宝永噴火

岡本かの子




 今の世の中に、こういうことに異様な心響を覚え、飽かずその意識の何物たるかに探り入り、呆然自失のような生涯を送りつつあるのは、私一人であろうか。たぶん私一人であろう。しかとそうならば、これは是非書きのこして置き度い。書くことによってせめて、共鳴者を、私のほか一人でも増して置き度い。寂しいが私はこれ以上は望むまい。
 こういう序文が附加えられて、一冊の白隠伝の草稿が無理にわたくしの手許てもとに預けられてある。それは隣のS夫人が書いたものだ。
 夫人は娘時代に禅をすこしやったということだが、今は夫もあり子もあり、幸福な家庭の主婦と見られている。その上、世間にも社交夫人として華々しく打って出ている。
 それはかくとして、この草稿を「何故、自分の手許に置かれないのですか」と私が訊くと、「手許に置いとくとまた釣り込まれそうなので危くて危くて」という。そう言いながらS夫人は時々来て、頁を繰っている。私はしばらく勝手にさせて置いたが、ふと好奇心が湧いて或る日、その草稿を取上げて見た。なるほど不思議に思われる聖者の伝記だ。以下はそれ。

 わたし(S夫人自身のこと)がこの聖者に、憎いほど激しい嫉妬しっとを覚えて、その詮索に附きまとい始めたのは、この自分の部屋で聖者の逸話集を読んだときからだ。その主な章はざっとこうである。
 ――若い聖者は寺の縁へ出てふと、富士を眺めた。寺は東海道原駅に在った。駅から富士は直ぐ眼の前に見える。富士の裾野すそのは眼で視ただけでは両手を拡げる幅にも余った。その幅も、眺めるうちにだんだん失われた。聖者は眼を二つ三つしばだたいた。すると、しずしずと身の周囲に流れるものがあって、それは雲だ。何の触覚を与えない雲は、聖者を周囲から閉じ込めて、とうとう白一色だけが聖者の視覚の奥に感じられた。間もなく聖者は自身の存在感を失って、天地にただ真白く、肉のようにしねしねした質の立方体だけが無窮にはびこっていた。どこからそれを眺めて居るのか、眺めている自身がその白さなのか、はっきり判らぬ。聖者はいぶかって「慧鶴(聖者の法名)!」「慧鶴!」と自分の名を二声、三声呼んだ。すると音もなく飛びすさるものがあって、数歩の前に富士が、くっきり、雪のひだの目を現わしてそびえ立った。それから、聖者はまた、二つ三つ、眼をしばだたくと、聖者の眼に富士はいつも寺の縁から眺められる距離感に戻って、青空に匂った。――
 これを読みながら不幸を私にもたらしたのは聖者が美しい富士と肉体的にも融け合って、天地はただ白い質のしねしねした立方体だけに感じられたというところだった。わたしはこれに読み当ったとき、女だてらに机の角を叩いて「畜生!」と叫んだ。
 いおうようない嫉妬が身を噛み上げて来て私は小頸だけぶるぶると慄わした。大きく身体を慄わすのは、何か意外なことが出来上りそうで怖しかった。それで唇をじっと噛んで我慢しながら先を読んだ。人々は、これを私の性慾の変形だと片付けそうである。しかし、私自身の生理の歴史を顧みるのに、すべて人並に順調だったし、結婚から子供までも産んで居る。そしてもし、人があくまで私のこの心象がその種のものであるとするなら、その人はその次を読んだ私の態度をどう解釈して呉れるのだろう。私は異常な気持を噛み堪えながら、次に聖者白隠が自分の名を呼んで富士を[#「富士を」は底本では「富土を」]数歩退かせるところに来ると同時に、むずりとして、私自身、私の身体からあの巨大の土塊が引離れて行くように感じ、そして電気スタンド越しに事実富士の雪の三角の形をありありと眼底に見たことである。そしてそれが消え失せるまで、前の苦悩に引代え魂も融けるような恍惚こうこつが全身の皮膚の薄皮の下まで匍い廻り、そのうれしさ、晴々しさ、私は涙のさんさんと落ちるに任せていたことである。
 第二の心象を、よし私は人々によって病的神経のなす聯想的幻覚だと指摘せられようとも私に取って、この時ほど私は生れて真実に迫った気持になったためしはないという記憶を打ち消すわけにはゆかない。それだけ慕わしい心験でもあった。もしこの聖者がこういう心験を絶えず持ち続け、或はより以上のものを得たというなら、私に取ってこの聖者は幸福の敵である。なぜならば私の持つ普通の幸福を土灰にし去り、世にあり得べからざる幸福をちらと覗かせて、私の現実生活に対する情熱を中途半端なものにしてしまったからである。その点からも私はこの聖者を、突きとめなければならない。突き止めてこの聖者から、世にもまれな幸福の秘訣ひけつを奪い取るか、でなければ、それが偽物であるのを観破して私の夢を安らかにしい。

 貞享二年十二月二十五日、聖者白隠は駿河するが国駿東郡原駅で生れた。家柄は士筋の百姓であるからインテリの血は多少流れている。時代は徳川将軍綱吉の世で、寵臣柳沢吉保を用い、正道はやや偏頗放縦へんぱほうじゅうに流れかけて来た頃だが、そのようなことは私には関わりがない。ただ生れた聖者は頭が大へん大きい子であったらしく、生れて十二ヶ月以上も経ったのに歩けなかったということは私に耳よりな記録だ。私も女にしては頭が大きい。六七歳から十二三歳までの聖者は物覚えが好くて、腺病質らしく、ときどき無常を感ずるような素振りがある。しかし、これは有名な仏者の幼時には大概ある話で、特に注目すべき事柄でもあるまい。そうかと思えば勇敢で殺生好きで利かぬ気の子供でもあった。そしてまた、宗教的な罪障感なぞに攻められ、時々身も世もあられず悔いて居る。だいぶ性格が複雑である。
 私は、この幼い聖者が、いわゆる「道に志した動機」は甚だ肉体的のものであるのを発見して嬉しくて堪らない。誰だって人間ならそうある筈なのだ。皮膚が救われるなら、筋肉が救われるなら、その外、何を人は望もう。ところで私は岩次郎=これは聖者の幼名=の求道の望みを知ってだいぶこの聖者に対する敵愾心てきがいしんが薄らいで来た。それはこういう事件であった。岩次郎は或る日、村の小屋掛けの芝居を見に行った。外題は「鍋冠り日親」の事蹟を取扱ったものであった。日蓮上人の弟子のこの日親は官憲から改宗を迫られて、これをがえんじなかった。そこで官憲は紅く焼いた鍋を日親の頭に冠せた。日親の頭は焦げた。
 しかし日親は熱さを感じなかった。岩次郎はこれを芝居ごととしないでうらやんだ。そして家へ帰ると数日間一心不乱に経を唱えたうえ、もうこのくらいなら大丈夫だろうと火箸ひばしを焼いて股に当てて見た。股は焼けただれて飛び上るほど痛かった。岩次郎は落胆した。

 岩次郎が、いよいよ肉体的な恐怖に襲われ、専門の僧になって、その解脱げだつはかろうとしたのは十五歳の時だった。今まで、どうしても出家を許さなかった両親も、あまり少年の必死な望みにとうとう我を折った。村の松蔭寺で単嶺という老僧を師匠に頼んで、岩次郎を剃髪ていはつさせた。これに較べて私は十五歳の娘時代は何にも思わなかった。ただ人々が痛みどころがあるとんでその患部に貼る朝顔の葉を何か好もしいものに思い、痛みもないのに額などに貼りつけ、草汁の冷たさを上眼になって味わった。
 岩次郎がいよいよ剃髪して慧鶴という法名を受け、修道僧として出発したときの誓いはこうである。「肉身のまま火も焼くことあたわず、水もおぼらすことの出来ない威力を得るまでは、どんな苦労でも修業は絶対に止めまい」と。こういう決意に私はあまり興味がない。誰だって、生物の肉体に対する自然の気まぐれな浸蝕作用に対し、不損不滅の肉体を持ち度いと希う本能は持って居る筈だけれど、よほど原始人のままでこの本能慾が取り残されているのでなければ、特別にこういう慾を起すものではない。私たちの常識は、こういう望みがこの世の中に在るということに対してすら、ひょっとかすれば真面まとも嘲笑ちょうしょうを浴びせてしまうかも知れない。そういう慾を起すものは莫迦ばかか気狂いだ、こう思う骨折りさえ頭脳に課さないで塀に書かれた変った楽書を見過すような気持で、さっさと自分々々の眼の前の仕事に没頭してしまう。だがこうした原始人的の率直な本能慾が、何千年間の常識に打ち壊されないで、今からたった二百年前の同じ人間に一つの根が遺されていたということは、興味のないことではない。けれども根は根である。その上は常識の厚い層の堆積たいせきはこの稀有けうの人間慧鶴の岩次郎でさえ、自分でこの根の真偽を疑って居る。私はそれを当然だと思う。むかしから人間の中にある大きな慾望のいくつかが、常識の厚い層の堆積に堪えられず、遂に腐り果ててしまったことだろう。私は慧鶴のこの疑いを惜しいことのようにも思う。僅かに残ったたった一人の一つの根ぐらい人類の記念に無事に遺して置いてやってもいいではないか。

