城のある町にて

梶井基次郎




ある午後


「高いとこの眺めは、アアッ(とせきをして)また格段でごわすな」
 片手に洋傘こうもり、片手に扇子と日本手拭を持っている。頭が奇麗きれい禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるでせんをはめたように見える。――そんな老人が朗らかにそう言い捨てたままたかしの脇を歩いて行った。言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望ちょうぼうへ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。――
 町をはずれてまだ二里ほどの間は平坦な緑。I湾の濃いあいが、それのかなたに拡がっている。すそのぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かにわだかまっている。――
「ああ、そうですな」少し間誤まごつきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだのどや耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。なんのこだわりもしらないようなその老人に対する好意がほほに刻まれたまま、たかしはまた先ほどの静かな展望のなかへ吸い込まれていった。――風がすこし吹いて、午後であった。

 一つには、可愛かわいい盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出てこの地の姉の家へやって来た。
 ぼんやりしていて、それが他所よその子の泣声だと気がつくまで、死んだ妹の声の気持がしていた。
「誰だ。暑いのに泣かせたりなんぞして」
 そんなことまで思っている。
 彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」という思いは強く刻まれた。
「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周囲に集まって、悲しんだり泣いたりしている」と友人に書いたような、彼女の死の前後の苦しい経験がやっと薄い面紗ヴェイルのあちらに感ぜられるようになったのもこの土地へ来てからであった。そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染なじんで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後で、彼はなおさらこの静けさの中でうやうやしくなった。道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。とげ一つ立てないようにしよう。指一本詰めないようにしよう。ほんの些細ささいなことがその日の幸福を左右する。――迷信に近いほどそんなことが思われた。そしてひでりの多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。
 そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想もうそうにひきとめてはおかなかった。草や虫や雲や風景を眼の前へ据えて、ひそかに抑えて来た心を燃えさせる、――ただそのことだけが仕甲斐しがいのあることのようにたかしには思えた。

「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。着いた翌日の夜。義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。ひでりのためうんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。平野は見渡す限り除虫燈の海だった。遠くになると星のようにまたたいている。山の峡間はざまぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。彼はその異常な光景に昂奮こうふんして涙ぐんだ。風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡はにぎわっていた。やみのなかから白粉おしろいを厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。

 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町はいらかを並べていた。
 白堊はくあの小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナくずめいて、緑色の植物が家々の間からえ出ている。ある家の裏には芭蕉ばしょうの葉が垂れている。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好かっこうに刈られた松も見える。みなくろずんだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。
 遠くに赤いポストが見える。
 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。
 日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――
 夜になると火のいた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで遊廓ゆうかくの方へ乗ってゆく。店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異ったふうに身体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――そうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれてしまって、そのあたりにのぼりをたくさん立てて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。
 西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆ひおおいをした旅館がやや近くに見えた。どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。
 次つぎ止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。「文法の語尾の変化をやっているようだな」ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。「チュクチュクチュク」と始めて「オーシ、チュクチュク」を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」になったり「オーシ、チュクチュク」にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって「ジー」と鳴きやんでしまう。中途に横から「チュクチュク」とはじめるのが出て来る。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終わって「ジー」に移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
 たかしはこの間、やはりこの城跡のなかにあるやしろの桜の木で法師蝉ほうしぜみが鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車きゃしゃな骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫こんちゅうに、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾しっぽへかけての伸縮であった。柔毛にこげの密生している、節を持った、その部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――その時の恰好が思い出せた。腹から尻尾へかけてのブリッとしたふくらみ。すみずみまで力ではち切ったような伸び縮み。――そしてふと蝉一匹の生物が無上にもったいないものだという気持に打たれた。
 時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼をいれ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。
 峻がここへ来る時によく見る、ちんの中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。
 蝉取竿せみとりざおを持った子供があちこちする。虫籠を持たされたは、時どき立ち留まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りにいてゆく。物を言わないでいて変に芝居のようなおもしろさが感じられる。
 またあちらでは女の子達が米つきばったを捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と言いながら米をつかせている。ねぎさんというのはこの土地の言葉で神主かんぬしのことを言うのである。たかしは善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気のんきなものに思い浮かんだ。
 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根一ぱいに負いながら、何匹も飛び出した。
 時どきけむりを吐く煙突があって、田野はそのあたりからひらけていた。レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。
 くろい木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭たいしゃ煉瓦れんがの煙突。
 小さい軽便が海の方からやって来る。
 海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。
 見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。
 ササササと日がかげる。風景の顔色が見る見る変わってゆく。
 遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。
 海岸にしては大きい立木が所どころ繁っている。その蔭にちょっぴり人家の屋根がのぞいている。そして入江には舟がもやっている気持。
 それはただそれだけの眺めであった。どこを取り立てて特別心をくようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。
 なにかある。ほんとうになにかがそこにある。と言ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。
 たとえばそれを故のない淡い憧憬しょうけいと言ったふうの気持、と名づけてみようか。誰かが「そうじゃないか」と尋ねてくれたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。しかし自分では「まだなにか」という気持がする。
 人種の異ったような人びとが住んでいて、この世と離れた生活を営んでいる。――そんなような所にも思える。とはいえそれはあまりお伽話とぎばなしめかした、ぴったりしないところがある。
 なにか外国の画で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。それにはコンステイブルの画を一枚思い出している。やはりそれでもない。
 ではいったい何だろうか。このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美しさを添えるものである。しかし入江の眺めはそれに過ぎていた。そこに限って気韻が生動している。そんなふうに思えた。――
 空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青よりやや温い深青に映った。白い雲がある時は海も白く光って見えた。今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ拡がってザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映っていた。今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。
 見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しいうなり声を出してみたいような気になるのも同じであった。息苦しいほど妙なものに思えた。
 夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――ちょうどそれに似た気持で、えたいの知れない想い出が湧いて来る。
「ああかかる日のかかるひととき」
「ああかかる日のかかるひととき」
 いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――
「ハリケンハッチのオートバイ」
「ハリケンハッチのオートバイ」
 先ほどの女の子らしい声がたかしの足の下で次つぎに高く響いた。丸の内の街道を通ってゆくらしい自動自転車の爆音がきこえていた。
 この町のある医者がそれに乗って帰って来る時刻であった。その爆音を聞くと峻の家の近所にいる女の子は我勝ちに「ハリケンハッチのオートバイ」と叫ぶ。「オートバ」と言っている児もある。
 三階の旅館は日覆をいつの間にかはずした。
 遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。
 町の屋根からは煙。遠い山からはひぐらし

