十三夜

樋口一葉




※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


いつも威勢いせいよきくろぬりくるまの、それかどおとまつたむすめではないかと兩親ふたおや出迎でむかはれつるものを、今宵こよひつぢよりとびのりのくるまさへかへして悄然しよんぼり格子戸かうしどそとてば、家内うちには父親ちゝはゝ[#ルビの「ちゝはゝ」はママ]あひかはらずの高聲たかごゑ、いはゞわし福人ふくじん一人ひとり、いづれも柔順おとなしい子供こどもつてそだてるにかゝらずひとにはめられる、分外ぶんぐわいよくさへかわかねば此上このうへのぞみもなし、やれ/\有難ありがたことものがたられる、あの相手あいてさだめし母樣はゝさん、あゝなに御存ごぞんじなしにのやうによろこんでお出遊いであそばすものを、かほさげて離縁状りゑんじようもらふてくだされとはれたものか、かられるは必定ひつぢよう太郎たらうもあるにていてしてるまでには種々いろ/\思案しあんもしつくしてののちなれど、今更いまさらにお老人としよりおどろかしてれまでのよろこびをみづあわにさせますることつらや、いつはなさずにもどろうか、もどれば太郎たらうはゝはれて何時いつ/\までも原田はらだ奧樣おくさま御兩親ごりようしん奏任そうにんむこがある自慢じまんさせ、わたしさへ節儉つめればときたまはおくちもの小遣こづかひもさしあげられるに、おもふまゝをとほして離縁りゑんとならは太郎たらうには繼母まゝはゝせ、御兩親ごりようしんにはいままでの自慢じまんはなにはかにひくくさせまして、ひとおもはく、おとゝ行末ゆくすゑ、あゝ此身このみ一つのこゝろから出世しゆつせしんめずはならず、もどらうか、もどらうか、あのおにのやうな我良人わがつまのもとにもどらうか、おにの、おに良人つまのもとへ、ゑゝやとをふるはす途端とたん、よろ/\としておもはず格子かうしにがたりとおとさすれば、れだとおほきく父親ちゝおやこゑみちゆく惡太郎あくたらう惡戯いたづらとまがへてなるべし。
そとなるはおほゝとわらふて、お父樣とつさんわたし御座ござんすといかにも可愛かわゆこゑ、や、れだ、れであつたと障子しようじ引明ひきあけて、ほうおせきか、なんだな其樣そんところつてて、うしてまたこのおそくにかけてた、くるまもなし、女中ぢよちうれずか、やれ/\まはやなか這入はいれ、さあ這入はいれ、うも不意ふいおどろかされたやうでまご/\するわな、格子かうしめずともしがめる、かくおくい、ずつとお月樣つきさまのさすはうへ、さ、蒲團ふとんれ、蒲團ふとんへ、うもたゝみきたないので大屋おほやつてはいたが職人しよくにん都合つがふがあるとふてな、遠慮ゑんりよなにらない着物きものがたまらぬかられをひてれ、やれ/\うしてこのおそくにたおうちではみなかはりもなしかといつかはらずもてはやさるれば、はりむしろにのるやうにておくさまあつかひなさけなくじつとなみだ呑込のみこんで、はいれも時候じかうさわりも御座ござりませぬ、わたし申譯まをしわけのない御無沙汰ごぶさたしてりましたが貴君あなたもお母樣つかさん御機嫌ごきげんよくいらつしやりますかとへば、いやわしくさみ一つせぬくらゐ、おふくろときたまれいみちやつはじめるがの、れも蒲團ふとんかぶつて半日はんにちればけろ/\とするやまひだから子細しさいはなしさと元氣げんきよく呵々から/\わらふに、亥之ゐのさんがえませぬが今晩こんばん何處どちらへかまゐりましたか、かわらず勉強べんきよう御座ござんすかとへば、母親はゝおやはほた/\としてちやすゝめながら、亥之ゐのいましがた夜學やがくゆきました、あれもおまへかげさまで此間このあひだ昇給しようきうさせていたゞいたし、課長樣くわちやうさま可愛かわゆがつてくださるのでくらゐ心丈夫こゝろじようぶであらう、れとふも矢張やつぱり原田はらださんの縁引ゑんるからだとてうちでは毎日まいにちいひくらしてます、おまへ如才ぢよさいるまいけれど此後このごとも原田はらださんの御機嫌ごきげんいやうに、亥之ゐのとほくちおもたちだしいづれおかゝつてもあつけない御挨拶ごあいさつよりほか出來できまいとおもはれるから、何分なにぶんともおまへなかつてわたしどものこゝろつうじるやう、亥之ゐの行末ゆくすゑをもおたのまをしおいておれ、ほんにかは陽氣ようきわるいけれど太郎たろさんは何時いつ惡戯おいたをしてますか、何故なぜ今夜こんやれておいででない、お祖父ぢいさんもこひしがつておいでなされたものをとはれて、また今更いまさらにうらかなしく、れてやうとおもひましたけれどよひまどひでうにましたからそのまゝいてまゐりました、本當ほんたう惡戯いたづらばかりつのりましてきゝわけとてはすこしもなく、そとればあとひまするし、家内うちればわたしそばばつかりねらふて、ほんに/\かゝつてなりませぬ、何故なぜ彼樣あんな御座ござりませうとひかけておもしのなみだむねのなかみなぎるやうに、おもつていてはたれど今頃いまごろさましてかゝさんかゝさんと婢女をんなどもを迷惑めいわくがらせ、煎餅おせんやおこしの※(「口+多」、第3水準1-15-2)たらしもかで、皆々みな/\いておにはすとおどかしてゞもやう、あゝ可愛かあひさうなことをとこゑたてゝもきたきを、さしも兩親ふたおや機嫌きげんよげなるにいでかねて、けむりにまぎらす烟草たばこ二三ぷく空咳からせきこん/\としてなみだ襦袢じゆばんそでにかくしぬ。