 慧鶴の疑いはこういう筋道で来た。
 この若い修道僧は出家の翌年沼津の大聖寺へ移ってそこで修業をしていた。ある日、彼は法華経を人から借りて読んだ。この経は仏教経典の中では王座を占めている経で大乗仏教哲学思想の中枢ちゅうすうになるものだと言われている。それほど宝になっている経典だから昔からこの経には宗教的な神秘性が附与され、中の意味が判らないでも、これを読誦どくじゅし、書き写し、または表題の題名を唱えるだけで現実生活上にさえ功徳くどくがあるものだと信じられて来た。ところがいま、慧鶴が読んでみると、八巻二十八品ある大部のもので、彼の心をいたところは一つも無い。いて求めれば唯有一乗諸法寂滅相という言葉だけであった。これが仏教であるのか。どこに仏教の魅力があるのか。慧鶴は遂に仏教の開発性を疑い出したのだという。
 私も法華経を辛抱しんぼうして読んでみた。なるほど、この経典は不可解のものである。思想とか哲学めいたところは十如是にょぜもんというところただ一個所だけであって、それも、文字で数えれば、たった三十四字のものだ。あとは寓話のようなところ、劇的光景の幕、そういったあまりにこしらえ過ぎた説相を採っていて、直接、無雑作むぞうさに心に訴える性質のものではない。うっかり読んでいれば、迷信的な因縁ばなしや、荒唐無稽なたとえ話の羅列られつにしか感じられない。そして、順序に連絡が欠けている点さえ読む者に苦渋を与える。しかも、この聖典の作者は極力、この経の功徳の広大を説いて受持じゅじ、読誦、解説を勧めている。一体この経は何を指しているのだろう。
 註釈を読んでみればさすがに、一々もっともな理由があり、十如是の文によって支那しなの天台智者大師が天台哲学を組織し、勧持品の文によって日蓮上人のあの超人的な行業が誘発された能力に就いてのおよその見当がつく。けれどもそれは組織立てた学問の概念生活の情熱を喚び起せる性質の人に多く恵むところの種類の聖典なるが故で、白隠(慧鶴の号)のような直観体験から直ぐ生活に利益しようとする素質の人には可なり縁遠いものであったろうと思う。若き白隠=慧鶴がこの聖典に対して、全くの手掛りなく、仏教全般に対しての信憑しんぴょうさえ失ったのは無理もないことである。
 そんなわけで、この若き修道僧は、宗教的解脱の慾望を諦め、消極的ではあるが趣味に生きようと気持を転換さした。十七歳、十八歳、十九歳=人間が肉体的にも精神的にもよしの葉のようなもろくてしかも強い生に対する探求の触手を身体中一ぱいに生やし、夢と迷いに向けて小さい眼を光らし、ねらいばかりつけて、かえって自分は針鼠のように居竦いすくまっている年頃である慧鶴は春、清水へ行き、そこの禅叢の衆寮へ入れてもらって、主に詩文の稽古をした。蔬菜の切口のように、絶え間なくしとしととうるみ出る若者の情緒を、古風な漢字の規則正しい並べ方でこつこつと、きりつもりする仕事は、あわれにも懐かしい気がする。だが、慧鶴はここでも宗教に対する疑いに輪をかける事蹟に出会って、彼は全くの享楽的なニヒリストになった。
 彼はある日、与えられた詩文の題に就いて調べる必要があって、巌頭という偉い禅僧の伝記を読んだ。この僧は唐時代の名僧で、解脱の道に就いては信ずるに足る師父として、日本でも昔から禅の宗門の間で、誰一人、尊敬しないものはなかった。しかし、若い慧鶴ばかりはそれを疑った。この唐の僧は最後に、賊にとらえられ、賊の手によって首を斬られたのだった。この世に於てさえ、こんなむごたらしい災害を避けることが出来ない。どうして死後の生活を指導することが出来ようぞ、もっとも、この僧は首を斬られて死ぬときに、大きな声で「うん」と叫んだら、その声は数里の外まで響いたという奇蹟を伝記者は附け加えているが、そんなことぐらい、生きる上の幸福をも、死後の安穏をも共々、宗教に求めている慧鶴には何の力にもならなかった。むしろ宗教者の負け惜みとさえ受取れた。そして、これほど世間に評判の悟者でさえ、自然や運命に対する自由さはこの程度のものだ。まして自分如き凡人はいくら修業をしたところで所期の幸福は得られそうもない。若い慧鶴は遂に宗教的救済に見切りをつけ、生きているうちはせめて楽しもう、誰でも人生問題に行き悩んだ人が解決から弾ね返されて来て、寒そうにうずくまる境地、そうは決心しても決して長くは落着いていられない薄べり一枚の境地、そこへ彼も腰を据えた。彼が僅かに慰められた「死」に対する諦らめは、次のようなものだった。「どうせ遁れぬ滝の落ち口なら、われも人も手を取り合って落ちて行こうよ」と。
 私は想像する。こう諦らめて周囲を見廻した時ほど、慧鶴の眼に、人間の姿がなつかしく映ったときはあるまい、と。
 慧鶴が十七歳のときは元禄十四年であったから、千代田の殿中で浅野内匠之頭の刃傷があり、その翌年慧鶴十八歳の暮に大石良雄の復讐があった筈である。一方ああ云った公的規模の出来事があり、一方こういう個人的の稀有けうな本能の慾望の問題に悩まされた人間も在ったのだ。

 どうせ宗教で、人間超越の見込みがつかず、享楽本位に気持を入れ換えたのなら、いっそ俗人に立ち還って、心置きなくその目的に身を入れたらよさそうなものだと思うのに、慧鶴はそれもしなかったらしい。美しい詩をつくり、美しい筆蹟を習って思を遣る。肉慾的のものとしては飲酒だけにすべてを籠めてしまったような形跡である。こういう弛緩しかんの状態に在っては、慧鶴青年自身、積極的に情慾の満足にむかわないまでも、他からの異性の誘惑には脆い筈なのだ。慧鶴にその事はなかったのか。是非、調べてみたい。
 ここで、先決問題として、慧鶴その人の風姿容貌はどんなだったというと、かなり特色のある顔付きや骨柄の青年であったらしい。
 慧鶴の最初剃髪した原駅の松蔭寺にのこっている木像や、白隠自身たびたび描いている自画像を見ても、大きく高い峯の鼻で、黒いひとみの大きな眼を持っている。口はややこれらに負けるようだが、厚い唇はきっと結んでいる。骨組みはがっちりしていて、顴骨かんこつが特に秀でている。どうしても人中では目立つ派手な男性的な顔付きであったことが想像される。現実的でエネルギッシュな人体電気を放散させていたに違いあるまいが、一方宗教家に特有で、人間としては欠目かけめのように思われる、あの、こまかい、なやましい、而かもそれ故にこそ魅力があり、いく度繰り返しても疲れを知らない恩愛痴情、恨み、ねたみ、というような普通の人情の触手は生れつき退化し、それによって人ともつれ合うことはとかくに不得手ふえてだったらしい。それ故、そういう部分を目がけて彼と認め合おうとするものには、描ける餅ともかすみの花とも頼りなく、感ぜられたに違いなかったであろうと思う。特に女性にとっては把手とっての無い器かも知れない。
 ちょうど、慧鶴が清水禅叢にいた時分、清水の町に橘屋佐兵衛という呉服屋があった。一人娘があって、その頃の慧鶴とは二つ違いの十七だった。前の年の暮に江戸で行われた赤穂義士の復讐は、当時に在っても世間を震憾させる大事件だった。抜目のない興行師はそれを芝居に仕組んで名古屋を振り出しに地方の町をうって廻った。江戸市中はまだ公儀をはばかって興行を避けていた。芝居はどこでも大入りで、見物の血を湧かせた。
 この芝居が清水にもかかり、そして、たちまち町中の評判となったので、佐兵衛の娘も母に連れられて見物に行っていた。娘は二階に席を取って居た。慧鶴は丁度その真下に居た。
 その前から酔っていた士が二階にいてしきりにくだを巻いていたが、芝居が進んで茶屋場となり、由良之助が酒や女にうつつを抜かす態たらくを見ると、酔った士はそれを義士の首領の反間苦肉の策とは知りながらも、あまりその堕落振りが熱演されるので、我慢が仕切れなくなり、舞台に向って頻りに罵声ばせいを浴びせかけ始めた。それが、しつこくうるさいので、見物のなかでたしなめた者があったのを、相手欲しやの酔いどれ士は、忽ち目くじら立てて立ち上り、つかみかかろうとする。それをなだめる者、よき機会と撲ち伏せて先程からの不愉快の腹癒せをしようとする者、中間に立って取鎮めようとする者、騒ぎは輪を拡げて大きくなった。もとより芝居小屋の建物はにわか作りの仮普請かりぶしんで、その騒動を持ち堪え切れる筈はなく、二階から先にずり落ちた。佐兵衛の娘は、丁度慧鶴の側へ、二階と一緒に落ちて来て、気を失った。その後は場内上を下への大混乱となって芝居はめちゃめちゃとなった。
 慧鶴がどうして、この咄嗟とっさに佐兵衛の娘を抱え出し、畦の草むらで息を吹き返えすよう骨折ってしまったのか慧鶴自身にも、その動機ははっきりしなかった。ただ自分の近くに墜落した女の失心に愕いて反射的にこういう働きをしてしまったと解釈するのが至当ではあるまいか。幸い娘の行衛ゆくえを心配して探しに来た母親や伴の者とめぐり合ったので、慧鶴は無事に娘をそれ等の手に引渡した。そしてこの事件が縁故で、慧鶴は橘屋へ出入りするようになった。
 この話は、白隠の伝記の正史にはない。江戸時代の随筆のうちにある。あまりに昔の型通りな恋愛譚の発端なので、こしらえ話だとする人もあるだろうと思うが、それでもよいと思う。これ以外にはこの聖者に関する恋愛譚は全く見当らないし、私がこの伝記を書く目的は史実の為でなく、この聖者をまさぐって行ってあの神秘とあの神秘に触れた識管が、およそどのようなものであるか、いわば聖者を仮りの道具に使って私は私の中に在る慾望とその満足の仕方とを考えてみたいのが唯一の願いなのだから拵え話なら拵え話を利用して、白隠を掴んで見たい。それはちょうど、数学に於てある計算はわざと虚構な数を設け、置かれた数に加減乗除してみて、所用を達した上は、再びその数を退けるという方法に似たやり方であろう。その方法として私はこの拵え話とも思われるものを使ってみてもいい。兎に角、聖者の心理には一度ぐらい普通の恋愛を関係さしてみて、そこにどんな現象を呈し出すかを試すことは私に於て是非必要なことと思われる。

