ
上り
端に腰かければ、しとやかに下げたる
頭よくも挙げ得ず。あなたは
亀屋に
御出なされた御客様わたくしの難儀を見かねて
御救下されたは
真にあり難けれど、
到底遁れぬ
不仕合と身をあきらめては
断念なかった先程までの
愚が
却って
口惜う御座りまする、
訳も申さず
斯う申しては定めて道理の分らぬ
奴めと
御軽侮も
耻しゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで
解て下さった方に御礼も
能は致さず、無理な
願を申すも
真に苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の
外の言葉に珠運驚き、
是は/\とんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては
強面御頼み、縛った
奴を
打てとでも
云うのならば
痩腕に豆
計の
力瘤も出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩
絶間なく感心しつめて
天晴菩薩と信仰して居る
御前様を、縛ることは
赤旃檀に
飴細工の刀で
彫をするよりまだ難し、
一昨日の晩忘れて行かれたそれ/\その櫛を見ても
合点なされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし
聞て、失礼ながら
愍然な事や、
私が神か仏ならば、
斯もしてあげたい
彼もしてやり
度と思いましたが、それも出来ねばせめては
心計、一日肩を凝らして
漸く
其彫をしたも、
若や
御髪にさして下さらば一生に又なき名誉、
嬉しい事と
態々持参して来て見れば
他にならぬ今のありさま、
出過たかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも
謝罪りましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を
御頼か、
金輪奈落其様な義は御免
蒙ると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく
彫に
彫たり、
厚は
僅に
一分に足らず、幅は
漸く二分
計り、長さも
左のみならざる
棟に、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、
薄荷の花の
眼も及ばぬまで
濃きを浮き彫にして
香う
計り、そも
此人は
如何なればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて
瞳は通い、
竊に様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるまず、
眉濃からずして末
秀で、眼に一点の濁りなきのみか、
形状の
外におのずから
賎しからぬ様
露れて、
其親切なる言葉、そもや
女子の
嬉しからぬ事か。
身を
断念てはあきらめざりしを
口惜とは
云わるれど、笑い顔してあきらめる者世にあるまじく、
大抵は奥歯
噛みしめて思い切る事ぞかし、
到底遁れぬ
不仕合と一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理には
合っても人情には
外れた言葉が
御前のその美しい
唇から出るも、思えば苦しい
仔細があってと察しては御前の心も大方は見えていじらしく、エヽ
腹立しい
三世相、何の因果を
誰が作って、花に
蜘蛛の巣お前に
七蔵の縁じゃやらと、
天燈様まで憎うてならぬ
此珠運、相談の
敵手にもなるまいが
痒い
脊中は孫の手に頼めじゃ、なよなよとした
其肢体を縛ってと云うのでない注文ならば
天窓を
破って工夫も
仕様が一体まあどうした
訳か、
強て
聞でも
無れど
此儘別れては何とやら仏作って魂入れずと云う様な者、話してよき事ならば
聞た上でどうなりと
有丈の力喜んで尽しましょうと
云れてお
辰は、
叔父にさえあさましき
難題云い
掛らるゝ世の中に赤の他人で
是ほどの
仁、胸に
堪えてぞっとする程
嬉し悲しく、
咽せ返りながら、
吃と思いかえして、段々の御親切有り
難は御座りまするが
妾身の上話しは申し上ませぬ、
否や申さぬではござりませぬが申されぬつらさを
御察し下され、
眼上と折り
合ねば
懲らしめられた
計の事、
諄々と
黒暗の
耻を
申てあなたの様な
情知りの御方に
浅墓な
心入と
愛想つかさるゝもおそろし、さりとて夢さら御厚意
蔑にするにはあらず、やさしき御言葉は骨に
鏤んで七生忘れませぬ、
女子の世に生れし
甲斐今日知りて
此嬉しさ
果敢なや終り
初物、あなたは旅の御客、
逢も別れも
旭日があの
木梢離れぬ内、せめては御荷物なりとかつぎて
三戸野馬籠あたりまで御肩を休ませ申したけれどそれも
叶わず、
斯云う
中にも叔父様帰られては
面倒、どの様な事申さるゝか知れませぬ程にすげなく申すも
御身の
為、御迷惑かけては
済ませぬ故どうか御帰りなされて下さりませ、エヽ千日も万日も止めたき
願望ありながら、と
跡の一句は口に
洩れず、
薄紅となって顔に
露るゝ
可愛さ、珠運の
身になってどうふりすてらるべき。
仮令叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、
此儘左様ならと指を

えて
退くはなんぼ
上方産の
胆玉なしでも
仕憎い事、殊更
最前も云うた通りぞっこん
善女と感じて居る
御前の
憂目を
余所にするは一寸の虫にも五分の意地が承知せぬ、御前の云わぬ訳も
先後を考えて大方は分って居るから
兎も
角も私の
云事に
付たがよい、悪気でするではなし、私の
詞を
立て
呉れても女のすたるでもあるまい、
斯しましょ、
是からあの正直
律義は口つきにも聞ゆる
亀屋の亭主に御前を預けて、金も少しは入るだろうがそれも私がどうなりとして
埒を
明ましょう、親類でも無い他人づらが
要らぬ
差出た才覚と思わるゝか知らぬが、
妹という者
持ても見たらば
斯も可愛い者であろうかと迷う程いとしゅうてならぬ御前が、
眼に見えた
艱難の
淵に沈むを見ては居られぬ、何私が善根
為たがる
慾じゃと笑うて気を大きく
持がよい、さあ
御出と取る手、振り払わば今川流、握り
占なば西洋流か、お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類
珍重嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも
其時は
嘘なりしなるべし。
コレ
吉兵衛、
御談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの
七様、昔は
密男拐帯も
仕てのけたが、
穏当なって
姪子を売るのではない養女だか
妾だか知らぬが百両で縁を
切で
呉れろという人に
遣る
計の事、それをお
辰が
間夫でもあるか、
小間癪れて先の知れぬ所へ
行は
否だと
吼顔かいて
逃でも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間
一寸縛って
置たのだ、
珠運とかいう二才野郎がどういう続きで何の
故障。
七、七、
静にしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って
宿中での
誉者、
妙齢になっても
白粉一トつ
付ず、盆正月にもあらゝ木の
下駄一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断
能も貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、
歯切を貴様に
噛んで涙をお辰に
飜すは、
姑に
凍飯[#「凍飯」は底本では「凍飲」]食わするような冷い心の嫁も、お辰の話