今宵こよひ舊暦きうれきの十三舊弊きうへいなれどお月見つきみ眞似事まねごと團子いし/\をこしらへてお月樣つきさまにおそなまをせし、これはおまへ好物かうぶつなれば少々せう/\なりとも亥之助ゐのすけたせてあげやうとおもふたれど、亥之助ゐのすけなにきまりをるがつて其樣そのやうものはおよしなされとふし、十五にあげなんだから片月見かたつきみつてもるし、べさせたいとおもひながらおもふばかりであげこと出來できなんだに、今夜こんやれるとはゆめやうな、ほんにこゝろとゞいたのであらう、自宅うちうまものはいくらもべやうけれどおやのこしらいたはまた別物べつもの奧樣氣おくさまぎとりすてゝ今夜こんやむかしのおせきになつて、見得みえかまはずまめなりくりなりつたをべてせておれ、いつでも父樣とゝさんうわさすること、出世しゆつせ出世しゆつせ相違さうゐなく、ひと立派りつぱなほど、おくらゐ方々かた/″\身分みぶんのある奧樣おくさまがたとの御交際おつきあひもして、かく原田はらだつま名告なのつとほるには氣骨きぼねれることもあらう、女子をんなどもの使つかひやう出入でいりのもの行渡ゆきわたり、ひとうへつものはだけ苦勞くらうおほく、里方さとかた此樣このやう身柄みがらでは猶更なほさらのことひとあなどられぬやうの心懸こゝろがけもしなければるまじ、れを種々さま/″\おもふてるととゝさんだとてわたしだとてまごなりなりのかほたいは當然あたりまへなれど、あんまりうるさく出入でいりをしてはとひかへられて、ほんに御門ごもんまへとほことはありとも木綿着物もめんきもの毛繻子けじゆす洋傘かふもりさしたときにはす/\お二かいすだれながら、あゝせきなにをしてことかとおもひやるばかり行過ゆきすぎて仕舞しまひまする、實家じつかでもすこなんとかつてたならばおまへ肩身かたみひろからうし、おなじくでもすこしはいきのつけやうものを、なにふにも此通このとほり、お月見つきみ團子いし/\をあげやうにも重箱おぢうからしておはづかしいではからうか、ほんにおまへ心遣こゝろづかひがおもはれるとうれしきなかにもおもふまゝの通路つうろかなはねば、愚痴ぐちの一トつかみいやしき身分みぶんなさけなげにはれて、本當ほんたうわたし親不孝おやふかうだとおもひまする、それは成程なるほどやはらかひ衣類きものきて手車てぐるまりあるくとき立派りつぱらしくもえませうけれど、とゝさんやかゝさんにうしてあげやうとおもこと出來できず、いはゞ自分じぶん皮一重かはひとゑいつ賃仕事ちんしごとしてもおそばくらしたはうつぽどこゝろよう御座ございますとすに、馬鹿ばか馬鹿ばか其樣そのやうことかりにもふてはならぬ、よめつた實家さとおやみつぎをするなどゝおもひもらぬこと、うちとき齋藤さいとうむすめ嫁入よめいつては原田はらだ奧方おくがたではないか、いさむさんのやうにしていへうちおさめてさへけばなん子細しさいい、ほねれるからとてだけうんのあるならばへられぬことはづをんななどゝものうも愚痴ぐちで、おふくろなどがつまらぬことすからこまる、いやうも團子だんごべさせること出來できぬとて一日いちにち大立腹おほりつぷくであつた、大分だいぶ熱心ねつしん調製こしらへたものとえるから十ぶんべて安心あんしんさせてつてれ、餘程よほどうまからうぞと父親てゝおや滑稽おどけれるに、ふたゝひそびれて御馳走ごちそうくり枝豆えだまめありがたく頂戴ちようだいをなしぬ。嫁入よめいりてより七ねんあひだ、いまだにりてきやくしこともなく、土産みやげもなしに一人ひとり歩行あるきしてるなど悉皆しつかいためしのなきことなるに、おもひなしか衣類いるいいつもほどきらびやかならず、まれひたるうれしさにのみはこゝろも付かざりしが、むこよりの言傳ことづてとてなにこと口上こうじようもなく、無理むり笑顏ゑがほつくりながらそこしほれしところのあるはなに子細しさいのなくてはかなはず、父親てゝおやつくえうへ置時計おきどけいながめて、これやモウほどなく十になるがせきとまつてつていのかの、かへるならばかへらねばるまいぞといておやかほむすめ今更いまさらのやうに見上みあげて御父樣おとつさんわたくし御願おねが[#ルビの「おねが」は底本では「おねがひ」]ひがあつてたので御座ござります、[#ルビの「ど」は底本では「ほ」]うぞ御聞おきゝあそばしてときつとなつてたゝみとき、はじめて一トしづく幾層いくそきをもらしそめぬ。
