はしがき
一。太平洋の波に浮べる、この船にも似たる我日本の國人は、今や徒らに、富士山の明麗なる風光にのみ恍惚たるべき時にはあらざるべし。
光譽ある桂の冠と、富と權力との優勝旗は、すでに陸を離れて、世界の海上に移されたり。
この冠を戴き、この優勝旗を握らむものは誰ぞ。
他なし、海の勇者なり。海の勇者は即ち世界の勇者たるべし。
一。天長節の佳日に際し
子爵 伊東海軍大將
肝付海軍少將
伯爵 吉井海軍少佐
子爵 小笠原海軍少佐
上村海軍少佐
各位の清福を賀※
[#変体仮名し、はしがき-14]、つたなき本書のために、題字及び序文を賜はりし高意にむかつて、誠實なる感謝の意を表す。
一。上村海軍少佐の懇切なる教示と、嚴密なる校閲とを受けたるは、啻に著者の幸福のみにはあらず、讀者諸君若し此書によりて、幾分にても、海上の智識を得らるゝあらば、そは全く少佐の賜なり。
一。遙かに、獨京伯林なる、巖谷小波先生の健勝を祈る。
著者※[#変体仮名し、はしがき-20]るす
[#改ページ]
(海島冐檢奇譚)海底軍艦目次
第一回
海外の
日本人
子ープルス港の奇遇――大商館――濱島武文[#「濱島武文」は底本では「濱鳥武文」]――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
第二回
魔の
日魔の
刻
送別會――老女亞尼――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港
第三回
怪の
船
銅鑼の響――ビール樽の船長――白色檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
第四回
反古の
新聞
葉卷煙草――櫻木海軍大佐の行衞――大帆走船と三十七名の水兵――奇妙な新體詩――秘密の發明――二點鐘カーンカン
第五回 ピアノと
拳鬪
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の閉口――曲馬師の虎
第六回
星火榴彈
難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な――三個の舷燈――船幽靈め――其眼が怪しい
第七回
印度洋の
海賊船
水雷驅逐艦か巡洋艦か――往昔の海賊と今の海賊――潜水器――探海電燈――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
第八回
人間の
運命
弦月丸の最後――ひ、ひ、卑怯者め――日本人の子――二つの浮標――春枝夫人の行衞――あら、黒い物が!
第九回
大海原の
小端艇
亞尼の豫言――日出雄少年の夢――印度洋の大潮流――にはか雨――昔の御馳走――巨大な魚群
第十回
沙魚の
水葬
天の賜――反對潮流――私は黒奴、少年は炭團屋の忰――おや/\變な味になりました――またも斷食
第十一回
無人島の
響
人の住む島か魔の棲む島か――あら、あの音は――奇麗な泉――ゴリラの襲來――水兵ヒラリと身を躱はした――海軍士官の顏
第十二回
海軍の
家
南方の無人島――快活な武村兵曹――おぼろな想像――前は絶海の波、後は椰子の林――何處ともなく立去つた
第十三回
星影がちら/\
歡迎――春枝夫人は屹度死にません――此新八が先鋒ぢや――浪の江丸の沈沒――此島もなか/\面白いよ――三年の後
第十四回
海底の
造船所
大佐の後姿がチラリと見えた――獅子狩は眞平御免だ――猛犬稻妻――秘密の話――屏風岩――物凄い跫音――鐵門の文字
第十五回
電光艇
鼕々たる浪の音――投鎗に似た形――三尖衝角――新式魚形水雷――明鏡に映る海上海底の光景――空氣製造器――鐵舟先生の詩
第十六回
朝日島
日出雄少年は椰子の木蔭に立つて居つた――國際法――占領の證據――三尖形の紀念塔――成程妙案々々――其處だよ
第十七回
冐險鐵車
自動の器械――斬頭刄形の鉞――ポンと小胸を叩いた――威張れません――君が代の國歌――いざ帝國の萬歳を唱へませう
第十八回
野球競技
九種の魔球――無邪氣な紛着――胴上げ――西と東に別れた――獅子の友呼び――手頃の鎗を捻つて――私は殘念です――駄目だんべい
第十九回
猛獸隊
自然の殿堂――爆裂彈――エンヤ/\の掛聲――片足の靴――好事魔多し――砂滑りの谷、一名死の谷――深夜の猛獸――かゞり火
第二十回
猛犬の
使者
山又山を越えて三十里――一封の書面――あの世でか、此世でか――此犬尋常でない――眞黒になつて其後を追ふた――水樽は空になつた
第二十一回
空中の
救ひ
何者にか愕いた樣子――誰かの半身が現はれて――八日前の晩――三百反の白絹――お祝の拳骨――稻妻と少年と武村兵曹
第二十二回
海の
禍
孤島の紀元節――海軍大佐の盛裝――海岸の夜會――少年の劍舞――人間の幸福を嫉む惡魔の手――海底の地滑り――電光艇の夜間信號
第二十三回 十二の
樽
海底戰鬪艇の生命――人煙の稀な橄欖島――鐵の扉は微塵――天上から地獄の底――其樣な無謀な事は出來ません――無念の涙
第二十四回
輕氣球の
飛行
絶島の鬼とならねばならぬ――非常手段――私が參ります――無言のわかれ――心で泣いたよ――住馴れた朝日島は遠く/\
第二十五回
白色巡洋艦
大陸の影――矢の如く空中を飛走した――ポツンと白い物――海鳥の群――「ガーフ」の軍艦旗――や、や、あの旗は! あの船は!
第二十六回
顏と
顏と
顏
帝國軍艦旗――虎髯大尉、本名轟大尉――端艇諸共引揚げられた――全速力――賣れた顏――誰かに似た顏――懷かしき顏
第二十七回
艦長室
鼻髯を捻つた――夢ではありますまいか――私は何より嬉しい――大分色は黒くなりましたよ、はい――今度は貴女の順番――四年前の話
第二十八回
紀念軍艦
帝國軍艦「日の出」――此虎髯が御話申す――テームス造船所の製造――「明石」に髣髴たる巡洋艦――人間の萬事は天意の儘です
第二十九回
薩摩琵琶
春枝夫人の物語――不屆な悴――風清き甲板――國船の曲――腕押し脛押と參りませう――道塲破りめ――奇怪の少尉
第三十回
月夜の
大海戰
印度國コロンボの港――滿艦の電光――戰鬪喇叭――惡魔印の海賊旗大軍刀をブン/\と振廻した――大佐來! 電光艇來!―朝日輝く印度洋
目次終
[#改ページ]
第一回
海外の
日本人
ネープルス港の奇遇――大商館――濱島武文
[#「濱島武文」は底本では「
島武文」]――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
私が
世界漫遊の
目的をもつて、
横濱の
港を
出帆したのは、
既に
六年以前の
事で、はじめ
亞米利加に
渡り、それから
大西洋の
[#「大西洋の」は底本では「太西洋の」]荒浪を
横斷つて
歐羅巴に
遊び、
英吉利、
佛蘭西、
獨逸等音に
名高き
國々の
名所古跡を
遍歴して、
其間に
月を
閲すること二十
有餘箇月、
大約一
萬五
千里の
長途を
後にして、
終に
伊太利に
入り、
往昔から
美術國の
光譽高き、
其さま/″\の
奇觀をも
足る
程眺めたれば、
之より
我が
懷かしき
日本へ
歸らんと、
當夜十一
時半拔錨の
弦月丸とて、
東洋行の
船に
乘組まんがため、
國の
名港ネープルスまで
來たのは、
今から
丁度四
年前、
季節は
櫻散る
五月中旬の
或晴朗な
日の
正午時分であつた。
市街はづれの
停車塲から
客待の
馬車で、
海岸附近の
或旅亭に
着き、
部室も
定まり
軈て
晝餉もすむと
最早何も
爲る
事がない、
船の
出港までは
未だ十
時間以上。
長い
旅行を
行つた
諸君はお
察しでもあらうが、
知る
人もなき
異境の
地で、
車や
船の
出發を
待ち
暮すほど
徒然ぬものはない、
立つて
見つ、
居て
見つ、
新聞や
雜誌等を
繰廣げて
見たが
何も
手に
着かない、
寧そ
晝寢せんか、
市街でも
散歩せんかと、
思案とり/″\
窓に
倚つて
眺めると、
眼下に
瞰おろす
子ープルス灣、
鏡のやうな
海面に
泛んで、
出る
船、
入る
船[#「船」は底本では「般」]停泊つて
居る
船、
其船々の
甲板の
模樣や、
檣上に
飜る
旗章や、また
彼方の
波止塲から
此方へかけて
奇妙な
風の
商舘の
屋根などを
眺め
廻しつゝ、たゞ
譯もなく
考想へて
居る
内にふと
思ひ
浮んだ
一事がある。それは
濱島武文といふ
人の
事で。
濱島武文とは
私がまだ
高等學校に
居つた
時分、
左樣かれこれ十二三
年も
前の
事であるが、
同じ
學びの
友であつた。
彼は
私よりは四つ五つの
年長者で、
從て
級も
異つて
居つたので、
始終交るでもなかつたが、
其頃校内で
運動の
妙手なのと
無暗に
冐險的旅行の
嗜好なのとで、
彼と
私とは
指を
折られ、
從て
何ゆゑとなく
睦ましく
離れがたく
思はれたが、
其後彼は
學校を
卒業して、
元來ならば
大學に
入る
可きを、
他に
大望ありと
稱して、
幾何もなく
日本を
去り、はじめは
支那に
遊び、それから
歐洲を
渡つて、六七
年以前の
事、
或人が
佛京巴里の
大博覽會で、
彼に
面會したとまでは
明瞭だが、
私も
南船北馬の
身の
其後の
詳なる
消息を
耳にせず、たゞ
風のたよりに、
此頃では、
伊太利のさる
繁華なる
港に
宏大な
商會を
立てゝ、
專ら
貿易事業に
身を
委ねて
居る
由、おぼろながらに
傳へ
聞くのみ。
伊太利の
繁華なる
港といへば、
此處は
國中隨一の
名港子ープルス、
埠頭から
海岸通りへかけて
商館の
數も
幾百千、もしや
濱島は
此港で、
其商會とやらを
營んで
居るのではあるまいかと
思ひ
浮んだので、
實に
雲を
掴むやうな
話だが、
萬が一もと
旅亭の
主人を
呼んで
聽いて
見ると、
果然!
