巴里の手紙

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke

堀辰雄訳




 ライネル・マリア・リルケは一九〇二年八月末はじめて巴里に出た。「美術叢書」(Die Kunst)を監修してゐたリカルド・ムウテル教授に囑せられてロダン論を書くためであつた。リルケは先づ、ソルボンヌ區トゥリエ街十一番地に寓した。八月二十八日の夕方、妻クララに宛てて、「誰れももう疑へませぬ、私は巴里に居るのです、いま私の住まつてゐるこの一隅がどんなに物靜かであつても。私は唯一つの期待(une seule Attente)です。どんな風になることでせう? 私の部屋は三階か四階にあります(私はそれを數へようとはしませぬ)、そして私を得意にさせてゐるのは、この部屋には鏡のある煖爐、振子時計、それから二つの銀の燭臺があることです……」と書いてゐる。巴里とロダンと――この二つのものこそ當時のリルケにとつては彼のすべてであつた、と言へる。私は此處にその最初の巴里滯在中の詩人のすがたを彷彿せしめるに足りる三つの手紙を抄する。
 後出の妻クララ及びロダンに宛てられた二つの手紙は、前述のトゥリエ街の寓居で書かれたものだが、最初のルウ・アンドレアス・サロメに宛てて書かれた手紙は、その翌年羅馬から獨逸のヴォルプスヴェデに歸つてから當時を追想して書かれたものである。この手紙の中に精妙に描かれてゐるいくつかの巴里の情景は、後日「マルテの手記」の中に殆どそつくりそのまま用ひられてゐる。