ちゝおだやかならぬいろ[#ルビの「いろ」は底本では「いつ」]うごかして、あらたまつてなにかのとひざすゝめれば、わたし今宵こよひかぎ原田はらだかへらぬ决心けつしんまいつたので御座ござります、いさむゆるしでまいつたのではなく、かして、太郎たらうかしつけて、最早もうあのかほ决心けつしんまいりました、まだわたしよりほかれのりでも承諾しようちせぬほどのを、だましてかしてゆめうちに、わたくしおにつてまいりました、御父樣おとつさん御母樣おつかさんさつしてくださりませわたくし今日けふまでひに原田はらだいて御耳おみゝれましたこともなく、いさむわたしとのなかひとふたこと御座ござりませぬけれど、千度ちたび百度もゝたびかんがなほして、二ねんも三ねん泣盡なきつくして今日けふといふ今日けふどうでも離縁りゑんもらふていたゞかうと决心けつしんほぞをかためました、うぞ御願おねがひで御座ござります離縁りゑんじやうつてくだされ、わたしはこれから内職ないしよくなりなんなりして亥之助いのすけ片腕かたうでにもなられるやうこゝろがけますほどに、一生いつしやう一人ひとりいてくださりませとわつとこゑたてるをかみしめる襦袢じゆばんそで墨繪すみゑたけ紫竹しちくいろにやいづるとあはれなり。
れはういふ子細しさいでとちゝはゝ詰寄つめよつてとひかゝるにいままではだまつてましたれどわたしうち夫婦めをとさしむかひを半日はんにちくださつたら大底たいてい御解おわかりになりませう、物言ものいふは用事ようじのあるとき慳貪けんどんまをしつけられるばかり、朝起あさおきまして機嫌きげんをきけば不圖ふとわきひてには草花くさばなわざとらしきことば、是にもはらはたてども良人おつとあそばすことなればと我慢がまんしてわたしなに言葉ことばあらそひしたこと御座ござんせぬけれど、朝飯あさはんあがるときから小言こゞとえず、召使めしつかひまへにて散々さん/″\わたし不器用ぶきよう不作法ぶさはう御並おならへなされ、れはまだ/\辛棒しんぼうもしませうけれど、二ことには教育けういくのない教育けういくのない御蔑おさげすみなさる、それはもとより華族くわぞく女學校ぢよがくかう椅子いすにかゝつてそだつたものではないに相違さうゐなく、御同僚ごどうりよう奧樣おくさまがたのやうにおはなのおちやの、うたのとならてたこともなければ其御話そのおはなしの相手あいて出來できませぬけれど、出來できずは人知ひとしれずならはせてくださつてもむべきはづなに表向おもてむ實家ぢつかるいを風聽ふうちやうなされて、召使めしつかひの婢女をんなどもにかほられるやうなことなさらずともかりさうなもの、嫁入よめいつて丁度てうど半年はんとしばかりのあいだせきせきやとしたへもかぬやうにしてくださつたけれど、あの出來できてからとものまる御人おひとかはりまして、おもしてもおそろしう御座ござります、わたしはくらやみたに突落つきおとされたやうにあたゝかいかげといふをこと御座ござりませぬ、はじめのうちなに串談じようだんわざとらしく邪慳じやけんあそばすのとおもふてりましたけれど、まつたくはわたし御飽おあきなされたので此樣こうもしたらてゆくか、彼樣あゝもしたら離縁りゑんをとすかといぢめていぢめていぢくので御座ござりましよ、御父樣おとつさん御母樣おつかさんわたし性分せうぶん御存ごぞんじ、よしや良人おつと藝者狂げいしやぐるひなさらうとも、かこものして御置おおきなさらうとも其樣そんこと悋氣りんきするわたしでもなく、侍婢をんなどもから其樣そんうわさきこえまするけれどれほどはたらきのある御方おかたなり、をとこのそれくらゐはありうちと他處よそゆきには衣類めしものにもをつけてさからはぬやうこゝろがけてりまするに、たゞもうわたしこととては一から十まで面白おもしろくなくおぼしめし、はしおろしにいへうちたのしくないはつま仕方しかたるいからだとおつしやる、れもういふことわるい、此處こゝ面白おもしろくないとかしてくださるやうならばけれど、一すぢつまらぬくだらぬ、わからぬやつ、とても相談さうだん相手あいてにはならぬの、いはゞ太郎たらう乳母うばとしていてつかはすのとあざけつておつしやるばかり、ほんに良人おつとといふではなく御方おかたおに御座ござりまする、御自分ごじぶんくちからてゆけとはおつしやりませぬけれどわたし此樣このやう意久地いくぢなしで太郎たらう可愛かわゆさにかれ、うでも御詞おことば異背いはいせず唯々はい/\小言こごといてりますれば、はり意氣地いきぢもないうたらのやつ、それからしてらぬとおつしやりまする、うかとつてすこしなりともわたし言條いひでうてゝけぬ御返事おへんじをしましたらそれとつてにてゆけとはれるは必定ひつぢやうわたし御母樣おつかさんるのはなんでも御座ござんせぬ、のみ立派りつぱ原田勇はらだいさむ離縁りゑんされたからとてゆめさらのこりをしいとはおもひませぬけれど、なんにもらぬ太郎たらうが、片親かたおやるかとおもひますると意地いぢもなく我慢がまんもなく、わび機嫌きげんつて、なんでもことおそつて、今日けふまでも物言ものいはず辛棒しんぼうしてりました、御父樣おとつさん御母樣おつかさんわたし不運ふうん御座ござりますとて口惜くやしさかなしさ打出うちいだし、おもひもらぬことかたれば兩親ふたおやかほ見合みあはせて、さては其樣そのやうなかかとあきれて暫時しばしいふこともなし。