 慧鶴が橘屋に出入りしているうちに、娘はこの若い修道僧を恋するようになった。この娘は恋の懊悩おうのうの為、この年の翌々年、宝永二年に死んでしまうことになっているが、人間は単に恋のような精神的の苦悩の為に滅多に死ぬものではないと私は思う。それには必ず体質に弱いところがあって、精神的苦悩のほころびをそこに見出すように余儀なくされるのである。それで、橘屋の娘にしたところで生れ付き、金持ちの跡取り娘の脾弱ひよわい体質から、がっちりしたものにすがい本能があって、それが偶然の機会に便りを得て恋となって現われたのであろう。慧鶴は前にいう通り容姿骨柄いかにも立派で頼母たのもし気な青年であった。その点では女性が魅着するに何処といって非の打ち処はない。だが、そう言っても慧鶴に異性が眩惑するような若い肉体の香りの牽引けんいんがあったとも思えない。むしろ旺盛な精神力に慧鶴の肉体の男性的な一部分はスポイルされていたかも知れなかったのだ。一たん求道の志を捨てて享楽にはしってみたものの現実に全面的に惑溺わくできすることが出来なかったのを見ても察せられる。
 橘屋の娘の慧鶴に対する恋は、ただ縋りつきたい、いのちを引立てて貰いたい、一途であった。こういう愛の関係は、むしろ兄妹の情というものに似ているのではなかろうか。しかし、娘は、これを世間にあるならわしの恋と思い込み、心に恥じもし、思い返しもしようとした。それが出来ないことが判って見ると今度は積極的に慧鶴を未来の夫と思い定めることによって良心をなだめた。
 一方、慧鶴の方でも、娘の素振りから、それと察しないわけではなかった。しかし、生れつき性格に屈托のある青年は、ただ、悲しくいじらしいものに、それを感ずるだけであって、娘の情を、どう受け止めて好いのか、取捌とりさばけば好いのか、まるで手足がなかった。そのままに居れば熱く重苦しい負担を覚え、振り放そうとすれば、あとに世にも残酷な焼跡を残しそうで、思い切れなかった。焦慮と反側とに心を噛ましているのが、かえってしまいには冷え冷えとした楽しみになった。
 こういう双方の心の動きが、一つもこれといって形や言葉となって現われずに過ぎた。慧鶴は頼まれた橘屋の祖先の忌日に読経に行き、食事の施しを受けて帰った。娘はこういう青年僧の訪問のときに母と共に挨拶に出て顔を合せるだけだった。それでいて慧鶴も娘もじりじりせて行った。

 こんなことで元禄十六年も暮れ、翌年改元して宝永元年の春になった。慧鶴が清水の土地を思い切り、美濃の檜木の瑞雲寺へ入って馬翁という詩僧に従ったのは、勿論もちろん、娘と得体の判らぬ心理の関係にある、その境地から逃れよう為もあったが、僧でもなく俗でもない身持で、風雅に対してだけ快楽を求める生活が、にわかに不安を増して来たからだった。それはむやみに慧鶴青年の良心にとがめた。救いに絶望してやぶれかぶれに享楽にしがみついて居る自分の姿が浅間しいものに顧みられた。
 腹と頭ばかり大きくって、手足や胸は痩せ細り、腐った死屍の肉に取り付いてむさぼり食っている地獄の図の中の餓鬼がきは、取りも直さず自分に思えた。彼は湯に入ったとき自分の身体をで廻してみて、あまりに地獄の図の予言の形に適中しているのに怖くなった。そう想って来ると自分のぐ後に同じような浅間しい裸形で、頭の上にだけ高い島田まげを載せた橘屋の娘がしきりに何物かを自分に乞い求めて居る姿がまぼろしに浮んで見えた。慧鶴は叫び声をあげて、あわてて浴室から飛び出した。
 一たん、そんな想いに取りつかれ出すと、慧鶴の心は水中へ取り落した皿のように傾き暗い底の方へ沈んで行った。見るもの聞くもの地獄の姿に外ならなくなった。夕ぐれ庫裡くり行燈あんどんの油を取りに行く僧も、薬石と名づけられる夕飯を取り囲んで箸を上げ下げしている衆僧も、饑え渇ける異形のものとしか見えなかった。彼は独居の部屋に閉じ籠り、頭を抱えて身悶みもだえして呻吟うめくより外なかった。それでいながら経巻や仏像の影を見ることには前より一層厭嫌の感情を増した。
 こんなに惨めになった彼を「生」に引止めたものは「死の恐怖」だった。この世でさえすでに、これほど地獄に近い自分である。死後は一層案じられた。たとえ苦痛と恐怖が、堪え難いものであるには違いないとしても、まだそれを感じるはっきりした自己意識の便るものがある。もし、この便りをさえ失った後は、全く忘却の中に悪魔や鬼神のとりことなり、無際限の奈落の底に引きずり込まれて行っても、それを何によって感覚したらよいであろうか。自分に意識しつつ獣に喰い尽されるのは、まだ堪えることも出来る。いつとも知らず相手を判らず茫漠のうちに喰い尽されて失くなることは想像するだに不安の極みだ。自分は飽くまで眼をはり、飽くまで恐れおののく自分を見守って生の岸端に足を踏み堪えなければならない。
 くて、慧鶴は生きる力を求めて、わずかに自分の中にある名望の慾に探り当てた。人に立てられること、人にめそやされること、人にうらやましがられること、こういう慾望が破船に似た慧鶴青年の中にも残っていたことは不思議である。素質と言おうか、本能といおうか、ただただ不思議である。別けて人を押し負かして優れた力により人を見下す快を思うとき慧鶴青年の心は躍った。そしてこういうとき、必ず慧鶴の心に富士の姿が思い出された。富士のような三国一の高名者になろう。富士のように群峯を睥睨へいげいしてそびえ立とう。これまでも慧鶴は何事かに情熱をそそられるとき、其処に幼い時から眼に親しんだ富士の姿が思い浮べられた。しかし、いかに秀麗で完き形をしている大山でも余り、静まり返りあまり落ちつき払って変化のない冷たさがもどかしく思われた。自分はうも緊張して血を沸かしている。だのにあの無生物は永遠の理想をげたとでもいうように、白い雪のひださえ折目正しく取り澄し切っている。彼女はあれで満足なのか、寂しくはないのか。こう富士に問いかけ、疑って見ると、そうばかりでもなさそうである。それは誰にも解されない慾望かも知れない。しかし何等かの方法によって、この死灰の美女に息を吹き返させ自分同様、悩みと苦熱の血を通わしてやり度い。そう思って富士を見ても容易に自分の感情の働きかけに共鳴する様子もなく、むしろ、自分は自分でちゃんと暮らす道があると空嘯そらうそぶいている様子にも見える。慧鶴にはいよいよ征服慾が湧く。世に有り得べからざることも為し得る仙術ということさえある。いかなる修業を求めてもこの山を意のままにして見度い。この不思議な意図も慧鶴青年の胸に蓄えられたまま、人間慾と超人慾とのごちゃごちゃに混った青年慧鶴は、清水と富士をあとに残し、何事かを極める為に美濃ノ国へ旅立ったのである。そして大地はこの時、五百年間の眠りを醒し、一大飛躍をすべく、地下数千尺の処で、着々その準備をすすめつつ在ったのである。

 富士の噴火は、日本に記録の残っているものから調べると、皇紀一四四一年、天応元年が初めで、それから、同一七四三年、永保三年まで約三百年の間に九回の噴火をしている。その度に大小の災害はあって、ひどいのは須走口一合目に在る小富士を噴出させたり、精進湖と西湖は、もと一つの湖であったのを山から溶岩を流して今のように二つの湖に中断したり、富士にも富士山麓の形態にさえ多少の影響を及ぼしている。そして、その噴火と、噴火の期間には或いは噴煙が認められたり、また、全く休止して静まり返った姿となったり、必ずしも同じ姿ではなかった。
 しかし、白河天皇、永保三年の噴火後、約五百年間というものは、すっかり活動をやめてしまい、ただ※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)つむじかぜのようなうす煙が絶頂から煙草をくゆらすように風になびいていたに過ぎなかった。白隠がこどものとき、こどもから青年にまで生い立つあいだ、朝夕、眼に親しんだ富士の姿はこのようなおっとりしたものであった。その煙も段々うすれて行って白隠の慧鶴が清水禅叢にあって人生問題に悩み、神経衰弱になり、現実性の薄い恋愛をし、美濃の馬翁のもとへ奔る時分には、その煙さえ全く絶えてしまっていた。あの巨大な土の堆積もいただきから細いながら一筋の煙の立昇っているうちは、息の洩らし口があるようで、まだ、いくらか楽な気持で眺め渡された。しかしそれが今のように、全く途絶してしまうと、こどものうちから見慣れている眼にはまるで窒息ちっそくしつつある怪物のように思えて、慧鶴には、惨たらしく感じられた。自分そのものが、咽喉のどを詰らされているような気がして、じっとしてはいられなかった。そのくせ、富士自身は取り澄した姿で冷たく人を見下している。何という人の気を焦らさす山だ。慧鶴自身、これも、気力の弱ったわが心身の変調かと思い、何度その苦痛感を払い除けようと努めたか知れないけれど、その効はなかった。自然と自分と何の関わりがあるのだろう。そう苦笑する下から苦しい気持が胸に込み上げて来た。この中のどれが一番、重大な原因であるか判らないほど、ごちゃごちゃのものに追い立てられて彼は清水を急いで離れて行ったのであった。