一 ルウ・アンドレアス・サロメに


一九〇三年七月十六日、ブレェメン郊外ヴォルプスヴェデにて
 愛するルウよ、巴里は私には、あの幼年學校時代とそつくりな經驗だつたと言つてもいいかも知れません。あの頃、大きな、心臟をしめつけるやうな驚きが、私を掴へてゐたのと同樣に、巴里でもまた私は、それ等の何とも言ひやうのない混沌が人生と呼ばしめてゐるかのごとき、あらゆるものに對する恐怖に捕へられてゐたのでした。あの頃私は、子供たちの一人であつたのに、皆の間で孤獨でした。そして巴里でも、私は人々の間でどんなにか孤獨だつたでせう、そして私の出會ふすべての人々から、いつも知らん顏をされて居ましたことか。馬車は私を駈け拔けて行きました。そしてその馬車の中でも、急いでゐるのなどは、私を避けようともしないで、さも輕蔑するやうに、私の上を走つて行きました。まるで古い水の溜つてゐる惡い場所の上ででもあるかのやうに。私は就寢前に、屡※(二の字点、1-2-22)ヨブ記の第三十章を讀みました。一語一語、それはそつくりそのまま私には眞實でした。そして夜なかに私は起き上り、大好きなボオドレエルの本、「小さい散文詩」を搜して、その中でも最も美しい詩、「夜の一時に」といふ詩を大聲で朗讀するのでした。その詩を御存知ですか? それはかう始まるのです。「ああ、漸つと一人になつた! いま聽えてくるものは、もはや歸りの遲れた、さも疲れたやうに走つてゆく、二三の辻馬車の音のみだ。これから何時間か、よし休息でないまでも、沈默は味へるだらう。ああ、漸つと暴虐な人間どもの顏は消え失せた。もはや私は、自分自身によつてしか苦しまされないのだ。……」そしてその結末の何といふ素晴らしさ! それは祈祷のやうに起きあがり、立ち止まり、そしてそれから消え去る。ボオドレエルの祈祷。兩手を合せながらする、眞劒な、卒直な祈祷。――露西亞人のそれのやうに、不器用で、美しい祈祷。――彼、ボオドレエルにとつては、此處まで來るのに、實に長い道程を要したのでした。そして彼は膝づきながら、匍ひながら、やつと辿り着いたのでした。……去年の八月、私は巴里に來たのでした。それは丁度、町の木々が秋をも待たずに凋れかけ、暑さのために膨脹した、燒けつくやうな道路がいつまでも盡きようとせず、そして人々はものの匂の中を澤山の悲しい部屋の中のやうに横切つて行くと云つたやうな季節でした。私は長い病院に沿うて行きました。その門は、性急さうな、そしてがつがつしたやうな憐憫の樣子をして、大きく開かれてゐました。はじめて私が H※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)tel-Dieu(市立病院)の傍を通りかかつた時、幌無しの辻馬車が一臺、丁度、その中にはひつて行くところでした。そしてその馬車の中には、一人の男が、まるで壞れた操り人形のやうに斜めに吊され、車の動搖する度毎によろめいてゐました。そしてそのだらりと前に垂れた、長い、灰色の頸には大きな膿腫が認められました。それ以來、殆ど毎日のやうに、私は一體どんな人々に出會つたと思ひます? ――彼等はさながら、ありとあらゆる苦惱、ありとあらゆる苦惱の建物ののしかかつてゐる下で、龜のやうに緩慢に生きてゐる、人像柱の破片です。そして彼等こそ通行人の中の通行人です。各※(二の字点、1-2-22)の運命のなかに、一人つきりに、打棄つて置かれたままで。人々は彼等から何か印象のやうなものは受けても、せいぜい新奇な動物――必要のために或る特殊な器官、たとへば空腹とか死などの器官の生じた動物――をでも見るやうな、冷靜な、客觀的な好奇心でもつて觀察する位なものです。彼等は、厖大な都會の、どす黒い、不快な感じのする保護色をしてゐるのです。そして彼等を踏みにじつてゆく日々の歩みの下にぢつと我慢をして、まだ何かしらを待つて居なければならないかのやうに、頑強な甲蟲のやうに生き續けてゐるのです。もう腐敗はしてゐるが、まだ生きてゐる、大きな魚の切り身のやうにぴくぴく動きながら。彼等は生きてゐるのです、本當に取るにも足らないもので。彼等の表面に附着してゐる塵や、煤や、泥だとか、犬の齒からこぼれ落ちたものだとか、何に使ふつもりだかも分らずに買つた、無意味な、壞れものなどで、生きてゐるのでした。おお、何といふ世界でせう! カケラ、人間のカケラ、動物の一片、嘗つて在りしものの殘骸のやうなもの、これらすべてのものは、なほも動きつつあるのです。無氣味な風に吹き煽られて、入りまじりにくるくる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らせられ、そしてそれから墜落し、しかも墜落しながら、また向きを變へて行きながら。
