經つくゑ

樋口一葉




※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


あは手向てむけはなに千ねんのちぎり萬年まんねんじやうをつくして、れにみさをはひとりずみ、あたら美形びけい月花つきはなにそむけて、何時いつぞともらずがほに、るや珠數じゆずかれては御佛みほとけ輪廻りんゑにまよひぬべし、ありしは何時いつの七せき、なにとちかひて比翼ひよくとり片羽かたはをうらみ、無常むじようかぜ連理れんりゑだいきどほりつ、此處こヽ閑窓かんさうのうち机上きじやう香爐かうろえぬけふりのぬしはとへば、こたへはぽろり襦袢じゆばんそでつゆきて、はぬ素性すぜうきたきは無理むりか、かくすにあらはるヽがつねぞかし。
さすればゆめのあともなけれど、さとらぬさきれもれもおもひをせしは其人そのひとか、醫科大學いくわだいがく評判男ひようばんをとこ松島忠雄まつしまたヾをばれて其頃そのころ二十七か八か、けば束髮そくはつ薔薇ばらはなやがてみをつくり、首卷くびまきのはんけちにわかにかげして、途上とじよう默禮もくれいとも千ざい名譽めいよとうれしがられ、むすめもつおや幾人いくたり仇敵あだがたきおもひをさせてむこがねにとれも道理だうりなり、故郷くに靜岡しづをか流石さすが士族出しぞくでだけ人品じんぴん高尚かうしようにて男振をとこぶりぶんなく、さいありがくあり天晴あつぱれの人物じんぶついまこそ内科ないくわ助手しよしゆといへども行末ゆくすゑのぞみは十のさすところなるを、これほどのひと他人たにんられてるまじとの意氣いきごみにて、むこさま拂底ふつていなかなればにや華族くわぞく姫君ひめぎみ高等官かうとうかん令孃れいぢよう大商人おほあきんど持參金ぢさんきんつきなどれよれよと申みの※(二の字点、1-2-22)くち/″\より、小町こまちいろらふ島田髷しまだまげ寫眞鏡しやしんきやう式部しきぶさいにほこる英文和譯ゑいぶんわやく、つんで机上きじようにうづたかけれども此男このおとこなんののぞりてからずか、仲人なかうどもヽさへづりきヽながしにしてれなりけりとは不審いぶかしからずや、うたがひはかる柳闇花明りうあんくわめいさとゆふべ、うかるヽきのりやとれど品行方正ひんかうはうせい受合人うけあいてをうければことはいよいよ闇黒くらやみになりぬ、さりながらあやしきは退院たいヽんがけに何時いつ立寄たちよれのいゑあめはふれどゆきれど其處そこ轅棒かぢぼうおろさぬことなしとくちさがなき車夫しやふれに申せしやら、それからそれつたはりて想像さうぞうのかたまりはかげとなりかたちとなり種々さま/″\うわさとなり、ひとれずをもみたま御方おんかたもありし、其中そのなかけて苦勞性くろうせうのあるおひとしのびやかにあとをやつけたまひし、ぐりにぐればさて燈臺とうだいのもとらさよ、本郷ほんごう森川町もりかはちようとかや神社じんじやのうしろ新坂通しんざかどほりに幾搆いくかまへの生垣いけがきゆひまわせしなかせばらく片折戸かたをりど香月かうづきそのと女名をんなヽまへの表札ひようさつかけて折々をり/\もるヽことのしのび軒端のきばうめうぐひすはづかしき美音びおんをばはる月夜つきよのおぼろげにくばかり、ちらり姿すがたなつすだれごしくやれゆゑしみてか藥師やくしさまの御縁日ごゑんにちにそヾろあるきをするでもなく、ひとまちがほ立姿たちすがたかどにおがみしこともなけれど美人びじんこの近傍かいわいにかくれなしとくは、さてこそ彌々いよ/\學士がくし外妾かこいか、よしや令孃れいぢようぶればとておさとはいづれれたもの、其樣そんなものに鼻毛はなげよまれてはてあとあしのすな御用心ごようじんさりとてはお笑止しようしやなどヽくまれぐちいひちらせどしんところねたねたしのつもり、かヽる人々ひと/″\瞋恚しんいのほむらが火柱ひばしらなどヽ立昇たちのぼつてつみもない世上せじやうをおどろかすなるべし。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


