紫式部の美的情緒と浄土教

岡本かの子




 紫式部が晩年阿弥陀仏の信仰に依り安心立命を得て愈々いよいよ修道に心掛けた様子は式部が、日記の終りに近い条で自ら告白して居るから疑いはない。しかし、私は源氏物語や家集の和歌を読んで、それ等に含まれている式部の美的情緒の一般にも浄土教的思想の影響が可なり在るように思えるからそれにいて述べてみ度い。
 当時の仏教は霊験れいげん仏法や儀礼仏法が盛んであったが、然し心の底から生死の問題に就て解脱げだつを求める人もすくなくなかった。そういう人々の為めには法華経の信仰と並んで来世救済の浄土教が持囃もてはやされた。当時の浄土教は、後の法然親鸞の二祖師が整頓した口唱専念のものと違い、原始的な多種多様性を持っていて、美的情緒的のゆとりのある浄土思想だった。勿論厭世的の来世主義ではあったが、そこに文学に与えた可なりよきものがあった。
 浄土思想は最善最美の極楽を理想する理想郷極楽の如何に至美至妙なるか、浄土三部経の口を極めて説くところである。七重の欄楯らんじゅん、七宝の池、金銀瑠璃の廻廊、地中の蓮華――大きさ車輪の如く、青き色には青き光あり、白き色には白き光あり――、宝羅網らもうを吹き動かす風は微妙の音を出し、水鳥樹林、念法念僧、など…………
 憧憬こそロマンチシズムの流れの源泉である。式部が描破した人事風物上に何程かずつ此の理想美の光影を反映せしめなかったものがあるか。又浄土教は現実をあますところなく点検してみせる。三部経中、五つの痛、五つの焼などという人間苦の適確なる描写を見よ。式部が此の教義に直接に照らされ現実と理想に距離を感ずれば感ずる程人生の複雑矛盾を発見したことであったろう。嘆きの深さは此岸しがん彼岸ひがんとの距離の幅より来る。美しさは理想を望んだ恍惚より来る。此の高揚した観点より現実を臨み、常套から放たれたる眼によって世俗の世界を望む。これこそ気品のあるリアリズムである。夢にあらず、うつつにあらず、式部の妙なる筆の冴えは、現実と超現実とを架け渡すタイムの虹の橋のプロムナードから来る。式部に於ける浄土思想の影響は、天国と地獄とにあれほど人生の実感をうずめたダンテに於ける中世紀の神学にも比すべきものと思う。





底本:「岡本かの子全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年5月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十卷」冬樹社
   1975(昭和50)年11月30日
初出:「むらさき」
   1935(昭和10)年5月号
入力:門田裕志
校正:戸鴉
2023年12月20日作成
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