 美濃の大垣の町から西北に当って、町へは一日のうちに往来出来る里程のところに在る檜木村の瑞雲寺へ来てみると、聞きしにまさる破れ寺で、寄宿して勉強するのは許して呉れたが、台所向きは苦しそうで、待遇は随分ひどかった。それに師匠とたのむ馬翁というのは、学問はあるに違いないが、ひどく癖のある老僧で、美濃の荒れ馬と綽名あだなされるほど人当りが苛酷かこくだった。しかし慧鶴はかねて覚悟のことでもあるし、また、ともすれば清水のことが想い出される腑甲斐ふがいない心を何かの強い刺戟しげきで眼の前の境遇に釘付けにしてもらうことは、むしろ必要とするところでもあったので、むちを嬉ぶ贖罪しょくざい者の気でじっと辛抱して勉強した。そういう事情に促進されて、詩文の技倆はどしどし上達し、寺へ訪ねて来る当時有名な詩人達と百句の連句を作るのに線香二三本の間に出来てしまうほど、短い期間の割には熟練を遂げた。
 だが、この程度に達してみて、うすうす判って来たのは、やっぱり詩文の稽古は自分に取って本筋の欲望ではなさそうだということであった。なるほど、当時有名な詩人と詩を作り合って存在を認められ、また同学の連中をぐんぐん抜いて行って上達する気持は悪い気持でありよう筈はない。快い朗らかさで身も浮く様に覚える時さえある。だがそれが肉体や精神の全部を支え上げて呉れるわけではない。かえってその全部が高く揚れば揚る程取り残された部分の肉体や精神が鉛のように片側に重く残る意識が強くなって、しきりに反省をいる。全くわれを忘れた有頂天うちょうてんにさして呉れない。もし、この分で行けば、自分のなかに高揚する部分と、取り残された部分とが、だんだん峯と谷のような違いを来たして、ついには自分という意識が二つに割れそうな気さえもする。慧鶴青年は詩箋に落す筆を控えて、再び迷い始めた。すると得意になって肩肘張り、なおも世に高名を求めようとする側の自分は取り残して行く未解決の側の自分を努めて忘れ去ろうとし、また未解決の側の重苦しい自分は忘れられて置き去りになるまいと、藻掻もがき、しきりに真面目まじめで憐れな自分を見せつけ見せつけすがりつくのである。自分の中の二つの争いには、ほとほと疲弊困憊ひへいこんぱいした慧鶴青年は、何等か心を転ずるものを求めようとすればそこに、土足で乳のみ児の上をにじって来るような無残な情緒がひらめいて橘屋の娘の顔が浮ぶ。富士の冷く取り澄した姿が憎みを呼ぶ。
 慧鶴は堪らなくなって、ついと立ち上った。一体どこに自分があるのだ。以前のニヒリスチックの気持の時は全く灰のように冷えてしまって、それは神経衰弱的な恐迫観念がときどき槍尖やりさきのように自分を襲って来たが、しかし、最後の落ち着きどころは空虚と見究みきわめがついていたので、まだ自暴自棄じぼうじきの痛快味があった。だが、今度は生きながら人情のあたたかみや、憎みや、征服慾が生れ出て、それがもつれ絡んだままスランプにおちいってしまっただけ始末が悪かった。慧鶴はただふらふらそこらを、歩き廻った。
 ちょうど、夏の初めであった。庭にはかんかん陽があたってせみの声の降るなかにいちはつがちらほら咲いていた。庭に面した客座敷から、狭い縁側へかけて土用の虫干しをするため、一ぱい書物が並べられてあった。客座敷の隣になっている馬翁の書斎には、まだ拡げられない書物も高く並んで列を作っていた。馬翁はこれ等を、人手を借らずに並べ変えるのであったが、例の気まぐれから一日二日、大垣の町へ遊びに出かけて留守るすなので、書物は並べ放しにされていた。
 むっとする黴臭かびくさいにおいをぎ、ぼろぼろの表紙や比較的新しい表紙に陽の当っているのを見下しながら慧鶴は本の間をしばらく歩き廻っていた。するといくらか気が静まって来て、小粒に光りながらゆるんだ綴目の穴から出て本の背の角をってさまよう蠧魚しみ行衛ゆくえに瞳をとらえられ思わずそこへうずくまった。
 蹲まって、まわりの書物を見廻すと、さすがに馬翁の学識の広さが判った。書物の種類は、詩に関するもののほか、儒仏、老山荘百家に亙っていた。見聞の狭い慧鶴青年にはまるで世界の知識の種本があつめられているように思えた。咄嗟とっさに謙虚な気持が湧いて来て、彼は膝に両肘を突いたまま頭の上で掌を合せた。世の中には、まだこれほどの知識があるのだ。この多い知識のなかには、自分のような特異性を持った性癖の人間をも導くに足りる知識が無いとも限らない。世の中に神秘の力があるものならその前にひれ伏そう。もし偶然であるとしても、自分はその偶然を信頼しよう。どうか、これらの書物のなかで、自分の師とするに足りる書物を指図さしずして欲しい。眼はいつの間にか閉ざしていて、心ではしきりにこういう意味のことを祈った。そして眼はつむったまま手を後にさしのべて、指に触った一冊をつかんで来て眼を開けて見た。さすがに胸はときめいた。その本は「禅関策進」であった。
 今日こそこの本は禅を学ぶものの間には中等程度の教科書ぐらいにありふれたものであるが、当時に於ては珍らしい書物の一つであったらしい。慧鶴青年はその場で頁を開けて熱心に読み入った。
 まだ、この書を読まない人の為にちょっと解説すると、この書は仏典や禅書から、いわゆる悟りの為になることや修業者の策励になることが、抜萃ばっすいしてある仏教の金言警句集とでもいったような性質の書物である。
 いま慧鶴青年は、それを読んで行って、かわく人が水を得たように眼を離せなくなった。そして清水禅叢で失ったあの時代離れのした原始的な慾望を再び取り戻した。わけて慧鶴青年を緊く初一念に引戻した書中の事蹟は何かというと慈明和尚おしょう引錐自刺の条であったという。その条はどういうのかといえば慈明という僧が徹夜で座禅工夫中に、しきりに眠気がさして来て堪えられない。そこできりを用意して置いて眠気を催すたびに膝を刺して眼を醒すようにしたという事蹟であった。ここでひょっと、気がつくことは、慧鶴が宗教によって救われ度いと僧になった原因は何かといえば、彼の現実の肉体を苦痛や滅亡から救い度いという慾望からであった。そして彼はその肉体を錐で刺す苦痛によって修道の妨げを除く僧の事蹟に感奮している。これでは、彼の慾望と手段との間に矛盾があるようだが、それは別問題として彼の性格がどこまでも肉体や感覚に即して悩み、求め感じていることは、特色であるらしい。そして肉体の苦しみということを一方ではいとながらまた一方では不思議な魅着を覚える。そのことは慧鶴青年を通して私にもその秘密が判るような気がする。負担と共に希望でもある。不思議な肉体の存在。

「禅関策進」にはこの項目以外にも肉体の自然の要求を退しりぞけて悟りの道に進んだ幾多の事例が載っていた。そして彼等が悟りという意識に達したときには、肉体も精神も絶対の自由を得て、苦悩は跡かたもなくなる様子を確信をもって暗示していた。その状態は慧鶴青年の初一念である生きながらの肉身であり乍ら火も焼くあたわず水もおぼらすことの出来ない「われ」となる事と一つのものか或いは違ったものか、彼にもちょっと見きわめがつき兼ねたが、しかし、自分の初一念に優るとも劣らぬ好もしい状態であることだけはほぼ想像が出来た。そして、それを求めるために、これほど多くの歴史上の人が努力をしている。死をしてまで苦修している。しかもその人々は努力や工夫することについては、あらゆる難儀を重ねているけれど目的の悟りというものの存在については誰一人として疑っていない。この点は慧鶴を非常に気強くもさせた。人に話せば笑われるほど常識を離れた望みではあるが、こうも大勢の連れがある以上、もはや孤独の夢ではない。修業の仕方一つでその人々と同じものか、或いは似ていて自分が衷心ちゅうしん求めている神秘を確に自分の中に持ち来せるのである。周囲は駕籠かごが通り人々は煙草たばこをふかし、茶をのみ乍ら四方山よもやまはなしにふける普通の現実の世界である。この現実の世の中で、自分一人が、仏陀とか神仙とかいわれるものに近い永遠不滅の性質を帯びたものに変質するのである。こんな張り合いのある以上の仕事がまたとこの世にあろうか。慧鶴は軒から座敷一ぱいに音もなくさし入っている夕暮近くの太陽の光線に腕をさし延べ、手を裏にし表にして光をうけ止めてみた。掌の表も裏もまるで黄金のように黄ろく光って眩しかった。それを我慢して見詰めていると目が渋くなって涙が浸み出して来た。慧鶴は「禅関策進」を懐へ入れて部屋へ帰った。

