此一日
其一
観見世間是滅法、
欲求無尽涅槃処、
怨親已作平等心、
世間不行慾等事、
随依山林及樹下、
或復塚間露地居、
捨於一切諸有為、
諦観真如乞食活、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
実に
往時はおろかなりけり。つく/″\静かに
思惟すれば、我
憲清と呼ばれし頃は、力を文武の道に
労らし命を寵辱の
岐に懸け、
密かに自ら我をば
負み、老病死苦の
免さぬ身をもて
貪瞋痴毒の
業をつくり、私邸に起臥しては朝暮
衣食の獄に繋がれ、禁庭に出入しては年月名利の
坑に墜ち、小川の水の流るゝ如くに妄想の
漣波絶ゆる
間なく、枯野の萱の燃ゆらむやうに煩悩の
火
時あつて閃めき、意馬は常に六塵の境に馳せて心猿
動もすれば十悪の枝に移らんとし、危くもまた浅ましく、昨日見し人今日は亡き世を夢と見る/\果敢なくも猶驚かで、鶯の霞にむせぶ明ぼのの声は
大乗妙典の御名を呼べども、
羝羊の
暗昧無智の耳うとくて無明の眠りを破りもせず、吹きわたる嵐の音は松にありて、空をさまよふ浮雲に磨かれ出づる秋の夜の月の光をあはれ宿す、荒野の裾のむら薄の露の白珠あへなくも、末葉元葉を分けて行く風に砕けてはら/\と散るは
真に即無常、
金口説偈の姿なれども、
※※[#「目+(黒の旧字/土)」、117-上-19][#「塞」の「土」に代えて「目」、117-上-19]として視る無き
瞎驢の何を悟らむ由もなく、いたづらに
御祓済してとり流す
幣もろともに夏を送り、窓おとづるゝ初時雨に冬を迎へて世を経しが、物に定まれる性なし、人いづくんぞ常に
悪からむ、縁に遇へば則ち
庸愚も大道を
庶幾し、教に順ずるときんば凡夫も賢聖に斉しからむことを思ふと、高野大師の宣ひしも嬉しや。
一歳法勝寺御幸の節、郎等一人六条の
判官が手のものに搦められしを、
厭離の
牙種、
欣求の
胞葉として、大治二年の十月十一日拙き和歌の御感に預り、忝なくも勅禄には朝日丸の
御佩刀をたまはり、女院の御方よりは十五重りたる紅の御衣を賜はり、身に余りある面目を施せしも、畏くはあれど心それらに留まらず、ひたすら世路を出でゝ菩提に入り
敷華成果の暁を望まむと、遂に其月十五夜の、
玉兎も仏国西方に傾く頃を南無仏南無仏、
恩愛永離の時こそ来つれと、
髻斬つて
持仏堂に投げこみ、露憎からぬ妻をも捨て、いとをしみたる幼きものをも歯を
切つて振り捨てつ、弦を離れし
箭の如く
嵯峨の奥へと走りつき、ありしに代へて心安き
一鉢三衣の身となりし
以来、花を採り水を
掬むでは聊か大恩教主の御前に一念の至誠を
供じ、案を払ひ香を
拈つては謹んで無量義経の其中に両眼の熱光を注ぎ、
兀坐寂寞たる或夜は、
灯火のかゝげ力も無くなりて
熄まる光りを待つ我身と観じ、
徐歩逍遥せる或時は、
蜘蛛の糸につらぬく露の珠を懸けて飾れる人の世と悟りて、ます/\勤行怠らず、三懺の涙に六度の船を浮めて、五力の帆を揚げ二障の波を凌がむとし、山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の
飛沫に
網代小笠の
塵垢を
濯ぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆
御法説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士の
煙りに思ひを
擬へ、
鴫立沢の夕暮に

を
停めて一人歎き、一人さまよふ武蔵野に千草の露を踏みしだき、果白河の関越えて
幾干の山河隔たりし都の方をしのぶの里、おもはくの橋わたり過ぎ、嵐烈しく雪散る日辿り着きたる平泉、
汀凍れる衣川を衣手寒く眺めやり、出羽にいでゝ多喜の山に
薄紅の花を
愛で、
象潟の雨に打たれ木曾の
空翠に咽んで、漸く
花洛に帰り来たれば、是や見し
往時住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、
色即空の
道理を示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が
朋友はいづち行きけむ無常迅速の
為体は、水漂草の
譬喩に異ならず、いよ/\心を励まして、
遼遠なる巌の
間に独り居て人め思はず物おもはゞやと、
数旬北山の庵に行ひすませし後、飄然と身を起し、加茂明神に
御暇告して仁安三年秋の初め、塩屋の薄煙りは松を縫ふて緩くたなびき、小舟の白帆は霧にかくれて静に去るおもしろの須磨明石を経て、行く/\歌枕さぐり見つゝ図らずも此所
讚岐の国
真尾林には来りしが、此所は
大日流布の大師の生れさせ給ひたる地にも近く、何と無く心とゞまりて
如斯草庵を引きむすび、
称名の声の
裏には散乱の意を摂し、
禅那の行の
暇には吟咏のおもひに耽り悠

自ら楽むに、有がたや三世諸仏のおぼしめしにも叶ひしか、凡念日

に薄ぎて中懐淡きこと水を湛へたるに同じく、罪障刻

に
銷して
両肩軽きこと風を担ふが如くになりしを覚ゆ。おもへば往事は皆非なり、今はた更に何をか求めん。奢を
恣まにせば
熊掌の炙りものも
食ふに
美味ならじ、足るに任すれば
鳥足の繕したるも纏ふに
佳衣なり、ましてや
蘿のからめる窓をも捨てゞ月我を
吊ひ、松たてる軒に来つては風我に戯る、ゆかしき方もある住居なり、南無仏南無仏、あはれよき庵、あはれよき松。
久に経てわが後の世をとへよ松あとしのぶべき人も無き身ぞ
其二
真清水の世に出づべしともおもはねば見る眼寒げにすむ我を、慰め顔の一つ松よ。汝は
三冬にも其色を変へねば我も
一条に此心を移さず。なむぢ嵐に揺いでは翠光を机上の
黄巻に飛ばせば、我また風に托して香烟を
木末の幽花にたなびかす。そも/\我と汝とは
往時如何なる契りありけむ、かく相互に睦ぶこと是も他生の縁なるべし。草木国土
悉皆成仏と聞くときは猶行末も頼みあるに、我は汝を友とせん。菩提樹神のむかしは知らねど、腕を組み言葉を交へずとも、松心あらば汝も我を友と見よ。僧青松の蔭に睡れば松老僧の頂を摩す、僧と松とは
相応しゝ。我は汝を捨つるなからん。
此所をまた我すみ憂くてうかれなば松はひとりにならんとすらん
あら、心も無く
軒端の松を
寂しき庵の友として眺めしほどに、憶ひぞ出でし松山の、浪の景色はさもあらばあれ、世の
潮泡の跡方なく成りまし玉ひし新院の御事胸に浮び来りて、あらぬさまにならせられ
仁和寺の北の院におはしましける時、ひそかに参りて畏くも
御髪落させられたる御姿を、なく/\おぼろげながらに拝みたてまつりし其夜の月のいと明く、影もかはらで空に澄みたる情無かりし風情さへ、今
眼前に見ゆるがごとし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
実に
人界不定のならひ、是非も無き御事とは申せ、想ひ
奉るもいとかしこし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏阿弥陀仏。おもへば不思議や、長寛二年の秋八月廿四日は果敢なくも
志渡にて
崩れさせ玉ひし日と承はれば、月こそ
異れ明日は恰も其日なり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。いで
御陵のありと聞く白峯といふに明日は着き、
御墓の草をもはらひ、心の及ばむほどの
御手向けをもたてまつりて、いさゝか後世御安楽の御祈りをもつかまつるべきか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
其三
頃は十月の末、ところは荒凉たる境なれば、見渡す限りの景色いともの淋しく、冬枯れ野辺を吹きすさむ風
蕭
と
衣裾にあたり、落葉は辿る径を埋めて踏む足ごとにかさこそと、
小語くごとき声を発する中を