 彼女の重い籠を壁の突き出たところに置いて憩うてゐる老婆もありました(ほんたうに小さな老婆で、彼女の眼は沼のやうに干上つてゐました)。そして彼女がその籠を再び取り上げようとした途端、彼女の袖からは、長い錆びた鉤が、手の代りに、のろのろと、ややつこしい風に出てきて、そして籠の柄の上に、眞直に、そして正確に向つて行きました。それからまた古いナイト・テエブルの抽出を手にして、歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りながら、それを誰にでも差しつけてゐる老婆もありました。その抽出の中には、二十ばかりの錆びた針がころがつてゐましたが、彼女はそれを賣らなければならないのでした。――或る夕方(それは秋の末でした)、とある飾り窓に見入つてゐた私の傍に、一人の小さな老婆が寄つて來ました。彼女はぢつとしてゐました。私は彼女も、私と同じやうに、其處に竝べてある品物を見入つてゐるのだと思つてゐました。で、私は彼女にはあまり注意しませんでした。が、突然、彼女が私の眞近にゐることが妙に氣になつて來ました、何故とも知らず、私はいきなり、彼女の奇妙に重ね合はされた、擦り切れた手へ目をやりました。すると、その兩手の中からは、古い、長い、細い鉛筆が、實にのろのろと、出かかつてゐるのでした。それは少しづつ大きくなつてきました。その鉛筆が、すつかり現れて、その慘めな姿をさらけだすまで、まだなかなか時間がかかることでせう。私は、この情景のなかで何がこんなにも自分をぞつとさせてゐるのか、知りませんでした。が、それは恰かも、私の目の前で、一つの運命が、長い運命が、その傷ましいカタストロフが(その鉛筆が止まつて、その悲しげな、空虚な手の上にかすかに顫へながら凸出する瞬間まで、高まつてゆくところの)、演ぜられてでもゐるかのやうでした。私は遂に、その鉛筆を買はなければならないことが分りました。
 そしてそれから、一八八〇年代の天鵞絨の長い外套をきて、使ひ古しの帽子の上に造花の薔薇をつけ(その帽子の下からは毛髮の束がはみ出してゐました)、足早に人々の間を通り拔けてゆく老婆たちもありました。これらの人々は、男でも女でも、皆、或る過渡期に面してゐるらしいのですね。その或者は精神錯亂から恢復への途にあり、また、或者は狂氣への途にあるのです。そして誰もかもが、その顏の上にきはめて微妙な或る物を持つてゐます。それは愛とか、知識とか、喜びとかいつたやうなものであり、それは今こそ、ほんの少し暗くなつて、落ちつかなささうにしてゐますが、誰かがちよつと注意をして、その面倒を見てさへやれば、すぐにまた元のやうに明るくなる光のやうなものなのです。……が、彼等を救つてやるものは一人もゐないのです。最初ただびつくりし、恐がりながら、ほんのちよつとばかり途方に暮れてゐるとき、彼等を救つてやるものは一人もゐないのです。自分の讀んでゐるものがよく分らなくなり出してゐる者、まだ我々と同じ世界に住んでゐるのだが、ただ幾分斜かひに歩くので、度々、事物が自分の上にのしかかつてくるやうな氣のしてゐる者、ちつとも町を知らないので、果てしのない、意地惡な森の中のやうに、その中でまごまごしてゐる者、毎日毎日が苦痛である者、喧噪のなかで自分の意志を聞きとれずにゐる者、苦悶に壓しつぶされてゐる者、――この大きな都會のなかで、誰一人、さういふ者どもを救つてやらうとはしないのでせうか?
 こんなに急ぎ足に町を通り過ぎてゆく、彼等は一體何處へ行かうとしてゐるのか知ら? 彼等は寢るときは、何處に寢るのか知ら? そして寢られないときには、彼等のもの悲しげな眼の前を、一體どんなものが通り過ぎるのか知ら? 一日中公園に坐りこんでゐるとき、彼等はどんなことを考へてゐるのか知ら? よつぽど遠くからでも一緒になりに來たかのやうな兩手の中に、顏を突込んで。そして彼等の脣が合はさり、もぐもぐ動くとき、一體、どんなことをひとりごちてゐるのか知ら? 彼等はまだ本當の言葉を綴つてゐるのか知ら? 彼等が口にしてゐるのは、まだ普通の文句なのか、それともまた、火事になつた劇場から、見物人も俳優も、聽衆も立役者も、何もかも一しよくたになつて飛び出してくるやうに、何もかもがごつちやになつて彼等の口から出てくるのでせうか? 彼等が亡びた少年時であることを、そして又、衰へた力であり、崩壞した愛であることを、誰一人思はないのでせうか?
