支那のある水郷地方。
白柳が枝をたれて、陽春の長閑かな水が、橋の下をいういうと流れてゐる。
橋の上に一人の男がたたずんでゐる。男はぼんやりと考へながら、川の流れを見つめてゐた。
「どうした? 惠子。」
さういつて一方の男が、後から肩を叩いた。男は詩人哲學者の莊子であつた。
「あれを見給へ。」
二人は默つて、しばらく水面を眺めてゐた。午後の物うげな日光が、橋の欄干にただよつてゐる。支那風の苫船が、白柳の葉影につないであつた。
「何が見える?」
暫らくして莊子が言つた。
「魚さ」
惠子が退屈さうに答へた。惠子は若い哲學者で、辨證論の大家であつた。
「見給へ! 奴があの水の中を泳いでゐる樣子を。實に愉快さうぢやないか。」
「わかるものか。」
莊子が反抗的の態度で言つた。二人は始から敵であつた。個人的には親友であつたけれども、思想上では事々に憎み合つた。趣味が、あらゆる點で反對してゐた。
「人間に魚の心がわかるものか。魚自身にとつてみれば、あれで悲しんでゐるかも知れないのだ。それとも何か、君には魚の心がわかると言ふのか?」
いつも抽象的な論理をこねて、彼の詩的な思想に楯をつく敵に對し、ここで復讐してやつたことが、莊子は嬉しくてたまらなかつた。しかし惠子は負けなかつた。彼は皮肉らしく落付いて返事をした。
「その通り! 僕にはちやんと魚の心がわかつて居るんだ。」
「何だと?」
莊子が呆れて叫んだ。
「獨斷だ! おどろくべき獨斷だ。ふん! いつでも君の議論はそんなものさ。」
「よろしい。」
惠子が靜かに反問した。
「では聞くがね。人間に魚の心がわからないといふならば、どうしてまた、僕の心が君にわかるだらう? 僕は現に、魚の心を知つてると告白してゐる。然るに君は、勝手に僕の心を否定してゐる。どつちが獨斷かね。」
(莊子の一節から)