然として歩む西行。
衆聖中尊、
世間之父、
一切衆生、
皆是吾子、
深着世楽、
無有慧心、などと
譬喩品の
偈を口の中にふつ/\と唱へ/\、従ふ影を友として漸やく山にさしかゝり、次第/\に分け登れば、力なき日はいつしか光り薄れて時雨空の雲の
往来定めなく、
後山晴るゝ
歟と見れば前山忽まちに曇り、嵐に
駆られ霧に
遮へられて、
九折なる
岨を伝ひ、過ぎ来し方さへ失ふ頃、
前途の路もおぼつかなきまで黒みわたれる森に入るに、
樅柏の
大樹は枝を交はし葉を重ねて、杖持てる我が
手首をも青むるばかり茂り合ひ、梢に懸れる
松蘿は


として静かに垂れ、雨降るとしは無けれども空翠凝つて葉末より滴る露の冷やかに、衣の袖も立ち迷へる水気に湿りて濡れたるごとし。音にきゝたる
児が
岳とは今白雲に蝕まれ居る
峨
と聳えし
彼峯ならめ、さては此あたりにこそ
御墓はあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る/\
千仭の谷底より霧漠

と湧き上り、風に乱れて渦巻き立ち、崩るゝ雲と相応じて、忽ち大地に白布を引きはへたる如く立籠むれば、呼吸するさへに心ぐるしく、
四方を視るに霧の隔てゝ
天地はたゞ白きのみ、我が足すらも定かに見えず。何と思ひも分け得ざる間に、雲霧
自然と消え行けば、岩角の苔、樹の姿、ありしに変らで
眼に遮るものもなく、たゞ冬の日の暮れやすく彼方の峯に
既没りて、梟の
羽
し初め、空やゝ暗くなりしばかりなり。木立わづかに
間ある方の明るさをたよりて、
御陵尋ねまゐらする心のせわしく、
荊棘を厭はでかつ進むに、そも/\これをば、
清凉紫宸の玉台に四海の君とかしづかれおはしませし我国の帝の御墓ぞとは、かりそめにも申得たてまつらるべきや、わづかに土を盛り上げたるが上に
麁末なる石を三重に畳みなしたるあり。それさへ
狐兎の
踰ゆるに任せ
草莱の埋むるに任せたる事、勿体なしとも悲しとも、申すも畏し憚りありと、心も忽ち掻き暗まされて、夢とも
現とも此処を何処とも今を何時とも分きがたくなり、御墓の前に
平伏して
円顱を地に埋め、声も得立てず
咽び入りぬ。
其四
実にも頼まれぬ世の
果敢なさ、時運は
禁腋をも犯し宿業は玉体にも添ひたてまつること、まことに免れぬ
道理とは申せ、九重の雲深く金殿玉楼の中にかしづかれおはしませし御身の、
一坏の土あさましく
頑石叢棘の
下に神隠れさせ玉ひて、
飛鳥音を遺し
麋鹿痕を印する他には誰一人問ひまゐらするものもなき、かゝる辺土の
山間に物さびしく眠らせらるゝ御いたはしさ。ありし
往時、玉の
御座に
大政おごそかにきこしめさせ玉ひし頃は、三公九
卿首を
俛れ百官諸司袂をつらねて恐れかしこみ、
弓箭の
武夫伎能の士、あらそつて君がため心を傾ぶけ操を励まし、幸に
慈愍の御まなじりにもかゝり聊か勧賞の御言葉にもあづからむには、火をも踏み水にも
没り、生命を
塵芥よりも軽く捨てむと競ひあへりしも、今かくなり玉ひては皆対岸の人
異舟の
客となりて、半巻の経を誦し一句の
偈をすゝめたてまつる者だになし。世情は常に眼前に
着して走り天理は多く背後に
見はれ来るものなれば、千鐘の禄も
仙化の後には匹夫の情をだに致さする能はず、
狗馬たちまちに恩を忘るゝとも
固より憎むに足らず、三春の花も凋落の夕には
芬芳の香り早く失せて、
蝶漸く
情疎なるもまた恨むに詮なし。恐れ多けれども一天万乗の君なりとて欲界の網羅を脱し得玉はねば、
如是なり玉ふこと如是なり玉ふべき筈あり、憎まむ世も無く恨まむ天もあるべからず。おもんみれば、赫

たる大日輪は
螻蟻の穴にも光を惜まず、美女の
面にも熱を減ぜず、茫

たる
大劫運は
茅茨の屋よりも笑声を奪はず、天子眼中にも紅涙を
餽る、
尽大地の苦、尽大地の楽、
没際涯の
劫風滾
たり、何とりいでゝ歎き喞たむ。さはさりながら現土には無上の尊き御身をもて、よしなき事をおぼしたゝれし一念の御迷ひより、
幾干の
罪業を作り玉ひし上、浪煙る海原越えて浜千鳥あとは都へ通へども、身は松山に音をのみぞなく/\孤灯に夜雨を聴き
寒衾旧時を夢みつゝ、遂に空くなり玉ひし御事、あまりと申せば
御傷しく、後の世のほども推し奉るにいと恐ろしゝ。いざや
終夜供養したてまつらむと、
御墓より少し引きさがりたるところの
平めなる石の上に
端然と坐をしめて、いと静かにぞ誦しいだす。
妙法蓮華経提婆達多品第十二。
爾時仏告諸菩薩及天人四衆、
吾於過去無量劫中、
求法華経無有懈倦、
於多劫中常作国王、
発願求於無上菩提、
心不退転、
為欲満足六波羅密、
勤行布施、
心無悋惜、
象馬七珍国城妻子奴婢僕従、
頭目身肉手足不惜躯命、……
日は全く
没りしほどに山深き夜のさま常ならず、天かくすまで茂れる森の間に微なる風の渡ればや、
樹端の
小枝音もせず動きて、黒きが中に見え隠れする星の折ふしきら/\と鋭き光りを落すのみにて、月はいまだ出でず。ふけ行くまゝに霜冴えて
石床いよ/\冷やかに、
万籟死して落葉さへ動かねば、
自然と
神清み
魂魄も氷るが如き心地して何とはなしに物凄まじく、尚御経を細