 おお、ルウよ、私は毎日毎日こんな風に自分を苦しめてゐたのです。何故なら、私はそれらの人々を理解してゐたからです。そしていかに私が彼等のまはりに大きな弧を描いて居ようとも、彼等は私にはどんな祕密をも有たうとしないのでした。それは私自身から私を引き裂いて、彼等の生のなかへ入り込ませずにはおかないのでした。彼等の生のすべて、彼等の重苦しい生のすべてを通して。……これらの打ち棄てられた人々の笑ひくらゐ、みじめな笑ひはありませぬ。彼等が笑ふ時には、それは彼等の中で何かが墜落したやうな音を立てます、何かが墜落し、碎け、そして彼等をその破片で一ぱいにしてしまふやうな。……或る日のこと(それはかなり早朝でした)、私は國立圖書館へ行かうと思つて、サン・ミッシェル通りを歩いて居りました。私は一日の大部分をその圖書館で過ごす習慣になつてゐたのです。私は歩きながら、朝が、新しい日の第一歩が、こんな都會でさへも、新鮮と快活と元氣とを隅々まで行き渡らせてゐる、すべてのものを愉しんで居りました。車輪の赤い色までが、花瓣の上のやうに冷たくしつとりとしてゐて、私を愉しませてゐました。それから町のはづれを、誰かが明るい緑色のものを運んでゆくのも、私を愉しませました、――それが一體何であるのやら、私には分りませんでしたけれど。撒水車がゆつくりと登つてきました。その管からは水が若々しく明るく噴出してゐました。そして、まぶしいほど光つてゐる道路を、いい具合に暗くしてゐました。きらびやかな馬具をつけた馬が何頭も疾走し去りました。そしてその蹄は千のハンマアのやうな音を立てました。物賣りの叫び聲はいろいろに變りました。はじめは輕く昇つて來ますが、そのうちだんだん高くなつて來るのでした。そして野菜類は、手押車の上にまるで小さな畑のやうに進んで來るのでした。そして彼等の上には、獨特な、自由な朝があり、そして彼等の中には、闇と緑色と露とがあるのでした。そして一瞬間、それらの物音が途絶えてひつそりとすると、私の頭上の何處かで、窓を開けるらしい音がするのでした。……
 そのうちに私の方に向つて歩いてくる人々の異常な擧動が、突然、私の目に止まりました。その大部分は、後ろを振り向き振り向き、こちらへやつて來るのでした。そのため私は彼等に衝突しないやうに氣をつけてゐなければなりませんでした。中には、その場に立ち止つたままでゐる者もありました。私はそれらの者の視線を追ひながら、私の前に行く人々の間に、一人の痩せた、黒いなりをした男を認めることが出來ました。その男は歩き續けながら、兩手でもつて、いくら下げてもすぐに立つてしまふ、いかにも氣持の惡さうな外套の襟を下ろさうと努力してゐました。その努力は明らかに彼を夢中にさせてゐるやうでした。そのため、彼は屡※(二の字点、1-2-22)、足もとに氣をつけるのを忘れてしまふと見え、何か小さな障碍物でもあると、それに躓いたり、あわててそれを跳び越したりするのでした。ごく僅かな間に、何度となく、そんなことが繰り返されると、彼はやつと道路の方に注意を向けました。が、可笑しなことには、それにも拘らず、又二三歩すると、彼は躓き、そして何かの上を跳びはねるのでした。私は知らず識らず足を早めました。そしてその男のすぐ背後にまで近づき、始めて、彼のさういふ足の運動が平坦な歩道とは何の關係もないこと、そして彼が躓く度毎に、あたりをきよろきよろ見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して、何か邪魔物を見咎めるやうなふりをするのは、ただ彼とすれちがふ人々を胡麻化すための手段にしか過ぎぬことを知り得ました。實際はそんな邪魔物などは何もないのでした。そのうちに、彼の歩き方の不器用さは、緩和し、そして今度はさつさと歩いて行きました。そして暫くの間は誰の目にも止まらずにゐました。が、不意に、彼の肩の上に再び不安が襲ひかかり、その肩を二度ばかり持ち上がらせ、それからそれを落させました。そのため彼の肩は、妙にねぢくれました。