くろぬりべいおもてかまへとお勝手かつてむきの經濟けいざいべつものぞかし、をしはかりにひとうへうらやまぬものよ、香月左門かうづきさもんといひし舊幕臣きうばくしん學士がくし父親ちヽおやとは※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)かみしもかたをならべしあいだなるが、維新いしんへんれは靜岡しづをかのおとも、これは東臺とうだい五月雨さみだれにながす血汐ちしほあかこヽろ首尾しゆびよくあらはしてつゆとやえし、みづさかづきしてわかれしりのつま形見かたみ此美人このびじんなり、ひと不幸ふこううまれながらに後家ごけさまのおやちて、すがる乳房ちぶさあまへながらもちヽといふ味夢あぢゆめにもしらず、ものごヽろるにつけておやといへば二人ふたりある他人ひとのさまのうらやましさに、いとしきこととひかけては幾度いくたびはヽそでしぼらせしが、そのはヽにもまた十四といふとし果敢はかなくわかれていま一つのいたはしさ、かの學士がくしどの其病床そのびやうしよう不圖ふとまねかれて盡力じんりよくしたるが原因もととなり、くりかへむかしのゆかりもてがたく、ひきつヾいて行通ゆきかひしけるが、るにもくにも可愛想かあいさうなりのどくなり、これがしもおきやむすめびかへりなどならばらぬことといはヾかどほかをもず、はヽさまとならではおにもかじ、觀音かんのんさまのおまゐりもいやよ、芝居しばゐ花見はなみはヽさましよならではとこの一トもとのかげにくれて、姿なりこそ嶋田しまだ大人をとなづくらせたれどしようところ人形にんぎやうだいてあそびたきほどの嬰兒ねヽさまがにはかにおちしたさるどうやう、なみだのほかになんかんがへもなくおたみ老婢はしためそでにすがつて、わたしも一しよかんれよとてきわけもなくりし姿すがたのあくまであどけなきが不愍ふびんにて、もとよりれたのまねば義務ぎむといふすぢもなく、おんをきせての野心やしんもなけれどれより以來いらい百事萬端ひやくじばんたんひきうけて世話せわをすることしん兄弟けうだい出來できわざなり、これを色眼鏡いろめがねひとにはほろよひひざまくらにみヽあかでもらせるところゆるやら、さりとは學士がくしさま寃罪ゑんざいうつたへどころもなし。
いま女子教育ぢよしきよういく賛成さんせいといひがたきこヽろよりおそのにも學校がくかうがよひせたくなく、まわみちでもなき歸宅かへりがけの一時間じかん此家こヽりては讀書どくしよ算術さんじゆつおもふやうにをしへてれば記憶きおくもよくわかりもはやく、學士がくしはいよ/\可愛かわいがりしが、おそのすこしのかんじもなく、ありがたしうれしなどくちさきすどころかかほるさへやがりて、※(二の字点、1-2-22)にち/\稽古けいこにも書物しよもつことよりほかふことのきは勿論もちろん返來へんじをさへうちとけてひしことはなく、しひへばしさうな景色けしきるおたみきのどくさかぎりなく、何歳いつまでも嬰兒ねねさまでいたしかたが御座ござりませぬ、流石さすがのおけるお他人たにんにはすこ大人をとならしくおあそばせど、お心安こヽろやすだてのわがまヽか、あま氣味ぎみであのとほりの御遠慮ごゑんりよなさ、ちと御呵おしかあそばしてくださりませときま文句もんくはなたすれど學士がくしさらにもめず、そのおさなきがたつときなり、反對はんたいはねかへられなばおたみどのにも療治りようぢが六ツかしからん、そのさまれに遠慮ゑんりよらず、やなときやといふがよし、れを他人たにんをとこおもはず母樣はヽさまどうやうあまたまへとやさしくなぐさめて日毎ひごとかよへば、なほさら五月蠅うるさいとはしくくるまのおとのかどとまるをなによりもにして、それおいできくがいなや、勝手かつてもとのはうき手拭てぬぐひをかぶらせぬ。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


