旗手クリストフ・リルケ抄

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke

堀辰雄訳




「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」はリルケの小時の作(一八九九年)である。
 詩人は若いころ自分が「森の七つの城のなかで三つの枝の花咲いた」由緒のある貴族の後裔であるといふ追憶を愛してゐた。彼はさういふ古い種族の「最後の人」であるとみづから考へ、彼の存在の根をふかく過去のなかに求めんとしてゐたのである。さうしてドレスデンの國有文庫に殘つてゐた自家に關する古文書の中に旗手クリストフ・リルケの小さな記録を發見すると、彼はいまだ騎士道の衰へなかつた頃のその若い祖先と一體にならんとした。(そのランゲナウ莊園の主であつた若い祖先は、男爵ピロヴァノ中隊所屬の旗手として、一六六三年ハンガリイにおいてトルコ軍と戰ひ、僅か十八歳で戰死したのだつた。)
 このささやかな敍事詩がライプチヒのインゼル書肆から上梓されたのは、それから七年後の一九〇六年のことである。それが一たび上梓されるや、忽ち一世を風靡した。アンドレ・ジィドもこの作品をフランス語に飜譯しようとしたことがある。その折には、リルケも大いに喜んで一書を寄せた。――「……いつだつたかの晩、その伊太利譯を讀んだ時、私はこれらの頁を書いたあの夢のやうな晩のことを思ひ出し、まだ子供らしい頬をほてらせながら、死を、死の神格化アポテオオズを見出すべく愛を突き拔けてゆく、この若い祖先の迅速さには、殆どわれにもあらず、眩惑し、驚嘆いたしました。ああ、親愛なるジィドよ、何物をも要求せず、又いかなる困難をも認めずに、かかる嵐にわが身を打ち任かすことの出來たあの頃は、まあ何んと遠いことでせう! それはたつた一晩きりでした。そして朝になつて見ると、自分が熟睡しなかつたのやら何やらも、殆ど知らない位でした。……」(一九一四年二月)が、ジィドの飜譯は遂に完成を見ずにしまつた。(その後、一九二七年シュザンヌ・クラのフランス譯が出、さらに一九四〇年モオリス・ベッツの新譯が出た。)
 リルケが晩年、ラアガツのホテルで、この小時の作品の思ひ出をトゥルン・ウント・タクジス公爵夫人に語つた一夜のことが、夫人の囘想記には興深く敍せられてゐる。
「或る夜、ライネル・マリア・リルケは若いころ――たしか十九か二十のころ――書いた『旗手』の話を私にしてくれました。彼はなんでも或る山番の家で一夜を過ごしたことがありました、そのとき彼は眠ることが出來ませんでした。『ごらんなさい、公爵夫人』とライネル・マリア・リルケは、開いた窓のはうへ私と一しよに近づきながら、言ひつづけました。『丁度、こんな晩でした。月のいい晩でした。ややつよい微風が吹いてゐて、細ながい黒雲を追ひ散らしてゐました、まるで光つてゐる圓盤の上をたえず横ぎる狹いリボンのやうに。私は窓のところに立つて、大へん迅く次ぎから次ぎへといつまでも過ぎてゆく雲を見つめてゐました。そのうち、それらの雲が急速なリズムで何やら言葉をつぶやいてゐるのが聞えて來るやうな氣がしだして、私は無意識的な夢のなかでのやうに小聲で、それがどうなつて往くかは少しも知らずに、その言葉を繰り返して見てゐました。「Reiten, reiten, immer reiten……」(騎りつつ、騎りつつ、騎りつつ……)と。それから私は、ずうつと夢のなかでのやうに、書きはじめました。さうして一晩ぢゆう書いてゐました。朝になると、クリストフ・リルケの歌は出來上がつてゐました。……』
 そしてそのとき、とライネル・マリア・リルケは、彼の顏ぢゆうを明るくさせる子供らしい微笑をうかべながら、言ひをへました。そのとき、私は孔雀のやうに幸福で誇らしげに、この『騎手』はきつと自分の未來の名譽をきづいてくれるだらう、と考へました。(それはやはり間違つてはゐませんでしたけれど……)唯、それも當然のことですが、彼は出版者を見つけることが出來ませんでした。こんな全く無名の青年の書いたばかばかしい物語などを、誰が眞面目になつて取り上げてくれたでせう。ところが、突然、ありうべからざる事が起りました。それを讀んで、すつかり感動した彼の幼友達が、この『旗手』を印刷させたのでした。しかし、それは五十部と賣れませんでした。
 私はライネル・マリア・リルケが、この微妙な作品を何遍も朗讀するのを聞きました。それはいつも私が懇望したのでした。この非常に單純なリズムのある散文を、彼はごく輕い抑揚をつけただけで、いつも殆ど夢のなかでのやうに、朗讀しました。(人びとがそれを常に朗讀するのとは正反對に……)この作品が芝居じみた誇張と過度な抑揚をつけて朗讀されるのを聞くくらゐ、腹の立つことはありません。」…………
 私もまた、戰爭中にこの作品の飜譯を試み、それを五十部ぐらゐでもいいから小册子に印刷したいと思つたが、それは果せなかつた。が、いまの私には、さういふやうなことも一つの思ひ出になつたので、未定稿のままであるが、それをこの私記のうちに收めておくことにした。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「……一六六三年十一月二十四日、リンダのランゲナウ、グレニツ及びチィグラの領主、オットオ・フォン・リルケは、匈牙利にて戰死せし弟クリストフの遺せるリンダに於ける所領地を讓渡せられたり。但し、その弟クリストフ(提出せられし死亡證書によれば墺太利帝國ハイステル騎兵聯隊ピロヴァノ男爵部隊の旗手として戰死せり)萬一生還せる場合は、その相續の無效たるべき證文を作成せしめられたり。……」