と誦しつゞくるに、声はあやなき闇に迷ひて消ゆるが如く
存るが如く、空にかくれてまたふたゝび空より幽に出で来るごときを、吾が声とも
他の声ともおぼつかなく聴きつゝ、
濁劫悪世中、
多有諸恐怖、
悪鬼入其身、
罵詈毀辱我、と今しも
勧持品の
偈を称ふる時、夢にもあらず我が声の響きにもあらで、正しく円位


と呼ぶ声あり。
其五
西行かすかに
眼を転じて、声する方の闇を
覗へば、ぬば玉の黒きが中を朽木のやうなる光り有てる霧とも雲とも分かざるものの仄白く立ちまよへる上に、其
様異なる人の丈いと高く痩せ衰へて凄まじく骨立ちたるが、此方に向ひて
蕭然と
佇めり。素より生死の際に工夫修行をつみたる僧なれば恐ろしとも見ず、円位と呼ばれしは
抑何人にておはすや、と尋ぬれば、嬉しくも詣で来つるものよ、我を誰とは尋ねずもあれ、末葉吹く嵐の風のはげしさに園生の竹の露こぼれける露の身ぞ、よく
訪ひつるよ、と聞え玉ふ。あら情無や勿体なしや、さては院の
御霊の猶此
土をば捨てさせ玉はで、妄執の闇に
漂泊ひあくがれ、こゝにあらはれ玉ひし歟、あら悲しや、と地に伏して西行涙をとゞめあへず。
さりとてはいかに迷はせ玉ふや、
濁穢の世をば厭ひ捨て玉ひつることの尊くも有難くおぼえて、いさゝか
随縁法施したてまつりしに、六慾の巷にふたゝび
現形し玉ふは、いとかしこくも口惜き御心に侍り、
仮現の此
界にてこそ聖慮安らけからぬ節もおはしつれ、
不堅如聚沫の御身を地水火風にかへし玉ひつる上は、
旋転如車輪の御心にも和合動転を貪り玉はで、
隔生即忘、
焚塵即浄、無垢の本土に返らせ玉はむこそ願はまほしけれ、
頓ては迂僧も
肉壊骨散の暁を期し、
弘誓の仏願を頼りて彼岸にわたりつき、楽しく御傍に参りつかふまつるべし、迷はせ玉ふな迷はせ玉ふな、唯何事も夢まぼろし、世に時めきて栄ゆるも虚空に躍る水珠の、日光により七彩を暫く放つに異ならず、身を狭められ悶ゆるも闇夜を辿る
稚児の、樹影を認めて百鬼来たりと急に叫ぶが如くなれば、得意も非なり失意も非なり、歓ぶさへも
空なれば如何で何事の
実在ならんとぞ承はりおよぶ、
無有寃親想、
永脱諸悪趣、所詮は御心を刹那にひるがへして、
常生適悦心、
受楽無窮極、法味を永遠に楽ませ玉へ、と思入つて諫めたてまつれば、院の御霊は雲間に響く御声してから/\と
異様に笑はせ玉ひ、おろかや解脱の法を説くとも、仏も今は
朕が
敵なり、
涅槃も
無漏も
肯はじ、
徃時は人朕が
光明を奪ひて、
朕を
泥犂の闇に陥しぬ、今は朕人を涙に沈ましめて、朕が
冷笑の一
ト声の響の下に葬らんとす、おもひ観よ汝、漸く見ゆる世の乱は誰が為すこととぞ汝はおもふ、沢の蛍は天に舞ひ、
闇裏の
念は世に燃ゆるぞよ、朕は闇に動きて闇に行ひ、闇に笑つて闇に
憩ふ下津岩根の
常闇の国の
大王なり、
正法の水有らん限は魔道の波もいつか絶ゆべき、仏に五百の弟子あらば
朕にも六天八部の属あり、三世の諸仏菩薩の
輩、何の力か世にあるべき、たゞ徒に人の舌より人の耳へと飛び移り、またいたづらに耳より舌へと現はれ出でゝ遊行するのみ、朕が眷属の闇きより闇きに伝ひ行く悪鬼は、人の肺腑に潜み入り、人の
心肝骨髄に
咬ひ入つて絶えず血にぞ飽く、視よ見よ魔界の通力もて毒火を彼が胸に煽り、
紅炎を
此が眼より
迸らせ、弱きには
怨恨を抱かしめ強きには
瞋りを
発さしめ、やがて東に西に黒雲狂ひ立つ世とならしめて、北に南に
真鉄の光の
煌めき
交ふ時を来し、憎しとおもふ人

