にごりえ

樋口一葉




※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


おい木村きむらさんしんさんつておいでよ、おりといつたらつてもいではないか、また素通すどほりで二やへだらう、おしかけてつてひきずつてるからさうおもひな、ほんとにおぶうならかへりに吃度きつとよつておれよ、うそきだからなにふかれやしないと店先みせさきつて馴染なじみらしきつツかけ下駄げたをとこをとらへて小言こゞとをいふやうなものひぶり、はらたずか言譯いひわけしながら後刻のち後刻のちにと行過ゆきすぎるあとを、一寸ちよつと舌打したうちしながら見送みおくつてのちにもいもんだもないくせに、本當ほんとう女房にようぼうもちにつては仕方しかたがないねとみせむかつてしきいをまたぎながら一人言ひとりごとをいへば、たかちやん大分だいぶ御述懷ごじつくわいだね、なにもそんなにあんじるにもおよぶまい燒棒※(「木+兀」、第4水準2-14-30)やけぼつくいなにとやら、またよりのもどこともあるよ、心配しんぱいしないでまじなひでもしてつがいさとなぐさめるやうな朋輩ほうばい口振くちぶりりきちやんとちがつてわたしには技倆うでいからね、一人ひとりでもにがしては殘念ざんねんさ、わたしのやうなうんるいものにはまじなひなにきはしない、今夜こんやまた木戸番きどばんか、なんたらこと面白おもしろくもないと肝癪かんしやくまぎれに店前みせさきこしをかけて駒下駄こまげたのうしろでとん/\と土間どまるは二十のうへを七つか十か引眉毛ひきまゆげつく生際はへぎは白粉おしろいべつたりとつけてくちびる人喰ひとくいぬごとく、かくてはべにやらしきものなり、おりきばれたるは中肉ちうにく背恰好せいかつかうすらりつとしてあらがみ大嶋田おほしまだしんわらのさわやかさ、ゑりもとばかり白粉おしろいえなくゆる天然てんねん色白いろじろをこれみよがしにのあたりまでむねくつろげて、烟草たばこすぱ/\長烟管ながぎせる立膝たてひざ無作法ぶさはうさもとがめるひい[#ルビの「ひい」はママ]のなきこそよけれ、おもつたる大形おほがた裕衣ゆかたひつかけおび黒繻子くろじゆすなにやらのまがひものひらぐけがところえてはずとれしこのあたりのあねさまふうなり、おたかといへるは洋銀ようぎんかんざし天神てんじんがへしのまげしたきながらおもしたやうにりきちやん先刻さつき手紙てがみしかといふ、はあとのない返事へんじをして、どうでるのではいけれど、あれもお愛想あいさうさとわらつてるに、大底たいていにおしよ卷紙まきがみ二尋ふたひろいて二まい切手ぎつて大封おほふうじがお愛想あいさう出來できものかな、そしてひと赤坂以來あかさかから馴染なじみではないか、すこしやそつとの紛雜いざがあろうとも縁切ゑんきれになつてたまものか、おまへかた一つでうでもなるに、ちつとはせいして取止とりとめるやうにこゝろがけたらかろ、あんまり冥利めうりがよくあるまいとへば御親切ごしんせつありがたう、御異見ごゐけんうけたまはおきましてわたしはどうもんなやつむしかないから、ゑんとあきらめてくださいと人事ひとごとのやうにいへば、あきれたものだのとわらつておまへなどは其我そのわがまゝがとほるから豪勢ごうせいさ、此身このみになつては仕方しかたがないと團扇うちはつて足元あしもとをあふぎながら、むかしははなよのひなし可笑をかしく、おもてとほをとこかけてつておでとゆふぐれの店先みせさきにぎはひぬ。
みせは二けん間口まぐちの二かいづくり、のきには御神燈ごしんとうさげてじほ景氣けいきよく、空壜あきびんなにらず、銘酒めいしゆあまたたなうへにならべて帳塲ちようばめきたるところもみゆ、勝手元かつてもとには七りんあほおと折々をり/\さわがしく、女主あるじづからなべ茶椀ちやわんむしぐらいはなるも道理ことわりおもてにかゝげし看板かんばんれば子細しさいらしく御料理おんりようりとぞしたゝめける、さりとて仕出しだたのみにゆきたらばなにとかいふらん、にはか今日こんにち品切しなぎれもをかしかるべく、をんなならぬお客樣きやくさま手前店てまへみせへおかけをねがひまするともふにかたからん、御方便ごはうべん商買しようばいがらを心得こゝろゑ口取くちと燒肴やきざかなとあつらへに田舍いなかものもあらざりき、おりきといふは此家このやの一まい看板かんばんとしずいわかけれどもきやくぶにめうありて、さのみは愛想あいさううれしがらせをふやうにもなくわがまゝ至極しごく振舞ふるまいすこ容貌きりよう自慢じまんかとおもへば小面こづらくいと蔭口かげぐちいふ朋輩はうばいもありけれど、交際つきあつてはぞんほかやさしいところがあつておんなながらもはなれともない心持こゝろもちがする、あゝこゝろとて仕方しかたのないものおもざしが何處どことなくへてへるは本性ほんせうあらはれるのであらう、たれしも新開しんかい這入はいるほどのものきくのおりきらぬはあるまじ、きくのおりきか、おりききくか、さても近來きんらいまれのひろひもの、あののおかげ新開しんかいひかりがはつた、かゝぬし神棚かみだなへさゝげていてもいとて軒並のきならびのうらやみぐさになりぬ。
たか往來ゆきゝひとのなきをて、りきちやんおまへことだからなにがあつたからとてにしてもまいけれど、わたしにつまされてげんさんのことおもはれる、それいま身分みぶんおちぶれてはつからいおきやくではないけれどもおもふたからには仕方しかたがない、としちがをががあろがさ、ねへ左樣さうではないか、お内儀かみさんがあるといつてわかれられるものかね、かまことはない呼出よびだしており、わたしのなぞといつたら野郎やらうから心替こゝろがはりがしてかほてさへすのだから仕方しかたがない、どうであきらもの別口べつくちへかゝるのだがおまへのはれとはちがふ、了簡りようけん一つではいまのお内儀かみさんに三くだはんをもられるのだけれど、おまへ氣位きぐらゐたかいからげんさんと一處ひとつにならうとはおもふまい、それだものなほことぶん子細しさいがあるものか、手紙てがみをおいまに三かわやの御用聞ごようききがるだろうから子僧こぞう使つかひやさんをせるがい、なんひと孃樣ぢようさまではあるまいし御遠慮計ごゑんりよばかりまをしてなるものかな、おまへおもりがすぎるからいけないかく手紙てがみをやつて御覽ごらんげんさんも可愛かあいさうだわなとひながらおりきれば烟管掃除きせるそうじ餘念よねんのなきは俯向うつむきたるまゝものいはず。
やがて雁首がんくび奇麗きれいいて一ぷくすつてポンとはたき、またすいつけておたかわたしながらをつけてお店先みせさきはれると人聞ひとぎきかわるいではないか、きくのおりき土方どかた手傳てつだひを情夫まぶつなどゝ考違かんちがへをされてもならない、それむかしのゆめがたりさ、なんいまわすれて仕舞しまつげんとも七ともおもされぬ、もう其話そのはなしはめ/\といひながらたちあがるときおもてとほ兵兒帶へこおびの一むれ、これ石川いしかはさん村岡むらおかさんおりきみせをおわすれなされたかとべば、いや相變あひかはらず豪傑ごうけつこゑかゝり、素通すどほりもなるまいとてずつと這入はいるに、たちま廊下らうかにばた/\といふあしおと、ねへさんお銚子てうしこゑをかければ、おさかななにをとこたふ。三味さみ景氣けいきよくきこえて亂舞らんぶ足音あしおとこれよりぞきこそめぬ。