主人は
私の
問を
終まで
言はせず、ポンと
禿頭を
叩いて、
『オヽ、
濱島さん

よく
存じて
居ますよ、
雇人が一千
人もあつて、
支店の
數も十の
指――ホー、
其お
宅ですか、それは
斯う
行つて、あゝ
行つて。』と
口と
手眞似で
窓から
首を
突出して
『あれ/\、あそこに
見へる
宏壯な三
階の
家!』
天外萬里の
異邦では、
初對面の
人でも、
同じ
山河の
生れと
聞けば
懷かしきに、まして
昔馴染の
其人が、
現在此地にありと
聞いては
矢も
楯も
堪らない、
私は
直ぐと
身仕度を
整へて
旅亭を
出た。
旅亭の
禿頭に
教へられた
樣に、
人馬の
徃來繁き
街道を
西へ/\と
凡そ四五
町、
唯ある
十字街を
左へ
曲つて、三
軒目の
立派な
煉瓦造りの
一構、
門に
T. Hamashima, と
記してあるのは
此處と
案内を
乞ふと、
直ぐ
見晴しのよい
一室に
通されて、
待つ
程もなく
靴音高く
入つて
來たのはまさしく
濱島! 十
年相見ぬ
間に
彼には
立派な
八字髯も
生へ、
其風采も
餘程變つて
居るが
相變らず
洒々落々の
男『ヤァ、
柳川君か、これは
珍らしい、
珍らしい。』と
下にも
置かぬ
待遇、
私は
心から

しかつたよ。
髯は
生へても
友達同士の
間は
無邪氣なもので、いろ/\の
話の
間には、
昔倶に
山野に
獵暮して、
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、6-5]て
農家の
家鴨を
射殺して、
辛き
目に
出逢つた
話や、
春季の
大運動會に、
彼と
私とはおの/\
級の
撰手となつて、
必死に
優勝旗を
爭つた
事や、
其他さま/″\の
懷舊談も
出て、
時の
移るのも
知らなかつたが、ふと
氣付くと、
當家の
模樣が
何となく
忙がし
相で、
四邊の
部室では
甲乙の
語り
合ふ
聲喧しく、
廊下を
走る
人の
足音もたゞならず
速い、
濱島は
昔から
極く
沈着な
人で、
何事にも
平然と
構へて
居るから
夫とは
分らぬが、
今珈琲を
運んで
來た
小間使の
顏にも
其忙がしさが
見へるので、
若しや、
今日は
不時の
混雜中ではあるまいかと
氣付いたから、
私は
急に
顏を
上げ
『
何かお
急がしいのではありませんか。』と
問ひかけた。
『イヤ、イヤ、
决して
御心配なく。』と
彼は
此時珈琲を
一口飮んだが、
悠々と
鼻髯を
捻りながら
『
何ね、
實は
旅立つ
者があるので。』
オヤ、
何人が
何處へと、
私が
問はんとするより
先に
彼は
口を
開いた。
『
時に
柳川君、
君は
當分此港に
御滯在でせうねえ、それから、
西班牙の
方へでもお
廻りですか、それとも、
更に
歩を
進めて、
亞弗利加探險とでもお
出掛けですか。』
『アハヽヽヽ。』と
私は
頭を
掻いた。
『つい
昔話の
面白さに
申遲れたが、
實は
早急なのですよ、
今夜十一
時半の
船で
日本へ
皈る
一方なんです。』
『えい、
君も?。』と
彼は
眼を
見張つて。
『
矢張今夜十一
時半出帆の
弦月丸で?。』
『
左樣、
殘念ながら、
西班牙や、
亞弗利加の
方は
今度は
斷念しました。』と、
私がキツパリと
答へると、
彼はポンと
膝を
叩いて
『やあ、
奇妙々々。』
何が
奇妙なのだと
私の
審る
顏を
眺めつゝ、
彼は
言をつゞけた。
『
何んと
奇妙ではありませんか、これ
等が
天の
紹介とでも
云ふものでせう、
實は
私の
妻子も、
今夜の
弦月丸で
日本へ
皈國ますので。』
『え、
君の
細君と
御子息
』と
私は
意外に
※[#「口+斗」、8-11]んだ。十
年も
相見ぬ
間に、
彼に
妻子の
出來た
事は
何も
不思議はないが、
實は
今の
今まで
知らなんだ、
况んや
其人が
今本國へ
皈るなどゝは
全く
寢耳に
水だ。
濱島は
聲高く
笑つて
『はゝゝゝゝ。
君はまだ
私の
妻子を
御存じなかつたのでしたね。これは
失敬々々。』と
急はしく
呼鈴を
鳴らして、
入來つた
小間使に
『あのね、
奧さんに
珍らしいお
客樣が……。』と
言つたまゝ
私の
方に
向直り
『
實は
斯うなんですよ。』と
小膝を
進めた。
『
私が
此港へ
貿易商會を
設立た
翌々年の
夏、
鳥渡日本へ
皈りました。
其頃君は
暹羅漫遊中と
承つたが、
皈國中、
或人の
媒介で、
同郷の
松島海軍大佐の
妹を
妻に
娶つて
來たのです。これは
既に十
年から
前の
事で、
其後に
生れた
兒も
最早八歳になりますが、さて、
私の
日頃の
望は、
自分は
斯うして、
海外に
一商人として
世に
立つて
居るものゝ、
小兒丈けはどうか
日本帝國の
干城となる
有爲な
海軍々人にして
見たい、
夫につけても、
日本人の
子は
日本の
國土で
教育しなければ
從て
愛國心も
薄くなるとは
私の
深く
感ずる
所で、
幸ひ
妻の
兄は
本國で
相當の
軍人であれば、
其人の
手許に
送つて、
教育萬端の
世話を
頼まうと、
餘程以前から
考へて
居つたのですが、どうも
然る
可き
機會を
得なかつた。
然るに
今月の
初旬、
本國から
届いた
郵便によると、
妻の
令兄なる
松島海軍大佐は、
兼て
帝國軍艦高雄の
艦長であつたが、
近頃病氣の
爲めに
待命中の
由、
勿論危篤といふ
程の
病氣ではあるまいが、
妻も
唯一人の
兄であれば、
能ふ
事なら
自ら
見舞もし、
久ぶりに
故山の
月をも
眺めたいとの
願望、
丁度小兒のこともあるので、
然らば
此機會にといふので、
二人は
今夜の十一
時半の
弦月丸で
出發といふ
事になつたのです。
無論、
妻は
大佐の
病氣次第で
早かれ
遲かれ
歸つて
來ますが、
兒は
永く/\――
日本帝國の
天晴れ
軍人として
世に
立つまでは、
芙蓉の
峯の
麓を
去らせぬ
積です。』と、
語り
終つて、
彼は
靜かに
私の
顏を
眺め
『で、
君も
今夜の
御出帆ならば、
船の
中でも、
日本へ
皈つて
後も、
何呉れ
御面倒を
願ひますよ。』
此話で
何事も
分明になつた。それに
就けても
濱島武文は
昔ながら
壯快い
氣象だ、たゞ
一人の
兒を
帝國の
軍人に
養成せんが
爲めに
恩愛の
覊を
斷切つて、
本國へ
送つてやるとは
隨分思ひ
切つた
事だ。また
松島海軍大佐の
令妹なる
彼の
夫人にはまだ
面會はせぬが、
兄君の
病床を
見舞はんが
爲めに、
暫時でも
其良君に
別を
告げ、
幼き
兒を
携へて、
浪風荒き
萬里の
旅に
赴くとは
仲々殊勝なる
振舞よと、
心竊かに
感服するのである。
更に
想ひめぐらすと
此度の
事件は、
何から
何まで
小説のやうだ。
海外萬里の
地で、ふとした
事から
昔馴染の
朋友に
出逢つた
事、それから
私は
此港へ
來た
時は、
恰も
彼の
夫人と
令息とが
此處を
出發しやうといふ
時で、
申合せたでもなく、
同じ
時に、
同じ
船に
乘つて、
之から
數ヶ
月の
航海を
倶にするやうな
運命に
立到つたのは、
實に
濱島の
云ふが
如く、
之が
不思議なる
天の
紹介とでもいふものであらう、
斯う
思つて、
暫時或想像に
耽つて
居る
時、
忽ち
部室の
戸を
靜かに
開いて
入來つた
二個の
人がある。
言ふ
迄もない、
夫人と
其愛兒だ。
濱島は
立つて
『これが
私の
妻春枝。』と
私に
紹介せ、
更に
夫人に
向つて、
私と
彼とが
昔おなじ
學びの
友であつた
事、
私が
今回の
旅行の
次第、また
之から
日本まで
夫人等と
航海を
共にするやうになつた
不思議の
縁を
言葉短に
語ると、
夫人は『おや。』と
言つたまゝいと
懷かし
氣に
進み
寄る。
年の
頃廿六七、
眉の
麗はしい
口元の
優しい
丁度天女の
樣な
美人、
私は
一目見て、
此夫人は
其容姿の
如く、
心も
美はしく、
世にも
高貴き
婦人と
思つた。
一通りの
挨拶終つて
後、
夫人は
愛兒を
麾くと、
招かれて
臆する
色もなく
私の
膝許近く
進み
寄つた
少年、
年齡は八
歳、
名は
日出雄と
呼ぶ
由、
清楚とした
水兵風の
洋服姿で、
髮の
房々とした、
色の
くつきりと
白い、
口元は
父君の
凛々しきに
似、
眼元は
母君の
清しきを
其儘に、
見るから
可憐の
少年。
私は
端なくも、
昨夜ローマ府からの
車の
中で
讀んだ『
小公子』といふ
小説中の、あの
愛らしい/\
小主人公を
聯想した。
日出雄少年は
海外萬里の
地に
生れて、
父母の
外には
本國人を
見る
事も
稀なる
事とて、
幼き
心にも
懷かしとか、

しとか
思つたのであらう、
其清しい
眼で、しげ/\と
私の
顏を
見上げて
居つたが
『おや、
叔父さんは
日本人!。』と
言つた。
『
私は
日本人ですよ、
日出雄さんと
同じお
國の
人ですよ。』と
私は
抱き
寄せて
『
日出雄さんは
日本人が
好きなの、
日本のお
國を
愛しますか。』と
問ふと
少年は
元氣よく
『あ、
私は
日本が
大好きなんですよ、
日本へ
皈りたくつてなりませんの
[#「なりませんの」は底本では「なりせまんの」]、でねえ、
毎日/\
日の
丸の
旗を
立てゝ、
街で
[#「街で」は底本では「街て」]戰爭事をしますの、
爾してねえ、
日の
丸の
旗は
強いのですよ、
何時でも
勝つてばつかり
居ますの。』
『おゝ、
左樣でせうとも/\。』と
私は
餘りの
可愛さに
少年を
頭上高く
差し
上げて、
大日本帝國萬歳と
※[#「口+斗」、8-11]ぶと、
少年も
私の
頭の
上で
萬歳々々と
小躍をする。
濱島は
浩然大笑した、
春枝夫人は
眼を
細うして
『あら、
日出雄は、ま、どんなに

しいんでせう。』と
言つて、
紅のハンカチーフに
笑顏を
蔽ふた。
第二回
魔の
日魔の
刻
送別會――老女亞尼――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港
それから
談話にはまた
一段の
花が
咲いて、
日永の五
月の
空もいつか
夕陽が
斜に
射すやうにあつたので、
私は
一先づ
暇乞せんと
折を
見て『いづれ
今夜弦月丸にて――。』と
立ちかけると、
濱島は
周章て
押止め
『ま、ま、お
待ちなさい、お
待ちなさい、
今から
旅亭へ
皈つたとて
何になります。
久ぶりの
面會なるを
今日は
足る
程語つて
今夜の
御出發も
是非に
私の
家より。』と
夫人とも/″\
切に
勸めるので、
元來無遠慮勝の
私は、
然らば
御意の
儘にと、
旅亭の
手荷物は
當家の
馬丁を
取りに
使はし、
此處から
三人打揃つて
出發する
事になつた。
いろ/\の
厚き
待遇を
受けた
後、
夜の八
時頃になると、
當家の
番頭手代をはじめ
下婢下僕に
至るまで、
一同が
集つて
送別の
催をする
相で、
私も
招かれて
其席へ
連なつた。
春枝夫人は
世にすぐれて
慈愛に
富める
人、
日出雄少年は
彼等の
間に
此上なく
愛重せられて
居つたので、
誰とて
袂別を
惜まぬものはない、
然し
主人の
濱島は
東洋の
豪傑風で、
泣く
事などは
大厭の
性質であるから
一同は
其心を
酌んで、
表面に
涙を
流す
者などは
一人も
無かつた。イヤ、
茲に
只一人特別に
私の
眼に
止つた
者があつた。それは
席の
末座に
列つて
居つた
一個の
年老たる
伊太利の
婦人で、
此女は
日出雄少年の
保姆にと、
久しき
以前に、
遠き
田舍から
雇入れた
女の
相で、
背の
低い、
白髮の、
極く
正直相な
老女であるが、
前の
程より
愁然と
頭を
埀れて、
丁度死出の
旅路に
行く
人を
送るかの
如く、
頻りに
涙を
流して
居る。
私は
何故ともなく
異樣に
感じた。
『オヤ、
亞尼がまた
詰らぬ
事を
考へて
泣いて
居りますよ。』と、
春枝夫人は
良人の
顏を
眺めた。
頓て、
此集會も
終ると、十
時間近で、いよ/\
弦月丸へ
乘船の
時刻とはなつたので、
濱島の
一家族と、
私とは
同じ
馬車で、
多の
人に
見送られながら
波止塲に
來り、
其邊の
或茶亭に
休憇した、
此處で
彼等の
間には、それ/\
袂別の
言もあらうと
思つたので、
私は
氣轉よく
一人離れて
波打際へと
歩み
出した。
此時にふと
心付くと、
何者か
私の
後にこそ/\と
尾行して
來る
樣子、オヤ
變だと
振返る、
途端に
其影は
轉ぶが
如く
私の
足許へ
走り
寄つた。
見ると、こは
先刻送別の
席で、
只一人で
泣いて
居つた
亞尼と
呼べる
老女であつた。
『おや、お
前は。』と
私は
歩行を
止めると、
老女は
今も
猶ほ
泣きながら
『
賓人よ、お
願ひで
厶ります。』と
兩手を
合せて
私を
仰ぎ
見た。
『お
前は
亞尼とか
云つたねえ、
何の
用かね。』と
私は
靜かに
問ふた。
老女は
虫のやうな
聲で『
賓人よ。』と
暫時私の
顏を
眺めて
居つたが
『あの、
妾の
奧樣と
日出雄樣とは
今夜の
弦月丸で、
貴方と
御同道に
日本へ
御出發になる
相ですが、それを御
延べになる
事は
出來ますまいか。』と
恐る/\
口を
開いたのである。ハテ、
妙な
事を
言ふ
女だと
私は
眉を
顰めたが、よく
見ると、
老女は、
何事にか
痛く
心を
惱まして
居る
樣子なので、
私は
逆らはない
『
左樣さねえ、もう
延ばす
事は
出來まいよ。』と
輕く
言つて
『
然し、お
前は
何故其樣に
嘆くのかね。』と
言葉やさしく
問ひかけると、
此一言に
老女は
少しく
顏を
擡げ
『
實に
賓人よ、
私はこれ
程悲しい
事はありません。はじめて
奧樣や
日出雄樣が、
日本へお
皈りになると
承つた
時は
本當に
魂消えましたよ、
然しそれは
致方もありませんが、
其後よく
承ると、
御出帆の
時日は
時もあらうに、
今夜の十一
時半……。』といひかけて
唇をふるはし
『あの、あの、
今夜十一
時半に
御出帆になつては――。』
『
何、
今夜の
船で
出發すると
如何したのだ。』と
私は
眼を

つた。
亞尼は
胸の
鏡に
手を
當てゝ
『
私は
神樣に
誓つて
申しますよ、
貴方はまだ
御存じはありますまいが、
大變な
事があります。
此事は
旦那樣にも
奧樣にも
毎度か
申上げて、
何卒今夜の
御出帆丈けは
御見合せ
下さいと
御願ひ
申したのですが、
御兩方共たゞ
笑つて「
亞尼や
其樣に
心配するには
及ばないよ。」と
仰せあるばかり、
少しも
御聽許にはならないのです。けれど
賓人よ、
私はよく
存じて
居ります、
今夜の
弦月丸とかで
御出發になつては、
奧樣も、
日出雄樣も、
决して
御無事では
濟みませんよ。』
『
無事で
濟まんとは――。』と
私は
思はず
釣込まれた。
『はい、
决して
御無事には
濟みません。』と、
亞尼は
眞面目になつた、
私の
顏を
頼母し
氣に
見上げて
『
私は
貴方を
信じますよ、
貴方は
决してお
笑ひになりますまいねえ。』と
前置をして
斯う
言つた。
『
ウルピノ山の
聖人の
仰つた
樣に、
昔から
色々の
口碑のある
中で、
船旅程時日を
選ばねばならぬものはありません、
凶日に
旅立つた
人は
屹度災難に
出逢ひますよ。これは
本當です、
現に
私の
一人の
悴も、七八
年以前の
事、
私が
切に
止めるのも
聽かで、十
月の
祟の
日に
家出をしたばかりに、
終に
世に
恐ろしい
海蛇に
捕られてしまいました。
私にはよく
分つて
居ますよ。
奧樣とて
日出雄樣とて
今夜御出帆になつたら
决して
御無事では
濟みません、はい、
其理由は、
今日は五
月の十六
日で
魔の
日でせう、
爾して、
今夜の十一
時半といふは、
何んと
恐ろしいでは
御座いませんか、
魔の
刻限ですもの。』
私は
聽きながらプツと
吹き
出す
處であつた。けれど
老女は
少しも
構はず
『
賓人よ、
笑ひ
事ではありませぬ、
魔の
日魔の
刻といふのは、
一年中でも
一番に
不吉な
時なのです、
他の
日の
澤山あるのに、
此日、
此刻限に
御出帆になるといふのは
何んの
因果でせう、
私は
考へると
居ても
立つても
居られませぬ。
其上、
私は
懇意の
船乘さんに
聞いて
見ますと、
今度の
航海には、
弦月丸に
澤山の
黄金と
眞珠とが
積入れてあります
相な、
黄金と
眞珠とが
波の
荒い
海上で
集ると、
屹度恐ろしい
祟を
致します。あゝ、
不吉の
上にも
不吉。
賓人よ、
私の
心の
千分の
一でもお
察しになつたら、どうか
奧樣と
日出雄樣を
助けると
思つて、
今夜の
御出帆をお
延べ
下さい。』と
拜まぬばかりに
手を
合せた。
聽いて
見るとイヤハヤ
無※[#「(禾+尤)/上/日」、22-10]な
話!