に朕が辛かりしほどを見するまで、朝家に
酷く
祟をなして天が下をば掻き乱さむ、と御勢ひ凛

しく
誥げたまふにぞ、西行あまりの御あさましさに、滝と流るゝ熱き涙をきつと抑へて、恐る
惶るいさゝか
首を
擡げゝる。
其六
こは口惜くも
正なきことを承はるものかな、御言葉もどかんは恐れ多けれど、方外の身なれば憚り無く申し聞えんも聊か罪浅う思し召されつべくやと、遮つて存じ寄りのほどを
言し試み申すべし、御憤はまことにさる事ながら、若人
瞋り打たずんば何を以てか
忍辱を修めんとも承はり伝へぬ、畏れながら、ながらへて終に住むべき都も無ければ憂き折節に遇ひたまひたるを、
世中そむかせたまふ
御便宜として、いよ/\法海の深みへ
渓河の浅きに騒ぐ御心を注がせたまひ、彼岸の遠きへ此
土の汀去りかぬる御迷を船出せさせ玉ひて、玉をつらぬる
樹の下に花降り敷かむ時に逢はむを待ちおはす由承はりし頃は、
寂然、
俊成などとも御志の有り難さを申し交して如何ばかりか欣ばしく存じまゐらせしに、御
納経の御望み叶はせられざりしより、竹の梢に中つて
流るゝ金弾の如くに御志あらぬ方へと走り玉ひ、鳴門の潮の
逆風に怒つて天に
滔るやう凄じき御祈願立てさせ玉ひしと仄に伝へ承はり侍りしが、
冀はくは其事の
虚妄にてあれかしと
日比念じまゐらせし甲斐も無う、さては真に猶此
裟婆界に妄執をとゞめ、
彼兜卒天に浄楽は得ず
御坐ますや、
訝しくも
御意の
然ばかり何に留まるらん、月すめば谷にぞ雲は沈むめる、嶺吹き払ふ風に敷かれてたゞ
御※[#「匈/(胃−田)」、121-上-27]の月
明からんには、浮き雲いかに厚う鎖すとも氷輪無為の
天の半に懸り
御坐して、而も清光
湛寂の
潭の底に徹することのあるべきものを、雲憎しとのみおぼさんは、そも如何にぞや、
降れば雨となり、蒸せば霞となり、凝れば雪ともなる雲の、指して言ふべき自性も無きに、まして夏の日の峯と
峙ち秋の夕の鱗とつらなり、
或は蝶と飛び
猪と奔りて緩くも
急くも空行くが、おのれから為す業ならばこそ、皆風のさすことなるを何取り出でゝ憎むに足るべき、夫
尺蠖は伸びて而も
還屈み、車輪は仰いで而も亦
低る、射る弓の力窮まり尽くれば、飛ぶ矢の勢変り
易りて、空向ける鏃も地に立つに至らんとす、此故に欲界の六天、天高けれども報尽きては宝殿
忽地に崩れ、魔王の十善、善
大なればとて
果窮まれば業苦早くも逼る、人間五十年の石火の如くなるのみならず天上幾万歳も電光に等しかるべし、
御怨恨も
復し玉ふべからむ、
御忿恚も晴らさせ玉ふべからん、さて其暁は如何にして
御坐さんとか思す、一旦出離の道には入らせたまひたれど断縛の劒を手にし玉はず、流転の途は厭はせられたりしも
人我の空をば
肯ひは為玉はざりしや、何とて
幺微の御事に忌はしくも自ら躓かせたまひて、
法の便りの牛車を棄て、罪の齎らす火輪にも
駕さんとは思したまふ、
生空を
唯薀に遮し、
我倒を幻炎に譬ふれば、我が
瞋るなる我や
夫いづくにか有る、瞋るが我とおぼすか我が瞋るとおぼすか、思ひと思ひ、言ふと言ふ
万端のこと皆
真実なりや、
訝かれば訝かしく、疑へば疑はしきものとこそ覚え侍れ、笑ひも恨みも、はた歓びも悲みも、夕に来ては
旦に去る旅路の人の野中なる
孤屋に
暫時宿るに似て、我とぞ仮に名を
称ぶなるものの中をば過ぐるのみ、いづれか
畢竟の
主人なるべき、
客を留めて吾が主と仰ぎ、賊を認めて吾が子となす、其悔無くばあるべからず、恐れ多けれど聡明
匹儔無く渡らせたまふに、凡庸も企図せざるの事を敢て為玉ひて、千人の生命を断たんと
瞋恚の刀を
提げし
央掘魔が
所行にも似たらんことを学ばせらるゝは、一婦の
毒咒に動かされて総持の才を無にせんとせし
阿難陀が
過失にも同じかるべき御迷ひ、
御傷はしくもまた口惜く、云ひ甲斐無くも
過たせたまふものかな、烈日が前の片時雨、聖智が
中の御一失、
疾く/\御心を
翻へしたまひて、三趣に沈淪し四生に
※※[#「足へん+令」、122-上-1][#「足へん+屏」、122-上-1]するの醜さを出で、一乗に帰依し三昧に
入得するの正きに
仗り御坐しませ、宿福広大にして
前業殊勝に渡らせたまふ御身なれば、一念

頭の転じたまふを限に
弾指転
の間も無く、神通の
宝輅に召し虚空を凌いで速かに飛び、真如の浄域に到り、光明を発して
長へに
熾に御坐しまさんこと、などか疑ひの侍るべき、仏魔は一紙、
凡聖は不二、
煩悩即菩提、
忍土即浄土、一珠わづかに授受し了れば八歳の
竜女当下に成仏すと承はる、
五障女人の法器にあらぬにだに猶彼が如し、まして十善天子の利根に御坐すに、いかで正覚を成し玉はざらん、御経には
成等正覚、
広度衆生、
皆因提婆達多善知識故と説かれ侍るを、誰憎しとか思す、恐れ多けれど、そもや誰人憎しとか思す、怨敵まことは道の師なり、怨敵まことは道の師なり、
眼をあげて大千三千世界を観るに、我が
皇の怨敵たらんもの、いづくにか
将侍るべき、まこと我が皇の
御敵たらんものの侍らば、痩せたる老法師の力
乏しくは侍れども、御力を用ゐさせ玉ふまでもなく、
大聖威怒王が
折伏の御劒をも借り奉り、
迦楼羅の烈炎の
御猛威にも
頼り奉りて、直に我が皇の御敵を粉にも灰にも
摧き棄て申すべし、さりながら皇の御敵の
何処の涯にもあらばこそ、
巴豆といひ
附子といふも皆是薬、
障礙の
悪神毘那耶迦も本地は
即毘盧沙那如来、此故に
耆婆眼を開けば尽大地の草木、
保命の霊薬ならぬも無く、
仏陀教を垂るれば
遍虚空の
鬼刹、護法の善神ならぬも無しと申す、御敵やそも
那処にかある、詮ずるところ怨親の二つながら空華の仮相、喜怒もろともに
幻翳の
妄現、雪と見て影に桜の乱るれば花のかさ
被る春の夜の月が、まことの月にもあらず、水無くて凍りぞしたる勝間田の池あらたむる秋の夜の月が、まことの月にもあらじ、世間一切の種

の相は、まことは
戯論の名目のみ、真如の法海より一瓢の量を分ち取りて、我執の寒風に吹き結ばせし氷を我ぞと着すれば、熱湯は即仇たるべく、実相の
金山より
半畚の資を齎し来りて、愛慾の毒火に
鋳成せし鼠を己なりと思はんには、
猫像或は
敵たるベけれど、本来氷も湯も隔なき水、鼠も猫も異ならぬ金なる時んば、仮相の互に亡び妄現の共に滅するをも待たずして、
当体即空、
当事即了、
廓然として、天に
際涯無く、峯の木枯、海の音、川遠白く山青し、何をか
瞋り何にか迷はせたまふ、
疾く、疾く、曲路の
邪業を捨て正道の大心を発し玉へ、と我知らず地を撃つて諫め奉れば、院の
御亡霊は、
山壑もたぢろき木石も震ふまでに
凄くも打笑はせ玉ひて、おろかなり円位、仏が好ましきものにもあらばこそ、魔か厭はしきものにもあらばこそ、安楽も望むに足らず、
苦患も避くるに足らず、何を憚りてか自ら
意を抑へ
情を屈めん、妄執と笑はば笑へ、妄執を生命として
朕は活き、煩悩と云はば云へ、煩悩を筋骨として朕は立つ、おろかや汝、
四弘誓願は菩薩の妄執、五時説教は仏陀の煩悩、法蔵が妄執四十八願、観音が煩悩三十三
身、三世十方
恒河沙数の諸仏菩薩に妄執煩悩無きものやある、妄執煩悩無きものやある、何ぞ
瞿曇が
舌長なる四十余年の
託言繰言、我尊しの
冗語漫語、我をば
瞞き
果すに足らんや、恨みは恨み、
讐は讐、
復さでは我あるべきか、今は一切世間の法、まつた一切世間の相、
森羅万象人畜草木、
悉皆朕の
敵なれば
打壊さでは已むまじきぞ、心に染まぬ大千世界、見よ/\、火前の片羽となり風裏の
繊塵と為して呉れむ、仏に六種の神通あれば朕に千般の業通あり、ありとあらゆる
有情含識皆朕が魔界に引き入れて朕が眷属となし果つべし、汝が述べたるところの如きは円顱の愚物が常套の談、醜し、醜し、
将帰り去れ、
※※[#「けものへん+胡」、122-下-21][#「けものへん+孫」、122-下-21]が
瞋を
賺かす
胡餅の一片、朕を欺かんとや、迂なり迂なり、想ひ見よ、そのかみ朕此讃岐の涯に来て、沈み果てぬる
破舟の我にもあらず
歳月を、空しく杉の板葺の霰に悲しき夜を泣きて、風につれなき日を送り、心くだくる荒磯の浪の響に霜の朝、独り寐覚めし凄じさ、思ひも積る片里の雪に
灯火の瞬く宵、たゞ我が影の情無く古びし障子に浸み入るを見つめし折の味気無さ、如何ばかりなりしと汝思ふや、歌の林に人の心の花香をも尋ね、詞の泉に物のあはれの深き浅きをも汲みて分くる、敷嶋の道の契りも薄からず結びし汝なれば、厳しく吹きし初秋の嵐の風に世を落ちて、日影傾く西山の山の幾重の外にさすらひ、
初雁音も言づてぬ南の海の海遥なる離れ嶋根に身を佗びて、捨てぬ光は月のみの水より寒く
庇廂洩る住家に在りし我が
情懐は、推しても
大概知れよかし、されば
徃時は朕とても人をば責めず身を責めて、仏に誓ひ世に誓ひ、おのれが業をあさましく拙かりしと悔い歎きて、心の水の浅ければ胸の
蓮葉いつしかと開けんことは難けれど、辿る/\も闇き世を出づべき道に入らんとて、
天へと伸ぶる呉竹の直なる願を独り立て、
他し望みは思ひ絶つ其麻衣ひきまとひ、供ふる華に置く露の露散る
暁、
焼く香の煙の煙立つ夕を
疾も来れと待つ間、一字三礼妙典書写の功を積みしに、思ひ出づるも腹立たしや、たゞに朕が現世の事を破りしのみならず、また未来世の道をも妨ぐる人の振舞、善悪も邪正もこれ迄なりと入つたる此道、得たる此果、今は金輪崩るるとも、
銕囲劈裂け破るゝとも、思ふ事果さでは得こそ止まじ、真夏の
午の日輪を我が眼の中に圧し入れらるゝは能く忍ぶべし、胸の恨を棄てなんことは忍ぶべからず、平等の見は我が敵なり、差別の観は朕が宗なり、仏陀は智なり朕は情なり、智水千頃の池を湛へば情火万丈の