手品と花火


 これはまた別の日。
 夕飯と風呂を済ませてたかしは城へ登った。
 薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあげるのが見えた。気がつくと綿で包んだような音がかすかにしている。それが遠いので間の抜けた時に鳴った。いいものを見る、と彼は思っていた。
 ところへ十七ほどをかしらに三人連れの男の児が来た。これも食後の涼みらしかった。峻に気を兼ねてか静かに話をしている。
 口で教えるのにも気がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心なふりをして見ていた。
 末遠いパノラマのなかで、花火は星水母くらげほどのさやけさに光っては消えた。海は暮れかけていたが、その方はまだ明るみが残っていた。
 しばらくすると少年達もそれに気がついた。彼は心の中で喜んだ。
「四十九」
「ああ。四十九」
 そんなことを言いあいながら、一度あがって次あがるまでの時間を数えている。彼はそれらの会話をきくともなしに聞いていた。
「××ちゃん。花は」
「フロラ」一番年のいったのがそんなに答えている。――

 城でのそれを憶い出しながら、彼は家へ帰って来た。家の近くまで来ると、隣家の人がたかしの顔を見た。そしてあわてたように
「帰っておいでなしたぞな」と家へ言い入れた。
 奇術が何とか座にかかっているのを見にゆこうかと言っていたのを、峻がぽっと出てしまったので騒いでいたのである。
「あ。どうも」と言うと、義兄あには笑いながら
「はっきり言うとかんのがいかんのやさ」と姉に背負わせた。姉も笑いながら衣服を出しかけた。彼が城へ行っている間に姉も信子(義兄の妹)もこってり化粧をしていた。
 姉が義兄に
「あんた、扇子は?」
衣嚢かくしにあるけど……」
「そうやな。あれも汚れてますで……」
 姉が合点合点などしてゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草をんでいた兄は
「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度したくしやんし」と言って煙管きせるの詰まったのを気にしていた。
 奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母はは
「さあ、こんなはどうやな」と言って団扇うちわを二三本寄せて持って来た。砂糖屋などが配って行った団扇である。
 姉が種々と衣服を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしているだろうなど、奥の間の気配に心をやったりした。
 やがて仕度ができたのでたかしはさきへ下りて下駄を穿いた。
「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにいますで、よぼってやっとくなさい」と義母が言った。
 袖の長い衣服を着て、近所の子らのなかに雑っている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言いあっている。
「『カ』ちうとこへ行くの」
「かつどうや」
「活動や、活動やあ」と二三人の女の子がはやした。
「ううん」と勝子は首をふって
「『ヨ』ちっとこへ行くの」とまたやっている。
「ようちえん?」
「いやらし。幼稚園、晩にはあれへんわ」
 義兄が出て来た。
「早うおでな。放っといてゆくぞな」
 姉と信子が出て来た。白粉おしろいを濃くはいた顔が夕暗ゆうやみに浮かんで見えた。さっきの団扇うちわを一つずつ持っている。
「お待ち遠さま。勝子は。勝子、扇持ってるか」
 勝子は小さい扇をちらと見せて姉にまといつきかけた。
「そんならお母さん、行って来ますで……」
 姉がそう言うと
「勝子、帰ろ帰ろ言わんのやんな」と義母は勝子に言った。
「言わんのやんな」勝子は返事のかわりに口真似をしてたかしの手のなかへ入って来た。そして峻は手をひいて歩き出した。