聞ては急に
角を折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして
上ましょうかと
老人の
機嫌を取る気になるぞ、それを
先度も上田の
女衒に渡そうとした
人非人め、百両の金が何で
要るか知らぬがあれ程の
悌順女を金に
易らるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の
仁情が
半分汲めたならそんな事
云わずに
有難涙に
咽びそうな者。オイ、
亀屋の
旦那、おれとお
吉と婚礼の
媒妁役して呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は
廃て下され、七七四十九が六十になってもあなたの
御厄介になろうとは
申ませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きり/\
此処へ
御出なされ、七が
眼尻が
上らぬうち
温直になされた方が
御為かと存じます、それともあなたは珠運とかいう
奴に頼まれて口をきく
計りじゃ、おれは当人じゃ
無れば取計いかねると
仰ゃるならば
其男に逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運
立出、つく/″\見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、
腮張りて一ト癖
確にある
悪物、
膝すり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな
生弱々しい顔をして
能もお辰を
拐帯した、若いには似ぬ感心な
腕、
併し若いの、
闘鶏の前では
地鶏はひるむわ、身の分限を
知たなら
尻尾をさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な
仰せ、私も手短く申しましょうならお辰様を
売せたくなければ御相談。ふざけた
囈語は
置てくれ。コレ七、
静に聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体
小癪な
旅烏と振りあぐる
拳。アレと走り
出るお辰、吉兵衛も共に
止ながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは
智慧の無い男、無理に
売ずとも相談のつきそうな者を。フ相談
付ぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を
捉え
立上る
裙を抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を
売買するというは
今日の理に外れた事、
娼妓にするか妾に出すか知らぬが。エヽ
喧擾しいわ、
老耄、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って
仕舞った、
変改はとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで
罵り
小兎攫む
鷲の
眼ざし恐ろしく、亀屋の亭主も
是までと口を
噤むありさま珠運
口惜く、見ればお辰はよりどころなき朝顔の
嵐に
逢いて露
脆く、
此方に向いて言葉はなく深く礼して叔父に
付添立出る二タ
足三足め、又
後ふり向きし
其あわれさ、
八幡命かけて堪忍ならずと珠運七と
呼留め、百両物の見事に投出して、亭主お辰の
驚にも
関わず、
手続油断なく
此悪人と
善女の縁を切りてめでたし/\、まずは亀屋の養女分となしぬ。
[#改ページ]
自分
妾狂しながら
息子の
傾城買を
責る人心、あさましき中にも道理ありて、
七の所業
誰憎まぬ者なければ、酒
呑で居ても
彼奴娘の血を
吮うて居るわと
蔭言され、
流石の
奸物も
此処面白からず、
荒屋一トつ
遺して
米塩買懸りの
云訳を
家主亀屋に迷惑がらせ
何処ともなく去りける。
珠運も思い
掛なく色々の始末に七日余り
逗留して、
馴染につけ
亭主頼もしく、お
辰可愛く、
囲炉裏の
傍に極楽国、
迦陵頻伽の
笑声睦じければ客あしらいされざるも
却て気楽に、
鯛は
無とも
玉味噌の豆腐汁、心
協う
同志安らかに
団坐して食う
甘さ、
或は
山茶も
一時の
出花に、長き夜の
徒然を慰めて囲い
栗の、皮
剥てやる
一顆のなさけ、
嬉気に
賞翫しながら彼も
剥きたるを我に
呉るゝおかしさ。
実に山里も人情の
暖さありてこそ
住ば都に劣らざれ。さりながら指折り数うれば
最早幾日か
過ぬ、奈良という事
臆い起しては
空しく遊び
居るべきにあらずとある日支度整え勘定促し
立出んというに
亭主呆れて、
是は是は、婚礼も
済ぬに。ハテ誰が婚礼。知れた事お辰が。誰と。冗談は
置玉え。あなたならで誰とゝ
云れてカッと赤面し、乾きたる舌早く、御亭主こそ冗談は
置玉え、私約束したる
覚なし。イヤ
怪しからぬ
野暮を
云るゝは都の
御方にも似ぬ、今時の
若者がそれではならぬ、さりとては百両
投出て七蔵にグッとも
云わせなかった
捌き方と違っておぼこな事、それは誰しも
耻かしければ
其様にまぎらす者なれど、何も
紛すにも及ばず
[#「及ばず」は底本では「及ばす」]、
爺が身に覚あってチャンと心得てあなたの思わく図星の外れぬ様致せばおとなしく
御待なされと何やら
独呑込の様子、
合点ならねば、
是是御亭主、勘違い致さるゝな、お辰様をいとしいとこそ思いたれ女房に
為様なぞとは
一厘も思わず、忍びかねて難義を
助たる
計の事、旅の者に女房授けられては
甚だ迷惑。ハハハヽア、何の迷惑、器量美しく学問
音曲のたしなみ
無とも
縫針暗からず、女の道自然と
弁えておとなしく、
殿御を大事にする事
請合のお辰を迷惑とは、
両柱の御神以来
図ない議論、それは
表面、
真を云えば御前の
所行も
曰くあってと察したは年の功、チョン
髷を
付て居ても
粋じゃ、
実はおれもお前のお辰に
惚たも
善く惚た、お辰が御前に惚たも善く惚たと当世の
惚様の上手なに感心して居るから、
媼とも相談して支度出来次第婚礼さする
積じゃ、コレ珠運年寄の云う事と牛の
鞦外れそうで外れぬ者じゃ、お辰を女房にもってから奈良へでも京へでも
連立て行きゃれ、おれも昔は
脇差に
好をして、媼も鏡を懐中してあるいた
頃、一世一代の
贅沢に
義仲寺をかけて六条様参り
一所にしたが、旅ほど
嚊が
可愛うておもしろい事はないぞ、いまだに
其頃を夢に見て後での話しに、
此間も
嫗に真夜中
頃入歯を飛出さして笑ったぞ、コレ珠運、オイ是は
仕たり、孫でも無かったにと罪のなき笑い顔して奇麗なる
天窓つるりとなでし。
我今まで恋と
云う事
為たる
覚なし。
勢州四日市にて見たる美人三日
眼前にちらつきたるが
其は額に
黒痣ありてその
位置に
白毫を
付なばと考えしなり。東京
天王寺にて菊の花片手に墓参りせし
艶女、一週間思い
詰しが
是も
其指つきを
吉祥菓持せ
玉う
鬼子母神に写してはと工夫せしなり。お
辰を
愛しは修業の足しにとにはあらざれど、
之を妻に
妾に
情婦になどせんと思いしにはあらず、
強いて云わば
唯何となく
愛し
勢に乗りて百両は
与しのみ、潔白の
我心中を
忖る事出来ぬ
爺めが
要ざる
粋立馬鹿々々し、一生に一つ
珠運が作意の新仏体を刻まんとする程の
願望ある身の、何として今から妻など
持べき、殊にお辰は
叔父さえなくば
大尽にも望まれて
有福に世を送るべし、人は人、我は我の思わくありと
決定し、置手紙にお辰
宛て
少許の恩を
伽に
御身を
娶らんなどする
賎しき心は露持たぬ由を
認め、跡は野となれ山路にかゝりてテク/\
歩行。さても変物、
此男木作りかと
譏る者は
肉団奴才、
御釈迦様が女房
捨て
山籠せられしは、
耆婆も
匕を
投た
癩病、
接吻の
唇ポロリと
落しに
愛想尽してならんなど疑う