 それから慧鶴の行状はすっかり変った。明けても暮れても座禅に熱中した。眠くなれば事実、膝を錐を刺すようなことをして意識の朦を追い散らした。考えることは悟りということ、不滅の肉身を獲ること、この一途だった。眠りの幕がいつの間にか考えている頭の中を周囲から絞り狭めて行って、考えは暗中ただ一点の吸殻の火のように覚束おぼつかなくなる。そのとき殆ど昏睡こんすい状態の人の手が反射神経で畳の上の錐をふらふら拾い取り手当り次第に、膝を組んでいる脚の部分に突き立てる。白金色の痛みは身体中に拡大し、眠りの幕は放射状の爆破で、一気にどこかへ吹き飛ばされて仕舞う。その後を埋めるものは前の続きの思考状態かというと、それは直ぐに取戻されては来ない。錐を引いたと同時に去って行く痛みの尾のいおうようない甘酸っぱいひりひりした感覚の中に、うっかり閃いて来る心象は橘屋の娘のことでなければ富士の白い姿であった。一週間ほど慧鶴は新しく取り上げた求道の慾望によって竕散の意識感覚を取纏とりまとめることに懸命の努力をし、どうやら思考も継続して追詰めて明けるように慣れて来た。周囲の事物はだんだん慧鶴に対して正体や意味を失って来た。彼は周囲に、ただ芝居の書割の中に往来するぐらいの注意力しか奪われなくなった。生ける人間に対しても同様だった。彼等の存在や彼等との交際には一向興味が無くなって来た。
 自然彼等との応対交渉は冷淡になり、総ての情熱は内部に向っての思惟しいの座に注がれた。それは今まで友達に対して面白くにぎやかで親切であった慧鶴を急に、エゴイストに変ったように見えた。寺には十二人の徒弟が居た。彼等は何れも慧鶴を同僚として愛していた。だけそれだけ彼等は急にそうなった慧鶴に対してひどく反感を持ち始めた。
 ある日慧鶴は井戸端で肌着を洗濯して居た。其処へ飛脚が来て肌着に添えた駿河からの母親の手紙を一本と、ついでとあって橘屋の主人からの手紙一本を慧鶴に届け、水をつるべ桶から飲んで帰って行った。慧鶴は手紙を受取ったとき母親の手紙は肌着を届けたその添状、橘屋のは便りの序の通り一ぺんの問候もんこうのものと合点し、母親のを半分読みさしただけで他の一本の手紙は封もひらかず一緒にたもとへ入れてしまって、なおも洗濯を続けた。彼はすべての動作を機械的に運び心は例の疑問の究明に向って鈍痛を覚えるほど頭の一処は熱く凝らして居た。で、彼は肌着を掛竿で西陽に当てて干し、家の中に戻って朋輩と夕の掃除にかかったときは、手紙の事は全く忘れていた。彼は激しく掃除に立振舞ううち橘屋からの手紙を床に取落したのを朋輩に拾われてもついに気が付かなかったのだった。
 朋輩たちは、彼にないしょでその手紙を開いてみた。それは表面だけ父の字に真似て書いた橘屋の娘からの手紙であった。その文面はこの若い女が全く慧鶴を未来の夫と思い定め、自分を離れて遠く起居している青年僧に向って、しきりに寂しさ恋しさをかこつのであった。しかし、いくらいかに慧鶴が無情の素振りを示そうとも、彼を待ちつつ、いつまでも心に変りはないことを繰り返し繰り返し誓ってあった。そして、娘は自分の態度を説明するのに女のみさおというような決定的の文字さえ使っていた。娘はなお、自分のわずらって居ることを報告して切々情をうったえている。
 二週間前なら朋輩たちは、この手紙を素直に慧鶴に渡してうどんか煎餅せんべいでもおごらせる工夫をするのが頂上だったろうけれど慧鶴に憎しみを持出した此頃の彼等は、彼等にそむいた同僚に一泡吹かす手段にこの手紙を利用した。彼等は評議一決して手紙を無言で師匠の馬翁の手先に差出し、馬翁の裁断によって慧鶴を苦しめる目的を果そうとした。
 馬翁はちょっと意地の悪い笑いをらしたが、ひそかに慧鶴を呼び寄せ娘の手紙を示し乍ら「恋女房とさし向いで、呉服を商うのもまた風雅ではないか」としきりに彼に還俗げんぞくをすすめた。けれども慧鶴は承知しなかった。
 それから間もなく国元から使が来て、彼の母親の死を知らせた。この母は慧鶴が出家することに力を添え、僧になって後も学費など気をつけて送って呉れていた。この母親の死に遇うことは慧鶴にとってはかなり打撃である筈だが、自分の求めるものに一心凝っている彼は今、さしあたり自分の力ではどうしようもないという諦らめがあった。自分が求めているものをつかんだとき、母を失った代りの何かを与えられそうな気がした。それでたいして気持に動揺はなかった。久し振りにあっさりした詩偈を一首作ってほのかに心の隅に波紋を描く悲しみの情を写し現した。それが済むと何か道草を喰ったあとのような焦立たしさで再び座禅思惟に心身を浸した。全く取りかかりの無い空間に向い、疑いそのものとなってわれを忘れ去るのは無限の谷底へ向けて崖から手を放すような不気味さがあった。しかし、思い切ってそれを始めると、超現実的な大気が、音も無い風となって、皮膚の全部を擦過する。そして孤独にも孤独の痛快味がわれとわが空虚のうちを慰め潤おし、それがはずみとなって思索から思索へと累進るいしんするときに、層々の闇の中にときどき神秘なうす明りが待受けていて何か異香らしいものさえ鼻にくんじた。距離感と時間的観念とはいつの間に消滅していて落下か上騰か不明の運動に慧鶴の精神も肉体も支配され、息も詰まるばかりの緊張で宇宙のどこかに放たれ飛んで行った。
 夏の初めから夏安居げあんごに入って、破れ寺の瑞雲寺でも型ばかりの結制を行っていた。むかし釈尊時代に、夏の雨季は旅行も困難だし歩いても道に匍う虫類を踏むと可哀想だというので室内に閉じ籠り定座思惟に耽った。その習慣が伝わって、後世の夏安居になったという。禅が日本へ渡ると共にその風習も伝わって禅寺の主な年中行事の一つになっている。夏の九十日間は雲水達はどこかの寺の道場に宿りを求め静に座禅工夫にいそしむのであった。
 慧鶴も朋輩十二人と一緒に僧堂に入って座禅に努めたが慧鶴はよい便宜とばかりに熱心におきて通り行い澄したが、外の朋輩はそうは行かなかった。橘屋の娘の手紙以来いよいよ慧鶴との間が面白くなくなって来た朋輩たちは今度は積極的に敵対の態度に出て、事の端にも慧鶴の邪魔をした。慧鶴はよく堪えて辛抱したので彼等は張合いが無くなった。そうなると彼等は慧鶴に対する憎しみを馬翁の上に移して、しきりに馬翁に対する不平を云った。慧鶴が橘屋の娘のことで馬翁に呼びつけられたことは確かであるけれど、どう双方の話がついたものか慧鶴の様子は一向変らない。これは馬翁に依怙えこひいきがあるからで、師匠としても許しがたい振舞いである。
 それやこれや平常かんぺきの強い師匠への不平が不平を生んで月も七月に入って安居の終りの日が来たのをよい機会に彼等は暇を取り揃って寺を出て行った。

 慧鶴は寺にたった一人馬翁と一緒に残った。破れ寺ではあるが一通りの勤めはしなければならないし、掃除から台所の支度、それに馬翁の身の廻りの面倒までもみなければならなかった。たまには行乞ぎょうこつにも行かなければならない。折角せっかく思い立った座禅思惟を取られて思うように運ばなくなった。慧鶴はそれでも辛抱した。どうも馬翁という老人の様子をみると朋輩のいったように必ずしもわがままばかりの人物ではなさそうだ。多少誇張して勝手気儘きままをして見せている様子がある。人より一段上の自由なものを老人は得て居るらしくはあるが、そこにゆったりと納り込んで独で楽しんでいられるほどその自由に自信と幅を持っていないらしい。はたの普通平凡な人間を見るとそれ等と自分との距てが際立って痛感され、孤独の寂しみに堪え兼ねるらしい。けれども自分の方から凡俗に降って膝を交えることは、とても出来にくい性分なので、自分の自由をはたにひけらかし、また他を罵詈呵責ばりかしゃくしてはたのものに何等かのショックを与えることの上に人間との交渉を保って行こうと馬翁の無意識が努めるらしい。馬翁が凡人普通に交っているとき、いかにも悲しく退屈そうな顔をして居り、軒昂として自分を立て、周囲を悪罵するときにどんなに満足と親しさを彼の表情の下に隠しているか見れば判る。誰も気付かないがそのときは皮膚の下に熱い愛情のようなものさえ血管にみなぎらしているのである。だがこの老人の人に対する愛情は、人と同じ水準に立っては注ぐことは出来ないので、無理に高く自分を持ち上げて、その位置から獰猛どうもうに流しかけるのである。気の毒な超人の愛。だが、そうかと思えば、老人はまた自分が凡俗と違いのある距離を自分に意識さすためむやみに人をこき下すように云う事もある。こういう時の老人は懸命で残忍だ。慧鶴はこの老人を見た最初から尊敬は出来なかったが決して憎めなかった。詩文の造詣ぞうけいと才は、全く天下一品だったので、その方の世話にだけあずかる積りで止宿を乞うていたのであるが、もはや自分の目的が変った以上寺を出て仕舞ってもよかった。しかし、朋輩も出て行き自分も居なくなったあと寺に残る老人一人を想像すると、背中が寒い気がした。饑人から最後の食を奪って行く気がした。自分一人だけでも老人の叱られ相手に残っていてもやらなければなるまい=そして慧鶴は一人で破れ寺を切り廻した。その気持ちが馬翁にも通じたものか、ある日慧鶴が雨がぽつぽつ降り出した井戸端で屑大根を洗っていると大垣へ遊びに行って帰って来た馬翁がしばらく傍に立って眺めていたが慧鶴の背中を叩いて云った「立つ鳥は勇むのう」これは望みを持つ人間は努力精励するというめた言葉であって、この位でも馬翁が人を褒めた事は無し、また、その語気からこのくらい馬翁が人と親しみを露骨に出してささやいたことも無かった。慧鶴は憐れな気がして、そっと暗涙をそでで押えた。慧鶴は普通な人情よりこういう超人性を帯びた片輪な性情については生れ付きの察しと同情を持っていて、それが随分自分に不利益を持ち来すこともあるので、振切ろうと歯噛みはするがどうにもきっぱり振り切れなかった。
 そうこうするうちはや、忘れ去った橘屋の娘の死消息が、詳しく母親の手紙によって報じ越された。娘は死んだ、娘はしばらく病の床に伏していたが死期を知ると、しずかに慧鶴の名を口誦くちずさみ、頬に微笑のかげさえ浮べながら、そのまま他界の人となった。
 身も心も弱い娘だ。だが男を思い諦らめる一方に心の精力を使い切り、強いて慧鶴に対する自分の慾望を実現しようとも望まなかったらしい。胸に思い溜めた情熱を美しくつちかうことに力一ぱいらしくあった。もし娘がそれを望んで慧鶴と結婚とでもいう事が眼の前に実現したならば彼女はあまりの生々しさに却って眉をひそめたかも知れない。果敢はかない恋であった。それは彼女の本質にむしろ合っていた。ただその果敢ない恋の範囲内で満足した故に死に対しても何の心乱るるところもなく思い詰めたとはいうもののそれを程よい夢に化して夢の美しさに淡く酔いつつ、ほほ笑んでこの世を去って行ったのだ。それ程はっきり批判はつかぬ迄も只そんなけはいを感じてか彼女の母からも、みなあなたのお蔭、私よりも厚くお礼を申します。と彼女の母は手紙に賢く書いて寄越した。
 慧鶴に取っては多少張り合い抜けの感がないでもなかった。娘が恋狂うとか恨み死にとかいうことでもあったら肝に堪える悲痛な嘆きに苦しみはすれ、男として得意のところもあろう。男一ぴき、女の胸中の恋人に幻影化され偶像にされ、病死の往生際おうじょうぎわの念仏代りになる。あまり名誉なことではない。それにつけても普通の人情には縁の薄い自分であることが判る。そうかといって、情から離れ去った光風霽月せいげつの身の上でもない。うすいうすい真綿の毛のような繋縛けいばくがいつも絡みついてたいして堕落だらくへ引き込むという懸念も無い代りに綺麗に吹き払おうと思えばなかなか除きにくい、これが自分の性情の運命である。その意味からは橘屋の娘の恋愛関係も浅くおろかなものとも思えないようになって来て影の薄い女だけに、いじらしさも、また増して来る。こういう女の執念が附かず離れず鳥の毛のように、死んだ後までも軽く、しかし、しつこくいつまでも自分の魂にまつわって来ることを想像すると堪らない気もする。こりゃどうにか解決をつけなければならない。慧鶴は今まで解脱げだつということを、自分の身の上の慾望とのみ考えて来たが、今は死んだ果敢い女の魂の為にもその事が必要のように思われて来た。なぜならば、自分の性情に何等かの隙がある故にこそ、彼女に自分を偶像として恋を夢みさす便りを与え、そして彼女は未来永劫にこの果敢い虹の糸をまさぐりながら偽りの悦びに転々して生死を繰返さねばならないのであろう。自分が解脱することはこのきずなを断ち切って彼女を夢より醒すことでもある。そして共に真実自由な涅槃ねはん海に落着けるのである。今のままでは彼女も偶像を相手の夢の美しさにいつまでも中途半端な生死を繰返すことであろうと同時に自分とても似たり寄ったりの迷悟不明の境地に彷徨さまよわねばならない。これはどうしても決心を新にして少しでも繋縛の気のあるところは早速さっそくに避け退き、ひたすら求道ぐどうの一途に奔らねばならない。そこへ気が付けば馬翁に対する憐愍れんびんも十分、自分の繋縛の一つでないことはない。かくて慧鶴は思い切って馬翁に暇を告げ桜の頃檜木村をあとにして、雲水の旅に出かけた。