 往来に涼み台を出している近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。
「勝ちゃん。ここ何てとこ?」彼はそんなことをいてみた。
「しょうせんかく」
「朝鮮閣?」
「ううん、しょうせんかく」
「朝鮮閣?」
「しょう―せん―かく」
「朝―鮮―閣?」
「うん」と言って彼の手をぴしゃとたたいた。
 しばらくして勝子から
「しょうせんかく」といい出した。
「朝鮮閣」
 牴牾もどかしいのはこっちだ、といったふうに寸分違わないように似せてゆく。それが遊戯になってしまった。しまいには彼が「松仙閣」といっているのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」と言っている。信子がそれに気がついて笑い出した。笑われると勝子は冠を曲げてしまった。
「勝子」今度は義兄の番だ。
「ちがいますともわらびます」
「ううん」鼻ごえをして、勝子は義兄を打つ真似をした。義兄は知らん顔で
「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍たかしさんに聞かしたげなさい」
 泣きそうに鼻をならし出したので信子が手をひいてやりながら歩き出した。
「これ……それから何というつもりやったんや?」
「これ、わらびとは違いますって言うつもりやったんやなあ」信子がそんなに言って庇護かばってやった。
「いったいどこの人にそんなことを言うたんやな?」今度は半分信子にいている。
「吉峰さんのおじさんにやなあ」信子は笑いながら勝子の顔を覗いた。
「まだあったぞ。もう一つどえらいのがあったぞ」義兄がおどかすようにそう言うと、姉も信子も笑い出した。勝子は本式に泣きかけた。
 城の石垣に大きな電灯がついていて、後ろの木々に皎々こうこうと照っている。その前の木々は反対に黒ぐろとしたかげになっている。その方で蝉がジッジジッジと鳴いた。
 彼は一人後ろになって歩いていた。
 彼がこの土地へ来てから、こうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであった。若い女達と出歩く。そのことも彼の経験では、きわめてまれであった。彼はなんとなしに幸福であった。
 少しままなところのある彼の姉と触れ合っている態度に、少しも無理がなく、――それを器用にやっているのではなく、生地きじからの平和な生まれ付きでやっている。信子はそんな娘であった。
 義母などの信心から、天理教様に拝んでもらえと言われると、素直に拝んでもらっている。それは指の傷だったが、そのため評判の琴も弾かないでいた。
 学校の植物の標本を造っている。用事に町へ行ったついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰って来る。勝子が欲しがるので勝子にもけてやったりなどして、ひとりせっせとおしをかけいる。
 勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持って来た。それをまり悪そうにもしないで、彼の聞くことを穏やかにはきはきと受け答えする。――信子はそんな好もしいところを持っていた。
 今彼の前を、勝子の手をいて歩いている信子は、家の中で肩縫揚げのしてある衣服を着て、足をにょきにょき出している彼女とまるで違っておとなに見えた。その隣に姉が歩いている。彼は姉が以前より少し痩せて、いくらかでも歩き振りがよくなったと思った。
「さあ。あんた。先へ歩いて……」
 姉が突然後ろを向いて彼に言った。
「どうして」今までの気持でかなくともわかっていたがわざと彼はとぼけて見せた。そして自分から笑ってしまった。こんな笑い方をしたからにはもう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなった。
「早う。気持が悪いわ。なあ。信ちゃん」
「……」笑いながら信子も点頭うなずいた。