 りつつ、騎りつつ、騎りつつ、日ねもす、夜もすがら、日ねもす。
 騎りつつ、騎りつつ、騎りつつ……
 さうして意氣はいよいよ衰へ、ふるさとはいよいよ戀しい。山はもうまつたく見えぬ。木立ももうほとんど無い。立ち上らうとするもの、なにひとつ無い。異樣な小屋が、泥沼と化した泉のほとりに、かわいたやうに、うづくまつてゐるばかり。いづこにも塔らしいものは見えぬ。さうしていつも同じやうな眺め。眼が二つあつても、なんにもならない。ただ夜になると、ときをり道がなんだか見覺えのあるやうな氣がしてくる。恐らくそれは我々が、異樣な太陽の下に苦しんで過ぎてきた道程みちのりを、いつも夜になると再び歸つてゆくのではないか。たぶん、さうだらう。太陽は、まるで我々のふるさとの眞夏のやうに、重苦しい。しかし、我々がいとまを告げて出立してきたのは、夏の日だつた。女たちのきものが緑のなかにいつまでもかがやいてゐた。さうしてあれから我々は長いこと騎つてきた。もういまは秋だらう。少くとも、悲しい女たちが我々のことをよく知つてゐる、彼處かしこでは、秋だらう。

 ランゲナウびとは鞍のなかに身じろいで、ことばをかけた。「侯爵……」
 彼の隣りにゐる、品のいい、うら若い佛蘭西人は、最初の三日ほどは、しやべつたり、笑つたりしてゐた。が、いまはもう、何にも分からないやうだつた。まるで睡りたがつてゐる子供のやう。埃が彼の綺麗な白いレエスの襟に溜まつてゐても、彼はすこしも氣づかないでゐるらしい。彼は天鵞絨の鞍のなかで徐々に衰弱してゐるやうに見える。
 けれども、ランゲナウびとは笑つて、言つた。「あなたは珍らしい目をしていらつしやる、侯爵。きつとあなたのお母あ樣に似ていらつしやるのでせう。――」
 さうすると、そのうら若い佛蘭西人は、再び元氣づき、自分の襟の埃を拂つて、蘇つたかのやうになつた。