 まず、美濃の国中で評判の寺々を歴訪して師家と名の付く老僧たちに会い、疑いのあることは問い、修業の方針を教えられたりしたが、どれもに落ちるものはなかった。中にはただ座禅して無心になっているその生活中に解脱げだつや安楽があるのだと説くものもあった。そしてこの種の禅が随分処々に流行はやっていた。慧鶴はそれでは満足しなかった。てのひらに載せた真桑瓜まくわうりのその色を見、その重さを感ずるようにわが五感の感覚や意識で明白に解脱の正体を見きわめなければ安心出来なかった。この肉体さえも仏陀ぶっだと等しき不生不滅の性質や働きを得なければ究竟くっきょうとは考えられなかった。
 つまり初一念の希望の通りに還ったのである。そしてこの慾望を飾りなく訴えると老僧たちは黙ってしまうか、馬鹿にして笑うかの外答えなかった。慧鶴は時に落胆したり、時に怒ったりしたが、しかし、結局は現実の老僧たちの態度よりも馬翁のもとの虫干で拾った「禅関策進」の中に書いてある文字上の歴史の人々の事蹟言行を信じた。解脱の正体はすべて象徴的な言葉をもって述べられてはいるに違いないが、しかし体験としては歴々としてつかんでいるもののあることはどの人の上にもほぼ推測が出来た。慧鶴も多少修業を積んだお蔭で、そのくらいの推測は出来るようになった。この目準があるものだから、いくら老僧たちが嘲笑的な態度を執ろうとも最後には彼等の胡散うさんの誘惑からまぬがれて初一念が求むる方向へと一人とぼとぼ思念を探り入れて行った。かくて彼は求道の旅の範囲をだんだんに拡大して行って翌年宝永三年には若狭の国までも足を伸ばし、それから四国へも渡って松山の寺に止宿を頼んだりした。もっともこの松山入りは学費の関係からでもあった。彼に僧として修業の費用を送っていたのは彼の母であったから母亡き後はとかく学費にこと欠いて来た。そこへ伊予の松山の城下は富裕の評判高く行乞に便利であるところからしばらくそれを便って落着いたわけである。
 ある日、慧鶴は在家の法事によばれて行き、役目をしまったあと、その家の珍蔵の大愚和尚の書軸を見せられた。文字は、うまいともまずいとも批評に上せられぬような法外な字であった。しかし、その形のままでいうにいわれない生命の力がとおったところが感じられた。果して解脱はあるものである。そしてこれを掴んだものは、もう人工的の美醜良否は没交渉となるのであろう。そう感じた慧鶴は寺へ戻ると今まで、まだ未練で伴い携えて歩いていた趣味的のもの、教訓的のものそれ等の所持品を卵塔場へ持出してみんな焼いてしまった。そしてただ裸一箇の自分となり独力、座禅思惟の一法によってかの解脱を掴むか掴まえぬか、面と向った真剣の勝負に驀地まっしぐらに突き進むこととなった。

 明けて宝永四年、慧鶴は二十三歳となった。その道に入り切って右往左往していると妙なもので彼も雲水社会に多少名を知られるような一人となった。変った修業者、愚直に見える修業者、だが、どこか真面目まじめなところもある。そういった評判だった。そして引立てて呉れる先輩も出来、引廻して貰おうとする後輩も出来て来た。
 同輩ぐらいの年期の雲水は彼を信じられる頼母たのもしい友人と認めてれになることを好んだ。しかし、彼は、どんなに多くの仲間と伍しているときでも心は孤独だった。むしろ、そういうときほど自分が取付かれている世にも不思議な神秘に対するあこがれが非常識に目立って自分を片輪もののように感じさした。さればといって彼等と同じ程度の慾望や生活に歩調を合わすことは出来なかった。それは穏健無事には違いないが自分には何の魅力も持ち来さない。当時普通に禅でいうところの虚空的な心の自由が得られて、日々これ好日の生涯を経るという程度の幸福なら、格別欲しくもなかった。あきらめさえすればよかった。彼からみるとその程度の幸福を望んでいる雲水たちは苧殻おがらの屑のように思えた。人間ではなかった。それに引較べて自分の中にこもっている慾望は烈々として火の玉のように燃えていた。この肉体を天地にたたきつけて、天地を自分の命令通り動かせる自分の肉体とするまでは思い絶たない望みであるのだ。天地と自分と一枚の肉体となって、そこに金剛不壊こんごうふえの自己を打ち樹てる。そこまで行かねば刃を退かない勝負の修業だった。けれども、そんなことを言っても誰一人判って呉れるものはないのだから彼はただ、ときどき顔を背けて苦笑するだけで、縁あれば道伴れとなり縁なければ別れて一人となる機会のあやつるままに任せ、自分だけは切れそうになる思惟の糸を継ぎ継ぎ一向きにかの神秘の把握はあくに探り入った。
 そういう状態で彼は友に招かれたり、また伴れに誘われたりして備後びんごから播州ばんしゅうの寺々をあさり歩いた。彼は体力が強いので、疲れた伴れの三人分の荷物を一人で引受けたりした。そういう歩行中でも彼の思索に探り入る習慣は立派な鍛錬たんれんとなって、決してわきの刺戟しげきによって思索の軌道を踏み外すようなことはなかった。環境と無関心のその有様は自分がただ一ところに足を踏み交わしているだけで、街道筋の民家が却って並木と共に西へ西へと歩いて行くと思われたほどだった。
 兵庫から船へ乗った。彼は思索に思い入りながらすぐ寝てしまった。颶風ぐふうが襲って来た。今は船もくつがえるほどの大荒になって来た。船客も船頭も最早もは奇蹟きせきの力を頼まねばならぬ羽目になってもとどりを切って仏神に祈った。船は漸く港についた。そこで気の付いたことは船客中一人、慧鶴だけが騒ぎを知らずにまだ眠りつづけて大いびきを掻いていたことだ。まわりの者はあきれて怒った。しかし慧鶴は、すべてに関らず、眼が覚めると同時に眠中の無意識へ織り入れた思索の糸を再び覚めた意識の軌道上に取出して、また糸口を繋いだ。
 何となく故郷の富士が気がかりになる数日が続いた。それに引付けられて、彼はそろそろ帰り途の方向に旅路を拾うようになった。伊勢へ来たときにある雲水から馬翁が重病にかかってしかも介抱するものが一人もいないという話を聞込んだ。慧鶴は舌打ちした。あの超人の出来損い、またしても自分の弱い性情に附込んで繋縛けいばくとなるのか。そうは思ったが、彼はやっぱり急に道筋を変え、美濃の檜木へ行った。彼は無言で馬翁の看護をした。馬翁は相変らず傲岸不屈な顔をして彼の介抱を受けた。しかし慧鶴が来てからぽつぽつ勢いがつき三月ほどのうちに病気はすっかりなおった。慧鶴は漸くあわただしい心のおもむくままに驀地まっしぐらに故郷へ帰った。秋の十月に諸国に地震があり、故郷の駿河も相当ひどかったということは彼の帰心をいやが上にもそそったのであった。
 彼は一先ず師匠の寺の松蔭寺へ落着いた。師匠の単嶺は清水禅叢にいる時分に歿くなって、今は兄弟子の透鱗が寺を守っていた。寺は地震で壊れた個所に手入れをしていた。寺の縁からは相変らず大きい富士が畑と愛鷹山越しに眺められた。しばらく振りに見る秋の富士は美しく気高いものには違いなかったが何となく不安な様子が漂っていた。慧鶴は、それは自分の主観のわずらいが向うに映ってそう見えるのではあるまいかといぶかった。しかしその不安にはまた不思議に情熱の籠ったものがあった。籠ったというよりは憤ろしく鬱積しているという感じだった。慧鶴は強いてそれを押え、富士の姿に向って寺の縁で座禅に努めた。
 慧鶴が国を出てから十年近くにもなって帰って来たというので親戚や知り合のものは珍らしがって訪ねて来た。慧鶴は何を問われても「うんうん」と返事をするだけなので、みんなは気狂いか莫迦ばかになったものと思い、呆れて帰って行った。慧鶴は折角、寝ても覚めても思索一途にはまり込めるようになった心境の鍛錬を俗人との世間咄せけんばなしに乱されてしまうのは惜しくて堪らなかった。それと、近頃、精力に似て、それでもない鬱積の塊のようなものが心身をち切らしそうに膨脹して来て、愉快とも苦痛とも言えない気持は、とても尋常の談話などしていられる時期ではないように思われた。
 月を越して十一月になった。その間にも大小の地震が繰返された。九日の夜の冴えた空に煌々と照り渡る半月を浴びて慧鶴は相変らず寺の縁で坐禅をしていた。もう真夜中過ぎであった。富士は一きわ白くぬきん出て現実のものとは思われなかった。慧鶴はすこし夢心地になって思索の筋道を奥歯できっと噛み押えながら意識をとろりとさせていると、地響きのようなものが聞えて来た。慧鶴はうっすり半眼を開いてみると黒い塊が列になって富士の方角から寺の前の畑の中を通って沼津の方角へ続いている。それは長い黒幕を地上に敷いたようであった。慧鶴が何だろうと思って意識を稍々やや恢復さすにつれ、それは河の流れのようにざわざわ浪立って見える。そして慧鶴がはっきり意識を取り戻したときに黒い河の流れは無数の小さい塊が走り動いているのであって、その塊の数が数限りもないためただ一幅の幕の布にも見えたのである。なお慧鶴が気をつけて見ると、走り動いている小塊はことごとく動物であって野猿と覚しきもの、山犬と思しきもの、鹿の群と思しきもの、種々雑多である。それが淀みなく東へ東へと走り続けるのである。そうは認めたものの慧鶴は一向驚くこともなかった。むしろ当然、そうするのがよいのだという気がしてただ黙って目送していた。やがて三十分も経ったであろうか。獣の行列は遂にきた。そして一番しまいに殿しんがりだとでもいうように大きな熊が一疋、無恰好な形をしてのそのそ列を追って行った。それは可笑おかしかった。あとは、富士山麓の夜半の景色は、一層静まり返り、冴えた月の光が寒さと共に大地へ音もなく浸み徹るだけであった。慧鶴はしっかりして来て意識を腹の底に据えて鶏の鳴くまで深い思惟に入った。