 芝居小屋のなかは思ったように蒸し暑かった。
 水番というのか、銀杏返いちょうがえしに結った、年のけたおんなが、座蒲団を数だけ持って、先に立ってばたばた敷いてしまった。平場ひらばの一番後ろで、たかしが左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。ちょうど幕間まくあいで、階下は七分通り詰まっていた。
 先刻のおんなが煙草盆を持って来た。火がうずんであって、暑いのに気が利かなかった。立ち去らずにぐずぐずしている。何と言ったらいいか、この手のおんな特有な狡猾ずるい顔付で、眼をきょろきょろさせている。眼顔めがおで火鉢を指したり、そらしたり、兄の顔を盗み見たりする。こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨をたもとの中で出し悩みながら、彼はその無躾ぶしつけに腹が立った。
 義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。
「へ、お火鉢」おんなはこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうにもみ手をしながらまた眼をそらす。やっと銀貨が出ておんなは帰って行った。
 やがて幕があがった。
 日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が不熱心に道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。ぞんざいで、おもしろく思えなかった。それが済むと怪しげな名前の印度インド人が不作法なフロックコートを着て出て来た。何かわからない言葉でしゃべった。唾液をとばしている様子で、めた唇の両端に白く唾がたまっていた。
「なんて言ったの」姉がこんなにいた。すると隣のよその人も彼の顔を見た。彼は閉口してしまった。
 印度人は席へ下りて立会人を物色している。一人の男が腕をつかまれたまま、危う気な羞笑はじわらいをしていた。その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。
 髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿いていた。にこにこして立っているのを、先ほどの男が椅子いすを持って来て坐らせた。
 印度人は非道ひどいやつであった。
 握手をしようと言って男の前へ手を出す。男はためらっていたが思い切って手を出した。すると印度人は自分の手を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振を醜く真似て見せ、首根っ子を縮めて、嘲笑あざわらって見せた。毒々しいものだった。男は印度人の方を見、自分の元いた席の方を見て、危な気に笑っている。なにかわけのありそうな笑い方だった。子供か女房かがいるのじゃないか。たまらない。とたかしは思った。
 握手が失敬になり、印度人の悪ふざけはますます性がわるくなった。見物はそのたびに笑った。そして手品がはじまった。
 ひもがあったのは、切ってもつながっているという手品。金属のびんがあったのは、いくらでも水が出るという手品。――ごく詰まらない手品で、硝子ガラス卓子テーブルの上のものは減っていった。まだ林檎りんごが残っていた。これは林檎を食って、食った林檎のきれが今度は火を吹いて口から出て来るというので、試しに例の男が食わされた。皮ごと食ったというので、これも笑われた。
 峻はその箸にも棒にもかからないような笑い方を印度人がするたびに、何故なぜあの男はなんとかしないのだろうと思っていた。そして彼自身かなり不愉快になっていた。
 そのうちにふと、先ほどの花火が思い出されて来た。
「先ほどの花火はまだあがっているだろうか」そんなことを思った。
 薄明りの平野のなかへ、星水母くらげほどに光っては消える遠い市の花火。海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思えた。
「花は」
「Flora.」
 たしかに「Flower.」とは言わなかった。
 その子供といい、そのパノラマといい、どんな手品師もかなわないような立派な手品だったような気がした。
 そんなことが彼の不愉快をだんだんと洗っていった。いつもの癖で、不愉快な場面を非人情に見る、――そうすると反対におもしろく見えて来る――その気持がものになりかけて来た。
 下等な道化にひとりで腹を立てていた先ほどの自分が、ちょっと滑稽だったと彼は思った。
 舞台の上では印度人が、看板画そっくりの雰囲気のなかで、口から盛んに火を吹いていた。それには怪しげな美しささえ見えた。
 やっと済むと幕が下りた。
「ああおもしろかった」ちょっと嘘のような、とってつけたように勝子が言った。言い方がおもしろかったので皆笑った。――
美人の宙釣り。
力業ちからわざ
オペレット。浅草気分。
美人胴切り。
 そんなプログラムで、おそく家へ帰った。