を拳げん、
抜苦与楽の法
可笑や、滅理絶義の道こゝに在り、朕が一脚の踏むところは、柳紅に花緑に、朕が一指のそれと指すところは、烏も白く鷺も黒し、天死せしむべく地舞はしむべく、日月暗からしむべく江海涸れしむべし、頑石笑つて且歌ひ、枯草花さいて、しかも
芬る、獅子は美人が膝下に馴れ大蛇は小児の坐前に戯る、朔風暖かにして
絳雪香しく、
瓦礫光輝を放つて
盲井醇醴を噴き、胡蝶声あつて夜深く相思の吟をなす、
聾者能く聞き
瞽者能く見る、劒戟も折つて
食ふべく
鼎钁も就いて浴すべし、世界はほと/\朕がまゝなり、
黄身の匹夫、碧眼の
胡児、
烏滸の者ども朕を如何にか為し得べき、心とゞめてよく見よや、見よ、やがて此世は
修羅道となり朕が眷属となるべきぞ、あら心地快や、と笑ひたまふ御声ばかりは耳に残りて、放たせ玉ふ赤光の谷

山

に映りあひ、天地忽ち
紅色になるかと見る間に失せ玉ひぬ。
西行はつと我に復りて、思へば夢か、夢にはあらず。おのれは猶かつ
提婆品を繰りかへし/\読み居たるか、其読続き我が口頭に今も途絶えず上り来れり。
(明治二十五年五月「国会」)
彼一日
其一
頼み難きは我が心なり、事あれば忽に移り、事無きもまた動かんとす。生じ易きは魔の縁なり、
念を
放にすれば直に
発り、念を正しうするも猶起らんとす。此故に心は大海の浪と
揺ぎて定まる時無く、縁は荒野の草と萠えて尽くる
期あらねば、たま/\大勇猛の意気を鼓して不退転の果報を得んとするものも、今日の縁にひかれて旧年の心を失ふ輩は、
可惜舟を出して彼岸に到り得ず、憂くも道に迷ひて
穢土に復還るに至る。されば心を収むるは霊地に身を

くより好きは無く、縁を遮るは
浄業に思を傾くるを最も勝れたりとなす。木片の薬師、
銅塊の
弥陀は、皆これ我が心を呼ぶの設け、
崇め尊まぬは
烏滸なるべく、高野の
蘭若、
比叡の
仏刹、いづれか道の念を励まさゞらむ、参り
詣らざるは
愚魯なるべし。古の人の、麻の袂を山おろしの風に翻し、
法衣の裾を野路の露に染めつゝ、東西に流浪し南北に行きかひて、
幾干の坂に谷に走り疲れながら猶辛しともせざるものは、心を霊地の霊気に
涵し念を浄業の浄味に育みて、正覚の暁を期すればなり。鏡に
対ひては髪の乱れたるを
愧ぢ、
金を懐にすれば慾の
亢るを致す習ひ、善くも悪くも其境に因り其機に随ひて凡夫の
思惟は転ずるなれば、たゞ後の世を思ふものは眼に仏菩薩の尊容を仰ぎ、口に
経陀羅尼の法文を
誦して、夢にも現にも
市
栄花の巷に立入ること無く、朝も夕も山林
閑寂の郷に行ひ済ましてあるべきなり。
首を回らせば徃時をかしや、世の春秋に交はりて花には喜び月には悲み、由無き七情の徃来に泣きみ笑ひみ過ごしゝが、思ひたちぬる墨染の衣を纏ひしより今は
既、指を
※[#「てへん+婁」、123-下-27]ふれば
十あまり
三歳に及びて秋も暮れたり。修行の年も漸く積もりぬ、身もまた初老に近づきぬ。流石心も澄み渡りて乱るゝことも少くなり、旧縁は漸く去り尽して胸に
纏はる雲も無し。
忽然として其初一人来りし此裟婆に、今は
孑然として一人立つ。待つは機の熟して
果の落つる我が
命終の時のみなり。あら
快の今の身よ、氷雨降るとも雪降るとも、憂を知らぬ雲の外に
嘯き立てる心地して、浮世の人の厭ふ冬さへ却つてなか/\をかしと見る、此の我が思ひの長閑さは空飛ぶ禽もたゞならず。されど
禅悦に
着するも亦是修道の
過失と聞けば、ひとり一室に籠り居て驕慢の念を萠さんよりは、
歩を処

の霊地に運びて寺

の御仏をも拝み奉り、
勝縁を結びて魔縁を斥け、仏事に勤めて俗事に遠ざからんかた賢かるべしとて、そこに一日、かしこに二日と、此御仏彼御仏の別ちも無くそれ/\の御堂を拝み巡りては、
或は祈願を籠めて参籠の誠を致し、或は和歌を奉りて讃歎の意を表し来りけるが、仏天の御思召にも協ひけん聊か冥加も有りとおぼしく、幸に道心のほかの
他心も起さず勝縁を妨ぐる魔縁にも遇はで、終に今日に及ぶを得たり。既徃の誠に欣ぶべきに将来の猶頼まゝほしく、長谷の御寺の観世音菩薩の御前に今宵は心ゆくほど
法施をも奉らんと立出でたるが、夜