 その間も彼は歩き續けてゐるのです。が、私はその時、彼の左手が言ひやうのないくらゐ素早く外套の襟の方へ走つて、それをこつそりと掴み、そしてそれを立て、それから非常に細心に、兩手でもつて、その襟を下ろさうとするのを見かけて、どんなに驚いたことでせう。――それは最初の時と全く同じくらゐに、やりにくさうな手つきでした。それと同時に、彼は前へのめつたり、左へのめつたり、その上またシャツの襟までが彼を苦しめ出したかのやうに、といつて、高くさし伸べてゐる手はまだなかなかその仕事をすませさうもないかのやうに、自分の頸を何度となく伸ばしたり縮めたりしてゐました。が、とうとう、すべては再びきちんとなつたかのやうでした。彼は約十歩許り誰にも見られずに行きました。突然、肩の上下が再び始まりました。と同時に、カッフェの店先を掃除してゐた、一人の給仕は、手を休めながら、物珍らしさうに、身體を不意にゆすぶり、立ち止まり、それからぴよんぴよん跳びながら、再び歩き出してゆくその通行人を眺めました。その給仕は笑ひ出し、そして店の内へ何やら叫びました。すると顏が二つ三つ、窓硝子の向うに現れました。が、そのうちにその見知らぬ男は、ステッキの丸く曲つた握りを彼の襟のうしろに引つかけ、そして歩き續けたまま、それを自分の背骨の眞上に、垂直に、押しつけました。それは人目につくやうなものではありませんでした。そして、それは彼をぢつと支へて居りました。この新しい動作は、その男を非常に落着かせたものか、彼は一瞬間全く輕快さうに歩いてゆきました。誰ももう彼には注意しませんでした。が、私は、一秒間と雖ももう彼から目を離すことの出來なくなつてゐた私は、しかし、少しづつまた不安が立ち戻つて來、それがだんだんに強まり、あちこちに現れようとしかけ、それが肩を搖すぶり、彼の均衡を失はせようとして頭にしがみつき、それから思ひがけずに足もとを襲つて、その歩調を亂し出すのを、逐一知つてゐました。勿論、誰もまだそれには氣がついては居りませぬ。ほんの短い間それもごく僅か殆どこつそりと行はれてゐたのです。が、そらもう其處に見えてゐます。目立ちかかつてゐます。私は、この男全體がいかに不安で充たされてゐるか、もう胡麻化しの利かなくなつたその不安が、いよいよ増大し、高まりつつあるかを感じました。そして私は、彼の意志、彼の苦痛、そして千の舞踏への衝動でむずむずしてゐる、その頼りない肉體の一部にそれをしてしまはうかとしてゐるかのやうに、そのステッキをしつかと自分の背骨に壓しつけてゐる、彼の痙攣しがちな手の絶望的な動作をも、見拔いたのでした。そして私は、いかにしてそのステッキが、多くのものがそれに系つてゐる、或る根元的なものとなつたかを經驗しました。その男のすべての力、すべての意志が、そのステッキの中にはひり、そしてそれを一つの力、一つの實在(恐らくそれには彼を救ふ力もありましたでせうし、また病人は強い信念をもつてそれを頼りにしてゐたのです)にまで高めて行きつつあつたのでした。此處にこそ神が生れつつありました。一つの世界が彼に對抗して立ち上りつつありました。そして、かかる爭鬪の行はれてゐる間も、それを身うちに運びながら、その男は歩き續けようと努力してゐました。暫らく彼はいかにも心地よげに、そして苦がなささうに裝ふのに成功してゐました。今、彼はサン・ミッシェル廣場を通り過ぎました。そして非常に混雜してゐる馬車や歩行者を避けなければならぬことが、彼に異樣な運動への口實を與へてゐたのに拘はらず、彼は全く平靜にしてゐました。そして橋の歩道にさしかかつた時分には、彼の全身には奇異な、硬直した靜けささへ見られました。私はその時、彼のすぐ背後にまで近よつてゐました。もう自分のとは分ちがたくなつてしまつてゐる、彼の苦惱に引きずられるがままになりながら。――突然、橋の眞ん中で、ステッキが弛みました。男は立ち止まりました。異樣にぢつと、險しい姿勢で突立つたまま、そして身動きもしないで。彼はもう、すつかり諦めて待つてゐるのでした。が、彼の中の敵はそんな降伏を信じないやうでした。それは躊躇してゐました。――無論、それはほんの一瞬間でした。それからそいつは火事のやうに、あらゆる窓から一時に爆發しました。異樣な舞踏が始まつたのでした。……そのまはりにすぐさま形づくられた、人々の厚い圈が、私を次第にうしろへ押しやり、私にはもはや何も見えなくなりました。私の膝は顫へ出しました。そして何もかもが私から拔け出して行つてしまひました。私は一瞬間、橋の欄干によりかかりながら、立つてゐました。それからやつとこさ私は自分の部屋に歸つて來ました。こんなとき圖書館に行つたつて何になりませう。いま私の中にあるものを越えて私を進ませるほど充分に強い本なんぞが一體あるでせうか? 私はすつかり空虚になつたやうに感じました。他人の苦惱が私から糧をとり、そして私をへとへとに疲れさせてしまつたかのやうに。……