母親はゝおやあまきならひ、毎々こと/″\にしみて口惜くちをしく、父樣とゝさんなんおぼすからぬが元來もと/\此方こちからもらふてくだされとねがふてつたではなし、身分みぶんわるいの學校がくかううしたのとくもくも勝手かつてことはれたもの先方さきわすれたかもらぬが此方こちらはたしかにまでおぼえてる、阿關おせきが十七の御正月おしようがつ、まだ門松かどまつとりもせぬ七日なのかあさことであつた、もと猿樂町さるがくてううちまへ御隣おとなり小娘ちいさいの追羽根おひばねして、いたしろ羽根はねとほかゝつた原田はらださんのくるまなかおちたとつて、れをば阿關おせきもらひにきしに、其時そのときはじめてたとかつて人橋ひとばしかけてやい/\ともらひたがる、御身分おみぶんがらにも釣合つりあひませぬし、此方こちらはまだつからの子供こどもなに稽古事けいこごと仕込しこんではおきませず、支度したくとても唯今たゞいま有樣ありさま御座ございますからとて幾度いくたびことはつたかれはせぬけれど、なにしうとしうとめのやかましいがるではし、わししくてわしもらふに身分みぶんなにことはない、稽古けいこ引取ひきとつてからでも充分じうぶんさせられるから其心配そのしんぱいらぬこと兎角とかくくれさへすれば大事だいじにしてかうからとそれそれのつくやう催促さいそくして、此方こちらから強請ねだつわけではなけれど支度したくまで先方さき調とゝのへてはゞ御前おまへ戀女房こひによぼうわたし父樣とゝさん遠慮ゑんりよしてのみは出入でいりをせぬといふもいさむさんの身分みぶんおそれてゞはい、これがめかけかけにしたのではなし正當しようたうにも正當しようとうにもひやくまんだらたのみによこしてもらつて[#ルビの「もら」は底本では「よら」]つたよめおや大威張おほゐばり出這入ではいりしてもさしつかへはけれど、彼方あちら立派りつぱにやつてるに、此方こちら此通このとほりつまらぬ活計くらしをしてれば、御前おまへゑんにすがつてむこ助力たすけけもするかと他人樣ひとさま處思おもはく口惜くちをしく、我慢がまんではけれど交際つきあひだけは御身分ごみぶん相應さうおうつくして、平常へいぜいいたいむすめかほずにまする、れをばなん馬鹿々々ばか/\しいおやなしでもひろつてつたやうに大層たいさうらしい、もの出來できるの出來できぬのと其樣そんくちけたものだまつてては際限さいげんもなくつのつてれはれはくせつて仕舞しまひます、だい一は婢女をんなどもの手前てまへ奧樣おくさま威光ゐくわうげて、すゑには御前おまへことものもなく、太郎たらう仕立したてるにも母樣はゝさん馬鹿ばかにするになられたらなんとしまする、ふだけのこと屹度きつとふて、それがるいと小言こゞとをいふたらなんわたしにもうちありますとてるがからうではいか、ほん馬鹿々々ばか/\しいとつてはれほどのこと今日けふまでだまつてるといふことりますものか、あんま御前おまへ温順おとなすぎるから我儘がまんがつのられたのであろ、いたばかりでもはらつ、もう/\退けてるにはおよびません、身分みぶんなんであらうがちゝもあるはゝもある、としはゆかねど亥之助いのすけといふおとゝもあればそのやうなかにじつとしてるにはおよばぬこと、なあ父樣とゝさんぺんいさむさんにふて十ぶんあぶらつたら御座ござりましよとはゝたけつて前後ぜんごもかへりず。
父親てゝおや先刻さきほどよりうでぐみしてぢてありけるが、あゝ御袋おふくろ無茶むちやことふてはならぬ、しさへはじめていてうしたものかと思案しあんにくれる、阿關おせきことなればなみ大底たいてい此樣こんことしさうにもなく、よく/\らさにたとえるが、して今夜こんやむこどのは不在るすか、なにあらたまつての事件じけんでもあつてか、いよ/\離縁りゑんするとでもはれてたのかとおちついてふに、良人おつと一昨日おとゝひよりうちへとてはかへられませぬ、五うちけるは平常つねことのみめづらしいとはおもひませぬけれど出際でぎは召物めしものそろへかたがわるいとて如何いかほどびても聞入きゝいれがなく、其品それをばいでたゝきつけて、御自身ごじゝん洋服ようふくにめしかへて、あゝ私位わしぐらゐ不仕合ふしあはせ人間にんげんはあるまい、御前おまへのやうなつまつたのはとてに御出おいあそばしました、なんといふこと御座ござりませう一ねん三百六十五にちものいふことく、稀