に霜は募りて樹

に紅は増す
神無月の空のやゝ寒く、夕日力無く
舂きて、
晩れし百舌の声のみ残る、暮方のあはれさの身に浸むことかな。見れば路の辺の草のいろ/\、其とも分かず皆いづれも同じやうに枯れ果てゝ
崩折れ
偃せり。珍らしからぬ冬野のさま、取り出でゝ云ふべくはあらねども、折からの我が
懐に合ふところあり。
情を結び
詞を束ねて、歌とも成らば成して見ん、おゝそれよ、さま/″\に花咲きたりと見し野辺のおなじ色にも霜がれにけり。嗚呼我人とも終には
如是、男女美醜の
別も無く同じ色にと霜枯れんに、何の翡翠の髪の
状、花の笑ひの
顔か有らん。まして夢を彩る五欲の
歓楽、幻を織る四季の
遊娯、いづれか
虚妄ならざらん。たゞ勤むべきは菩提の道、南無仏、南無仏、と観じ捨てゝ、西行独り路を急ぎぬ。
其二
弓張月の漸う光りて、
入相の鐘の音も収まる頃、西行は
長谷寺に着きけるが、問ひ驚かすべき
法の友の無きにはあらねど問ひも寄らで、観音堂に参り上りぬ。さなきだに梢透きたる樹

を
嬲りて夜の嵐の誘へば、はら/\と散る紅葉なんどの空に狂ひて吹き入れられつ、
法衣の袖にかゝるもあはれに、又仏前の
御灯明の
目瞬しつゝ
万般のものの黒み渡れるが中に、いと幽なる光を放つも趣きあり。法華経の
品第二十五を声低う誦するに、何となく
平時よりは心も締まりて身に浸みわたる思ひの為れば、猶誠を籠めて誦し行くに天も静けく地も静けく、人も全く静まりたる、時といひ、処といひ相応して、我耳に入るは我声ながら、若くは随喜仏法の鬼神なんどの、声を
和せて共に誦する
歟と疑はるゝまで、上無く殊勝に聞こえわたりぬ。
特に参りたる甲斐はありけり、菩薩も定めしかゝる折のかゝる
所作をば
善哉として必ず
納受し玉ふなるべし、今宵の心の澄み切りたる此の
清しさを何に比へん、あまりに有り難くも尊く覚ゆれば、今宵は夜すがら此御堂の片隅になり
趺坐なして、
暁天がたに猶一
ト度誦経しまゐらせて、扨其後香華をも浄水をも供じて罷らめと、西行やがて三拝して御仏の御前を少し
退り、影暗き一
ト隅に身を捩ぢ据ゑ、凍れる水か枯れし木の、動きもせねば音も立てず、
寂然として坐し居たり。
夜は沈

と漸く更けて、風も睡れる如くになりぬ。右左に並びて立ちたりける
御灯明は一つ消え、また一つ消えぬ。今はたゞいと高き吊灯籠の、光り朦朧として力無きが、夢の如くに残れるのみ。
此寺の僧どもは
寒気に怯ぢて
所化寮に炉をや囲みてあるらん、影だに終に見するもの無し。云ふべきかたも無く静なれば、
日比焼きたる余気なるべし今薫ゆるとにはあらぬ香の、有るか無きかに
自然
ひを流すも
最能く知らる。かゝる折から何者にや、此方を指して来る跫音す。御仏に仕ふる
此寺のものゝ、
灯燭を続ぎまゐらせんとて来つるにやと打見るに、御堂の外は月の光り白

として霜の置けるが如くに見ゆるが中を、寒さに堪へでや
頭には何やらん
打被ぎたれど、正しく僧形したるが歩み寄るさまなり。心を留むるとにはあらざれど、何としも無く猶見てあるに、やがて月の及ばぬ闇の方に身を入れたれば定かには知れぬながら、此御堂に打向ひて一度は
先拝み奉り、さて静

と上り来りぬ。御堂は狭からぬに
灯は蛍ほどなり、灯の高さは高し、互の程は隔たりたり、此方を彼方は有りとも知らず、彼方を此方は能くも見得ねば、西行は只我と同じき心の人も亦有りけるよと思ふのみにて打過ぎたり。
彼方は固より闇の中に人あることを知らざれば、何に心を置くべくも無く、御仏の前に進み出でつ、
最謹ましげに
危坐りて、
数度合掌礼拝なし、一心の誠を致すと見ゆ。同じ菩提の道の友なり、其
心操の浅間ならぬも夜深の参詣に測り得たり。衣の色さへ
弁ち得ざれば
面は況して見るべくも無けれど、浄土の同行の人なるものを、呼びかけて語らばや、名も問はばやと西行は胸に思ひけるが、卒爾に
言はんは
悪かるべし、祈願の終つて後にこそと心を控へて伺ふに、彼方は珠数を取り出して、さや/\とばかり擦り
初めたり。針の落つる音も聞くべきまで物静かなる夜の御堂の真中に在りて、
水精の珠数を擦る音の
亮かなる響きいと冴えて神

し。御経は心に誦するとおぼしく、
万籟絶えたるに珠の音のみをたゞ緩やかに緩やかに響かす。其声或は明らかに或は幽に、或は高く或は低く、寐覚の枕の半は夢に霰の音を聞くが如く、朝霧晴れぬ池の
面に


