病房にたわむ花

岡本かの子




 春は私がともすれば神経衰弱になる季節であります。何となくいらいらと落付おちつかなかったり、黒くだまり込んで、半日も一日も考えこんだりします。桜が、その上へ、薄明の花のとばりをめぐらします。優雅ななごやかな、しかし、やはりうちとざされた重くるしさを感じます。日本の春の桜は人のまゆより上にみな咲きます。そして多くは高々と枝をかざして、そこにもここにもかしこにも人を待ちうけます――時にはあまりうるさく執拗しつように息づまるようななやましさをして桜は私の春の至るところに待ちうけます。こんな神経衰弱者の強迫観念や憂鬱ゆううつ感は桜にとってただ迷惑でありましょう。しかしそれらはかえって私が桜を多くめでるのあまり桜の美観が私の深処にてっし過ぎての反動かもしれません。かりに桜のない春の国を私は想像して見ます、いかに単調でありましょう。あまり単調で気がくるおう(※(感嘆符疑問符、1-8-78))そして日本の桜花の層が、ほどよく、ほどほどにあしらう春のなま温い風手かざては、いたずらに人のおもてにうちつけに触りみだれよう。桜よ、咲け咲け、うるさいまでに咲きてよ。咲き枝垂しだれよかし。
 だが、まだ私は、桜花にいての憂鬱感や強迫観念を語りやめようとするのではありません。
 十年前、私はる出来事のために私の神経の一部分の破綻はたんを招いたことがありました。私の神経がそのために随分いたんでしまいました。その春、私が連れて行かれたその狂院きょういんに咲き満ちてた桜の花のおびただしさ、海か密雲みつうんに対するように始め私は茫漠ぼうばくとして美感にうたれて居るだけでした。が、やがて可憐かれんな精神病患者が遊歩ゆうほするのを認めて一種奇嬌ききょうな美の反映をその満庭まんていの桜から受け始めました。無意味ににやにや笑うもの、天をあおいで合掌がっしょうするもの、襦袢じゅばん一つとなって、脱いだ着物を、うちかえしうちかえしてはながむるもの、髪をといたりたばねたりして小さな手鏡にうつし見るもの、き添いに、おとなしく手をとられて常人のごとく安らかに芝生しばふ等の上をあゆむもの、すべて老若ろうにゃく男女なんにょあわせて十人近い患者のむれが、今しも、病房びょうぼうから昼餉ひるげののちの暫時しばらくここへ遊歩に解放されて居るのだとわかりました。桜花が、しっきりなしにそれらの上へ散りかかります。患者のうちのあるものは、うるさそうにそれを髪から払いのけ、あるものは手を振ってよけました。が多くは、細かい花びらがほおかすめて胸に入っても、一向いっこう無関心でありました。無関心が一層いっそうあわれを誘いました。私は、診察の順番を待つ間――一時間近く――うかうかとその場景じょうけいに見入ってりました。先刻せんこくから、ことに私の眼をひいた一人の四十前後の男の患者がありました。日露戦争の出征しゅっせい軍歌を、くりかえしくりかえし歌っては、庭を巡回じゅんかいしてました、その一回の起点が丁度ちょうど私達の立って見て居る廊下ろうか堅牢けんろう硝子ガラスとびらの前なのです。男は其処そこへ来るごとに直立して、硝子扉ごしの私達を見上げ莞爾かんじとしては挙手きょしゅの礼をしました。私達もだまって素直に礼を返してやりました。男はそれに満足しまた身を返して広い桜庭を円形に歩み出すのでありました。軍歌は、幅の広いバスで、しかもところどころひどくかすれるのです、それは気のふれたひとの声の特長だとあとで聞きましたが、まことに悲痛にきこえました。男は日露戦争中負傷の際に気が狂って以来ずっとここ病房びょうぼうの患者であるそうですが、病状は慢性なかわりに挙措きょそは極めて温和で安全であると聞きました。その可憐かれんな男が、私達の前の一回の起点へ来るたびに、一度は一度より増して桜の花片はなびらを多く身に着けて来るのでした。とりわけ男の頭へ沢山たくさんに散りかかって居る花片の間からところどころ延びた散髪にまじって立つ太い銀色の白髪しらがが午後の春陽に光って見えるのでありました。私はそれを見つけて見る見る憂鬱ゆううつになってしまいました。私にき添って居た者が気がついて私を診察室の方へ連れて這入はいろうとした時に、廊下の突きあたりの中庭を隔てた一棟の病房から、けたたましい狂女のあばれくるう物音が[#ルビの「き」は底本では「きこ」]こえ始めました。茲にもたわわに咲きたわんだ桜の枝の重なる下――その病房の一つの窓が真黒く口を開けてりました。そこからかすかにうかがわれる井の中のような病房の奥に二人三人の人間の着物のそですそかが白くちらちらと動いて見えました……私はあわてて目をらしました。あわてた視線が途惑とまどって、窓辺まどべの桜に逸れました。私はぞっとしました。その桜の色の悽愴せいそうなのに。

 ずっと前のある夜、私は友の家の離れの茶室ちゃしつとまりました。私は夜中にふと目をさましました。戸の外を、桜樹立こだちがぐるりと囲む……桜が……しんしんと咲き静まった桜樹立が真夜中に……むねあっして桜樹立が……桜樹立がしんしんと……私は、ぞっとして夜具やぐをかぶった。
 私はあくる日の朝日がたけて、その部屋のまわりの桜樹立が明るくあたりにかがやくころ目をさました。私の体は夜具の底にかたく丸まり、じっくりと汗になってました。





底本:「愛よ、愛」パサージュ叢書、メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四卷」冬樹社
   1977(昭和52)年5月15日初版第1刷発行
初出:「女性改造」
   1924(大正13)年4月号
※表題は底本では、「病房びょうぼうにたわむ花」となっています。
※「奇嬌ききょう」「しっきりなし」「じっくりと汗に」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
2013年10月5日修正
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