西洋でもいろ/\と
縁起を
語る
人はあるが、
此老女のやうなのはまア
珍らしからう。
私は
大笑ひに
笑つてやらうと
考へたが、
待てよ、たとへ
迷信でも、
其主人の
身の
上を
慮ふこと
斯くまで
深く、かくも
眞面目で
居る
者を、
無下に
嘲笑すでもあるまいと
氣付いたので、
込み
上げて
來る
可笑さを
無理に
怺えて
『
亞尼!。』と
一聲呼びかけた。
『
亞尼! お
前の
言ふ
事はよく
分つたよ、
其忠實なる
心をば
御主人樣も
奧樣もどんなにかお
悦びだらう、けれど――。』と
彼女の
顏を
眺め
『けれどお
前の
言ふ
事は、みんな
昔の
話で、
今では
魔の
日も
祟の
日も
無くなつたよ。』
『あゝ、
貴方も
矢張お
笑ひなさるのですか。』と
亞尼はいと
情なき
顏に
眼を
閉ぢた。
『いや、
决して
笑ふのではないが、
其事は
心配するには
及ばぬよ、
奧樣も
日出雄少年も、
私が
生命にかけて
保護して
上げる。』と
言つたが、
亞尼は
殆んど
絶望極りなき
顏で
『あゝ、もう
無益だよ/\。』とすゝり
泣きしながら、
むつくと
立上り
『
神樣、
佛樣、
奧樣と
日出雄樣の
御身をお
助け
下さい。』と
叫んだ
儘、
狂氣の
如くに
走り
去つた。
丁度此時、
休憩所では
乘船の
仕度も
整つたと
見へ、
濱島の
頻りに
私を
呼ぶ
聲が
聽えた。
第三回
怪の
船
銅鑼の響――ビール樽の船長――白色の檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
春枝夫人と、
日出雄少年と、
私とが、
多の
身送人に
袂別を
告げて、
波止塲から
凖備の
小蒸
船で、
遙かの
沖合に
停泊して
居る
弦月丸に
乘組んだのは
其夜十
時※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、25-2]ぎ三十
分。
濱島武文と、
他に
三人の
人は
本船まで
見送つて
來た。
此弦月丸といふのは、
伊太利の
東方
船會社の
持船で、
噸數六千四百。二
本の
煙筒に四
本檣の
頗る
巨大な
船である、
此度支那及び
日本の
各港へ
向つての
航海には、
夥しき
鐵材と、
黄金眞珠等少なからざる
貴重品を
搭載して
居る
相で、
其船脚も
餘程深く
沈んで
見えた。
弦月丸の
舷梯へ
達すると、
私共の
乘船の
事は
既に
乘客名簿で
分つて
居つたので、
船丁は
走つて
來て、
急はしく
荷物を
運ぶやら、
接待員は
恭しく
帽を
脱して、
甲板に
混雜せる
夥多の
人を
押分るやらして、
吾等は
導かれて
船の
中部に
近き一
等船室に
入つた。どの
船でも
左樣だが、
同じ
等級の
船室の
中でも、
中部の
船室は
最も
多く
人の
望む
所である。
何故かと
言へば
航海中船の
動搖を
感ずる
事が
比較的に
少ない
爲で、
此室を
占領する
爲には
虎鬚の
獨逸人や、
羅馬風の
鼻の
高い
佛蘭西人等に
隨分競爭者が
澤山あつたが、
幸にも
ネープルス市中で「
富貴なる
日本人。」と
盛名隆々たる
濱島武文の
特別なる
盡力があつたので、
吾等は
遂に
此最上の
船室を
占領する
事になつた。
加ふるに
春枝夫人、
日出雄少年の
部室と
私の
部室とは
直ぐ
隣合つて
居つたので
萬事に
就いて
都合が
宜からうと
思はるゝ。
私は
元來膝栗毛的の
旅行であるから、
何も
面倒はない、
手提革包一個を
船室の
中へ
投込んだまゝ
直ぐ
春枝夫人等の
船室へ
訪づれた。
此時夫人は
少年を
膝に
上せて、
其良君や
他の
三人を
相手に
談話をして
居つたが、
私の
姿を
見るより
『おや、もうお
片附になりましたの。』といつて
嬋娟たる
姿は
急ぎ
立ち
迎へた。
『なあに、
柳川君には
片附けるやうな
荷物もないのさ。』と
濱島は
聲高く
笑つて『さあ。』とすゝめた
倚子によつて、
私も
此仲間入。
最早袂別の
時刻も
迫つて
來たので、いろ/\の
談話はそれからそれと
盡くる
間も
無かつたが、
兎角する
程に、ガラン、ガラ、ガラン、ガラ、と
船中に
布れ
廻る
銅鑼の
響が
囂しく
聽えた。
『あら、あら、あの
音は――。』と
日出雄少年は
眼をまん
丸にして
母君の
優しき
顏を
仰ぐと、
春枝夫人は
默然として、
其良君を
見る。
濱島武文は
靜かに
立上つて
『もう、
袂別の
時刻になつたよ。』と
他の
三人を
顧見た。
すべて、
海上の
規則では、
船の
出港の十
分乃至十五
分前に、
船中を
布れ
廻る
銅鑼の
響の
聽ゆると
共に
本船を
立去らねばならぬのである。で、
濱島は
此時最早此船を
去らんとて
私の
手を
握りて
袂別の
言葉厚く、
夫人にも
二言三言云つた
後、その
愛兒をば
右手に
抱き
寄せて、
其房々とした
頭髮を
撫でながら
『
日出雄や、
汝と
父とは、
之から
長時の
間別れるのだが、
汝は
兼々父の
言ふやうに、
世に
俊れた
人となつて――
有爲な
海軍士官となつて、
日本帝國の
干城となる
志を
忘れてはなりませんよ。』と
言ひ
終つて、
少年が
默つて
點頭くのを
笑まし
氣に
打ち
見やりつゝ、
他の
三人を
促して
船室を
出た。
先刻は
見送られた
吾等は
今は
彼等を
此船より
送り
出さんと、
私は
右手に
少年を
導き、
流石に
悄然たる
春枝夫人を
扶けて
甲板に
出ると、
今宵は
陰暦十三
夜、
深碧の
空には一
片の
雲もなく、
月は
浩々と
冴え
渡りて、
加ふるに
遙かの
沖に
停泊して
居る三四
艘の
某國軍艦からは、
始終探海電燈をもつて
海面を
照して
居るので、
其明なる
事は
白晝を
欺くばかりで、
波のまに/\
浮沈んで
居る
浮標の
形さへいと
明に
見える
程だ。
濱島は
船の
舷梯まで
到つた
時、
今一
度此方を
振返つて、
夫人とその
愛兒との
顏を
打眺めたが、
何か
心にかゝる
事のあるが
如く
私に
瞳を
轉じて
『
柳川君、
然らば
之にてお
別れ
申すが、
春枝と
日出雄の
事は
何分にも――。』と
彼は
日頃の
豪壯なる
性質には
似合はぬ
迄、
氣遣はし
氣に、
恰も
何者か
空中に
力強き
腕のありて、
彼を
此塲に
捕へ
居るが
如くいとゞ
立去り
兼ねて
見へた。
之が
俗に
謂ふ
虫の
知らせとでもいふものであらうかと、
後に
思ひ
當つたが、
此時はたゞ
離別の
情さこそと
思ひ
遣るばかりで、
私は
打點頭き『
濱島君よ、
心豐かにいよ/\
榮え
玉へ、
君が
夫人と
愛兒の
御身は、
此柳川の
生命にかけても
守護しまいらすべし。』と
答へると
彼は
莞爾と
打笑み、こも/″\
三人と
握手して、
其儘舷梯を
降り、
先刻から
待受けて
居つた
小蒸
船に
身を
移すと、
小蒸
船は
忽ち
波を
蹴立てゝ、
波止塲の
方へと
歸つて
行く、
其仇浪の
立騷ぐ
邊海鳥二三
羽夢に
鳴いて、うたゝ
旅客の
膓を
斷つばかり、
日出雄少年は
無邪氣である
『あら、
父君は
單獨で
何處へいらつしやつたの、もうお
皈りにはならないのですか。』と
母君の
纎手に
依りすがると
春枝夫人は
凛々しとはいひ、
女心のそゞろに
哀を
催して、
愁然と
見送る
良人の
行方、
月は
白晝のやうに
明だが、
小蒸
船の
形は
次第々々に
朧になつて、
殘る
煙のみぞ
長き
名殘を
留めた。
『
夫人、すこし、
甲板の
上でも
逍遙して
見ませうか。』と
私は
二人を
誘つた。かく
氣の
沈んで
居る
時には、
賑はしき
光景にても
眺めなば、
幾分か
心を
慰むる
因ともならんと
考へたので、
私は
兩人を
引連れて、
此時一
番に
賑はしく
見えた
船首の
方へ
歩を
移した。
最早、
出港の
時刻も
迫つて
居る
事とて、
此邊は
仲々の
混雜であつた。
輕き
服裝せる
船丁等は
宙になつて
驅けめぐり、
逞ましき
骨格せる
夥多の
船員等は
自己が
持塲/\に
列を
作りて、
後部の
舷梯は
既に
引揚げられたり。
今しも
船首甲板に
於ける
一等運轉手の
指揮の
下に、はや一
團の
水夫等は
捲揚機の
周圍に
走せ
集つて、
次の一
令と
共に
錨鎖を
卷揚げん
身構。
船橋の
上にはビール
樽のやうに
肥滿した
船長が、
赤き
頬髯を
捻りつゝ
傲然と四
方を
睥睨して
居る。
私は
三々五々群をなして、
其處此處に
立つて
居る、
顏色の
際立つて
白い
白耳義人や、「コスメチツク」で
鼻髯を
劍のやうに
塗り
固めた
佛蘭西の
若紳士や、あまりに
酒を
飮んで
酒のために
鼻の
赤くなつた
獨逸の
陸軍士官や、
其他美人の
標本ともいふ
可き
伊太利の
女俳優や、
色の
無暗に
黒い
印度邊の
大富豪の
船客等の
間に
立交つて、
此目醒ましき
光景を
見廻しつゝ、
春枝夫人とくさ/″\の
物語をして
居つたが、
此時不意にだ、
實に
不意に
私の
背部で、『や、や、や、しまつたゾ。』と
一度に
※[#「口+斗」、32-5]ぶ
水夫の
聲、
同時に
物あり、
甲板に
落ちて
微塵に
碎けた
物音のしたので、
私は
急ぎ
振返つて
見ると、
其處では
今しも、二三の
水夫が
滑車をもつて
前檣高く
掲げんとした
一個の
白色燈――それは
船が
航海中、
安全進航の
表章となるべき
球形の
檣燈が、
何かの
機會で
糸の
縁を
離れて、
檣上二十
呎ばかりの
所から
流星の
如く
落下して、あはやと
言ふ
間に
船長が
立てる
船橋に
衝つて、
燈は
微塵に
碎け、
燈光はパツと
消える、
船長驚いて
身を
躱す
拍子に
足踏滑らして、
船橋の
階段を二三
段眞逆に
落ちた。
水夫共は『あツ』とばかり
顏の
色を
變た。
船長は
周章てゝ
起上つたが、
怒氣滿面、けれど
自己が
醜態に
怒る
事も
出來ず、ビール
樽のやうな
腹に
手を
當てゝ、
物凄い
眼に
水夫共を
睨み
付けると、
此時私の
傍には
鬚の
長い、
頭の
禿た、
如何にも
古風らしい
一個の
英國人が
立つて
居つたが、
此活劇を
見るより、
ぶるぶると
身慄して
『あゝ、あゝ、
縁起でもない、
南無阿彌陀佛!