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さるあめのつれ/″\におもてとほ山高帽子やまだかぼうしの三十をとこ、あれなりとらずんはこのりにきやくあしとまるまじとおりきかけしてたもとにすがり、うでもりませぬと駄々だゝをこねれば、容貌きりようよきの一とくれいになき子細しさいらしきおきやく呼入よびいれて二かいの六ぢよう三味線さみせんなしのしめやかなる物語ものがたりとしはれてはれて其次そのつぎおやもとの調しらべ、士族しぞくかといへばれははれませぬといふ、平民へいみんかとへばうござんしようかとこたふ、そんなら華族くわぞくわらひながらくに、まあ左樣さうおもふてくだされ、お華族くわぞく姫樣ひいさまづからのおしやく、かたじけなく御受おうけなされとて波々なみ/\とつぐに、さりとは無作法ぶさはうおきつぎといふがものか、れは小笠原をがさはらか、何流なにりうぞといふに、お力流りきりうとてきく左法さはうたゝみさけのまする流氣りうぎもあれば、大平おほびらふたであほらする流氣りうぎもあり、いやなおひとにはおしやくをせぬといふが大詰おほづめのきまりでござんすとておくしたるさまもなきに、きやくはいよ/\面白おもしろがりて履歴りれきをはなしてかせよさだめてすさましい物語ものがたりがあるに相違さういなし、たゞのむすめあがりとはおもはれぬうだとあるに、御覽ごらんなさりませびんあいだつのへませず、そのやうに甲羅かうらませぬとてころ/\とわらふを、左樣さうぬけてはいけぬ、眞實しんじつところはなしてかせよ、素性すぜうへずは目的もくてきでもいへとてめる、むづかしうござんすね、いふたら貴君あなたびつくりなさりましよ天下てんかのぞ大伴おほとも黒主くろぬしとはわたしこととていよ/\わらふに、これはうもならぬそのやうに茶利ちやりばかりはですこ眞實しんところかしてくれ、いかに朝夕てうせきうそなかおくるからとてちつとはまことまじはづ良人おつとはあつたか、それとも親故おやゆゑかとしんつてかれるにおりきかなしくりて、わたしだとて人間にんげんでござんすほどにすこしはこゝろにしみることもありまする、おやはやくになくなつていま眞實ほんあしばかり、此樣こんものなれど女房にようぼうたうといふてくださるもいではなけれど良人おつとをばもちませぬ、うで下品げひんそだちましたなれば此樣こんことしておはるのでござんしよと投出なげだしたやうなことば無量むりようかんがあふれてあだなる姿すがた浮氣うはきらしきにず一ふしさむろう樣子やうすのみゆるに、なに下品げひんそだつたからとて良人おつとてぬことはあるまい、ことにおまへのやうな別品べつぴんさむではあり、一そくとびにたま輿こしにもれさうなもの、れともそのやうな奧樣おくさまあつかひむしかで矢張やは傳法肌でんぽうはだの三じやくおびるかなとへば、どうで其處そこらがおちでござりましよ、此方こちらおもふやうなは先樣さきさまいやなり、いといつてくださるおひとるもなし、浮氣うはきのやうに思召おぼしめしましようが其日そのひおくりでござんすといふ、いや左樣さうはさぬ相手あいてのないことはあるまい、いま店先みせさきれやらがよろしくふたとほかおんな言傳ことづてたではいか、いづれ面白おもしろことがあらうなんとだといふに、あゝ貴君あなたもいたり穿索せんさくなさります、馴染なじみはざら一めん手紙てがみのやりとりは反古ほごとりかヘツこ、けとおつしやれば起證きせうでも誓紙せいしでもおこの次第しだいさしあげませう、女夫めをとやくそくなどとつても此方こちやぶるよりは先方樣さきさま性根せうねなし、主人しゆじんもちなら主人しゆじんこわおやもちならおやひなり、振向ふりむひててくれねば此方こちらひかけてそでらへるにおよばず、それならせとてりにりまする、相手あいてはいくらもあれども一せうたのひといのでござんすとてなげなる風情ふぜい、もう此樣こんはなしはしにして陽氣ようきにおあそびなさりまし、わたしなにしづんだこと大嫌だいきらひ、さわいでさわいでさわぎぬかうとおもひますとてたゝいて朋輩ほうばいべばりきちやん大分だいぶおしめやかだねと三十おんな厚化粧あつげしようるに、おい此娘このこ可愛かあいひとなんといふだと突然だしぬけはれて、はあわたしはまだお名前なまへうけたまはりませんでしたといふ、うそをいふとぼんるに※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)魔樣ゑんまさまへおまいりが出來できまいぞとわらへば、れだとつて貴君あなた今日けふにかゝつたばかりでは御坐ござりませんか、いまあらためてうかゞひにやうとしてましたといふ、れはなんことだ、貴君あなたのおをさとげられて、馬鹿ばか/\おりきおこるぞと大景氣おほけいき無駄むだばなしのりやりに調子てうしづいて旦那だんなのお商買しようばいあてませうかとおたかがいふ、何分なにぶんねがひますとのひらを差出さしだせば、いゑそれにはおよびませぬ人相にんさうまするとて如何いかにもおちつきたるかほつき、よせ/\じつとながめられてたなおろしでもはじまつてはたまらぬ、えてもぼく官員くわんいんだといふ、うそおつしやれ日曜にちようのほかにあそんであるく官員樣くわんいんさまがありますものか、りきちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ばけものではいらつしやらないよとはなさきつてわかつたひと御褒賞ごほうびたと懷中ふところから紙入かみいれをいだせば、おりきわらひながらたかちやん失禮しつれいをいつてはならないこのかた御大身ごだいしん御華族樣ごくわぞくさまおしのびあるきの御遊興ごゆうきようさ、なん商買しようばいなどがおありなさらう、そんなのではいとひながら蒲團ふとんうへせてきし紙入かみいれをとりあげて、お相方あいかた高尾たかをにこれをばおあづけなされまし、みなのもの祝義しうぎでもつかはしませうとてこたへもかずずん/\と引出ひきいだすを、きやくはしらより[#ルビの「より」は底本では「ちり」]かゝつてながめながら小言こゞともいはず、諸事しよじおまかせ申すと寛大かんだいひとなり。
たかはあきれてりきちやん大底たいていにおしよといへども、なにいのさ、これはおまへにこれはねへさんに、おほきいので帳塲ちやうばはらひをつてのこりは一同みんなにやつてもいとおつしやる、おれいまをしいたゞいておでと蒔散まきちらせば、これを此娘このこの十八ばんれたることとてのみは遠慮ゑんりよもいふてはず、旦那だんなよろしいのでございますかと駄目だめして、ありがたうございますときさらつてくうしろ姿すがた、十九にしてはけてるねと旦那だんなどのわらすに、ひとるいことおつしやるとておりきつて障子しやうじけ、手摺てすりにつて頭痛づつうをたゝくに、おまへはどうするかねしくないかとはれて、わたしべつにほしいものがござんした、此品これさへいたゞけばなによりとおびあひだからきやく名刺めいしをとりしていたゞくまねをすれば、何時いつ引出ひきだした、おとりかへには寫眞しやしんをくれとねだる、此次このつぎ土曜日どようびくだされば御一處ごいつしよにうつしませうとてかへりかゝるきやくのみはめもせず、うしろにまはりて羽織はをりをきせながら、今日けふ失禮しつれいいたしました、またのおいでまちますといふ、おいほどことをいふまいぞ、空誓文そらせいもん御免ごめんだとわらひながらさつ/\とつて階段はしごりるに、おりき帽子ぼうしにしてうしろからひすがり、うそまことか九十九辛棒しんぼうをなさりませ、きくのおりき鑄型いがたはいつたおんなでござんせぬ、またなりのかはることもありまするといふ、旦那だんなかへりときい朋輩ほうばいをんな帳塲ちやうば女主あるじもかけして唯今たゞいまありがたうと同音どうおん御禮おれいたのんでいたくるましとて此處こゝからしてせば、家中うちゞうおもておくしておいでまちまするの愛想あいさう御祝儀ごしうぎ餘光ひかりとしられて、あとにはりきちやん大明神樣だいめうじんさまこれにもありがたうの御禮おれい山々やま/\