の急に開くを聞くが如く、小川の水の濁り咽ぶか雨の紫竹の友擦れ歟、山吹

ふ山川の蛙鳴くかと過たれて、一声

中に万法あり、
皆与実相不相違背と、いとをかしくも聞きなさるれば、西行感に入つて在りけるが、期したるほどの事は仕果てゝや其人数珠を収めて御仏をば礼拝すること
数度しつ、やをら身を起して
退らんとす。菩提の善友、浄土の同行、契を此土に結ばんには今こそ言葉をかくべけれと、思ひ入て擦る
数珠の音の声すみておぼえずたまる我涙かな、と歌の調は好かれ悪かれ、西行
急に読みかくれば、彼方は初めて人あるを知り、思ひがけぬに驚きしが、何と仰られしぞ、今一度と、心を
圧鎮めて問ひ返す。聞き兼ねけんと
猜するまゝ、思ひ入りて擦る数珠の音の声澄みて、と
復び言へば後は言はせず、君にて御坐せしよ、こはいかに、と
涙に顫ふおろ/\声、言葉の文もしどろもどろに、身を投げ伏して取りつきたるは、声音に紛ふかたも無き
其昔偕老同穴の契り深かりし我が妻なり。厭いて別れし仲ならず、子まで
生したる語らひなれば、流石男も心動くに、況して女は胸逼りて、語らんとするに言葉を知らず、
巌に依りたる幽蘭の
媚かねども離れ難く、たゞ露けくぞ見えたりける。
西行きつと心を張り、
徐に女の手を払ひて、御仏の御前に
乱がはしや、これは世を捨てたる痩法師なり、捉へて何をか歎き玉ふ、心を安らかにして語り玉へ、昔は昔、今は今、繰言な露宣ひそ、何事も御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、と諭せば女は涙にて、さては猶我を世に立交らひて月日経るものと思したまふや、灯火暗うはあれどおほよそは姿形をも
猜し玉へ、君の保延に家を出でゝ道に入り玉ひしより、宵の鐘暁の鳥も聞くに悲く、春の花秋の月も眺むるに懶くて、片親無き児の智慧敏きを見るにつけ胸を痛め心を傷ましめしが、所詮は甲斐無き
嗟歎せんより今生は
擱き後世をこそ助からめと、娘を九条の叔母に頼みて君の御跡を追ひまゐらせ、同じ御仏の道に入り、高野の麓の天野といふに
日比行ひ居り
侍るなり、扨も君を放ち遣りまゐらせて御心のまゝに家を出づるを得さしめ奉りし
徃時より、我が子を人に預けて世を捨てたる今に至るまで、いづれか世の常としては悲しきことの限りならざらん、別れまゐらせし歳は我が齢、僅に
二十歳を越えつるのみ、また
幼児を離せしときは
其が
六歳と申す
愛度無き折なり、老いて夫を先立つるにも泣きて泣き足る
例は聞かず、物言はぬ
嬰児を失ひても心狂ふは母の情、それを行末長き齢に、君とは故も無くて別れまゐらせ、可愛き盛りに
幼児を見棄てつる悲しさは如何ばかりと覚す、されど斯ばかりの悲しさをも、女の胸に堪へ堪へて鬼女蛇神のやうに過ぎ来つるは、我が悲みを悲とせで偏に君が
歓喜を我が歓喜とすればなるを、別れまゐらせしより十余年の今になりて繰言も云ふもののやう思はれまゐらせたる拙さ情無さ、君は我がための知識となり玉ひぬれば、恨み侍らざるばかりか却て悦びこそ仕奉れ、彼世にてもあれ君に遇ひまゐらせなば君の家を出で玉ひし後の我が上をも語りまゐらせて、能くぞ浮世を思ひ切りぬるとの御言葉をも得んとこそ日比は思ひ設け居たれ、別れたてまつりし時は今生に御言葉を玉はらんことも復有るまじと思ひたりしに、夢路にも似たる今宵の逢瀬、
幾年の心あつかひも聊か
本意ある心地して嬉しくこそ、と
細
と述ぶ。折から灯籠の中の
灯の、香油は今や尽きに尽きて、やがて
熄ゆべき一
ト明り、ぱつと光を発すれば、朧気ながら互に見る
雑彩無き
仏衣に
裹まれて
蕭然として坐せる姿、修行に
窶れ老いたる面ざし、有りし花やかさは影も無し。
これが
徃時の、妻か、夫か、心根可愛や、懐かしやと、我を忘れて近寄る時、
忽然ふつと灯は滅して一念
未生の元の闇に還れば、西行坐を正うして、能くこそ思ひ切り玉ひたれ、入道の縁は無量にして
順逆正傍のいろ/\あれど、たゞ徃生を遂ぐるを尊ぶ、
徃時は世間の契を籠め今は出世間の交りを結ぶ、御身は我がための菩提の善友、浄土の同行なり悦ばしや、たゞし
然までに浮世をば思ひ切りたる身としては、懐旧の情はさることながら余りに涙の遣る瀬無くて、我を恨むかとも見えし故、
先刻のやうには云ひつるなり、既に世の塵に立交らで法の
門に足踏しぬる上は、然ばかり心を悩ますべき事も
実は無き筈ならずや、と
最物優しく尋ね問ふ。
慰められては又更に涙脆きも女の習ひ、御疑ひ誠に其
理由あり、もとより御恨めしう思ひまゐらする節もなし、御懐しうは覚え侍れど、それに
然ばかりは泣くべくも無し、御声を聞きまゐらすると斉しく、胸に湛へに湛へし涙の一時に迸り出でしがため御疑を得たりしなり、其
所以は他ならぬ娘の上、深く御仏の教に達して
宿命業報を知るほどならば、
是も亦煩ひとするに足らずと悟りてもあるべけれど然は成らで、ほと/\頭の髪の燃え胸の血の凍るやうに明暮悩むを、君は心強くましますとも何と聞き玉ふらん、聞き玉へ、娘は九条の叔母が
許に、養ひ娘といふことにて叔母の望むまゝに与へしが、叔母には
真の娘もあり、母の口よりは如何なれど年齢こそ互に同じほどなれ、
眉目容姿より手書き文読む事に至るまで、
甚く我が娘は叔母の娘に勝りたれば、叔母も日頃は養ひ娘の賢き
可愛さと、
生の
女の
自然なる
可愛さとに孰れ優り劣り無く育てけるが、今年は二人ともに十六になりぬ、髪の艶、肌の光り、人の

み心を惹くほどに我子は美しければ、叔母も
生したてたるを
自が誇りにして、せめて四位の少将以上ならでは得こそ
嫁すまじきなど云ひ罵り、おのが真の女をば却つて心にも懸け居ざるさまにもてあつかひ居たりしが、右の大臣の御子
某の少将の、図らずも我が女をば垣間見玉ひて懸想し玉ひしより事起りて、叔母の心いと
頑兇になり日に/\
口喧しう
嘲み罵り、或時は正なくも打ち擲き、密に調伏の法をさへ由無き人して行せたるよしなり、某の少将と云へるは才賢く
心性誠ありて優しく、
特に玉を展べたる様の美しき人なれば、自己が生の女の婿がねにと叔母の思ひつきぬるも然ることながら、其望みの思ふがまゝにならで、飾り立てたる我が女には眼も少将の遣り玉はざるが口惜しとて、養ひ娘を悪くもてあつかふ愚さ酷さ、
昔時の優しかりしとは別のやうなる人となりて、
奴婢の見る眼もいぶせきまでの振舞を為る折多しと聞く、既に御仏の道に入りたまひたれば我には今は子ならずと君は仰すべけれど、其君が子はいと美しう才もかしこく生れつきて、しかも美しく才かしこくして位高き際の人に思はれながら、心の底には其人を思はぬにしもあらざるに、養はれたる恩義の
桎梏に
情を
枉げて自ら苦み、猶其上に道理無き
呵責を受くる
憫然を君は何とか見そなはす、
棄恩入無為の
偈を唱へて親無し子無しの
桑門に入りたる上は是非無けれども、知つては
魂魄を煎らるゝ思ひに夜毎の夢も安からず、いと恐れあることながら此頃の乱れに乱れし心からは、御仏の御教も余りに人の世を
外れたる、酷き掟なりと聊かは御恨み申すこともあるほど、子といひながら子と云へねば、親にはあれど親ならぬ、世の外の人、内の人、知らぬ顔して過すをば、一旦仏門に入りしものゝ行儀とするも
理無しや、春は大路の雨に狂ひ小橋の陰に翻る彼の燕だに、児を思ふては日に
百千度巣に出入りす、秋の霜夜の冷えまさりて草野の荒れ行く頃といへば、彼の兎すら自己が毛を咬みて