此船に
惡魔が
魅て
居なければよいが。』と
呟いた。
えい。また
御幣擔ぎ!
今日は
何んといふ
日だらう。
勿論、
此樣事には
何も
深い
仔細のあらう
筈はない。つまり
偶然の
出來事には
相違ないのだが、
私は
何となく
異樣に
感じたよ。
誰でも
左樣だが、
戰爭の
首途とか、
旅行の
首途に
少しでも
變な
事があれば、
多少氣に
懸けずには
居られぬのである。
特に
我弦月丸は
今や
萬里の
波濤を
志して、
音に
名高き
地中海、
紅海、
印度洋等の
難所に
進み
入らんとする
其首途に、
船が
安全航行の
表章となるべき
白色檣燈が
微塵に
碎けて、
其燈光は
消え、
同時に、
此船の
主長ともいふべき
船長が
船橋より
墮落して、
心の
不快を
抱き、
顏に
憤怒の
相を
現はしたなど、
或意味からいふと、
何か
此弦月丸に
禍の
起る
其前兆ではあるまいかと、どうも
好い
心持はしなかつたのである。
無論此樣な
妄想は、
平生ならば
苦もなく
打消されるのだが、
今日は
先刻から
亞尼が、
魔の
日だの
魔の
刻だのと
言つた
言葉や、
濱島が
日頃に
似ぬ
氣遣はし
氣なりし
樣子までが、
一時に
心に
浮んで
來て、
非常に
變な
心地がしたので、
寧ろ
此塲を
立去らんと、
春枝夫人を
見返へると、
夫人も
今の
有樣と
古風なる
英國人の
獨言には
幾分か
不快を
感じたと
見へ
『あの
艫の
方へでもいらつしやいませんか。』と
私を
促しつゝ
蓮歩を
彼方へ
移した。
頓て
船尾の
方へ
來て
見ると、
此處は
人影も
稀で、
既に
洗淨を
終つて、
幾分の
水氣を
帶びて
居る
甲板の
上には、
月の
色も
一段と
冴渡つて
居る。
『
矢張靜かな
所が
宜う
厶いますねえ。』と
春枝夫人は
此時淋しき
笑を
浮べて、
日出雄少年と
共にずつと
船端へ
行つて、
鐵欄に
凭れて
遙かなる
埠頭の
方を
眺めつゝ
『
日出雄や、あの
向ふに
見える
高い
山を
覺えておいでかえ。』と
住馴れし
子ープルス市街の
東南に
聳ゆる
山を
指すと、
日出雄少年は
『
モリス山でせう、
私はよつく
覺えて
居ますよ。』とパツチリとした
眼で
母君の
顏を
見上げた。
『おゝ、それなら、あの
電氣燈が
澤山に
輝いて、
大きな
煙筒が五
本も六
本も
並んで
居る
處は――。』
『
サンガロー街――おつかさん、
私の
家も
彼處にあるんですねえ。』と
少年は
兩手を
鐵欄の
上に
載せて
『
父君はもう
家へお
皈りになつたでせうか。』
『おゝ、お
皈りになりましたとも、そして
今頃は、あの
保姆や、
番頭の
スミスさんなんかに、お
前が
温順しくお
船に
乘つて
居る
事を
話していらつしやるでせう。』と
言葉やさしく
愛兒の
房々せる
頭髮に
玉のやうなる
頬をすり
寄せて、
餘念もなく
物語る、これが
夫人の
爲めには、
唯一の
慰であらう。かゝる
優しき
振舞を
妨ぐるは、
心なき
業と
思つたから、
私は
態と
其處へは
行かず、
少し
離れてたゞ
一人安樂倚子の
上へ
身を
横へて、
四方の
風景を
見渡すと、
今宵は
月明かなれば、さしもに
廣き
ネープルス灣も
眼界到らぬ
隈はなく、おぼろ/\に
見ゆる
イスチヤの
岬には
廻轉燈明臺の
見えつ、
隱れつ、
天に
聳ゆる
モリス山の
頂にはまだ
殘の
雪の
眞白なるに、
月の
光のきら/\と
反射して
居るなど
得も
言はれず、
港内は
電燈の
光煌々たる
波止塲の
附近からずつと
此方まで、
金龍走る
波の
上には、
船艦浮ぶ
事幾百艘、
出る
船、
入る
船は
前檣に
白燈、
右舷に
緑燈、
左舷に
紅燈の
海上法を
守り、
停泊まれる
船は
大鳥の
波上に
眠るに
似て、
丁度夢にでもあり
相な
景色!
私は
此樣な
風景は
今迄に
幾回ともなく
眺めたが、
今宵はわけて
趣味ある
樣に
覺えたので
眼も
放たず、それからそれと
眺めて
行く
内、ふと
眼に
止つた一つの
有樣――それは
此處から五百
米突ばかりの
距離に
停泊して
居る一
艘の
蒸
船で、
今某國軍艦からの
探海燈は
其邊を
隈なく
照して
居るので、
其甲板の
裝置なども
手に
取るやうに
見える、
此船噸數一千
噸位、
船體は
黒色に
塗られて、
二本煙筒に
二本檣、
軍艦でない
事は
分つて
居るが、
商船か、
郵便船か、
或は
他に
何等かの
目的を
有して
居る
船か
夫は
分らない。
勿論、
外形に
現れても
何も
審しい
點はないが、
少しく
私の
眼に
異樣に
覺えたのは、
總噸數一千
噸位にしては
其構造の
餘りに
堅固らしいのと、また
其甲板の
下部には
數門の
大砲等の
搭載て
居るのではあるまいか、
其船脚は
尋常ならず
深く
沈んで
見える。
今や
其二本の
烟筒から
盛んに
黒煙を
吐いて
居るのは
既に
出港の
時刻に
達したのであらう、
見る/\
船首の
錨は
卷揚げられて、
徐々として
進航を
始めた。
私は
何氣なく
衣袋を
探つて、
双眼鏡を
取出し、
度を
合せて
猶ほよく
其甲板の
工合を
見やうとする、
丁度此時先方の
船でも、
一個の
船員らしい
男が、
船橋の
上から
一心に
双眼鏡を
我が
船に
向けて
居つたが、
不思議だ、
私の
視線と
彼方の
視線とが
端なくも
衝突すると、
忽ち
彼男は
双眼鏡をかなぐり
捨てゝ、
乾顏に
横を
向いた。
其擧動のあまりに
奇怪なので
私は
思はず
小首を
傾けたが、
此時何故とも
知れず
偶然にも
胸に
浮んで
來た
一つの
物語がある。それは
忘れもせぬ
去年の
秋の
事で、
私が
米國から
歐羅巴へ
渡る
航海中で、ふと
一人の
英國の
老水夫と
懇意になつた。
其[#ルビの「その」は底本では「たの」]老水夫がいろ/\の
興味ある
話の
中で、
最も
深く
私の
心に
刻まれて
居るのは、
世に
一番に
恐ろしい
航路は
印度洋だとうふ
物語、
亞弗利加洲の
東方、
マダカッスル島からも
餘程離れて、
世の
人は
夢にも
知らない
海賊島といふのがある
相だ、
無論世界地圖には
見る
事の
出來ぬ
孤島であるが、
其處には
獰猛鬼神を
欺く
數百の
海賊が
一團體をなして、
迅速堅固なる七
艘の
海賊船を
浮べて、
絶えず
其邊の
航路を
徘徊し、
時には
遠く
大西洋の
[#「大西洋の」は底本では「太西洋の」]沿岸までも
船を
乘出して、
非常に
貴重な
貨物を
搭載した
船と
見ると、
忽ち
之を
撃沈して、
惡む
可き
慾を
逞ましうして
居るとの
話。
而して
歐米の
海員仲間では、
此事を
知らぬでもないが、
如何にせん、
此海賊團體の
狡猾なる
事は
言語に
絶えて、
其來るや
風の
如く、
其去るも
亦た
風の
如く。
海賊共は
如何にして
探知するものかは
知らぬが
其覬ひ
定める
船は、
常に
第一
等の
貴重貨物を
搭載して
居る
船に
限る
代りに、
滅多に
其形を
現はさぬ
爲と、
今一つには
此海賊輩は
何時の
頃よりか、
利をもつて
歐洲の
某強國と
結托して、
年々五千
萬弗に
近い
賄賂を
納めて
居る
爲に、
却つて
隱然たる
保護を
受け、
折ふし
其船が
貿易港に
停泊する
塲合には
立派な
國籍を
有する
船として、
其甲板には
該強國の
商船旗を
飜して、
傍若無人に
振舞つて
居る
由、
實に
怪しからぬ
話である。
私は
今、
二本煙筒二本檣の
不思議なる
船を
見て、
神經の
作用かは
知らぬがふと
思ひ
浮んだ
此話、
若しかの
老水夫の
言が
眞實ならば、
此樣な
船ではあるまいか、
其海賊船といふのは、
兎に
角氣味の
惡い
事だと
思つて
居る
内に、
怪の
船はだん/\と
速力を
増して、
我弦月丸の
左方を
掠めるやうに
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、41-4]る
時、
本船より
射出する
船燈の
光で
チラと
認めたのは
其船尾に
記されてあつた「
海蛇丸」の三
字、「
海蛇丸」とはたしかにかの
船の
名稱である。
見る/\
内に
波を
蹴立てゝ、
蒼渺の
彼方に
消え
去た。
『あゝ、
妙だ/\、
今日は
何故此樣に
不思議な
事が
續くのだらう。』と
私は
思はず
叫んだ。
『おや、
貴方如何かなすつて。』と
春枝夫人は
日出雄少年と
共に
驚いて
振向いた。
『
夫人!』と
私は
口を
切つたが、
待てよ、
今の
塲合に
此樣な
話――
寧ろ
私一個人の
想像に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、42-1]ぎない
事を
輕々しく
語つて、
此美はしき
人の、
優しき
心を
痛めるでもあるまい、と
心付いたので
『いや、
何でもありませんよ、あはゝゝゝ。』と
態と
聲高く
笑つた。
丁度此時、
甲板には十一
時半を
報ずる七
點鐘が
響いて、
同時にボー、ボー、ボーツと
恰も
獅子の
吼ゆるやうな
笛の
響、それは
出港の
相圖で、
吾等の
運命を
托する
弦月丸は、
遂に
徐々として
進航をはじめた。
第四回
反古の
新聞
葉卷烟草――櫻木海軍大佐の行衞――大帆走船と三十七名の水夫――奇妙な新體詩――秘密の大發明――二點鐘カヽン々々
灣口を
出づるまで、
私は
春枝夫人と
日出雄少年とを
相手に
甲板上に
佇んで、
四方の
景色を
眺めて
居つたが、
其内に
ネープルス港の
燈光も
微かになり、
夜寒の
風の
身に
染むやうに
覺えたので、
遂に
甲板を
降つた。
夫人と
少年とを
其船室に
送つて、
明朝を
契つて
自分の
船室に
歸つた
時、
八點鐘の
號鐘はいと
澄渡つて
甲板に
聽えた。
『おや、もう十二
時!』と
私は
獨語した。
既に
夜深く、
加ふるに
當夜は
浪穩にして、
船に
些の
動搖もなければ、
船客の
多數は
既に
安き
夢に
入つたのであらう、たゞ
蒸
機關の
響のかまびすしきと、
折々當番の
船員が
靴音高く
甲板に
往來するのが
聽ゆるのみである。
私は
衣服を
更めて
寢臺に
横つたが、
何故か
少しも
眠られなかつた。
船室の
中央に
吊してある
球燈の
光は
煌々と
輝いて
居るが、どうも
其邊に
何か
魔性でも
居るやうで、
空氣は
頭を
壓へるやうに
重く、
實に
寢苦しかつた。
諸君も
御經驗であらうが
此樣な
時にはとても
眠られるものではない、
氣を
焦てば
焦つ
程眼は
冴えて
胸にはさま/″\の
妄想が
往來する。
私は
思ひ
切つて
再び
起上つた。
喫烟室へ
行くも
面倒なり、
少し
船の
規則の
違反ではあるが、
此室で
葉卷でも
燻らさうと
思つて
洋服の
衣袋を
探りて
見たが一
本も
無い、
不圖思ひ
出したのは
先刻ネープルス港を
出發のみぎり、
濱島の
贈つて
呉れた
數ある
贈物の
中、四
角な
新聞包は、