々たま/\はれるは此樣このやうなさけないことばをかけられて、れでも原田はらだつまはれたいか、太郎たらうはゝさふらふかほおしぬぐつてこゝろか、我身わがみながら我身わがみ辛棒しんぼうがわかりませぬ、もう/\もうわたし良人つま御座ござんせぬ嫁入よめいりせぬむかしとおもへばれまで、あの頑是ぐわんぜない太郎たらう寢顏ねがほながめながらいてるほどのこゝろになりましたからは、うでもいさむそばこと出來できませぬ、おやはなくともそだつとひまするし、わたしやう不運ふうんはゝそだつより繼母御まゝはゝごなり御手おてかけなりかなふたひとそだてゝもらふたら、すこしは父御てゝご可愛かわゆがつて後々のち/\あのためにもなりませう、わたしはもう今宵こよひかぎりうしてもかへこといたしませぬとて、つてもてぬ可憐かわゆさに、奇麗きれいへどもことばはふるへぬ。
ちゝ歎息たんそくして、無理むりい、居愁ゐづらくもあらう、こまつたなかつたものよと暫時しばらく阿關おせきかほながめしが、大丸髷おほまるまげ金輪きんわきて黒縮緬くろちりめん羽織はをりなんしげもなく、むすめながらもいつしか調とゝの奧樣風おくさまふう、これをばむすがみひかへさせて綿銘仙めんめいせん半天はんてんたすきがけの水仕業みづしわざさすることいかにしてしのばるべき、太郎たらうといふもあるものなり、一たんいかりに百ねんうんとりはづして、ひとにはわらはれものとなり、はいにしへの齋藤主計さいとうかずへむすめもどらば、くともわらふとも再度ふたゝび原田太郎はらだたらうはゝとはばるゝことるべきにもあらず、良人おつと未練みれんのこさずともあいちがたくははなれていよ/\ものをもおもふべく、いま苦勞くらうこひしがるこゝろづべし、かたちよくうまれたる不幸ふしやはせ不相應ふさうおうゑんにつながれていくらの苦勞くらうをさすることあはれさのまされども、いや阿關おせきこうふとちゝ無慈悲むじひ汲取くみとつてれぬのとおもふからぬがけつして御前おまへかるではない、身分みぶん釣合つりあはねばおもこと自然しぜんちがふて、此方こちらしんからつくでもりやうにつては面白おもしろくなくえることもあらう、いさむさんだからとてとほもの道理だうり心得こゝろえた、利發りはつひとではあり隨分ずいぶん學者がくしやでもある、無茶苦茶むちやくちやにいぢめたてわけではあるまいが、世間せけんもの敏腕家はたらきてなどゝはれるはきわめておそろしいわがまゝものそとではらぬかほつてまわせどつときの不平ふへいなどまで家内うちかへつてあたりちらされる、まとつては隨分ずいぶんつらいこともあらう、なれどもれほどの良人おつとのつとめ、區役所くやくしよがよひの腰辨當こしべんたうかましたきつけてくれるのとはかくちがふ、したがつてやかましくもあらう六づかしくもあろうそれ機嫌きげんやうにとゝのへてくがつまやく表面うわべにはえねど世間せけん奧樣おくさまといふ人達ひとたちいづれも面白おもしろくをかしきなかばかりはるまじ、一つとおもへばうらみもる、なんれがつとめなり、ことにはれほどがらの相違さうゐもあることなればひとばいもある道理だうり、おふくろなどが口廣くちひろことへど亥之いの昨今さくこん月給げつきうありついたも必竟ひつきやう原田はらださんの口入くちいれではなからうか、七光なゝひかりどころか十光とひかりもして間接よそながらのおんぬとははれぬにらからうとも一つはおやためおとゝため太郎たらうといふもあるものを今日けふまでの辛棒しんぼうがなるほどならば、れからとて出來できことはあるまじ、離縁りゑんつてたがいか、太郎たらう原田はらだのもの、其方そち齋藤さいとうむすめ、一ゑんれては二かほにゆくこともなるまじ、おなじく不運ふうんくほどならば原田はらだつま大泣おほなきにけ、なあせきさうではいか、合點がてんがいつたら何事なにごとむねおさめて、らぬかほ今夜こんやかへつて、いままでどほりつゝつしんでおくつてれ、おまへ[#「おまへが」は底本では「お前おまへが」]くちさんとてもおやさつしるおとゝさつしる、なみだ各自てんでわけかうぞと因果いんぐわふくめてこれもぬぐふに、阿關おせきはわつといてれでは離縁りゑんをといふたもわがまゝで御座ござりました、成程なるほど太郎たらうわかれてかほられぬやうにならば此世このよたとて甲斐かひもないものを、たゞまへをのがれたとてうなるもの御座ござんせう、ほんにわたしさへんだにならば三ぱうはう波風なみかぜたゝず、もあれ兩親れうしんそだてられまするに、つまらぬことおもよりまして、貴君あなたにまでやなこと御聞おきかせまをしました、今宵限こよひかぎせきはなくなつてたましゐ一つがまもるのとおもひますれば良人おつとのつらくあたくらゐねん辛棒しんぼう出來できさうなこと、よく御言葉おことば合點がてんきました、もう此樣こんこと御聞おきかせまをしませぬほどに心配しんぱいをしてくださりますなとてぬぐふあとからまたなみだ母親はゝおやこゑたてゝなんといふ此娘このこ不仕合ふしやわせまた一しきり大泣おほなきのあめ、くもらぬつきをりからさびしくて、うしろの土手どて自然生しぜんばへおとゝ亥之いのをつて、びんにさしたるすゝきまね手振てぶりもあはれなるなり。