 誰かが自分の母の話をしだした。獨逸人にちがひなかつた。彼は高い聲で、ゆつくりと、ことばを發した。花束をつくる少女が、全體でどんなものになるかも分からずに、ただ考へ深さうに花と花とをつないでゆくかのやうに――そんな風に、彼はそのことばをつないでいつた。たのしむためにか? 苦しむためにか? みんな耳を傾けて聞いてゐる。固唾かたづをのんだまま。身分のある人びとには、語られてゐることがすつかり分かつた。さうしてまた隊のなかの獨逸話の分からない人びとも、突然、それが分かるやうになり、一つびとつのことばを感じた。「アーベント」……「小さかつたときクライン・ヴアル……」
 そこに寄り集つてゐる人びとは、佛蘭西や、ブルグンドや、ニイデルランドや、ケルンテンの谷や、ボヘミアの山や、レオポルト皇帝のもとから來た人びとだつた。さうやつて、そのうちの一人が語りだすと、誰もかもがそれをそつくりその儘に感じた。あたかもただ一人の母しかゐないやうに。

 そんな風に、馬につたままで、いつも日が暮れるのだつた。或る日もさうやつて暮れていつた。人びとはまた默りあつてしまつたが、明るいことばが身にしみてゐた。そのとき侯爵が兜をぬいだ。彼の暗いいろの髮は柔らかだつた。さうして彼が頭を下げると、女のやうにその髮がうなじのまはりに擴がつた。ランゲナウびともそのときふと目に入れた。遙かかなた、夕映ゆふばえのなかに、何やら、ほつそりとした、暗いものの、立つてゐるのを。それは一個の半ば朽ちた圓柱だつた。さうして彼は、そこを通り過ぎて、大ぶ立つてから、漸つとそれがマドンナであつたことに氣がついた。

 篝火かがりび。人びとはそれを取り圍んで坐りながら、待つてゐた。誰かが歌ひだすのを待つてゐた。しかし、みんなぐつたりと疲れてゐた。赤い光までなんとなく重たげだつた。それは埃だらけのくつの上でひと休みし、それからやつと膝に匍ひ上がつて、人びとの組み合はしてゐる手のなかを覘いたりする。それには翼がないのだつた。人びとの顏も暗い。けれども、うら若い佛蘭西人の目が、一瞬、異樣にかがやいた。彼は小さな薔薇にくちづけをしたのだつた。さうしていま、その薔薇は彼の胸の上でしづかにしをれてゐるだらう。ランゲナウびとはそれをぬすみ見てゐた。彼はすこしも眠れないでゐたから。彼は心におもつた。「私にはひとつも薔薇がない、ひとつも……」
 それから彼は歌ひだした。それは、彼の古里で、秋の收穫がをはらうとするとき、少女たちが野づらで歌ふ、古い、悲しい歌だつた。

 うら若い侯爵が言つた。「あなたも隨分お若いのでせう?」
 さうすると、ランゲナウびとは、半ば悲しさうに、半ば強情つれなささうに、言つた。「十八です」それから二人は默つた。
 しばらくしてから、佛蘭西人が問うた。「あなたにもお國には花嫁がおありですか?」
「あなたは?」ランゲナウびとは問ひ返した。
「私の花嫁は丁度あなたのやうな金髮をしてゐます。」
 それからまた二人は默つた。ややあつて、獨逸人が叫んだ。「そんな方がゐられるのに、一體、何んだつてあなたはかうやつて、土耳古のやつらをめに、鞍に跨つて、こんなひどい土地を進んでゆかれるんです?」
 侯爵は笑つた。「再び歸るために。」
 さうすると、ランゲナウびとは物悲しくなつた。彼は心におもつた、昔、一緒に遊んだことのある、一人の金髮をした少女のことを。まあ何んといふ亂暴な遊びかたをしたものだらう。さう思ふと、彼は急に家に歸りたくなつた、ほんのちよつとの間だけでいい、――「マグダレナよ、――私はいつもそんな風だつたね、赦してくれたまへ。」さう一こと、その少女に向つて言へる數分間だけでもいい……
「どうして――自分はあんなだつたらう?」と若うどは考へた。――さうして彼らはいま遠く離れてゐるのだ。