儕輩なるべし、あゝら尊し、尊し、銀の
猫捨た所が
西行なりと喜んで
誉むる
輩是も
却て雪のふる日の寒いのに気が
付ぬ
詮義ならん。人間元より変な者、
目盲てから
其昔拝んだ
旭日の美しきを悟り、
巴里に住んでから
沢庵の味を知るよし。珠運は
立鳥の跡ふりむかず、一里あるいた
頃不図思い出し、二里あるいた頃珠運様と呼ぶ声、まさしく
其人と
後見れば何もなし、三里あるいた頃、もしえと
袂取る様子、
慥にお辰と見れば又人も
居らず、四里あるき、五里六里行き、段々遠くなるに連れて迷う事多く、
遂には其顔見たくなりて
寧帰ろうかと
一ト足
後へ、ドッコイと一二
町進む内、むか/\と其声
聞度て
身体の
向を思わずくるりと
易る途端
道傍の石地蔵を見て奈良よ/\誤ったりと一町たらずあるく
向より来る夫婦
連の、何事か面白相に語らい行くに我もお辰と
会話仕度なって心なく
一間許り
戻りしを、
愚なりと悟って半町歩めば我しらず
迷に三間もどり、
十足あるけば
四足戻りて、
果は片足進みて片足戻る程のおかしさ、自分ながら訳も分らず、名物
栗の
強飯売家の
牀几に腰
打掛てまず/\と案じ始めけるが、
箒木は山の中にも胸の中にも、
有無分明に定まらず、
此処言文一致家に頼みたし。
世の中に
病ちょう者なかりせば男心のやさしかるまじ。
髭先のはねあがりたる当世才子、高慢の鼻をつまみ
眼鏡ゆゝしく、父母干渉の弊害を
説まくりて御異見の口に
封蝋付玉いしを一日粗造のブランディに腸
加答児起して閉口
頓首の折柄、昔風の思い付、気に入らぬか知らぬが
片栗湯こしらえた、
食て見る気はないかと厚き
介抱有難く、へこたれたる腹にお
母の愛情を
呑で知り、
是より三十銭の安西洋料理食う時もケーク
丈はポッケットに入れて
土産となす様になる者ぞ、ゆめ/\美妙なる天の配剤に不足
云うべからずと
或人仰せられしは
尤なりけり。
珠運馬籠に寒あたりして熱となり旅路の心細く二日
計り
苦む所へ吉兵衛とお
辰尋ね
来り様々の骨折り、病のよき
汐を見計らいて
駕籠安泰に
亀屋へ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病、
藪医者の薬も
瑠璃光薬師より尊き
善女の手に持たせ玉える
茶碗にて
呑まさるれば何
利ざるべき、
追々快方に赴き、初めてお辰は我身の
為にあらゆる神々に色々の
禁物までして平癒せしめ玉えと
祷りし事まで知りて涙
湧く程
嬉しく、
一ト月あまりに
衰こそしたれ、床を離れて
其祝義済みし後、珠運思い切ってお辰の手を取り
一間の
中に入り何事をか長らく語らいけん、
出る時女の耳の
根紅かりし。其翌日男
真面目に
媒妁を頼めば吉兵衛笑って牛の
鞦と
老人の云う事どうじゃ/\と云さして、元より
其支度大方は出来たり、善は急いで
今宵にすべし、不思議の因縁でおれの養女分にして嫁
入すればおれも一トつの
善い功徳をする事ぞとホク/\喜び、
忽ち下女下男に、ソレ
膳を出せ
椀を出せ、アノ
銚子を出せ、なんだ貴様は
蝶の折り
様を知らぬかと
甥子まで
叱り
飛して騒ぐは田舎
気質の義に進む所なり、かゝる中へ一人の男
来りてお辰様にと手紙を渡すを見ると
斉くお辰あわただしく其男に
連立て
一寸と
出しが其まゝもどらず、晩方になりて時刻も
来るに吉兵衛
焦躁て八方を
駈廻り探索すれば同業の
方に
止り居し若き男と共に立去りしよし。牛の
鞦爰に外れてモウともギュウとも云うべき言葉なく、何と珠運に云い訳せん、さりとて
猥褻なる
行はお辰に限りて
無りし者をと
蜘手に思い屈する時、先程の男
来りて
再渡す
包物、
開て見れば、一筆啓上
仕候未だ
御意を得ず
候え共お辰様身の上につき御
厚情相掛られし事承り及びあり難く
奉存候さて今日貴殿
御計にてお辰婚姻取結ばせられ候由
驚入申候
仔細之あり御辰様儀婚姻には私
方故障御座候故従来の御礼
旁罷り出て
相止申べくとも
存候え
共如何にも場合切迫致し
居り
且はお辰様心底によりては私一存にも参り
難候
様の義に至り候ては迷惑に
付甚だ唐突不敬なれども実はお辰様を
賺し申し
此婚姻
相延申候よう決行致し候
尚又近日参上
仕り入り
込たる御話し委細
申上べく心得に候え
共差当り先日七蔵に渡され候金百円及び御礼の印までに金百円進上しおき候
間御受納下され
度候
不悉 亀屋吉兵衛様へ岩沼子爵
家従田原栄作とありて末書に珠運様とやらにも
此旨御
鶴声相伝られたく候と筆を
止めたるに加えて二百円何だ紙なり。
[#改ページ]
オヽお
辰かと抱き付かれたる
御方、見れば
髯うるわしく
面清く
衣裳立派なる人。ハテ
何処にてか会いたる
様なと思いながら身を縮まして
恐々振り仰ぐ顔に
落来る
其人の涙の熱さ、骨に徹して、アヽ五日前一生の晴の化粧と鏡に向うた折会うたる我に少しも違わず
扨は
父様かと早く悟りてすがる
少女の利発さ、
是にも
室香が名残の
風情忍ばれて心強き子爵も、二十年のむかし、
御機嫌よろしゅうと言葉
後力なく送られし時、跡ふりむきて今
一言交したかりしを邪見に唇
囓切て
女々しからぬ
風誰為にか
粧い、急がでもよき足わざと早めながら、
後見られぬ
眼を
恨みし
別離の様まで胸に
浮びて
切なく、娘、ゆるしてくれ、今までそなたに苦労させたは
我誤り、もう是からは花も
売せぬ、
襤褸も着せぬ、荒き風を
其身体にもあてさせぬ、定めしおれの
所業をば不審もして居たろうがまあ聞け、手前の母に別れてから二三日の間実は張り
詰た心も恋には
緩んで、
夜深に一人月を
詠めては人しらぬ露
窄き
袖にあまる陣頭の
淋しさ、又は総軍の
鹿島立に
馬蹄の音高く朝霧を
蹴って勇ましく進むにも刀の
鐺引かるゝように心たゆたいしが、一封の
手簡書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の
疎くなりしも
情合の薄いからではなし、軍事の
烈しさ江戸に乗り込んで
足溜りもせず、
奥州まで
直押に推す程の
勢、自然と
焔硝の煙に
馴ては
白粉の
薫り思い
出さず
喇叭の響に夢を破れば
吾妹子が寝くたれ髪の
婀娜めくも
眼前にちらつく
暇なく、恋も命も共に忘れて敗軍の無念には
励み、
凱歌の鋭気には乗じ、
明ても
暮ても
肘を
擦り
肝を焦がし、
饑ては敵の肉に
食い、渇しては敵の血を飲まんとするまで
修羅の
巷に
阿修羅となって働けば、功名
一トつあらわれ二ツあらわれて総督の
御覚えめでたく
追々の出世、一方の指揮となれば其任
愈重く、必死に勤めけるが
仕合に
弾丸をも受けず皆々
凱陣の暁、
其方器量学問見所あり、
何某大使に従って外国に行き何々の制度
能々取調べ帰朝せば重く
挙用らるべしとの事、室香に約束は
違えど大丈夫青雲の志
此時伸べしと殊に血気の
雀躍して喜び、米国より欧州に前後七年の
長逗留、アヽ
今頃は
如何して居おるか、生れた子は女か、男か、知らぬ顔に、知られぬ顔、早く
頬摺して
膝の上に乗せ取り、
護謨人形空気鉄砲珍らしき
手玩具数々の
家苞に
遣って、喜ぶ様子見たき者と足をつま
立て三階四階の
高楼より日本の方角
徒らに
眺しも度々なりしが、
岩沼卿と
呼せらるる
尊き御身分の
御方、是も御用にて欧州に御滞在中、数ならぬ我を見たて
御子なき家の跡目に
坐れとのあり難き仰せ、再三
辞みたれど許されねば
辞兼て承知し、共々
嬉しく帰朝して我は
軽からぬ役を拝命する
計か、
終に姓を冒して人に尊まるゝに
付てもそなたが母の室香が
情何忘るべき、家来に
吩附て段々
糺せば、
果敢なや我と
楽は
分けで、
彼岸の人と聞くつらさ、何年の苦労一トつは国の
為なれど、一トつは
色紙のあたった
小袖着て、
塗の
剥た大小さした見所もなき我を思い込んで女の
捨難き
外見を捨て、
譏を
関わず
危きを
厭わず、世を忍ぶ身を
隠匿呉れたる志、七生忘れられず、官軍に
馳参ぜんと、決心した我すら曇り声に
云い
出せし時も、愛情の涙は
瞼に
溢れながら義理の
詞正しく、
