ひたすらに伝統の匂いをかいで足れりとする者であるかのような非難を私は近頃うけた。これは馬鹿げた非難だと一口でいってしまえばそれまでのことであるが、また考えようによってはいい機会でもあるから、果してこの非難が当っているかどうかを、私は出来るだけ客観的に自分について調べてみたいと思う。
この非難は二つの事項を含んでいる。ひたすら伝統の匂いをかぐというのが一つであり、それだけで足れりとするというのがもう一つである。まず第二の点から考察していこう。私が伝統の固守をもって足れりとする者でないことは私自身にはあまりにも明白なことである。私は西洋文化からも大いに学ぶべきところのあることを堅く信じている者で、私の生活の一半は西洋文化の学習に捧げているようなものである。故国の文化はますます肥っていかなければならない。そのためには外国の新しいものの長を採っていかなければならない。このことはあまりに解りきった平凡なことで今日となってはことさら主張するのも
次に第一に挙げた点、すなわち私がひたすら伝統の匂いをかぐということはどうであるか。この点は私は全面的に是認するものである。私が『「いき」の構造』を書いた頃はマルクス主義全盛の頃で、私は四面楚歌の感があった。数年経って「外来語所感」を発表したこのごろは、外囲の事情が全く反対になってしまって、ある読者には私が現時流行の日本主義に
私はひたすら伝統の匂いをかぐ者である。しかし伝統への私の愛着は「匂いをかぐ」というようなほのかなものでは決してないことも事実である。