 ゆうべは妙な地響きがしたと駅の人々がちらほら噂し合っている十日の朝から、今までにない激しい地震と一緒に富士の山麓の方に当って何処という個所は判らず鳴動の音が聞えて来た。初めは一日に二三度ずつぐらいだったが、日を経るに従ってだんだん度数を増し、二十二日の夜には三十度にも及んだ。その前から用意のいいものは家の外に小屋掛けして寝起きしたり竹藪の中に仮住居をこしらえたりしていたが、もう家の中にいるものはなくなった。ちょっとの用事にも人々は匍って歩いた。翌日の朝の八時頃、車軸のとどろくような音がすると間もなく、富士の裾野の印野村の上の木山と砂山の境のところから、むらむらと太い煙の渦巻が立昇った。同時に雷の落ちる激しい音が聞えた。煙の渦巻は一日続いた。
 夕暮から夜になると、それがすっかり焔に見え、その火焔の渦巻の中にまりの形をした白いものと、火焔よりも光る火の玉とを絶え間なく天へ弾ね上げていた。あたり一面は明るくて昼のようだった。噴き出た火焔の末は黒煙となって東の方へ押し流れて行った。その雲の中にも雷が起って稲妻がしきりに四方に走った。稲妻は火の口より噴上る火焔と連って綾手の網になったりした。手前の小さい愛鷹山が影絵になって輪廓を刻んで見せた。
 十一月十日の朝、地震と共にどこともなく鳴動が聞えて来る時分から、寺の縁に坐禅を組みつつあった慧鶴には、いよいよ只ならぬ気配が感ぜられた。苦しみといえばこんな苦しみはなかった。まるでいのちを支えたものを、すっかり※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取られてしまいそうな絶望的な恐怖だった。鋭い怯えがたびたび来て、あわや叫び声を出しそうだった。しばしば凡情に立返りかけて見栄も外聞もなく四つ匍いになって世界の果まで逃げ出し度くなった。やっと、それを止めたのは激烈な憎みだった。誰がこんなに自分を生涯一度も覚えたことのない卑怯ひきょうな気持にさすのか。何が、自分をこうも情無く圧迫するのか。憎みに力を添えられて辛うじて座禅の形を続けていると収縮した毛穴から干からびた皮膚へ油汗がたらたらと押し出て全身が痛いようだった。激しい地震の時には坐禅の両手を腹の前で重ね合わしていることが出来なくて寺の縁板の左右へ思わず突出して支えたりした。これではならぬと強いて指を組み合せ、動く庭をにらえた。車前草おおばこの間を蟻が右往左往しているのが眼の中に閃めきながら身体は右へ左へと転んだ。そのたびに彼はひじで縁板を弾ねて起上った。
 二十三日の朝、今までにない大音響と共に富士の腰から煙の渦巻が噴き上ったときに、彼は思わず眼を開いてあたりを見廻し、それを見付けると、何事か判らないが少くともこの異変が富士全山に関係あることを直覚した。すると彼の憎みは目当てが出来たので、にわかにそれへ注がれた。憎みは強い怒りとなってかの煙に注がれた。みるみる身体が熱くなって今迄に覚えないたくましい生気が脊髄せきずいを突き上げて来た。おお! 富士が生きていて活気を吐いているのだ。おお! 死灰のようなあの富士が、彼女が! 怒り切ったあとにはこのような讃嘆の気持が彼の考えを支配した。それは何年の間か、その冷静をもって自分を焦らしていた彼女が、その偽りの仮面を捨て、真実を、感情を示して呉れたように思えた。自分の永い間の宿念の力がとうとう彼女の仮面を剥がしたようにも思えた。そう思って来ると雷の音と共に、あのむくむくと噴き上る白と黒の煙は、富士のではない。自分のである。今まで鬱積していた得体の判らぬ心情、それがあの煙となって渦巻き上っているのだ。むずん! ほっ! 何という太く逞しい自分の悪血のほとばしりだ。吐け、吐け。

 慧鶴は何物とも知れぬ情念に狂える如く酔ってしまった。その酔いには濃淡があった。旧十一月の末のことだから、ときどき凍えるような西北の風が来て、あたりを掃いた。それが地震や雷の暇に来るときは寺囲いのはんの木のこずえを鳴らし落葉を縁に吹き上げた。日頃の初冬と変らぬうすら冷い白々しい景色であった。そして向うを眺めると富士は雪の肩をぶるぶるふるわして稲妻入りの黒煙の群におおわれているのだ。それは異状な世界だった。そういうときは慧鶴には人間の自分と噴火しつつある富士とは別物に見えた。そして兼ねて望んでいたように情熱的になった自然の大こぶに対し言おうようない愛といじらしさを覚えるのであった。しかし、たちまちにして世界は変った。豆り網のように大地は揺れ、地上のものはみな鳴り、小径から彼方の村へかけて裂いて投げつけるような女子供の叫び声が挙がる。そして間もなく地軸をじ切るような底気味の悪い大音響が天地を支配して、洪水のように火焔は空に吐きかけるのだ。そのとき慧鶴は、もう自分も富士もない。きやりと閃く青白い恐怖が彼の頭の中にあらゆるものを一めにさらって行ったあとは、超自然のような勢力が天地を縦横無尽に駆け廻る、その勢力に同化してしまって洋々蕩々たる気持になってしまうのだ。ただ吐きに吐く感じ一つになってしまうのだ。このとき彼の顔には泣いてるとも笑っているとも形容し切れない、白痴が酔茸にあたったときのような表情が上っているのであった。
 二十二日の夕方からは闇夜の背景に浮出されて噴火の光景、いよいよ珍らしい不思議な世界を現出した。村も畑も燦々さんさんと輝いた。その輝きはあまりに鋭いので却って人々を静寂な気持にした。輝きには、そのまま死んでしまいたいような神秘な魅力があった。源の富士の腰の火柱は、とても目映まばゆくて見詰められなかった。強いて見詰めたものは、目を損いながら、火の柱の中に鬼神が珠を掴み上げる腕の形を見たとか、竜が噛み合う姿を見たとか言った。東の夜空に流れて行く煙の雲にも火は映って関東の方に真赤な大陸が生れて浮んでいるように見えた。それに較べて大地の物象はあまりに憐れな小さい姿となった。慧鶴はこんな、さまざまな今までには覚えたことのない気持に飜弄ほんろうされながら坐禅を続けた。続けざるを得なかったのだ。富士と自分は、いま絶体絶命の試錬を受けつつあるのだ。この先、どうなって行くのか、一幕々々が命の底から揺り変える激しい代りであるだけに座は立たれなかった。いのち懸けの興味であった。寺は度々の地震ですっかり損じてしまい、竹籠のようになっていた。住持の透鱗はじめ僅かばかりの寺の人数は裏の竹藪の中に仮小屋を作りうずくまって住んでいた。慧鶴を心配して様子を見に来たり仮小屋へ連れ込もうとした。慧鶴は不愛想に断った。それでもう誰も彼を関いつけるものはなくなった。ただ一人実家の老僕の七兵衛だけがときどき食べものを運んで来た。慧鶴はそれで饑を凌ぎながら胆太く自分と富士の運命を見届けにかかった。七兵衛の話では、この先どうなり行くか、これがこの世の終りかも知れない。そんな噂が立って、この騒ぎの中に酒盛りをして乱痴気騒ぎをしている連中もある。そんな連中は世間憚らず女にからかいかけるので白昼でも女の一人歩きはしなくなった。また金なぞ持っていたとて仕方がないとパッパと使い散らすものがあると同時に、今更銭を受取ってどうなるものかと物を売らなくなったので、物価だけ無闇に高価たかくなったけれども銭は殆んど通用しなくなった。こんな村の話をした。
 慧鶴が真底から決死の覚悟を定めたのは石や灰が降り出したからであった。初めのうちは白灰であった。昼でも濛々として宵闇の膜の中に在るようだった。灰が薄れると太陽が銅色や卵黄色に見えた。その次に石が降って来た。白くて塩の塊のような石だ。そこらじゅうの物に降り当る音は軽いけれどもやっぱり不気味な音だった。寺の縁にもときどき落ちて来た。中に火気が籠っていて、落ちた石が触れる縁板はぷすぷす煙を立てた。枯葉の塵塚に落ちたものからは火の手を挙げた。寺の男共はたらいを冠って水桶を提げて消して廻った。村で二三軒小火ぼやを起した家もあった。草葺くさぶき屋根にも出来るだけ水をいた。須走村では禰宜ねぎの大和家に火の玉が落ち、それから村一統も焼払われたという噂なぞ聞えて来た。
 この災害をこうむって若し死なば富士諸共だ。灰、石の降る中に在って慧鶴の覚悟はだんだんこういう風に神秘化して来た。これほど子供のうちより心の繋りを持つ富士が、自分が死んで、やみやみ後に安泰で残る筈がない。自分が死ぬときは、あの巨大な土塊も潰滅かいめつの時だ。強くそう思えて来た。するとこの富士と自分との関係は二十年という短いものではなく、彼女が噴火を停めて以来の関係のように思われて来た。それは五百年も昔からだ。五百年という永い歳月の間に自然だとて不平不満がない筈はない。その鬱積がいまここに火を噴くのだ。人間だとて同じことだ。この五百年の間に皮相な慾望で塗り籠められた人間の久遠くおんの本能慾が、どうして鬱積せずにいるものぞ。それを担って生れたのが自分なのだ。五百年の自然の不平の犠牲者であるかの富士、五百年の人間の不満の犠牲者である自分。二つのものは結局一つの使命の為めに一致しているように感じられた。久遠の真実、覆い難い慾望、人間として、火も焼く能わず水も溺らすことの出来ない肉身を得ん為めの願いを再びこの現実の天地に取戻さん為めにここに叫び叫ぶもののように思えて来た。自然だとて慾望もある、肉体もある。あのすざましい噴火の焔、あれを見て誰が意志の無いものと思えようぞ。このごうごうとしなう大地、誰が無生物と思えようぞ。それは取りも直さず人間の延長なのだ。人間こそ彼の延長なのだ。そしていま吐きに吐く真実をだ、慾望をだ、苦しみをだ、力をだ。不幸にしてわたし達は稀有けうな望みの為めに、噴火の為めに潰れるかも知れない。だが、それが何だ。五百年間一人も抱かなかった生命の慾望を現身に意識づけたということだけでもわたしたちは幸福じゃないか。潰れて死ね、富士も自分も、他のもののために潰されて死ぬのではない。自分で吐く叫びによってち殺されるのだ。噴火によってわたしたちは死ぬのだ。
 落灰、墜石は二十三日から二十七日まで五日の間、降り続いた。どこを見ても枯色の塵塚ばかりとなった。あたりはすっかり灰色の世界となった。昼間から暗いので灯を点す家もあった。それが墓地の中の線香ほどに見えた。坐を組んでいる慧鶴の前半身も同じ灰色で染められた。困ったのは呼吸をする鼻から灰が入り、しきりに咳が出ることであった。慧鶴は手拭を一重にして鼻の上を巻き、これを防いだ。それでも咳は出た。七兵衛が来ての話では、灰は須走村が一番ひどくて一丈三尺にも及び、それより平地に近い御殿場、仁杉村、東はみくりやから足柄辺は三四尺ということである。誰一人として表へ出るものはない。ただ飛脚が街道筋を灰煙りを蹴上げて規則正しく行き交わすだけだ。灰は江戸まで降り、市中は大騒ぎをしているそうだ。
 二十七日の夜中から煙の出ようが薄くなったように見えた。慧鶴は自分の気のせいかと思ったが、灰の降りも少くなったらしく、そろそろ人が出だして、寺の垣外を通る話声にもそのようなことを話し合っている。慧鶴は油断はすまいと弛む心を引締めているつもりでも、どことなく、やれ安心、早く災難から脱れ度いという気持が湧き出して来た。われながら意気地なしと思いながら、どうしようもなかった。煙は一日一日と薄らいで来て、月を越えた十二月のはじめには僅かばかりの噴上げ方となった。人々はもう大丈夫なのかと恐る恐る住居の掃除なぞに取かかり始めたが八日の晩から、また噴火は激しくなって再び人々を縮み上らした。慧鶴ももう一度覚悟しなければならなくなった。だが、そのときは早や身体も心もへとへとになって、ぼんやりした気持で、ただ成行きに任せるより仕方がないという諦らめだけだった。何となく自分の不運ということだけが感じられて淡い涙が眼瞼を潤おした。夜中頃、困憊こんぱいしてうとうとしかけた慧鶴の耳に火口から東海面へ二度ほど何やら弾ねる音がして、夜目にも火口の火気は急に衰えた。暁方に見ると煙はすっかり止まっていた。人々は今度は本当に安心しかけた声を出して外へ出だすと雪がちらちら降り出して来た。それで折角楽しみにした噴火口の展望も探り見ることが出来なくなった。けれども煙が止まったと同時に降り出した雪には何かしら善兆らしい感じが受取られた。晦冥かいめいの天地にはじめて純白の色を見出すのも人々には嬉しかった。たくさん村の人が表を往来し出した。午後の二時頃になって、その人々のあれよあれよと言う声が頻りに聞えた。静な雪に誘われて坐った儘、淡い眠りに覆われていた慧鶴は、それ等の声に目覚めて反射的に例の火口の方を眺めた。雪はすっかり晴れていた。青い色の空の背景に浮出されてそこに宝珠のような形の新山が出来ていた。富士の頂から海へ引いた急角度な傾斜の線はそこで見慣れない弾みを打って畸形な瘤をつけていた。びっくりしたあとの慧鶴の胸には二つの感情が頻りにもつれ合った。
 なんだ、これしきのことでおしまいか、という強気のものと、まあまあこれで済んでよかったという弱気のものとであった。そして眼からは、それ等の感情とは関係のない、何の理窟もない涙が止め度なく流れ出るのであった。彼はやっと立上り、匍うようにして寺の部屋へ入り、横にぶっ倒れるや否や、昏々と深い眠りに陥った。