二 妻クララに


一九〇二年九月十一日、巴里トゥリエ街十一番地
 ……私は一日中、ムウドンの庭の中の、靜かな場所に坐つてゐました。廣びろと打ちひらけてゐる遠景を目前にしながら。私は自分の傍らに、雜誌で一ぱいになつた箱を持ち出し、そしてロダンに關する、印のついてゐる箇處を讀んでゐました。ロダンがこれらのすべての資料を一まとめにして置いたのです。が、「ラ・プリュウム」の中に集められてある以外の、そしてより以上のものは、遂に一つも見出されませんでした。私達は中食を一緒に取りました。そしてその後で、他の人達が立ち上つてしまつてから、私達は一時間許り眞面目な話をしました。ロダンが語り、答へ、意見を述べてゐる間は、不思議なくらゐ私の心も落ち着くのでした。何といふ驚くべき均衡! 何といふ言葉の正確さ! そしてその言葉が全く孤立するやうな時ですら、いささかもそれには曖昧なところも、躊躇ふやうなところもありません。それから私は五時過ぎまで、私の仕事に夢中になつて庭の中にゐました。それから、涼しい、人氣のないムウドンの森に出かけました。私が其處から再び出て來たときには、家々は坂の上にひらめき、緑色の葡萄畑は暗く浪打ち、空は廣びろとして靜けさに充ちてゐました。鐘が鳴りました。と、その音は上方にずんずん押し擴がりながら、狹いヴァル・フルウリィぢゆうに一ぱいになつてしまひました。そして、それは到る處に――どんな石の中にまで、どんな子供の手の中にまで屆きました。何時頃から、私はこれらの田舍だの、空だの、廣がりだのを感じなくなつてゐたのでせうか? あたかも自分が長いこと都會の中か、それとも牢獄の中に暮らしてでもゐたかのやうに。――そこで、私はこれらの事物に對して彼等の孤獨を感謝しました。そしてこの夕暮のすばらしさに、その最も小さな一員として、つつましやかに、物靜かに參與してゐるところの、どんなに小さな木の葉の前にも、私は感動させられました。……私はなほも暫らく、急勾配な屋根のある家々だの、その傍らに聳えてゐる御堂だのを眺めてゐました。其處には、言語を絶したやうな世界が、いつもかかる夕暮のやうな時間ばかりの續いてゐるやうな世界が、領してゐるやうな氣がされました。それから、私は沈んだ氣持で、町の方へ向つて行きました。ああ、何と夏の夕暮は重苦しいことか! なんだかちつとも戸外にゐるやうな氣持がしません。――ものの匂や人の呼吸に包まれて。重たい大地の下になつてゐるかのやうに、ものみなが重苦しく、不安で。私は自分の顏を何度もリュクサンブウル公園の柵に押しつけました。少しでも空間を、靜けさを、月の光を感じようと思つて。――しかし、其處にもまた、同じやうに重苦しい空氣が、花壇の中に無理にぎつしりと詰め込まれた、あんまり多過ぎる花の香りのために、一そう重苦しくなつたやうな空氣があるばかりでした。……この都會は非常に大きいのです、しかもその隅々までがこんなにも悲しみで一ぱいになつてゐて……

三 オオギュスト ロダンに


巴里、一九〇二年九月十一日、トゥリエ街十一番地
 師よ、
 貴方の御好意に甘えて、かくも屡※(二の字点、1-2-22)、貴方にお目にかかることを許して戴いて居りますのにも拘らず、私が貴方にお手紙を差し上げるなんと云ふことは、さだめし御不審に思はれるかも知れませぬ。が、いつも貴方の前では、私は自分の言葉の不完全なことが氣になつてならないのです。それがあたかも、貴方のすぐお傍にゐる時ですら、貴方から自分を引き離してゐる病氣ででもあるかのやうに。
 それ故、自分の部屋に一人きりでゐる時に、私は翌日貴方に言ふべき言葉を一生懸命に用意するのです。が、いよいよその場になりますと、その言葉は生氣がなくなり、その上新しい氣持に襲はれて、私はどういふ風に言ひ現したらいいのか、すつかり分らなくなつてしまふのです。
 ときどき私は佛蘭西語の精神を感ずることがあります。そして或る夕方など、リュクサンブウル公園の中を散歩しながら、私は次のやうな詩句を得ました。これは獨逸語から飜譯したものではなく、そしてどんな拔け道から、こんな形をして、立ち現れたのやら、私には少しも分らないのですが……

Ce sont les jours o※(グレーブアクセント付きU小文字) les fontaines vides
mortes de faim retombent de l'automne,
et on devine de toutes les cloches qui sonnent,
les l※(グレーブアクセント付きE小文字)vres faites des m※(アキュートアクセント付きE小文字)taux timides.

Les capitales sont indiff※(アキュートアクセント付きE小文字)rentes.
Mais les soirs inattendus qui viennent
font dans le parc un cr※(アキュートアクセント付きE小文字)puscule ardent,
et aux canaux avec les eaux si lentes
ils donnent une r※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)ve v※(アキュートアクセント付きE小文字)netienne……
et une solitude aux amants**.

