ひとくちに慈悲ぶかい人といえば、誰にでもものを遣る人、誰のいうことをも直ぐ聞き入れてやる人、何事も他人の為に辞せない人、こう
然し、原則というのは結局原則であります。ものごとが凡て、原則どおり単純に行って済むのなら世の中は案外やさしいものです。お医者でも原則通りですべて病人が都合よく処理出来るなら、どのお医者でもみな病理学研究室に閉じこもって居れば世話はありません。なにも、面倒な臨床学など習って実地研究の何年間など
本当の慈悲とは、
人の云うことを聞けば宜いと云って人を甘やかすばかりが慈悲ではありません。お砂糖ばかりで煮たお料理は却ってまずい。ひとつまみの塩を入れてたちまち味の調和がとれるではありませんか。時には、いつくしみのなかに味ひとつまみの小言もいれなくては完全な慈悲とはならないでしょう。
愛情ばかりで智慧の判断の伴わない慈悲は往々にしてまた利己主義の慈悲になります。折角、自分は善良な慈悲心でして居るつもりのことが、利己主義の慈悲心になっては残念です。
トルストイの作品のうちにあった例だと思います。何の職業をして居る人だったか忘れましたが、とにかく慈悲を心がけて暮らして居る或る男がありました。或る冬の夜、非常に天候が荒れ(或いは雪の夜だったかもしれません)ました。慈悲深い男は、家外の寒さを思い遣り乍ら室内のストーヴの火に暖を
翌日、その翌日となり雪は晴れ道もよくなりました。ヴァイオリン弾きの老爺はしきりに主人の邸内から辞してまたさすらいの旅に出ようとしました。しかし、主人はきき入れませんでした。何処までも、自分の邸内にとどめて可哀想な乞食音楽師を安楽に暮らさせ様と心掛けました。それにもかかわらず老爺のヴァイオリン弾きはしきりに辞去したがる。するとなおさら主人は引きとめる。ほとんど強制的にひきとめる。
ある夜、主人はヴァイオリン弾きの老爺が、突然無断で邸内から抜け出し、何処とも知らず、逃げ失せたのを知りました。「ああ、彼は、矢張り空飛ぶ鳥であったか。」こう気がついたのは、主人であったか、読者たる私であったか忘れましたが、とにかく利己主義な慈悲の例証にこの話は役立つものです。即ち、主人は、ヴァイオリン弾きの本質を達観し得なかった。彼の放浪的な運命をつくった性格を
それにもかかわらず、主人は自分が慈悲を行って居ることに満足を感じて居たでしょう。自分の「志」を立てることばかり考えて居た主人は、それがために相手が、どんな不自由や迷惑を感じて居るかに気がつかなかったのです。つまり自己満足、利己主義の慈悲とはこういうことなのです。
有がた迷惑の好意についても一つ云えば、某外国に一百六十歳近い長寿者がありました。皇室ではそれをよみせられ、召し上げられて飽衣美食でもてなしました。長寿者はたちまち死にました。粗食故に長寿して居た生命が、美食に遇ってたちまち破損して仕舞ったのだそうです。
要するに本当の慈悲とは、相手の立場や本質を考え、自分の慈善的感情本位でない