病気


 姉が病気になった。脾腹ひばらが痛む、そして高い熱が出る。たかしは腸チブスではないかと思った。枕元で兄が
「医者さんを呼びにろうかな」と言っている。
「まあよろしいわな。かい虫かもしれませんで」そして峻にともつかず兄にともつかず
「昨日あないに暑かったのに、歩いて帰って来る道で汗がちっとも出なんだの」と弱よわしく言っている。
 その前の日の午後、少し浮かぬ顔で遠くから帰って来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながらはやし立てた。
「勝子、あれどこの人?」
「あら。お母さんや。お母さんや」
「嘘いえ。他所よそのおばさんだよ。見ておいで。家へは這入はいらないから」
 その時の顔を峻は思い出した。少し変だったことは少し変だった。家のなかばかりで見馴れている家族を、ふと往来で他所よそ目に見る――そんな珍しい気持で見た故と峻は思っていたが、少し力がないようでもあった。
 医者が来て、やはりチブスの疑いがあると言って帰った。たかしは階下で困った顔を兄とつき合わせた。兄の顔には苦しい微笑がっていた。

 腎臓の故障だったことがわかった。舌のこけがなんとかで、と言って明瞭にチブスとも言い兼ねていた由を言って、医者も元気に帰って行った。
 この家へ嫁いで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が言った。
「一度は北牟婁ムロで」
「あの時は弱ったな。近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへゆわえつけて戻って来たら、れとりましてな、これだけほどになっとった」
 兄はその手つきをして見せた。姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを造ろうとする兄だけあって、その話には兄らしい味が出ていて峻も笑わされた。
「その時は?」
かい虫をわかしとりましたんじゃ」
 ――一つには峻自身の不検束ふしだらな生活から、彼は一度肺を悪くしたことがあった。その時義兄は北牟婁ムロでその病気がなおるようにと神詣でをしてくれた。病気がややよくなって、峻は一度その北牟婁ムロの家へ行ったことがあった。そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木樵きこりで、養蚕ようさんなどもしていた。冬になると家の近くの畑までいのししが芋を掘りに来たりする。芋は百姓の半分常食になっていた。その時はまだ勝子も小さかった。近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象のことを鼻巻き象、猿のことを山の若い衆とかやえんとか呼んでいた。苗字みょうじのないという子がいるので聞いてみると木樵きこりの子だからと言って村の人は当然な顔をしている。小学校には生徒から名前の呼び棄てにされている、薫という村長の娘が教師をしていた。まだそれが十六七の年頃だった。――
 北牟婁ムロはそんな所であった。たかしは北牟婁ムロでの兄の話には興味が持てた。
 北牟婁ムロにいた時、勝子が川へはまったことがある。その話が兄の口から出て来た。
 ――兄が心臓脚気で寝ていた時のことである。七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母ばあさんが、勝子を連れて川へ茶碗をけに行った。その川というのが急な川で、狭かったが底はかなり深かった。お祖母さんは、いつでも兄達が捨てておけというのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱きたがった。その時も姉は外出していた。
 はあ、出て行ったな。と寝床の中で思っていると、しばらくして変な声がしたので、あっと思ったまま、ひかれるように大病人が起きて出た。川はすぐ近くだった。見ると、お祖母さんが変な顔をして、「勝子が」と言ったのだが、そして一生懸命に言おうとしているのだが、そのあとが言えない。
「お祖母さん。勝子が何とした!」
「……」手の先だけが激しくそれを言っている。
 勝子が川を流れてゆくのが見えているのだ! 川はちょうど雨のあとで水かさが増していた。先に石の橋があって、水が板石とすれすれになっている。その先には川の曲がるところがあって、そこはいつも渦が巻いている所だ。川はそこを曲がって深い沼のような所へ入る。橋か曲がり角で頭を打ちつけるか、流れて行って沼へ沈みでもしようものなら助からないところだった。
 兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追った。橋までに捕えるつもりだった。
 病気の身だった。それでもやっと橋の手前で捕えることはできた。しかし流れがきつくて橋を力に上ろうと思ってもとうてい駄目だめだった。板石と水の隙間は、やっと勝子の頭ぐらいは通せるほどだったので、兄は勝子を差し上げながら水を潜り、下手でようやくあがれたのだった。勝子はぐったりとなっていた。逆にしても水を吐かない。兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びななら、背中を叩いた。
 勝子はけろりと気がついた。気がついたが早いか、立つとすぐ踊り出したりするのだ。兄はばかされたようでなんだか変だった。
「このべべ何としたんや」と言って濡れた衣服をひっぱってみても「知らん」と言っている。足が滑った拍子に気絶しておったので、全く溺れたのではなかったとみえる。
 そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。――
 兄の話のあらましはこんなものだった。ちょうど近所の百姓家が昼寝の時だったので、自分がその時起きてゆかなければどんなに危険だったかとも言った。
 話している方も聞いている方もき入れられて、兄が口をつぐむと、静かになった。
「わたしが帰って行ったらお祖母ばあさんと三人で門で待ってはるの」姉がそんなことを言った。
「何やら家にいてられなんだわさ。着物を着かえてお母ちゃんを待っとろと言うたりしてなあ」
「お祖母ばあさんがぼけはったのはあれからでしたな」姉は声を少しひそませて意味のこもった眼を兄に向けた。
「それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経ってもこれに(と言って姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんと言いましてなあ」
「なんのお祖母さん、そんなことがあろうかさ、と言っているのに」
 それからのお祖母さんは目に見えてぼけていって一年ほど経ってから死んだ。
 たかしにはそのお祖母さんの運命がなにか惨酷な気がした。それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行った北牟婁ムロの山の中だっただけに、もう一つその感じは深かった。
 峻が北牟婁ムロへ行ったのは、その事件の以前であった。お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上っていたはずの信子の名と、よく呼び違えた。信子はその当時母などとこちらにいた。まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼び違えるたびごとに、信子という名を持った十四五の娘が頭に親しく想像された。