若しや
煙草の
箱ではあるまいかと
考へたので、
急ぎ
開いて
見ると
果然最上の
葉卷! 『しめたり。』と
火を
點じて、スパスパやりながら
餘念もなく
其邊を
見廻して
居る
内、
見ると
今葉卷の
箱の
包んであつた
新聞紙。
『オヤ、
日本の
新聞だよ。』と
私は
思はず
取上げた。
本國を
出でゝから二
年間、
旅から
旅へと
遍歴して
歩く
身は、
折々日本の
公使館や
領事館で、
本國の
珍らしき
事件を
耳にする
外は、
日本の
新聞などを
見る
事は
極めて
稀であるから、
私は
實に
懷かしく
感じた。
急ぎ
皺を
延して
見ると、これは
既に一
年半も
前の
東京の
某新聞であつた。一
年半も
前といへば
私がまだ
亞米利加の
大陸に
滯在して
居つた
時分の
事で、
隨分古い
新聞ではあるが、
古くつても
何んでもよい、
故郷懷かしと
思ふ一
念に、
眼も
放たず
讀んでゆく
内、
忽ち
眼に
着いた一
段の
記事があつた。それは
本紙第二
面の
左の
如き
雜報であつた。
◎
櫻木豫備海軍大佐の行衞==
讀者は
記臆せらる
可し、
先年一
種の
強力なる
爆發藥を
發明し、つゞいて
浮標水雷、
花環榴彈等二三の
軍器に
有功なる
改良を
施したるを
以て、
海軍部内に
其人ありと
知られたる
豫備海軍大佐櫻木重雄氏は一
昨年英國に
遊び
歸朝以來深く
企つる
所あり、
驚く
可き
軍事上の
大發明をなして、
我國々防上に
貢獻する
處あらんと、
兼て
工夫慘憺の
由仄に
耳にせしが、
此度いよ/\
機熟しけん、
或は
他に
慮る
處ありてにや、
本月初旬横濱の
某商船會社より
浪の
江丸といへる一
大帆走船を
購ひ、
密かに
糧食、
石炭、
氣發油、
※卷蝋[#「渦」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、46-5]、
鋼索、
化學用の
諸劇藥、
其他世人の
到底豫想し
難き
幾多の
材料を
蒐集中なりしが、
何時とも
吾人の
氣付かぬ
間に
其姿を
隱しぬ。
櫻木大佐が
其姿を
隱すと
共にかの
帆走船も
其停泊港に
在らずなり、
併せて
大佐が
年來の
部下として
神の
如く
親の
如くに
氏に
服從せる三十七
名の
水兵も
其姿を
失ひたりといへば、
想ふに
大佐は
暗夜に
乘じて、
竊かに
其部下を
引連れ
本邦をば
立去りしものならん、
此事は
海軍部内に
於ても
極めて
秘密とする
處にして、
何人も
其行衞を
知る
者なし、
只心當りとも
云ふ
可きは、
昨夕横濱に
入港せし
英國の
某郵船は四五
日前の
夜半、
北ボル子ヲ島附近にて
日本の
國旗を
掲げし一
大帆走船を
認めし
由にて、
其船の
形状等恰も
大佐の
帆走船に
似寄りたる
處あれば、
氏は
其航路を
取りて
支那海を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、47-3]ぎ
印度洋の
方面に
進みしにあらずやとの
疑あり、
元より
氏が
今回の
企圖は
秘中の
秘事にして、
到底測知し
得可きにあらざれども、
兎にも
角にも
非凡の
智能と
遠大の
目的とを
有する
氏の
事なれば、
何時意外の
方面より
意外の
大功績を
齎らして
再び
吾人の
眼前に
現はれ
來るやも
知る
可からず、
刮目して
待つ
可きなり。==
云々。
何等の
關係はなくとも、
斯かる
記事を
讀んだ
人は
多少心を
動かすであらう。
殊に
私は
櫻木海軍大佐とは
面識の
間柄で、
數年前の
事、
私がまだ
今回の
漫遊に
上らぬ
以前、ある
夏、
北海道旅行を
企てた
時、
横濱から
凾館へ
赴く
船の
中で、
圖らずも
大佐と
對面した
事がある。
其頃大佐は
年輩三十二三、
威風凛々たる
快男子で、
其眼光の
烱々たると、
其音聲の
朗々たるとは、
如何にも
有爲の
氣象と
果斷の
性質に
富んで
居るかを
想はしめた。
其人今や
新聞の
題目となつて
世人の
審る
旅路に
志したといふ、
其行先は
何地であらう、
其目的は
何であらう。
軍事上の
大發明――一
大帆走船――三十七
名の
水兵――
化學用藥品、
是等から
思ひ
合せると
朧ながらも
想像の
出來ぬ
事はない。
今や
世界の
各國は
互に
兵を
練り
武を
磨き、
特に
海軍力には
全力を
盡して
英佛露獨、
我劣らじと
權勢を
爭つて
居る、
而して
目今其權力爭議の
中心點は
多く
東洋の
天地で、
支那の
如き
朝鮮の
如きは
絶えず
其侵害を
蒙りつゝある、
此時に
當つて、
東洋の
覇國ともいふ
可き
我大日本帝國は
其負ふ
處實に
重く一
方東洋の
平和を
保たんが
爲め、
他方少くとも
我國の
威信を
存せんが
爲めには
非常の
决心と
實力とを
要するのである。
然るも
我國の
財源には
限あり、
兵船の
増加にも
限度あり、
國を
思ふの
士は
日夜此事に
憂慮し、
絶えず
此點に
向つて
策を
講じて
居る。
櫻木海軍大佐は
元來愛國慷慨の
人、
甞て
北海の
船で
面會した
時も、
談話爰に
及んだ
時、
彼はふと
衣袋の
底を
探つて、
昨夜旅亭の
徒然に
作つたのだと
言つて、一
篇の
不思議な
新體詩を
示された。
猛き
武人の
風流の
道は、また
格別に
可笑しいではないか。
其詩は
斯うだ。
月高く、
風は
寢れる
印度洋。
鏡の
如き
海の
面に。
俄に
起る
水けぶり。
鯨
は
吼え、
龍跳る※
[#感嘆符三つ、49-9]
見よ、
巨浪は
怒りて
天を

き。
黒雲低く
海に
埀る。
閃くは
電か、
轟くは
雷か。
砲火閃々、
砲聲殷々。
見よ、
硝煙の
裡をぬけ。
月の
光を
耻ぢ
顏に。
波濤を
蹴りて
數百の。
艨艟旗を
捲きて
北ぐ。
逃るゝ
鯨
、
追ひ
行く
飛龍!。
飛龍は
勇み
鯨
は。
青息ならぬ
黒烟を。
吐きて
影をば
隱しけり。
かの
鯨
ぞ、
天の
涯。 はた
地の
角に
至る
迄。
凡そ
波濤の
打つところ。
凡そ
珍寳の
在るところ。
山なす
浪を
船となし。
千里の
風を
帆となして。
跳梁跋扈厭き
足らぬ。 かの
歐洲の
聯合艦隊※
[#感嘆符三つ、50-8]
飛龍[#ルビの「ひりう」は底本では「ひりよう」]は
何ぞ、
東洋の。
鎖鑰を
握る
日出の。
光を
海に
輝かす。
其名も
高き
日本艦隊※
[#感嘆符三つ、50-10]
それ
日本は
東洋の。
飛龍に
似たる
一小邦。
それ
歐洲は、
鯨よりも。 はた

よりも
最猛き。
宇内を
睥睨む。
一大洲。
いぶかしや。
大は
破れて、
小は
勝つ。
何故ぞ
聽け。
敗將の
言ふところ。
彼れ
艦橋に
昇り
行き。
星を
仰ぎて
嘆ずらく。
我に
百萬の
巨艦あり。
雲霞の
如き
將士あり。
砲あり。
劔あり。
火藥あり。
何ぞ
恐れむ
日本海軍。
秋の
木の
葉の
散る
如く。
海屑となさん
勢に。
進むや、
英、
佛、
獨、
露艦。
思ひきや。
日本に
不思議の
魔力あり。
これ。
俄砲か。 あらず。
シエルブルの
水雷艇か。 あらず。
未だ
見ず。
未だ
聞かざる
大軍器※
[#感嘆符三つ、52-6]
風のごとく
來り。
風のごとく
去り。
鯱の
魚群を
追ふ
如く。
エレキの
物を
打つごとく。
見よ、
我艦隊を
粉韲く、
電光石火の
大魔力※
[#感嘆符三つ、52-9]
あゝ、
恐るべし。
恐るべし。
龍は
眠れる
日本海。
黒雲飛べる
東洋の。
空を
劈く
日の
光。
海に
潜める
大軍器※
[#感嘆符三つ、53-2]
と
言ふ
樣な
文句で、
隨分奇妙な、
恐らくは
新派先生一派から
税金を
徴收に
來さうな
詩ではあつたが、
月明に、
風清き
船の
甲板にて、
大佐軍刀の
柄を
後部に
廻し、
其朗々たる
音聲にて、
誦じ
來り
誦し
去つた
時には、
私は
思はず
快哉を
※[#「口+斗」、53-6]んだよ。
勿論、
其時は
別に
心にも
留めなかつたが、
今になつて
初めて
それと思ひ
當る
節の
無いでもない。
何は
兎もあれ
此反古新聞の
記事によると、
櫻木海軍大佐が
此秘密なる
旅行を
企てたのは
既に一
年半も
以前の
事で、
前にもいふ
通り
私がまだ
亞米利加の
[#「亞米利加の」は底本では「亞利利加の」]大陸を
漫遊して
居つた
時分の
事で、
其後、
私は
絶えず
旅から
旅へと
遍歴して
居つたので、
此珍聞を
知つたのも
今が
初てであるが、あゝ、
大佐は
其後如何にしたであらう、
遂に
其目的を
達して
再び
日本へ
歸つたであらうか。
櫻木海軍大佐は
其性質からいつても、かゝる
擧動に
出でたのは
大に
期する
所があつたに
相違ない。
爾してかれは一
度企てた
事は
其目的を
達するまでは
止まぬ
人であるから、
大佐が
再び
此世に
現はれて
來る
時には
必ず
絶大の
功績を
齎らして
來る
事は
疑もない、されば
櫻木大佐が
再び
日本へ
皈つたものとすれば、
其勳功は
日月よりも
明かに
輝きて、
如何に
私が
旅から
旅へと
經廻つて
居るにしても
其風聞の
耳に
達せぬ
事はあるまい、
然るに
今日まで
幾度か
各國市府の
日本公使館や
領事館を
訪づれたが、一
度もそれと
覺しき
消息を
耳にせぬのは、
大佐は
其行衞を
晦ましたまゝ
未だ
世に
現はれて
來ぬ
何よりの
證據。あゝ、
大佐は
其後何處に
如何して
居るだらうと
考へるとまた
種々の
想像も
沸いて
來る。
此時第二
點鐘カン、カンと
鳴る。(
(船中の號鐘は一點鐘より八點鐘まで四時間交代なり))
『おや、とう/\一
時になつた。』と
私は
欠伸した。
何時まで
考へて
居つたとて
際限のない
事、
且つは
此樣に
夜を
更かすのは
衞生上にも
極めて
愼む
可き
事と
思つたので
私は
現に
想像の
材料となつて
居る
古新聞をば
押丸めて
部室の
片隅へ
押遣り、
強いて
寢臺に
横つた。
初の
間は
矢張頭が
妙で、
先刻と
同じ
樣にいろ/\の
妄想が
消しても
消しても
胸に
浮んで
來て、
魔の
日魔の
刻――
亞尼の
顏――
微塵に
碎けた
白色檣燈――
怪の
船――
双眼鏡などが
更る/\
夢まぼろしと
腦中に
ちらついて來たが、
何時か
晝間の
疲勞に二
時の
號鐘を
聽かぬ
内に
有耶無耶の
夢に
落ちた。
第五回 「ピアノ」と
拳鬪
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の大閉口――曲馬師の虎
翌朝、
銅鑼の
鳴る
音に
驚き
目醒めたのは八
時三十
分で、
海上の
旭光は
舷窓を
透して
鮮明に
室内を
照して
居つた。
船中八
時三十
分の
銅鑼は
通常朝食の
報知である。
『や、
寢※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、56-7]ぎたぞ。』と
急ぎ
飛起き、