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きやく結城朝之助ゆふきとものすけとて、みづか道樂だうらくものとはのれども實体じつていなるところ折々をり/\えて無職業むしよくげふ妻子さいしなし、あそぶに屈強くつきやうなる年頃としごろなればにやれをはじめに一しゆうには二三かよ、おりき何處どことなくなつかしくおもふかして三日えねばふみをやるほどの樣子やうすを、朋輩ほうばい女子おんなども岡燒おかやきながらからかひては、りきちやんおたのしみであらうね、男振おとこぶりはよし氣前きまへはよし、いまにあのかた出世しゆつせをなさるに相違さうゐない、其時そのときはおまへこと奧樣おくさまとでもいふのであらうにいまつからすこをつけてあししたり湯呑ゆのみであほるだけはめにおしひとがらがわるいやねとふもあり、げんさんがきいたらうだらう氣違きちがひになるかもれないとて冷評ひやかすもあり、あゝ馬車ばしやにのつてとき都合つがふるいから道普請みちぶしんからしてもらいたいね、こんな溝板どぶいたのがたつくやう店先みせさきそれこそひとがらがわろくてよこづけにもされないではないか、お前方まへがたすこしお行義ぎようぎなほしてお給仕きふじられるやうこゝろがけておれとずば/\といふに、ヱヽくらしいそのものいひをすこなほさずは奧樣おくさまらしくきこへまい、結城ゆふきさんがたらおもふさまいふて、小言こゞとをいはせてせようとて朝之助とものすけかほるより此樣こんことまをしまする、うしても私共わたしどもにのらぬやんちやなれば貴君あなたからしかつてくだされ、だい湯呑ゆのみでむはどくでござりましよと告口つげぐちするに、結城ゆふき眞面目まじめになりておりきさけだけはすこしひかへろとの嚴命げんめい、あゝ貴君あなたのやうにもないおりき無理むりにも商買しようばいしてられるは此力このちからおぼさぬか、わたし酒氣さかけはなれたら坐敷ざしきは三昧堂まいどうのやうにりませう、ちつとさつしてくだされといふに成程なるほど/\とて結城ゆふきは二ごんといはざりき。
つき下坐敷したざしきへは何處どこやらの工塲こうばの一れ、どんぶりたゝいてじん九かつぽれの大騷おほさはぎに大方おほかた女子おなご寄集よりあつまつて、れいの二かい小坐敷こざしきには結城ゆふきとおりき二人限ふたりぎりなり、朝之助とものすけころんで愉快ゆくわいらしくはなしをかけるを、おりきはうるさゝうに生返事なまへんじをしてなにやらんかんがへて樣子やうす、どうかしたか、また頭痛づゝうでもはじまつたかとかれて、なに頭痛づゝうなにもしませぬけれどしきり持病ぢびやうおこつたのですといふ、おまへ持病ぢびやう肝癪かんしやくか、いゝゑ、みちか、いゝゑ、それではなんだとかれて、うもこと出來できませぬ、でもほかひとではなしぼくではないかんなことでもふてさそうなもの、まあなん病氣びやうきだといふに、病氣びやうきではござんせぬ、たゞこんなふうになつて此樣こんことおもふのですといふ、こまつたひとだな種々いろ/\秘密ひみつがあるとえる、おとつさんはとけばはれませぬといふ、おつかさんはとへばれもおなじく、これまでの履歴りれきはといふに貴君あなたにははれぬといふ、まあうそでもいさよしんばつくりごとにしろ、かういふ不幸ふしあはせだとか大底たいていひとはいはねばならぬ、しかも一や二あふのではなし其位そのくらゐこと發表はつぴやうしても子細しさいはなからう、よしくちしてはなからうともおまへおもことがあるくらゐめくら按摩あんまぐらせてもれたことかずともれてるが、れをばくのだ、どつちみちおなことだから持病ぢびやうといふのをきにきたいといふ、およしなさいまし、おきになつてもつまらぬことでござんすとておりきさらとりあはず。
おりから下坐敷したざしきより杯盤はいばんはこびきしおんななにやらおりき耳打みゝうちしてかくしたまでおいでよといふ、いやたくないからよしておれ、今夜こんやはおきやく大變たいへんひましたからおにかゝつたとておはなしも出來できませぬとことはつておくれ、あゝこまつたひとだねとまゆせるに、おまへそれでもいのかへ、はあいのさとてひざうへばちもてあそべば、おんな不思議ふしぎさうにつてゆくをきやくきゝすましてわらひながら御遠慮ごゑんりよにはおよばない、つてたらからう、なにもそんなに體裁ていさいにはおよばぬではないか、可愛かわいひと素戻すもどしもひどからう、ひかけてふがい、なんなら此處ここへでもび給へ、片隅かたすみつてはなしの邪魔じやまはすまいからといふに、串談じようだんはぬきにして結城ゆふきさん貴君あなたくしたとて仕方しかたがないからまをしますが町内ちやうないすこしははゞもあつた蒲團ふとんやのげん七といふひとひさしい馴染なじみでござんしたけれどいまるかげもなく貧乏びんぼうして八百屋やほやうらちいさなうちにまい/\つぶろのやうになつてまする、女房にようぼもあり子供こどももあり、わたしがやうなものひにとしではなけれど、ゑんがあるかいまだにおりふしなんのといつて、いま下坐敷したざしきたのでござんせう、なにいまさら突出つきだすといふわけではないけれどつては色々いろ/\面倒めんどうこともあり、らずさわらずかへしたはういのでござんす、うらまれるは覺悟かくごまへおにだともじやだともおもふがようござりますとて、ばちたゝみすこびあがりておもておろせば、なん姿すがたえるかとなぶる、あゝかへつたとえますとて茫然ぼんとしてるに、持病ぢびやうといふのはれかと切込きりこまれて、まあ其樣そんところでござんせう、お醫者樣ゐしやさまでも草津くさつでもと薄淋うすさびしくわらつてるに、御本尊ごほんぞんおがみたいな俳優やくしやつたられのところだといへば、たら吃驚びつくりでござりませういろくろたか不動ふどうさまの名代めうだいといふ、では心意氣こゝろいきかとはれて、此樣こんみせ身上しんしやうはたくほどのひとひといばかり取得とりえとては皆無かいむでござんす、面白おもしろくも可笑をかしくもなんともないひとといふに、れにおまへうして逆上のぼせた、これはどころきやくおきかへる、大方おほかた逆上性のぼせせうなのでござんせう、貴君あなたことをも此頃このごろゆめないはござんせぬ、奧樣おくさまのお出來できなされたところたり、ぴつたりと御出おいでのとまつたところたり、まだ/\一層もつとかなしいゆめ枕紙まくらかみがびつしよりにつたこともござんす、たかちやんなぞはるからとてもまくらるよりはやくいびきこゑたかく、心持こゝろもちらしいがんなに浦山うらやましうござんせう、わたしはどんなつかれたときでもとこ這入はいるとへてそれそれ色々いろ/\ことおもひます、貴君あなたわたしおもことがあるだらうとさつしてくださるからうれしいけれど、よもやわたしなにをおもふかれこそはおわかりにりますまい、かんがへたとて仕方しかたがないゆゑ人前ひとまへばかりの大陽氣おほようききくのおりきゆきぬけのしまりなしだ、苦勞くろうといふことはしるまいとふお客樣きやくさまもござります、ほんに因果ゐんぐわとでもいふものかわたしくらいかなしいものはあるまいとおもひますとて潜然さめ/″\とするに、めづらしいこと陰氣いんきのはなしをかせられる、なぐさめたいにも本末もとすゑをしらぬからはうがつかぬ、ゆめてくれるほどじつがあらば奧樣おくさまにしてくれろぐらいいひそうなものだにつからおこゑがゝりもいはういふものだ、古風こふうるがそでふりふもさ、こんな商賣しやうばいいやだとおもふなら遠慮ゑんりよなく打明うちあけばなしをるがい、ぼくまたまへのやうなではいつそ氣樂きらくだとかいふかんがへでいてわたことかとおもつたに、れではなに理屈りくつがあつてむをずといふ次第しだいか、くるしからずはうけたまはりたいものだといふに、貴君あなたにはいていたゝかうと此間このあひだからおもひました、だけれども今夜こんやはいけませぬ、何故なぜ/\、何故なぜでもいけませぬ、わたしわがまゝゆゑまをすまいとおもときうしてもやでござんすとて、ついとつてゑんがはへいづるに、くもなきそらつきかげすゞしく、おろすまちからころ駒下駄こまげたおとさしてゆきかふひとのかげ分明あきらかなり、結城ゆふきさんとぶに、なんだとてそばへゆけば、まあ此處こゝへおすはりなさいとりて、あの水菓子屋みづぐわしやもゝがござんしよ、可愛かわいらしき四つばかりの、彼子あれ先刻さつきひとのでござんす、あのちいさな子心こゞゝろにもよく/\くいとおもふとえてわたしことをば鬼々おに/\といひまする、まあ其樣そん惡者わるものえまするかとて、そらあげてホツといきをつくさま、こらへかねたる樣子やうすは五いん調子てうしにあらはれぬ。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


