さくらんぼ
岡本かの子
さくらんぼうは彼女の唇を熱がるが、彼女の唇はさくらんぼうに涼もうとする。
さくらんぼうを三粒ほど束ねて女は男の頬を叩いた。その時男の決心がついた。彼女がそれを思い出している時小さいみか子が金魚にたべさせようとしてさくらんぼうを玻璃鉢のなかへ一粒いれてやった。金魚はそれを口で突つくが喰べられない。みか子はもどかしがり鉢の側で「ああん、とお口を開いて開いて」と教えている。彼女はそれを見ていて何故か涙ぐんだ。
三味線の稽古の師匠をしている彼女のおふくろはさくらんぼうの籠を膝の上に抱えた。
「他所さまへあげるのにはちっと整理をしなくては」
熟し過ぎた皮の痛んださくらんぼうを拾い出しておふくろは口の中へいれて仕舞う。女弟子の酉子がこれを見て笑う。
「お師匠さんのお腹はまるでゴミ箱ね」
「はい、はい、そうですよ」
おふくろは一向さからわ無い。余念なく籠から痛んださくらんぼうを選って喰べ続ける。おふくろも意地が無くなったと彼女は思う。
彼女の部屋。ピアノの上。さくらんぼうの一握が枇杷と並んで載っている。さくらんぼうはいう「こうやっていつまでも置かれてあの男の写生のモデルにされるのも宜いけれど、夜になると鼠が怖くてね」枇杷は答える「美しいものは患が多いのですよ」画架の上に小さい画板が載っている。画はまだ、ほんの少ししか出来ていない。
外は夕暮近いのに明るい昼がいつまでも続くもののように柳の虫売りが切のよい声で虫の効能を唄って行く。
ここは都会からそう遠くない郊外の町村だ。
町外を流れる広い砂川が町の経済を決定する。川は町にいろいろのものを運んで来てくれる。さくらんぼうもその一つだ。川が直接この美しい珠玉を運んで来るわけではないのだが川は山を崩して岩にし岩を崩して石にし石をくだいて砂利にし砂利をふるって土にする。その、さらりとして空気と光線を透し易い土の質は培養素のように果樹の種子を受付ける。受付けた種子をたちまち実にする。「田の中へ入れる養殖鯉と、川岸土の上の果樹には成長に途中の過程というものが無い。種子が直ぐ実である」とこの町の青年産業聯盟の会長をしている町長の息子はこういう言葉を使ってこの二つのものの培殖を奨励する。それでこの町村は初夏はさくらんぼうの村になった。(秋は梨と鯉の村になる)
彼女は町長の息子のこういう言葉が嫌いだ。息子が川のことを「自働工夫」と呼ぶ言葉などなおさら嫌いだ。だが町長の息子はそういうことを嫌う、彼女が却って好きなのだ。間に立って彼女のおふくろは「好きなものと嫌いなものと混ぜ合せるがよい。好きな者と好きな者とじゃあんまり世の中が偏りすぎてしまうよ。第一あそこの家にはおとつあんの時代から随分世話になっているのだからね」そういっているうちにその町長の農学士と彼女の結納を取り交して仕舞った。
男は絵の具箱を担いでさかな屋の二階へ帰った。ませた娘の十六のが楽焼の皿にさくらんぼうを山盛り一ぱい持って来る。「どうせ喰られないんでしょうけれども。お師匠さんとこのをピアノの側で腹一ぱい喰べなすったんでしょうけれども」男はその通りと答える。
すると十六のがとんきょうな声をあげて「やだよ。都会の男は。なんて図々しいんだべ」とうとう田舎言葉を出す。彼はさくらんぼうを眺めながら自分がこの村へ初夏の景色を描きに来たことを想った。しかしそれは一枚も描かずに代りに彼女の弾くピアノの側で静物ばかりを描きさしてしまったことを想った男は、十六のにはそっぽうを向けて苦笑する。
彼女の庭の桜の枝はしなっていた。さくらんぼうは露にびっしょり濡れていた。その下を潜る彼女の襟首に虫ばんだ実はぱらぱら落ちた。彼女は家を逃げてもこれだけは持って行こうと抱え出した楽譜をかざして落ちる実を除けた。
霧の空に都会の燈は淡く映ってプリンのような半透明な空の肌はサーチライトの銀刀でえぐり廻されていた。この町村は深く眠っていた。牛がわらを噛む音さえ聴えそうに思えた。彼女は裏の木戸にそっと手をかける。その指先が夜闇にかくれてそろそろさくらんぼうを喰べに出かける蝸牛の行列に触ってぎょっとする。
彼女は垣の外へ忍び出る。外のくらやみで二人が揉み合っていた。町長の息子の農学士がさかな屋の娘の十六を押さえているところ。
「このさくらんぼう泥棒め。さくらんぼうは貴様のうちにあれほどあるじゃ無いか」
彼女は駆け落ちをしばらく延期して裁判官になる。彼女はさかな屋の娘に訊く。「なぜわたしのうちのさくらんぼうぬすみに来たの」「だってお嬢さんとこのさくらんぼうで無えじゃあの人喰べねえというもの」彼女は町長の息子の農学士に訊く「なぜここに来合わしたの」農学士は答える「もう大概あんたの駆落ちするころが成熟したと思ってさ」
そこへ男が呑気な顔して断りに来た。「いくらなんぼなんでもさくらんぼう三粒で頬を叩かれたので一生の運命を極めてしまってはね」
初夏の村に、さくらんぼうの村に、思い瞑むということはない。すべてはこの果実の味のように爽かに軽く消えている。
町長の息子の農学士はあらためて庭から両手一ぱいのさくらんぼうをつかんで来て元気よくいった。
「ひとつ明るい五十燭の電燈の下でビールでも飲もうじゃ無いか。こいつをさかなにね。夜露でとてもよく冷えてるよ」
底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四卷」冬樹社
1977(昭和52)年5月15日初版第1刷発行
初出:「週刊朝日」
1932(昭和7)年6月5日
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2024年1月21日作成
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