予ての御本望
妾めまで
嬉う存じますと、無理な
笑顔も道理なれ明日知らぬ命の男、それを
尚も大事にして余りに
御髪のと
髯月代人手にさせず、
後に
廻りて
元結も
〆力なき悲しさを奥歯に
噛んできり/\と見苦しからず結うて呉れたる
計か、おのが
頭にさしたる
金簪まで引抜き
温みを添えて売ってのみ、我身のまわり調度にして
玉わりし大事の/\女房に満足させて、昔の
憂きを
楽に語りたさの
為なりしに、
情無も死なれては、
花園に
牡丹広々と
麗しき
眺望も、細口の花瓶に
唯二三輪の菊古流しおらしく彼が
生たるを
賞め、
賞られて
二人の
微笑四畳半に
籠りし時程は、今つくねんと影法師相手に
独見る事の面白からず、栄華を
誰と共に、世も
是迄と思い切って
後妻を
貰いもせず、さるにても其子
何処ぞと
種々尋ねたれど
漸くそなたを里に取りたる事ある
嫗より、
信濃の方へ行かれたという
噂なりしと
聞出したる
計り、其筋の人に頼んでも
何故か分らず、
我外に子なければ
年老る
丈け
愈恋しく信州にのみ三人も
家従をやって
捜させたるに、
辛くも田原が探し
出して
七蔵という悪者よりそなた
貰い受けんとしたるに、
如何いう訳か邪魔
入て間もなくそなたは
珠運とか云う
詰らぬ男に、身を救われたる義理づくやら
亀屋の亭主の圧制やら、急に婚礼するというに、
一旦帰京て二度目にまた
丁度行き
着たる田原が
聞て
狼狽し、
吾書捨て室香に
紀念と
遺せし歌、多分そなたが
知て居るならんと手紙の末に
書し
頓智に
釣り
出し、それから無理に訳も聞かせず
此処まで
連て来たなれば定めし驚いたでもあろうが少しも恐るゝ事はなし、亀屋の方は又々田原をやって始末する程に是からは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々覚えさして
天晴の
婿取り、
初孫の顔でも見たら夢の
中にそなたの母に
逢っても
云訳があると今からもう
嬉くてならぬ、それにしても髪とりあげさせ、
衣裳着かゆさすれば、
先刻内々戸の
透から見たとは違って、是程までに美しいそなたを、今まで木綿
布子着せて
置た親の
耻しさ、小間物屋も
呼せたれば
追付来であろう、
櫛簪何なりと
好なのを取れ、着物も
越後屋に
望次第
云付さするから遠慮なくお
霜を
使え、あれはそなたの腰元だから
先刻の
様に
丁寧に辞義なんぞせずとよい、芝屋や名所も追々に見せましょ。
舞踏会や音楽会へも少し
都風が分って来たら
連て
行ましょ。書物は
読るかえ、消息往来
庭訓までは習ったか、アヽ嬉しいぞ
好々、学問も良い師匠を
付てさせようと、慈愛は
尽ぬ長物語り、
扨こそ珠運が望み通り、
此女菩薩果報めでたくなり玉いしが、さりとては結構づくめ、是は何とした者。
[#改ページ]
古風作者の
書そうな話し、
味噌越提げて買物あるきせしあのお
辰が雲の
上人岩沼子爵様の
愛娘と
聞て吉兵衛仰天し、
扨こそ神も仏も御座る世じゃ、因果
覿面地ならしのよい所に
蘿蔔は太りて、
身持のよい者に運の実がなる程理に
叶た幸福と無上に有難がり
嬉しがり、一も二もなく田原の
云事承知して、おのが勧めて婚姻さし
懸たは忘れたように何とも云わず物思わしげなる
珠運の
腹聞ずとも知れてると万端
埒明け、貧女を令嬢といわるゝように
取計いたる後、先日の百両
突戻して、
吾当世の道理は
知ねど
此様な気に入らぬ金受取る事
大嫌なり、珠運様への百両は
慥に返したれど
其人に礼もせぬ子爵から
此親爺が
大枚の礼
貰は
煎豆をまばらの歯で
喰えと云わるゝより有難迷惑、御返し
申ますと率直に云えば、
否それは悪い
合点、
一酷にそう云われずと子爵からの御志、是非
御取置下され、珠運様には別に御礼を
申ますが姿の見えぬは御
立なされたか、ナニ奥の
坐敷に。
左様なら
一寸と
革嚢さげて
行かゝれば
亭主案内するを堅く無用と止めながら御免なされと
唐襖開きて初対面の
挨拶了りお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、
先頃よりの礼厚く
演て子爵より礼の
餽り物数々、
金子二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を
置列べてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、
文丈ケ受取りて其他には手も
付ず、先日の百両まで
其処に投出し顔しかめて。
御持帰り下さい、面白からぬ御所置、珠運の
為た事を利を取ろう
為の商法と思われてか片腹痛し、
些許の尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、
夫より段々
馴染につけ、縁あればこそ力にもなりなられて
互に
嬉敷心底打明け荷物の多きさえ
厭う旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて
突然に
引攫い人の恋を夢にして
貘に
食せよという
様な
情なきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は
気抜する程恨めしくは存じたれど、
只今承れば
御親子の間柄、大切の娘御を私風情の
賎き者に
嫁入してはと
御家従のあなたが御心配なすッて
連て
行れたも御道理、決して私めが
僣上に岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは
申ませぬから、金円品物は
吃度御持帰り下され、
併しまざ/\と夫婦約束までしたあの
花漬売は、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に
御嶽の雪は消ゆる事もあれ
此念は
消じ、アヽ
否なのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と
果は
取乱して男の
述懐。
爰ぞ肝要、御主人の仰せ
受て来た所なり。よしや此恋
諏訪の
湖の氷より堅くとも春風のぼや/\と説きやわらげ、凝りたる
思を水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は
笑顔あやしく作り
上唇屡甞ながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が
再度花漬売にならるゝ瀬も
無るべければ、詰りあなたの無理な
御望と
云者、あなたも
否なのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの
思召でも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の
済たるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ
生若い者の感情、
追付変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて
何れかの貴族の
若公を
納らるゝ御積り、
是も人の親の心になって
御考なされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく
御了解で御座りましょう、
箇様申せばあなたとお辰様の
情交を
割く様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就
覚束なき因縁、男らしゅう思い切られたが
双方の
御為かと存じます、
併しお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば
是等の
餽物親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと
仰ったとて