衣服を
更め、
櫛髮を
終つて、
急足に
食堂へ
出て
見ると、
壯麗なる
食卓の
正面には
船の
規則として
例のビール
樽船長は
威儀を
正して
着席し、それより
左右の
兩側に、
英、
佛、
獨、
露、
白、
伊等各國の
上等船客は
何れも
美々しき
服裝して
着席せる
其中に
交つて、
美はしき
春枝夫人と
可憐の
日出雄少年との
姿も
見えた。
少年は
私を
見るよりいと
懷かし
氣に
倚子から
立つて『おはよう。』とばかり
可愛らしき
頭を
垂れた。『
好朝。』と
私も
輕く
會釋して
其傍[#ルビの「かたはら」は底本では「からはら」]に
進み
寄り、
何となく
物淋し
氣に
見えた
春枝夫人に
眼を
轉じ
『
夫人、
昨夜は
御安眠になりましたか。』と
問ふと、
夫人は
微かな
笑を
浮べ
『イエ、
此兒はよく
眠りましたが、
私は
船に
馴れませんので。』と
答ふ。さもありぬべし、
雪を
欺く
頬の
邊、
幾分の
蒼色を
帶びたるは、たしかに
睡眠の
足らぬ
事を
證して
居る。
船中朝の
食事は「スープ」の
他冷肉、「ライスカレー」、「カフヒー」それに
香料の
入つた
美麗しき
菓子、
其他「パインアツプル」
等極めて
淡泊な
食事で、それが
濟むと、
日出雄少年は
何より
前に
甲板を
目指して
走つて
行くので、
夫人も
私も
其後に
續いた。
甲板へ
出て
見ると、
弦月丸は
昨夜の
間に
カプリ島の
沖を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、58-1]ぎ、
今は
リコシアの
岬を
斜に
見て
進航して
居る、
季節は五
月の
中旬、
暑からず
寒からぬ
時※[#「候」の「ユ」に代えて「工」、58-3]、
加ふるに
此邊一
帶の
風光は
宛然たる
畫中の
景で、すでに
水平線上に
高く
昇つた
太陽は
燦爛たる
光を
水に
落して
金波洋々たる
海の
面には
白帆の
影一
點二
點、
其間を
海鴎の
長閑に
群り
飛んで
居る
有樣などは
自然に
氣も
心も
爽かになる
程で、
私は
昨夕以來のさま/″\の
不快の
出來事をば
洗ひ
去つた
樣に
忘れてしまつた。
春枝夫人もいと
晴々しき
顏色で、そよ/\と
吹く
南の
風に
鬢のほつれ
毛を
拂はせながら
餘念もなく
海上を
眺めて
居る。
日出雄少年は
特更に
子供心の
愉快で
愉快で
堪らない、
丁度牧塲に
遊ぶ
小羊のやうに
其處此處となく
飛んで
歩いて、
折々私の
側へ
走つて
來ては
甲板の
上に
裝置された
樣々の
船具について
疑問を
起し、
又は
母君の
腕にすがつて
遙かに
見ゆる
島々を
指し『あれは
子ープルスの
家の三
階から
見へる
エリノ島にその
儘です
事、
此方のは
頭の
禿げた
老爺さんが
魚を
釣つて
居る
形によく
似て
居ますねえ。』などゝいと
樂し
氣に
見えた。
日は
漸く
高く、
風は
凉しく、
船の
進行は
矢のやうである。
私は
甲板の
安樂倚子に
身をよせて
倩々と
考へた。
昨日までは
經廻る
旅路の
幾千
里、
憂き
時も
樂しき
時も
語らふ
人とては
一人もなく、
晨に
明星の
清しき
光を
望み、
夕に
晩照の
華美なる
景色を
眺むるにも
只一人、
吾と
吾心を
慰むるのみであつたが、
昨日は
圖らずも
天外萬里の
地で
我同胞にめぐり
逢ひ、
恰も
天のなせるが
如き
奇縁にて
今は
優美き
春枝夫人、
可憐なる
日出雄少年等と
同じ
船に
乘り
同じ
故國に
皈るとは
何たる
幸福であらう。
今度此弦月丸の
航海には
乘客の
數は五百
人に
近く
船員を
合せると七百
人以上の
乘組であるが、
其中で
日本人といふのは
夫人と
少年と
私との三
名のみ、
此不思議なる
縁に
結ばれし
三人は
之から
海原遠く
幾千里、ひとしく
此船に
運命を
托して
居るのであるが、
若し
天に
冥加といふものが
在るならば
近きに
印度洋を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-3]る
時も
支那海を
行く
時にも、
今日の
如く
浪路穩かに、
頓て
相共に
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-4]の
平安を
祝ひつゝ
芙蓉の
峯を
仰ぐ
事が
出來るやうにと
只管天に
祈るの
他はないのである。
ネープルス港から
海路數千
里、
多島海を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-7]ぎ、
地中海に
入り、
ポートセツトにて
石炭及び
飮料水を
補充して、それより
水先案内をとつて
スエスの
地峽を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-9]ぎ、
往昔から
世界第一の
難所と
航海者の
膽を
寒からしめた、
紅海一
名死海と
呼ばれたる
荒海の
血汐の
如き
波濤の
上を
駛つて、
右舷左舷より
眺むる
海上には、
此邊空氣の
不思議なる
作用にて、
遠き
島は
近く
見え、
近き
船は
却て
遠く
見え、
其爲に
數知[#ルビの「かずし」は底本では「かずす」]れず
不測の
禍を
釀して、
此洋中に
難破せる
沈沒船の
船體は
既に
海底に
朽ちて、
名殘の
檣頭のみ
波間に
隱見せる
其物凄き
光景を
吊ひつゝ、
進み
進んで
遂に
印度洋の
海口ともいふ
可き
アデン灣に
達し、
遙かに
ソコトラ島を
煙波縹茫たる
沖に
望むまで、
大約二
週間の
航路は
毎日毎日天氣晴朗で、
海波平穩で、十
數年來浪を
枕に
世を
渡る
水夫共も
未曾有の
好航海だと
語つた
程で、
從て
其間には
格別に
記す
程の
事もない。たゞ二つ三つ
記臆に
留つて
居るのは
斯る
平和の
間にも
不運の
神は
此船の
何處にか
潜伏んで
居つたと
見え、
船の
メシナ海峽を
出んとする
時、
一人の
船客は
海中に
身を
投げて
無殘の
最後を
遂げた
事と、
下等船客の
一支那人はまだ
伊太利の
領海を
離ぬ、
頃より
苦しき
病に
犯されて
遂に
カンデイア島と
セリゴ島との
間で
死亡した
爲に、
海上の
規則で
船長以下澤山の
船員が
甲板に
集つて
英國の一
宣教師の
引導の
下に
其死骸をば
海底に
葬つてしまつた
事と、
是等は
極めて
悲慘な
出來事であるが、
他に
愉快な
事も二つ三つ
無いでもない。
何處でも
長い
航海では
船中の
散鬱にと、
茶番や
演劇や
舞踏の
催がある。
殊に
歐洲と
東洋との
間は
全世界で
最も
長い
航路であれば
斯る
凖備は一
層よく
整つて
居る。
此弦月丸にも
屡其催があつて
私等も
折々臨席したが、
或夜の
事、
電燈の
光眩ゆき
舞踏室では
今夜は
珍らしく
音樂會の
催さるゝ
由で、
幾百人の
歐米人は
老も
若きも
其處に
集つて、
狂氣のやうに
騷いで
居る。
禿頭の
佛蘭西の
老紳士が
昔日の
腕前を
見せて
呉れんと
バイオリンを
採つて
彈くか
彈かぬに
歌の
曲をハツタと
忘れて、
頭撫で/\
罷退るなど
隨分滑※的[#「(禾+尤)/上/日」、62-10]な
事もあるが、
大概は
腕に
覺えの
歐米人の
事とて、いづれも
得意の
曲を
調べては
互に
天狗の
鼻を
高めて
居る。
私が
春枝夫人と
此席に
列つた
時には
丁度ある
年増の
獨逸婦人がピアノの
彈奏中であつたが、
此婦人は
極めて
驕慢なる
性質と
見えて、
彈奏の
間始終ピアノ
臺の
上から
聽集の
顏を
流盻に
見て、
折ふし
鵞鳥のやうな
聲で
唱ひ
出す
歌の
調べは
左迄妙手とも
思はれぬのに、
唱ふ
當人は
非常の
得色で、やがて
彈奏が
終ると
小鼻を
蠢かし、
孔雀のやうに
裳を
飜へして
席に
歸つた。
此次は
如何なる
人が
出るだらうと、
私は
春枝夫人と
語りながら一
方の
倚子に
倚りて
眺めて
居つたが、
暫時は
何人も
出ない、
大方今の
鵞鳥聲の
婦人の
爲めに
荒膽を
※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、63-8]かれたのであらう。
忽ち
見る一
個の
英國人はつか/\と
私共の
前へ
進み
寄つて。
大聲に
『サア、
今度は
貴方等の
順番です、
日本の
代表者として
何かおやりなさい。』と
喚く、
滿塲は
一度に
拍手した。
「
南無三。」と
私は
逡巡した。
多の
白晢人種の
間に
人種の
異つた
吾等は
不運にも
彼等の
眼に
留つたのである。
私は
元來無風流極まる
男なので
此不意打にはほと/\
閉口せざるを
得ない。
春枝夫人も
頻りに
辭退して
居つたが
彼男も一
旦言ひ
出した
事とて
仲々後へは
退かぬ。
幾百の
人は
益々拍手する。
此時忽ち
私の
横側の
倚子で
頻りに
嘲笑つて
居る
聲、それは
例の
鷲鳥聲の
婦人だ。
『
何ね、いくら
言つたつて
無益でせうよ、
琴とか
三味線とか
私共は
見た
事もない
野蠻的な
樂器の
他は
手にした
事も
無い
日本人などに、
如何して
西洋の
高尚な
歌が
唱はれませう。』などゝ
態と
聽えよがしに
並んで
腰掛けて
居る
年の
若い
男と
耳語いて
居るのだ。
「
不埓な
女めツ」と
私は
唇を
噛んだ、が、
悲哉、
私は
其道には
全くの
無藝の
太夫。あゝ
此樣な
事と
知つたら
何故倫敦邊の
流行歌の
一節位いは
覺えて
置かなかつたらうと
悔んだが
追付かない、
餘りの
殘念さに
春枝夫人の
顏を
見ると、
夫人も
今の
嘲罵を
耳にして
多少心に
激したと
見へ、
柳の
眉微かに
動いて、
そつと私に
向ひ『
何かやつて
見ませうか。』といふのは
腕に
覺のあるのであらう、
私は
默つて
點頭くと
夫人は
靜に
立上り『
皆樣のお
耳を
汚す
程ではありませんが。』と
伴はれてピアノ
臺の
上へ
登つた。
忽ち
聽く
盤上玉を
轉ばすが
如き
響、ピアノに
神宿るかと
疑はるゝ、
其妙なる
調べにつれて
唱ひ
出したる
一曲は、これぞ
當時巴里の
交際境裡で
大流行の『
菊の
國の
乙女』とて、
筋は
日本の
美はしき
乙女の
舞衣の
姿が、
月夜に
セイヌ河の
水上に
彷徨ふて
居るといふ、
極めて
優美な、また
極めて
巧妙な
名曲の
一節、一
句は一
句より
華かに、一
段は一
段よりおもしろく、
天女御空に
舞ふが
如き
美音は、
心なき
壇上の
花さへ
葉さへ
搖ぐばかりで、
滿塲はあつと
言つたまゝ
水を
打つた
樣に
靜まり
返つた。
其調べがすむと、
忽ち
崩るゝ
如き
拍手のひゞき、一
團の
貴女神士ははやピアノ
臺の
側に
走り
寄つて、
今や
靜かに
其處を
降らんとする
春枝夫人を
取卷いて、あらゆる
讃美の
言をもつて、
此珍らしき
音樂の