 とある朝、一人の騎兵があらはれた。それから第二の、第四の、第十の騎兵があらはれた。いづれもいかめしく鎧を着こんでゐた。やがて、その背後には、千騎あまり――騎兵の一隊が見え出した。
 別れなければならなかつた。
さちよくお歸りなさい。侯爵。――」
「マリア樣があなたをおまもりになるやうに。」
 しかし二人は別れることが出來なかつた。さうして急に、親友のやうな、兄弟のやうな氣もちになつた。お互にもつともつと打ち明けて言ひたいことがあるやうに思つた。既にこれほどまでよく相手のことを知り合つた以上は。二人は別れを惜しんでゐた。そのまはりでは、すべてがあわただしげに、馬の蹄の音が絶えずしてゐた。そのとき侯爵は右手の大きな手袋を脱いだ。さうして小さな薔薇を取り出して、その花瓣はなびらをひとひら※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)つた。聖餅でも裂くやうにして。
「これがあなたをお護りするでせう。さらば。――」ランゲナウびとは目をみはつた。長いあひだ彼は佛蘭西人を目で逐つてゐた。それから彼はその異樣な花瓣はなびらを自分の軍衣の下に滑り込ませた。さうすると、それが彼の波うつ胸のうへで上つたり下つたりした。角笛が鳴つた。若うどは隊の方へ馬を走らせた。彼は悲しさうに微笑んでゐた。これからは見も知らぬ婦人が彼を護つてくれるのだ。

 輜重隊に伍して旅する日のこと。呪詛、色彩、哄笑。――そのために村ぢゆうが盲ひさうなほど。色まだらな襤褸ぼろをまとつた子たちが馳せよつてくる。いがみ合つたり、罵り合ふ。波うつやうな髮の上に紫いろの帽子をかぶつた娼婦たちも近づいてくる。目くばせをする。さまよふ闇のやうに黒い髮をした、奴隷たちも近づいてくる。娼婦たちははげしくいどまれるので、着物なぞも破けてしまふ。さうして太鼓のふちに押しつけられたりする。彼女たちが抵抗して暴れながら振りあげる手の下で、太鼓が目を覺ます。さうしてそれが、まるで夢でも見たかのやうに、鳴りひびく。日が暮れると、彼女たちは彼のところにあかしをもつてくる、まだ見たこともないやうな燭を。それから鐡兜のなかに赫いてゐる葡萄酒を。葡萄酒? それとも、これは血ではないか? ――それが誰に見分けられよう?

 遂にシュポルクの前に。白馬のかたはらに、伯は身をらせて立つてゐた。長い髮をまがねのやうに光らせながら。
 ランゲナウびとは誰にも訊ねなかつたが、將軍が分かつた。彼は馬から跳び下りると、埃の雲のなかで身をこごめた。彼は伯に手渡さなければならぬ信書を携へて來た。しかし、伯は命じた。「その反古を予に讀んでくれい。」それきり彼はもう口を動かさなかつた。彼にはそんな必要がないのだ。口はただ罵るために役立つきりで、他のことはすべて右手で話した。「もうよろしい。」さう云つてゐるのが、その右手で分かつた。若うどは既にそれを讀み畢へてゐた。彼には自分が何處に立つてゐるのかも分からなくなつてゐた。すべての前に、シュポルクが立ちはだかつてゐた。空さへも見えなかつた。そのときシュポルク將軍が言つた。
「旗手。」
 なんとそれは大したことだらう。

 中隊はラープの彼方かなたに駐屯してゐた。ランゲナウびとはその方へ、ただ一人で、つていつた。平原。暮れがた。埃のなかで鞍の金具だけが光つてゐる。やがて月が出た。彼は自分の手に月の影を見た。
 彼は夢みだした。
 しかし、何かが彼のはうへ叫んでゐる。
 何かが叫んでいる。叫んでいる。
 彼は夢を破られた。
 梟なんぞではないらしい。おお、何んと! そこに一本立つてゐる樹が、
 彼のはうへ叫んでゐるのだ。
 人だ!
 そこで彼は目をらした。何者かが起き上らうとしてゐる。何者かが、その樹に體を縛られたまま、起き上らうとしてゐる。
 血まみれになつた、裸身の、若い女だ。
 その女がだしぬけに聲をかけた。「私をほどいて下さい。」
 そこで彼は馬から、黒い草のなかへ、跳び下りて、
 その熱くなつてゐる繩を斷ち切つた。
 彼はそのときその女の燃えるやうな目ざしと、
 食ひしばつてゐる白い齒とを見た。
 その女は笑つてゐるのかしら?
 彼は身顫ひがした。
 彼は忽ち馬に跳び乘つて、
 闇のなかへ駈け入つた。血まみれになつた手綱をしつかりこぶしに握りしめたまま。