たみ此家このやに十ねんあまり奉公ほうこうして主人しゆじんといへどいまかはらず、なにとぞ此人このひと立派りつぱあげてれも世間せけんほこりたきねがひより、やきもきむほど何心なにごヽろなきおそのていのもどかしく、どうしたものかんがへ、こまつたものとなげき、はては意見いけん小言こゞとぜてさまざまかせぬ。
何時いつかははふとぞんじたれど、おまへさまといふ御人おひとにはあきれまする、れがいつつやとを子供こどもではなし、十六といへばお子樣こさまもつひともありますぞや、まあかんがへて御覽ごらんなされお母樣はヽさまがお病沒なくなりからこのかた、あしかけ三ねんながあいだ松島まつしまさまがれほどつくしてくだされたとおぼしめす、わたしでさへなみだがこぼれるほどうれしきにおまへさまはいしか、さりとは不人情ふにんじようと申ものなり、おおぼえがあるはづなれど一々申さねばおわかりになるまじ、お身寄みよ便たよりのなきおまへさまのあんじて、ひとをしへが肝賢かんじん[#「肝賢の」はママ]ものなるにはヾそのさまなどはいま白糸はくしなんいろにもまりやすければ、學校がくかうかよひにからぬともでも出來できてはならず、一さいれにかせてまあてくれと親切しんせつおつしやつてお師匠しヽようさまから毎日まいにちのお出稽古でげいこ月謝げつしやしてとヾけして御馳走ごちそうしてくるまして、あがめたてまつ先生せんせいでもゆきあめには勿論もちろんこと、三に一はおことわりがつねのものなり、それをなんぞや駄々だヾさま御機嫌ごきげんとり/″\、此本このほんさつよみおはらば御褒美ごはうびにはなにまいらせん、ならひが出來できたれば此次このつぎにはふみきてせ給へと勿体もつたいない奉書ほうしよう半切はんきれを手遊おもちやくだされたことわすれはなさるまい、う申さばおまへさまのおこヽろにはなんんなものたヽきつけてかへしたしとおぼしめすからねど、かみまいにも眞實まことのこもるおこヽろざしをいたゞものぞかし、其御恩そのごおんなんともおもはず、一れん[#ルビの「れん」はママ]といふ三百六十五日打通うちとほして、かほどころか普通あたりまへあつさむいも滿足まんぞくにはおつしやらず、必竟ひつきようあのかたなればこそおはらもたてずにもけず可愛かわいがつてくださるものヽ、だい天道てんたうさまのばちあたらずにはりませぬ、昨日きのふ此近傍このあたりうはさけば松島まつしまさまは世間せけん評判ひようばんかたおくさまたうならどりにやまほどなれど何方どれもおことはりで此方こなたへのおいで孃樣ぢようさまうへにばかりりがちがうか、なんといふお幸福しやわせやきもちやいてうらやみますぞや、そのおひとてられたらおまへさままあなんあそばす、おきなさるはおはらがたつか、おおこりになつてもよし、たみは申だけは申ます、るくおあそばせばれまで、さりとは方圖はうづのなきおわがまヽとおもつてしかりつけしがれもしゆおもひの一なり、もとよりおそののあるではなくたゞおさなひとぎらひして、かれるをやがり、あやされヽばくとおなじく、何故なぜ其人そのひとはずりとて格別かくべつあだをしてこまらせんなどヽねんりしくさでもなく、まこと世間せけんずのわがまヽからおこりし處爲しよいなれば、はれるにつけてなん言譯いひわけ理由りゆうもなく、口惜くやしきかかなしきかはづかしきか無茶苦茶むちやくちやいてかほもあげぬを、おたみなほも何事なにごとをかいはんとするをりかどにとまるれいくるまおと、それおいでなり今日けふこそはおやさしくあそばせよ。