實家じつか上野うへの新坂下しんざかした駿河臺するがだいへのみちなればしげれるもりのした暗侘やみわびしけれど、今宵こよひつきもさやかなり、廣小路ひろこうぢいづればひる同樣どうやうやとひつけの車宿くるまやどとていへなればみちゆくくるままどからんで、合點がてんつたらかくかへれ、主人あるじ留守るすことはりなしの外出ぐわいしゆつ、これをとがめられるとも申譯まをしわけことばるまじ、すこ時刻じこくおくれたれどくるまならばひ一トとびはなしはかさねてきにかう、今夜こんやかへつてれとてつて引出ひきいだすやうなるもことあらだてじのおや慈悲じひ阿關おせきはこれまでの覺悟かくごしてお父樣とつさん、お母樣つかさん今夜こんやことはこれかぎり、かへりまするからはわたし原田はらだつまなり、良人おつとそしるはみませぬほどになにひませぬ、せき立派りつぱ良人おつとつたのでおとゝためにも片腕かたうで、あゝ安心あんしんなとよろこんでくださればわたしなにおもこと御座ござんせぬ、けつしてけつして不了簡ふりやうけんなどすやうなことはしませぬほどにれもあんじてくださりますな、わたし身體からだ今夜こんやをはじめにいさむのものだとおもひまして、ひとおもうまゝになんとなりしてもらひましよ、それではわたしもどります、亥之いのさんがかへつたらばよろしくいふていてくだされ、お父樣とつさんもお母樣つかさん御機嫌ごきげんよう、此次このつぎにはわらふてまゐりまするとて是非ぜひなさゝうにたちあがれば、母親はゝおやけなしの巾着きんちやくさげて駿河臺するがだいまで何程いくらでゆくとかどなる車夫しやふこゑをかくるを、あ、お母樣つかさんそれはわたしがやりまする、ありがたう御座ござんしたと温順おとなしく挨拶あいさつして、格子戸かうしどくゞればかほそでなみだをかくしてうつあはれさ、うちにはちゝ咳拂せきばらひのれもうるめるこゑなりし。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


さやけきつきかぜのおとひて、むしたえ/″\にものがなしき上野うへのりてよりまだ一てうもやう/\とおもふに、いかにしたるか車夫しやふはぴつたりとかぢめて、まことまをしかねましたがわたしはこれで御免ごめんねがひます、だいりませぬからおりなすつてと突然だしぬけにいはれて、おもひもかけぬことなれば阿關おせきむねをどつきりとさせて、あれおまへそんなことつてはこまるではないか、すこいそぎのことでもありしはげやうほどにほねつておれ、こんなさびしいところではかはりのくるまるまいではないか、それはおまへ人困ひとこまらせといふもの愚圖ぐづらずにつておれとすこしふるへてたのむやうにへば、しがしいとふのではありませぬ、わたしからおねがひですうぞおりなすつて、くのがやにつたので御座ござりますとふに、それではおまへ加※かげん[#「冫+咸」、U+51CF、46-8]でもるいか、まあうしたとわけ此處こゝまでいてやにつたではむまいがねとこゑちかられて車夫しやふしかれば、御免ごめんなさいまし、もううでもやにつたのですからとて提燈ちようちんもちしまゝ不圖ふとわきへのがれて、おまへわがまゝの車夫くるまやさんだね、それならば約定きめところまでとはひませぬ、かはりのあるとこまでつてれゝばそれでよし、だいはやるほどに何處どこ※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)そこらまで、めて廣小路ひろこうぢまではつておれとやさしいこゑにすかすやうにいへば、るほどわかいおかたではありこのさびしいところへおろされてはさだめしおこまりなさりませう、これはわたしわる御座ござりました、ではおまをしませう、おともいたしませう、さぞおどろきなさりましたろうとて惡者わるらしくもなく提燈ちようちんもちかゆるに、おせきもはじめてむねをなで、心丈夫こゝろじようぶ車夫しやふかほれば二十五六のいろくろく、小男こをとこせぎす、あ、つきそむけたあのかほれやらでつた、れやらにるとひと咽元のどもとまでころがりながら、もしやおまへさんはと我知われしらずこゑをかけるに、ゑ、とおどろいてふりあふぐをとこ、あれおまへさんはのおかたではいか、わたしをよもやおわすれはなさるまいとくるまよりすべるやうにりてつく/″\とうちまもれば、貴孃あなた齋藤さいとう阿關おせきさん、面目めんもく此樣こん姿なりで、背後うしろければなんもつかずにました、れでも音聲ものごゑにもこゝろづくべきはづなるに、わたし餘程よつぽどどんりましたとしたいてはぢれば、阿關おせきつむりさき[#ルビの「さき」は底本では「せき」]より爪先つまさきまでながめていゑ/\わたしだとて徃來わうらい行逢ゆきあふたくらゐではよもや貴君あなたきますまい、たついまさきまでもらぬ他人たにん車夫くるまやさんとのみおもふてましたに御存ごぞんじないは當然あたりまへ勿體もつたいないことであつたれどらぬことなればゆるしてくだされ、まあ何時いつから此樣こんことして、よくそのよはさわりもしませぬか、伯母おばさんが田舍いなか引取ひきとられておいでなされて、小川町をがはまちのおみせをおめなされたといふうわさ他處よそながらいてもましたれど、わたしむかしのでなければ種々いろ/\さわことがあつてな、おたづまをすはさらなること手紙てがみあげることなりませんかつた、いま何處どこうちつて、お内儀かみさんも御健勝おまめか、小兒ちツさいのも出來できてか、いまわたしをりふし小川町をがはまち勸工塲くわんこうば見物ゆきまする度々たび/\もとのおみせがそつくり其儘そのまゝおな烟草店たばこみせ能登のとやといふにつてまするを、何時いつとほつてものぞかれて、あゝ高坂かうさかろくさんが子供こどもであつたころ、學校がくかう行返ゆきもどりにつては卷烟草まきたばこのこぼれをもらふて、生意氣なまいきらしう吸立すいたてたものなれど、いま何處どこなにをして、やさしいかたなれば此樣こんづかしいのやうの世渡よわたりをしておいでならうか、れもこゝろにかゝりまして、實家じつかたび御樣子ごやうすを、もしつてもるかといてはまするけれど、猿樂町さるがくてうはなれたのはいまで五ねんまへつからお便たよりをゑんがなく、んなにおなつかしう御座ござんしたらうと我身わがみのほどをもわすれてひかくれば、をとこながれるあせ手拭てぬぐひにぬぐふて、おはづかしいおちましていまうちもの御座ござりませぬ、寐處ねどころ淺草町あさくさまち安宿やすやど村田むらたといふが二かいころがつて、ひたとき今夜こんやのやうにおそくまでこともありまするし、やとおもへばがな一日いちにちごろ/\としてけぶりのやうにくらしてまする、貴孃あなた相變あいかはらずのうつくしさ、奧樣おくさまにおりなされたといたときからそれでも一おがこと出來できるか、一しよううちまた言葉ことばはすこと出來できるかとゆめのやうにねがふてました、今日けふまでは入用いりようのないいのちものとりあつかふてましたけれどいのちがあればこその御對面ごたいめん、あゝわたくし高坂かうさか録之助ろくのすけおぼえてくださりました、かたじけなう御座ござりますとしたくに、阿關おせきはさめ/″\としてれも一人ひとりおもふてくださるな。
してお内儀かみさんはと阿關おせきへば、御存ごぞんじで御座ござりましよ筋向すぢむかふの杉田すぎたやがむすめいろしろいとか恰好かつかううだとかふて世間せけんひと暗雲やみくもめたてたもの御座ござります、わたし如何いかにも放蕩のらをつくしてうちへとてはりつかぬやうにつたを、もらふべきころもらものもらはぬからだと親類しんるいうちわからずやが勘違かんちがひして、れならばと母親はゝおや眼鏡めがねにかけ、是非ぜひもらへ、やれもらへと無茶苦茶むちやくちやすゝめたてる五月蠅うるささ、うなりとれ、れ、勝手かつてれとてれをうちむかへたは丁度てうど貴孃あなた御懷妊ごくわいにんだときゝました時分じぶんこと、一年目ねんめにはわたしところにもお目出めでたうを他人ひとからははれて、犬張子いぬはりこ風車かざぐるまならべたてるやうりましたれど、なんのそんなことわたし放蕩のらのやむことか、ひとかほ女房にようぼたせたらあしまるか、うまれたらあらたまるかともおもふてたのであらうなれど、たとへ小町こまち西施せいしいてて、衣通姫そとほりひめひをつてせてれてもわたし放蕩のらなほらぬことめていたを、なんちゝくさい子供こどもかほ發心ほつしん出來できませう、あそんであそんであそいて、んでんでつくして、いへ稼業かげふもそつちけにはしぽんもたぬやうにつたは一昨々年さきおとゝし、おふくろ田舍いなか嫁入よめいつたあねところ引取ひきとつてもらひまするし、女房にようぼをつけて實家さともどしたまゝ音信不通いんしんふつうをんなではありしいともなんともおもひはしませぬけれど、其子そのこ昨年さくねんくれチプスにかゝつてんださうにきゝました、をんなはませなものではあり、ぎはにはさだめし父樣とゝさんとかなんとかふたので御座ござりましよう、今年ことしれば五つになるので御座ござりました、なんのつまらぬうへ、おはなしにもりませぬ。