 ランゲナウびとは、夢中になつて、一通の手紙を認める。彼はゆつくりと、大きな、まじめな、まつすぐな字を綴つてゆく。
「母上樣、
 お誇りになつて下さい、私は旗手になりました。
 もうお案じなさいますな、私は旗手になりました。
 私をお愛しになつて下さい、私は旗手になりました。――」
 それから彼はその手紙を、軍衣のなかにしまつた、その一番祕密な場所に、薔薇の花びらのそばに。さうして考へた、「この手紙はぢきに薔薇の匂がしだすだらう。」それからまた考へた、「いつか誰かがこれを見つけるだらう……」それからまた考へた……なぜかといふに、敵はもう近いのだ。

 彼等は一人の殺された農夫の上を馬で跨いで通つた。彼は兩眼を大きく見ひらいてゐた。その眼のなかには何かが映つてゐたが、青空らしいものはなかつた。やがて犬が吠え出した。やうやくと、村が近づいたのだ。さうして民家の上方に、一郭の城がいかめしく聳えてゐた。廣びろと橋がこちらに架けられた。大きく門が開かれた。高だかと角笛が鳴りひびいた。聞くがいい! 喧噪、武具の音、吠える犬。中庭でいななく馬、蹄の音、それから人の叫び聲。

 いこひ! 一度は、まらうどにならう。いつも、貧しいかてのみで空腹を充たすまい。いつも、すべてのものに敵意をもつのは止さう。一度は、すべてのものを起るがままにさせて置いて、それを見てゐよう。この世に起るすべてのものは、いいのだ。また一度は、心をのどめて、絹のしとねのふちに打ち寛ろがう。いつも、軍人いくさびとの氣もちでゐまい。一度は、捲きしめてゐた髮毛もゆるめ、えりもたつぷり開いて、絹張りの椅子のなかに、入浴の後で、指のさきまでゆつたりとした氣もちになつて坐らう。それからもう一度、女といふものがどういふものであるかを學ばう。白衣の女はいかに、また青衣の女はいかに。その女たちの手の香りはいかに、又、金髮の子たちが水菓子で重くなつた美しい皿を運んでくるとき、その女たちの立てる笑ひはいかに。

 はじめは晩餐だつた。そのうち、いつか殆ど知らぬまに、酒宴さかもりになつてしまつてゐた。高く炎がゆらめき、人聲が顫へ、こんぐらかつた歌が玻璃と燭光から生じ、拍子がおもむろに熟して、――遂に、舞踏が涌き上つた。さうして誰もかも醉つたやうになつた。廣間には人波が打ち合つた。人びとは出逢つては相手を選び、それからまた、別れては出逢つたりした。さうして光に飽き、あかりにめしひ、温かな女たちの衣裳から生ずる、夏の微風に吹き搖すられたりしてゐた。
 ほの暗い葡萄酒と、千の薔薇から、時はきらめきながら夜の夢のなかへと流れてゆく。

 さうして、かういふきらびやかさに目をみはらせて、一人のものが立つてゐた。その若うどには、いま自分が目を覺ましてゐるのかどうかも分からなくなつてゐた。こんな豪奢や、こんな女たちの狂宴は、ついぞこれまで夢の中でしか見たことがなかつたから。女たちの可哀らしい動作は、錦襴のなかに生ずる一つの皺だつた。彼女たちは銀の言葉で、時を組み立てた。さうしてときをり彼女たちは不思議な手つきをした、――おまへの目の屆かない場所で、おまへの目には見えない薔薇の花を摘んででもゐるかのやうな……さうしていつかおまへは夢みだしてゐた。自分がその薔薇の花で飾られて、異樣に祝福されてゐるのを。むなしかつた額にはその花の冠をさせられながら……