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そのさまはどうなされた今日けふはまだかほえぬとはれてまさかに、いままでこれ/\でつぎいてられますともひがたければ、少々せう/\御不加※ごふかげん[#「冫+咸」、U+51CF、102-9]で、しかしもうよろしう御座ござりませうほどに、まあおちやを一つなどヽたみは其塲をつくろひぬ。
學士がくしまゆしはめてれはこまつたもの、全体ぜんたい健康じようぶといふたちでなければ時候じこうかはなどはことさら注意ちういせねばるし、おたみどの不養生ふやうじようをさせ給ふな、さてとれもきう白羽しらはちて、遠方ゑんほう左遷させんことまり今日けふ御風聽ごふいてうながらの御告別いとまごひなりとわけもなくいへばおたみあきれて、御串談ごじようだんをおつしやりますな、いや串談じようだんではなし札幌さつぽろ病院長びようゐんちやうにんじられて都合次第つがふしだい明日あすにも出立しゆつたつせねばならず、もつと突然だしぬけといふではなくうとは大底たいていしれてりしが、なにおどろかせるがるしさに結局つまりいはねばならぬこと今日けふまでもだまつてりしなり、三ねんか五ねんかへるつもりなれどもそのほどは如何どうわからねばまづ當分たうぶんわかれの覺悟かくご、それにつけてもあんじられるは園樣そのさまのこと、なん余計よけい世話せわながら何故なぜ最初はじめから可愛かわゆくて眞實しんじつところ一日ぬもになるくらいなれど、さりとて何時いつてもよろこばれるでもなく、結局けつくあれほどやがるものをどくなとのつかぬでもなけれど、如何どうかして天晴あつぱれの淑女にそだてヽたく、自惚うぬぼれのぶんわらたまはんがかく今日けふまでやがられにしなり、まづ學問がくもんといふたところおんな大底たいていあんなもの、理化學政法りくわがくせいはうなどヽびられては、およめさまのくちにいよ/\とほざかるべし、だい皮相ひさう學問がくもん枯木かれきつくばなしたもおなじにて眞心まことひとよろこはぬもの、よしや深山みやまがくれでも天眞てんしんはないろ都人みやこびとゆかしがらする道理だうりなれば、このうへは優美ゆうびせいをやしなつてとくをみがくやうをしへ給へ、此地このちたりとてからさつぱり談合だんかうひざにもるまじきが、これからはいよ/\おたみどの大役たいやくなり、前門ぜんもんとら後門こうもんおほかみみぎにもひだりにもこわらしきやつおほをか、あたら美玉びぎよく※(「やまいだれ+低のつくり」、第4水準2-81-42)きずをつけたまふは、そのさまにもひきかせたきことおほくあれどくちよりいはヾまたみヽ兩手りようてなるべし、不思議ふしぎゑんのないひとゑんがあるか馬鹿ばからしきほどいてゆくがやな氣持きもちと、わらつてのけながら調子てうしがいつもほどえてはきこえず。
散々さん/″\のおたみ異見いけんすこそめ揚句あげく、そのひとにわかにわかれといふ、おさなきこヽろには失禮ひつれいわがまヽをくみて夫故それゆゑ遠國ゑんごくへでもかれるやうにかなしく、わびがしたれけれど障子しようじ時機しほがなく、おたみ最初さいしよんでれしときすこしひねくれてより拍子ひようしぬけがして今更いまさらにはしもされず、そのうちにおかへりにならばなんとせん、もうつてはくださらぬかなどヽ敷居しきゐきわにすりつておそのけるもらず、學士がくしはそのときつとつて、今日けふはお名殘なごりなるにめてはわらがほでもせてたまはれとさらり障子しようじくれば、おヽ此處こヽにか。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