おな新開しんかいまちはづれに八百髮結床かみゆひどこ庇合ひあはひのやうな細露路ほそろぢあめかさもさゝれぬ窮屈きうくつさに、あしもととては處々ところ/″\溝板どぶいたおとあなあやふげなるをなかにして、兩側りようがはてたる棟割長屋むねわりながや突當つきあたりの芥溜ごみためわきに九しやくけんあががまちちて、雨戸あまどはいつも不用心ぶようじんのたてつけ、流石さすがに一ぱうぐちにはあらでやま仕合しやわせは三じやくばかりゑんさきくさぼう/\の空地面あきぢめん、それがはじすこかこつて青紫蘇あをぢそ、ゑぞぎく隱元豆いんげんまめつるなどをたけのあらがきからませたるがおりき所縁しよゑんげん七がいへなり、女房にようぼうはおはつといひて二十八か九にもなるべし、ひんにやつれたれば七つもとしおほえて、お齒黒はぐろはまだらに次第しだい眉毛まゆげみるかげもなく、あらひざらしの鳴海なるみ裕衣ゆかたまへうしろりかへてひざのあたりは目立めたゝぬやうに小針こはりのつぎあて狹帶せまおびきりゝとめて蝉表せみおもて内職ないしよく盆前ぼんまへよりかけてあつさの時分じぶんをこれがときよと大汗おほあせになりての勉強べんきやうせはしなく、そろへたるとう天井てんぜうから釣下つりさげて、しばしの手數てすうはぶかんとてかずのあがるをたのしみに脇目わきめもふらぬさまあはれなり。もうれたに太吉たきち何故なぜかへつてぬ、げんさんもまた何處どこあるいてるかしらんとて仕事しごとかたづけて一ぷくすいつけ、苦勞くらうらしくをぱちつかせて、さら土瓶どびんした穿ほぢくり、いぶし火鉢ひばち取分とりわけて三じやくゑん持出もちいだし、ひろあつめのすぎかぶせてふう/\と吹立ふきたつれば、ふす/\とけふりたちのぼりて軒塲のきばにのがれるこゑすさまじゝ、太吉たきちはがた/\と溝板どぶいたおとをさせてかゝさんいまもどつた、おとつさんもれてたよと門口かどぐちから呼立よびたつるに、大層たいそうおそいではないかおてらやまへでもゆきはしないかとくらいあんじたらう、はやくお這入はいりといふに太吉たきちさきてゝ源七げんしち元氣げんきなくぬつとあがる、おやおまへさんおかへりか、今日けふんなにあつかつたでせう、さだめてかへりがはやからうとおもうて行水ぎやうずゐ[#ルビの「わ」は底本では「わか」]かしておきました、ざつとあせながしたらうでござんす、太吉たきちもおぶう這入はいりなといへば、あいとつておびく、おまちまちいま加減かげんてやるとてながしもとにたらいへてかま汲出くみいだし、かきまわして手拭てぬぐひれて、さあおまへさん此子このこをもいれてつてくだされ、なにをぐたりとておいでなさる、あつさにでもさわりはしませぬか、さうでなければ一ぱいあびて、さつぱりにつて御膳ごぜんあがれ、太吉たきちつてますからといふに、おゝ左樣さうだとおもしたやうにおびいてながしへりれば、そゞろにむかしの我身わがみおもはれて九しやくけん臺處だいどころ行水ぎようずゐつかふとはゆめにもおもはぬもの、ましてや土方どかた手傳てづたひしてくるま跡押あとおしにとおやうみつけてもくださるまじ、あゝつまらぬゆめたばかりにと、ぢつとにしみてもつかはねば、とつちやん脊中せなかあらつておれと太吉たきち無心むしん催促さいそくする、おまへさんひますから早々さつ/\とおあがりなされとつまをつくるに、おいおいと返事へんじしながら太吉たきちにもつかはせれもびて、うへにあがれば[#「あがれば」は底本では「あがれは」]あらざらせしさば/\の裕衣ゆかたして、おかへなさいましとふ、おびまきつけてかぜところへゆけば、つま野代のしろぜん[#「膳の」は底本では「繕の」]はげかゝりてあしはよろめく古物ふるものに、おまへきな冷奴ひやゝつこにしましたとて小丼こどんぶり豆腐とうふかせて青紫蘇あをぢそたかく持出もちだせば、太吉たきち何時いつしかだいより飯櫃めしびつとりおろして、よつちよいよつちよいかつす、坊主ぼうずれがそばいとてつむりでつゝはしるに、こゝろなにおもふとなけれどしたおぼえのくてのどあなはれたるごとく、もうめにするとて茶椀ちやわんけば、其樣そんことがありますものか、力業ちからわざをするひとが三ぜん御飯ごはんのたべられぬとことはなし、氣合きあひでもわるうござんすか、れともひどつかれてかとふ、いや何處どこなんともいやうなれどたゞたべるにならぬといふに、つまかなしさうなをしておまへさんまたれいのがおこりましたらう、それきく鉢肴はちざかなうまくもありましたらうけれど、いま身分みぶんおもしたところなんとなりまする、さき賣物買物うりものかひものかねさへ出來できたらむかしのやうに可愛かわひがつてもれませう、おもてとほつててもれる、白粉おしろいつけて衣類きものきてまよふてひとれかれなしにまるめるが人達ひとたち商買しやうばい、あゝれが貧乏びんぼうつたからかまいつけてれぬなとおもへばなんことなくすみましよう、うらみにでもおもふだけがおまへさんが未練みれんでござんす、裏町うらまち酒屋さかやわかものつておいでなさらう、二やのおかくしんから落込おちこんで、かけさきのこらず使つかみ、れをめやうとて雷神虎らいじんとら盆筵ぼんござはしについたがつまり、次第しだいるいがことみてしまひには土藏どぞうやぶりまでしたさうな、當時いまをとこ監獄入かんごくいりしてもつそうめしたべてやうけれど、相手あいてのおかく平氣へいきなもの、おもしろ可笑をかしくわたるにとがめるひとなく美事みごと繁昌はんじやうしてまする、あれをおもふに商買人しやうばいにんの一とく、だまされたは此方こちらつみかんがへたとてはじまることではござんせぬ、それよりは取直とりなほして稼業かげふせいしてすこしの元手もとでこしらへるやうにこゝろがけてくだされ、おまへよはられてはわたし此子このこうすることもならで、それこそ路頭ろたうまよはねばりませぬ、をとこらしくおもときあきらめておかねさへ出來できようならおりきはおろか小紫こむらさきでも揚卷あげまきでも別莊べつさうこしらへてかこうたらうござりましよう、うそんなかんがごとめにして機嫌きげんよく御膳ごぜんあがつてくだされ、坊主ぼうずまでが陰氣いんきらしうしづんで仕舞しまいましたといふに、みれば茶椀ちやわんはし其處そこいてちゝはゝとのかほをばくらべてなにとはらずになる樣子やうす、こんな可愛かわひものさへあるに、あのやうなたぬきわすれられぬはなん因果ゐんぐわかとむねなかかきまわされるやうなるに、れながら未練みれんものめとしかりつけて、いやれだとて其樣そのやう何時いつまでも馬鹿ばかではぬ、おりきなどゝ名計なばかりもいつてれるな、いはれると以前もと不出來ふでかしをかんがしていよ/\かほがあげられぬ、なん此身このみになつて今更いまさらなにをおもふものか、めしがくへぬとてもれは身體からだ加減かげんであらう、なに格別かくべつあんじてくれるにはおよばぬゆゑ小僧こぞうも十ぶんにやつてれとて、ころりとよこになつてむねのあたりをはた/\とうちあふぐ、蚊遣かやりけむりにむせばぬまでもおもひにもえてあつげなり。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