妙手に
握手の
譽を
得んと

めくのである。かの
鵞鳥の
聲の
婦人は
口あんぐり、
眞赤になつて
眼を
白黒にして
居る、
定めて
先刻の
失言をば
後悔して
居るのであらう。
此夜のピアノの
響は、
今も
猶ほ
私の
耳に
殘つて、
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、66-7]の
出來事の
中で
最も
壯快な
事の一つに
數へられて
居るのである。
其他面白い
事も
隨分あつた。
音樂會の
翌々日の
事で、
船は
多島海の
沖にさしかゝつた
時、
多の
船客は
甲板に
集合つて
種々の
遊戯に
耽つて
居つたが、
其内に
誰かの
發起で
徒競走が
始つた。
今日、
世界で
最大な
船は
長さ二百三十ヤード、
即ち
町にして二
町を
超ゆるものもある、
本船の
如きも
其一で、
競走は
前部甲板から
後部甲板へと、
大約三百ヤード
許の
距離を四
回往復するのであるが
優勝者には
乘組の
貴婦人連から
美はしき
贈物があるとの
事で、
英人、
佛人、
獨逸人、
其他伊太利、
瑞西、
露西亞等の
元氣盛んなる
人々は
脛を
叩いて
跳り
出たので、
私もツイ
其仲間に
釣込まれて、一
發の
銃聲と
共に
無二
無三に
驅つたが、
殘念なるかな、
第一
着に
决勝點に
躍込んだのは、
佛蘭西の
豫備海軍士官とか
云へる
悽まじく
速い
男、
第二
着は
勤務のため
我日本へ
向はんとて
此船に
乘組んだ
伊太利の
公使館附武官の
海軍士官、
私は
辛じて
第三
着、あまり
面白くないので、
今度は一つ
日本男兒の
腕前を
見せて
呉れんと、うまく
相撲の
事を
發議すると、
忽ち
彌次連は
集まつて
來た。
彌次連の
其中から
第一に
私に
飛掛つて
來た一
人は、
獨逸の
法學士とかいふ
男、
隨分腕力の
逞ましい
人間であつたが、
此方は
多少柔道の
心得があるので、
拂腰見事に
極つて
私の
勝、つゞいて
來る
奴、
四人まで
投げ
倒したが、
第五
番目にのつそりと
現はれて
來た
露西亞の
陸軍士官、
身の
丈け六
尺に
近く
阿修羅王の
荒れたるやうな
男、
力任せに
私の
兩腕を
握つて
一振に
振り
飛ばさんず
勢、
私も
之には
頗る
閉口したが、どつこひ
待てよ、と
踏止つて
命掛けに
揉合ふ
事半時ばかり、
漸の
事で
片膝を
着かしてやつたので、
此評判は
忽ち
船中に
廣まつて、
感服する
老人もある、
切齒する
若者もあるといふ
騷ぎ、
誰いふとなく『
日本人は
鐵の一
種である、
如何となれば
黒く
且つ
堅固なる
故に。』などゝ
不思議なる
賞讃をすら
博して、一
時は
私の
鼻も
餘程高かつたが、
茲に一
大事件が
出來した、それは
他でもない、
丁度此船に
米國の
拳鬪の
達人とかいふ
男が
乘合せて
居つたが、
此噂を
耳にして
先生心安からず、『
左程腕力の
強い
日本人なら、一
番拳鬪の
立合ひをせぬか。』と
申込んで
來た。
私は
拳鬪の
仕合ひは
見た
事はあるが、まだやつた
事は一
度もない、
然し
斯く
申込まれては
男の
意地、どうなるものかと一
番立合つて
見たが
馴れぬ
業は
仕方がない、
散々な
目に
逢つて、
氣絶する
程甲板の
上に
投倒されて、
折角高まつた
私の
鼻も
無殘に
拗折られてしまつた。
春枝夫人は
痛く
心配して『あまりに
御身を
輕んじ
玉ふな。』と
明眸に
露を
帶びての
諫言、
私は
實に
殘念であつたが
其儘思ひ
止つた。一
時は
拳鬪のお
禮に
眞劍勝負でも
申込んで
呉れんかとまで
腹立つたのだが。
拳鬪の
翌日また
一騷動が
持上つた。それは
興行のためにと
香港へ
赴かんとて、
此船に
乘組んで
居つた
伊太利の
曲馬師の
虎が
檻を
破つて
飛び
出した
事で、
船中鼎の
沸くが
如く、
怒る
水夫、
叫ぶ
支那人、
目を
暈す
婦人もあるといふ
騷ぎで、
弦月丸出港のみぎりに
檣燈の
微塵に
碎けたのを
見て『
南無阿彌陀佛、
此船には
魔が
魅つて
居るぜ。』と
呟いた
英國の
古風な
紳士は
甲板から
自分の
船室へ
逃げ
込まんとて
昇降口から
眞逆に
滑落ちて
腰を
※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、70-4]かした、
偶然にも
船の
惡魔が
御自分に
祟つたものであらうか。
虎は
漸の
事で
捕押へたが
其爲に
怪我人が七八
人も
出來た。
かゝる
樣々の
出來事の
間、
吾等の
可憐なる
日出雄少年は、
相變らず
元氣よく
始終甲板を
飛廻つて
居る
内に、ふと
リツプとか
云ふ、
英吉利の
極めて
剽輕な
老爺と
懇意になつて、
毎日々々面白く
可笑く
遊んで
居る
内、
或日の
事其老爺が
作へて
呉れた
菱形の
紙鳶を
甲板に
飛ばさんとて、
頻に
騷いで
居つたが、
丁度其時船橋の
上で、
無法に
水夫等を
叱付けて
居つた
人相の
惡い
船長の
帽子を、
其鳶糸で
跳飛ばしたので、
船長は
元來非常に
小八釜しい
男、
眞赤になつて
此方に
向直つたが、あまりに
無邪氣なる
日出雄少年の
姿を
見ては
流石に
怒鳴る
事も
出來ず、ぐと/″\
口の
中で
呟きながら、
其ビール
樽のやうな
身體を
轉ばして、
帽子の
後を
追ひかけた
話など、いろ/\
變つた
事もあるが、
餘り
管々しくは
記すまい。
かくて
吾等の
運命を
托する
弦月丸は、
アデン灣を
出でゝ
印度洋の
荒浪へと
進入つた。
第六回
星火榴彈
難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な三個の船燈――海幽靈め――其眼が怪しい
荒浪高き
印度洋に
進航つてからも、
一日、
二日、
三日、
四日、と
日は
暮れ、
夜は
明けて、
五日目までは
何事もなく
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、71-12]つたが、
其六日目の
夜とはなつた。
私は
夕食後例のやうに
食堂上部の
美麗なる
談話室に
出でゝ、
春枝夫人に
面會し、
日出雄少年には
甲比丹クツクの
冐瞼旅行譚や、
加藤清正の
武勇傳や、また
私がこれ
迄の
漫遊中の
失策談などを
語つて
聽かせて、
相變らず
夜を
更かしたので、
夫人と
少年をば
其船室に
送り
込み、
明朝を
約して
其處を
去つた。
印度洋中の
氣※[#「候」の「ユ」に代えて「工」、72-6]程變化の
激しいものはない、
今は五
月の
中旬、
凉しい
時は
實に
心地よき
程凉しいが、
暑い
時は
日本の
暑中よりも一
層暑いのである。
殊に
今宵は
密雲厚く
天を
蔽ひ、四
邊の
空氣は
變に
重々しく、
丁度釜中にあつて
蒸されるやうに
感じたので、
此儘船室に
歸つたとて、
迚も
安眠は
出來まいと
考へたので、
喫煙室に
行かんか、
其處も
暑し、
寧ろ
好奇ではあるが
暗夜の
甲板に
出でゝ、
暫時新鮮の
風に
吹かれんと
私は
唯一人で
後部甲板に
出た。
此時時計の
針は
既に十一
時を
廻つて
居つたので、
廣漠たる
甲板の
上には、
當番水夫の
他は一
個の
人影も
無かつた、
船は
今、
右舷左舷に
印度洋の
狂瀾怒濤を
分けて
北緯十
度の
邊を
進航して
居るのである。
ネープルス港を
出づる
時には
笑めるが
如き
月の
光は
鮮明に
此甲板を
照して
居つたが、
今は
日數も
二週あまりを
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、73-5]ぎて
眞の
闇――
勿論先刻までは
新月の
微かな
光は
天の
奈邊にか
認められたのであらうが、
今はそれさへ
天涯の
彼方に
落ちて、
見渡す
限り
黒暗々たる
海の
面、たゞ
密雲の
絶間を
洩れたる
星の
光の一二
點が
覺束なくも
浪に
反射して
居るのみである。
實に
物淋しい
景色※
[#感嘆符三つ、73-10] 私は
何故ともなく
悲哀を
感じて
來た。すべて
人は
感情の
動物で、
樂しき
時には
何事も
樂しく
見え、
悲しき
時には
何事も
悲しく
思はるゝもので、
私は
今、
不圖此悽愴たる
光景に
對して
物凄いと
感じて
來たら、
忽然樣々な
妄想が
胸裡に
蟠つて
來た、
今日までは
左程迄には
心に
留めなかつた、
魔の
日、
魔の
刻の
怪談。
白色檣燈の
落下、
船長の
憤怒の
顏。
怪の
船の
双眼鏡。さては
先日反古の
新聞に
記されてあつた
櫻木海軍大佐と
其帆走船との
行衞などが
恰も
今夜の
此物凄い
景色と
何等かの
因縁を
有するかのごとく、ありありと
私の
腦裡に
浮んで
來た。
『
無※[#「(禾+尤)/上/日」、74-7]なッ、
無※[#「(禾+尤)/上/日」、74-7]なッ。」と
私は
單獨で
叫んで
見た。
強いて
斯る
妄念を
打消さんとて
態と
大手を
振つて
甲板を
歩み
出した。
前檣と
後檣との
間を四五
回も
往復する
内に
其惡感も
次第/\に
薄らいで
來たので、
最早船室に
歸つて
睡眠せんと、
歩む
足は
今や
昇降口を一
段降つた
時、
私は
不意に一
種異樣の
響を
聽いた。
響は
遙かの
海上に
當つて、
極めて
微かに――
實に
審かしきまで
微ではあるが、たしかに
砲又は
爆裂發火信號の
響※
[#感嘆符三つ、75-1]
私は
ふいと
頭を
左方に
廻らしたが、
忽ち『キヤツ』と
叫んで
再び
甲板に
跳出た。
今迄は
少しも
心付かなかつたが、
唯見る、
我弦月丸の
左舷船尾の
方向二三
海里距つた
海上に
當つて、また一
度微な
砲聲の
響と
共に、タール
桶、
油樽等を
燃燒すにやあらん、
々たる
猛火海を
照して、
同時に
星火を
發する
榴彈二
發三
發空に
飛び、つゞいて
流星の
如き
火箭は一
次一
發右方左方に
流れた。
私は
實に
驚愕いたよ。
此邊は
印度洋の
眞中で、
眼界の
達する
限り
島嶼などのあらう
筈はない、まして
約一
分の
間隙をもつて
發射する
火箭及び
星火榴彈は
危急存亡を
告ぐる
難破船の
夜間信號※
[#感嘆符三つ、75-11]
『やア、
大變だ/\。』と
叫びつゝ
私は
本船の
右舷左舷を
眺めた。
船には
當番水夫あり。
海上に
起る千
差萬別の
事變をば一も
見遁すまじき
筈の
其見張番は
今や
何をか
爲すと
見廻はすと、
此時右舷の
當番水夫は
木像の
如く
船首の
方に
向つたまゝ、
今の
微な
砲聲は
耳にも
入らぬ
樣子、あらぬ
方を
眺めて
居る。
左舷の
當番水夫は
今や
確に
星火迸り、
火箭飛ぶ
慘憺たる
難破船の
信號を
認めて
居るには
相違ないのだが、
何故か
平然として
動ずる
色もなく、
籠手を
翳して
其方を
眺めて
居るのみ。
『
當番水夫!