りて綿として、風に当てじと手を
愛しむ、それには
異りて我

の、纔に一人の子を持ちて人となるまで育てもせず、
児童の
間の遊びにも片親無きは肩
窄る其の憂き思を
四歳より為せ、
六歳といふには
継しき親を頭に戴く悲みを為せ、雲の蒸す夏、雪の散る冬、暑さも寒さも問ひ尋ねず、山に花ある春の曙、月に興ある秋の夜も、世にある人の姫
等の笑み楽しむには似もつかず、味気無う日を送らせぬる其さへ既に情無く親甲斐の無きことなれば、同じほどなる年頃の
他家の姫なんどを見るにつけ、嗚呼我が子はと思ひ出でゝ、木の片、竹の端くれと成り極めたる尼の身の我が身の上は露思はねど、かゝる父を持ち母を持ちたる吾が子の果報の拙さを
可哀と思はぬことも無し、況して此頃の噂を聞き又余所ながら視もすれば、心に春の風渡りて若木の花の笑まんとする恋の山路に悩める娘の、女の身には生命なる生くる死ぬるの岐れにも差し掛りたる態なる上、生みの子の愛に迷ひ入りたる
頑凶の
老婆に責められて朝夕を経る胸の中、父上
御坐さば母在らばと、親を慕ひて血を絞る涙に暮るゝ時もある
体、親の心の迷はずてやは、打捨て置かば女は必ず彼方此方の悲さに身を淵河にも沈めやせん、然無くも逼る憂さ辛さに終には病みて倒れやせん、御仏の道に入りたれば名の上の
縁は絶えたれど、血の
聯続は絶えぬ
間、親なり、子なり、
脈絡は
牽く、忘るゝ暇もあらばこそ、昼は心を澄まして御仏に
事へまつれど、夜の夢は
女のことならぬ折も無し、若し其儘に
擱いて哀しき終を余所


しく見ねばならずと定まらば、仏に仕ふる
自分は禽にも獣にも慚しや、たとへば来ん世には
金の光を身より放つとも嬉しからじ、思へば御仏に事ふるは本は身を助からんの心のみにて、子にも妻にもいと酷き鬼のやうなることなりけり、
爽快には似たれども
自己一人を
蓮葉の清きに置かん其為に、人の憂きめに眼も遣らず人の辛きに耳も仮さず、世を捨てたればと一
ト口に、此世の人のさま/″\を、何ともならばなれがしに斥け捨つるは卑しきやうなり、何とて尼にはなりたりけん、如何にもして女と共に経るべかりしに、
鈍くも自ら過ちけるよ、今は
後世安楽も左のみ望まじ、
火
に墜つるも何かあらん、俗に還りて女を叔母より取り返さんと、思ひしことも一度二度ならずありたりき、然れども流石
年来頼める御仏に離れまゐらせんことも
影護くて、心と心との争ひに何となすべき道も知らず、幼きより頼みまゐらせたる
此地の御仏に七夜参の祈願を籠めしも、女の上の安かれとおもふ為ばかり、恰も今宵満願の折から図らず御眼にかゝりて、胸には此事あり此
念あるに、情無かりし君が
徃時の家を出でたまひし時の
御光景まで一
ト時に眼に浮み来りしかば、思へば女が
四歳の年、振分髪の童姿、罪も報も無き顔に
愛度なき笑みの色を浮めて、父上


と慕ひ寄りつゝ縋りまゐらせたるを御心強くも、椽より下へと荒らかに
落し玉ひし其時が、女の憂目の
見初なりしと、思ふにつけても悲さに恨めしささへ添ふ心地、御なつかしさも取り交ぜて
文も分かたずなりし涙の抑へ難かりしは此故なり、と
細
と語れば西行も
数度眼を押しぬぐひしが、声を和らげていと静に、云ひたまふところ皆其理あり、たゞし女の上の事は未だ知らずに
御在と見えたり、此の五日ほど前の事なり、我みづから女を説き諭して、既に
火宅の門を出でゝ法苑の内に入らしめ終んぬ、聊か聞くところありしかば、眼前の


を縁として身後の安楽を願はせんと、たゞ一度会ひて
言ひしに、親
羞しき利根のものにて、宿智にやあらん其言ふところ自ら道に協へる節あり、父上既に世を逃れ玉ひぬ、おのれも御後に従はんとこそ思へ、世に
百歳の
夫婦も無し、なにぞ一期の恩愛を説かん、たとひ思ふこと叶ひ、望むこと足りぬとも、

みを蒙り羨を惹きて在らんは拙るべし、もとより女の事なれば世に栄えん願ひも左までは深からず、親の御在さねば身を重んずる
念もやゝ薄し、あながち御仏を頼みまゐらせて浄土に生れんとにはあらねど、如何なる山の奥にもありて草の庵の其内に、
荊棘を
簪とし
粟稗を炊ぎてなりと、たゞ心
清しく月日経ばやなどと思ひたることは幾度と無く侍り、
睦ぶべき
兄弟も無し、語らふべき
朋友も持たず、何に心の残り留まるところも無し、養はれ侍りし
恩恵に答へまゐらすること無きは聊か口惜けれど、大叔母君の
現世安穏後生善処と必ず日

に祈りて酬ひまゐらせん、又情ある人のたゞ一人侍りしが、何と申し交したることも無ければ別れ/\になるとも
怪しうはあらず、雲は
旧に依つて白く山は旧に依つて青からんのみなり、全く世をば思ひ切り侍りぬ、とく導師となりて剃度せしめ玉へと、雄

しくも云ひ出でたれば、其心根の麗せきに愛でゝ、我また雄

しくも丈なる
烏羽玉の髪を落して色ある
衣を脱ぎ棄てさせ、
四弘誓願を唱へしめぬ、や、何と仕玉へる、泣き玉ふか、涙を流し玉ふか、無理ならず、菩提の善友よ、泣き玉ふ歟、嬉しさにこそ泣き玉ふならめ、浄土の同行よ、落涙あるか、定めし感涙にこそ御坐すらめ、おゝ、余りの有難さに
自分もまた涙聊か誘はれぬ、さて美しき姫は亡せ果てたり、美しき尼君は
生り出で玉ひぬ、青

としたる寒げの
頭、
鼠色の
法衣、小き
数珠、殊勝なること申すばかり無し、高野の別所に在る由の菩提の友を
訪はんとて飄然として立出で玉ひぬ、其後の事は知るよし無し、燕の
忙しく飛ぶ、兎の自ら剥ぐ、親は皆自ら苦む習なれば子を思はざる人のあらんや、但し欲楽の満足を与へ栄華の十分を享けしむるは、
木葉を与へて児の啼きを
賺かす其にも増して愚のことなり、世を捨つる人がまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ、たゞ幾重にも御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、南無仏



、と云ひ切りて口を結びて復言はず。月はやがて
没るべく西に廻りて、御堂に射し入る其光り水かとばかり冷かに、端然として合掌せる二人の姿を浮ぶが如くに御堂の闇の中に照し出しぬ。
(明治三十四年一月「文芸倶楽部」)