白鬼しろおにとはをつけし、無間地獄むげんぢごくのそこはかとなく景色けしきづくり、何處どこにからくりのあるともえねど、さかおとしのいけ借金しやくきんはりやまひのぼすもものときくに、つておでよとあまへるこゑへびくふ雉子きゞすおそろしくなりぬ、さりとも胎内たいないつきおなことして、はゝ乳房ちぶさにすがりしころ手打てうち/\あわゝの可愛かわいげに、紙幣さつ菓子くわしとの二つりにはおこしをおれとしたるものなれば、いま稼業かげうまことはなくとも百にんなか一人ひとりしんからのなみだをこぼして、いておくれ染物そめものやのたつさんがことを、昨日きのふ川田かはだやがみせでおちやつぴいのお六めと惡戲ふざけまわして、たくもない往來わうらいへまでかつしてちつたれつ、あんないた了簡りようけんすゑげられやうか、まあ幾歳いくつだとおもふ三十は一昨年おとゝし加減かげんうちでもこしらへる仕覺しがくをしておれとたび異見ゐけんをするが、其時そのときかぎりおい/\と空返事そらへんじしてつからにもめてはれぬ、とつさんはとしをとつて、はゝさんとふはるいひとだから心配しんぱいをさせないやうにはやしまつてくれゝばいが、わたしはこれでもひと半纒はんてんをば洗濯せんたくして、股引もゝひきのほころびでもつてたいとおもつてるに、んないたこゝろでは何時いつ引取ひきとつてれるだらう、かんがへるとつく/″\奉公ほうこうやになつておきやくぶに張合はりあいもない、あゝくさ/\するとてつねひとをもだまくちひとらきをうらみの言葉ことば頭痛づゝうをさへて思案しあんれるもあり、あゝ今日けふぼんの十六日だ、お焔魔樣ゑんまさまへのおまいりにつてとほ子供達こどもたち奇麗きれい着物きものきて小遣こづかひもらつてうれしさうなかほしてゆくは、さだめてさだめて二人ふたりそろつて甲斐性かひせうのあるおやをばつてるのであろ、わたし息子むすこ與太郎よたらう今日けふやすみに御主人ごしゆじんからひま何處どこつてんなことしてあそばうともさだめしひとうらやましかろ、とゝさんはのみぬけ、いまだに宿やどとてもさだまるまじく、はゝ此樣こんになつてはづかしい紅白粉べにおしろい、よし居處ゐどころわかつたとてひにてもれまじ、去年きよねん向島むかふじま花見はなみとき女房にようぼうづくりして丸髷まるまげつて朋輩ほうばいともあそびあるきしに土手どて茶屋ちやゝであのつて、これ/\とこゑをかけしにさへわたしわかなりしにあきれて、おつかさんでござりますかとおどろきし樣子やうす、ましてやこの大島田おほしまだをりふしは時好じこう花簪はなかんざしさしひらめかしておきやくらへて串談じようだんいふところかば子心こゞころにはかなしくもおもふべし、去年きよねんあひたるときいま駒形こまかた※(「虫+蜀」、第4水準2-87-92)ろうそくやに奉公ほうこうしてまする、わたしんならきことありともかならず辛抱しんぼうしとげて一人前にんまへをとこになり、とゝさんをもおまへをもいまらくをばおまをします、うぞれまでなんなりと堅氣かたぎことをして一人ひとり世渡よわたりをしてくだされ、ひと女房にようぼうにだけはならずにくだされと異見ゐけんはれしが、かなしきは女子をなご寸燐まつちはこはりして一人口ひとりぐちすぐしがたく、さりとてひと臺處だいどころふも柔弱にうじやく身體からだなればつとめがたくて、おななかにもらくなれば、此樣こんことしておくる、ゆめさらいたこゝろではけれど言甲斐いひがひのないおふくろさだめしつまはじきするであらう、つねなんともおもはぬ島田しまだがめ今日けふばかりはづかしいとゆふぐれのかゞみまへなみだくむもあるべし、きくのおりきとても惡魔あくまうまがはりにはあるまじ、さる子細しさいあればこそ此處こゝながれにおちこんでうそのありたけ串談じようだん其日そのひおくつてなさけ吉野紙よしのがみ薄物うすものに、ほたるひかりぴつかりとするばかりひとなみだは百ねんまんして、われゆゑぬるひとのありとも御愁傷ごしうしようさまとわきくつらさ他處目よそめやしなひつらめ、さりともおりふしはかなしきことおそろしきことむねにたゝまつて、くにも人目ひとめはぢれば二かい座敷ざしきとこなげふしてしのなみだ、これをばとも朋輩ほうばいにもらさじとつゝむに根生こんぜうのしつかりした、のつよいといふものはあれど、さわればゆるくもいとのはかないところひとはなかりき、七月十六日の何處どこみせにも客人きやくじん入込いりこみて都々どゝ端歌はうた景氣けいきよく、きく下座敷したざしきにはお店者たなもの五六人寄集よりあつまりて調子てうしはづれし紀伊きいくにまんもおそろしき胴間聲どうまごゑかすみころも衣紋坂ゑもんざか氣取きどるもあり、りきちやんはうした心意氣こゝろいきかせないか、やつた/\とめられるに、おはさゝねど此坐このざなかにと普通ついツとほりうれしがらせをつて、やんや/\とよろこばれるなかから、我戀わがこひ細谷川ほそだにがは丸木橋まるきばしわたるにやこわわたらねばとうたひかけしが、なにをかおもしたやうにあゝわたし一寸ちよツと無禮しつれいをします、御免ごめんなさいよとて三味線さみせんいてつに、何處どこへゆく何處どこへゆく、げてはならないと坐中ざちうさわぐにてーちやんたかさんすこたのむよ、かへるからとてずつと廊下らうかいそあしいでしが、なにをもかへらず店口みせぐちから下駄げたいて筋向すぢむかふの横町よこちようやみ姿すがたをかくしぬ。
りきは一さんいゑて、かれるものならこのまゝに唐天竺からてんぢくはてまでもつて仕舞しまいたい、あゝいやいやいやだ、うしたならひとこゑきこえないものおともしない、しづかな、しづかな、自分じぶんこゝろなにもぼうつとして物思ものおもひのないところかれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白おもしろくない、なさけないかな[#ルビの「かな」は底本では「なか」]しい心細こゝろぼそなかに、何時いつまでわたしめられてるのかしら、これが一せうか、一せうがこれか、あゝいやだ/\と道端みちばた立木たちき夢中むちうよりかゝつて暫時しばらくそこにたちどまれば、わたるにやこわわたらねばと自分じぶんうたひしこゑそのまゝ何處どこともなくひゞいてるに、仕方しかたがない矢張やつぱわたし丸木橋まるきばしをばわたらずはなるまい、とゝさんもふみかへしておちてお仕舞しまいなされ、祖父おぢいさんもおなことであつたといふ、うで幾代いくだいものうらみを背負せおうわたしなればだけことはしなければんでもなれぬのであらう、なさけないとてもれもあはれとおもふてくれるひとはあるまじく、かなしいとへば商買しようばいがらをきらふかと一トくちはれて仕舞しまう、ゑゝうなりとも勝手かつてになれ、勝手かつてになれ、わたしには以上いじようかんがへたとてわたしかたわからぬなれば、わからぬなりにきくのおりきとほしてゆかう、人情にんじようしらず義理ぎりしらずか其樣そんことおもふまい、おもふたとてうなるものぞ、此樣こん此樣こん業體げうていで、此樣こん宿世すくせで、うしたからとて人並ひとなみではいに相違さういなければ、人並ひとなみことかんがへて苦勞くろうするだけ間違まちがひであろ、あゝ陰氣いんきらしいなんだとて此樣こんところつてるのか、なにしに此樣こんところたのか、馬鹿ばからしい氣違きちがひじみた、我身わがみながらわからぬ、もう/\かへりませうとて横町よこちようやみをばはなれて夜店よみせならぶにぎやかなる小路こうぢまぎらしにとぶら/\るけば、ゆきかよふひとかほちいさく/\ちがひとかほさへもはるかとほくにるやうおもはれて、つちのみ一丈もうへにあがりごとく、がや/\といふこゑきこゆれどそこものおとしたるごとひゞきにきゝなされて、ひとこゑは、ひとこゑかんがへはかんがへと別々べつ/\りて、さら何事なにごとにものまぎれるものなく、人立ひとだちおびたゞしき夫婦めをとあらそひの軒先のきさきなどをぐるとも、たゞれのみは廣野ひろのはら冬枯ふゆがれをくやうに、こゝろまるものもなく、にかゝる景色けしきにもおぼえぬは、れながらひど逆上のぼせ人心ひとごゝろのないのにと覺束おぼつかなく、くるひはせぬかとたちどまる途端とたん、おりき何處どこくとてかたひとあり。