          ※(アステリズム、1-12-94)

 何故、私は貴方にこんな詩句を書いたかと申しますと、これが何も良い詩句であると信じてゐるからではありませぬ。唯、自分を導いてゐて下さる貴方に、自分を近づけたいから許りであります。貴方こそは、この世の中で唯一人の、均衡と力とに充ちながら、御自身の作品とぴつたり調和してゐると自稱し得られる、御方でありませう。そして若しも、その偉大な、すこしも危氣のない作品が、私にとりまして、それに就いてはもはや畏怖と讚美とに溢れた顫へ聲でしか語ることの出來ぬやうな、一つの出來事となつたとしますれば、それらの作品はまた、貴方御自身のやうに、――私の生、私の藝術、私の魂のなかでも最も純粹であるところのすべてのものに對する、一つの御手本ででもあるのであります。
 私が貴方の許に參りましたのは、何も研究をするため許りではありませぬ、――それは、如何に生くべきか? といふことを貴方にお尋ねしようと思つてでありました。そして貴方はそれに對して、「仕事をしながら」とお答へになられた。私にはそれがよく解りました。仕事をすること、それは死なしに生きることであることを、私は感じました。私はいま、感謝と喜びとで一ぱいになつて居ります。何故なら、私はごく若い時分から、仕事以外のものを求めませんでした。そして私は努力いたしました。が、私の仕事は、それを私が非常に愛してゐたがために、いつの間にか、稀有な靈感に起因する、大袈裟な行事、お祭り騷ぎになつてしまひました。そして、徒らに、唯、創造的な時間の來るのを、無限の悲しみをもつて待つてゐるのみ、といつたやうな數週間がありました。それは深淵に充ちた生でありました。私は靈感を喚ぶためのあらゆる人工的な方法を恐ろしげに避けて居りました、私は葡萄酒(ずつと前から嗜んでゐた)も廢するやうになりました、私は自分の生を自然そのものに近づけようと努力いたしました。……が、確かに合理的であつたあらゆる方法の中で、仕事をしながら、遠い靈感を獲得するといふ勇氣だけが私にはありませんでした。いま、私はそれのみが靈感を保つてゐる唯一の方法であることを知り得ました。――そしてそれは、貴方が私に與へて下さつたところの、生と希望との大いなる再生であります。それから私の妻のことを一寸申しますが、實は去年、私達は非常に大きな負債をしてそのため大へん苦しみました。そしてそれはまだすつかり片がついて居りません。が、私はこれからは、自分の休みなき仕事が、そんな貧乏の苦しみをも取り除いてくれることと信じます。私の妻は、私達の小さな小供から離れなければなりませぬ。そしてそのことの必要は、妻も、私が彼女に貴方のおつしやつた「仕事と忍耐と」といふ御言葉を書いてやりましてからは、ずつと平靜に、ずつと正しく考へて居るやうであります。
 私の妻が貴方のお傍に、貴方の偉大な作品のお傍にゐるやうになれば、私はどんなに幸福でありませう。貴方のお傍にさへゐれば誰も道に迷ふやうなことはありませぬ。
 若し自分のやうな者にも、この巴里で、何等かの形式で、パンを得ることが出來ますやうなれば、私はそれをやつて見たいと思ひます。――(それとて私にはほんの僅かしか要りませぬ。)出來れば、私はもつと此處に止まりませう。さもなくて、若し私がうまく行かないやうでしたら、貴方がそのお作品や、そのお言葉や、貴方がその「主」であるところの永遠なお力のすべてでもつて、私を御助力くださつたやうに、私の妻をも御助力くださいますやうに。
 貴方のお庭の沈默のなかに、私が居りましたのは、昨日のことでございます。いま、大都會の物音はずつと遠退いて居ります。そして私の心のまはりには深い沈默が領し、そしてその中には貴方の御言葉が彫像のやうに立つて居るのでございます。
 では、今度の土曜日に。
頓首
貴方の
ライネル マリア リルケ

* 「La Plume」(美術雜誌)は一九〇〇年にロダン號を出した。
** 大意。――「すつかり水の涸れてゐた、空つぽな噴水が再び落ち出す、秋の日々であつた。そして鳴りひびく鐘の音にも、彼等の金屬の脣のいかにも不安さうなのが感ぜられた。けれども、市中はそれには無頓着な樣子をしてゐる。と、突然夕暮がやつて來て、公園のなかには燃えるやうな薄明を生じさせ、ゆるやかに水の漂つてゐる運河にはヴェネチア風の夢を與へ、それから戀人達には孤獨をもたらす……」





底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「四季 第四号・昭和十年二月号」
   1935(昭和10)年1月25日
   「四季 第五号・昭和十年三月号」
   1935(昭和10)年2月20日
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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