何を
茫然して
居るかツ※
[#感嘆符三つ、76-8]』と
叫んだまゝ、
私は
身を
飜して
船長室の
方へ
走つた。
勿論、
船に
嚴然たる
規律のある
事は
誰も
知つて
居る、たとへ
霹靂天空に
碎けやうとも、
數萬の
魔神が一
時に
海上に
現出れやうとも、
船員ならぬ
者が
船員の
職權を
侵して、
之を
船長に
報告するなどは
海上の
法則から
言つて、
到底許す
可からざる
事である。
私も
其を
知らぬではない、けれど
今は
容易ならざる
急變の
塲合である、一
分一
秒の
遲速は
彼方難破船のためには
生死の
堺界かも
知れぬ、
加ふるに
本船右舷の
當番水夫は
眼あれども
眼無きが
如く、
左舷の
當番水夫は
鬼か
蛇か、
知つて
知らぬ
顏の
其心は
分らぬが、
今は
瞬間も
躊躇すべき
塲合でないと
考へたので、
私は
一散に
走つて、
船橋の
下部なる
船長室の
扉を
叩いた。
『
船長閣下、
起き
玉へ、
難破船がある!
難破船がある!』と
叫ぶと、
此時船長は
既に
寢臺の
上に
横つて
居つたが、『
何んですか。』とばかり
澁々起上つて
扉を
開いた。
私はツト
進み
入り
『
船長閣下、
越權ながら
報告します、
本船左舷後方、三
海里許距つた
海上に
當つて
一個の
難破船がありますぞ。』
『
難破船
あはゝゝゝゝ。』と
船長は
大聲に
笑つた。
驚愕くと
思ひきや、
彼はいと
腹立たし
氣に
顏を
顰めて
『
難船? それは
何ですか、
本船には
絶えず
[#「絶えず」は底本では「絶えす」]海上を
警戒る
當番水夫があるです、
敢て
貴下を
煩はす
筈も
無いです。』
『
無論です、けれど
本船の
當番水夫は
眼の
無い
奴に、
情の
無い
奴です、
一人は
茫然して
居ます、
一人は
知つて
知らぬ
顏をして
居ます。
船長閣下、
早く、
早く、
難破船の
運命は一
分一
秒の
遲速をも
爭ひますぞ。』
『いけません!』と
船長は
冷かに
笑つた。
『
貴下は
海上の
法則を
知りませんか、たとへ
如何な
事があらうとも
船員以外の
者が
其に
嘴を
容れる
權利が
無いです、また
私は
貴下から
其樣な
報告を
受ける
義務が
無いです。』と
彼は
右手を
延して
卓上の
葉卷を
取上た。
私は
迫込み
『
理屈を
申すぢやありません、
私の
越權は
私が
責任を
負ひます。
貴下は
信じませんか、
今現に
難破船が
救助を
求て
居るのを。』
『
信じません、
信ぜられません。』と
船長は
今取上げた
葉卷を
腹立たし
氣に
卓上に
投げ
返して
『
當番水夫からは
何等の
報告の
無い
内は
决して信じません。
况んや
此樣平穩な
海上に
難破船などのあらう
筈は
無い、
無※[#「(禾+尤)/上/日」、79-6]なツ。』
『
無※[#「(禾+尤)/上/日」、79-7]なツ。』と
私は
勃然としてしまつた。
日頃から
短氣は
私の
持病、
疳癪玉が
一時に
破裂したよ。
『
無い、
無い、
無いとは
何です、
私は
今現に
目撃して
來たのです。』
『はゝゝゝゝ。
何を
目撃しましたか。はゝゝゝゝ。』と
彼は
空惚けて
大聲に
笑つた。
私は
實に
腹の
中から
返つたよ。
序だから
言つて
置くが、
私は
初め
此船に
乘組んだ
時から
一見して
此船長はどうも
正直な
人物では
無いと
思つて
居つたが
果して
然り、
彼は
今、
多少の
勞を
厭ふて
他船の
危難をば
見殺しにする
積だなと
心付いたから、
私は
激昂のあまり
『
何を
見たもありません、
本船左舷後方の
海上に
當つて
星火榴彈に
一次一發の
火箭、それが
難破船の
信號である
位を
知りませんか。』
『
其樣事は
承る
必要もありません。』と
船長は
鼻で
笑ひつゝ
『それは
大方貴下の
眼の
誤りでせうよ。うふゝゝゝ。』
『
眼の
誤り
之は
怪しからん、
私にはちやんと
二個の
眼がありますぞ。』
『
其眼が
怪しい、
海の
上ではよく
眩惑されます、
貴下は
屹度流星の
飛ぶのでも
見たのでせう。』とビール
樽のやうな
腹を
突出して
『いや、よしんば
其が
眞個の
難破信號であつたにしろ、
此樣平穩な
海上で
難破するやうな
船は
全く
我等海員の
仲間以外です、
何も
面倒な
目を
見て
救助に
赴く
義務は
無いのです。』と
言つて
空嘯き
笑つた
最早問答も
無益と
思つたから、
私は
突然船長を
船室の
外へ
引出した
『あれが
見えませんか、あれが、あの
悲慘なる
信號の
光を
見て
何とも
感じませんか。』とばかり、
遙かに
指す
左舷船尾の
海上。
私は『あツ。』と
叫んだまゝ
暫時開いた
[#「開いた」は底本では「開たい」]口も
塞がらなかつたよ。
審かしや。
今から
二分三分前までは
確に
閃々と
空中に
飛んで
居つた
難破信號の
火光は
何時の
間にか
消え
失せて、
其處には
海面より
數十
尺高く
白色球燈輝き、
船の
右舷左舷と
覺ぼしき
處に
緑燈、
紅燈の
光が
ぼんやりと
見ゆるのみである。
前檣に
白燈、
右舷に
緑燈、
左舷に
紅燈は
言ふ
迄もない、
安全航行の
信號※
[#感嘆符三つ、81-11]
『はゝあ、
或程、
星火榴彈に
一次一發の
火箭、
救助を
求むる
難破船の
信號がよく
見えます、
貴下の眼は
仲々結構な
眼です。』と
意地惡き
船長は
ぢろりッと
私の
顏を
睨んだか、
私は
一言も
無いのである。
然し
實に
奇怪な
事ではないか、
今安全信號燈の
輝いて
居る
邊の
海上には、
確實に
悲慘なる
難破船の
信號が
見えて
居つたのに。さては
船長の
言ふがごとく
私の
眼の
誤りであつたらうか。
否、
否、
如何考へても
私は
白、
緑、
紅の
燈光を
星火榴彈や
火箭と
間違へる
程惡い
眼は
持つて
居らぬ
筈。して
見ると
先刻の
難破船信號は、
何時の
間にか
安全航行の
信號に
變つたに
相違ない。さて/\
奇妙な
事だと、
私は
暫時五里霧中に
彷徨ふた。
船長は
一時は
毒々しく
私の
顏を
眺めて
嘲笑つて
居つたが
此時稍や
眞面目になつて
其光の
方を
眺めつゝ
『
然し
妙だぞ、
今月の
航海表によると、
今頃此航路を
本船の
後を
追ふて
斯く
進航して
來る
船は
無い
筈だが。』と
小首を
傾けたが
忽ちカラ/\と
笑つて
『あゝ
分つた/\、
畜生巧くやつてるな、
此前あの
邊で
沈沒した
トルコ丸の
船幽靈めが、まだ
浮び
切れないで
難破船の
眞似なんかして
此船を
暗礁へでも
僞引寄せやうとかゝつて
居るんだな、どつこい、
其手は
喰はんぞ。』と
呟きながら
私に
向ひ
『だが
[#「だが」は底本では「だか」]先刻は
確實に
救助を
求むる
難破船の
信號が
見えましたか。』と
眉に
唾した。
可笑しい
樣だが
船乘人にはかゝる
迷信を
抱いて
居る
者が
澤山ある、
私は
相手にせず
簡單に
『
左樣、
確に
救助を
求むる
難破の
信號!。」と
答へて、
彼が『うむ、いよ/\
違ない、
船幽靈メー。』と
單獨でぐと/\
何事をか
言つて
居るのを
聽き
流しながら、
猶よく
其海上を
見渡すと、
今眼に
見ゆる
三個の
燈光は、
决して
愚なる
船長の
言ふが
如き、
怨靈とか
海の
怪物とかいふ
樣な
世に
在り
得可からざる
者の
光ではなく、
緑、
紅の
兩燈は
確に
船の
舷燈で、
海面より
高き
白色の
光は
海上法に
從ひ
甲板より二十
尺以上高く
掲げられたる
檣燈にて、
今や、
何等かの
船は、
我が
弦月丸の
後を
追ふて
進航しつゝ
來るのであつた。
第七回
印度洋の
海賊
水雷驅逐艦か巡洋艦か――昔の海賊と今の海賊――海底潜水器――探海電燈――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
私が
一心に
見詰めて
居る
間に、
右舷に
緑燈、
左舷に
紅燈、
甲板より二十
尺以上高き
前檣に
閃々たる
白色燈を
掲げたる
一隻の
船は、
印度洋の
闇黒を
縫ふてだん/″\と
接近して
來た。
今、
我が
弦月丸は一
時間に十二三
海里の
速力をもつて
進航して
居るのに、
其後を
追ふて
斯くも
迅速に
接近して
來るとは、
實に
非常の
速力でなければならぬ。
今の
世に、かくも
驚く
可き
速力をもつて
居る
船は、
水雷驅逐艦か、
水雷巡洋艦の
他はあるまい、あの
燈光の
主體は
果して
軍艦の
種類であらうか。
軍艦の
種類ならば
何も
配慮するには
及ばないが――
若しや――
若しや――と
私は
ふと或事を
想起した
時、
思はずも
戰慄したよ。
未だ
其の
船の
船體も
認めぬ
内から、
斯る
心配をするのは
全く
馬鹿氣て
居るかも
知れぬが、
先刻からの
奇怪の
振舞を
見ては、どうも
心が
安くないのである、
第一に
遙か/\の
闇黒なる
海上に
於て、
星火榴彈を
揚げ、
火箭を
飛ばして
難破船の
風體を
摸擬つたなど、
船長は
單に
船幽靈の
仕業で
御坐るなどゝ、
無※[#「(禾+尤)/上/日」、85-11]な
事を
言つて
居るが
其實、かの
不思議なる
難破船の
信號は、
現世に
存在得べからざる
海魔とか
船幽靈とかよりは
百倍も
千倍も
恐怖るべき
或者の
仕業で、
何か
企圖つる
所があつて、
我が
弦月丸を
彼處の
海上へ
誘引き
寄せやうとしたのではあるまいか、
實に
印度洋の
航海程世に
恐るべき
航海はない、
颶風や、
大強風や、
咫尺を
辨ぜぬ
海霧や、
其他、
破浪、
逆潮浪の
悽まじき、
亂雲、
積雲の
物凄き、
何處の
航海にも
免かれ
難き
海員の
苦難ではあるが、
特に
此印度洋では
是等の
苦難の
外に、
今一個最も
恐怖る
可き『
海賊船の
襲撃』といふ
禍がある。
往昔から
此洋中で、
海賊船の
襲撃を
蒙つて、
悲慘なる
最後を
遂げた
船は
幾百千艘あるかも
分らぬ。
人の
談話では
今は
往昔程海賊船の
横行ははげしくは
無いが、
其代り
往昔の
海賊船は
一撃の
下に
目指[#ルビの「めざ」は底本では「あざ」]す
貨物船を
撃沈するやうな
事はなく、
必ず
其船をもつて
此方に
乘掛け
來り、
武裝せる
幾多の
海賊輩は
手に/\
劔戟を
振翳しつゝ、
彼方の
甲板から
此方へ
乘移り、
互に
血汐を
流して
勝敗を
爭ふのであるから、
海賊勝てば
其後の
悲慘なる
光景は
言ふ
迄もないが、
若し
此方強ければ
其賊輩を
鏖殺にする
事も
出來るのである。けれど
今日に
於ては、
海賊も
餘程狡猾になつて、かゝる
手段に
出づる
事は
稀で、
加ふるに
海底潜水器の
發明があつて
以來、
海賊船は
多く
其發明を
應用して、
若し
漫々たる
海洋の
上に
金銀財寳を
滿載せる
船を
認めた
時には、
先づ
砲又は
衝角をもつて
一撃の
下に
其船を
撃沈し、
後に
潜水器を
沈めて
其財寳を
引揚げる
相である。
勿論、
今日に
於ても
潜水器の
發明は
未だ
充分完全の
度には
進んで
居らぬから、
此手段とて
絶對的に
應用する
事の
出來ぬのは
言ふ
迄もない。
即ち
現今に
於て
最も
精巧なる
潜水器でも、
海底五十
米突以下に
沈んでは
水の
壓力の
爲めと
空氣喞筒の
不完全なる
爲に、
到底其用を
爲さぬのであるから、
潜水器を
用ゆる
海賊船は、
常に
此點に
向つて
深く
意を
用ゐ、
狂瀾逆卷く
太洋の
面に
於て、
目指す
貨物船を
撃沈する
塲所は
必ず
海底の
深さ五十
米突に
足らぬ
島嶼の
附近か、
大暗礁又は
海礁の
横つて
居る
塲所に
限つて
居る
相だ。
今、
私は
黒暗々たる
印度洋の
眞中に
於て、わが
弦月丸の
後を
追