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十六日はかならずまちまするくだされとひしをもなにわすれて、いままでおもしもせざりし結城ゆふきともすけ不圖ふと出合であひて、あれとおどろきしかほつきのれい似合にあは狼狽あわてかたがをかしきとて、から/\とをとこわらふにすこはづかしく、かんがごとをしてあるいてたれば不意ふゐのやうにあはてゝ仕舞しまいました、よく今夜こんやくださりました[#「下さりました」は底本では「下りました」]へば、あれほど約束やくそくをしてまつてくれぬは不心中ふしんぢうとせめられるに、なんなりとおつしやれ、言譯いひわけのちにしまするとてりてけば彌次馬やぢうまがうるさいとをつける、うなり勝手かつてはせませう、此方こちら此方こちら人中ひとなかけてともなひぬ。
下座敷したざしきはいまだにきやくさわぎはげしく、おりき中座ちうざをしたるに不興ぶきようしてやかましかりしおりから、店口みせぐちにておやおかへりかのこゑくより、きやくおきざりに中坐ちうざするといふはうがあるか、かへつたらば此處こゝい、かほねば承知しようちせぬぞと威張いばりたてるを聞流きゝながしに二かい座敷ざしき結城ゆふきれあげて、今夜こんや頭痛づゝうがするので御酒ごしゆ相手あいて出來できませぬ、大勢おほぜいなかれば御酒ごしゆふて夢中むちうになるもれませぬから、すこやすんで其後そののちらず、いま御免ごめんなさりませとことはりをふてやるに、れでいのか、おこりはしないか、やかましくなれば面倒めんだうであらうと結城ゆふきこゝろづけるを、なんのおたなものゝ白瓜しろうりんなこと仕出しいだしませう、をこるならをこれでござんすとて小女こをんなひつけてお銚子ちようし支度したくるをばまちかねて結城ゆふきさん今夜こんやわたしすこ面白おもしろくないことがあつてかはつてまするほどに其氣そのき附合つきあつくだされ、御酒ごしゆおもつて[#ルビの「の」は底本では「のみ」]みまするからめてくださるな、ふたらば介抱かいはうしてくだされといふに、きみつたをいまだにことがない、れるほどむはいが、また頭痛づゝうがはじまりはせぬか、なに其樣そんなに逆鱗げきりんにふれたことがある、ぼくらにつてはるいことかとはれるに、いゑ貴君あなた[#ルビの「あなた」は底本では「いなた」]にはきいいたゞきたいのでござんす、ふとまをしますからおどろいてはいけませぬと嫣然につこりとして、大湯呑おほゆのみとりよせて二三ばいいきをもつかざりき。
つねにはのみにこゝろまらざりし結城ゆうき風采やうす今宵こよひなんとなく尋常なみならずおもはれて、肩巾かたはゞのありてのいかにもたかところより、おちついてものをいふおもやかなる口振くちぶり、つきのすごくてひとるやうなるも威嚴いげんそなはれるかとうれしく、かみみちかくかりあげて頬足ゑりあし[#「頬足の」はママ]くつきりとせしなど今更いまさらのやうにながめられ、なにをうつとりしてるとはれて、貴君あなたのおかほますのさとへば、此奴こやつめがとにらみつけられて、おゝこわいおかたわらつてるに、串談じやうだんはのけ、今夜こんや樣子やうすたゞでないきいたらおこるからぬがなに事件じけんがあつたかととふ、なにしにつて[#ルビの「わ」は底本では「わい」]いたこともなければ、ひととの紛雜いざなどはよしつたにしろれはつねことにもかゝらねばなにしにものおもひませう、わたしときよりまぐれをおこすはひとのするのではくてみなこゝろがらのあさましいわけがござんす、わたし此樣こんいやしいうへ貴君あなた立派りつぱなお方樣かたさまおもこと反對うらはらにおきになつてもんでくださるかくださらぬか其處そこほどはらねど、よしわらものになつてもわたし貴君あなたわらふていたゞたく今夜こんやのこらずひまする、まあなにから申さうむねがもめてくちかれぬとてまたもや大湯呑おほゆのみことさかんなり。
なによりさきわたし自墮落じだらく承知しやうちしてくだされ、もとより箱入はこいりの生娘きむすめならねばすこしはさつしてもくださろうが、口奇麗くちぎれいことはいひますともこのあたりのひとどろなかはすとやら、惡業わるさまらぬ女子おなごがあらば、繁昌はんじようどころかひともあるまじ、貴君あなた別物べつものわたしところひととても大底たいていはそれとおぼしめせ、これでもおりふしは世間せけんさまなみことおもふてはづかしいことつらいことなさけないことともおもはれるもいつそしやくけんでもまつた良人おつとといふにうてかためようとかんがへることもござんすけれど、れがわたし出來できませぬ、れかとつてるほどのおひと無愛想ぶあいさうもなりがたく、可愛かわいいの、いとしいの、見初みそめましたのと出鱈目でたらめのお世辭せぢをもはねばならず、かずなかにはにうけて此樣こん厄種やくざ女房にようぼにとふてくださるかたもある、たれたらうれしいか、うたら本望ほんもうか、れがわたしわかりませぬ、そも/\の最初はじめからわたし貴君あなたきできで、一日お目おめにかゝらねばこひしいほどなれど、奧樣おくさまにとふてくだされたらうでござんしよか、たれるはいやなり他處よそながらはしたはしゝ、一トくちはれたら浮氣者うわきものでござんせう、あゝ此樣こん浮氣者うわきものにはれがしたと思召おぼしめす、三だいつたはつての出來できそこね、親父おやぢが一せうもかなしいことでござんしたとてほろりとするに、その親父おやぢさむはとひかけられて、親父おやぢ職人しよくにん祖父ぢゞいは四かくをばんだひとでござんす、つまりはわたしのやうな氣違きちがひで、ゑきのない反古紙ほごがみをこしらへしに、はんをばおかみからめられたとやら、ゆるされぬとかに斷食だんじきしてんださうに御座ござんす、十六のとしからおもことがあつて、うまれもいやしいであつたれど一ねん修業しゆげふして六十にあまるまで仕出來しでかしたることなく、おはりひと物笑ものわらひにいまではひともなしとてちゝ常住ぢやうぢうなげいたを子供こどもころより聞知きゝしつてりました、わたしちゝといふは三つのとしゑんからおち片足かたあしあやしきふうになりたれば人中ひとなかたちまじるもやとて居職いしよくかざり金物かなものをこしらへましたれど、氣位きぐらいたかくて人愛じんあいのなければ贔負ひいきにしてくれるひともなく、あゝわたしおぼえて七つのとしふゆでござんした、寒中かんちう親子おやこにんながら古裕衣ふるゆかたで、ちゝさむいもらぬかはしらつて細工物さいくもの工夫くふうをこらすに、はゝけた一つべツついなべかけてわたしものひにけといふ、味噌みそこしげてはしたのおあしにぎつて米屋こめやかどまではうれしくけつけたれど、かへりにはさむさのにしみてあしかじかみたれば五六軒ごろくけんへだてし溝板どぶいたうへこほりにすべり、足溜あしだまりなくける機會はづみもの取落とりおとして、一まいはづれし溝板どぶいたのひまよりざら/\とこぼれば、した行水ゆくみづきたなき溝泥どぶどろなり、幾度いくたびのぞいてはたれどれをばなんとしてひろはれませう、其時そのときわたしは七つであつたれどうちうち樣子やうす父母ちゝはゝこゝろをもれてあるにおこめ途中とちうおとしましたとから味噌みそこしさげてうちにはかへられず、たつてしばらくいてたれどうしたとふてれるひともなく、いたからとてかつてやらうとひと猶更なほさらなし、あの時近處ときゝんじよかはなりいけなりあらうならわたしさだめげて仕舞しまひましたろ、はなしはまことの百分一、わたし其頃そのころからくるつたのでござんす、かへりのおそきをはゝおやあんしてたづねにてくれたをば時機しほうちへはもどつたれど、はゝものいはず父親てゝおや無言むごんに、一人ひとりわたしをばしかものもなく、うちうちしんとして折々おり/\溜息ためいきこゑのもれるにわたしられるよりなさけなく、今日けふは一日斷食だんじきにせうとちゝの一こといひすまではしのんでいきをつくやうで御座ござんした。