左樣さうないてくれてはこまる、おたみどのもおなじやうになんことぞ、もうはれぬとふでもなきに心細こヽろぼそこといひたまふな、そのさまなにびらるヽことはなし、おまへさまのことよろしくおたみ承知しようちしてればすこしも心配しんぱいことはあらず、たヾこれまでとちがひて段々だん/\大人おとなになり世間せけん交際つきあいらねばならず、だい一に六づかしきはひと機嫌きげんなり、さりとてへつらひの草履ざうりとりもあまりほめたはなしではなけれど※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)そこ工合ぐあいものにて、清淨せいじようなり無垢むくなり潔白けつぱくなりのお前樣まへさまなどが、みぎをむくともひだりくともくむひとはづなれどれではわたられず、れも矢張やは其中間そのなかまの一枚板まいヽた[#ルビの「ヽ」は底本では上下逆]にて使つかみち不向ふむきなれども流石さすがとしこうといふものかすこしはおまへさまよりひとるし、さりとてるくぎてはこまれど過不及くわふきふとりかぢはこヽろ一つよくかんがへて應用おうようなされ、じつところ出立しゆつたつ明後日あさつて支度したく大方おうかた出來できたれば最早もはやにかヽるまじく隨分ずゐぶん身躰からだをいとひてわづらひ給ふな、此上このうへにおたのみは萬々ばん/″\見送みおくりなどしてくださるな、さらでだにおとこ朋友ともだち手前てまへもあるになにかをかしくられてもおたがひつまらず、さりながらお寫眞しやしんあらば一まい形見かたみいたゞきたし此次このつぎ出京しゆつけうするころにははや立派りつぱ奧樣おくさまかもれず、それでもまたつてたまはるかとかほをのぞけば、ひざして正体せうたいもなし、れほどわかれるがおやかとせられて默頭うなづく可愛かあいさ、三年目ねんめ今日けふいまさらにむしろいつものらきがしなり。
やはらかきひとほどはつよく學士がくし人々ひと/″\なみだあめみちどめもされず、今宵こよひめてとらへるたもとやさしく振切ふりきつて我家わがやかへれば、おたみものられしほどちからおとして、よしや千萬里ばんりはなれるとも眞實まこと親子おやこ兄弟けうだいならば何時いつかへつてうといふたのしみもあれど、ほんの親切しんせつといふ一すぢいとにかヽつてなれば、とほざかるが最期さいごもうゑんれしもおなじことりつくしまたのみもなしと、りすてられしやうななげきにおそのいよ/\心細こヽろぼそく、母親はヽおやわかれにかなしきことつくしてはらわたもみるほどきにきしが今日けふおもひはれともかはりて、親切しんせつ勿体もつたいなし、殘念ざんねんなどヽいふ感念かんねん右往左往うわうざわうむねなかまわしてなになにやらゆめ心地こヽち、さりとて其夜そのよらるヽところならず、ひてとこへはりしものヽ寐間着ねまきかへずよこにもならず、さてつく/″\とかんがへればまへ晝間ひるま樣々さま/″\かびて、れはらねどむねにやきざまれし學士がくしひしことばごん半句はんくわすれず、かへぎは此袖このそでをかくらへてつとしかばいまかへりんとわらひながらにおほせられしのおこゑくことは出來できず、明日あすからはくるまのおともまるまじ、おもへば何故なぜひとのあのやうやなりしかとながたもとうちかへしうちかへし途端とたん紅絹もみの八ツくちころ/\とれて燈下とうか耀かヾやく黄金わうごん指輪ゆびわ學士がくしひだり藥指くすりゆび[#「藥指に」は底本では「樂指に」]さきのほどまでひかりしものなり。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


つぼみとおもひしこずゑはな春雨しゆんうだしぬけにこれはこれはとおどろかるヽものなり、時機ときといふものヽ可笑をかしさにはおそのちいさきむねなにかんぜしか、學士がくし出立後しゆつたつごの一日二日より處業しよげうどことなく大人をとなびていままでのやうわがまヽもはず、ぬひはり仕事しごとよみかきほか以前いぜんしてをつヽしみさそひとありとも人寄ひとよ芝居しばいきしことあしけねば、をりふしはひにいままでこともなき日本全圖にほんぜんづなどヽいふものをおたみがお使つかひの留間るすひろけてこともあり、新聞紙しんぶんしうへにも札幌さつぽろとか北海道ほくかいだうとか文字もじにはいちはやくのつく樣子やうす或日あるひたみいてればみぎゆびにあり/\と耀かヾやくものあり。