此儘にはならず、どうか条理の
立様御分別なされて、
枉ても
枉ても、御受納と
舌小賢しく
云迯に東京へ帰ったやら、其後
音沙汰なし。さても浮世や、
猛き
虎も
樹の上の
猿には侮られて位置の懸隔を恨むらん、
吾肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と
付さし、
恐惶謹言させて子爵には
一目置た
挨拶させ
差詰聟殿と大切がられべきを、四民同等の今日とて
地下と
雲上の
等差口惜し、珠運を
易く見積って何百円にもあれ何万円にもあれ
札で唇にかすがい
膏打ような処置、遺恨千万、さりながら
正四位何の
某とあって仏師彫刻師を
聟には
為たがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど
抑々仏師は
光孝天皇
是忠の親王等の系に
出て
定朝初めて
綱位を
受け、
中々賎まるべき者にあらず、西洋にては声なき詩の色あるを絵と云い、景なき絵の魂
凝しを彫像と云う程
尊む技を
為す
吾、ミチエルアンジロにもやはか劣るべき、
仮令令嬢の夫たるとも何の不都合あるべきとは云え、
蝸牛の
角立て何の益なし、残念や無念やと
癇癪の
牙は
噛めども
食付所なければ、
尚一段の
憤悶を増して、
果は
腑甲斐なき此身
惜からずエヽ木曾川の
逆巻水に命を洗ってお辰見ざりし前に生れかわりたしと血相
変る
夜半もありし。
痩たりや/\、病気
揚句を恋に
責られ、
悲に絞られて、此身細々と心
引立ず、
浮藻足をからむ
泥沼の
深水にはまり、又は露多き
苔道をあゆむに
山蛭ひいやりと
襟に
落るなど怪しき夢
計見て
覚際胸あしく、日の光さえ
此頃は薄うなったかと疑うまで天地を我につれなき者の
様恨む
珠運、旅路にかりそめの
長居、
最早三月近くなるにも心
付ねば、まして奈良へと
[#「奈良へと」は底本では「奈見へと」]日課十里の
行脚どころか
家内をあるく勇気さえなく、昼は
転寝勝に時々
怪しからぬ
囈語しながら、人の顔見ては
戯談一トつ云わず、にやりともせず、世は
漸く春めきて青空を渡る風
長閑に、
樹々の
梢雪の衣脱ぎ捨て、家々の
垂氷いつの間にか
失せ、軒伝う
雫絶間なく白い者
班に消えて、
南向の
藁屋根は
去年の顔を今年初めて
露せば、
霞む
眼の
老も、やれ懐かしかったと喜び、水は
温み下草は
萌えた、
鷹はまだ出ぬか、
雉子はどうだと、
終に
若鮎の
噂にまで先走りて若い者は
駒と共に元気
付て来る中に、さりとてはあるまじき
鬱ぎ
様。
此跡ががらりと早変りして、さても/\
和御寮は踊る
振が見たいか、踊る振が見たくば、木曾路に御座れのなど狂乱の
大陽気にでも
成れまい者でもなしと
亀屋の
爺心配し、泣くな泣きゃるな浮世は車、大八の
片輪田の中に踏込んだ
様にじっとして、くよ/\して居るよりは外をあるいて見たら又どんな女に
廻り
合かもしれぬ、目印の柳の下で
平常魚は
釣れぬ代り、思いよらぬ
蛤の吸物から真珠を拾い出すと云う
諺があるわ、腹を広く持て、コレ若いの、恋は
他にもある者を、と
詞おかしく、
兀頭の
脳漿から
天保度の
浮気論主意書という所を
引抽き、
黴の
生た
駄洒落を
熨斗に
添て度々進呈すれど少しも取り
容れず、随分面白く異見を
饒舌っても、
却って珠運が
溜息の
合の手の
如くなり、是では行かぬと本調子整々堂々、
真面目に
理屈しんなり
諄々と説諭すれば、不思議やさしも
温順き人、何にじれてか
大薩摩ばりばりと語気
烈しく、
要らざる御心配無用なりうるさしと一トまくりにやりつけられ敗走せしが、
関わず
置ば当世
時花らぬ恋の病になるは必定、
如何にかして助けてやりたいが、ハテ難物じゃ、それとも
寧、
経帷子で
吾家を
出立するようにならぬ内
追払おうか、さりとては忍び難し、なまじお辰と婚姻を勧めなかったら
兎も
角も、
我口から事
仕出した上は
我分別で
結局を
付ねば吉兵衛も男ならずと工夫したるはめでたき
気象ぞかし。
年は
老るべきもの
流石古兵の
斥候虚実の見所誤らず
畢竟手に
仕業なければこそ余計な心が働きて
苦む者なるべしと考えつき、
或日珠運に向って、此日本一果報男め、
聞玉え我昨夜の夢に、
金襖立派なる御殿の
中、
眼もあやなる美しき
衣裳着たる御姫様床の間に向って何やらせらるゝ
其鬢付襟足のしおらしさ、
後からかぶりついてやりたき程、もう二十年若くば
唯は
置ぬ品物めと腰は曲っても色に忍び足、そろ/\と伺いより
椽側に片手つきてそっと横顔拝めば、
驚たりお辰、花漬売に百倍の奇麗をなして、殊更
憂を含む
工合凄味あるに
総毛立ながら
尚能くそこら
見廻せば、床に
掛られたる一軸
誰あろうおまえの姿絵
故少し
妬くなって一念の
無明萌す途端、椽の下から
顕れ
出たる
八百八狐付添て
己の
[#「己の」は底本では「已の」]踵を
覗うから、
此奴たまらぬと
迯出す
後から
諏訪法性の
冑だか、
粟八升も入る
紙袋だかをスポリと
被せられ、方角さらに分らねば
頻と眼玉を
溌々したらば、夜具の
袖に首を
突込んで居たりけりさ、今の世の
勝頼さま、チト
御驕りなされ、アハヽヽと笑い
転げて
其儘坐敷をすべり
出しが、跡は
却て
弥寂しく、今の話にいとゞ恋しさまさりて、
其事彼事寂然と柱に

れながら思ううち、
瞼自然とふさぐ時あり/\とお辰の姿、やれまてと手を
伸して
裙捉えんとするを、
果敢なや、幻の空に消えて
遺るは
恨許り、
爰にせめては其
面影現に
止めんと思いたち、亀屋の
亭主に心
添られたるとは知らで
自善事考え
出せし
様に吉兵衛に相談すれば、さて無理ならぬ望み、閑静なる
一間欲しとならばお辰
住居たる家
尚能らん、畳さえ敷けば細工部屋にして
精々一ト月位
住うには不足なかるべし、ナニ話に来るは
謝絶と云わるゝか、それも承知しました、それならば食事を
賄うより外に人を通わせぬよう致しますか、
然し余り
牢住居の
様ではないか、ムヽ勝手とならば仕方がない、新聞
丈けは
節々上ましょう、ハテ
要らぬとは悪い
合点、気の
尽た折は是非世間の面白
可笑いありさまを見るがよいと、万事親切に世話して、珠運が
笑し
気に恋人の
住し跡に移るを満足せしが、困りしは立像刻む程の大きなる
良木なく百方
索したれど見当らねば厚き
檜の大きなる古板を与えぬ。
[#改ページ]
勇猛精進潔斎怠らず、
南無帰命頂礼と真心を
凝し
肝胆を砕きて三拝
一鑿九拝一刀、刻み
出せし木像あり難や三十二
相円満の
当体即仏、
御利益疑なしと
腥き
和尚様語られしが、さりとは浅い
詮索、
優鈿大王とか
饂飩大王とやらに頼まれての
仕事、仏師もやり損じては大変と額に汗流れ、眼中に
木片の
飛込も構わず、恐れ
惶みてこそ作りたれ、
恭敬三昧の
嬉き者ならぬは、御本尊様の前の
朝暮の
看経には
草臥を
喞たれながら、
大黒の
傍に下らぬ
雑談には夜の
更るをも
厭い玉わざるにても知るべしと、評せしは両親を寺参りさせおき、鬼の留守に洗濯する命じゃ、
石鹸玉
泡沫夢幻の世に楽を
為では損と帳場の金を
攫み出して
御歯涅溝の水と流す息子なりしとかや。
珠運は段々と
平面板に
彫浮べるお
辰の像、元より
誰に頼まれしにもあらねば細工料取らんとにもあらず、
唯恋しさに余りての業、
一刀削ては
暫く
茫然と
眼を
瞑げば
花漬めせと
矯音を
洩す口元の愛らしき
工合、オヽそれ/\と影を
促えて
再一ト
刀、一ト
鑿突いては跡ずさりして
眺めながら、幾日の恩愛
扶けられたり扶けたり、熱に汗蒸れ
垢臭き
身体を
嫌な様子なく
柔しき手して介抱し
呉たる嬉しさ今は風前の雲と消えて、
思は
徒に都の空に
馳する事悲しく、なまじ最初お辰の難を助けて
此家を出し
其折、
留められたる
袖思い
切て振払いしならばかくまでの切なる
苦とはなるまじき者をと、恋しを恨む恋の愚痴、
吾から吾を
弁え難く、
恍惚とする所へ
著るゝお辰の姿、
眉付媚かしく
生々として
睛、何の
情を含みてか