いひさしておりきあふいづなみだがたければくれなひの手巾はんけちかほに押當おしあて其端そのはしひしめつゝものいはぬこと小半時こはんときにはものおともなくさけしたひてりくるのうなりごゑのみたかきこえぬ。
かほをあげしときほうなみだあとはみゆれどもさびしげのみをさへせて、わたし其樣そのやう貧乏人びんぼうにんむすめ氣違きちがひはおやゆづりでおりふしおこるのでござります、今夜こんや此樣こんわからぬこといひしてさぞ貴君あなた御迷惑ごめいわく御座ござんしてしよ、もうはなしはやめまする、御機嫌ごきげんさわつたらばゆるしてくだされ、れかんで陽氣ようきにしませうかとへば、いや遠慮ゑんりよ無沙汰ぶさた、その父親てゝおやはやくにくなつてか、はあかゝさんが肺結核はいけつかくといふをわづらつてなくなりましてから一週忌しうきぬほどにあとひました、いまりましてもだ五十、おやなればめるではけれど細工さいくまこと名人めいじんふてもひと御座ござんした、なれども名人めいじんだとて上手じやうづだとて私等わたしらうちのやうにうまれついたはにもなること出來できないので御座ござんせう、我身わがみうへにもられまするとてものおもはしき風情ふぜい、おまへ出世しゆつせのぞむなと突然だしぬけ朝之助とものすけはれて、ゑツとおどろきし樣子やうすえしが、私等わたしらにてのぞんだところ味噌みそこしがおちなんたま輿こしまではおもひがけませぬといふ、うそをいふはひとはじめからなに見知みしつてるにかくすは野暮やぼ沙汰さたではないか、おもつてやれ/\とあるに、あれそのやうなけしかけことばはよしてくだされ、うで此樣こんでござんするにとうちしほれてまたものはず。
今宵こよひもいたくけぬ、下坐敷したざしきひとはいつかかへりておもて雨戸あまどをたてるとふに、ともすけおどろきてかへ支度したくするを、おりきうでもとまらするといふ、いつしか下駄げたをもかくさせたれば、あしられて幽靈ゆうれいならぬのすきよりいづこともなるまじとて今宵こよひ此處こゝとまこととなりぬ、雨戸あまどとざおと一しきりにぎはしく、のちにはきもる燈火ともしびのかげもえて、たゞ軒下のきしたゆきかよふ夜行やこう巡査じゆんさ靴音くつおとのみたかかりき。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


おもしたとて今更いまさらうなるものぞ、わすれて仕舞しまあきらめて仕舞しまへと思案しあんめながら、去年きよねんぼんにはそろひの浴衣ゆかたをこしらへて二人ふたりしよ藏前くらまへ參詣さんけいしたることなんどおもふともなくむねへうかびて、ぼんりては仕事しごといづはりもなく、おまへさんれではならぬぞへといさてる女房にようぼうことばみゝうるさく、エヽなにふなだまつてろとてよこになるを、だまつてては此日このひすぐされませぬ、身體からだるくばくすりむがよし、御醫者おゐしやにかゝるも仕方しかたがなけれど、おまへやまひはれではなしにさへ持直もちなほせば何處どこわるところがあろう、すこしは正氣しようきつて勉強べんきようをしてくだされといふ、いつでもおなことみゝにたこが出來できくすりにはならぬ、さけでもかつてくれまぎれにんでやうとふ、おまへさんそのさけへるほどならやとおひなさるを無理むり仕事しごとくだされとはたのみませぬ、わたし内職ないしよくとてあさからにかけて十五せんせきやま親子おやこ三人くちおも滿足まんぞくにはまれぬなかさけへとはくおまへ無茶助むちやすけになりなさんした、おぼんだといふに昨日きのふらも小僧こぞうには白玉しらたま一つこしらへてもべさせず、お精靈しようれうさまのおたなかざりもこしらへくれねば御燈明おとうめう一つで御先祖樣ごせんぞさまへおびをまをしるも仕業しわざだとおおもひなさる、おまへ阿房あほうつくしておりきづらめにられたからおこつたこと、いふてはるけれどおまへ親不孝おやふかう子不孝こふかうすこしは行末ゆくすゑをもおもふて眞人間まにんげんになつてくだされ、御酒ごしゆのんらすは一ときしんから改心かいしんしてくださらねば心元こゝろもとなくおもはれますとて女房にようぼううちなげくに、返事へんじはなくて吐息といき折々おり/\ふと身動みうごきもせず仰向あほのきふしたる心根こゝろねつらさ、其身そのみになつてもおりきことわすれられぬが、十ねんつれそふて子供こどもまでもうけしれにこゝろかぎりの辛苦くろうをさせて、には襤褸ぼろげさせいゑとては二じよう此樣こん犬小屋いぬごや世間せけんたいから馬鹿ばかにされて別物べつものにされて、よしや春秋はるあき彼岸ひがんればとて[#「來ればとて」は底本では「來ればれて」]隣近處となりきんじよ牡丹ぼたもち團子だんごくばあるなかを、げん七がいゑへはらぬがい、返禮へんれいどくなとて、心切しんせつかはらねど十けん長屋ながやの一けんものおとこ外出そとでがちなればいさゝかこゝろかゝるまじけれど女心をんなごゝろにはのなきほどせつなくかなしく、おのづと肩身かたみせばまりて朝夕てうせき挨拶あいさつひと目色めいろるやうなるなさけなきおもひもするを、れをばおもはで情婦こひうへばかりをおもひつゞけ、無情つれなひとこゝろそこれほどまでにこひしいか、ひるゆめ獨言ひとごとにいふなさけなさ、女房にようぼうことことわすれはてゝおりき一人ひとりいのちをもこゝろか、あさましい口惜くちをしいらいひとおもふに中々なか/\言葉ことばいでずしてうらみのつゆうちにふくみぬ。
ものいはねばせまいゑうちなんとなくうらさびしく、くれゆくそらのたど/\しきに裏屋うらやはまして薄暗うすくらく、燈火あかりをつけて蚊遣かやりふすべて、おはつ心細こゝろぼそそとをながむれば、いそ/\とかへ太吉郎たきちらう姿すがたなにやらん大袋おほぶくろ兩手りようてかゝへてかゝさんかゝさんこれをもらつてたと莞爾につことしてむに、れば新開しんかいやがかすていら、おや此樣こんいお菓子くわしれにもらつてた、よくおれいつたかとへば、あゝくお辭義じぎをしてもらつてた、これはきく鬼姉おにねへさんがれたのとふ、はゝ顏色かほいろをかへて圖太づぶとやつめがれほどのふちんでだいぢめかたりぬとおもふか、現在げんざい使つかひにとゝさんのこゝろうごかしによこる、なんといふてよこしたとへば、表通おもてどほりのにぎやかなところあそんでたらば何處どこのか伯父おぢさんと一しよて、菓子くわしつてやるから一しよにおいでといつて、おいらはらぬとつたけれどいてつてつてれた、べてはるいかへと流石さすがはゝこゝろはかりかね、かほをのぞいて猶豫ゆうよするに、あゝとしがゆかぬとてなんたらわけわからぬぞ、あのねへさんはおにではないか、とゝさんを怠惰者なまけものにしたおにではないか、おまへ衣類べゞのなくなつたも、おまへうちのなくなつたもみなあのおにめがした仕事しごとくらひついてもらぬ惡魔あくまにお菓子くわしもらつたべてもいかとくだけが[#「聞くだけが」は底本では「聞くだげが」]なさけない、きたなむさ此樣こん菓子くわしうちくのもはらがたつ、すて仕舞しまいな、すててお仕舞しまい、おまへしくててられないか、馬鹿野郎ばかやらうめとのゝしりながらふくろをつかんでうら空地あきち投出なげいだせば、かみやぶれてまろ菓子くわしの、たけのあらがきうちこえてどぶなか落込おちこむめり、げん七はむくりときておはつと一こゑおほきくいふになに御用ごようかよ、尻目しりめにかけてふりむかふともせぬ横顏よこがほにらんで、加減かげんひと馬鹿ばかにしろ、だまつてればことにして惡口雜言あくこうざうごんなんことだ、知人しつたひとなら菓子位くわしぐらい子供こどもにくれるに不思議ふしぎもなく、もらふたとてなにるい、馬鹿野郎ばかやらうよばはりは太吉たきちをかこつけにれへのあてこすり、むかつて父親てゝおや讒訴ざんそをいふ女房にようぼう氣質かたぎれがおしへた、おりきをになら手前てまへ魔王まわう商買人しようばいにんのだましはれてれど、つまたる不貞腐ふてくされをいふてむとおもふか、土方どかたをせうがくるまかうが亭主ていしゆ亭主ていしゆけんがある、らぬやつうちにはかぬ、何處どこへなりともてゆけ、てゆけ、面白おもしろくもない女郎めらうめとしかりつけられて、れはおまへ無理むりだ、邪推じやすいすぎる、なにしにおまへあてつけよう、このあんまわからぬと、おりき仕方しかたくらしさにおもひあまつてつたことを、とツこにつててゆけとまではむご御座ござんす、うちためをおもへばこそらぬことひもする、うちるほどなら此樣こん貧乏世帶びんぼうしよたい苦勞くろうをばしのんではませぬとくに貧乏世帶びんぼうしよたいきがきたなら勝手かつて何處どこなりつてもらはう、手前てまへぬからとて乞食こじきにもなるまじく太吉たきち手足てあしばされぬことはなし、けてもれてもれがたなおろしかおりきへのねたみ、つくづくきてもうやにつた、貴樣きさまずばどちみちおなことをしくもない九しやくけんれが小僧こぞうれてやう、さうならば十ぶん我鳴がなたて都合つがうもよからう、さあ貴樣きさまくか、れがようかとはげしくはれて、おまへはそんなら眞實ほんとうわたし離縁りゑんするこゝろかへ、れたことよといつもげん七にはあらざりき。
はつ口惜くやしくかなしくなさけなく、くちかれぬほど込上こみあぐなみだ呑込のみこんで、これはわたしわる御座ござんした、堪忍かんにんをしてくたされ、おりき親切しんせつこゝろざしてれたものをすて仕舞しまつたは重々ぢう/\わる御座ございました、成程なるほどりきおにといふたからわたし魔王まわう御座ござんせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、けつしておりきことにつきて此後このごとやかくひませず、かげうはさしますまいゆゑ離縁りゑんだけは堪忍かんにんしてくだされ、あらためてふまではけれどわたしにはおやもなし兄弟きようだいもなし、差配さはい伯父おぢさんを仲人なかうどなりさとなりにてゝものなれば、離縁りゑんされてのどころとてはありませぬ、うぞ堪忍かんにんしていてくだされ、わたしくかろうと此子このこめんじていてくだされ、あやまりますとていてけども、イヤうしてもかれぬとて其後そのごものはずかべむかひておはつ言葉ことばみゝらぬてい、これほど邪慳じやけんひとではなかりしをと女房にようぼうあきれて、をんなたましひうばはるればれほどまでもあさましくなるものか、女房にようぼうなげきはさらなり、ひには可愛かわゆをもじにさせるかもれぬひといまびたからとて甲斐かひはなしと覺悟かくごして、太吉たきち太吉たきちそばんで、おまへとゝさんのそばかゝさんと何處どちらい、ふてろとはれて、おいらはおとつさんはきらい、なんにもつてれないもの眞正直まつしようぢきをいふに、そんならかゝさんのところ何處どこへも一しよかへ、あゝくともとてなんともおもはぬ樣子やうすに、おまへさんおきか、太吉たきち[#ルビの「たきち」は底本では「たぎち」]わたしにつくといひまする、をとこなればおまへしからうけれど此子このこはおまへには[#「手には」は底本では「手はに」]かれぬ、何處どこまでもわたしもらつてれてきます、よう御座ござんすかもらひまするといふに、勝手かつてにしろ、なにらぬ、[#ルビの「つ」は底本では「ゆ」]れてたく何處どこへでもれてけ、うち道具だうぐなにらぬ、うなりともしろとて寐轉ねころびしまゝ振向ふりむかんともせぬに、なんうち道具だうぐくせ勝手かつてにしろもないもの、これから一つになつてたいまゝの道樂だうらくなりなになりおつくしなされ、ういくら此子このこしいとつてもかへことでは御座ござんせぬぞ、かへしはしませぬぞとねんして、押入おしいぐつてなにやらの小風呂敷こぶろしき取出とりいだし、これは此子このこ寐間着ねまきあはせ、はらがけと三じやくだけもらつてゆきまする、御酒ごしゆうへといふでもなければ、めての思案しあんもありますまいけれど、よくかんがへてくだされ、たとへのやうな貧苦ひんくなかでも二人ふたりそろつてそだてる長者ちやうじやくらしといひまする、わかれゝば片親かたおやなににつけても不憫ふびんなは此子このことおおもひなさらぬか、あゝはらはたくさつひと可愛かあいさもわかりはすまい、もうおわかれ申ますと風呂敷ふろしきさげておもていづれば、はやくゆけ/\とてよびかへしてはれざりし。

※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)


魂祭たまゝつぎて幾日いくじつ、まだ盆提燈ぼんぢようちんのかげ薄淋うすさびしきころ新開しんかいまちいでくわん二つあり、一つはかごにて一つはさしかつぎにて、かごきく隱居處いんきよじよよりしのびやかにいでぬ、大路おほぢひとのひそめくをけば、もとんだうんのわるいつまらぬやつ見込みこまれて可愛かあいさうなことをしたといへば、イヤあれは得心とくしんづくだとひまする、あの夕暮ゆふぐれ、おてらやま二人ふたりたちばなしをしてたといふたしかな證人しようにんもござります、をんな逆上のぼせをとこことなれば義理ぎりにせまつてつたので御座ござろといふもあり、なんのあの阿魔あま義理ぎりはりをらうぞ湯屋ゆやかへりにをとこふたれば、流石さすがふりはなしてにげこともならず、一しよあるいてはなしはしてもたらうなれど、られたは後袈裟うしろげさ頬先ほうさきのかすりきず頭筋くびすぢ突疵つききずなど色々いろ/\あれども、たしかにげるところられたに相違さういない、ひきかへてをとこ美事みごと切腹せつぷく蒲團ふとんやの時代じだいからのみのをとこおもはなんだがあれこそは死花しにばな、ゑらさうにえたといふ、なににしろきく大損おほぞんであらう、には結搆けつこう旦那だんながついたはづとりにがしては殘念ざんねんであらうとひとうれひを串談じようだんおもふものもあり、諸説しよせつみだれて取止とりとめたることなけれど、うらみなが人魂ひとだまなにかしらずすぢひかもののおてらやまといふ小高こだかところより、おりふしべるをものありとつたへぬ
(終)





底本:「文藝倶樂部第九編」博文館
   1895(明治28)年9月20日
初出:「文藝倶樂部第九編」博文館
   1895(明治28)年9月20日
※初出時の署名は、「一葉女史」です。
※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。
※清音、濁音の表記の混在は、底本通りです。
※「るい」と「わるい」、「商買」と「商賣」、「それ」と「れ」、「眞實しん」と「眞實ほんとう」、「り」と「なり」、「いや」と「や」、「下坐敷」と「下座敷」、「其樣そん」と「其樣そのやう」、「らき」と「つらさ」、「氣違きちがひ」と「氣違きちがひ」、「中座」と「中坐」、「女房」に対するルビの「にようぼう」と「にようぼ」、「女」に対するルビの「をんな」と「おんな」、「頭痛」に対するルビの「づつう」と「づゝう」、「結城」に対するルビの「ゆふき」と「ゆうき」、「折」に対するルビの「おり」と「をり」、「鬼」に対するルビの「おに」と「をに」の混在は底本通りです。
入力:万波通彦
校正:岡村和彦、日高直哉
2016年4月20日作成
2016年5月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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●図書カード