さても秋風あきかぜきりひとか、らねばこそあれ雪佛ゆきぼとけ堂塔だうとういかめしくつくらんとか立派りつぱにせんとか、あはれ草臥くたびれもうけにるがおうし、文化ぶんくわとか開明かいめいとかの餘光よくわう何事なにごとからからほりかへして百ねんねんむかしのひとこヽろなかまで解剖かいばうするに、これを職掌しよくしよう醫道いだうめうにも天授てんじゆよはひはうもならず、學士がくし札幌さつぽろおもむきしとしあき診察しんさつせし窒扶斯患者ちぶすくわんじや感染かんぜんして、しや三十路みそぢにたらぬわかざかりを北海道ほくかいだうつちしぬ、かぜ便たよりにこれをきしおそのこヽろ
空蝉うつせみなかすてヽおもへば黒染すみぞめ[#「黒染に」はママ]そでいろかへるまでもなく、はなもなし紅葉もみぢもなし、たけにあまる黒髮くろかみきりはらへばとてれは菩提心ぼだいしん人前ひとまへづくりの後家ごけさまが處爲しよいぞかし、うきかざりのべにをしろいこそらぬものあらがみ島田しまだ元結もとゆひすぢきつてはなせし姿すがたいろこのむものにはまただんとたヽえてむこにゆかんよめにとらん、家名相續かめいさうぞくなにともすべしとひと一人ひとり二人ふたりならず、あるとき學士がくし親友しんいうなりしそれがし當時たうじ醫學部いがくぶ有名いうめい教授けうじゆどのひとをもつてかたごとみしを、おたみうへもなきゑんよろこびておまへさまもいまはなのさかりりがたにつてはんで歩行あるくともれることでなし、大底たいていにおこヽろさだたまへ、松島まつしまさまにおんはありともなんのお束約やくそく[#「お束約が」はママ]ありしでもなく、よしりたりとも再縁さいゑんするひとさへにはおほし、何處どこはゞかりのあることならねばとて説諭せつゆせしに、おそのにこやかにわらひて口先くちさき約束やくそくくにとかれもせん、まことあいなきちぎりはてヽ再縁さいゑんするひとあるべし、もとよりひと約束やくそくおぼえなくしてみさほてやうもなけれど、何處どこともらずみたるおもひは此身このみあるかぎわすがたければ、萬一もしかの教授けうじゆさまたつつまにとおほせのあらば、かたちだけはまいりもせんこヽろ容易たやすくたてまつりがたしとつたたまへと、こともなくひてきいれる景色けしきのなきに、おたみいひ甲斐がひなしと斷念だんねんしてれよりはまたすヽめずとぞ、經机きようづくゑ由縁いはれかくのごとし。
くちるきおひとこれをきて、さてもひねくれしおんなかな、いまもし學士がくしにありて札幌さつぽろにもゆかず以前いぜんとほなまやさしく出入でいりをなさば、むしづのはしるほどやがることうたがひなしと苦笑にがわらひしておほせられしが『あるときはありのすさびにくかりき、くてぞひとこひしかりける』とにもかくにも意地いぢわるの意地惡いぢわるのや。
※(始め二重括弧、1-2-54)をはり※(終わり二重括弧、1-2-55)





底本:「文藝倶樂部 第六編」
   1895(明治28)年6月20日
初出:「甲陽新報」
   1892(明治25)年10月18日〜25日
※初出時の署名は、「春日野しか子」です。
※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。
※「ゞ」と「ヾ」の混在は、底本通りです。
入力:万波通彦
校正:Juki
2013年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「冫+咸」、U+51CF    102-9


●図書カード