吾与えし
櫛にジッと見とれ居る美しさ、アヽ
此処なりと
幻像を写して
再一鑿、
漸く二十日を越えて最初の意匠誤らず、花漬売の時の
襤褸をも
著せねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜菊色々の
花綴衣麗しく
引纏せたる全身像
惚た眼からは観音の
化身かとも見れば
誰に遠慮なく
後光輪まで
付て、天女の
如く見事に出来上り、
吾ながら満足して
眷々とながめ
暮せしが、其夜の夢に
逢瀬平常より嬉しく、胸あり
丈ケの
口説濃に、恋
知ざりし珠運を
煩悩の
深水へ導きし
笑窪憎しと云えば、
可愛がられて喜ぶは浅し、
方様に口惜しい程憎まれてこそ
誓文移り気ならぬ真実を命
打込んで御見せ
申たけれ。
扨は迷惑、一生
可愛がって
居様と思う男に。アレ
嘘、後先
揃わぬ御言葉、どうでも殿御は口上手と、締りなく
睨んで
打つ真似にちょいとあぐる、
繊麗な手首
緊りと
捉て
柔に握りながら。
打るゝ程憎まれてこそ
誓文命
掛て移り気ならぬ真実をと早速の
鸚鵡返し、
流石は
可笑しくお辰笑いかけて、身を縮め声低く、
此手を。離さぬが悪いか。ハイ。これは/\く大きに失礼と
其儘離してひぞる
真面目顔を、心配相に横から
覗き込めば見られてすまし
難く其眼を邪見に
蓋せんとする平手、それを握りて、離さぬが悪いかと
男詞、
後は
協音の
笑計り残る
睦じき中に、
娘々と子爵の
声。
目覚れば
昨宵明放した窓を
掠めて飛ぶ
烏、憎や
彼奴が鳴いたのかと
腹立しさに振向く途端、彫像のお辰夢中の人には
遙劣りて身を
掩う数々の花うるさく、
何処の
唐草の
精霊かと
嫌になったる心には悪口も
浮み
来るに、今は何を着すべしとも思い
出せず工夫錬り練り刀を
礪ぎぬ。
腕を隠せし花一輪削り二輪削り、
自己が意匠の
飾を捨て人の天真の美を
露わさんと勤めたる
甲斐ありて、なまじ着せたる花衣
脱するだけ面白し。
終に肩のあたり
頸筋のあたり、梅も桜も
此君の
肉付の美しきを
蔽いて誇るべき程の美しさあるべきやと
截ち
落し切り落し、むっちりとして愛らしき乳首、
是を隠す菊の花、香も無き
癖に
小癪なりきと刀
急しく是も取って払い、
可笑や
珠運自ら
為たる
業をお
辰の
仇が
為たる事の
様に憎み今刻み
出す
裸体も想像の
一塊なるを
実在の様に思えば、
愈々昨日は
愚なり玉の上に
泥絵具彩りしと何が何やら独り後悔
慚愧して、聖書の中へ
山水天狗楽書したる児童が日曜の朝
字消護謨に気をあせる
如く、周章
狼狽一生懸命
刀は手を離れず、手は刀を離さず、必死と
成て
夢我夢中、きらめく
刃は金剛石の燈下に
転ぶ光きら/\
截切る音は
空駈る
矢羽の風を
剪る如く、一足
退って
配合を
見糺す時は
琴の糸断えて
余韵のある如く、
意糾々気
昂々、
抑も幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験
修錬、
渦まき起って
沸々と、今
拳頭に
迸り、
倦も
疲も忘れ果て、心は
冴に
冴渡る不乱不動の
精進波羅密、骨をも休めず筋をも緩めず、
湧くや額に玉の汗、去りも
敢ざる不退転、耳に世界の音も
無、腹に
饑をも補わず
自然と
不惜身命の
大勇猛には
無礙無所畏、
切屑払う熱き息、吹き掛け
吹込む一念の誠を注ぐ眼の光り、
凄まじきまで凝り詰むれば、
爰に
仮相の
花衣、
幻翳空華解脱して
深入無際成就一切、
荘厳端麗あり難き実相
美妙の
風流仏仰ぎて珠運はよろ/\と幾足うしろへ
後退り、ドッカと
坐して飛散りし花を
捻りつ
微笑せるを、
寸善尺魔の
三界は
猶如火宅や。珠運さま珠運さまと
呼声戸口にせわし。
[#改ページ]
下碑が是非
御来臨なされというに盗まれべき者なき
破屋の気楽さ、
其儘亀屋へ行けば吉兵衛
待兼顔に挨拶して奥の一間へ導き、
扨珠運様、あなたの
逗留も既に長い事、あれ程
有し雪も大抵は
消て
仕舞ました、
此頃の天気の
快さ、旅路もさのみ苦しゅうはなし
其道勉強の
為に諸国
行脚なさるゝ身で、今の時候にくすぶりて
計り居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは
無ろうが若い人の癖とてあのお
辰に心を
奪れ、
然も取残された
恨はなく、その木像まで刻むと
云は恋に親切で世間に
疎い
唐土の天子様が
反魂香焼れた
様な
白痴と悪口を
叩くはおまえの為を思うから、実はお辰めに
逢わぬ昔と
諦らめて奈良へ修業に
行て、
天晴名人となられ、
仮初ながら
知合となった
爺の耳へもあなたの
良評判を聞せて
貰い
度い、然し何もあなたを
追立る訳ではないが、昨日もチラリト窓から
覗けば像も見事に出来た様子、
此上長く此地に
居れても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに
付てお前
可愛く、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも
良様昨夕聢と考えて見たが、
何でも詰らぬ恋を
商買道具の一刀に
斬て
捨、横道入らずに奈良へでも西洋へでも
行れた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事
仕た
覚はないが、
是が罪になって地獄の
鉄札にでも
書れはせぬかと、
今朝も仏様に朝茶
上る時
懺悔しましたから、爺が勧めて爺が
廃せというは
黐竿握らせて
殺生を禁ずる
様な者で真に
云憎き意見なれど、
此を我慢して
謝罪がてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は
活物杓子定規の理屈で
平押には
行ず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺
参して御先祖様の墓に
樒一束
手向る
易さより孫娘に
友禅を
買て
着る苦しい方が
却て
仕易いから不思議だ、損徳を
算盤ではじき出したら、珠運が一身
二一添作の五も六もなく
出立が徳と極るであろうが、人情の
秤目に
懸ては、魂の
分銅次第、
三五が十八にもなりて
揚屋酒一猪口が
弗箱より重く、色には目なし無二
無三、
身代の
釣合滅茶苦茶にする男も世に多いわ、おまえの、イヤ、あなたの
迷も
矢張人情、そこであなたの
合点の
行様、年の功という
眼鏡をかけてよく/\
曲者の恋の正体を見届た所を話しまして、お辰めを思い
切せましょう。
先第一に何を
可愛がって
誰を
慕うのやら、調べて見ると余程おかしな者、爺の
考では恐らく女に
溺れる男も男に
眩む
[#「眩む」は底本では「呟む」]女もなし、皆々手製の影法師に
惚るらしい、
普通の人の恋の
初幕、梅花の
匂ぷんとしたに
振向ば柳のとりなり玉の顔、さても美人と感心した所では
西行も
凡夫も
変はなけれど、
白痴は其女の影を自分の
睛の底に
仕舞込で忘れず、それから因縁あれば両三度も落合い
挨拶の一つも云わるゝより影法師殿段々堅くなって、
愛敬詞を
執着の耳の奥で繰り返し玉い、
尚因縁深ければ
戯談のやりとり親切の
受授男は
一寸行にも新著百種の一冊も
土産にやれば女は、夏の
夕陽の憎や
烈しくて御暑う御座りましたろと、
岐阜団扇に風を送り氷水に
手拭を絞り
呉れるまでになってはあり難さ
嬉しさ
御馳走の
瓜と共に
甘い事胃の
腑に
染渡り、さあ
堪らぬ影法師殿むく/\と魂入り、働き出し玉う
御容貌は百三十二
相も
揃い
御声は
鶯に
美音錠飲ましたよりまだ清く、
御心もじ広大
無暗に
拙者を
可愛がって下さる結構
尽め
故堪忍ならずと、車を横に押し
親父を勘当しても女房に持つ覚悟
極めて
目出度婚礼して見ると自分の
妄像ほど
真物は面白からず、
領脚が
坊主で、乳の下に焼芋の
焦た
様の
痣あらわれ、然も
紙屑屋とさもしき議論致されては意気な声も
聞たくなく、
印付の
