人間には色々の仕草があるがつゞめて言へば、事に処すると、物に接するとの二ツになる、事に処すると云ふは、其処に生じて来た或る事情に対して、
事に処するは、非常に多端である。何となれば、其処に生ずる事情は、際限なく種々様々な形を以て現はれて来るから、之に対する道も決して一通りや二通りでない訳で、大体は道理の正しきに従ひ、人情の美しきに従ふべきではあるが、さりとて一様に言ひ切れぬ。或時は手強く、或時は誠実一方で、亦或時は便宜に従ふを宜しいとする場合もある。
そこで、今それは暫くとして、物に接するといふ方を申さうならば、一体この物といふのは事と違つて死物である。事の方は事情であるから、千差万別が限りなく、変化百端動いて止まざるものであるが、物の方は、これも万物と云つて際限なく数多いものであるが、はるかに静的である。
例えば、此処に茶碗がある、茶卓がある、土瓶がある、鉄瓶があるといふ如く、此等の物も実に測り知られざる数であるが、兎に角我心以外の物であつて、所謂物質といふ言葉で尽されるもので、その一箇一箇は固定してゐる。勿論、物質そのものも変化せぬではない。水が湯となり氷となるが、人生の事情の多端錯雑、変幻極まりなきに比べてはるかに簡単であり、したがつて物に接するは、事に処するよりも単純であるが、それでも本当に物に接するといふことに徹底するには、大分の知慮分別と、鍛練修業を必要とする。
然し、物に接する事がよく出来ぬ位では、世に立ち人事百般に処するは、なほ
例へば、我が帽子、我が衣服の如きは我物であるから、
さういふ事は何でもない、些細の事であると思ふけれども大変な大切な事で、その当を得ると得ぬとは、その人の心の有様を語つてゐるものである、その人の事業の順当に行くか行かぬかを語つてゐるものである。些細と見るのは間違ひである。若し袴を逆にはいたり、刀を右に差したりして、それで何でも
帽子や袴の事は誰でも知つてゐて、そんな事をするものもないが、一段進んで見るとそれに似た事で色々の接し方がある。例えば、日本家屋の部屋といふものは大抵は方形亦は矩形で、丸いのだの三角のだのは殆ど見当らぬ。それ故に、その部屋の内の色々の物の置き方も俗に云ふ畳の目なりに置けば都合が宜しいのである。然るに四角の火鉢を一ツ置くにしても、亦、机、本箱、煙草盆其他のものを置くにしても畳の目に従ふやうに置かぬ人が仲々多い。さう云ふ具合に置くと、室内は直に、乱雑、混乱、不体裁と、従つて不便を生じるものであるが、さて其処に気が
これはたゞ物の置き方の話であるが、物の積み方もさうで、小さい物を下にして大きい物を上に積めば、その結果は甚だ宜しくない。これ位の僅な事は考へるまでもなく誰でも承知してゐることであるが、実際は小さいものゝ上に大きい物を重ねる様な真似を
これ等は物の扱ひ方といふ迄であるが、さて亦その上に物を扱ふにつけての心がけといふものがある、この心がけの段になると、仲々出来てゐる人は少い。物を扱ふ心がけに於ては、何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの理や、強さや、必要さやを尽させるのが正当である。この心がけが足りないと、物をしてその必要を尽す間もなく、その力を出す間もなく、その美しさを保たせずして終らせて了ふといふ事になる。
例えば、一本の筆でも、これを扱ふに道を以てせなければ、
然らば如何にして、物に接すべきか。
それには、その物を愛する、この心がけが最も重大なものであつて、これは仁である。
その物を理解し、正しく取り扱ふ、これは次に大切な心がけであつて、これは義である。物に接するにも仁義が第一である。
(大正十五年二月)