 白絹の衣をまとつた、若うどの一人は、自分は決して目を覺ますことは出來ないと氣がついた。なぜかといふに、自分は目覺めてゐて、現實がこんぐらかつてゐるだけなのだから。そこで、彼は不安さうに夢のなかに逃れようとし、園のなかに、まつ暗な園のなかに、一人きりで立つてゐた。酒宴は遠のいた。しかし灯は目をあざむいてゐた。さうしていつ夜が彼のすぐそばに來たのだらう、急に冷えびえして來た。彼は自分のはうに身をかしげてゐる一人の女を認めた。
「あなたは夜ですか?」
 彼女は笑つた。
 彼はなんだか自分の白衣が羞かしくなつた。
 さうして自分がずつと遠くに、一人きりでゐて、武裝してゐるのだとよいのに、と思つた。すつかり武裝してゐるのだと……

「あなたは、けふ一日、わたくしのお小姓だといふことをお忘れになつたの? あなたはわたくしをもうお見棄て? 何處へあなたはお往きなさいますの? あなたの白衣はわたくしにすつかりあなたの權利をお預けになつてゐるのに……」
 ………………………………………
「あなたはあの毛の粗い服を戀しがつていらつしやるの?」
 ………………………………………
「あなたは震へていらつしやるのね? ――お國が戀しくていらつしやるの?」
 伯爵夫人は微笑んだ。
 否。それはただ幼さが彼の肩から落ちてしまつたからだつた。あの柔らかな、暗いいろの衣が! それを奪ひとつてしまつたのは誰? 「あなたですか?」彼は自分でもこれまで聞いたことのないやうな聲で問うた。――「あなたなのですね!」
 いま、彼は身に纏つてゐるものがなんにもなかつた。さうして彼は聖者のやうに眞裸かだつた。明るく、痩せこけて。

 城は次第にともしびを消していつた。誰もみな心が重たかつた。或者は疲れ、或者は戀ひし、或者は醉ひ痴れてゐた。長い、空しい幾夜かの野營の後の、寢臺。ゆつたりとした樫の寢臺。その上では人びとは、睡らうとするとまるで墓のやうになる、途中の慘めな壕のなかとは、まつたく別な祈りかたをした。
「神よ、おんみの御心みこころにかなひますやうに――」
 寢臺の上での祈りは、ずつと短かつた。しかし、ずつと心からの祈りだつた。

 塔の部屋は暗かつた。
 しかし二人の顏は微笑で明るかつた。彼らはめしひたやうに手搜りで進みながら、たがひに相手を扉のやうに見出した。闇をこはがる子たちのやうに、二人はぴつたりと身を寄せあつた。けれども、彼らは怖がつてゐたのではなかつた。彼らにさからはうとするものは何にもなかつた。きのふもなく、あすもなかつた。時は崩れてしまつてゐたので。さうしてその崩れたあとから、二人は花咲いたのだ。
 彼は訊ねなかつた。「あなたの御主人は?」
 彼女は訊ねなかつた。「あなたの御名は?」
 彼らは、二人でもつて或る新しい血にならうとして、其處にゐたのだから。
 彼らは、たがひに相手を澤山の新しい名でもつて呼びあひ、それからまた、耳環でもはづすやうに、そつとそれを引き込めるのだつた。

 控への間の、肱掛椅子の上には、ランゲナウびとの軍衣だの、負革おひかはだの、外套だのが懸つてゐた。床には手袋が落ちてゐた。騎兵旗は、窓の棧の十字をしたところにせかけられて、斜めに立つてゐた。その旗は黒く、細ぼそとしてゐた。窓の外には、嵐が空をかけめぐつてゐた。さうして闇が、白と黒との缺片かけらに、引き裂かれてゐた。月光がときをり長い稻妻のやうに過ぎた。しかし、旗はすこしもなびかずに、ぢいつと不安な影を落してゐた。旗は夢みてゐた。

 どこの窓がひらいたのだらう? 嵐が家のなかへはひつて來たのだらうか? 誰れが扉を鳴らしたのだらう? 部屋々々を通り拔けていつたのは誰れだらう? ――その儘にしてゐよう。誰れだつていい。この塔の部屋のなかは、そいつはのぞいて行かなかつた。あたかも百枚の扉のうしろにあるかのやうだ、二人がかうしてともにしてゐる深い眠りは。ひとりの母だの、ひとつの死だのをともにするやうにして――