勝子


 峻は原っぱに面した窓にりかかって外を眺めていた。
 灰色の雲が空一帯をめていた。それはずっと奥深くも見え、また地上低く垂れ下がっているようにも思えた。
 あたりのものはみな光を失って静まっていた。ただ遠い病院の避雷針だけが、どうしたはずみか白く光って見える。
 原っぱのなかで子供が遊んでいた。見ていると勝子もまじっていた。男のが一人いて、なにか荒い遊びをしているらしかった。
 勝子が男の児に倒された。起きたところをまた倒された。今度はぎゅうぎゅう押えつけられている。
 いったい何をしているのだろう。なんだかひどいことをする。そう思ってたかしは目をとめた。
 それが済むと今度は女の子連中が――それは三人だったが、改札口へ並ぶように男の児の前へ立った。変な切符切りがはじまった。女の子の差し出した手を、その男の児がやけに引っ張る。その女の子は地面へ叩きつけられる。次の子も手を出す。その手も引っ張られる。倒された子は起きあがって、また列の後ろへつく。
 見ているとこうであった。男の児が手を引っ張る力加減に変化がつく。女の子の方ではその強弱をおっかなびっくりに期待するのがおもしろいのらしかった。
 強く引くのかと思うと、身体つきだけ強そうにして軽く引っ張る。すると次はいきなり叩きつけられる。次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。
 男の児は小さいくせにどうかすると大人の――それも木挽こびきとか石工とかの恰好そっくりに見えることのある児で、今もなにか鼻唄でも歌いながらやっているように見える。そしていかにも得意気であった。
 見ているとやはり勝子だけが一番よけい強くされているように思えた。彼にはそれが悪くとれた。勝子は婉曲えんきょくに意地悪されているのだな。――そう思うのには、一つは勝子がままで、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないからでもあった。
 それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。いや、あれがわからないはずはない。むしろ勝子にとっては、わかってはいながら痩我慢を張っているのがほんとうらしい。
 そんなに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩きつけられた。痩我慢を張っているとすれば、倒された拍子に地面とにらめっこをしている時の顔付は、いったいどんなだろう。――立ちあがる時には、もうほかの子と同じような顔をしているが。
 よく泣き出さないものだ。
 男のがふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って彼は窓のそばを離れなかった。
 奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながらよぎってゆくものがあった。
 はと
 雲の色にぼやけてしまって、姿は見えなかったが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩一流のどこにあてがあるともない飛び方で舞っていた。
「あああ。勝子のやつめ、かってに注文して強くしてもらっているのじゃないかな」そんなことがふっと思えた。いつかたかしが抱きすくめてやった時、「もっとぎうっと」と何度も抱きすくめさせた。その時のことが思い出せたのだった。そう思えばそれもいかにも勝子のしそうなことだった。峻は窓を離れて部屋のなかへ這入はいった。

 夜、夕飯が済んでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。たかしは二階でそれを聞いていた。しまいにはそれをしずめる姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣きたてた。あまり声が大きいので峻は下へおりて行った。信子が勝子を抱いている。勝子は片手を電燈の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。
「そとへ行ってとげを立てて来ましたんや。知らんとおったのが御飯を食べるとき醤油しょうゆが染みてな」義母が峻にそう言った。
「もっとぎうとお出し」姉は怒ってしまって、邪慳じゃけんに掌を引っ張っている。そのたびに勝子は火の付くように泣声を高くする。
「もう知らん、放っといてやる」しまいに姉は掌を振り離してしまった。
「今はしようないで、××こうをつけてくくっとこうよ」義母が取りなすように言っている。信子が薬を出しに行った。峻は勝子の泣声に閉口してまた二階へあがった。
 薬をつけるのに勝子の泣声はまだ鎮まらなかった。
「棘はどうせあの時立てたに違いない」峻は昼間のことを思い出していた。ぴしゃっと地面へうつっぶせになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えがまた蘇えって来た。
「ひょっとしてあの時の痩我慢を破裂させているのかもしれない」そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。