花合せ
負ても平気なるには
寛容なる
御心却って迷惑、どうして
此様な
雌を
配偶にしたかと後悔するが天下半分の
大切、
真実を
云ば一尺の
尺度が二尺の影となって映る通り、自分の心という
燈から、さほどにもなき女の影を天人じゃと思いなして、恋も
恨もあるもの、お辰めとても
其如く、おまえの心から
製えた影法師におまえが
惚れて居る
計り、お辰の像に後光まで
付た所では、
天晴女菩薩とも信仰して居らるゝか知らねど、影法師じゃ/\、お辰めはそんな気高く優美な女ならずと、
此爺も今日悟って憎くなった迷うな/\、
爰にある新聞を
読め、と
初は手丁寧後は
粗放の
詞づかい、散々にこなされて。おのれ
爺め、えせ
物知の恋の講釈、いとし女房をお辰めお辰めと
呼捨片腹痛しと
睨みながら、
其事の返辞はせず、昨日頼み
置し
胡粉出来て居るかと
刷毛諸共に
引
ように受取り、新聞懐中して止むるをきかず
突と
立て畳ざわりあらく、
馴し
破屋に
駈戻りぬるが、優然として
長閑に
立る
風流仏見るより
怒も収り、何はさておき色合程よく仮に
塗上て、柱にもたれ
安坐して
暫く
眺めたるこそ
愚なれ。吉兵衛の
詞気になりて開く新聞、岩沼令嬢と
業平侯爵と題せる所をふと読下せば、
深山の
美玉都門に
入てより三千の


に顔色なからしめたる評判
嘖々たりし当代の佳人岩沼令嬢には幾多の公子豪商熱血を頭脳に
潮して
其一顰一笑を得んと
欲せしが
預て
今業平と世評ある某侯爵は
終に子爵の
許諾を経て近々結婚せらるゝよし侯爵は英敏閑雅今業平の称
空しからざる好男子なるは人の
知所なれば令嬢の
艶福多い
哉侯爵の艶福も
亦多い
哉艶福万歳
羨望の
到に
勝ず、と見る/\面色赤くなり青くなり新聞紙
引裂捨て
何処ともなく
打付たり。
虚言という者
誰吐そめて正直は
馬鹿の
如く、真実は
間抜の
様に扱わるゝ事あさましき世ぞかし。
男女の間変らじと
一言交せば一生変るまじきは
素よりなるを、
小賢しき
祈誓三昧、誠少き
命毛に
情は薄き墨含ませて、文句を飾り色めかす腹の
中慨かわしと昔の人の
云たるが、
夫も
牛王を血に
汚し神を証人とせしはまだゆかしき所ありしに、近来は
熊野を茶にして
罰を恐れず、金銀を命と
大切にして、
一金千両
也右借用仕候段実正なりと本式の証文
遣り置き、変心の暁は
是が口を
利て必ず
取立らるべしと汚き
小判を
枷に約束を
堅めけると、
或書に見えしが、
是も
烏賊の墨で文字書き、
亀の
尿を印肉に
仕懸るなど
巧み
出すより
廃れて、当時は手早く女は男の公債証書を
吾名にして取り
置、男は女の親を
人質にして
僕使うよし。
亭主持なら理学士、文学士
潰が利く、女房
持たば音楽師、
画工、産婆三割徳ぞ、ならば
美人局、げうち、板の間

ぎ等の
業出来て
然も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに
詫付華族の若様のゴールの指輪一日に
五六位取る程の者望むような世界なれば、
汝珠運能々用心して人に
欺かれぬ
様すべしと師匠教訓されしを、何の悪口なと
冷笑しが、なる程、
我正直に
過て
愚なりし、お
辰を
女菩薩と思いしは第一の
過り、
折疵を隠して刀には
樋を彫るものあり、根性が腐って
虚言美しく、田原が
持て来た手紙にも、
御なつかしさ
少時も忘れず
何れ近き
中父様に申し
上やがて
朝夕御前様御傍に
居らるゝよう神かけて祈り
居りなどと我を
嬉しがらせし事憎し憎しと、
怨の
眼尻鋭く、柱にもたれて身は力なく
下たる
頭少し
上ながら
睨むに、浮世のいざこざ知らぬ顔の彫像
寛々として大空に月の
澄る
如く
佇む気高さ、見るから我胸の疑惑
耻しく、ホッと息
吐き、アヽ
誤てり、是程の麗わしきお辰、何とてさもしき心もつべき、
去し日
亀屋の奥
坐敷に一生の大事と我も彼も
浮たる言葉なく、
互に飾らず疑わず固めし約束、
仮令天飛ぶ雷が今
落ればとて二人が中は
引裂れじと契りし者を、よしや子爵の威権烈しく
他し
聟がね定むるとも、我の命は彼にまかせお辰が命は珠運
貰いたれば、
何の命
何の
身体あって侯爵に添うべきや、
然も其時、身を我に
投懸て、
艶やかなる前髪
惜気もなく
我膝に
押付、
動気可愛らしく泣き
俯しながら、
拙き
妾めを思い込まれて
其程までになさけ厚き仰せ、
冥加にあまりてありがたしとも嬉しとも
此喜び申すべき
詞知らぬ
愚の口惜し、忘れもせざる
何日ぞやの朝、見所もなき
櫛に数々の花
彫付て
賜わりし折より、
柔しき御心ゆかしく思い
初、
御小刀の跡
匂う梅桜、
花弁一片も
欠せじと大事にして、昼は
御恩賜頭に
挿しかざせば
我為の玉の冠、かりそめの
立居にも
意を
注て
落るを
厭い、夜は針箱の底深く
蔵めて
枕近く
置ながら
幾度か又
開て見て
漸く
睡る事、何の為とは
妾も知らず、殊更其日
叔父の
非道、
勿体なき悪口
計り、是も
妾め
故思わぬ不快を耳に入れ玉うと
一一胸先に痛く、さし
詰る
癪押えて御顔
打守しに、
暢やかなる御気象、
咎め
立もし玉わざるのみか何の苦もなくさらりと
埒あき、重々の御恩
荷うて余る
甲斐なき身、せめて肩
揉め脚
擦れとでも
僕使玉わばまだしも、
却て口きゝ玉うにも物柔かく、
御手水の
温湯椽側に
持て参り、
楊枝の房少しむしりて塩
一小皿と共に
塗盆に
載せ
出す
僅計の事をさえ、我
夙起の癖故に
汝までを
夙起さして
尚寒き朝風につれなく
袖をなぶらする痛わしさと人を
護う御言葉、
真ぞ人間五十年君に任せて露
惜からず、
真実あり
丈智慧ありたけ
尽して御恩を報ぜんとするに
付て慕わしさも
一入まさり、心という者一つ
新に
添たる
様に、
今迄は
関わざりし
形容、いつか繕う気になって、髪の
結様どうしたら
誉らりょうかと鏡に
対って小声に問い、
或夜の
湯上り、
耻しながらソッと
薄化粧して
怖怖坐敷に
出しが、
笑片頬に見られし御
眼元何やら
存るように覚えて、人知らずカッと上気せしも、
単に
身嗜計にはあらず、
勿体なけれど
内内は
可愛がられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の
貴下との問答、婚礼せよせぬとの争い、
不図立聞して
魂魄ゆら/\と足
定らず、
其儘其処を
逃出し人なき
柴部屋に夢の
如く
入と等しく、せぐりくる涙、あなた程の方の女房とは
我身の
為を思われてながら吉兵衛様の
無礼過た言葉恨めしく、
水仕女なりともして一生
御傍に居られさいすれば
願望は足る者を余計な世話、我からでも言わせたるように
聞取られて
疎まれなば取り返しのならぬ
暁、辰は何になって何に終るべきと
悲み、珠運様も珠運様、余りにすげなき御言葉、
小児の
捉た
小雀を放して
遣った位に辰を思わるゝか知らねどと泣きしが、
貴下はそれより
黙言で亀屋を
御立なされしに、十日も
苅り
溜し草を一日に
焼たような心地して、尼にでもなるより外なき身の行末を
歎しに、
馬籠に御病気と聞く途端、アッと驚く
傍に
愚な心からは看病するを
嬉く、御介抱
申たる
甲斐ありて今日の御
床上、
芽出度は
芽出度れど又もや
此儘御立かと
先刻も台所で思い屈して居たるに、吉兵衛様御内儀が、珠運様との縁
続ぎ
度ば其人様の髪一筋知れぬように
抜て、おまえの髪と
確り結び
合せ
※※[#「口+(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」、U+55BC、224-9][#「口+(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」、U+55BC、224-9]如律令と
唱えて谷川に流し
捨るがよいとの事、憎や
老嫗の癖に我を
嬲らるゝとは
知ながら、
貴君の
御足を
止度さ故に
良事教られしよう
覚て
馬鹿気たる
呪も、
試て見ようかとも惑う程小さき胸の
苦く、