をとこはうすさびしきかほみをうかべて貴孃あなたといふことりませぬので、んだわがまゝの不調法ぶてうはふ、さ、おのりりなされ、おともをしまする、さぞ不意ふいでおおどろきなさりましたろう、くるまくとふもばかり、なにたのしみに轅棒かぢぼうをにぎつて、なにのぞみに牛馬うしうま眞似まねをする、ぜにもらへたらうれしいか、さけまれたら愉快ゆくわいなか、かんがへればなに悉皆しつかいやで、お客樣きやくさませやうが空車からときだらうがやとなると用捨ようしやなくやになりまする、あきれはてるわがまゝをとこ愛想あいそきるではりませぬか、さ、おりなされ、おともをしますとすゝめられて、あれらぬうち仕方しかたもなし、つて其車それれますものか、れでも此樣こんさびしいところ一人ひとりゆくは心細こゝろぼそいほどに、廣小路ひろこうぢるまでたゞみちづれにつてくだされ、はなしながらゆきませうとておせき小褄こづますこひきあげて、ぬり下駄げたのおとれもさびしげなり。
むかしともといふうちにもこれはわすられぬ由縁ゆかりのあるひと小川町をがはまち高坂かうさかとて小奇麗こぎれい烟草屋たばこや一人息子ひとりむすこいま此樣このやういろくろられぬをとこになつてはれども、にあるころ唐棧とうざんぞろひに小氣こきいたまへだれがけ、お世辭せじ上手じようず愛敬あいけうもありて、としかぬやうにもい、父親てゝおやときよりはかへつてみせにぎやかなと評判ひやうばんされた利口りこうらしいひとの、さても/\のかはやう我身わがみ嫁入よめいりのうわさきこそめころから、やけあそびのそこぬけさわぎ、高坂かうさか息子むすこまる人間にんげんかわつたやうな、でもさしたか、たゝりでもあるか、よもや只事たゞごとではいと其頃そのころきしが、今宵こよひれば如何いかにもあさましい有樣ありさま木賃泊きちんどまりになさんすやうにらうとはおもひもらぬ、わたし此人このひとおもはれて、十二のとしより十七まで明暮あけくかほあはせるたび行々ゆく/\みせ彼處あすこすわつて、新聞しんぶんながらあきなひするのとおもふてもたれど、はからぬひとゑんさだまりて、親々おや/\ことなればなん異存いぞんいれられやう、烟草たばこやろくさんにはとおもへどれはほんの子供こどもごゝろ、先方さきからもくちしてふたことはなし、此方こちらなほさら、これはとりとまらぬゆめやうこひなるを、おもつて仕舞しまへ、おもつて仕舞しまへ、あきらめて仕舞しまはうとこゝろさだめて、いま原田はらだ嫁入よめいりのことにはつたれど、其際そのきはまでもなみだがこぼれて[#「こぼれて」は底本では「こぽれて」]わすれかねたひとわたしおもふほどは此人このひとおもふて、ゆゑ破滅はめつかもれぬものを、此樣このやう丸髷まるまげなどに、取濟とりすましたるやう姿すがたをいかばかりつらにくゝおもはれるであらう、ゆめさらさうしたたのしらしいではなけれどもと阿關おせきふりかへつて録之助ろくのすけやるに、なにおもふか茫然ぼうぜんとせしかほつき、ときたまひし阿關おせきむかつてのみはうれしき樣子やうすえざりき。
廣小路ひろこうぢいづればくるまもあり、阿關おせき紙入かみいれより紙幣しへいいくらか取出とりいだして小菊こぎくかみにしほらしくつゝみて、ろくさんこれはまこと失禮しつれいなれど鼻紙はながみなりともつてくだされ、ひさぶりでおにかゝつてなにまをしたいこと澤山たんとあるやうなれどくちませぬはさつしてくだされ、ではわたし御別おわかれにいたします、隨分ずいぶんからだをいとふてわづらはぬやうに、伯母おばさんをもはや安心あんしんさせておあげなさりまし、かげながらわたしいのります、うぞ以前いぜんろくさんにおりなされて、お立派りつぱにおみせをおひらきにりますところせてくだされ、左樣さやうならばと挨拶あいさつすれば録之助ろくのすけかみづゝみをいたゞいて、お辭儀じぎまをはづなれど貴孃あなたのおよりくだされたのなれば、ありがた頂戴ちようだいしておもにしまする、おわかまをすがしいとつてもれがゆめならば仕方しかたのないこと、さ、おいでなされ、わたくしかへります、けてはみちさびしう御座ござりますぞとて空車からぐるまいてうしろく、其人それひがしへ、此人これみなみへ、大路おほぢあなぎ[#ルビの「あなぎ」はママ]つきのかげになびいてちからなささうの下駄げたのおと、村田むらたの二かい原田はらだおくきはおたがひのにおもふことおほし。
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底本:「文藝倶樂部 閨秀小説號」博文館
   1895(明治28)年12月10日
初出:「文藝倶樂部 閨秀小説號」博文館
   1895(明治28)年12月10日
※初出時の署名は、「一葉女史」です。
※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。
※「決」と「决」の混在は、底本通りです。
入力:万波通彦
校正:Juki
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「冫+咸」、U+51CF    46-8


●図書カード