昼と夜


 彼はある日城の傍の崖の蔭に立派な井戸があるのを見つけた。
 そこは昔のさむらいの屋敷跡のように思えた。畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜かぼちゃが植えてあったり紫蘇しそがあったりした。城の崖からは太い逞しい喬木きょうぼくや古い椿つばきが緑の衝立ついたてを作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。
 大きな井桁いげた、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった。
 若い女の人が二人、洗濯物を大盥おおだらいすすいでいた。
 彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛ははね釣瓶つるべになっているらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶おけに溢れ、樹々の緑がみずみずしく映っている。盥の方の女の人が待つふりをすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩かこうがんの畳石の上を、また女の人の素足の上を水は豊かに流れる。
 うらやましい、素晴すばらしく幸福そうな眺めだった。涼しそうな緑の衝立の蔭。確かに清冽せいれつで豊かな水。なんとなく魅せられた感じであった。

きょうは青空よい天気
まえの家でも隣でも
む洗う掛ける干す。

 国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句がおもい出された。その言葉には何のたくみも感ぜられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いたしんに朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸におし寄せた。

かあかあからすが鳴いてゆく、
お寺の屋根へ、お宮の森へ、
かあかあ烏が鳴いてゆく。

 それには画がついていた。
 また「四方」とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げている図などの記憶が、次つぎ憶い出されて来た。
 国定教科書の肉筆めいた楷書の活字。またなんという画家の手に成ったものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば円顔まるがおの優等生のような顔をしているといったふうの、挿画のこと。
「何とか権所有」それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮にめて読んでいたこと。そのなんとか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。そんな奥付の有様までが憶い出された。
 ――少年の時にはその画のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。そうした単純に正直ながどこかにいるような気がしていた。彼にはそんなことが思われた。
 それらはなにかその頃の憧憬の対象でもあった。単純で、平明で、健康な世界。――今その世界が彼の前にある。思いもかけず、こんな田舎の緑樹の蔭に、その世界はもっと新鮮な形をそなえて存在している。
 そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆しさされたような気がした。

 ――食ってしまいたくなるような風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。また時どき寝られない夜が来た。
 寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い昂奮が起きる。その昂奮がやむと道端でもかまわないすぐ横になりたいような疲労が来る。そんな昂奮はかえでの肌を見てさえ起こった。――
 楓樹ふうじゅの肌が冷えていた。城の本丸の彼がいつも坐るベンチの後ろでであった。
 根方に松葉が落ちていた。その上をありが清らかにっていた。
 冷たいかえでの肌を見ていると、ひぜんのようについているこけの模様が美しく見えた。
 子供の時の茣蓙ござ遊びの記憶――ことにその触感がよみがえった。
 やはり楓の樹の下である。松葉が散って蟻がっている。地面にはでこぼこがある。そんな上へ茣蓙ござを敷いた。
「子供というものは確かにあの土地のでこぼこを冷たい茣蓙の下に感じるあしうらの感覚の快さを知っているものだ。そして茣蓙を敷くやいなやすぐその上へ跳び込んで、着物ぐるみじかに地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」そんなことを思いながら彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。
「やはり疲れているのだな」彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。

「私はおまえにこんなものをやろうと思う。
一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来るとさざなみをたてる。色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。
もう一つは窓掛けだ。織物ではあるが秋草が茂っているくさむらになっている。またそこには見えないが、色づきかけた銀杏いちょうの木がその上に生えている気持。風が来ると草がさわぐ。そして、御覧。尺取虫が枝から枝をっている。
この二つをおまえにあげる。まだできあがらないから待っているがいい。そして詰らない時には、ふっと思い出してみるがいい。きっと愉快になるから。」