捨らるゝは此身の
不束故か、此心の浅き故かと独り
悔しゅう悩んで
居りましたに、あり難き今の仰せ、神様も御照覧あれ、辰めが一生はあなたにと熱き涙
吾衣物を
透せしは、そもや、
嘘なるべきか、新聞こそ
当にならぬ者なれ、
其を
真にして
信ある女房を疑いしは、我ながらあさましとは思うものゝ形なき事を記すべしとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位
貴く、姿うるわしく、才いみじきよし、エヽ
妬ましや、
我位なく、姿美しからず、才もまた鈍ければ、
較られては
敵手にあらず。
扨こそ子爵が
詞通り、思想も発達せぬ
生若い者の感情、都風の軽薄に流れて変りしに相違なきかと
頻に迷い沈みけるが思いかねてや一声
烈しく、今ぞ
知たり移ろい
易き女心、我を侯爵に
見替て、
汝一人の栄華を
誇る、
情なき仰せ、
此辰が。
アッと驚き
振仰向ば、
折柄日は傾きかゝって
夕栄の空のみ外に明るく
屋の内
静に、淋し気に立つ彫像
計り。さりとては
忌々し、一心乱れてあれかこれかの
二途に別れ、お辰が声を耳に
聞しか、吉兵衛の意見ひし/\と
中りて残念や、
妄想の影法師に馬鹿にされ、
有もせぬ声まで聞し
愚さ、
箇程までに迷わせたるお辰め、
汝も浮世の潮に漂う
浮萍のような
定なき女と知らで天上の
菩薩と誤り、
勿体なき
光輪まで
付たる事口惜し、
何処の
業平なり
癩病なり、勝手に縁組、勝手に
楽め。あまりの御言葉、定めなきとはあなたの御心。あら不思議、
慥に
其声、是もまだ
醒ぬ
無明の夢かと
眼を
擦って見れば、しょんぼりとせし像、耳を
澄せば
予て知る
樅の木の
蔭あたりに子供の集りて
鞠つくか、風の
持来る数え
唄、
一寸百突て渡いた受取った/\一つでは乳首啣えて二つでは乳首離いて三つでは親の寝間を離れて四つにはより糸より初め五では糸をとりそめ六つでころ機織そめて――
と苦労知らぬ高調子、無心の口々
長閑に、拍子取り
連て、歌は人の作ながら声は天の
籟美しく、
慾は百ついて帰そうより他なく、
恨はつき損ねた時罪も
報も共に忘れて、恋と無常はまだ無き世界の、楽しさ
羨しく、
噫無心こそ
尊けれ、昔は我も何しら糸の清きばかりの一筋なりしに、
果敢なくも嬉しいと云う事身に
染初しより、やがて辛苦の結ぼれ
解ぬ
濡苧の
縺の物思い、
其色嫌よと、
眼を
瞑げば
生憎にお辰の面影あり/\と、涙さしぐみて、
分疏したき風情、
何処に憎い所なし。なる程定めなきとはあなたの御心、新聞一枚に堅き約束を
反故となして怒り玉うかと
喞たれて見れば無理ならねど、子爵の
許に
行てより手紙は
僅に田原が一度
持て
来りし
計り、
此方から
遣りし度々の消息、
初は親子再会の
祝、中頃は
振残されし
喞言、人には
聞せ
難きほど
耻しい
文段までも、筆とれば其人の耳に
付て話しする
様な心地して我しらず
愚にも、
独居の
恨を数うる
夜半の鐘はつらからで、
朧気ながら
逢瀬うれしき
通路を
堰く
鶏めを夢の名残の
本意なさに憎らしゅう存じ
候など
書てまだ足らず、
再書濃々と、色好み深き都の
若佼を
幾人か迷わせ玉うらん
御標致の美しさ、
却って心配の
種子にて我をも
其等の
浮たる人々と同じ
様に
思し
出らんかと
案じ
候ては
実に/\頼み薄く
口惜ゅう覚えて、あわれ
歳月の早く
立かし、
御おもかげの変りたる時にこそ
浅墓ならぬ
我恋のかわらぬ者なるを
顕したけれと、無理なる
願をも神前に
歎き
聞え
候と、愚痴の数々まで記して丈夫そうな状袋を
択み、封じ目油断なく、幾度か
打かえし/\見て、印紙正しく張り
付、漸く差し
出したるに
受取たと
計の返辞もよこさず、今日は明日はと待つ郵便の
空頼なる不実の仕方、それは
他し婿がね取らせんとて父上の皆
為されし事。又しても
妄想が我を
裏切して迷わする声憎しと、
頭を
上れば風流仏悟り
済した顔、外には
清水の三本柳の一羽の雀が鷹に取られたチチャポン/\一寸百ついて渡いた渡いた
の他音もなし、
愈々影法師の仕業に定まったるか、エヽ
腹立し、我
最早すっきりと思い断ちて
煩悩愛執一切
棄べしと、胸には
決定しながら、
尚一分の未練残りて
可愛ければこそ
睨みつむる彫像、
此時雲収り、日は
没りて東窓の部屋の
中やゝ暗く、
都ての物薄墨色になって、暮残りたるお辰白き肌
浮出る如く、
活々とした姿、
朧月夜に
真の人を見る
様に、呼ばゞ答もなすべきありさま、
我作りたる者なれど
飽まで
溺れ
切たる珠運ゾッと総身の毛も
立て
呼吸をも忘れ居たりしが、猛然として思い
飜せば、
凝たる
瞳キラリと動く
機会に面色
忽ち変り、エイ
這顔の美しさに迷う物かは、針ほども心に面白き所あらば命さえ
呉てやる珠運も、何の操なきおのれに未練残すべき、
其生白けたる
素首見も
穢わしと身動きあらく
後向になれば、よゝと泣声して、それまでに疑われ
疎まれたる身の
生甲斐なし、とてもの事
方様の手に
惜からぬ命
捨たしと
云は、正しく木像なり、あゝら怪しや、
扨は一念の恋を
凝して、作り
出せしお辰の像に、我魂の
入たるか、よしや我身の
妄執の
憑り移りたる者にもせよ、今は恩愛
切て
捨、迷わぬ
初に
立帰る珠運に
妨なす
妖怪、いでいで仏師が腕の
冴、恋も未練も
段々に
切捨くれんと
突立て、右の手高く
振上し
鉈には鉄をも砕くべきが気高く
仁しき
情溢るる
計に
湛ゆる姿、さても水々として柔かそうな
裸身、
斬らば熱血も
迸りなんを、どうまあ邪見に
鬼々しく
刃の
酷くあてらるべき、
恨も
憎も火上の氷、思わず珠運は
鉈取落して、恋の叶わず
思の切れぬを
流石男の男泣き、一声
呑で身をもがき、
其儘ドウと
臥す途端、ガタリと何かの倒るゝ音して天より
出しか地より
湧しか、玉の
腕は温く我
頸筋にからまりて、雲の
鬢の毛
匂やかに
頬を
摩るをハット驚き、
急しく見れば、
有し昔に
其儘の。お辰かと珠運も
抱しめて
額に唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら、
問ば
拙く語らば遅し。
玄の
又玄摩訶不思議。
[#改ページ]
恋に必ず、必ず、
感応ありて、一念の誠
御心に
協い、
珠運は
自が
帰依仏の
来迎に
辱なくも
拯いとられて、お
辰と共に手を携え肩を
駢べ優々と雲の上に
行し
後には
白薔薇香薫じて
吉兵衛を初め一村の老幼
芽出度とさゞめく声は天鼓を撃つ
如く、
七蔵がゆがみたる耳を貫けば
是も我慢の
角を
落して
黒山の
鬼窟を
出、
発心勇ましく田原と共に左右の
御前立となりぬ。
其後光輪美しく白雲に
駕て
所々に見ゆる者あり。
或紳士の拝まれたるは
天鵞絨の洋服
裳長く着玉いて
駄鳥の羽宝冠に
鮮なりしに、
某貴族の見られしは白
襟を
召て錦の
御帯金色赫奕たりしとかや。
夫に引変え
破褞袍着て
藁草履はき腰に
利鎌さしたるを農夫は拝み、
阿波縮の
浴衣、
綿八反の帯、洋銀の
簪位の御姿を見しは
小商人にて、風寒き北海道にては、
鰊の
鱗怪しく光るどんざ
布子、
浪さやぐ
佐渡には、色も定かならぬさき織を着て漁師共の
眼にあらわれ玉いけるが
業平侯爵も
程経て
踵小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに
値偶せられけるよし。
是皆
一切経にもなき一体の風流仏、珠運が刻みたると同じ者の千差万別の
化身にして少しも相違なければ、拝みし者
誰も彼も一代の
守本尊となし、信仰
篤き時は子孫
繁昌家内
和睦、
御利益疑なく
仮令少々御本尊様を恨めしき
様に思う事ありとも珠運の如くそれを火上の氷となす者には
素より
持前の
仏性を
出し玉いて愛護の
御誓願空しからず、
若又過ってマホメット
宗モルモン
宗なぞの
木偶土像などに近づく時は
現当二世の
御罰あらたかにして
光輪を
火輪となし
一家をも
魂魂をも
焼滅し玉うとかや。あなかしこ
穴賢。