 朝になつたのだらうか? なんといふ太陽が昇つたのだらう! なんとその太陽は大きいのだらう! あれは小鳥だらうか? いたるところで小鳥らの囀りがする。
 なにもかも明るい、だが晝ではない。
 なにもかもかまびすしい、だが小鳥らの囀りではない。
 光つてゐるのは、はりだ。叫んでゐるのは、窓だ。それらの窓は、眞赤に燃えながら、その光に照らし出された廣野にたむろしてゐる敵陣のなかへ叫んでゐるのだ。「火事だ!」
 さうして引きさかれた眠りを顏に浮べながら、誰もかも半ばよろひ、半ば裸かのまま、部屋から部屋へ、よくから翼へと駈けめぐり、階段を搜してゐた。
 さうして中庭で、息のつまつたやうな角笛が、しきりに吃つてゐた。「集れ、集れ!」
 さうして震へるやうな太鼓の音。

 しかし、そこには旗が見えない。
 誰か叫んでゐる。「旗手!」
 狂ひたつ馬、祈り、雄叫をたけび。
 誰か罵つてゐる。「旗手!」
 武器のふれあふ音、命令と合圖。
 誰ももう叫ばぬ。「旗手!」
 それからもう一度、「旗手!」
 それから荒れ狂ふ馬に跨つて、城外へ。
 ………………………………………
 しかし、そこには旗が見えない。

 彼は、燃え擴がつてゆく廊下ときそひ、彼のはうに熱くなつて倒れてくる扉をくぐり拔け、彼を焦がさうとする階段をぎり、漸くにしてその狂ひに狂へる建物から逃れ出た。彼は腕のなかに、氣を失つた白衣の夫人のやうに、旗をかかへてゐた。さうして彼は馬を見つけると、それに跳びのつて、驀地まつしぐらに駈けらせた。それは叫びのやうだつた。彼はすべてのものを通り拔け、すべてのものを追ひ越した、自分の味方をさへ。さうして、旗もまた我に返つたかのやうに見えた。その旗がこんなに立派に見えたことは嘗つてなかつた。さうして味方のすべてのものは、いまその旗が、ずつと彼等の前方にあるのを見た。それから、明るい、兜もつけてゐない若うどを認めた。それから、旗を……
 しかし、その旗はみるみる光りはじめ、躍り上がり、大きくなり、眞赤になりだした……
 ………………………………………
 いましも、彼等の旗は敵の眞只中で燃えだしてゐるのだ。そこで、彼等はそれを追ひ駈けていつた。

 ランゲナウびとは、ただ一人きり敵陣深く入り込んでしまつてゐた。恐怖が彼のまはりに圓い空間をつくつてゐた。さうして彼は、その眞ん中に、次第に燃え擴がつてゆく旗のもとに、佇立してゐた。
 ゆつくりと、殆ど考へ深さうに、彼は自分のまはりを見まはした。彼の前には、けばけばしい雜色の衣をきた、夷狄どもが多勢ゐた。庭園だ、――さう考へて、彼は微笑んだ。しかし、そのとき彼は自分の方に一せいに注がれてゐる目ざしに氣がついた。さうして彼はそれが人間どもであり、しかも異教徒の犬どもであるのを認めた。そこで、彼はその眞只中へ自分の馬を躍り入らせた。
 しかし、すべてのものが忽ち彼の背後に寄り重なつてきたとき、それはやはり庭園だつた。さうして彼の上に、一閃また一閃、襲ひかかつてくる、十六本の圓い蠻刀は、さながら祝祭だつた。
 笑ひさざめく噴水だつた。

 軍衣は城のなかで燒けた。それから手紙も、或る知らない婦人の薔薇の花びらも。――

 翌年の春(その春はもの悲しく、冷えびえと來た)、ピロヴァノ男爵の軍使がしづかにランゲナウに入つていつた。さうしてそこに彼は見た、ひとりの老婦人の泣くのを。……





底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「高原 第一輯」
   1946(昭和21)年8月1日刊
※初出時の表題は「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」、「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店(1951(昭和26)年6月15日)収録時「旗手クリストフ・リルケ抄」と改題。実際は「抄」ではなく全訳。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年4月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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