 ついでにこの宝永の噴火の被害のひどかったことを記すと、その被害地の恢復に幕府は三十五年間から七十年余もかかったところがある。幕府は全国の扶持取りから百石につき二両ずつ上納させて救助復興の資金にあてた。
 原駅は富士の南側だから風下の東側ほどひどい被害地には数えられなかったが、それでも大迷惑には違いなかった。田畑の灰の掻き除けはしなければならず、川や用水のさらえもしなければならなかった。たまに思い出したように郡代から下げ渡される救助米とか麦種子代とかは雀の涙ほどで何の足しにもならなかった。第一に、草地一面に焼灰が混ってしまったのだから牛馬の飼料には一茎もならなくなった。それでも年を越して春になるとこずえの花だけは咲いた。それに勢づけられ、村の人はぶつぶつ言いながら働きはじめた。故郷のこういう姿をあとに見残して慧鶴は再び旅に立った。寺の人間の口減らしをする方がいいと思ったからであった。

 私(この白隠伝の草稿を書いたS夫人のこと)はこの先の白隠の消息も調べてみたのだが、それはあまり本筋の宗教の求道に入り過ぎていて、私の求めているものの参考にはなり兼ねるように思う。というのは、これから先の白隠の修道は禅の方でいう正悟に向って驀地まっしぐらに進んで行った消息だからである。自然と人間の肉体とのあの不思議な三昧さんまい感。世にも恍惚こうこつとして自然と融け合った快感。そんなものは、ただ本筋の悟りの道中のところどころの景色の一つで、しそれに酔って嬉しがっているときは却って本筋の進行の妨げになると慧鶴は師匠の正受老人からきつく叱られさえしている。禅をやる人々の間では白隠が本当に眼を開かれたのは、この信州の飯山に住む正受老人についてからであると言われている。それから後の白隠は、それこそ本筋の禅になったかも知れないけれども、私にはあまり興味がない。なぜならば人間至高の肉慾にして、超人には最後に残された唯一の肉慾、あの神秘感とたもとを分ってしまったからである。けれども、たった一度――それはこの草稿の冒頭に述べて私がこの聖者に係り出した原因になる、また、この以後の修業中にもそれに襲われたことがある。――それは、飯山の正受老人について正しい修道への道眼を開かれた後に、故郷の松蔭寺へ帰り、または修業に出たり、出入して十一年ほど経った彼が、三十四歳の時である。この間の修業も並大抵のものではなかったらしい証拠は、ひどい肺病と神経衰弱にかかって命も危うくなり、山城の白河の白幽道人というのから内観の秘法を授かってやっと助かったり、美濃の岩滝の山中に入り一日半掌の米を食として幻覚の魑魅魍魎ちみもうりょうと闘ったり、心理的に幾つも超越の心階を踏み経たことは大悟小悟その数を知らずと後に自身の述懐に就て言っているくらいである。尋ぬべき名師は大概尋ね尽し、探るべき心疑も殆ど底を傾けたらしい。私は彼が泉州信田の蔭涼寺で坐禅究明したある暁、詠み出た歌に心ひかれる。
きかせばや信田の森のふる寺の
小夜ふけがたの雪のひゞきを
 くて三十四歳の時は、押しも押されもせぬ一廉ひとかどの禅師になり、亡師のあとを継いで松蔭寺の住職となり、まだ破れ寺ではあるが、そこに蟠※ばんきょ[#「虫+居」、U+871B、262-7]してぽつぽつ集って来た雲水に向って教育をはじめた頃である。
 彼がふと寺の縁に立つと、あの富士と自分と融け合う三昧が現前したのである。もう、そのときは彼には、こんなことは珍らしくもうれしくもなかった、邪道でもあることさえ判っていた。「慧鶴!」「慧鶴!」自分の名を呼んで富士から自分を引離したのであるが、いつも白雪中に隠れている富士の秀麗に対しては決して嫌いな気はしなかった。それでこのときを機会に聖者は白隠と号し始めたという説がある。
 邪道であるか何だか知らないが、私には心牽かるる心覚なのだから仕方がない。けれども、そこまで行くには、これほどの修業をしなくてはならないのか。それならば素人の私にはとても出来ない。それともあの噴火のような異常な恐怖に出会って過ぎた後なら、思わずその三昧とかは得られるのか。だが私はこどもの時分から神経は丈夫で、あの忘我的な脅迫観念とか、幻覚とかはついぞ縁の無い性分だ。私はこの聖者の伝記を調べて記し終り、試しに二度目に白隠の逸話集のあの個所を読んだときは、もう何の神秘感も起らなくなっていた。結局、私のような女には達せられぬ望みだろうか。
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 S夫人の白隠伝は、こののんきな嗟嘆さたんの声で終っている。私はこの草稿を読んでから、あまりに健康で常識円満な女性は却って奇蹟とか神秘にあこがれる一面があるものだと教えられて、あらためて、S夫人を見返してみた。夫人は白昼の牡丹ぼたんのように晴々し過ぎて、何か花の影をつける必要から幽隠な気を求めているように見えた。
 S夫人と、夫人の記した聖者伝に就き、こんなことを考えているうち、ふと気がつくと、富士と人間との間のその魅惑は、今度は私に取り憑いている。しまった、読むべからざるものを読んだ。けれども、もう仕方がない。不用意の隙を覗って転々、人に取り憑き、取り憑いたら一度は人を恋のように※(「口+奄」、第3水準1-15-6)うめかせてみる。これがこの種の魅惑の性質らしい。私はS夫人とも白隠とも別な溜息のつき方で、以下自然、富士への情熱を綴らざるを得なくなった。





底本:「岡本かの子全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年9月22日第1刷発行
底本の親本:「日本小説代表作全集六」小山書店
   1941(昭和16)年6月
初出:「文学界」
   1940(昭和15)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:岩澤秀紀
2012年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「虫+居」、U+871B    262-7


●図書カード