 彼はある日葉書へそんなことを書いてしまった、もちろん遊戯ではあったが。そしてこの日頃の昼となし夜となしに、時どきふと感じる気持のむずかゆさを幾分はかせたような気がした。夜、静かに寝られないでいると、空を五位がいて通った。ふとするとその声が自分の身体のどこかでしているように思われることがある。虫の啼く声などもへんに部屋の中でのように聞こえる。
「はあ、来るな」と思っているとえたいの知れない気持が起こって来る。――これはこの頃眠れない夜のおきまりのコースであった。
 変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。厖大ぼうだいなものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる。確かどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。
 彼はこの頃それが妖術が使えそうになる気持だと思うことがあった。それはこんな妖術であった。
 子供の時、弟と一緒に寝たりなどすると、彼はよくうつっ伏せになって両手でかきを作りながら(それが牧場のつもりであった)
「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と言いながら弟をだました。両手にかこまれて、顔でふたをされた、敷布の上の暗黒のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだった。――彼は今そんなことはほんとうに可能だという気がした。
 田園、平野、市街、市場、劇場。船着場や海。そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。そしてそれが今にも見えて来そうだった。耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。
 葉書へいたずら書きをした彼の気持も、その変てこなむずがゆさから来ているのだった。


 八月も終わりになった。
 信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。指の傷がなおったので、天理様へ御礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。その人がこの近所では最も熱心な信者だった。
「荷札は?」信子の大きな行李こうりを縛ってやっていた兄がそう言った。
「何を立って見とるのや」兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。
「ないわ」信子がそんなに言って帰って来た。
「カフスの古いので作ったら……」と彼が言うと、兄は
「いや、まだたくさんあったはずや。あの抽出ひきだし見たか」信子は見たと言った。
「勝子がまたしまい込んどるんやないかいな。いっぺん見てみ」兄がそんなに言って笑った。勝子は自分の抽出しへごく下らないものまで拾って来ては蔵い込んでいた。
「荷札ならここや」母がそう言って、それ見たかというような軽い笑顔をしながら持って来た。
「やっぱり年寄がおらんとあかんて」兄はそんな情愛のこもったことを言った。
 晩には母が豆をっていた。
たかしさん。あんたにこんなのはどうですな」そんなに言って煎りあげたのを彼の方へ寄せた。
「信子が寄宿舎へ持って帰るお土産みやげです。一升ほど持って帰っても、じきにぺろっと失くなるのやそうで……」
 峻が語を聴きながら豆をんでいると、裏口で音がして信子が帰って来た。
「貸してくれはったか」
「はあ。裏へおいといた」
「雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで」
「はあ。ひき込んである」
「吉峰さんのおばさんがあしたお帰りですかて……」信子は何かおかしそうに言葉を杜断とぎらせた。
「あしたお帰りですかて?」母が聞きかえした。
 吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」とかれて、信子が間誤まごついて「ええ、あしたお帰りです」と言ったという話だった。母や彼が笑うと、信子は少し顔をあかくした。
 借りて来たのは乳母車だった。
「明日一番で立つのを、行李乗せて停車場まで送っててやります」母がそんなに言ってわけを話した。
 大変だな、と彼は思っていた。
「勝子も行くて?」信子がくと、
「行くのやと言うて、今夜は早うからおやすみや」と母が言った。
 彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先へ手荷物で送ってしまったらいいと思って、
「僕、今から持って行って来ましょうか」と言ってみた。一つには、彼自身体裁屋なので、年頃の信子の気持を先廻りしたつもりであった。しかし母と信子があまり「かまわない、かまわない」と言うのであちらまかせにしてしまった。
 母と娘とめいが、夏の朝の明け方を三人で、一人は乳母車をおし、一人はいでたちをした一人に手をかれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。美しかった。
「お互いの心の中でそうした出発の楽しさをあてにしているのじゃなかろうか」そして彼は心が清く洗われるのを感じた。

 夜はその夜も眠りにくかった。
 十二時頃夕立がした。その続きを彼は心待ちに寝ていた。
 しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。
 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。
 城の本丸に電燈が輝いていた。雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗ぎょりんのような光を放っていた。
 また夕立が来た。彼はしきいの上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。
 眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒ポンプへ水を汲みに来た。
 雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。
 気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
 信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴ほうふつとした。
 夕立はまた町の方へ行ってしまった。遠くでその音がしている。
「チン、チン」
「チン、チン」
 鳴きだしたこおろぎの声にまじって、質の緻密な玉を硬度の高い金属ではじくような虫も鳴き出した。
 彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。





底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
初出:「青空」青空社
   1925(大正14)年2月号
※編集部による傍注は省略しました。
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年9月8日公開
2016年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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